2、甦蝶の羽ばたき
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トンチャンが釈放されたのは、ヒャンユンの葬儀の日だった。遺体が見つからないため、空の棺が出された。ジェミョンは空の棺と同じくらいに空虚感を覚え、終始黙って口を開けた状態で座っていた。見ていられない惨状と、まだ死んだと信じられないトンチャンは、耐えきれず葬儀には出ずそのまま飲み屋に向かおうとした。だが、それをトチが止めた。その手には包みと手紙が握られている。
「……トンチャン。あのな…………実は、その………」
「なんだよ。」
「………ヒャンユンお嬢様がこれをお前にって、俺に託したんだ。それと…………」
遺品を手にとって呆然とするトンチャンに、トチは続けた。
「ずっと、いつまでも愛してる。その気持ちだけは永遠に変わらない。………そう伝えてくれって」
「ヒャンユン……………っ…………!!」
トンチャンは受け取った品を抱き締めると、その場に崩れた。
「何で……………っ!何でお前じゃなきゃ…………お前じゃなきゃ駄目だったんだ!?何で…………何でだよぉ………何で…………こんな……………酷すぎる…………何で……………」
「トンチャン………」
「俺が………俺が悪いんだ………俺があんなことを言ったから………俺に会おうと外出しなければ、こんなことには……」
トンチャンは震える手で手紙を取り出した。それはヒャンユンから初めて貰った手紙だった。
『トンチャン殿
昨日まではあなたにただ会いたいと思っていました。でも、今はあなたに、謝りたいと思っています。ごめんなさい。会って、どうして私が躊躇ったのかを説明します。全て、あなたに打ち明けます。自分勝手でごめんなさい。あなたになら、きっと打ち明けられる気がします。もしそうしてくださるのなら、明日私の家へ来てください。いつまでもお待ちしています。
あなたに服を作りました。お気に召したら着てください。
あなただけを想っています。いつまでも。』
「ヒャンユン……………」
トンチャンが包みを開けると、そこにはえんじ色を基調とした、薄い群青色の服が入っていた。縫い目に指先を這わせ、彼は我慢ならずむせた。
「済まない…………謝るのは………俺の方だ…………済まなかった………………ごめん…………」
顔を歪めて泣くトンチャンを見て、トチも後悔の念に駈られていた。
────あの日、お嬢様を引き留めておけば。こんなことには…………
「ヒャンユン……………ヒャンユン…………愛してる」
言葉と共に、涙が溢れる。だが、もうそれを伝える相手も、受け止めてくれる相手もいない。
また独りに戻ってしまっただけなのに。トンチャンは堪えがたい孤独と激しい後悔に苛まれた。そして、その日から彼の世界は色と秩序を失った。
目を閉じた。浮かんでくるのは養父ジェミョンの笑顔だった。
帰りたい。あの場所に帰りたい。
だが、戻ることは許されない。鋭いまなざしで顔をあげたヒャンユンは部屋を出て、ソノの隣に座った。
「…………カン様。チョン・ナンジョンとユン・ウォニョンに、復讐したいです」
「お嬢様………?」
「私を二度殺し、人生を二度壊した奴等に、復讐したいです。」
真剣な表情に、ソノはため息をついた。
「……剣の心得も、経験もないあなたにそれは……」
「カン様が先生になってください。もう私が、私として生きられないのなら………どこにも帰ることが出来ないのなら、復讐に必要なものは全て手に入れます。何年かかろうと構いません。厳しい道でも構いません。私は…」
───私は、あの場所に戻りたい。不器用でも優しい養父が待っていて、ひたむきで真っ直ぐな愛を与えてくれる想い人が待つあの場所に。
ソノは少し考えると、部屋から武術服と剣を持ってきてヒャンユンの前に置いた。
「では、覚悟をお決めに。後戻りはできません」
「………はい」
ヒャンユンはいざ目の前に置かれると、わずかに迷う自分が居ることを知った。装身具に伸ばした手が震える。
部屋に戻ると、彼女は黒の武術服と向き合うように座った。そしてすぐそばに置いてある鏡に映る自分を見た。
鏡の中に居るのは誰も守れず、誰も救えない非力な娘だった。誰も愛し抜けず、誰も信じきれなかった弱い自分だった。
