終章、誰かを守る剣
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試験の順番を待ちながら、トンチャンはやきもきしていた。団員たちは皆、自分がチョン・ナンジョン商団の者だと知っているのか、強烈に刺さる視線を向けてくる。口頭試問のための書類を書く手が震える。彼は自分の利き手を空いたほうの手で押さえながら、やっとのことで書類を完成させた。
────緊張なんかしてどうするっていうんだ。問題ねぇ。俺は俺だ。
彼は提出に行く途中で、部屋からソノに怒りを露にする人物の声を聞いた。
────ヒャンユンだ!
「カン様。トンチャンを巻き込むとは、一体どういうおつもりですか?あの人を危険に晒すようなことは、私が許しません!……いえ、こんなことに巻き込んでしまった私が許せません。どうしようもなく、後悔しています。あの人に真実を、正体を伝えてしまったことを」
「ですが、お嬢様にはあの男が必要です」
私ではなく。ソノは必死にこの一言を飲み込んだ。ヒャンユンはそれでも納得がいかないと啖呵を切って、そのまま部屋を出た。そして、運悪くトンチャンと居合わせてしまった。
「あ……」
何も言えず、ヒャンユンは黙って隣を過ぎようとした。だが、トンチャンがそれを阻んだ。
「俺が、あなたを守ります。俺にしかできないと、真剣にそう思います。ですから……」
「巻き込みたくなかった。ただ……それだけなの。ただ、本当にそれだけだった」
それでも、トンチャンには引く様子はない。だからこそ、ヒャンユンは敢えて何も言わなかった。心の中ではひとえに彼が試験に落ちるように祈りながら、その隣をすっと通りすぎるのだった。
簡単な口頭試問を終えたトンチャンの姿は弓場にあった。今のところ、彼の実力を上回る者は居ない。だが、弓の勝因が自分との戦いに勝つことであると知っている彼の動悸はなかなか収まらない。そんなトンチャンを見ていたソノは、声をかけようと立ち上がった。しかし、意外にもヒャンユンに制されて彼は席についた。
「往生際の悪い方だ。私が見込んだ男ですよ。落ちることはまずない」
「ええ、存じ上げています。だからこそ、手を貸してはなりません。どれ程孤独でも、不安でも、それと向き合わねば生き残ることは出来ません」
ヒャンユンは指を組んで、黙ってトンチャンを見つめた。彼の決意は変えられない。ならば見守るしかない、そう思ったのだ。
「始めよ!」
弓を与えられ、トンチャンは深呼吸した。すぐにつがえようとはせず、一呼吸おいてから矢を手に取った。
──────この一閃が、俺をあの人へと近づけてくれる。
「トンチャン……」
そして、弦を引いた。その横顔は、今までヒャンユンすらも見たことがない魅力に溢れていた。鷹のように狙いを定め、彼は弓を放った。
的に当たるまでは一瞬のはずなのに、お互いひどく長く感じた。そして、試験官の声が響く。
「命中です!」
結果を待たずして、トンチャンはもう一本放った。ソノに見せたままの通り、その矢は先程のものを切り裂くようにして同じ場所に命中した。これには他の団員たちからも歓声が上がった。
「なっ……矢を矢で射たというの?」
「そうです。あの男には、卓越した才能があるのです」
ヒャンユンは再びトンチャンに視線を戻した。初めて会ったときとは何かが違う顔つきが、彼に起きた変化と決意の全てを物語っていた。
「……私が、彼を変えてしまった」
「あなたのせいではない。チョン・ナンジョンが変えたのです。あなたもトンチャンも、あやつらが変えてしまった」
ヒャンユンにはもう、返す言葉もなかった。愛する人の変化にただ、謝罪の念で心が張り裂けそうになるのだった。
団員との手合わせも終了し、残りは最終試験となった。事前にソノから恐らくヒャンユンとの手合わせになると知らされていた彼は、一心に剣の点検を行っていた。
そして最終試験の内容を知らせるため、ヒャンユンが黒蝶団の武術服で候補者たちの前に姿を現した。漆黒に染め上げられた服を身に纏っている彼女には、普段の雰囲気とはうって代わり、団長としての威厳があった。
