7、胡蝶の夢(加筆修正済み)
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翌日の昼頃、トンチャンはいつも通り仕事をこなしていた。だが、突然作業は中断された。内禁衛がやって来たのだ。
何故、内禁衛が?
トンチャンは何かの間違いでは、と言おうとして閉口した。彼自身も捕らえられたからだ。
「おい!何しやがる!」
「大人しくついてこい!」
「てめぇ!奥様に言いつけてやる!ただじゃおかねぇからな!ぶっ殺してやる!おい!!」
巨体で暴れるため、内禁衛の兵士五人がかりで押さえつけられ、トンチャンを連行する準備がようやく整った。
ふと、彼の脳裏にあることがよぎる。
───まさか、あの晩に薬を撒いたのが………?
だとしたら大事だ。けれど、どこから漏れたのか。考えられることは一つしかない。
「チョンドン!!あの野郎!!おい!イヌ!」
「はい、兄貴」
「チョンドンとマンスを探せ!ぶっ殺しても構わねぇ!」
そう言い残すとトンチャンは渋々内禁衛へ歩きだした。
その様子を見ていたのは、やはりナビだった。やるせない表情を浮かべる姿を見かけたカン・ソノは、声をかけようとして足を止めた。だが、その視線の先を知り、彼は言葉を失った。
───トンチャン……?あの男を………?ヒャンユン殿がどうして気遣うのだ……?
そして、全てを悟った。ヒャンユンの心の中にはずっとトンチャンが居り、全てを捨ててまで元の居場所に戻りたかった理由もトンチャンだったのだと。
───私が入る余地は、最初から無かったのか。
彼が顔をあげたときには、既にナビもトンチャンも居なかった。残されたのはただ、彼独りだけだった。
内禁衛の取り調べ。それは身も凍るものだと知っていたトンチャンは、最悪の事態を避けるために祈り続けていた。だが、長い棒を二本携えて持ってきた役人が現れ、両足が縛られた瞬間にトンチャンもドンジュも悟った。
───まずい。
そして、拷問が昼夜問わず始まった。トンチャンは心身共々ぼろぼろになっている中、内禁衛のハン・ジェソの質問には答えず、うわ言のように同じ言葉を発し続けた。
「ヒャンユン……………ヒャンユン……………」
「おい、聞いているのか?指示したのは誰だ!」
「俺は……ただ………ヒャンユン………に………会いたかったんだ…………」
「ハン様、このままでは死んでしまいます。ひとまず牢に移送しましょう」
なんて支離滅裂な会話だ。だが、強烈な拷問にも耐えうる理由となるその人───ヒャンユンとは誰なのか。ひょっとすると関係者なのかもしれない。チェソは静かに頷くと、この件を直々に指揮している王に裁量を仰ぐために部屋を出た。
ドンジュは隣にいるぼろ雑巾のようなトンチャンを見て、改めて絶句した。自分よりも動揺の大きかったトンチャンを尋問し、有益な証拠を引き出そうとしたためか、時おり鞭打ちも加わっている痕が見える。
「よく耐えたな。あとは旦那様がなんとかしてくださる」
「大行首………様…………俺……このまま死ねば………あの人に…………会えますよ……ね」
「何を言っている。弱気になるな」
「大行首……様……俺………あの人に……会いたいん……です……」
あの人とは、コン・ヒャンユン……いや、イ・ヒャンユンのことか。ドンジュは一年前の出来事を思い返していた。気の毒な男だ。どうせ生きていても、両班の娘とは結ばれない。ドンジュにとってトンチャンは、どちらに転んでも憐れな男のように映っていた。
そんなことも知らず、トンチャンは目を閉じて眠りについた。しばらくは邪魔されない、唯一愛する人に会える夢の世界に身をおくことしか彼には出来ないのだった。
チョンドンとマンスは、戦々恐々としながらナビのもとを訪ねていた。
「あのぉ…………」
「俺たち、殺されそうなんです……」
