3、身を切るような嘘
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一年。それは苦しい鍛練を経験し、黒蝶団を設立したヒャンユンにとっては、苦しくて孤独でもあっという間の日々だった。だが、トンチャンにとっては違った。ヒャンユンに出会う前と代わり映えしない怠惰な日々は、もう二度とあんな風に鮮やかには咲かない。
もう一度会えるのなら、腕の中に抱き締められるのなら、何でもしよう。例えそのために差し出す対価が、自身の命であろうとも構わない。ようやくそこまで覚悟を決められたのに。なのに、もうヒャンユンは居ない。蝶は自分の肩から飛び去ってしまった。
二度と会うことは出来ない愛しい人。そう思いながら日々を重苦しく過ごしていたトンチャンだったが、寝耳に水を注がれるような気分に突如変わる出来事が起きた。そう、ヒャンユンに生き写しのナビが目の前に現れたのだ。どう見てもヒャンユンにしか見えない。トンチャンは思わずその腕をつかんで引き留め、叫んだ。
「ヒャンユン!」
「…………何事ですか」
「ヒャンユン!生きていたのか?俺がどれだけ……」
やや間があってナビが答える。
「………人違いです。失礼します」
「えっ…………そ、そんなはずは──」
狼狽するトンチャンに、ナビは更に強く返した。
「私は、ファン・ナビです。あなたなんて、知りません」
そこまで言われると流石に尻込みしたのか、トンチャンは渋々ナビから離れた。強気な澄まし顔で隣を通りすぎたナビだったが、部屋に入るや否やその場に座り込んだ。
───トンチャン…………?何故ここに…………しかも、どうしてまた私と出会うの………?
もはや悪縁としか思えない。なんということだ。チョン・ナンジョンらと対決するためには必ず、出会い対立する定めだとは心得ていた。だが、こんなに早くに再会するとは…………
ナビは引き出しから、あのときの髪飾りを取り出した。留まる場所を失った蝶はどこか、寂しそうに見える。無意識に飾りを持つ両手が頭に向く。その先端が頭に触れ、ようやく彼女は我に返って飾りを再び戻した。
───駄目よ、ファン・ナビ。まだ戻れないんだから。己の責務を全うしなさい。
あと何回、心に嘘をつかなければならないのだろうか。誓いの裏で、未だ思慕を燻らせる自分が許せず、ナビは素素樓を後にした。
向かった先は、私有地の訓練場だった。独りで剣を持ち、何を相手にするわけでもなく刃を踊らせる。これがナビの乱れた心の落ち着かせ方だった。その様子を見ていたのは、やはりカン・ソノだった。大尹派について官職を貰った彼は、出仕の帰りにナビを探してここに辿り着いた。だが、いつものざわつきとは比べ物にならないその様子から、ソノは何かがあったのだろうと悟った。しかし、それが思い人のことだとは微塵も疑ってはいない。
「────いらっしゃるなら、一言お声をかけてください」
「出来るものならそうしたいです。ですが、今日の貴女はそれすら拒んでいた」
ナビは剣を鞘に戻してうっすらと微笑んだ。その表情があまりに美しく、ソノの心は不覚にもときめいた。
「───全てを元に戻そうとすれば、全てが歪んでしまうのです。こうしてそんな馬鹿げた抵抗を繰り返して、最後には誰も正しい位置に戻れなくなってしまいそうで。」
謎かけのような言葉───全てナビの本音なのだが、ソノは理解に時折苦しんだ。自分がまだ彼女の傍に行けないのは、きっとそれが原因なのだろう。ソノはいつもそんな風に自分を責めていた。だが、この日もナビは理解を求めなかった。むしろ彼女も自分を責めていた。
「こんなこと、言うべきではありませんね。皆、どんなに深い傷を負っても、必死で立ち上がろうとしているのに。」
ナビは立ち上がると一礼してソノの隣を、先程トンチャンを横切ったように過ぎようとした。だが、今日のソノは違った。
「───ナビ。」
思い人の腕を掴み、彼は普段は見せない表情で微笑んだのだ。ナビは目を丸くしてソノを見た。
「…………私でよければ、剣の相手をしてくれ。それで、気が晴れるのなら。」
ナビはソノの目をじっと見据えた。見られている彼の方が恥ずかしさで顔を逸らしそうになるほど、その視線は毅然としていた。ナビは空虚の上に微笑むと、もう一本置いてあった剣を鞘ごと放り投げた。
ソノの剣さばきは、相変わらず劣っていなかった。ナビの刃がソノの刃と交わり、互いの切っ先が月明かりに照らし出される。息は上がらないものの、ソノの鼓動は既に速まっていた。どんな瞬間にも心踊る自分。馬鹿としか言いようがない。それでも、ソノはこの瞬間を大切にしたかった。例えナビにとっては些細な事にしか過ぎないとしても。
「相変わらず………力は弱いな」
「力で抑えるのはただの馬鹿です」
ナビは力だけはあるどうしようもない"馬鹿"のことを思い出して笑った。
───馬鹿だけれど、いつも真っ直ぐだった。曲がったことが嫌いというよりは、ガキ大将を大人にしたような男だったが。
思い出して笑えるということは、傷が癒えたわけか。ナビは切りのいいところで剣を納めると、ソノに向き直って一礼した。
「ありがとうございました。」