「──────よくやった。ここまで残れば、団の中でも相当な腕利きとして活躍できよう。だがそなたたちに真に必要なものは、実力だけではない」
そう言うと、ヒャンユンは剣を置いて微笑んだ。
「最終試験は、私と息を合わせてて戦うことだ」
ソノは当惑の色を露にしながら、話し終えてからヒャンユンのもとへ急行した。
「どういうことですか!?最終試験を変えてしまわれるなんて…」
「私は、あの人を信じています。だからこそ、敢えて試験を変えました」
「つまり……?」
「護衛に必要なことは、優れた剣技ではありません。むしろ、主人と息を合わせて戦い、その意図を汲み取り、変則的な動きにすら合わせられる力なのです。また、主人の無謀な行動を止める勇気も必要です」
ソノは笑みを漏らしているヒャンユンを見て、ようやく意図を知った。そしてその真意はまた、彼を傷つけた。
「それができるのは……あなたの呼吸に合わせ、初めから一つだったかのように動ける者は、あの男しかいないと……そうお思いなのですか?」
「ええ。もしトンチャンよりもそれに優れた者が居れば、仕方がありません。ですが、彼なら大丈夫でしょう」
「──────巻き込みたくないと、仰っていたのに?」
ソノは不意に、自分が酷く意地悪な質問をしてしまったことに気づいた。それはヒャンユンの表情を見ればわかる。彼女はとても哀しげで、消えてしまいそうな視線を床に向けていた。そういう時の彼女はいつも、酷く傷ついて葛藤をしている。ソノは誰よりもヒャンユンが苦しいときに側に寄り添ってきた。全てを与えてきた。
例えそれが、見返りの決して望めないものだったとしても。
「私では、いけないのですか?」
「……え?」
ソノはヒャンユンの両手を握ってそう言った。初めて見せる師の表情に、彼女は困惑している。
「私なら、何も失うものはありません。私を護衛としてお側に置いてくだされば、あなたは苦しまずに済む。誰よりもあなたを解っているつもりです」
そこでようやくヒャンユンはソノの眼差しが、トンチャンが自分を見つめるときと同じものであることに気づいてしまった。だとすれば、彼は何と苦しい決断をしたのだろうか。
だが、それでもソノは自身の迷いと苦しみを自らの手で絶ちきることを選んだ。ヒャンユンの手を離し、彼は何事もなかったかのように師匠の眼差しで微笑んだ。
「お忘れを。万が一、誰も候補が居なくなる場合の話です」
「カン様……」
「さぁ、試験が始まります。早く行って下さい」
震える声で、ソノは背を向けながら呟くように言った。ヒャンユンはその背中にまた一つ傷を背負わせた気がして、無力でどうにもならない自分を恨むのだった。
最終試験がおこわなわれている間、トンチャンは自分の番が来るまで他の者たちの動きを見ていた。皆ヒャンユンの傍でついていた団員なのに、その動きと呼吸が全く合っていない。試験官たちのため息が聞こえてくる。そしていよいよ最後の一人になったトンチャンが立ち上がり、ヒャンユンのもとへ向かった。
「……緊張してる?」
「ああ……まぁ、それなりに。……試験前にこんな私的な会話はいいんですか?」
「馬鹿。試験前に全員と話をするの。───何か、話しておきたいことは?」
トンチャンは少し考えると、掌を目の前に差し出してこう言った。
「手を、俺の手と重ねてくれませんか?」
「……いいけど」
ヒャンユンはそう言いながらも、恐る恐る手を重ねた。思えば意識のあるトンチャンの手に、こうして自分から触れたのは初めてだった。自分の掌から伝わってくる温もり、感触、呼吸、そして本来この程度では感じるはずのない鼓動。きっとトンチャンにも同じものが伝わっているのだろうと思いながら、ヒャンユンは真っ直ぐに彼を見つめた。
「…………信じてる。あなたならきっと出来るはずだから」
「……何故?」
ヒャンユンは手を離すと、トンチャンと背中合わせになって剣を抜いた。試験用に待機している団員たちが二人を囲む。
「──────あなたは、誰よりも私を知っているから」
それを聞いて口許を綻ばせたトンチャンも、漏っていた剣を抜いて構えた。試験は、ヒャンユンが動き出した瞬間から始まる。動きを合わせねばと必死に彼女を見て待機していた他の候補者たちとは違って、トンチャンは全く逆方向を見ていた。
