4、黒蝶団団長
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その晩、ナビは覆面をしながら指揮を執っていた。山奥で行うのは、チョン・ナンジョンが直々に小尹派の大臣に納める袖の下の取引であると調べをつけていたため、その襲撃を計画していたのだ。部下であるヨンソンとギョムにそれぞれ団員をつけると、ナビは静かに頷いた。
襲撃の合図を受けた団員たちが次々と飛び出し、取引を邪魔立てし始めた。現場は混乱を極め、這うようにして逃げ出す者も現れた。そんな中、ミン・ドンジュ商団が雇った曰牌たちが善戦を繰り広げていた。ナビは覆面の下でうっすら微笑みを浮かべると、乱闘の中に歩み出た。額に巻かれた鉢巻きにある蝶の印が、月明かりに照らされる。
「荷を奪え。本来は民であるそなたたちの物だ。」
「こいつが頭か!殺れ!」
男たちが一斉に挑んでくる。しかし護衛のギョムたちによってそれは阻まれた。元体探人で、団員の一人である護衛のチョヒが報告を始める。
「団長、荷の押収は完了しました。後はどうしましょうか」
「適当なところで切り上げよう。奴等には大損害も甚だしいことだろう」
「承知しました」
ナビは収集しそうな現場から背を向けると、素素樓に戻るために歩き出した。心の中では確実に復讐へ近づいている喜びを噛み締めながら。
翌日、出勤するや否やトンチャンはドンジュに盛大に叱られた。
「そなた!また黒蝶団だ!一体、どうなっているのだ!」
「えっ?黒蝶団?またですか?」
その場にやって来ているナンジョンも、頭が痛そうに吐き捨てた。
「ここ一年で突然降って沸いた地下組織ごときに、そなたたちは何をしているのだ!小尹派の官僚たち、そして大妃様への資金は一体どうするのだ。平市署が持ちかけてきた紙の話で既に大損害を被ったというのに、これ以上損害を出させてどうする!」
「申し訳ございません、奥様」
ナンジョンは焦っていた。平市署署長のテウォンの提案により、臨時科挙のために紙を買い占めて儲ける商売に乗ったのだが、突然科挙は中止となり、更に原料となる楮を意図的に何者かによって買い占められるという事態まで発生した。ナンジョンらは、少なくとも楮の買い占めには黒蝶団が関与しているとにらんでいた。だが、実態が今一つ掴めない。そこでドンジュは不安が残るものの、トンチャンに調査を一任することにした。
「必ず調べあげてこい。よいな。次の企ての際に出し抜かれるようなことがあれば、そなたを許さぬ」
「はい、大行首様。」
トンチャンは久しぶりの大仕事に胸を高鳴らせた。もちろんその黒蝶団の団長が、ヒャンユンであるとは知る由も無かった。
その日、ナビの姿は物珍しい場所にあった。都にひっそりと建つ小さな商団に現れた彼女は、オクニョの歓迎を受けた。
「この商団も、随分大きくなったのね。オクニョ」
「ええ。お陰さまで、なんとかやってるわ」
そう、楮を買い占めたのはオクニョだったのだ。武術の師匠であるパク・テスの孫であるジホンと共に商団を開設したオクニョは、商団の存在を隠して秘密裏に行動を続けていた。そしてそれを安全面から支援しているのが黒蝶団なのだ。ナビは部屋に入ると、初対面のジホンらに挨拶をした。
「お初にお目にかかります。ファン・ナビと申します。」
「この方は?何をされる方なんだ?」
地方役所の執事をしていたチャン・ソンプンが興味津々に尋ねてきた。隣に居るジホンはもちろん、捕盗庁武官のヤン・ドング、そして詐欺師のチョン・ウチと部下のコ・テギルもだ。オクニョはジホンらに微笑むと、意気揚々にナビを紹介した。
「この方は、黒蝶団の団長様です。」
「えっ!?」
「黒蝶団の!?」
「巷じゃ、屈強な男が団長だとか、むしろ細身の青年だとか、色々噂にはなってたが……」
「まさか女とは……それもこんな………」
ひ弱そうなという言葉が出そうになり、ドングは口をつぐんだ。ナビの射るような視線が刺さる。オクニョは失笑すると、席につくよう促した。
「さて、先日の件はおみごとでした。流石ですね」
「資金源をひとまず水の泡にしたので、今後の動きに着目すべきかと。黒蝶団からもチョン・ナンジョン商団に潜り込ませる者を何名か選びたいのですが……」
「それには及びません!秘密を絶対に守れるやつが居ますので、ナビさんにもご紹介します。あっ、ちょうど来た」
ウチの視線の先には、駆け込んできたチョンドンとマンスが居た。ナビは一瞬嫌な予感が胸をよぎったが、すぐに平常心を取り戻して頷いた。
「……マノクがミョンソンとして素素樓にいることは知っている。宜しく」
「あっ、お願いします……って、何を?」
チョンドンは恭しく一礼してから疑問をぶつけた。それに対して、ナビが涼しげな面持ちであっさりと言い放つ。
「チョン・ナンジョン商団に潜入するのだ。トンチャンの下で働くといい」
「ええっ!?」
「ミン・ドンジュの下でも良いが……」
「いえ!大丈夫です!はい!やります……」
語尾に気合いが不在だ。ナビは不敵な笑みを浮かべると、チョンドンの肩をそっと叩いた。
「案ずるな。報酬は弾む上に、そなたの身辺の安全は保証してやる」
「本当ですか……?」
「当然だ。私は黒蝶団の団長だぞ?」
マンスは息を呑んだ。オクニョよりも年下の娘が黒蝶団の団長?