「…それで?」
「身辺の安全は保証してくださるんですよね……?ですから……俺たちを典獄署に入れてくれませんか?」
ナビは目を丸くして驚いた。この二人、存外頭が回るではないか。
「……それで、便宜を図ってほしいと?」
「ええ。あの……無理ならいいんです!俺たちがなんとか……」
ナビは少し考えると、チョヒに二人の警護を任せて父の住まう屋敷へ向かった。そして大金の入った袋を持ち出すと、二人の目の前に差し出した。
「恐らく、10両くらいは入っているだろう。」
「えっ……!?」
「じゅっ、10両ですか!?」
「………二人はこれからも必要だ。その金で7番房にでも入れてもらうといい。」
二人が大金に目を白黒させているのを見届けて、ナビは世の中ある一定の部類までは、金がものを言わせるのだなとつくづく思うのだった。
二人が悠々自適に典獄署で過ごすようになって一日。ナビの指示通りに追加の囚人を入れるなと便宜したにも関わらず、一人の追加があると号令がかかった。
「誰だよ、全く……」
「ですよね。なんなんだか…」
チョンドンが興味深そうに扉の方に目を向けていると、そこに現れたのは────
「………お?こんなとこに隠れていやがったか」
「げっ…………」
二人は顔を見合わせて青ざめた。
「トンチャン……」
「兄貴!?!?」
「よぉ。………てめぇらまとめてぶっ殺してやる!」
拷問の傷がまだ痛むが、そんな場合ではない。トンチャンは怒りに震えていた。もちろんチョンドンとマンスは恐怖に震えている。
「兄貴!お許しを!」
「だいたいてめぇら、どうやってこの7番房に入ったんだ!」
「助けてください!殺される!」
何となくナビの名を出すのは良くないと察したチョンドンは、どれ程殴られても口を固く閉ざし続けた。そこで、次はマンスに口を割らせようと振り向いたトンチャンだったが、身をよじった瞬間に走った鈍い激痛に耐えかね、そのまま床に座り込んでしまった。
「いてぇ……」
「兄貴、血が滲んでますけど……?」
「うるせぇ!ほっとけ!」
拷問の傷痕が化膿してきている。トンチャンは寒気を覚えながら、傷口をちらりと確認してそう思った。心なしか熱もある。
このまま放っておけば、確実に命の危険が迫ってくる。けれど、今さら治療して何になるのだろうか。むしろヒャンユンの傍に行けるではないか。そんな思いを胸に、トンチャンは静かに目を閉じるのだった。今度はただ疲れた。それだけの理由だった。
ナビがトンチャンの急変を知ったのは、耳の早いソジョンとキョハからだった。
「……トンチャンが死にそうだと?いいや、ありえない。都一元気そうなあの男が………」
「事実だそうです。」
絶句するナビは、なにか言いたげなソジョンを怪訝そうな目で見返した。
「………何。」
「ナビさん、後悔しますよ。」
「どうして?何が?」
「トンチャンがもし………」
「ありえない話をするのはやめてほしい。全く……」
そう言いつつも、ナビの心は平常を失っていた。失う辛さは、もう一度きりで充分だ。
いや、だめだ。自分はファン・ナビではないか。行ったところで何になるのだ。すると、テウォンがこう言った。
「話によると、トンチャンは高熱で夢現らしい。だから…………」
「だから?」
「だから、あなたがヒャンユンとして現れても、夢だと思うはずです。だったら……会えるかもしれない」
ナビ───いや、ヒャンユンの中で思慕の念をせき止めていた何かが音をたてて壊れた。吹き出すように恋情が甦ってくる。
部屋に戻ったヒャンユンは、かつて身に付けていた服にできるだけ近いものを選び、修理したペッシテンギをつけた。そして、頭にはあのときの蝶の髪飾りをつけ、後のことなど何一つ考えずに走り出した。
───トンチャン、お願い…死なないで。私の大切な人!死なないで!