そして、静寂が会場を支配し始めた頃にヒャンユンが動いた。それから会場はすぐに驚嘆の声で埋め尽くされた。
トンチャンはヒャンユンとほぼ同時に足を踏み出したのだ。彼女の後ろ側を守っている彼は、視線さえ送ることなくヒャンユンの動きに合わせていた。呼吸も完璧だ。それを誰よりも実感していたのは、隣で戦っているヒャンユン自身だった。
──────すごい……!まさかここまで合わせてくるなんて。
信じられないという思いよりもむしろ、彼女は目の前で戦ってくれているトンチャンに頼もしさを感じていた。だが同時に、この背中に甘えたままではいけないという自戒も彼女を駆け抜けた。だから、敢えてヒャンユンは突然トンチャンの隣から離れた。絶対に予測がつかないように、壁を使って別方向へ着地したのだ。
それでも、トンチャンは気がつけば隣にいた。しかもヒャンユンの考えなどお見通しと言いたげな表情を浮かべている。
「……どうやら、本当についてくるようね」
「ああ。俺はしぶといぜ」
そして、そんな二人に最後の難関がやって来た。四人の屈強な兵の間をぬって、全員倒すことが試験終了の合図なのだ。ところがヒャンユンは小柄なため、普通では倒せない。そんなとき、トンチャンが肩を差し出してこう言った。
「──────俺の肩に乗ってください」
「え……?」
「腕をつかんで、俺が反動で持ち上げます。そのときに手を離しますので、肩を蹴って飛んでください」
ヒャンユンは戸惑った。だが、トンチャンは微笑んでいる。
「──────俺を、信じてください」
その一言に、ヒャンユンは覚悟を決めた。彼女は差し出した腕を掴み、地面を軽く蹴った。腕力には自信のあるトンチャンは、蝶のように軽いヒャンユンをいとも軽々と持ち上げた。そして肩に足を乗せた彼女は勢いをつけて跳躍し、見事兵の意表をつくことに成功した。その間に走り込んだトンチャンは、力づくで道を作ってヒャンユンと共に兵たちを倒し始めた。
ヒャンユンに足りないところはトンチャンが補い、トンチャンに足りないところはヒャンユンが補う。正に最初から一つの魂だったかのような、全く乱れぬ動きをこなす二人を見ていられず、ソノは空を仰いだ。
─────────さようなら、お嬢様。私では、やはり駄目でした。
トンチャンとヒャンユンが背中合わせに立っている。その表情は、とても清々しい程に澄んでいるのだった。
試験結果が出た。ヒャンユンは名簿を見て含み笑いを溢すと、一人ずつ名前を読み上げ始めた。
「ソン・グァンソル、ファン・ミョン、チョン・ギョン、ペク・オンス。案内する部屋へ行きなさい」
それはトンチャンを除く候補者全員だった。彼は自分が選ばれなかったのかと思って落胆した。だがふと顔を上げるとそこには、黒蝶団の制服を持って立っているヒャンユンが居た。
「──────合格よ、シン・ドンチャン」
「俺が……?あなたの護衛に……?」
「ええ。鉢巻きを外して着替えてらっしゃい」
「は、はい!」
服を受けとると、目にも留まらぬ早さでトンチャンは着替えに行った。戻ってきたときには既に、どこから見ても立派な黒蝶団の護衛武官の姿に変わっていたので、思わずヒャンユンはその凛々しさに胸をときめかせた。
だが、まだ一つ足りない。ヒャンユンは彼にひざまづくように言うと、蝶の形が刻印されている鉢巻きを取り出した。それから正面から胸元に抱き寄せるようにして、鉢巻きをトンチャンに巻きはじめた。予想外の出来事に、トンチャンの心臓は飛び出しそうになっている。
丁寧に巻かれた鉢巻きを付けて、トンチャンはヒャンユンをしっかりとした眼差しで見つめた。
「……俺たちの道は、まだ始まったばかりです」
「ええ、そうね」
「これから待ち受ける道がどんなに険しくとも、俺はあなたを守り抜きます。それがあなたを選んだ俺の……」
彼の表情がほころぶ。そして、こう言った。
「──────俺の、愛です」
ヒャンユンが驚きつつも、静かに頷いた。その目には涙が潤んでいる。
同じ道を歩みたくとも歩めなかった二人。その運命が、残酷にしてはっきりと交差した瞬間だった。
トンチャンに連れられ、ヒャンユンは素素樓へやって来ていた。
「……ここで、誰かが私を待っているというの?」