信じられないと言いたげな様子にオクニョも笑いをこらえきれない様子だ。しかし、チョンドンとドングだけは少し違っていた。二人はナビの面持ちをどこかで見たような気がしてならなかった。特にチョンドンはすぐに閃いた。
───トンチャンの婚約者のお嬢様にそっくりじゃないか!でも、あの人は死んだはずじゃ……?
冷笑的ではあるが、面影はそのままだ。トンチャンはこのことを知っているのだろうか。妓楼で接点のあるマノクに今度聞いてみようと思ったチョンドンは、新しい仕事に生唾を飲むのだった。
陽も傾き、そろそろ素素樓へ出向く頃、ナビの元にキョハの執事がやって来た。顔面は蒼白で、今にも倒れそうな顔をしている。何かが起きたことを瞬時に悟ったナビは素素樓へ向かわねばと思った。
ナビが急行すると、そこでは既にソジョンとミョンソンが対応に追われていた。相手は内禁衛の護衛兵士だった。ナビの心の中で、面倒なことになったという呆れが生じる。腕が立つ両班の子息が多い護衛たちは、どれも札付きの者ばかりで、どこの妓楼でも騒ぎを起こすことはさほど珍しくなかった。
ナビは今にも殴り飛ばして帰ってもらいたいという熱を抑え、冷静に近づいて一礼した。
「………どうかなさいましたか?」
「責任者は誰だ!」
「責任者は現在居りません。ですので、代理責任者の私ファン・ナビがお話をお聞きします」
ナビを一瞥した男たちが鼻で笑った。もちろん彼女は一瞬、頬の筋肉をぴくりと吊り上げた。
「お前が話を聞くだと?馬鹿にするんじゃねぇ!」
「………お話が出来ぬなら、お引き取りを。」
「何だと?俺たちは客だぞ?」
「ええ、" 今は "客ですね。」
「なめるな、この小娘が!」
すると、そこに偶然仕事帰りに飲みに来ていたトンチャンが通りかかった。5人の男たちと対等に睨み合う小柄なナビの姿を見つけると、ヒャンユンに似たか弱そうな娘を救うべくすぐに仲裁しようとした。だが、隣で静かに事を見届けているキョハが制止した。
「お客との小競り合いにお客が入るものではありません。………今、テウォン行首を呼んでいます」
「でも!ナビが勝てるわけが………」
「ナビさんなら大丈夫です。」
「………は?」
そんなやり取りをしているうちにも、対峙している六人のやり取りは過熱していく。
「お前、今はってどういう意味だ。」
「そのままです。素素樓は客を選ぶ妓楼ですから。お気に召さないなら、今日はお引き取りを。お代はお返しします」
「タダ酒を呑みたくて文句をつけてると思われてるなら、心外だな。」
「この酌も出来ねぇ小娘と、愛想の悪い妓生をなんとかしろって言ってるんだ。床の相手が妓生の仕事だろ?」
その言葉に目を細めたキョハが歩み出ようとする前に、ナビが淡々と返事をした。
「───素素樓は芸を売る妓楼です。もしや、素素樓は初めてですか?」
「てめぇ………!」
「書画、歌、舞、楽器、料理、風景、詩。その全てに精通する最高の妓生たちとは、会話を楽しむという方法があるということです。他の妓楼では満足できない方が来られる場所です。………しかし残念ながら、乱闘が得意な妓生は居ませんので、ご希望でしたら七牌市場でどうぞ」
周囲の客たちから歓声が沸き上がる。ナビは精一杯無愛想な顔を歪めて微笑むと、出口を指し示して一礼した。だが、男たちの怒りは収まらない。それどころか男の一人がミョンソンを叩こうと手を出した。
丁度テウォンがやって来て、トンチャンの隣に追い付いたとき、それは始まった。
ミョンソンを叩こうとした手が、宙に静止したのだ。何事かと思って一同が視線を泳がせたときは、既に男の手はナビによってねじ伏せられていた。
「───お引き取りを、と言ったのが最後でしたのに」
「何の最後だ?」
「…………客として扱うことです」
可憐で華奢な見た目とは正反対な表情と威圧感を露にしたナビは、ため息をつくと黒蝶団団長の本力を出さないように気を付けねばと思いつつ、半分の力で男の手をねじり上げた。
「ぐぁっ!」
「てめぇ……!」
残りの男たちが一斉にかかってくる。ナビは最初に掴んだ男を手放すと、残りの男たちに反動を利用して放り投げた。
「おお………」
思わずトンチャンの口から感嘆の声が漏れる。
「ね、言ったでしょう?助けなくても大丈夫ですよ、って」
「いや………ここまで強いとは……」
ファン・ナビ。ヒャンユンに生き写しであり、ヒャンユンでない人。トンチャンは捨てきれない望みも先日のことも全て忘れ、その華麗な立ち回りを眺めていた。テウォンは横目で正体がばれるのではと危惧しつつも、固唾を飲んで成り行きを見守っている。
