2、甦蝶の羽ばたき
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一年後、夜更けのサムゲに一隻の船が着いた。竹細工で出来た目深の被り物で顔を隠し、船から降りた人物はそのまま馬に乗り山道を目指し始めた。
着いた場所は何かの訓練場で、その人はカン・ソノに迎えられた。
「ようこそ。」
「ただいま戻りました。……皆はそろっていますか?」
「ええ、揃っています。」
ソノに案内されて、訓練場の指揮台に登ったその人を見るや否や、訓練に励んでいた若者たちは皆手を止めて一礼した。全員の額には、蝶の形があしらわれている黒いはちまきが巻かれている。
顔を隠した人物───ファン・ナビは被り物を外すと、同じく蝶の形が施されたはちまき姿で一同を眺め、こう言った。
「皆、上出来だ。私が都に限らず、遠方まで自らの足で出向いた甲斐があった。」
ナビは指揮台から下りると、整列する数十人の若者たちの間を歩き始めた。
「───知っての通り、ここにあつまった同志は皆、チョン・ナンジョンとユン・ウォニョン、および小尹派によって全てを失い、途方にくれている者ばかり。そして、私もその一人だった。だが!奴等の好きに出来る朝鮮はもう終わりだ!我々が全てを終わらせよう。無念に死んでいった両親や兄弟姉妹、そして引き裂かれた恋人同士。はたまた失った輝かしい未来。必ず奴等に報復の時をもたらそう!」
ナビがそう言うと、若者たちは声を上げて賛同した。彼女は微笑むと、少し間をおいて告げた。
「───変えたければ、立ち上がれ。我らは『黒蝶団』だ」
歓声でその場が埋め尽くされる。ナビは訓練を受けた後、密かに地方へ自ら出向いて志を同じくする、聡明で有能な若者たちを男女問わず探していた。そして結成されたのが、官職に復帰した父イ・ジョンミョンを始めとした大尹派を後ろ楯とする『黒蝶団』だった。ナビはこの秘密組織の団長であり、皆を導く存在である。
ソノは満足げなナビを呼び止め、一言付け加えた。
「………いつまでお父上に黙っておくつもりですか?」
「出来る限りです。父はきっと、私がこうして活動することを許さぬでしょう。」
「しかし、私も胃が痛いです。」
「お願いします、カン様。お願いですから」
ナビはばつが悪そうに、両手を合わせてソノに頼み込んだ。彼は眉を潜めて困り果てた。
───困った。こういうときだけは、昔のあなたに戻るのだから。
「いいでしょう。許します」
「やった!ありがとう、カン様。やっぱり頼りにしていますね」
「ふふ、いつ切り捨てられることやら……」
ソノは久しぶりに、心の底から笑うヒャンユンとしてのナビを見た気がした。だがそれもすぐ消えてしまい、彼女は次の支度に取りかかり始めるのだった。
ナビのもう一つの仕事。それはソノの口利きで雇われた、素素樓の経営補佐だった。この一年で平市署の署長にまで昇進したユン・テウォンが、元々は素素樓の経営責任者だったのだが、近頃本職の方が忙しくなり、昼間はもっぱら留守にしていた。そこで、様々な情報が飛び交う世界である妓楼に首を突っ込もうと考えたナビは、敢えて正体をテウォンに明かした上でみごとその座に収まったのだ。
しかし、女性が経営補佐となると急に仕事が増える。ナビはこの日も、商団で行首をしていたころの経験を活かして、帳簿の整理と明細を出すのに追われていた。更には妓生たちの管理も、彼女が全て担った。
「ナビさん、次の白粉の入荷は?」
「まだ先よ。我慢してなさい」
「そんなぁ!ねぇ、紅は?」
「…………聞こえなかったのか?」
「はぁい………」
やれやれとナビは心の中でため息をついた。華やかな世界の裏は凄惨だと聞いていたが、まさかここまでとは。化粧代が破格の桁というだけでなく、誰がどの客を取るか。毎回そんな小競り合いの繰り返しだ。それでも、ナビにとって得るものは大きい。