典獄署の知り合いはオクニョしか居ないので、ヒャンユンはなんとか頼み込んで牢へ入れてもらうことに成功した。その間、オクニョの養父であるチョンドクの計らいにより、チョンドンとマンスは別の牢に移された。二人が移送される途中、不安で表情を強張らせるヒャンユンとすれ違った。チョンドンは死人を見たのかと目をこすった。だが、全く同じ髪飾りをしている女性が確かにそこにいた。
「え………?あの人は…………」
ヒャンユンは死んだはず。だとしたら、あの人は誰なのか。けれど、あの髪飾りは全く同じもの。何かありえないことが天地をひっくり返そうとしているようにしか思えない。
「ほら!行くぞ!」
「あ、はい………」
だとしたら、やはりナビはヒャンユンと同一人物なのか。
「だけどなんでだ………?」
チョンドンは首をかしげて考え込んだ。どちらにせよ、彼の中で好奇心と言う名の興味が沸いたことは確かだった。
ヒャンユンは牢に入り、苦しげにうずくまるトンチャンを見て言葉を失った。オクニョが彼女に今の容態を耳打ちした。
「……治療するにも、気力がないのよ」
「……そう」
会いたかった人が目の前にいる。意識がはっきりとしていなくてもいい。酔っていてもいい。けれど………
「死ぬのだけは………やめて………」
ヒャンユンは優しくトンチャンの頬に触れ、愛しそうに撫でた。その温もりのためか、はたまた懐かしい気配を察してか、トンチャンが意識を朦朧とさせながら目を開けた。
「………ヒャンユン…………?」
「トン……チャン……」
ああ、私のことがわかるのね。私の名前の呼び方を、まだ覚えているのね。
ヒャンユンは微笑みながら、ずっと愛しさを込めて呼びたかったその名を懐かしみながら、噛み締めるように口に出した。
「夢………か………」
「そうかも……しれない。けど、今日はここにいてあげる。」
トンチャンは高熱に浮かされ、夢だと思っているようだ。けれど、その両目からは涙が溢れて止まらない。
「ヒャンユン………ごめん………ごめん………」
いつも、トンチャンは夢でヒャンユンに会う度に謝ろうとしていた。だが、一度も言えていなかった。遅いことはわかっている。もう二度と伝えらないことも、償うことも出来ないとは知っている。それでも、トンチャンはあの日のことを謝りたかった。そして今日は、すんなりと謝ることが出来た。
「……いいのよ。私の方こそ、ごめんなさい。あなたとの約束、守れなくて…………」
ヒャンユンが言い終わる前に、ふらつきながらも身体を起こしたトンチャンが、覆い被さるように彼女を抱き締めた。熱のせいか、身体が熱くなる。
「ずっと…………どんな代償を、支払うことになってでも……いいから、もう一度……もう一度だけ……お前を……抱き締め…たかった」
ヒャンユンの目から涙がこぼれる。懐かしい場所。自分の戻るべき場所。仮初めのこの瞬間でも、戻ることが出来た。そのことが何よりも嬉しかった。
もう、何も思い残すことはない。例えこれが、コン・ヒャンユンとしてトンチャンに向き合うことの最期になったとしても。
ヒャンユンは優しくトンチャンの背中を撫でながら、ゆっくりと布団に戻した。
「少し、休むのよ。ずっと、傍にいてあげるから」
「嘘……だ………俺が……目を覚ませば……もう…居なくなる…くせに」
勘の鈍い男だと失笑すると、ヒャンユンはトンチャンの手を取って微笑みかけた。
「───ずっと、私はいつでも傍に居るわ。いつでも、あなたを見守っているから。それは今までもそうだし、これからも変わらない。あなたの心から私が居なくなるその日が来ても、私は変わらずあなたを愛し続ける。見守り続けるから。」
そして、ほんの少しだけ苦渋の表情を浮かべてこう言った。
「だから、幸せになって欲しい。私と思い描いたことは全部、私とでなくても出来る。だから───」
トンチャンの目から涙がまたこぼれ落ちた。それ以上は言わないで欲しい。こんなのは、ただ自分の都合が良いように見ている夢なんだ。そう自分に言い聞かせていた。だからこそ、ヒャンユンは敢えてその続きを言った。
「だから、私のことを───忘れてもいいから。」
「そんな……………俺は………」
「もう、疲れたでしょ?私に会えないのは」
トンチャンは首を横に振った。けれど、夢は覚めない。どうしてなのだろう。代わりにヒャンユンが泣いているのがわかった。馬鹿なやつ。泣くくらいなら、始めからそんなことを言うなよ。何で夢なのに泣いてるんだよ。トンチャンは震える手で、ヒャンユンの涙を拭った。
「泣く……なよ………お前のこと……忘れ……ねぇから……」
「ごめんなさい………ごめんなさい……泣いちゃってごめんなさい……」
ああ、この人は夢でもこんなに可愛らしい。もう、二度と会えない気がした。だから、トンチャンは遠退く意識の中で、一言こう言った。
「愛して………る………」
「え……?」
「ずっと…お前…だけ…を…………」
ヒャンユンが目を丸くしてトンチャンを見ている。彼はうっすら力なく微笑むと、眠りにつく前に言い残した。