「あ…いや、構わない。また、いつでも言ってくれ」
もの足りなさそうなソノに気づくはずもなく、ナビはそのまま去ってしまった。残された彼は、独り夜空にため息を忍ばせるのだった。
翌日。ナビは何も考えず表から素素樓に入ろうとした。だが、その足が何か下心溢れる気配を感じて止まる。
そう、トンチャンだった。どう見ても諦めていなさそうな様子だ。ナビは大きくため息をつく前に辺りを見回し、そっと裏口から店に入った。
「おっ、ナビさん。………泥棒?」
「うるさい。おい、ユン・テウォン。シン・ドンチャンのこと、経営者の権限で出禁に出来ないものかしら?」
その事かとやや失笑したテウォンは、ナビをあしらおうとした。だが、想像以上にナビはしつこかった。
「無理に決まってるでしょう?いい加減諦めて……」
「とにかく!あんな風に張られては困る。全く、薄給の癖に……というかあやつ、そもそも仕事をさぼっているのでは!?」
どこの妻だ。テウォンは心の中で突っ込みを入れながら、にやけるのを必死で堪えてこう言ってみた。
「お嬢様は、随分あの客がご心配のようですね」
「心配?はっ。馬鹿馬鹿しい。誰があんなごろつき風情など相手にするものか。署長になって目が腐ったか?」
気丈に返事する声の中に、テウォンは本音を見た。やはり彼女は、まだトンチャンのことが好きなのか。
テウォンが察したことに気づいたのか、ナビは咳払いをするとそのまま仕事へ戻っていった。その足取りがどこか軽かったことを、もちろんテウォンは見逃さなかった。
あっという間に陽は傾き、ナビはもういい頃だろうと思って素素樓から出た。だがそこで彼女が見たのは、まだ健気にも "ヒャンユンにそっくりな女" を待っているトンチャンの姿だった。しかも今回は大丈夫だろうと思って普通に門を出てしまったため、ばったりと鉢合わせる形でナビは想い人と対面してしまった。
「おっ………」
「げっ…………」
口からは必死で歓喜の声が出るのを抑えたせいで、怪訝そうな声が出た。万事休す、と思い腹をくくったナビは毅然とした面持ちでトンチャンの前に立った。
彼は案の定ナビの行く手を遮ると、片手で塀に体重をかけた状態で質問攻めを始めた。
「お前、ファン・ナビって言うんだよな?」
「ええ。そうですが?」
「何してる」
「ユン・テウォン署長の代理で素素樓の経営を補佐しています。問題でも?」
問題がないから困るのだ。トンチャンは苛立つと次の質問へ移った。
「兄弟姉妹親類は?」
「天涯孤独です。」
「嘘つけ」
「事実です」
なんて不毛なやり取りだ。思わずお互いにそう思ってしまう。そこでトンチャンは核心をつくことにした。
「───コン・ヒャンユン。ヒャンユンという女………いや、娘………どっちでもいい!何か知ってるか?」
トンチャンには解らないようにだが、わずかにナビの瞳孔が見開かれる。だが、そんなことでぼろを出すほど愚かなヒャンユンは死んだ。ナビは冷ややかに笑うと、トンチャンにわざと近寄って耳元で囁いた。
「───存じ上げません。私がお気に召したなら、言い訳せず素直にそう仰ってください。」
「ち、違う!」
「ならばヒャンユンという娘は誰です?あなたの見た目からして、恋人では無さそうですし………」
わざとしゃくに障る言い方を心掛けたが、トンチャンは聞き出すのに必死なのか、そんなことは気にも留めない様子だ。
「恋人で、俺の婚約者だ。行方がわからないが、死体も見つからない。きっと生きているはずなんだ。なぁ、ファン・ナビ。お前、何か記憶を失ってるとか……」
「いいえ。私は産まれてからずっと、ファン・ナビです。人違いの振りをして女の気を引くのは止めてください」
「だから!違うって!俺はただ………」
トンチャンはそこまで言うと、突然言葉をつまらせた。ナビは咄嗟に後ろを向かねば同情してしまうと思ったが、身体───いや、心は言うことを聞こうとしなかった。
「俺はただ、あいつじゃないのかって、思ってしまっただけなんだ。この一年間、ずっとこんなことの繰り返しだった。少しでも似てる奴がいたら、すぐに同じことを聞いてしまう。……でも、お前が今までで一番……いや、気持ち悪いくらいに生き写しだったから。だから……もう、諦めようと思ってた。でも、でも、お前は似すぎてる。性格も言葉遣いも、何もかも違うはずなのに……同じはずはないのに………そっくりなんだ。何かが……根底にある何かが……」
当然だ、本人なのだから。ナビは震える手をもう片方の手で押さえると、ため息をついた。
「……申し訳ないが、私は違う。」
「……そうか。そうだよな………済まなかった。」
トンチャンは肩をがっくり落として踵を返した。足首に枷がはめられているかのように、その足取りは重い。ナビは自らの死よりも辛いこんな嘘を、あと何回吐かねばならないのだろうかと空を仰いだ。そして、あと何回までなら耐えられるのだろうかとも思うのだった。
翌日、仕事の合間ができたため、トンチャンはふらりと外に出た。だが、無意識に赴いてしまったのはやはり素素樓だった。違うとわかっているのに、会う度に、確かめようとする度に傷つくだけなのに。それでもトンチャンは諦めきれなかった。