彼女がここ素素樓で信頼を得るきっかけとなったのは、奇しくも剣術に役立つと言われて学んだ舞と、教養のための書画と楽器だった。妓楼の誰よりも強い関心を持っている姿に、最初はテウォンがいいと反発していた妓生たちも、次第に彼女を信頼するようになっていった。
「さて、今日はどなたが来られるのかしら?」
「ああ………平市署の関係で一組。それだけです」
「そう。では、私は営業中は表に出ませんので。宜しく」
業務連絡を淡々と伝え、部屋を出ようとしたナビをテウォンが止めた。
「ナビさん。どうして大行首様とトンチャンに事実を伝えないのですか?」
「……………馬鹿ね。片方に伝えれば巻き込むことに。もう片方に伝えれば、復讐の妨げになるわ」
「でも………あの二人は……」
「あなたも、オクニョやコン・ジェミョン大行首に本心を言っていない癖に。人のことを心配している場合じゃないでしょう?」
テウォンは、さも苦手そうな顔を浮かべてナビを見た。この一年であんな凄惨な出来事に巻き込まれれば、確かにここまで変わるのかもしれないが……
それでもテウォンはあの春の穏やかな陽射しのようだったヒャンユンが、真冬の氷のように変わってしまったことに戸惑いを隠すことが出来なかった。
しかしそんなナビにとって、最近一つの悩みがあった。それは最近やって来たミョンソンという妓生のことだ。初めはただの生意気な小娘程度にしか思っていなかったのだが、後日オクニョに会って初めてスリのマノクという娘で、彼女の手下であることを知った。だが、ナビにはその名前がどうも引っ掛かっていた。そして先日、ようやくあることを思い出した。
───あの小娘、私の髪飾りをすった奴と同じね。
忘れはしない、あの生意気な顔。ナビはため息をつくと、オクニョに世話を頼むと任されながらも苛立って立ち上がり、開店と同時にいつもいる場所へと向かうのだった。
ナビは素素樓の離れにある、殺風景な部屋に籠っていた。床には水墨画を描くための道具が並べられており、筆は紙の上を一心に滑っていた。
ミョンソン────マノクはそんな様子を少しでも覗いて動向を探ってやろうと思い立ち、縁側に座って中を覗こうと試みた。
マノクもマノクで、いつも何故か自分だけにはどこかつっけんどんなナビが気に入らなかった。しかも、彼女は自分の舞と書画、そして楽器の先生だった。表情も読めず、特徴もいまいち掴めない冷たい印象が先行し、マノクはいつの間にか偵察というよりも、協力者とは知らずナビのあら探しの方に力を入れていた。
すると、偶然にも夕食を持ってきたソジョンが、そんな意気込んでいるマノクを制止した。
「やめておきなさい、ミョンソン」
「は?何で?」
マノクを遠ざけてから、ソジョンはため息混じりに説明を始めた。
「───あの子は、ここに立ち入られるのを嫌がるの。だから私も具体的に何をしているのかは知らない。ただ、絵を描いているってことはキョハさんから聞いたことがあるけどね。」
「鬼…じゃなかった。先生が絵を?何の?」
密かにあだ名にしている言葉が出てしまい、マノクは慌てて口を塞いだ。だがソジョンはそれには気を留めず、そのまま話続けた。
「さぁ。一度だけ花と蝶の絵を見たことがあるくらいだわ。師任堂(サイムダン)に次ぐ……あるいは並ぶくらいの腕前よ」
「ふぅん…………」
ここで籠って描いている絵に、何かナビの弱味があるのかもしれない。マノクは唇を尖らせると、しめたと言わんばかりに勝ち誇った笑顔を浮かべた。
ナビは完成した絵を次々と床に並べていった。驚くことにその絵はどれも、トンチャンの絵だった。今にも動き出しそうな思い出の中と変わらない姿に、ナビは時折微笑みかけながら筆を走らせている。
────トンチャン。今は私が、唯一あなたを想っても許される時間なのよ。だから、今だけは無邪気であなたを一途に恋慕う幼いヒャンユンに戻らせて。