男たちがひとしきり疲れた頃を見計らい、ナビは再度帰るように警告した。
「───さて、これで帰る気になりました?今ならまだ自主退場後の出禁という扱いになりますが。」
「………てめぇ、なめんじゃねぇ!大勢の前で醜態さらして帰れるか!」
「ほう……沽券(こけん)を守ると?」
「そうだ!女ごときにやられてたまるか」
男たちは剣を握ると、鞘から抜き取って構えた。丸腰のナビは流石に少し怯んだ。と言っても、その戸惑いは負けるという恐怖心からではなく、本当に殺してしまいかねないという不安からだったのだが。
「………どうやら、今日はもう一息必要みたいね。ソジョンさん、あれを持ってきて」
「えっ………」
躊躇するソジョンを、ナビが横目で睨みを入れて急かす。
「早く。」
「は、はい……」
慌ててその場から離れたソジョンを見て、トンチャンはテウォンに尋ねた。
「…今から何が始まるんだ?」
「さぁ、あいつらも気の毒なことだな」
「本当に助けなくてもいいのか?女一人に、剣を持った内禁衛の護衛が五人だぞ?こんなの……」
テウォンはまだ助けに行こうとするトンチャンを止めた。
「もう手出しは出来ない。今行けば、まとめて俺たちも手違いで殺されかねない」
「かかれ!」
トンチャンの心配も虚しく、ナビに剣が一斉に振り下ろされた。飛びかかってきた中央の男を避けると、ナビは隣にあった石灯籠を踏み台にして跳躍した。男たちの真後ろに立つと、ナビはソジョンが戻るまでの時間を稼ぎ始めた。
「ミョンソン!ソジョンさんは?」
「もうすぐ来ます!」
「遅い!」
刃をすれすれで避けつつ、ナビは男たちの中央に出来た隙間を滑り込んで不意をついた。
───内禁衛の剣術はこれで読めた。後は、反撃のみ。
カン・ソノから教わった体探人流の武術を使うには、素素樓の玄関は絶好の場所だった。平坦で見通しがよく、天井がない。更に相手は五人。一度に相手をするのは、まだ実戦では三人しか経験しておらず、それもナビの心を高鳴らせた。
───この一年間、すべてを捨てて手に入れた武術が、まさかこんなところで役に立つとは。
それにしてもソジョンはまだかと言おうとしたとき、ナビの視界に愛用の剣を手にして走ってくる姿が飛び込んできた。片手で男の腕を止め、もう片方で小突きながらナビは叫んだ。
「ソジョンさん!投げて!」
「ええっ!?」
「いいから!早く!」
もう一本が頭上から振り下ろされる。迷っている場合ではない。ソジョンは一か八かの賭けで剣を鞘に入ったまま放り投げた。ナビは石で出来た手すりを台にして素早く跳躍すると、空中で剣を受け取り、地面に前転しながら着地した。周りからは歓声がまたもや沸いた。今度は妓生たちの黄色い悲鳴も混じっていた。
「きゃー!ナビさんーー!」
「素敵~!!来世男に生まれ変わったらお嫁さんにしてぇー!」
ナビは真顔で剣を鞘から抜くと、体探人流に構えた。男たちはもろともせずかかってきたが、攻めに転じたナビの剣さばきに、次第に異常さを感じ始めた。
ふと、邪魔な鞘をどうしようかと思ったナビは、偶然視界に入ったトンチャンを見て何か閃くと、彼めがけて鞘を投げつけた。綺麗に放物線を描き、鞘は危うくトンチャンの顔面に当たりそうになる。咄嗟に受け止めると、彼は当惑しながら唖然としてナビを見た。
「後で返して」
「へっ………?」
ナビは呆然とするトンチャンには一瞥もくれず、うっすら笑みを浮かべながらもいつもの力の半分以下を保つように心がけながら、屈強な男たちを次々と倒していった。一人は斬りかかる前に鋭い蹴りを入れられ地面に倒れ、もう一人は剣を交えたものの切っ先ごと地面に組み伏され、三人目への攻撃の踏み台と化した。
「この野郎………!!」
三人目には跳躍したまま空中で一回転し、頭上から攻撃を仕掛ける。訓練を怠っているのか、男はすぐに反動で剣から手をは離して尻餅をついた。そして四人目。横の死角から卑怯にも斬りかかってくる男に対し、不敵な笑みを浮かべたナビはそちらの方に注意も向けず、さっと伸ばした手で男の手首を掴み、そこにある経穴を押した。激痛に剣から手を離した男からそのまま剣を頂戴し、ナビは五人目の攻撃に備えた。
この男はなかなか強く、ナビの奪った方の剣を取り落とさせ、一対一の勝負に持ち込んだ。腕力がないことを読み取った男は、取っ組み合いに持ち込もうと画策し始めた。しかしそんなこともお見通しなナビは、男の策にはまった振りをして不意を突き、剣を放り投げて男の肩に掴まれた方の手を置いたまま、宙に飛び上がった。空中で剣を握り直したナビは、男の真横に着地するとそのまま手を振り払ってその首に愛剣の切っ先を突きつけた。