「───だから………泣かない………で欲し…い」
「トンチャン…………」
ヒャンユンが涙声でそう名前を呼んだときは、既にもう彼は寝息をたてて眠っていた。安心したのか、その表情は穏やかだ。
「トンチャン…………トンチャン…………ヒャンユンなんだよ………本物なんだよ………私は……生きてるのよ………」
ここにいるのに。本物なのに。夢じゃないのに。気づいてよ。お願い、もう一度だけ抱き締めてよ。
ヒャンユンは目を赤くはらしながら立ち上がると、ふらつく足取りで牢を出た。外にはオクニョが待っている。その支えを振り切って、ヒャンユンは典獄署を後にした。
向かった場所は、珍しくジョンミョンのもとだった。屋敷に自分から戻ってきた娘を見て喜んだものの、彼はその様子がおかしいことに気づいた。
「ヒャンユン……?」
「お父様。………私は、愛する人とただ普通に生きてみたかったと、そう思います。」
ヒャンユンの虚ろな両目から、涙が溢れ始める。どう頑張っても、自分はトンチャンの傍には行けない。だから、嘘でもあの人を突き放さなければならなかった。けれど、心は想像以上に壊れてしまったようだ。
「お父様……私…………」
「この国には、どう足掻いても乗り越えられない身分というものがある。……そういうことであろう?」
例えチョン・ナンジョンとユン・ウォニョン、そして小尹派が企てた全ての陰謀を暴き、ヒャンユンとして生活できるようになったとしても、ヒャンユンはトンチャンの傍へは戻れない。ヒャンユン自身が大尹派の両班である限り、常民のトンチャンとは結ばれることはない。決して、ありえないのだ。
「だから……せめて…………あの人の幸せを願いたいのです。ただ、幸せになって欲しいと…………」
ヒャンユンは瞼を伏せて、心の中でこう付け加えた。
───例え、その隣に私が居なくとも……
夜が明ける。そして一日がまた新しく始まる。けれど、トンチャンと共に生きる明日は永遠に来ない。望むことさえ許されない。
ヒャンユンとジョンミョンは、黙って夜明けを眺めていた。ジョンミョン──実父は、すっかり大人になった娘を見て、ほんの少しだけ寂しそうに微笑んだ。
「………許してくれ、ヒャンユン」
「…え?」
「お前と、ヨンフェと、母を守れなかったことを」
力なくそう言ったジョンミョンに視線を向けると、ヒャンユンは静かにその肩に頭をもたせかけた。
「…………おかえり、ヒャンユン。お前が行きたい場所には成れなくとも、私はいつでもお前の帰りを待っているからな」
その言葉が、ヒャンユンの心に波紋のように広がる。感情が堰を切ったように溢れ出す。
「私は………………私は……………帰りたい………あの人のところに……………!」
「泣けばいい。………全て受け止めよう。この十何年も私が親としての役目を果たせなかった分を………」
朝日が昇りきるまで、ヒャンユンはずっとジョンミョンの隣で泣き続けた。
そしてそこには、たしかに父と子の姿があった。長すぎる時間を埋めていく、確かな絆が。
数日後、突然の知らせがチョン・ウチと共にナビの元へ舞い込んできた。
「大変です、ナビさん。チョン・ナンジョンとミン・ドンジュ、そしてトンチャンが無罪放免になったんです!典獄署から釈放されました!」
「えっ…………」
ナビは愕然とした。ここまでチョン・ナンジョンとその背後にある小尹派の勢力は強大なのか。そして更にチョヒも報告にやって来た。
「団長。チョン・ナンジョンの指示で、ミン・ドンジュ黒蝶団を調査し始めているようです」
「黒蝶団を?勘の鋭い奴等だ………」
「どうしますか?しばらく活動を控えるか……」
すると、ナビは不敵な笑みを浮かべながら静かに首を横に振った。
「いや、そのままで。向こうも必死なはず。必死な輩というのは、埃も出しやすいものだ。」
「では、そのままで?」
「ああ。………むしろ、煽るのも悪くない」
「承知しました。」
ナビはチョヒが去ったあとも、しばらく思案に耽っていた。
───ミン・ドンジュが動いたとなれば、主体はトンチャンか。
次会うときは、殺るか殺られるかの関係になっているかもしれない。
「それでも……………」
私は、この道を行く。夢でさえ、あなたと生きる人生に身を投じることができないのならば、もう何も辛いものはない。
───まだ、こんなものは始まりですから。私の人生を狂わせたあなた方を決して、決して私は許しません。
ナビは空を仰ぎ、毅然と見据えた。そこにチョン・ナンジョンとユン・ウォニョンへの、尽きることのない憎しみの炎を燃やしながら。
トンチャンは、出獄したその足で家に戻った。そして、箱の中からずっと取り出せなかったものを取り出した。
「ヒャンユン…………」
それは、ヒャンユンが作った服だった。薄い青にえんじ色のはちまきと上着。手縫いの服は、驚くほどにぴったりだった。
ヒャンユン。お前は俺を忘れて欲しいのだとしても、俺は絶対に忘れやしない。絶対に……
トンチャンは決意を固めると、服に袖を通し始めた。
せめて、一緒に生きられなかった分を寄り添うかのように。
何故、内禁衛が?