彼女は目を閉じ、懐かしい日々を思い出した。父と慕った人に初めて絵を描いて渡し、喜んでもらったこと。実母に花を摘んで贈ったときの笑顔。そして、生涯唯一愛した男になるであろうその人が、手を握って笑いかけてくれたことを。
ヒャンユンは目を開けると、三つ編みを結んでいる布を手に取った短刀で切り棄て、ペッシテンギも同じく切り落とした。長くたおやかで艶やかな黒髪が、夜空のように背中一面に広がる。そして目の前に置いてある紐で、毛束を全て後頭部に高く結び上げた。迷いなくはちまきを広げ、ヒャンユンは額を通してそれを巻き付けた。それから最後に、蝶のコチを外した飾りの上に置いた。
彼女はもう、迷い蝶では無くなっていた。
ヒャンユンはどのような決断を下すのだろうか。そんなことを考えながら体探人の頃と同じ姿をして、ソノは鞘に入った剣を立てて寄りかかっていた。
不意に戸が開き、ソノは立ち上がった。そして、変わり果てたヒャンユンの姿に驚いた。それは武術服のせいではなく、彼女が醸し出す雰囲気から来るものだった。商人の娘というよりは刺すような殺意をその身に纏い、視線は射るように鋭く、強い決意が込められていた。
ヒャンユンは鞘を持つと、ソノの目の前に水平にして突き出しこう言った。
「────私を、訓練してください。そして、私の全てを奪った輩どもに二度と何も奪われぬために、教えを乞います」
ソノは引き下がりそうもないヒャンユンにため息をつくと、何も言わず承諾した。
「承知した。………では、ヒャンユン殿……」
「もう、その名はお使い無きよう」
ヒャンユンは少し考えると、夜空を見上げた。ふと漆黒を引っ掻いたような三日月の前を、一匹の蝶が横切る。そして、おもむろに思い出した。
────お前は、蝶のようだった。
ヒャンユンは少しだけ微笑むと、他人事のようにこう言った。
「─────ナビ。ファン・ナビとお呼びください」
「蝶 ………?」
「はい。ナビです。」
ソノは覚悟を込めてため息をつくと、静かに頷いた。
「では、ナビ。そなたは今日からファン・ナビだ。それで、異存はないか?」
「───はい。そう致します」
ヒャンユンは夜空を仰ぎ、目を閉じて少し肌寒い夜風に身を委ねた。
この日、ヒャンユンは死んだ。そして代わりに、復讐に生きることを選んだ冷淡な剣士、ファン・ナビが生まれた。
一方、トンチャンは酒と喧嘩に明け暮れる日々を過ごしていた。その荒れっぷりは、ミン・ドンジュですら手がつけられないほどのものだった。
今日も七牌の曰牌と殴りあい、そこから泥酔してたどり着いたのは、誰も居ない冷たい家だった。敷きっぱなしの布団に顔から倒れこむと、トンチャンは泣いた。いや、正確にはもはや涙も出なかった。苦しくて、苦しくて、むせることしか出来なかった。
「ヒャンユン…………会いたい………お前に、会いたいんだ………今までで一番、お前に会いたい………」
わかっているはずだった。彼女がいかに自分の人生を暖かなものにしていたか。だが、失って本当に暖かだったことにトンチャンは気づいた。
────こんな人生、もうどうだっていい。お前が居なけりゃ、全うに生きても仕方がない。チョン・ナンジョン様に仕えて、今まで通り生きていく。それでいいんだ。それできっと、いつか忘れられる……………
トンチャンは目を閉じて、眠りについた。だが辛さのあまりに忘れようとする防衛本能に反して、ヒャンユンの一挙一動が恐ろしいほど鮮明に甦ってくる。
手を伸ばせば届きそうな幻想。夢でもいい。幻覚でもいい。死んでもいい。もう一度、抱きしめたい。そんな叶わぬ想いを胸に、トンチャンは夢の世界に落ちていくのだった。
ヒャンユン───改めファン・ナビは、ソノの厳しい訓練を受けていた。木刀が弾き飛ばされることはもちろん、反動で伝わる痛みに耐えきれず、ナビは何度も地面に倒れた。想い人が傷つくその度、自分の痛みのように感じていたソノだったが、彼女の執念を叶えるべく敢えて厳しく当たっていた。
「立ち上がれ、ナビ。こんなことでは、チョン・ナンジョンとユン・ウォニョンは倒せん。それどころか、町のごろつき一人も倒せないぞ」
「───続けます!」
ナビは木刀を支えにして立ち上がった。彼女はもう一度握り直し、教えて貰った通りに足を踏み込み、飛びかかった。
そして二ヶ月かけて、木刀が真剣に、訓練相手が一人から二人に変わった。剣さばきは並みの剣士を圧倒するほどに鋭く変化しており、ソノが連れてきた元体探人の二人が相手でも手に余るまでに成長していた。迷いのないその一撃は時に相手を惑わせ、怯ませた。