だが、四人目が起き上がり剣を取ろうとあがくすがたを見たトンチャンは、咄嗟にナビに叫んだ。
「危ない!」
それを聞いたナビは目にも留まらぬ速さで、足元に落ちていた剣の柄を爪先で浮かせて宙に放り投げ、持ち直して男の鼻先に突きつけた。
「───さて、ここで死ぬか永久出禁か。まだ選びたい者は?」
「い……いえ……帰ります。し、失礼しました!」
「…よし、賢明だ。お代は返却すべきかな?」
「い、いえ!!迷惑料としてお納めください!では!!」
ナビはご満悦と言いたげに笑うと、尻尾を巻いて逃げ帰る男たちの背を見ながら何度も頷いた。その隣にやって来たテウォンは、汗一つ流していない涼しげなナビを見て背筋が凍る思いで声をかけた。
「………ご苦労でした」
「……これはこれは、署長殿。平市署の署長とここの兼任は難しそうですね」
面倒事をよくも押し付けたなとさも言いたげなナビに苦笑すると、テウォンはため息をついた。
「ええ、ありがとうございます」
ナビはテウォンの肩をぽんと叩くと、今度は両手を叩いて業務再開の合図をした。
「さて。皆様にはお見苦しいものをみせてしまい、お詫びの言葉もございません。しかし、青天の霹靂が霹靂もと言われ足らしめるのは、稀にあるからでしょう。ですので、今宵の先程までに注文頂いた飲み代は、どのお客様も半額に致します。」
「おお!毎日暴れてくれる奴がいればいいのにな!」
客の誰かがそう言い、周りが大笑いした。ナビは突然の半額宣言にあっけに取られるソジョンたちを尻目に、一言付け足した。
「ああ、ですが。乱闘騒ぎを起こされた方は永久出禁なので、くれぐれも半額目当てに乱闘騒ぎを仕組みなさらぬように。」
客も妓生たちも、その一言でどっと笑った。こうしていつもの業務に戻ったことを確認すると、ナビはトンチャンに鞘を返してもらうため、つかつかと歩み寄った。
「………どうも。助かりました」
「ああ………ええと……」
「これで、私とその……ヒャンユンというお方が同一人物ではないとお分かりいただけましたか?」
「ええと………」
当惑するトンチャンをからかうように、ナビは続けた。
「ヒャンユン殿は、しおらしく、可憐でか弱いお嬢様なのでしょう?さぞかし守り甲斐のある方でしょうね」
「……そう、でしたね」
「では、失礼」
やはり、違うのだ。この人とヒャンユンは、似ても似つかない。可愛げも無いし、完璧すぎてその冷たさがむしろ怖いくらいだ。トンチャンがため息をついて踵を返す様子を肩越しに見届けたナビは、ほんの一瞬だけヒャンユンの表情を見せると、再びファン・ナビの表情で前を見据えた。
───何を傷ついているの?ファン・ナビ。あの男に情けは無用。いずれ闘わねばならない相手。かつて高鳴らせた心は、あの日コン・ヒャンユンとしての人生と共に捨てたはず。
そんな複雑な状況を知るテウォンとソジョンは、ナビの悲哀に満ちた眼差しに言葉を失った。復讐のためとはいえ、テウォンやオクニョとは違い孤独な道を歩まざるを得ないヒャンユン。そんな彼女をファン・ナビという別の人格に変えてしまった、ユン・ウォニョンとチョン・ナンジョンの罪が痛いほど二人の心に滲みた。
そして一番その悔しさと辛さに震えているナビは、素素樓から見る月を見上げると、再びいつものように平然とした強い女性を演じるのだった。
ナビ───いや、ヒャンユンは沈んでいた。嫌われた。トンチャンは、自分よりも強い女は嫌いだった。いつも守っていいところを見せたい男だった。だから、きっと嫌われただろうし、自分が生きていると知っても以前のようには戻れないだろう。何より身分が違う。両班と常民は一緒にはなれない。様々なことを考慮して、ヒャンユンはトンチャンに正体を明かすことを拒んでいたのだ。
───けど、今日のことは想定外だったわ。あの人、驚いていたわね。
あれは確実に引いている顔だった。強すぎて怖がっているようにも見えた。
───あの人に合うのは、か弱くて可愛らしい女の子なのよ。ヒャンユン、あなたじゃないのよ。
もう、あなたじゃないのよ。胸に秘めた言葉は、夜空に震えるのだった。
襲撃の合図を受けた団員たちが次々と飛び出し、取引を邪魔立てし始めた。現場は混乱を極め、這うようにして逃げ出す者も現れた。そんな中、ミン・ドンジュ商団が雇った曰牌たちが善戦を繰り広げていた。ナビは覆面の下でうっすら微笑みを浮かべると、乱闘の中に歩み出た。額に巻かれた鉢巻きにある蝶の印が、月明かりに照らされる。