復讐のために全てを捨ててナビとなっても、やはりトンチャンへの想いは棄てきれなかった。それこそが自分の弱味であり、是正しなければならない部分であるとは知っていても、トンチャンを想う気持ちは一年前と全く変わっていない。そのことが彼女の胸をしめつけた。むしろより想いが強まっている自分が情けなく、ナビは戻れないその場所に想いを馳せることをいつしか止めた。その代わりこうして絵を描くことで全ての使命を忘れ、純粋に恋慕う気持ちを独り懐古しているのだ。
だが、今日はひと味違う展開となった。火急の用事が出来たソジョンが、帳簿を持って外からナビを呼んだのだ。
「───あの、ナビさん、ソジョンです。お邪魔したくはなかったのですが、帳簿の件でお聞きしたいことがありまして…」
「どうぞ。足元に気を付けてお入りを」
筆を走らせたままそう返事をしたナビの言葉が信じられず、ソジョンはもう一度入ってもいいということなのかと尋ねようとしたが、煩わせることも無粋なのかもしれないと思い、静かに入室した。
部屋には既に数枚の絵が完成された状態で置かれており、ナビの元にたどり着くには足の置き場を慎重に選ぶ必要があった。ソジョンの方に目を向けることなく、まるで気配でわかっているかのように、ナビは嘲笑しながらこう言った。
「別に、踏んでもらっても構わないですよ。ただ、その場合はソジョンさんの足袋が汚れますけどね」
ソジョンはいつも冷笑的なナビに、密かに恋慕うテウォンから聞いている過去のヒャンユンとしての面影が、微塵も残っていないことに身震いしていた。だが、今日は違った。どこか無邪気な一年前の世間知らずな娘のヒャンユンとしての顔が、ナビの瞳に僅かに宿っていた。ソジョンはようやく近くにたどり着くと、周囲を確認して床に座った。ふと目を凝らして見てみると、全ての絵が同じ人物の顔であることに気づいた。ソジョンがそのうちの一枚を手にとって眺めていると、ナビが鼻で笑いながら答えた。
「下手でしょう?」
「いえ、お上手です。まるで絵の中の人が本当に生きているみたいです」
「生きている人ですから、当然です」
「え?」
「あなたは以前、テウォンに自分が恋い焦がれるように、私も誰かを愛したことがあるかと聞きましたね」
ソジョンは目を丸くしてナビの顔を見た。ナビは自分の過ぎた日々のことを、まるで誰か別の人のことを語るような口調で話始めた。
「私もかつては、天真爛漫という言葉で形容されるほど幼かったのですよ。そして幼いが故に、許されぬ恋にも身を捧げました。決して出会ってはならない人と、出会ってしまいました。婚約までして、毎日が幸せでした。色褪せることなど永遠にないと、本気で信じていました。」
そこまでいうと、ナビは完成した絵を眺めるために筆を止め、代わりに作品を手に取った。絵の中のトンチャンは、笑っていた。だがナビの表情は無そのものだった。
「ですが、永遠ではなかったようです。代わりに幼く稚拙な恋心は、今でも名を変え全てを捨てた私の心の傷として、甘くも残酷に私を苦しめています。────これが、私の恋のお話でした。」
苦しげに笑いながら、ナビは絵を燃やそうと紙をろうそくの炎にちらつかせた。咄嗟にソジョンはナビの手を引っ張って、絵に引火する事態を未然に防いだ。
「何を……するのですか?あなたの好みの殿方では無いはず」
「ええ、好みではありません。ですが、ナビさんの想いと幸せな思い出が詰まったこの絵の中の殿方は、嫌いにはなれません」
結局好みではないのか、と失笑しつつもナビは絵を広げながらほんの少しだけ笑った。
「相変わらずの貶さず褒めず。上手いこと言いましたね、ソジョンさん」
「ナビさんの毒舌には負けます」
「私が毒舌なのではありません。皆さんが優しすぎるのです」
しかしふと、冗談を言い合っているうちにソジョンの中に疑問が生じた。
「あの……失礼ですが、この方は一体誰ですか?テウォンさんと同じ曰牌のようですが………」
テウォンと同じ曰牌、と聞いてナビは珍しく吹き出した。顔を真っ赤にして大笑いする姿に、ソジョンはこんな一面もあるのかと思わず感心した。