塀を乗り越える勇気がないので、試しに裏口の戸を押してみると、扉は招き入れるように開いた。トンチャンが敷地に入るとすぐ、美しい演奏が耳に流れ込むのを感じた。音色に誘われるように歩いていくと、離れの楼閣にたどり着いた。そこでは一人の女性が、薄絹を両腕に通して舞を舞っていた。
───ナビだった。布が宙を切り、その度に彼女の顔を隠した。だが、ゆっくりとたおやかに落ちていく布が、再びその端整な顔立ちを覗かせる。手足の動きは妓生でさえ敵わぬほどにしなやかで、女性らしかった。だが一番トンチャンを惹き付けたのは、その真剣な眼差しが、商売に向き合っていたときのヒャンユンと一寸違わぬものであることだった。
────やっぱり、この人はヒャンユンかもしれない。色々思い出させようとしてもやっぱり違うなら、そのときは諦めよう。これが最後だ。この人も違うのなら、もう俺は…………
諦めよう。忘れることは出来ないが、諦めること、そして待つのと探すのを止めることは出来る。トンチャンはそう決意すると、きちんと頼みに行くべくその場を後にするのだった。
舞い終わり、独り庭を眺めていたナビは気配に気づき顔を上げた。そこには真剣な表情のトンチャンがいた。婚姻を申し込んできた時と同じ顔つきに、思わず懐かしさがむせかえる。トンチャンは頭を深々と下げると、切羽詰まった声で切り出した。
「あの………!やっぱり俺、あなたが本当にヒャンユンじゃないってわかるまで……確証を持つまで諦めることができねぇ。だから、だから……俺に一日だけ下さい。俺と過ごした場所に行けば、思い出すかもしれない。」
「………違うとわかれば?」
「わかれば、俺は………諦めます。」
自分が忘れ去られる様子を見守らなければならないというのか。なんて残酷な話だろうと冷笑し、ナビは興味がなさそうな返事をした。
「……そう。いいんじゃない?」
「本当ですか!?ありがとうございます!」
「……明日、ここに───」
「あの!指定したいところと時刻があるんですが………」
ナビは目を丸くした。一体どうする気なのか。だが、何故か頑なに拒むのも疎ましく思え、ナビは静かにトンチャンを見るのだった。
次の日、ナビはある場所に立っていた。しかも未の刻に。
懐かしい。忘れるはずもない。ここはトンチャンと初めてコン・ヒャンユンとして出掛けた場所。想いを認めてほしくて、必死に身支度して心踊らせた、祭りの日の待ち合わせ場所だった。
────忘れろと言う方が、無理があるわね。
ナビが遠すぎる思い出に浸っていると、トンチャンが現れた。あの日と変わらない服装で、全く同じ様子で。よくここまで再現できたなと感心するほどだった。
「じゃ、今日は一日ツラ貸してくれよ」
「………どうぞ、お気の済むまで」
トンチャンは自信満々の表情だが、ナビはもちろん強張った笑いしか出なかった。
トンチャンがまずナビを連れていったのは、予想通り市場だった。初めてあった場所なのは覚えているが、どうしらを切るか。そのことで頭が一杯になる。トンチャンはそんなこともお構い無しに、ナビの手をつかんで店の前に立たせた。そして横に並ぶと顔を覗き込んで尋ねた。
「どうだ?覚えてるか?」
「………いえ、存じ上げません。あなたのような顔の人、一度見れば忘れぬでしょう?」
「ああ。格好いい───」
「典型的な三枚目顔ですね」
「へっ?」
あまりの辛辣な返答に硬直しているトンチャンに満足すると、ナビは店を離れようとした。だがすぐに引き戻される。
「なっ、何をするんですか。」
「正常な反応だ……ヒャンユンも俺の顔が好きなんじゃなくて、俺がスリから助けたから好きになったんだ」
裏目に出たか。ナビは思わず歯ぎしりしそうになった。トンチャンは笑顔で調子に乗ると、そのまま勝手にナビを人形扱いし始め、次から次へと髪飾りを顔に宛がい始めた。
「お?これも似合うな。これは?……違うなぁ。じゃあこれはどうだ?」
「………趣味が悪いですね。まぁ、薄桃色に黒を合わせるなんて、問題外ですが」
「……えっ?」
何気なく返した言葉に、トンチャンは手掛かりとなる内容が入っている気がして、もう一度ナビに尋ねようとした。だが口を滑らせたと焦る彼女は、その場からさっと離れてしまう。慌てて後を追うようにして、トンチャンは次の場所へ向かうのだった。
次の場所は都から少し離れた東屋だった。そこの長椅子に座らされ、ナビは次の行動を予測した。トンチャンはまたもや予定調和にも、ナビの隣に座り、遠い目をして言った。
「…………なぁ。」
「…………はい」
「俺のこと………どう……思う?」
「あなたのことですか?」
「そう。俺のことだ。」
どこかでしたことのあるやり取りだなと失笑するのを堪えて、ナビはあっさりと答えた。
「馬鹿な人。」
そりゃそうだ。トンチャンは自分でも馬鹿なことをしているとわかっていながら、ナビの隣にいる。そっくりだと思わなければ、同じ人なのだと思わなければ生きてはいけなかった。だからこそ、彼は思いきった行動に出た。
「なっ、何を…………!」
「ここでこうして、手を握って言ったんだ。名前を呼んで、って」
「………そう……ですか」