「ええ。俺が護衛を勤めた暁には、最初に会ってほしかった人です」
トンチャンが部屋の戸を開けると、ヒャンユンの目の前に驚きの人物が飛び込んできた。その人はゆっくり顔を上げると、唇と肩を震わせて尋ねた。
「──────ヒャンユン……なの……か?」
ふらつく足で立ち上がると、その人───コン・ジェミョンは涙目になりながら彼女の頬に触れた。
「ああ……夢みたいだ。いつものテウォンも帰ってきて、お前も生きて戻ってきた。こんな……こんな夢みたいな話、いいんだろうか?」
「ええ、いいんですよ。お父様」
ヒャンユンは養父の手に、自分の小さな手を添えた。その温かさが、ジェミョンの心に染みる。
「もっと早くに知らせられれば、どんなによかったことか……ごめんなさい」
「いいんだ。生きてるだけでもいいんだ。それで……いいんだ」
「お父様……」
父と呼んでも過言でない存在であるジェミョンの温もりは、ヒャンユンをあの頃の表情に戻した。彼はトンチャンに向き直ると、深々と頭を下げた。
「……済まなかった。あんなに失礼なことをしたのに、俺に知らせてくれるなんて……」
「あなたを恨んだこともある。でも今一番お嬢様にお会いしたいのは、きっとあなただろうと思ったんです」
「ありがとう……ありがとう……」
ジェミョンは涙を拭って笑った。いつもの笑顔だった。
「さて。何でもできる気がしてきたぞ。俺の意地を、見せてやるときが来た気分だ」
「お父様ったら……」
二人は笑い合った。それから積もる話を沢山しあって、名残惜しく別れたのは夜明け前だった。
トンチャンはヒャンユンの隣で歩きながら、秋の虫の鳴き声に耳を傾けていた。ふと、彼女が呟いた。
「──────私は、どこに帰りたいのかしら」
「え?」
「私には二人の親がいる。出生のときからずっと気にかけてくれていた父と、私の成長に寄り添って見守ってくれた父。私は、一体どちらを父と呼べばいいのかしら」
トンチャンは少し考えると、笑みを浮かべながらこう言った。
「いいじゃないか。父親と呼べる人が二人出来たと思えば」
「……なるほど、ね」
ヒャンユンは微笑みを溢すと、くるりと向きを変えてトンチャンに向き直った。
「……ねぇ。以前、私がどうしてファン・ナビになったのかを答えなかったわね」
「ああ」
「それはね……」
ヒャンユンは目を閉じた。落葉していく秋の分身たちが彼女の頬をくすぐった。
「私の大切な人たちを、守りたかったから。あなたや友達や二人の父。でも、わかったの。一人じゃ勇気も力もでない。それをあなたが教えてくれた」
トンチャンの手を取ると、ヒャンユンは今までずっと恥ずかしくて言えなかった言葉を言った。
「───ありがとう、トンチャン。私の帰る場所のままでいてくれて」
「もっといい場所になれるように頑張るよ」
「今でも充分にいい場所よ」
二人は見つめ合った。瞳の奥は、共に過ごしたどんな瞬間とも変わってはいない。トンチャンは微笑みながら、恋い焦がれ続けた人の頬に触れた。
「……もう、離さない。俺があなたを守る」
「ええ。離さないで」
そう言うと、ヒャンユンは自らトンチャンの胸に飛び込んだ。ずっと今まで越えることの許されない壁越しに見つめ続けてきた恋人たちのように、二人はお互いの存在を確かめて抱き締め合った。
「皮肉よね。私たちを引き離したのもチョン・ナンジョンなのに、引き合わせたのもチョン・ナンジョンなんだから」
「ああ。でも、あいつらを俺は絶対に許さない」
「もちろん。……これから、きっと苦しい戦いになる。それでも、必ず成し遂げて見せる。そして、今度こそあの人たちから守り抜いてみせる」
ヒャンユンは顔をあげてしっかりとした眼差しでトンチャンを見つめた。
「──────私の大切な人たちを、もうあの人たちに奪わせたりはしない」
それがどれ程険しい道だとしても、ヒャンユンは突き進む覚悟を決めていた。もう、後戻りは出来ない。
全てを奪われた蝶の、全てを取り戻す戦いの火蓋が切って落とされた瞬間だった。
────緊張なんかしてどうするっていうんだ。問題ねぇ。俺は俺だ。
彼は提出に行く途中で、部屋からソノに怒りを露にする人物の声を聞いた。
────ヒャンユンだ!