トンチャンは何かの間違いでは、と言おうとして閉口した。彼自身も捕らえられたからだ。
「おい!何しやがる!」
「大人しくついてこい!」
「てめぇ!奥様に言いつけてやる!ただじゃおかねぇからな!ぶっ殺してやる!おい!!」
巨体で暴れるため、内禁衛の兵士五人がかりで押さえつけられ、トンチャンを連行する準備がようやく整った。
ふと、彼の脳裏にあることがよぎる。
───まさか、あの晩に薬を撒いたのが………?
だとしたら大事だ。けれど、どこから漏れたのか。考えられることは一つしかない。
「チョンドン!!あの野郎!!おい!イヌ!」
「はい、兄貴」
「チョンドンとマンスを探せ!ぶっ殺しても構わねぇ!」
そう言い残すとトンチャンは渋々内禁衛へ歩きだした。
その様子を見ていたのは、やはりナビだった。やるせない表情を浮かべる姿を見かけたカン・ソノは、声をかけようとして足を止めた。だが、その視線の先を知り、彼は言葉を失った。
───トンチャン……?あの男を………?ヒャンユン殿がどうして気遣うのだ……?
そして、全てを悟った。ヒャンユンの心の中にはずっとトンチャンが居り、全てを捨ててまで元の居場所に戻りたかった理由もトンチャンだったのだと。
───私が入る余地は、最初から無かったのか。
彼が顔をあげたときには、既にナビもトンチャンも居なかった。残されたのはただ、彼独りだけだった。
内禁衛の取り調べ。それは身も凍るものだと知っていたトンチャンは、最悪の事態を避けるために祈り続けていた。だが、長い棒を二本携えて持ってきた役人が現れ、両足が縛られた瞬間にトンチャンもドンジュも悟った。
───まずい。
そして、拷問が昼夜問わず始まった。トンチャンは心身共々ぼろぼろになっている中、内禁衛のハン・ジェソの質問には答えず、うわ言のように同じ言葉を発し続けた。
「ヒャンユン……………ヒャンユン……………」
「おい、聞いているのか?指示したのは誰だ!」
「俺は……ただ………ヒャンユン………に………会いたかったんだ…………」
「ハン様、このままでは死んでしまいます。ひとまず牢に移送しましょう」
なんて支離滅裂な会話だ。だが、強烈な拷問にも耐えうる理由となるその人───ヒャンユンとは誰なのか。ひょっとすると関係者なのかもしれない。チェソは静かに頷くと、この件を直々に指揮している王に裁量を仰ぐために部屋を出た。
ドンジュは隣にいるぼろ雑巾のようなトンチャンを見て、改めて絶句した。自分よりも動揺の大きかったトンチャンを尋問し、有益な証拠を引き出そうとしたためか、時おり鞭打ちも加わっている痕が見える。
「よく耐えたな。あとは旦那様がなんとかしてくださる」
「大行首………様…………俺……このまま死ねば………あの人に…………会えますよ……ね」
「何を言っている。弱気になるな」
「大行首……様……俺………あの人に……会いたいん……です……」
あの人とは、コン・ヒャンユン……いや、イ・ヒャンユンのことか。ドンジュは一年前の出来事を思い返していた。気の毒な男だ。どうせ生きていても、両班の娘とは結ばれない。ドンジュにとってトンチャンは、どちらに転んでも憐れな男のように映っていた。
そんなことも知らず、トンチャンは目を閉じて眠りについた。しばらくは邪魔されない、唯一愛する人に会える夢の世界に身をおくことしか彼には出来ないのだった。
チョンドンとマンスは、戦々恐々としながらナビのもとを訪ねていた。
「あのぉ…………」
「俺たち、殺されそうなんです……」
「…それで?」
「身辺の安全は保証してくださるんですよね……?ですから……俺たちを典獄署に入れてくれませんか?」