恋い焦がれてきた温もりが伝わってくる。感情が関を切てしまいそうになり、ナビは咄嗟に手を振り払おうとした。だが、トンチャンの力は強かった。
「駄目だ。今日はこうさせてもらう。」
「………後日、飲み代から引いて差し上げますからね」
「好きにしろよ。そんなことでお前が思い出せるなら、俺も嬉しい」
どんな皮肉も通じないなんて、初めてだった。それともこの男は、本気で自分をヒャンユンだと見抜いているのだろうか?自信でもあるのだろうか?
いいや、そんなことはあるはずもない。トンチャンはそこまで狡猾な男ではない。だからこそ、好きだった。ナビはそれが嬉しくも哀しくて、いかにも不器用そうにそっぽを向くのだった。
最後に連れてこられたのは、七牌の建物だった。今は花火こそ上がらないが、都を一望できる見通しの良さは変わっていない。変わったのは、互いの関係だけだった。
それが驚くほど虚しくて、ナビは涙目になっていることを隠すため、景色に目を向けた。既に陽は傾いており、ある意味それが唯一の救いだった。トンチャンが隣に立って話しかけてくる。
「覚えてるか?もう一度、ここで花火を見ようって約束したんだぜ。俺たち………」
「………仲が良かったんですね、婚約者と」
トンチャンは続けようとして、口を閉じた。もう無理だと悟ったのだろうか。代わりに今度はナビが尋ねた。
「どんな、方だったんですか?あなたにとって」
「ヒャンユンは………とても優しくて、笑顔が絶えなくて、元気で、明るくて……利発で気丈なのに、か弱い人だった」
自分のことをそんな風に思っていたのか。随分前向きな印象が飛び出してきて、不覚にもナビは嬉しく思った。そして、トンチャンがかすれた声で続ける。
「俺………こんな見た目だし、かっこよくもねぇし、仕事も羽振りは良くねぇ。だから、ずっと振られまくっててな……恋愛には運がなかったんだよ。でも、ヒャンユンが俺の希望になってくれたんだ。あの子は、俺の生きる意味だった。あの子がいなけりゃ、きっと生きてない。今も、そうだ」
愚かな、と答えようとしてナビは目を丸くした。両目から涙が溢れていたのだ。どうして、いつのまに泣いていたのだろうか。必死に悟られないように逆方向を見ながら、ナビは返事を拒んだ。それが答えだと言わんばかりに。
トンチャンは絶望的な気分だった。だが、その足は素素樓にナビを探しに行ったときのように、またもや無意識に今度は別の場所へと向かっていた。興味本意で密かに後をつけたナビは、息をのんだ。
そこは、自分の墓だった。トンチャンは墓前に跪くと、愛しそうに表面を撫で始めた。
「───ヒャンユン。俺、また馬鹿なことをしちまったよ」
墓をまるで愛する人の体のように抱き締めると、トンチャンは涙を流しながら独りで呟き始めた。
「俺、お前に会いたかったんだ。ただ、お前にもう一度だけ会いたかったんだ。許してくれ。別の、全く知らない女なんかと一緒に一日を過ごして、結局俺は、お前を侮辱しただけだったな。全部俺の自己満足だったんだ。ごめんな、ヒャンユン。お前はここにいるのに………」
トンチャンが月を仰いで溢す。
「───お前は、もう居ないのに………」
ナビ───ヒャンユンは思わず嗚咽を洩らしそうな口を慌てて塞いだ。だがその手も震え始める。
本当は、今すぐ飛び出して本当のことを言いたい。二人で今まででどうしていたのかと、もう二度と会えないと思っていたと、そして叱ってもらいたかった。けれど最後には力強く抱き締めてほしかった。どれ程その腕の中に、その肩に、帰りたかったか、それらを望んでいたかを伝えたかった。
けれどそれは許されない。ヒャンユンとして戻ることは出来ないのだ。このままいけば、きっとトンチャンは自分を忘れようとして、近々他の女と結ばれることだろう。当然だ。朝鮮一のいい男なのだから。
この日、ヒャンユンは悟った。復讐の道よりももっと辛いことは、愛する人から自分が少しずつ忘れ去られていくことを目の当たりにするということなのだと。
もう一度会えるのなら、腕の中に抱き締められるのなら、何でもしよう。例えそのために差し出す対価が、自身の命であろうとも構わない。ようやくそこまで覚悟を決められたのに。なのに、もうヒャンユンは居ない。蝶は自分の肩から飛び去ってしまった。
二度と会うことは出来ない愛しい人。そう思いながら日々を重苦しく過ごしていたトンチャンだったが、寝耳に水を注がれるような気分に突如変わる出来事が起きた。そう、ヒャンユンに生き写しのナビが目の前に現れたのだ。どう見てもヒャンユンにしか見えない。トンチャンは思わずその腕をつかんで引き留め、叫んだ。
「ヒャンユン!」
「…………何事ですか」
「ヒャンユン!生きていたのか?俺がどれだけ……」
やや間があってナビが答える。
「………人違いです。失礼します」
「えっ…………そ、そんなはずは──」
狼狽するトンチャンに、ナビは更に強く返した。
「私は、ファン・ナビです。あなたなんて、知りません」
そこまで言われると流石に尻込みしたのか、トンチャンは渋々ナビから離れた。強気な澄まし顔で隣を通りすぎたナビだったが、部屋に入るや否やその場に座り込んだ。
───トンチャン…………?何故ここに…………しかも、どうしてまた私と出会うの………?