「荷を奪え。本来は民であるそなたたちの物だ。」
「こいつが頭か!殺れ!」
男たちが一斉に挑んでくる。しかし護衛のギョムたちによってそれは阻まれた。元体探人で、団員の一人である護衛のチョヒが報告を始める。
「団長、荷の押収は完了しました。後はどうしましょうか」
「適当なところで切り上げよう。奴等には大損害も甚だしいことだろう」
「承知しました」
ナビは収集しそうな現場から背を向けると、素素樓に戻るために歩き出した。心の中では確実に復讐へ近づいている喜びを噛み締めながら。
翌日、出勤するや否やトンチャンはドンジュに盛大に叱られた。
「そなた!また黒蝶団だ!一体、どうなっているのだ!」
「えっ?黒蝶団?またですか?」
その場にやって来ているナンジョンも、頭が痛そうに吐き捨てた。
「ここ一年で突然降って沸いた地下組織ごときに、そなたたちは何をしているのだ!小尹派の官僚たち、そして大妃様への資金は一体どうするのだ。平市署が持ちかけてきた紙の話で既に大損害を被ったというのに、これ以上損害を出させてどうする!」
「申し訳ございません、奥様」
ナンジョンは焦っていた。平市署署長のテウォンの提案により、臨時科挙のために紙を買い占めて儲ける商売に乗ったのだが、突然科挙は中止となり、更に原料となる楮を意図的に何者かによって買い占められるという事態まで発生した。ナンジョンらは、少なくとも楮の買い占めには黒蝶団が関与しているとにらんでいた。だが、実態が今一つ掴めない。そこでドンジュは不安が残るものの、トンチャンに調査を一任することにした。
「必ず調べあげてこい。よいな。次の企ての際に出し抜かれるようなことがあれば、そなたを許さぬ」
「はい、大行首様。」
トンチャンは久しぶりの大仕事に胸を高鳴らせた。もちろんその黒蝶団の団長が、ヒャンユンであるとは知る由も無かった。
その日、ナビの姿は物珍しい場所にあった。都にひっそりと建つ小さな商団に現れた彼女は、オクニョの歓迎を受けた。
「この商団も、随分大きくなったのね。オクニョ」
「ええ。お陰さまで、なんとかやってるわ」
そう、楮を買い占めたのはオクニョだったのだ。武術の師匠であるパク・テスの孫であるジホンと共に商団を開設したオクニョは、商団の存在を隠して秘密裏に行動を続けていた。そしてそれを安全面から支援しているのが黒蝶団なのだ。ナビは部屋に入ると、初対面のジホンらに挨拶をした。
「お初にお目にかかります。ファン・ナビと申します。」
「この方は?何をされる方なんだ?」
地方役所の執事をしていたチャン・ソンプンが興味津々に尋ねてきた。隣に居るジホンはもちろん、捕盗庁武官のヤン・ドング、そして詐欺師のチョン・ウチと部下のコ・テギルもだ。オクニョはジホンらに微笑むと、意気揚々にナビを紹介した。
「この方は、黒蝶団の団長様です。」
「えっ!?」
「黒蝶団の!?」
「巷じゃ、屈強な男が団長だとか、むしろ細身の青年だとか、色々噂にはなってたが……」
「まさか女とは……それもこんな………」
ひ弱そうなという言葉が出そうになり、ドングは口をつぐんだ。ナビの射るような視線が刺さる。オクニョは失笑すると、席につくよう促した。
「さて、先日の件はおみごとでした。流石ですね」
「資金源をひとまず水の泡にしたので、今後の動きに着目すべきかと。黒蝶団からもチョン・ナンジョン商団に潜り込ませる者を何名か選びたいのですが……」
「それには及びません!秘密を絶対に守れるやつが居ますので、ナビさんにもご紹介します。あっ、ちょうど来た」
ウチの視線の先には、駆け込んできたチョンドンとマンスが居た。ナビは一瞬嫌な予感が胸をよぎったが、すぐに平常心を取り戻して頷いた。
「……マノクがミョンソンとして素素樓にいることは知っている。宜しく」
「あっ、お願いします……って、何を?」
チョンドンは恭しく一礼してから疑問をぶつけた。それに対して、ナビが涼しげな面持ちであっさりと言い放つ。
「チョン・ナンジョン商団に潜入するのだ。トンチャンの下で働くといい」
「ええっ!?」
「ミン・ドンジュの下でも良いが……」
「いえ!大丈夫です!はい!やります……」
語尾に気合いが不在だ。ナビは不敵な笑みを浮かべると、チョンドンの肩をそっと叩いた。
「案ずるな。報酬は弾む上に、そなたの身辺の安全は保証してやる」
「本当ですか……?」
「当然だ。私は黒蝶団の団長だぞ?」
マンスは息を呑んだ。オクニョよりも年下の娘が黒蝶団の団長?