ナビは素早く回り込み、この日初めて相手を倒した。顔を上げて師のカン・ソノを見るその眼差しには、もはや一点の曇りも迷いも、そしてかつての天真爛漫な面影は残っていなかった。
「……トンチャン。あのな…………実は、その………」
「なんだよ。」
「………ヒャンユンお嬢様がこれをお前にって、俺に託したんだ。それと…………」
遺品を手にとって呆然とするトンチャンに、トチは続けた。
「ずっと、いつまでも愛してる。その気持ちだけは永遠に変わらない。………そう伝えてくれって」
「ヒャンユン……………っ…………!!」
トンチャンは受け取った品を抱き締めると、その場に崩れた。
「何で……………っ!何でお前じゃなきゃ…………お前じゃなきゃ駄目だったんだ!?何で…………何でだよぉ………何で…………こんな……………酷すぎる…………何で……………」
「トンチャン………」
「俺が………俺が悪いんだ………俺があんなことを言ったから………俺に会おうと外出しなければ、こんなことには……」
トンチャンは震える手で手紙を取り出した。それはヒャンユンから初めて貰った手紙だった。
『トンチャン殿
昨日まではあなたにただ会いたいと思っていました。でも、今はあなたに、謝りたいと思っています。ごめんなさい。会って、どうして私が躊躇ったのかを説明します。全て、あなたに打ち明けます。自分勝手でごめんなさい。あなたになら、きっと打ち明けられる気がします。もしそうしてくださるのなら、明日私の家へ来てください。いつまでもお待ちしています。
あなたに服を作りました。お気に召したら着てください。
あなただけを想っています。いつまでも。』
「ヒャンユン……………」
トンチャンが包みを開けると、そこにはえんじ色を基調とした、薄い群青色の服が入っていた。縫い目に指先を這わせ、彼は我慢ならずむせた。
「済まない…………謝るのは………俺の方だ…………済まなかった………………ごめん…………」
顔を歪めて泣くトンチャンを見て、トチも後悔の念に駈られていた。
────あの日、お嬢様を引き留めておけば。こんなことには…………
「ヒャンユン……………ヒャンユン…………愛してる」
言葉と共に、涙が溢れる。だが、もうそれを伝える相手も、受け止めてくれる相手もいない。
また独りに戻ってしまっただけなのに。トンチャンは堪えがたい孤独と激しい後悔に苛まれた。そして、その日から彼の世界は色と秩序を失った。
目を閉じた。浮かんでくるのは養父ジェミョンの笑顔だった。
帰りたい。あの場所に帰りたい。
だが、戻ることは許されない。鋭いまなざしで顔をあげたヒャンユンは部屋を出て、ソノの隣に座った。
「…………カン様。チョン・ナンジョンとユン・ウォニョンに、復讐したいです」
「お嬢様………?」
「私を二度殺し、人生を二度壊した奴等に、復讐したいです。」
真剣な表情に、ソノはため息をついた。
「……剣の心得も、経験もないあなたにそれは……」
「カン様が先生になってください。もう私が、私として生きられないのなら………どこにも帰ることが出来ないのなら、復讐に必要なものは全て手に入れます。何年かかろうと構いません。厳しい道でも構いません。私は…」
───私は、あの場所に戻りたい。不器用でも優しい養父が待っていて、ひたむきで真っ直ぐな愛を与えてくれる想い人が待つあの場所に。
ソノは少し考えると、部屋から武術服と剣を持ってきてヒャンユンの前に置いた。
「では、覚悟をお決めに。後戻りはできません」
「………はい」
ヒャンユンはいざ目の前に置かれると、わずかに迷う自分が居ることを知った。装身具に伸ばした手が震える。
部屋に戻ると、彼女は黒の武術服と向き合うように座った。そしてすぐそばに置いてある鏡に映る自分を見た。
鏡の中に居るのは誰も守れず、誰も救えない非力な娘だった。誰も愛し抜けず、誰も信じきれなかった弱い自分だった。
彼女は目を閉じ、懐かしい日々を思い出した。父と慕った人に初めて絵を描いて渡し、喜んでもらったこと。実母に花を摘んで贈ったときの笑顔。そして、生涯唯一愛した男になるであろうその人が、手を握って笑いかけてくれたことを。