「カン様。トンチャンを巻き込むとは、一体どういうおつもりですか?あの人を危険に晒すようなことは、私が許しません!……いえ、こんなことに巻き込んでしまった私が許せません。どうしようもなく、後悔しています。あの人に真実を、正体を伝えてしまったことを」
「ですが、お嬢様にはあの男が必要です」
私ではなく。ソノは必死にこの一言を飲み込んだ。ヒャンユンはそれでも納得がいかないと啖呵を切って、そのまま部屋を出た。そして、運悪くトンチャンと居合わせてしまった。
「あ……」
何も言えず、ヒャンユンは黙って隣を過ぎようとした。だが、トンチャンがそれを阻んだ。
「俺が、あなたを守ります。俺にしかできないと、真剣にそう思います。ですから……」
「巻き込みたくなかった。ただ……それだけなの。ただ、本当にそれだけだった」
それでも、トンチャンには引く様子はない。だからこそ、ヒャンユンは敢えて何も言わなかった。心の中ではひとえに彼が試験に落ちるように祈りながら、その隣をすっと通りすぎるのだった。
簡単な口頭試問を終えたトンチャンの姿は弓場にあった。今のところ、彼の実力を上回る者は居ない。だが、弓の勝因が自分との戦いに勝つことであると知っている彼の動悸はなかなか収まらない。そんなトンチャンを見ていたソノは、声をかけようと立ち上がった。しかし、意外にもヒャンユンに制されて彼は席についた。
「往生際の悪い方だ。私が見込んだ男ですよ。落ちることはまずない」
「ええ、存じ上げています。だからこそ、手を貸してはなりません。どれ程孤独でも、不安でも、それと向き合わねば生き残ることは出来ません」
ヒャンユンは指を組んで、黙ってトンチャンを見つめた。彼の決意は変えられない。ならば見守るしかない、そう思ったのだ。
「始めよ!」
弓を与えられ、トンチャンは深呼吸した。すぐにつがえようとはせず、一呼吸おいてから矢を手に取った。
──────この一閃が、俺をあの人へと近づけてくれる。
「トンチャン……」
そして、弦を引いた。その横顔は、今までヒャンユンすらも見たことがない魅力に溢れていた。鷹のように狙いを定め、彼は弓を放った。
的に当たるまでは一瞬のはずなのに、お互いひどく長く感じた。そして、試験官の声が響く。
「命中です!」
結果を待たずして、トンチャンはもう一本放った。ソノに見せたままの通り、その矢は先程のものを切り裂くようにして同じ場所に命中した。これには他の団員たちからも歓声が上がった。
「なっ……矢を矢で射たというの?」
「そうです。あの男には、卓越した才能があるのです」
ヒャンユンは再びトンチャンに視線を戻した。初めて会ったときとは何かが違う顔つきが、彼に起きた変化と決意の全てを物語っていた。
「……私が、彼を変えてしまった」
「あなたのせいではない。チョン・ナンジョンが変えたのです。あなたもトンチャンも、あやつらが変えてしまった」
ヒャンユンにはもう、返す言葉もなかった。愛する人の変化にただ、謝罪の念で心が張り裂けそうになるのだった。
団員との手合わせも終了し、残りは最終試験となった。事前にソノから恐らくヒャンユンとの手合わせになると知らされていた彼は、一心に剣の点検を行っていた。
そして最終試験の内容を知らせるため、ヒャンユンが黒蝶団の武術服で候補者たちの前に姿を現した。漆黒に染め上げられた服を身に纏っている彼女には、普段の雰囲気とはうって代わり、団長としての威厳があった。
「──────よくやった。ここまで残れば、団の中でも相当な腕利きとして活躍できよう。だがそなたたちに真に必要なものは、実力だけではない」
そう言うと、ヒャンユンは剣を置いて微笑んだ。
「最終試験は、私と息を合わせてて戦うことだ」
ソノは当惑の色を露にしながら、話し終えてからヒャンユンのもとへ急行した。
「どういうことですか!?最終試験を変えてしまわれるなんて…」
「私は、あの人を信じています。だからこそ、敢えて試験を変えました」
「つまり……?」