「ええ。確かに署長と同じ曰牌ですが、全く似ても似つかない別物です。まぁこの男が素素樓に来ない限り、ソジョンさんも私もお会いすることは無いでしょうが」
「万が一来られたら、お会いするんですか?」
「しないと思います。私が行けば、あの方の心にさざ波を立ててしまいますから。それに、もう一年です。私のことなど忘れ、寂しい独り身でしたから既に所帯でも持ったことでしょう」
その言葉にソジョンは思わずむきになった。
「どうしてそんなにあっさりと諦められるのですか?私なら無理です」
ナビはソジョンを見ていると過去の自分を思い出すようで面白いと思ったが、差し出がましくならないように言葉を慎重に選んで返答した。
「いつか、わかりますよ。その方が幸せに生きられる道に自分は居てはならないと知ったとき………そのときはきっと、ソジョンさんなら同じ答えを導き出すはずです」
「そんな日が来て欲しくはないものですね」
「ええ、誰も好きで望むものではありません。ただ、そう思って大切な人との毎日を過ごしていれば、もっと私は後悔せずに済んだのかもしれません。」
ナビは絵のしわを丁寧に延ばし、背の低い箱に入れて立ち上がると、画材を直して肩にかけて帳簿を受けとった。
「ソジョンさんには後悔して欲しくはないので、つい下らない話をしてしまいましたね。後でキョハさんとユン署長には帳簿の件をこってり叱りつけておきますから。では、失礼」
「あっ………ナビさん?ナビさ………」
ソジョンの制止も聞かず、ナビは部屋を出た。営業時間に外へ出るのは久しぶりだった。彼女は執務室に向かうために裏口に回ろうと試みたが、あいにく通用口に物が置いてあり、通ることが出来なかった。やれやれと首を横に振ると、ナビは渋々入口正面の中庭を横切った。
だが中庭の半ばに差し掛かったとき、誰かが彼女の腕をつかんだ。
「───何用です……………」
「ヒャンユン!」
顔をあげたナビは、目も口も見開いて相手を見た。
そう、引き留めた男はトンチャンだったのだ。
この世界は、どうしてこんなにも狭いのだろう。ナビは思慕の念と動揺を隠しながら、変わらぬ姿で居る想い人と見つめ合うのだった。
着いた場所は何かの訓練場で、その人はカン・ソノに迎えられた。
「ようこそ。」
「ただいま戻りました。……皆はそろっていますか?」
「ええ、揃っています。」
ソノに案内されて、訓練場の指揮台に登ったその人を見るや否や、訓練に励んでいた若者たちは皆手を止めて一礼した。全員の額には、蝶の形があしらわれている黒いはちまきが巻かれている。
顔を隠した人物───ファン・ナビは被り物を外すと、同じく蝶の形が施されたはちまき姿で一同を眺め、こう言った。
「皆、上出来だ。私が都に限らず、遠方まで自らの足で出向いた甲斐があった。」
ナビは指揮台から下りると、整列する数十人の若者たちの間を歩き始めた。
「───知っての通り、ここにあつまった同志は皆、チョン・ナンジョンとユン・ウォニョン、および小尹派によって全てを失い、途方にくれている者ばかり。そして、私もその一人だった。だが!奴等の好きに出来る朝鮮はもう終わりだ!我々が全てを終わらせよう。無念に死んでいった両親や兄弟姉妹、そして引き裂かれた恋人同士。はたまた失った輝かしい未来。必ず奴等に報復の時をもたらそう!」
ナビがそう言うと、若者たちは声を上げて賛同した。彼女は微笑むと、少し間をおいて告げた。
「───変えたければ、立ち上がれ。我らは『黒蝶団』だ」
歓声でその場が埋め尽くされる。ナビは訓練を受けた後、密かに地方へ自ら出向いて志を同じくする、聡明で有能な若者たちを男女問わず探していた。そして結成されたのが、官職に復帰した父イ・ジョンミョンを始めとした大尹派を後ろ楯とする『黒蝶団』だった。ナビはこの秘密組織の団長であり、皆を導く存在である。
ソノは満足げなナビを呼び止め、一言付け加えた。
「………いつまでお父上に黙っておくつもりですか?」