もはや悪縁としか思えない。なんということだ。チョン・ナンジョンらと対決するためには必ず、出会い対立する定めだとは心得ていた。だが、こんなに早くに再会するとは…………
ナビは引き出しから、あのときの髪飾りを取り出した。留まる場所を失った蝶はどこか、寂しそうに見える。無意識に飾りを持つ両手が頭に向く。その先端が頭に触れ、ようやく彼女は我に返って飾りを再び戻した。
───駄目よ、ファン・ナビ。まだ戻れないんだから。己の責務を全うしなさい。
あと何回、心に嘘をつかなければならないのだろうか。誓いの裏で、未だ思慕を燻らせる自分が許せず、ナビは素素樓を後にした。
向かった先は、私有地の訓練場だった。独りで剣を持ち、何を相手にするわけでもなく刃を踊らせる。これがナビの乱れた心の落ち着かせ方だった。その様子を見ていたのは、やはりカン・ソノだった。大尹派について官職を貰った彼は、出仕の帰りにナビを探してここに辿り着いた。だが、いつものざわつきとは比べ物にならないその様子から、ソノは何かがあったのだろうと悟った。しかし、それが思い人のことだとは微塵も疑ってはいない。
「────いらっしゃるなら、一言お声をかけてください」
「出来るものならそうしたいです。ですが、今日の貴女はそれすら拒んでいた」
ナビは剣を鞘に戻してうっすらと微笑んだ。その表情があまりに美しく、ソノの心は不覚にもときめいた。
「───全てを元に戻そうとすれば、全てが歪んでしまうのです。こうしてそんな馬鹿げた抵抗を繰り返して、最後には誰も正しい位置に戻れなくなってしまいそうで。」
謎かけのような言葉───全てナビの本音なのだが、ソノは理解に時折苦しんだ。自分がまだ彼女の傍に行けないのは、きっとそれが原因なのだろう。ソノはいつもそんな風に自分を責めていた。だが、この日もナビは理解を求めなかった。むしろ彼女も自分を責めていた。
「こんなこと、言うべきではありませんね。皆、どんなに深い傷を負っても、必死で立ち上がろうとしているのに。」
ナビは立ち上がると一礼してソノの隣を、先程トンチャンを横切ったように過ぎようとした。だが、今日のソノは違った。
「───ナビ。」
思い人の腕を掴み、彼は普段は見せない表情で微笑んだのだ。ナビは目を丸くしてソノを見た。
「…………私でよければ、剣の相手をしてくれ。それで、気が晴れるのなら。」
ナビはソノの目をじっと見据えた。見られている彼の方が恥ずかしさで顔を逸らしそうになるほど、その視線は毅然としていた。ナビは空虚の上に微笑むと、もう一本置いてあった剣を鞘ごと放り投げた。
ソノの剣さばきは、相変わらず劣っていなかった。ナビの刃がソノの刃と交わり、互いの切っ先が月明かりに照らし出される。息は上がらないものの、ソノの鼓動は既に速まっていた。どんな瞬間にも心踊る自分。馬鹿としか言いようがない。それでも、ソノはこの瞬間を大切にしたかった。例えナビにとっては些細な事にしか過ぎないとしても。
「相変わらず………力は弱いな」
「力で抑えるのはただの馬鹿です」
ナビは力だけはあるどうしようもない"馬鹿"のことを思い出して笑った。
───馬鹿だけれど、いつも真っ直ぐだった。曲がったことが嫌いというよりは、ガキ大将を大人にしたような男だったが。
思い出して笑えるということは、傷が癒えたわけか。ナビは切りのいいところで剣を納めると、ソノに向き直って一礼した。
「ありがとうございました。」
「あ…いや、構わない。また、いつでも言ってくれ」
もの足りなさそうなソノに気づくはずもなく、ナビはそのまま去ってしまった。残された彼は、独り夜空にため息を忍ばせるのだった。
翌日。ナビは何も考えず表から素素樓に入ろうとした。だが、その足が何か下心溢れる気配を感じて止まる。
そう、トンチャンだった。どう見ても諦めていなさそうな様子だ。ナビは大きくため息をつく前に辺りを見回し、そっと裏口から店に入った。
「おっ、ナビさん。………泥棒?」
「うるさい。おい、ユン・テウォン。シン・ドンチャンのこと、経営者の権限で出禁に出来ないものかしら?」
その事かとやや失笑したテウォンは、ナビをあしらおうとした。だが、想像以上にナビはしつこかった。
「無理に決まってるでしょう?いい加減諦めて……」
「とにかく!あんな風に張られては困る。全く、薄給の癖に……というかあやつ、そもそも仕事をさぼっているのでは!?」
どこの妻だ。テウォンは心の中で突っ込みを入れながら、にやけるのを必死で堪えてこう言ってみた。
「お嬢様は、随分あの客がご心配のようですね」
「心配?はっ。馬鹿馬鹿しい。誰があんなごろつき風情など相手にするものか。署長になって目が腐ったか?」