「護衛に必要なことは、優れた剣技ではありません。むしろ、主人と息を合わせて戦い、その意図を汲み取り、変則的な動きにすら合わせられる力なのです。また、主人の無謀な行動を止める勇気も必要です」
ソノは笑みを漏らしているヒャンユンを見て、ようやく意図を知った。そしてその真意はまた、彼を傷つけた。
「それができるのは……あなたの呼吸に合わせ、初めから一つだったかのように動ける者は、あの男しかいないと……そうお思いなのですか?」
「ええ。もしトンチャンよりもそれに優れた者が居れば、仕方がありません。ですが、彼なら大丈夫でしょう」
「──────巻き込みたくないと、仰っていたのに?」
ソノは不意に、自分が酷く意地悪な質問をしてしまったことに気づいた。それはヒャンユンの表情を見ればわかる。彼女はとても哀しげで、消えてしまいそうな視線を床に向けていた。そういう時の彼女はいつも、酷く傷ついて葛藤をしている。ソノは誰よりもヒャンユンが苦しいときに側に寄り添ってきた。全てを与えてきた。
例えそれが、見返りの決して望めないものだったとしても。
「私では、いけないのですか?」
「……え?」
ソノはヒャンユンの両手を握ってそう言った。初めて見せる師の表情に、彼女は困惑している。
「私なら、何も失うものはありません。私を護衛としてお側に置いてくだされば、あなたは苦しまずに済む。誰よりもあなたを解っているつもりです」
そこでようやくヒャンユンはソノの眼差しが、トンチャンが自分を見つめるときと同じものであることに気づいてしまった。だとすれば、彼は何と苦しい決断をしたのだろうか。
だが、それでもソノは自身の迷いと苦しみを自らの手で絶ちきることを選んだ。ヒャンユンの手を離し、彼は何事もなかったかのように師匠の眼差しで微笑んだ。
「お忘れを。万が一、誰も候補が居なくなる場合の話です」
「カン様……」
「さぁ、試験が始まります。早く行って下さい」
震える声で、ソノは背を向けながら呟くように言った。ヒャンユンはその背中にまた一つ傷を背負わせた気がして、無力でどうにもならない自分を恨むのだった。
最終試験がおこわなわれている間、トンチャンは自分の番が来るまで他の者たちの動きを見ていた。皆ヒャンユンの傍でついていた団員なのに、その動きと呼吸が全く合っていない。試験官たちのため息が聞こえてくる。そしていよいよ最後の一人になったトンチャンが立ち上がり、ヒャンユンのもとへ向かった。
「……緊張してる?」
「ああ……まぁ、それなりに。……試験前にこんな私的な会話はいいんですか?」
「馬鹿。試験前に全員と話をするの。───何か、話しておきたいことは?」
トンチャンは少し考えると、掌を目の前に差し出してこう言った。
「手を、俺の手と重ねてくれませんか?」
「……いいけど」
ヒャンユンはそう言いながらも、恐る恐る手を重ねた。思えば意識のあるトンチャンの手に、こうして自分から触れたのは初めてだった。自分の掌から伝わってくる温もり、感触、呼吸、そして本来この程度では感じるはずのない鼓動。きっとトンチャンにも同じものが伝わっているのだろうと思いながら、ヒャンユンは真っ直ぐに彼を見つめた。
「…………信じてる。あなたならきっと出来るはずだから」
「……何故?」
ヒャンユンは手を離すと、トンチャンと背中合わせになって剣を抜いた。試験用に待機している団員たちが二人を囲む。
「──────あなたは、誰よりも私を知っているから」
それを聞いて口許を綻ばせたトンチャンも、漏っていた剣を抜いて構えた。試験は、ヒャンユンが動き出した瞬間から始まる。動きを合わせねばと必死に彼女を見て待機していた他の候補者たちとは違って、トンチャンは全く逆方向を見ていた。
そして、静寂が会場を支配し始めた頃にヒャンユンが動いた。それから会場はすぐに驚嘆の声で埋め尽くされた。