「出来る限りです。父はきっと、私がこうして活動することを許さぬでしょう。」
「しかし、私も胃が痛いです。」
「お願いします、カン様。お願いですから」
ナビはばつが悪そうに、両手を合わせてソノに頼み込んだ。彼は眉を潜めて困り果てた。
───困った。こういうときだけは、昔のあなたに戻るのだから。
「いいでしょう。許します」
「やった!ありがとう、カン様。やっぱり頼りにしていますね」
「ふふ、いつ切り捨てられることやら……」
ソノは久しぶりに、心の底から笑うヒャンユンとしてのナビを見た気がした。だがそれもすぐ消えてしまい、彼女は次の支度に取りかかり始めるのだった。
ナビのもう一つの仕事。それはソノの口利きで雇われた、素素樓の経営補佐だった。この一年で平市署の署長にまで昇進したユン・テウォンが、元々は素素樓の経営責任者だったのだが、近頃本職の方が忙しくなり、昼間はもっぱら留守にしていた。そこで、様々な情報が飛び交う世界である妓楼に首を突っ込もうと考えたナビは、敢えて正体をテウォンに明かした上でみごとその座に収まったのだ。
しかし、女性が経営補佐となると急に仕事が増える。ナビはこの日も、商団で行首をしていたころの経験を活かして、帳簿の整理と明細を出すのに追われていた。更には妓生たちの管理も、彼女が全て担った。
「ナビさん、次の白粉の入荷は?」
「まだ先よ。我慢してなさい」
「そんなぁ!ねぇ、紅は?」
「…………聞こえなかったのか?」
「はぁい………」
やれやれとナビは心の中でため息をついた。華やかな世界の裏は凄惨だと聞いていたが、まさかここまでとは。化粧代が破格の桁というだけでなく、誰がどの客を取るか。毎回そんな小競り合いの繰り返しだ。それでも、ナビにとって得るものは大きい。
彼女がここ素素樓で信頼を得るきっかけとなったのは、奇しくも剣術に役立つと言われて学んだ舞と、教養のための書画と楽器だった。妓楼の誰よりも強い関心を持っている姿に、最初はテウォンがいいと反発していた妓生たちも、次第に彼女を信頼するようになっていった。
「さて、今日はどなたが来られるのかしら?」
「ああ………平市署の関係で一組。それだけです」
「そう。では、私は営業中は表に出ませんので。宜しく」
業務連絡を淡々と伝え、部屋を出ようとしたナビをテウォンが止めた。
「ナビさん。どうして大行首様とトンチャンに事実を伝えないのですか?」
「……………馬鹿ね。片方に伝えれば巻き込むことに。もう片方に伝えれば、復讐の妨げになるわ」
「でも………あの二人は……」
「あなたも、オクニョやコン・ジェミョン大行首に本心を言っていない癖に。人のことを心配している場合じゃないでしょう?」
テウォンは、さも苦手そうな顔を浮かべてナビを見た。この一年であんな凄惨な出来事に巻き込まれれば、確かにここまで変わるのかもしれないが……
それでもテウォンはあの春の穏やかな陽射しのようだったヒャンユンが、真冬の氷のように変わってしまったことに戸惑いを隠すことが出来なかった。
しかしそんなナビにとって、最近一つの悩みがあった。それは最近やって来たミョンソンという妓生のことだ。初めはただの生意気な小娘程度にしか思っていなかったのだが、後日オクニョに会って初めてスリのマノクという娘で、彼女の手下であることを知った。だが、ナビにはその名前がどうも引っ掛かっていた。そして先日、ようやくあることを思い出した。
───あの小娘、私の髪飾りをすった奴と同じね。
忘れはしない、あの生意気な顔。ナビはため息をつくと、オクニョに世話を頼むと任されながらも苛立って立ち上がり、開店と同時にいつもいる場所へと向かうのだった。
ナビは素素樓の離れにある、殺風景な部屋に籠っていた。床には水墨画を描くための道具が並べられており、筆は紙の上を一心に滑っていた。
ミョンソン────マノクはそんな様子を少しでも覗いて動向を探ってやろうと思い立ち、縁側に座って中を覗こうと試みた。