気丈に返事する声の中に、テウォンは本音を見た。やはり彼女は、まだトンチャンのことが好きなのか。
テウォンが察したことに気づいたのか、ナビは咳払いをするとそのまま仕事へ戻っていった。その足取りがどこか軽かったことを、もちろんテウォンは見逃さなかった。
あっという間に陽は傾き、ナビはもういい頃だろうと思って素素樓から出た。だがそこで彼女が見たのは、まだ健気にも "ヒャンユンにそっくりな女" を待っているトンチャンの姿だった。しかも今回は大丈夫だろうと思って普通に門を出てしまったため、ばったりと鉢合わせる形でナビは想い人と対面してしまった。
「おっ………」
「げっ…………」
口からは必死で歓喜の声が出るのを抑えたせいで、怪訝そうな声が出た。万事休す、と思い腹をくくったナビは毅然とした面持ちでトンチャンの前に立った。
彼は案の定ナビの行く手を遮ると、片手で塀に体重をかけた状態で質問攻めを始めた。
「お前、ファン・ナビって言うんだよな?」
「ええ。そうですが?」
「何してる」
「ユン・テウォン署長の代理で素素樓の経営を補佐しています。問題でも?」
問題がないから困るのだ。トンチャンは苛立つと次の質問へ移った。
「兄弟姉妹親類は?」
「天涯孤独です。」
「嘘つけ」
「事実です」
なんて不毛なやり取りだ。思わずお互いにそう思ってしまう。そこでトンチャンは核心をつくことにした。
「───コン・ヒャンユン。ヒャンユンという女………いや、娘………どっちでもいい!何か知ってるか?」
トンチャンには解らないようにだが、わずかにナビの瞳孔が見開かれる。だが、そんなことでぼろを出すほど愚かなヒャンユンは死んだ。ナビは冷ややかに笑うと、トンチャンにわざと近寄って耳元で囁いた。
「───存じ上げません。私がお気に召したなら、言い訳せず素直にそう仰ってください。」
「ち、違う!」
「ならばヒャンユンという娘は誰です?あなたの見た目からして、恋人では無さそうですし………」
わざとしゃくに障る言い方を心掛けたが、トンチャンは聞き出すのに必死なのか、そんなことは気にも留めない様子だ。
「恋人で、俺の婚約者だ。行方がわからないが、死体も見つからない。きっと生きているはずなんだ。なぁ、ファン・ナビ。お前、何か記憶を失ってるとか……」
「いいえ。私は産まれてからずっと、ファン・ナビです。人違いの振りをして女の気を引くのは止めてください」
「だから!違うって!俺はただ………」
トンチャンはそこまで言うと、突然言葉をつまらせた。ナビは咄嗟に後ろを向かねば同情してしまうと思ったが、身体───いや、心は言うことを聞こうとしなかった。
「俺はただ、あいつじゃないのかって、思ってしまっただけなんだ。この一年間、ずっとこんなことの繰り返しだった。少しでも似てる奴がいたら、すぐに同じことを聞いてしまう。……でも、お前が今までで一番……いや、気持ち悪いくらいに生き写しだったから。だから……もう、諦めようと思ってた。でも、でも、お前は似すぎてる。性格も言葉遣いも、何もかも違うはずなのに……同じはずはないのに………そっくりなんだ。何かが……根底にある何かが……」
当然だ、本人なのだから。ナビは震える手をもう片方の手で押さえると、ため息をついた。
「……申し訳ないが、私は違う。」
「……そうか。そうだよな………済まなかった。」
トンチャンは肩をがっくり落として踵を返した。足首に枷がはめられているかのように、その足取りは重い。ナビは自らの死よりも辛いこんな嘘を、あと何回吐かねばならないのだろうかと空を仰いだ。そして、あと何回までなら耐えられるのだろうかとも思うのだった。
翌日、仕事の合間ができたため、トンチャンはふらりと外に出た。だが、無意識に赴いてしまったのはやはり素素樓だった。違うとわかっているのに、会う度に、確かめようとする度に傷つくだけなのに。それでもトンチャンは諦めきれなかった。
塀を乗り越える勇気がないので、試しに裏口の戸を押してみると、扉は招き入れるように開いた。トンチャンが敷地に入るとすぐ、美しい演奏が耳に流れ込むのを感じた。音色に誘われるように歩いていくと、離れの楼閣にたどり着いた。そこでは一人の女性が、薄絹を両腕に通して舞を舞っていた。
───ナビだった。布が宙を切り、その度に彼女の顔を隠した。だが、ゆっくりとたおやかに落ちていく布が、再びその端整な顔立ちを覗かせる。手足の動きは妓生でさえ敵わぬほどにしなやかで、女性らしかった。だが一番トンチャンを惹き付けたのは、その真剣な眼差しが、商売に向き合っていたときのヒャンユンと一寸違わぬものであることだった。
────やっぱり、この人はヒャンユンかもしれない。色々思い出させようとしてもやっぱり違うなら、そのときは諦めよう。これが最後だ。この人も違うのなら、もう俺は…………
