12、ソノの決断
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とても長い時間が経った気がしながら、ヒャンユンは既にぐったりしているトンチャンに危機感を覚えていた。
─────早くしなければ。手遅れになる前に……!
邸宅の前に戻ってきたヒャンユンは、馬からトンチャンを何とか引きずり下ろして全身で戸を叩いた。
「何事だ!?ヒャンユン、一体何を……」
「この人を……助けてください!お願いです。この人を……!」
支えきれず共に地面に倒れたヒャンユンは、跪きながら父と兄を見上げた。
「お願いです。私を庇って深い傷を負ったのです。医者を呼んでください……!でないと……死んでしまいます……」
ジョンミョンはすぐに医者を呼ぶように言伝てをした。ヒャンユンはそれを見届けて安心すると、誰の手も借りずにトンチャンを自室へ運び込んだ。
「トンチャン、しっかりして。もうすぐでお医者様が来るから。大丈夫よ。きっと助かるから」
しかし、返事はない。使用人が持ってきた布を桶の水に浸して絞ると、ヒャンユンは優しく汗を拭き取り始めた。その様子を見て、ジョンミョンは直感でトンチャンが娘にとって大切な人物であると悟った。
「……帰れない場所とは、その者のことだったのか」
どんな人物にも向けない、優しい表情を浮かべている娘の様子はジョンミョンの心を苦しめた。両班と平民の身分違いの恋。決して許されぬ大罪であるにも関わらず、絶ちきることのできない想い。彼女の丹念な看病の仕草の一つ一つから、そんな感情が滲み出ていた。
「ごめんなさい……私が……私が、弱いせいで……本当のことを打ち明けたせいで……もし、真実を知ってあなたがこうなると知っていれば、私は……」
トンチャンの頬に涙が一粒落ちる。ヒャンユンのものだった。
「私は、あなたのもとに戻る夢なんて……もう二度と見なかった!だからお願い、死なないで。私のせいで死なないで!お願い!トンチャン!」
それでも返事はない。血の滲んだ服が、傷の凄惨さを物語っている。医者はまだなのか。そう思ったときだった。ようやく医者がやって来た。
「この人は……助かるのですか?」
「手は尽くしてみますが……」
「お願いします。この人は私の命なんです。この人が居なければ、私は生きていけないんです。」
医者はため息をつくと、治療を始めた。ヒャンユンはただ、祈るような思いで見守ることしか出来ない自分をもどかしく思うのだった。
治療が終わり、これ以上施すことはないと言われてもまだ、ヒャンユンはトンチャンの隣で看病を続けた。丸二日経ったこの日も、昔と変わらない感触の手を握りながら彼女はじっと待ち続けた。愛する人が目覚める奇跡を。
「このままじゃ……後悔する。きっと。もっと伝えたいこともあるし、もっと一緒に居たい。あなたを一年間悲しませた埋め合わせをしたい」
そして、三度目の朝日が彼の顔を照らした時だった。眉を一度潜めたと思うと、トンチャンが目を覚ました。
「トンチャン!私よ、わかる?私。ヒャンユンよ!」
「ヒャンユン……?ここは……極楽……か?」
「違うわ、私の部屋よ。あなたは生きてるの。死んでなんかいない」
しっかり覚醒するのも待たず、ヒャンユンはトンチャンに飛び付いた。
「トンチャン……良かった……生きてる……あなたが生きてる……」
「ヒャンユン……お前が……看病してくれていたのか?」
まだ残っている痛みに顔を歪めながらも、トンチャンはヒャンユンに尋ねた。
「ええ。私がお世話しました」
微笑みながらそう言ったが、その小さな口からあくびが漏れた。トンチャンは失笑しながら隣に積んである掛け布団をもう一枚取って、ヒャンユンの肩にかけてやった。
「ちょっと寝たらどうだ」
「でも……」
「いいから。おやすみ」
「うん……」
トンチャンが眠るように促すと、ヒャンユンはあっさりと彼の膝頭で夢に落ちてしまった。優しくその頭を撫でると、トンチャンももう一度床に臥すのだった。
再び目覚めたトンチャンは、先程まで愛らしい寝顔を浮かべながら眠っていたヒャンユンが居ないことに気づき、一言礼を言わなければと立ち上がった。部屋をそのまま出ると、目の前に無言で腕を後ろに組んでいるヒャンユンの実父であるイ・ジョンミョンがこちらを見ていた。トンチャンは痛みも忘れて慌てて会釈すると、冷や汗をかきながら必死にうつむいた。
──────殺される……!