ナビは目を丸くして驚いた。この二人、存外頭が回るではないか。
「……それで、便宜を図ってほしいと?」
「ええ。あの……無理ならいいんです!俺たちがなんとか……」
ナビは少し考えると、チョヒに二人の警護を任せて父の住まう屋敷へ向かった。そして大金の入った袋を持ち出すと、二人の目の前に差し出した。
「恐らく、10両くらいは入っているだろう。」
「えっ……!?」
「じゅっ、10両ですか!?」
「………二人はこれからも必要だ。その金で7番房にでも入れてもらうといい。」
二人が大金に目を白黒させているのを見届けて、ナビは世の中ある一定の部類までは、金がものを言わせるのだなとつくづく思うのだった。
二人が悠々自適に典獄署で過ごすようになって一日。ナビの指示通りに追加の囚人を入れるなと便宜したにも関わらず、一人の追加があると号令がかかった。
「誰だよ、全く……」
「ですよね。なんなんだか…」
チョンドンが興味深そうに扉の方に目を向けていると、そこに現れたのは────
「………お?こんなとこに隠れていやがったか」
「げっ…………」
二人は顔を見合わせて青ざめた。
「トンチャン……」
「兄貴!?!?」
「よぉ。………てめぇらまとめてぶっ殺してやる!」
拷問の傷がまだ痛むが、そんな場合ではない。トンチャンは怒りに震えていた。もちろんチョンドンとマンスは恐怖に震えている。
「兄貴!お許しを!」
「だいたいてめぇら、どうやってこの7番房に入ったんだ!」
「助けてください!殺される!」
何となくナビの名を出すのは良くないと察したチョンドンは、どれ程殴られても口を固く閉ざし続けた。そこで、次はマンスに口を割らせようと振り向いたトンチャンだったが、身をよじった瞬間に走った鈍い激痛に耐えかね、そのまま床に座り込んでしまった。
「いてぇ……」
「兄貴、血が滲んでますけど……?」
「うるせぇ!ほっとけ!」
拷問の傷痕が化膿してきている。トンチャンは寒気を覚えながら、傷口をちらりと確認してそう思った。心なしか熱もある。
このまま放っておけば、確実に命の危険が迫ってくる。けれど、今さら治療して何になるのだろうか。むしろヒャンユンの傍に行けるではないか。そんな思いを胸に、トンチャンは静かに目を閉じるのだった。今度はただ疲れた。それだけの理由だった。
ナビがトンチャンの急変を知ったのは、耳の早いソジョンとキョハからだった。
「……トンチャンが死にそうだと?いいや、ありえない。都一元気そうなあの男が………」
「事実だそうです。」
絶句するナビは、なにか言いたげなソジョンを怪訝そうな目で見返した。
「………何。」
「ナビさん、後悔しますよ。」
「どうして?何が?」
「トンチャンがもし………」
「ありえない話をするのはやめてほしい。全く……」
そう言いつつも、ナビの心は平常を失っていた。失う辛さは、もう一度きりで充分だ。
いや、だめだ。自分はファン・ナビではないか。行ったところで何になるのだ。すると、テウォンがこう言った。
「話によると、トンチャンは高熱で夢現らしい。だから…………」
「だから?」
「だから、あなたがヒャンユンとして現れても、夢だと思うはずです。だったら……会えるかもしれない」
ナビ───いや、ヒャンユンの中で思慕の念をせき止めていた何かが音をたてて壊れた。吹き出すように恋情が甦ってくる。
部屋に戻ったヒャンユンは、かつて身に付けていた服にできるだけ近いものを選び、修理したペッシテンギをつけた。そして、頭にはあのときの蝶の髪飾りをつけ、後のことなど何一つ考えずに走り出した。
───トンチャン、お願い…死なないで。私の大切な人!死なないで!