信じられないと言いたげな様子にオクニョも笑いをこらえきれない様子だ。しかし、チョンドンとドングだけは少し違っていた。二人はナビの面持ちをどこかで見たような気がしてならなかった。特にチョンドンはすぐに閃いた。
───トンチャンの婚約者のお嬢様にそっくりじゃないか!でも、あの人は死んだはずじゃ……?
冷笑的ではあるが、面影はそのままだ。トンチャンはこのことを知っているのだろうか。妓楼で接点のあるマノクに今度聞いてみようと思ったチョンドンは、新しい仕事に生唾を飲むのだった。
陽も傾き、そろそろ素素樓へ出向く頃、ナビの元にキョハの執事がやって来た。顔面は蒼白で、今にも倒れそうな顔をしている。何かが起きたことを瞬時に悟ったナビは素素樓へ向かわねばと思った。
ナビが急行すると、そこでは既にソジョンとミョンソンが対応に追われていた。相手は内禁衛の護衛兵士だった。ナビの心の中で、面倒なことになったという呆れが生じる。腕が立つ両班の子息が多い護衛たちは、どれも札付きの者ばかりで、どこの妓楼でも騒ぎを起こすことはさほど珍しくなかった。
ナビは今にも殴り飛ばして帰ってもらいたいという熱を抑え、冷静に近づいて一礼した。
「………どうかなさいましたか?」
「責任者は誰だ!」
「責任者は現在居りません。ですので、代理責任者の私ファン・ナビがお話をお聞きします」
ナビを一瞥した男たちが鼻で笑った。もちろん彼女は一瞬、頬の筋肉をぴくりと吊り上げた。
「お前が話を聞くだと?馬鹿にするんじゃねぇ!」
「………お話が出来ぬなら、お引き取りを。」
「何だと?俺たちは客だぞ?」
「ええ、" 今は "客ですね。」
「なめるな、この小娘が!」
すると、そこに偶然仕事帰りに飲みに来ていたトンチャンが通りかかった。5人の男たちと対等に睨み合う小柄なナビの姿を見つけると、ヒャンユンに似たか弱そうな娘を救うべくすぐに仲裁しようとした。だが、隣で静かに事を見届けているキョハが制止した。
「お客との小競り合いにお客が入るものではありません。………今、テウォン行首を呼んでいます」
「でも!ナビが勝てるわけが………」
「ナビさんなら大丈夫です。」
「………は?」
そんなやり取りをしているうちにも、対峙している六人のやり取りは過熱していく。
「お前、今はってどういう意味だ。」
「そのままです。素素樓は客を選ぶ妓楼ですから。お気に召さないなら、今日はお引き取りを。お代はお返しします」
「タダ酒を呑みたくて文句をつけてると思われてるなら、心外だな。」
「この酌も出来ねぇ小娘と、愛想の悪い妓生をなんとかしろって言ってるんだ。床の相手が妓生の仕事だろ?」
その言葉に目を細めたキョハが歩み出ようとする前に、ナビが淡々と返事をした。
「───素素樓は芸を売る妓楼です。もしや、素素樓は初めてですか?」
「てめぇ………!」
「書画、歌、舞、楽器、料理、風景、詩。その全てに精通する最高の妓生たちとは、会話を楽しむという方法があるということです。他の妓楼では満足できない方が来られる場所です。………しかし残念ながら、乱闘が得意な妓生は居ませんので、ご希望でしたら七牌市場でどうぞ」
周囲の客たちから歓声が沸き上がる。ナビは精一杯無愛想な顔を歪めて微笑むと、出口を指し示して一礼した。だが、男たちの怒りは収まらない。それどころか男の一人がミョンソンを叩こうと手を出した。
丁度テウォンがやって来て、トンチャンの隣に追い付いたとき、それは始まった。
ミョンソンを叩こうとした手が、宙に静止したのだ。何事かと思って一同が視線を泳がせたときは、既に男の手はナビによってねじ伏せられていた。
「───お引き取りを、と言ったのが最後でしたのに」
「何の最後だ?」
「…………客として扱うことです」
可憐で華奢な見た目とは正反対な表情と威圧感を露にしたナビは、ため息をつくと黒蝶団団長の本力を出さないように気を付けねばと思いつつ、半分の力で男の手をねじり上げた。
「ぐぁっ!」
「てめぇ……!」
残りの男たちが一斉にかかってくる。ナビは最初に掴んだ男を手放すと、残りの男たちに反動を利用して放り投げた。
「おお………」
思わずトンチャンの口から感嘆の声が漏れる。
「ね、言ったでしょう?助けなくても大丈夫ですよ、って」
「いや………ここまで強いとは……」