マノクもマノクで、いつも何故か自分だけにはどこかつっけんどんなナビが気に入らなかった。しかも、彼女は自分の舞と書画、そして楽器の先生だった。表情も読めず、特徴もいまいち掴めない冷たい印象が先行し、マノクはいつの間にか偵察というよりも、協力者とは知らずナビのあら探しの方に力を入れていた。
すると、偶然にも夕食を持ってきたソジョンが、そんな意気込んでいるマノクを制止した。
「やめておきなさい、ミョンソン」
「は?何で?」
マノクを遠ざけてから、ソジョンはため息混じりに説明を始めた。
「───あの子は、ここに立ち入られるのを嫌がるの。だから私も具体的に何をしているのかは知らない。ただ、絵を描いているってことはキョハさんから聞いたことがあるけどね。」
「鬼…じゃなかった。先生が絵を?何の?」
密かにあだ名にしている言葉が出てしまい、マノクは慌てて口を塞いだ。だがソジョンはそれには気を留めず、そのまま話続けた。
「さぁ。一度だけ花と蝶の絵を見たことがあるくらいだわ。師任堂(サイムダン)に次ぐ……あるいは並ぶくらいの腕前よ」
「ふぅん…………」
ここで籠って描いている絵に、何かナビの弱味があるのかもしれない。マノクは唇を尖らせると、しめたと言わんばかりに勝ち誇った笑顔を浮かべた。
ナビは完成した絵を次々と床に並べていった。驚くことにその絵はどれも、トンチャンの絵だった。今にも動き出しそうな思い出の中と変わらない姿に、ナビは時折微笑みかけながら筆を走らせている。
────トンチャン。今は私が、唯一あなたを想っても許される時間なのよ。だから、今だけは無邪気であなたを一途に恋慕う幼いヒャンユンに戻らせて。
復讐のために全てを捨ててナビとなっても、やはりトンチャンへの想いは棄てきれなかった。それこそが自分の弱味であり、是正しなければならない部分であるとは知っていても、トンチャンを想う気持ちは一年前と全く変わっていない。そのことが彼女の胸をしめつけた。むしろより想いが強まっている自分が情けなく、ナビは戻れないその場所に想いを馳せることをいつしか止めた。その代わりこうして絵を描くことで全ての使命を忘れ、純粋に恋慕う気持ちを独り懐古しているのだ。
だが、今日はひと味違う展開となった。火急の用事が出来たソジョンが、帳簿を持って外からナビを呼んだのだ。
「───あの、ナビさん、ソジョンです。お邪魔したくはなかったのですが、帳簿の件でお聞きしたいことがありまして…」
「どうぞ。足元に気を付けてお入りを」
筆を走らせたままそう返事をしたナビの言葉が信じられず、ソジョンはもう一度入ってもいいということなのかと尋ねようとしたが、煩わせることも無粋なのかもしれないと思い、静かに入室した。
部屋には既に数枚の絵が完成された状態で置かれており、ナビの元にたどり着くには足の置き場を慎重に選ぶ必要があった。ソジョンの方に目を向けることなく、まるで気配でわかっているかのように、ナビは嘲笑しながらこう言った。
「別に、踏んでもらっても構わないですよ。ただ、その場合はソジョンさんの足袋が汚れますけどね」
ソジョンはいつも冷笑的なナビに、密かに恋慕うテウォンから聞いている過去のヒャンユンとしての面影が、微塵も残っていないことに身震いしていた。だが、今日は違った。どこか無邪気な一年前の世間知らずな娘のヒャンユンとしての顔が、ナビの瞳に僅かに宿っていた。ソジョンはようやく近くにたどり着くと、周囲を確認して床に座った。ふと目を凝らして見てみると、全ての絵が同じ人物の顔であることに気づいた。ソジョンがそのうちの一枚を手にとって眺めていると、ナビが鼻で笑いながら答えた。
「下手でしょう?」
「いえ、お上手です。まるで絵の中の人が本当に生きているみたいです」
「生きている人ですから、当然です」
「え?」
「あなたは以前、テウォンに自分が恋い焦がれるように、私も誰かを愛したことがあるかと聞きましたね」