典獄署の知り合いはオクニョしか居ないので、ヒャンユンはなんとか頼み込んで牢へ入れてもらうことに成功した。その間、オクニョの養父であるチョンドクの計らいにより、チョンドンとマンスは別の牢に移された。二人が移送される途中、不安で表情を強張らせるヒャンユンとすれ違った。チョンドンは死人を見たのかと目をこすった。だが、全く同じ髪飾りをしている女性が確かにそこにいた。
「え………?あの人は…………」
ヒャンユンは死んだはず。だとしたら、あの人は誰なのか。けれど、あの髪飾りは全く同じもの。何かありえないことが天地をひっくり返そうとしているようにしか思えない。
「ほら!行くぞ!」
「あ、はい………」
だとしたら、やはりナビはヒャンユンと同一人物なのか。
「だけどなんでだ………?」
チョンドンは首をかしげて考え込んだ。どちらにせよ、彼の中で好奇心と言う名の興味が沸いたことは確かだった。
ヒャンユンは牢に入り、苦しげにうずくまるトンチャンを見て言葉を失った。オクニョが彼女に今の容態を耳打ちした。
「……治療するにも、気力がないのよ」
「……そう」
会いたかった人が目の前にいる。意識がはっきりとしていなくてもいい。酔っていてもいい。けれど………
「死ぬのだけは………やめて………」
ヒャンユンは優しくトンチャンの頬に触れ、愛しそうに撫でた。その温もりのためか、はたまた懐かしい気配を察してか、トンチャンが意識を朦朧とさせながら目を開けた。
「………ヒャンユン…………?」
「トン……チャン……」
ああ、私のことがわかるのね。私の名前の呼び方を、まだ覚えているのね。
ヒャンユンは微笑みながら、ずっと愛しさを込めて呼びたかったその名を懐かしみながら、噛み締めるように口に出した。
「夢………か………」
「そうかも……しれない。けど、今日はここにいてあげる。」
トンチャンは高熱に浮かされ、夢だと思っているようだ。けれど、その両目からは涙が溢れて止まらない。
「ヒャンユン………ごめん………ごめん………」
いつも、トンチャンは夢でヒャンユンに会う度に謝ろうとしていた。だが、一度も言えていなかった。遅いことはわかっている。もう二度と伝えらないことも、償うことも出来ないとは知っている。それでも、トンチャンはあの日のことを謝りたかった。そして今日は、すんなりと謝ることが出来た。
「……いいのよ。私の方こそ、ごめんなさい。あなたとの約束、守れなくて…………」
ヒャンユンが言い終わる前に、ふらつきながらも身体を起こしたトンチャンが、覆い被さるように彼女を抱き締めた。熱のせいか、身体が熱くなる。
「ずっと…………どんな代償を、支払うことになってでも……いいから、もう一度……もう一度だけ……お前を……抱き締め…たかった」
ヒャンユンの目から涙がこぼれる。懐かしい場所。自分の戻るべき場所。仮初めのこの瞬間でも、戻ることが出来た。そのことが何よりも嬉しかった。
もう、何も思い残すことはない。例えこれが、コン・ヒャンユンとしてトンチャンに向き合うことの最期になったとしても。
ヒャンユンは優しくトンチャンの背中を撫でながら、ゆっくりと布団に戻した。
「少し、休むのよ。ずっと、傍にいてあげるから」
「嘘……だ………俺が……目を覚ませば……もう…居なくなる…くせに」
勘の鈍い男だと失笑すると、ヒャンユンはトンチャンの手を取って微笑みかけた。
「───ずっと、私はいつでも傍に居るわ。いつでも、あなたを見守っているから。それは今までもそうだし、これからも変わらない。あなたの心から私が居なくなるその日が来ても、私は変わらずあなたを愛し続ける。見守り続けるから。」
そして、ほんの少しだけ苦渋の表情を浮かべてこう言った。
「だから、幸せになって欲しい。私と思い描いたことは全部、私とでなくても出来る。だから───」
トンチャンの目から涙がまたこぼれ落ちた。それ以上は言わないで欲しい。こんなのは、ただ自分の都合が良いように見ている夢なんだ。そう自分に言い聞かせていた。だからこそ、ヒャンユンは敢えてその続きを言った。
「だから、私のことを───忘れてもいいから。」
「そんな……………俺は………」
「もう、疲れたでしょ?私に会えないのは」
トンチャンは首を横に振った。けれど、夢は覚めない。どうしてなのだろう。代わりにヒャンユンが泣いているのがわかった。馬鹿なやつ。泣くくらいなら、始めからそんなことを言うなよ。何で夢なのに泣いてるんだよ。トンチャンは震える手で、ヒャンユンの涙を拭った。
「泣く……なよ………お前のこと……忘れ……ねぇから……」
「ごめんなさい………ごめんなさい……泣いちゃってごめんなさい……」
ああ、この人は夢でもこんなに可愛らしい。もう、二度と会えない気がした。だから、トンチャンは遠退く意識の中で、一言こう言った。
「愛して………る………」
「え……?」
「ずっと…お前…だけ…を…………」
ヒャンユンが目を丸くしてトンチャンを見ている。彼はうっすら力なく微笑むと、眠りにつく前に言い残した。