諦めよう。忘れることは出来ないが、諦めること、そして待つのと探すのを止めることは出来る。トンチャンはそう決意すると、きちんと頼みに行くべくその場を後にするのだった。
舞い終わり、独り庭を眺めていたナビは気配に気づき顔を上げた。そこには真剣な表情のトンチャンがいた。婚姻を申し込んできた時と同じ顔つきに、思わず懐かしさがむせかえる。トンチャンは頭を深々と下げると、切羽詰まった声で切り出した。
「あの………!やっぱり俺、あなたが本当にヒャンユンじゃないってわかるまで……確証を持つまで諦めることができねぇ。だから、だから……俺に一日だけ下さい。俺と過ごした場所に行けば、思い出すかもしれない。」
「………違うとわかれば?」
「わかれば、俺は………諦めます。」
自分が忘れ去られる様子を見守らなければならないというのか。なんて残酷な話だろうと冷笑し、ナビは興味がなさそうな返事をした。
「……そう。いいんじゃない?」
「本当ですか!?ありがとうございます!」
「……明日、ここに───」
「あの!指定したいところと時刻があるんですが………」
ナビは目を丸くした。一体どうする気なのか。だが、何故か頑なに拒むのも疎ましく思え、ナビは静かにトンチャンを見るのだった。
次の日、ナビはある場所に立っていた。しかも未の刻に。
懐かしい。忘れるはずもない。ここはトンチャンと初めてコン・ヒャンユンとして出掛けた場所。想いを認めてほしくて、必死に身支度して心踊らせた、祭りの日の待ち合わせ場所だった。
────忘れろと言う方が、無理があるわね。
ナビが遠すぎる思い出に浸っていると、トンチャンが現れた。あの日と変わらない服装で、全く同じ様子で。よくここまで再現できたなと感心するほどだった。
「じゃ、今日は一日ツラ貸してくれよ」
「………どうぞ、お気の済むまで」
トンチャンは自信満々の表情だが、ナビはもちろん強張った笑いしか出なかった。
トンチャンがまずナビを連れていったのは、予想通り市場だった。初めてあった場所なのは覚えているが、どうしらを切るか。そのことで頭が一杯になる。トンチャンはそんなこともお構い無しに、ナビの手をつかんで店の前に立たせた。そして横に並ぶと顔を覗き込んで尋ねた。
「どうだ?覚えてるか?」
「………いえ、存じ上げません。あなたのような顔の人、一度見れば忘れぬでしょう?」
「ああ。格好いい───」
「典型的な三枚目顔ですね」
「へっ?」
あまりの辛辣な返答に硬直しているトンチャンに満足すると、ナビは店を離れようとした。だがすぐに引き戻される。
「なっ、何をするんですか。」
「正常な反応だ……ヒャンユンも俺の顔が好きなんじゃなくて、俺がスリから助けたから好きになったんだ」
裏目に出たか。ナビは思わず歯ぎしりしそうになった。トンチャンは笑顔で調子に乗ると、そのまま勝手にナビを人形扱いし始め、次から次へと髪飾りを顔に宛がい始めた。
「お?これも似合うな。これは?……違うなぁ。じゃあこれはどうだ?」
「………趣味が悪いですね。まぁ、薄桃色に黒を合わせるなんて、問題外ですが」
「……えっ?」
何気なく返した言葉に、トンチャンは手掛かりとなる内容が入っている気がして、もう一度ナビに尋ねようとした。だが口を滑らせたと焦る彼女は、その場からさっと離れてしまう。慌てて後を追うようにして、トンチャンは次の場所へ向かうのだった。
次の場所は都から少し離れた東屋だった。そこの長椅子に座らされ、ナビは次の行動を予測した。トンチャンはまたもや予定調和にも、ナビの隣に座り、遠い目をして言った。
「…………なぁ。」
「…………はい」
「俺のこと………どう……思う?」
「あなたのことですか?」
「そう。俺のことだ。」
どこかでしたことのあるやり取りだなと失笑するのを堪えて、ナビはあっさりと答えた。
「馬鹿な人。」
そりゃそうだ。トンチャンは自分でも馬鹿なことをしているとわかっていながら、ナビの隣にいる。そっくりだと思わなければ、同じ人なのだと思わなければ生きてはいけなかった。だからこそ、彼は思いきった行動に出た。
「なっ、何を…………!」
「ここでこうして、手を握って言ったんだ。名前を呼んで、って」
「………そう……ですか」
恋い焦がれてきた温もりが伝わってくる。感情が関を切てしまいそうになり、ナビは咄嗟に手を振り払おうとした。だが、トンチャンの力は強かった。
「駄目だ。今日はこうさせてもらう。」
「………後日、飲み代から引いて差し上げますからね」
「好きにしろよ。そんなことでお前が思い出せるなら、俺も嬉しい」
どんな皮肉も通じないなんて、初めてだった。それともこの男は、本気で自分をヒャンユンだと見抜いているのだろうか?自信でもあるのだろうか?