ファン・ナビ。ヒャンユンに生き写しであり、ヒャンユンでない人。トンチャンは捨てきれない望みも先日のことも全て忘れ、その華麗な立ち回りを眺めていた。テウォンは横目で正体がばれるのではと危惧しつつも、固唾を飲んで成り行きを見守っている。
男たちがひとしきり疲れた頃を見計らい、ナビは再度帰るように警告した。
「───さて、これで帰る気になりました?今ならまだ自主退場後の出禁という扱いになりますが。」
「………てめぇ、なめんじゃねぇ!大勢の前で醜態さらして帰れるか!」
「ほう……沽券(こけん)を守ると?」
「そうだ!女ごときにやられてたまるか」
男たちは剣を握ると、鞘から抜き取って構えた。丸腰のナビは流石に少し怯んだ。と言っても、その戸惑いは負けるという恐怖心からではなく、本当に殺してしまいかねないという不安からだったのだが。
「………どうやら、今日はもう一息必要みたいね。ソジョンさん、あれを持ってきて」
「えっ………」
躊躇するソジョンを、ナビが横目で睨みを入れて急かす。
「早く。」
「は、はい……」
慌ててその場から離れたソジョンを見て、トンチャンはテウォンに尋ねた。
「…今から何が始まるんだ?」
「さぁ、あいつらも気の毒なことだな」
「本当に助けなくてもいいのか?女一人に、剣を持った内禁衛の護衛が五人だぞ?こんなの……」
テウォンはまだ助けに行こうとするトンチャンを止めた。
「もう手出しは出来ない。今行けば、まとめて俺たちも手違いで殺されかねない」
「かかれ!」
トンチャンの心配も虚しく、ナビに剣が一斉に振り下ろされた。飛びかかってきた中央の男を避けると、ナビは隣にあった石灯籠を踏み台にして跳躍した。男たちの真後ろに立つと、ナビはソジョンが戻るまでの時間を稼ぎ始めた。
「ミョンソン!ソジョンさんは?」
「もうすぐ来ます!」
「遅い!」
刃をすれすれで避けつつ、ナビは男たちの中央に出来た隙間を滑り込んで不意をついた。
───内禁衛の剣術はこれで読めた。後は、反撃のみ。
カン・ソノから教わった体探人流の武術を使うには、素素樓の玄関は絶好の場所だった。平坦で見通しがよく、天井がない。更に相手は五人。一度に相手をするのは、まだ実戦では三人しか経験しておらず、それもナビの心を高鳴らせた。
───この一年間、すべてを捨てて手に入れた武術が、まさかこんなところで役に立つとは。
それにしてもソジョンはまだかと言おうとしたとき、ナビの視界に愛用の剣を手にして走ってくる姿が飛び込んできた。片手で男の腕を止め、もう片方で小突きながらナビは叫んだ。
「ソジョンさん!投げて!」
「ええっ!?」
「いいから!早く!」
もう一本が頭上から振り下ろされる。迷っている場合ではない。ソジョンは一か八かの賭けで剣を鞘に入ったまま放り投げた。ナビは石で出来た手すりを台にして素早く跳躍すると、空中で剣を受け取り、地面に前転しながら着地した。周りからは歓声がまたもや沸いた。今度は妓生たちの黄色い悲鳴も混じっていた。
「きゃー!ナビさんーー!」
「素敵~!!来世男に生まれ変わったらお嫁さんにしてぇー!」
ナビは真顔で剣を鞘から抜くと、体探人流に構えた。男たちはもろともせずかかってきたが、攻めに転じたナビの剣さばきに、次第に異常さを感じ始めた。
ふと、邪魔な鞘をどうしようかと思ったナビは、偶然視界に入ったトンチャンを見て何か閃くと、彼めがけて鞘を投げつけた。綺麗に放物線を描き、鞘は危うくトンチャンの顔面に当たりそうになる。咄嗟に受け止めると、彼は当惑しながら唖然としてナビを見た。
「後で返して」
「へっ………?」
ナビは呆然とするトンチャンには一瞥もくれず、うっすら笑みを浮かべながらもいつもの力の半分以下を保つように心がけながら、屈強な男たちを次々と倒していった。一人は斬りかかる前に鋭い蹴りを入れられ地面に倒れ、もう一人は剣を交えたものの切っ先ごと地面に組み伏され、三人目への攻撃の踏み台と化した。
「この野郎………!!」
三人目には跳躍したまま空中で一回転し、頭上から攻撃を仕掛ける。訓練を怠っているのか、男はすぐに反動で剣から手をは離して尻餅をついた。そして四人目。横の死角から卑怯にも斬りかかってくる男に対し、不敵な笑みを浮かべたナビはそちらの方に注意も向けず、さっと伸ばした手で男の手首を掴み、そこにある経穴を押した。激痛に剣から手を離した男からそのまま剣を頂戴し、ナビは五人目の攻撃に備えた。