「───だから………泣かない………で欲し…い」
「トンチャン…………」
ヒャンユンが涙声でそう名前を呼んだときは、既にもう彼は寝息をたてて眠っていた。安心したのか、その表情は穏やかだ。
「トンチャン…………トンチャン…………ヒャンユンなんだよ………本物なんだよ………私は……生きてるのよ………」
ここにいるのに。本物なのに。夢じゃないのに。気づいてよ。お願い、もう一度だけ抱き締めてよ。
ヒャンユンは目を赤くはらしながら立ち上がると、ふらつく足取りで牢を出た。外にはオクニョが待っている。その支えを振り切って、ヒャンユンは典獄署を後にした。
向かった場所は、珍しくジョンミョンのもとだった。屋敷に自分から戻ってきた娘を見て喜んだものの、彼はその様子がおかしいことに気づいた。
「ヒャンユン……?」
「お父様。………私は、愛する人とただ普通に生きてみたかったと、そう思います。」
ヒャンユンの虚ろな両目から、涙が溢れ始める。どう頑張っても、自分はトンチャンの傍には行けない。だから、嘘でもあの人を突き放さなければならなかった。けれど、心は想像以上に壊れてしまったようだ。
「お父様……私…………」
「この国には、どう足掻いても乗り越えられない身分というものがある。……そういうことであろう?」
例えチョン・ナンジョンとユン・ウォニョン、そして小尹派が企てた全ての陰謀を暴き、ヒャンユンとして生活できるようになったとしても、ヒャンユンはトンチャンの傍へは戻れない。ヒャンユン自身が大尹派の両班である限り、常民のトンチャンとは結ばれることはない。決して、ありえないのだ。
「だから……せめて…………あの人の幸せを願いたいのです。ただ、幸せになって欲しいと…………」
ヒャンユンは瞼を伏せて、心の中でこう付け加えた。
───例え、その隣に私が居なくとも……
夜が明ける。そして一日がまた新しく始まる。けれど、トンチャンと共に生きる明日は永遠に来ない。望むことさえ許されない。
ヒャンユンとジョンミョンは、黙って夜明けを眺めていた。ジョンミョン──実父は、すっかり大人になった娘を見て、ほんの少しだけ寂しそうに微笑んだ。
「………許してくれ、ヒャンユン」
「…え?」
「お前と、ヨンフェと、母を守れなかったことを」
力なくそう言ったジョンミョンに視線を向けると、ヒャンユンは静かにその肩に頭をもたせかけた。
「…………おかえり、ヒャンユン。お前が行きたい場所には成れなくとも、私はいつでもお前の帰りを待っているからな」
その言葉が、ヒャンユンの心に波紋のように広がる。感情が堰を切ったように溢れ出す。
「私は………………私は……………帰りたい………あの人のところに……………!」
「泣けばいい。………全て受け止めよう。この十何年も私が親としての役目を果たせなかった分を………」
朝日が昇りきるまで、ヒャンユンはずっとジョンミョンの隣で泣き続けた。
そしてそこには、たしかに父と子の姿があった。長すぎる時間を埋めていく、確かな絆が。
数日後、突然の知らせがチョン・ウチと共にナビの元へ舞い込んできた。
「大変です、ナビさん。チョン・ナンジョンとミン・ドンジュ、そしてトンチャンが無罪放免になったんです!典獄署から釈放されました!」
「えっ…………」
ナビは愕然とした。ここまでチョン・ナンジョンとその背後にある小尹派の勢力は強大なのか。そして更にチョヒも報告にやって来た。
「団長。チョン・ナンジョンの指示で、ミン・ドンジュ黒蝶団を調査し始めているようです」
「黒蝶団を?勘の鋭い奴等だ………」
「どうしますか?しばらく活動を控えるか……」
すると、ナビは不敵な笑みを浮かべながら静かに首を横に振った。
「いや、そのままで。向こうも必死なはず。必死な輩というのは、埃も出しやすいものだ。」
「では、そのままで?」
「ああ。………むしろ、煽るのも悪くない」
「承知しました。」
ナビはチョヒが去ったあとも、しばらく思案に耽っていた。
───ミン・ドンジュが動いたとなれば、主体はトンチャンか。
次会うときは、殺るか殺られるかの関係になっているかもしれない。
「それでも……………」
私は、この道を行く。夢でさえ、あなたと生きる人生に身を投じることができないのならば、もう何も辛いものはない。
───まだ、こんなものは始まりですから。私の人生を狂わせたあなた方を決して、決して私は許しません。
ナビは空を仰ぎ、毅然と見据えた。そこにチョン・ナンジョンとユン・ウォニョンへの、尽きることのない憎しみの炎を燃やしながら。
トンチャンは、出獄したその足で家に戻った。そして、箱の中からずっと取り出せなかったものを取り出した。
「ヒャンユン…………」
それは、ヒャンユンが作った服だった。薄い青にえんじ色のはちまきと上着。手縫いの服は、驚くほどにぴったりだった。
ヒャンユン。お前は俺を忘れて欲しいのだとしても、俺は絶対に忘れやしない。絶対に……
トンチャンは決意を固めると、服に袖を通し始めた。
せめて、一緒に生きられなかった分を寄り添うかのように。