いいや、そんなことはあるはずもない。トンチャンはそこまで狡猾な男ではない。だからこそ、好きだった。ナビはそれが嬉しくも哀しくて、いかにも不器用そうにそっぽを向くのだった。
最後に連れてこられたのは、七牌の建物だった。今は花火こそ上がらないが、都を一望できる見通しの良さは変わっていない。変わったのは、互いの関係だけだった。
それが驚くほど虚しくて、ナビは涙目になっていることを隠すため、景色に目を向けた。既に陽は傾いており、ある意味それが唯一の救いだった。トンチャンが隣に立って話しかけてくる。
「覚えてるか?もう一度、ここで花火を見ようって約束したんだぜ。俺たち………」
「………仲が良かったんですね、婚約者と」
トンチャンは続けようとして、口を閉じた。もう無理だと悟ったのだろうか。代わりに今度はナビが尋ねた。
「どんな、方だったんですか?あなたにとって」
「ヒャンユンは………とても優しくて、笑顔が絶えなくて、元気で、明るくて……利発で気丈なのに、か弱い人だった」
自分のことをそんな風に思っていたのか。随分前向きな印象が飛び出してきて、不覚にもナビは嬉しく思った。そして、トンチャンがかすれた声で続ける。
「俺………こんな見た目だし、かっこよくもねぇし、仕事も羽振りは良くねぇ。だから、ずっと振られまくっててな……恋愛には運がなかったんだよ。でも、ヒャンユンが俺の希望になってくれたんだ。あの子は、俺の生きる意味だった。あの子がいなけりゃ、きっと生きてない。今も、そうだ」
愚かな、と答えようとしてナビは目を丸くした。両目から涙が溢れていたのだ。どうして、いつのまに泣いていたのだろうか。必死に悟られないように逆方向を見ながら、ナビは返事を拒んだ。それが答えだと言わんばかりに。
トンチャンは絶望的な気分だった。だが、その足は素素樓にナビを探しに行ったときのように、またもや無意識に今度は別の場所へと向かっていた。興味本意で密かに後をつけたナビは、息をのんだ。
そこは、自分の墓だった。トンチャンは墓前に跪くと、愛しそうに表面を撫で始めた。
「───ヒャンユン。俺、また馬鹿なことをしちまったよ」
墓をまるで愛する人の体のように抱き締めると、トンチャンは涙を流しながら独りで呟き始めた。
「俺、お前に会いたかったんだ。ただ、お前にもう一度だけ会いたかったんだ。許してくれ。別の、全く知らない女なんかと一緒に一日を過ごして、結局俺は、お前を侮辱しただけだったな。全部俺の自己満足だったんだ。ごめんな、ヒャンユン。お前はここにいるのに………」
トンチャンが月を仰いで溢す。
「───お前は、もう居ないのに………」
ナビ───ヒャンユンは思わず嗚咽を洩らしそうな口を慌てて塞いだ。だがその手も震え始める。
本当は、今すぐ飛び出して本当のことを言いたい。二人で今まででどうしていたのかと、もう二度と会えないと思っていたと、そして叱ってもらいたかった。けれど最後には力強く抱き締めてほしかった。どれ程その腕の中に、その肩に、帰りたかったか、それらを望んでいたかを伝えたかった。
けれどそれは許されない。ヒャンユンとして戻ることは出来ないのだ。このままいけば、きっとトンチャンは自分を忘れようとして、近々他の女と結ばれることだろう。当然だ。朝鮮一のいい男なのだから。
この日、ヒャンユンは悟った。復讐の道よりももっと辛いことは、愛する人から自分が少しずつ忘れ去られていくことを目の当たりにするということなのだと。