この男はなかなか強く、ナビの奪った方の剣を取り落とさせ、一対一の勝負に持ち込んだ。腕力がないことを読み取った男は、取っ組み合いに持ち込もうと画策し始めた。しかしそんなこともお見通しなナビは、男の策にはまった振りをして不意を突き、剣を放り投げて男の肩に掴まれた方の手を置いたまま、宙に飛び上がった。空中で剣を握り直したナビは、男の真横に着地するとそのまま手を振り払ってその首に愛剣の切っ先を突きつけた。
だが、四人目が起き上がり剣を取ろうとあがくすがたを見たトンチャンは、咄嗟にナビに叫んだ。
「危ない!」
それを聞いたナビは目にも留まらぬ速さで、足元に落ちていた剣の柄を爪先で浮かせて宙に放り投げ、持ち直して男の鼻先に突きつけた。
「───さて、ここで死ぬか永久出禁か。まだ選びたい者は?」
「い……いえ……帰ります。し、失礼しました!」
「…よし、賢明だ。お代は返却すべきかな?」
「い、いえ!!迷惑料としてお納めください!では!!」
ナビはご満悦と言いたげに笑うと、尻尾を巻いて逃げ帰る男たちの背を見ながら何度も頷いた。その隣にやって来たテウォンは、汗一つ流していない涼しげなナビを見て背筋が凍る思いで声をかけた。
「………ご苦労でした」
「……これはこれは、署長殿。平市署の署長とここの兼任は難しそうですね」
面倒事をよくも押し付けたなとさも言いたげなナビに苦笑すると、テウォンはため息をついた。
「ええ、ありがとうございます」
ナビはテウォンの肩をぽんと叩くと、今度は両手を叩いて業務再開の合図をした。
「さて。皆様にはお見苦しいものをみせてしまい、お詫びの言葉もございません。しかし、青天の霹靂が霹靂もと言われ足らしめるのは、稀にあるからでしょう。ですので、今宵の先程までに注文頂いた飲み代は、どのお客様も半額に致します。」
「おお!毎日暴れてくれる奴がいればいいのにな!」
客の誰かがそう言い、周りが大笑いした。ナビは突然の半額宣言にあっけに取られるソジョンたちを尻目に、一言付け足した。
「ああ、ですが。乱闘騒ぎを起こされた方は永久出禁なので、くれぐれも半額目当てに乱闘騒ぎを仕組みなさらぬように。」
客も妓生たちも、その一言でどっと笑った。こうしていつもの業務に戻ったことを確認すると、ナビはトンチャンに鞘を返してもらうため、つかつかと歩み寄った。
「………どうも。助かりました」
「ああ………ええと……」
「これで、私とその……ヒャンユンというお方が同一人物ではないとお分かりいただけましたか?」
「ええと………」
当惑するトンチャンをからかうように、ナビは続けた。
「ヒャンユン殿は、しおらしく、可憐でか弱いお嬢様なのでしょう?さぞかし守り甲斐のある方でしょうね」
「……そう、でしたね」
「では、失礼」
やはり、違うのだ。この人とヒャンユンは、似ても似つかない。可愛げも無いし、完璧すぎてその冷たさがむしろ怖いくらいだ。トンチャンがため息をついて踵を返す様子を肩越しに見届けたナビは、ほんの一瞬だけヒャンユンの表情を見せると、再びファン・ナビの表情で前を見据えた。
───何を傷ついているの?ファン・ナビ。あの男に情けは無用。いずれ闘わねばならない相手。かつて高鳴らせた心は、あの日コン・ヒャンユンとしての人生と共に捨てたはず。
そんな複雑な状況を知るテウォンとソジョンは、ナビの悲哀に満ちた眼差しに言葉を失った。復讐のためとはいえ、テウォンやオクニョとは違い孤独な道を歩まざるを得ないヒャンユン。そんな彼女をファン・ナビという別の人格に変えてしまった、ユン・ウォニョンとチョン・ナンジョンの罪が痛いほど二人の心に滲みた。
そして一番その悔しさと辛さに震えているナビは、素素樓から見る月を見上げると、再びいつものように平然とした強い女性を演じるのだった。
ナビ───いや、ヒャンユンは沈んでいた。嫌われた。トンチャンは、自分よりも強い女は嫌いだった。いつも守っていいところを見せたい男だった。だから、きっと嫌われただろうし、自分が生きていると知っても以前のようには戻れないだろう。何より身分が違う。両班と常民は一緒にはなれない。様々なことを考慮して、ヒャンユンはトンチャンに正体を明かすことを拒んでいたのだ。
───けど、今日のことは想定外だったわ。あの人、驚いていたわね。
あれは確実に引いている顔だった。強すぎて怖がっているようにも見えた。
───あの人に合うのは、か弱くて可愛らしい女の子なのよ。ヒャンユン、あなたじゃないのよ。
もう、あなたじゃないのよ。胸に秘めた言葉は、夜空に震えるのだった。