トンチャンはヒャンユンとほぼ同時に足を踏み出したのだ。彼女の後ろ側を守っている彼は、視線さえ送ることなくヒャンユンの動きに合わせていた。呼吸も完璧だ。それを誰よりも実感していたのは、隣で戦っているヒャンユン自身だった。
──────すごい……!まさかここまで合わせてくるなんて。
信じられないという思いよりもむしろ、彼女は目の前で戦ってくれているトンチャンに頼もしさを感じていた。だが同時に、この背中に甘えたままではいけないという自戒も彼女を駆け抜けた。だから、敢えてヒャンユンは突然トンチャンの隣から離れた。絶対に予測がつかないように、壁を使って別方向へ着地したのだ。
それでも、トンチャンは気がつけば隣にいた。しかもヒャンユンの考えなどお見通しと言いたげな表情を浮かべている。
「……どうやら、本当についてくるようね」
「ああ。俺はしぶといぜ」
そして、そんな二人に最後の難関がやって来た。四人の屈強な兵の間をぬって、全員倒すことが試験終了の合図なのだ。ところがヒャンユンは小柄なため、普通では倒せない。そんなとき、トンチャンが肩を差し出してこう言った。
「──────俺の肩に乗ってください」
「え……?」
「腕をつかんで、俺が反動で持ち上げます。そのときに手を離しますので、肩を蹴って飛んでください」
ヒャンユンは戸惑った。だが、トンチャンは微笑んでいる。
「──────俺を、信じてください」
その一言に、ヒャンユンは覚悟を決めた。彼女は差し出した腕を掴み、地面を軽く蹴った。腕力には自信のあるトンチャンは、蝶のように軽いヒャンユンをいとも軽々と持ち上げた。そして肩に足を乗せた彼女は勢いをつけて跳躍し、見事兵の意表をつくことに成功した。その間に走り込んだトンチャンは、力づくで道を作ってヒャンユンと共に兵たちを倒し始めた。
ヒャンユンに足りないところはトンチャンが補い、トンチャンに足りないところはヒャンユンが補う。正に最初から一つの魂だったかのような、全く乱れぬ動きをこなす二人を見ていられず、ソノは空を仰いだ。
─────────さようなら、お嬢様。私では、やはり駄目でした。
トンチャンとヒャンユンが背中合わせに立っている。その表情は、とても清々しい程に澄んでいるのだった。
試験結果が出た。ヒャンユンは名簿を見て含み笑いを溢すと、一人ずつ名前を読み上げ始めた。
「ソン・グァンソル、ファン・ミョン、チョン・ギョン、ペク・オンス。案内する部屋へ行きなさい」
それはトンチャンを除く候補者全員だった。彼は自分が選ばれなかったのかと思って落胆した。だがふと顔を上げるとそこには、黒蝶団の制服を持って立っているヒャンユンが居た。
「──────合格よ、シン・ドンチャン」
「俺が……?あなたの護衛に……?」
「ええ。鉢巻きを外して着替えてらっしゃい」
「は、はい!」
服を受けとると、目にも留まらぬ早さでトンチャンは着替えに行った。戻ってきたときには既に、どこから見ても立派な黒蝶団の護衛武官の姿に変わっていたので、思わずヒャンユンはその凛々しさに胸をときめかせた。
だが、まだ一つ足りない。ヒャンユンは彼にひざまづくように言うと、蝶の形が刻印されている鉢巻きを取り出した。それから正面から胸元に抱き寄せるようにして、鉢巻きをトンチャンに巻きはじめた。予想外の出来事に、トンチャンの心臓は飛び出しそうになっている。
丁寧に巻かれた鉢巻きを付けて、トンチャンはヒャンユンをしっかりとした眼差しで見つめた。
「……俺たちの道は、まだ始まったばかりです」
「ええ、そうね」
「これから待ち受ける道がどんなに険しくとも、俺はあなたを守り抜きます。それがあなたを選んだ俺の……」
彼の表情がほころぶ。そして、こう言った。
「──────俺の、愛です」
ヒャンユンが驚きつつも、静かに頷いた。その目には涙が潤んでいる。
同じ道を歩みたくとも歩めなかった二人。その運命が、残酷にしてはっきりと交差した瞬間だった。
トンチャンに連れられ、ヒャンユンは素素樓へやって来ていた。
「……ここで、誰かが私を待っているというの?」