ヒャンユンは目を開けると、三つ編みを結んでいる布を手に取った短刀で切り棄て、ペッシテンギも同じく切り落とした。長くたおやかで艶やかな黒髪が、夜空のように背中一面に広がる。そして目の前に置いてある紐で、毛束を全て後頭部に高く結び上げた。迷いなくはちまきを広げ、ヒャンユンは額を通してそれを巻き付けた。それから最後に、蝶のコチを外した飾りの上に置いた。
彼女はもう、迷い蝶では無くなっていた。
ヒャンユンはどのような決断を下すのだろうか。そんなことを考えながら体探人の頃と同じ姿をして、ソノは鞘に入った剣を立てて寄りかかっていた。
不意に戸が開き、ソノは立ち上がった。そして、変わり果てたヒャンユンの姿に驚いた。それは武術服のせいではなく、彼女が醸し出す雰囲気から来るものだった。商人の娘というよりは刺すような殺意をその身に纏い、視線は射るように鋭く、強い決意が込められていた。
ヒャンユンは鞘を持つと、ソノの目の前に水平にして突き出しこう言った。
「────私を、訓練してください。そして、私の全てを奪った輩どもに二度と何も奪われぬために、教えを乞います」
ソノは引き下がりそうもないヒャンユンにため息をつくと、何も言わず承諾した。
「承知した。………では、ヒャンユン殿……」
「もう、その名はお使い無きよう」
ヒャンユンは少し考えると、夜空を見上げた。ふと漆黒を引っ掻いたような三日月の前を、一匹の蝶が横切る。そして、おもむろに思い出した。
────お前は、蝶のようだった。
ヒャンユンは少しだけ微笑むと、他人事のようにこう言った。
「─────ナビ。ファン・ナビとお呼びください」
「
「はい。ナビです。」
ソノは覚悟を込めてため息をつくと、静かに頷いた。
「では、ナビ。そなたは今日からファン・ナビだ。それで、異存はないか?」
「───はい。そう致します」
ヒャンユンは夜空を仰ぎ、目を閉じて少し肌寒い夜風に身を委ねた。
この日、ヒャンユンは死んだ。そして代わりに、復讐に生きることを選んだ冷淡な剣士、ファン・ナビが生まれた。
一方、トンチャンは酒と喧嘩に明け暮れる日々を過ごしていた。その荒れっぷりは、ミン・ドンジュですら手がつけられないほどのものだった。
今日も七牌の曰牌と殴りあい、そこから泥酔してたどり着いたのは、誰も居ない冷たい家だった。敷きっぱなしの布団に顔から倒れこむと、トンチャンは泣いた。いや、正確にはもはや涙も出なかった。苦しくて、苦しくて、むせることしか出来なかった。
「ヒャンユン…………会いたい………お前に、会いたいんだ………今までで一番、お前に会いたい………」
わかっているはずだった。彼女がいかに自分の人生を暖かなものにしていたか。だが、失って本当に暖かだったことにトンチャンは気づいた。
────こんな人生、もうどうだっていい。お前が居なけりゃ、全うに生きても仕方がない。チョン・ナンジョン様に仕えて、今まで通り生きていく。それでいいんだ。それできっと、いつか忘れられる……………
トンチャンは目を閉じて、眠りについた。だが辛さのあまりに忘れようとする防衛本能に反して、ヒャンユンの一挙一動が恐ろしいほど鮮明に甦ってくる。
手を伸ばせば届きそうな幻想。夢でもいい。幻覚でもいい。死んでもいい。もう一度、抱きしめたい。そんな叶わぬ想いを胸に、トンチャンは夢の世界に落ちていくのだった。
ヒャンユン───改めファン・ナビは、ソノの厳しい訓練を受けていた。木刀が弾き飛ばされることはもちろん、反動で伝わる痛みに耐えきれず、ナビは何度も地面に倒れた。想い人が傷つくその度、自分の痛みのように感じていたソノだったが、彼女の執念を叶えるべく敢えて厳しく当たっていた。
「立ち上がれ、ナビ。こんなことでは、チョン・ナンジョンとユン・ウォニョンは倒せん。それどころか、町のごろつき一人も倒せないぞ」
「───続けます!」
ナビは木刀を支えにして立ち上がった。彼女はもう一度握り直し、教えて貰った通りに足を踏み込み、飛びかかった。
そして二ヶ月かけて、木刀が真剣に、訓練相手が一人から二人に変わった。剣さばきは並みの剣士を圧倒するほどに鋭く変化しており、ソノが連れてきた元体探人の二人が相手でも手に余るまでに成長していた。迷いのないその一撃は時に相手を惑わせ、怯ませた。
ナビは素早く回り込み、この日初めて相手を倒した。顔を上げて師のカン・ソノを見るその眼差しには、もはや一点の曇りも迷いも、そしてかつての天真爛漫な面影は残っていなかった。