ソジョンは目を丸くしてナビの顔を見た。ナビは自分の過ぎた日々のことを、まるで誰か別の人のことを語るような口調で話始めた。
「私もかつては、天真爛漫という言葉で形容されるほど幼かったのですよ。そして幼いが故に、許されぬ恋にも身を捧げました。決して出会ってはならない人と、出会ってしまいました。婚約までして、毎日が幸せでした。色褪せることなど永遠にないと、本気で信じていました。」
そこまでいうと、ナビは完成した絵を眺めるために筆を止め、代わりに作品を手に取った。絵の中のトンチャンは、笑っていた。だがナビの表情は無そのものだった。
「ですが、永遠ではなかったようです。代わりに幼く稚拙な恋心は、今でも名を変え全てを捨てた私の心の傷として、甘くも残酷に私を苦しめています。────これが、私の恋のお話でした。」
苦しげに笑いながら、ナビは絵を燃やそうと紙をろうそくの炎にちらつかせた。咄嗟にソジョンはナビの手を引っ張って、絵に引火する事態を未然に防いだ。
「何を……するのですか?あなたの好みの殿方では無いはず」
「ええ、好みではありません。ですが、ナビさんの想いと幸せな思い出が詰まったこの絵の中の殿方は、嫌いにはなれません」
結局好みではないのか、と失笑しつつもナビは絵を広げながらほんの少しだけ笑った。
「相変わらずの貶さず褒めず。上手いこと言いましたね、ソジョンさん」
「ナビさんの毒舌には負けます」
「私が毒舌なのではありません。皆さんが優しすぎるのです」
しかしふと、冗談を言い合っているうちにソジョンの中に疑問が生じた。
「あの……失礼ですが、この方は一体誰ですか?テウォンさんと同じ曰牌のようですが………」
テウォンと同じ曰牌、と聞いてナビは珍しく吹き出した。顔を真っ赤にして大笑いする姿に、ソジョンはこんな一面もあるのかと思わず感心した。
「ええ。確かに署長と同じ曰牌ですが、全く似ても似つかない別物です。まぁこの男が素素樓に来ない限り、ソジョンさんも私もお会いすることは無いでしょうが」
「万が一来られたら、お会いするんですか?」
「しないと思います。私が行けば、あの方の心にさざ波を立ててしまいますから。それに、もう一年です。私のことなど忘れ、寂しい独り身でしたから既に所帯でも持ったことでしょう」
その言葉にソジョンは思わずむきになった。
「どうしてそんなにあっさりと諦められるのですか?私なら無理です」
ナビはソジョンを見ていると過去の自分を思い出すようで面白いと思ったが、差し出がましくならないように言葉を慎重に選んで返答した。
「いつか、わかりますよ。その方が幸せに生きられる道に自分は居てはならないと知ったとき………そのときはきっと、ソジョンさんなら同じ答えを導き出すはずです」
「そんな日が来て欲しくはないものですね」
「ええ、誰も好きで望むものではありません。ただ、そう思って大切な人との毎日を過ごしていれば、もっと私は後悔せずに済んだのかもしれません。」
ナビは絵のしわを丁寧に延ばし、背の低い箱に入れて立ち上がると、画材を直して肩にかけて帳簿を受けとった。
「ソジョンさんには後悔して欲しくはないので、つい下らない話をしてしまいましたね。後でキョハさんとユン署長には帳簿の件をこってり叱りつけておきますから。では、失礼」
「あっ………ナビさん?ナビさ………」
ソジョンの制止も聞かず、ナビは部屋を出た。営業時間に外へ出るのは久しぶりだった。彼女は執務室に向かうために裏口に回ろうと試みたが、あいにく通用口に物が置いてあり、通ることが出来なかった。やれやれと首を横に振ると、ナビは渋々入口正面の中庭を横切った。
だが中庭の半ばに差し掛かったとき、誰かが彼女の腕をつかんだ。
「───何用です……………」
「ヒャンユン!」
顔をあげたナビは、目も口も見開いて相手を見た。
そう、引き留めた男はトンチャンだったのだ。
この世界は、どうしてこんなにも狭いのだろう。ナビは思慕の念と動揺を隠しながら、変わらぬ姿で居る想い人と見つめ合うのだった。