「ええ。俺が護衛を勤めた暁には、最初に会ってほしかった人です」
トンチャンが部屋の戸を開けると、ヒャンユンの目の前に驚きの人物が飛び込んできた。その人はゆっくり顔を上げると、唇と肩を震わせて尋ねた。
「──────ヒャンユン……なの……か?」
ふらつく足で立ち上がると、その人───コン・ジェミョンは涙目になりながら彼女の頬に触れた。
「ああ……夢みたいだ。いつものテウォンも帰ってきて、お前も生きて戻ってきた。こんな……こんな夢みたいな話、いいんだろうか?」
「ええ、いいんですよ。お父様」
ヒャンユンは養父の手に、自分の小さな手を添えた。その温かさが、ジェミョンの心に染みる。
「もっと早くに知らせられれば、どんなによかったことか……ごめんなさい」
「いいんだ。生きてるだけでもいいんだ。それで……いいんだ」
「お父様……」
父と呼んでも過言でない存在であるジェミョンの温もりは、ヒャンユンをあの頃の表情に戻した。彼はトンチャンに向き直ると、深々と頭を下げた。
「……済まなかった。あんなに失礼なことをしたのに、俺に知らせてくれるなんて……」
「あなたを恨んだこともある。でも今一番お嬢様にお会いしたいのは、きっとあなただろうと思ったんです」
「ありがとう……ありがとう……」
ジェミョンは涙を拭って笑った。いつもの笑顔だった。
「さて。何でもできる気がしてきたぞ。俺の意地を、見せてやるときが来た気分だ」
「お父様ったら……」
二人は笑い合った。それから積もる話を沢山しあって、名残惜しく別れたのは夜明け前だった。
トンチャンはヒャンユンの隣で歩きながら、秋の虫の鳴き声に耳を傾けていた。ふと、彼女が呟いた。
「──────私は、どこに帰りたいのかしら」
「え?」
「私には二人の親がいる。出生のときからずっと気にかけてくれていた父と、私の成長に寄り添って見守ってくれた父。私は、一体どちらを父と呼べばいいのかしら」
トンチャンは少し考えると、笑みを浮かべながらこう言った。
「いいじゃないか。父親と呼べる人が二人出来たと思えば」
「……なるほど、ね」
ヒャンユンは微笑みを溢すと、くるりと向きを変えてトンチャンに向き直った。
「……ねぇ。以前、私がどうしてファン・ナビになったのかを答えなかったわね」
「ああ」
「それはね……」
ヒャンユンは目を閉じた。落葉していく秋の分身たちが彼女の頬をくすぐった。
「私の大切な人たちを、守りたかったから。あなたや友達や二人の父。でも、わかったの。一人じゃ勇気も力もでない。それをあなたが教えてくれた」
トンチャンの手を取ると、ヒャンユンは今までずっと恥ずかしくて言えなかった言葉を言った。
「───ありがとう、トンチャン。私の帰る場所のままでいてくれて」
「もっといい場所になれるように頑張るよ」
「今でも充分にいい場所よ」
二人は見つめ合った。瞳の奥は、共に過ごしたどんな瞬間とも変わってはいない。トンチャンは微笑みながら、恋い焦がれ続けた人の頬に触れた。
「……もう、離さない。俺があなたを守る」
「ええ。離さないで」
そう言うと、ヒャンユンは自らトンチャンの胸に飛び込んだ。ずっと今まで越えることの許されない壁越しに見つめ続けてきた恋人たちのように、二人はお互いの存在を確かめて抱き締め合った。
「皮肉よね。私たちを引き離したのもチョン・ナンジョンなのに、引き合わせたのもチョン・ナンジョンなんだから」
「ああ。でも、あいつらを俺は絶対に許さない」
「もちろん。……これから、きっと苦しい戦いになる。それでも、必ず成し遂げて見せる。そして、今度こそあの人たちから守り抜いてみせる」
ヒャンユンは顔をあげてしっかりとした眼差しでトンチャンを見つめた。
「──────私の大切な人たちを、もうあの人たちに奪わせたりはしない」
それがどれ程険しい道だとしても、ヒャンユンは突き進む覚悟を決めていた。もう、後戻りは出来ない。
全てを奪われた蝶の、全てを取り戻す戦いの火蓋が切って落とされた瞬間だった。