だがトンチャンの予想に反して、ジョンミョンは部屋で話がしたいと言い出した。その言葉を聞いて、彼は養父のジェミョンから手切れ金を渡されたことを思い返し、僅かに顔をしかめた。
「安心しろ。手切れ金など渡すつもりはない。ただ、少し話がしたくてな。」
「……え?」
「当然であろう。娘の想い人を知らぬ父など父ではない。さ、随分頑丈な身体をしているようだが……まだまだ養生せねばいかんぞ。こちらへ」
思いがけない態度で接されたため、トンチャンは面食らってしまった。けれども部屋へ入らない方が失礼であることに気づくと、慌てて再び部屋へとんぼ返りするのだった。
部屋に入ったものの、上座に決して座らずに待っているジョンミョンを気遣い、トンチャンは部屋の端に控えた。ところがジョンミョンに反って失笑されてしまった。
「面白い男だ。まぁ、控えめで良いとも言えるが……今は重傷者なのだから、気にすることはない。早く布団へお行きなさい」
許可が出て安心したトンチャンは、そそくさと布団に座った。ジョンミョンはそのすぐ近くに座って顔をまじまじと見てはくるが、それでも決して上座に座ろうとはしない。トンチャンは意を決して訳を聞いた。
「あの……何故、旦那様は上座に座ろうとなさらないのですか?常民の俺を、両班のあなた様が気遣う必要は……」
「全く。何を申すか。」
そう言うと、ジョンミョンは突然座り直して両手を前につき────深々と頭を下げた。
「やっ、やめてください!旦那様!頭をお上げになってください!困ります!」
慌ててトンチャンが頭を上げさせようとしても、ジョンミョンの姿勢はそのままだ。彼は震える声でこう言った。
「───────娘を助けてくれて、ありがとう。娘が私のもとに無事帰ってこれたのは、そなたのお陰だ」
「そんな……俺はただ……」
「そなたがチョン・ナンジョン商団で働いていることは知っている。そんなそなたが娘を助けることが、どれ程危険なことかは察しがつく。いや、想像以上かもしれん。なのにそなたは……」
トンチャンはため息をつくと、目を細めて話し始めた。
「……俺は一年前のある日、お嬢様をお守りできませんでした。ですから、これでようやく借りが返せた程度です。……いえ。そもそも俺は、お嬢様から頂いた分を返せているとは思えません。それくらいに、お嬢様は俺に得難いものを下さいました」
ジョンミョンはその言葉の中に温かさを感じ、娘のことを少しでも知りたい、空白の時間を埋めたいとの一心でトンチャンに尋ねた。
「ヒャンユンが……娘が何をそなたに与えたのか、どんな日々を二人で過ごしてきたのか。全て教えてほしい。」
叱りを受けるのではないかと怯えるトンチャンに対し、ジョンミョンは力なく微笑みかけた。
「……私は、まことに幼い頃のヒャンユン以外を知らぬ。教えてくれ。父として、あの子の姿を知りたい。」
トンチャンは目を閉じると、初めて会ったときのことを思い返した。昨日のように生き生きと思い出せる瞬間の数々に、彼は愛しさを込めながら言葉へと紡ぎ始めた。
「お嬢様に初めてお目にかかったのは……忘れもしない、花香る春の日でした。暖かな日差しが心地よい眠りを誘うようなあの日、俺は市場通りでお嬢様をお見かけしたんです。遠目ではありましたが、すぐにわかりました。コン・ジェミョン様に内緒で出掛けていたため、服装は華やかではありませんでしたが、それでも気品と愛らしさが漂う方でした。」
トンチャンは目を閉じたまま開いた手を少し伸ばし、空中でそっと握りしめた。
「自由奔放であり、純真無垢であり、無邪気でもあったお嬢様────蝶のようなあの方は、俺の肩に偶然にも留まったんです。もちろん、近くには寄りました。ですが、あの方は俺を選んでくれた」
ジョンミョンが笑みを漏らした。トンチャンが娘に心奪われた瞬間の話だと気づいたからだ。
「それからしばらく、俺はあの人が誰か知りませんでした。大行首の娘だと聞いて、俺はあの人を遠く感じました。それでもお嬢様は俺を慕っていると証明してくれました。……二人で過ごした日常は、俺にとっていつのまにか掛け換えのないものとなっていました。なのに……俺は……」
「チョン・ナンジョンが、お前の知らぬところで娘を殺そうとした」
「ご存じなの……ですか?」
「ああ。それが大尹派首座として戻ることを決めた、私の理由だ」
そこまで聞くと、ジョンミョンはトンチャンが本当のヒャンユンの出自について、どれくらい知っているのかに興味を持ち始めた。
「娘のことだが……」
「ええ、全て聞きました。本当の生まれも、幼い頃にどんな辛い体験をなさったか。あの人が死んだと思ったあの日から、俺は生きる意味を無くしました。ですから、生き写しの人が現れて本当に驚いたんです。ご自分の正体を偽られたので、別人だと思って混乱しました」
苦笑いを浮かべていたトンチャンは、ふっと笑みをこぼした。胸に手を当てると、彼は目を細めて続けた。
「でも……もう、いいんです。あの人が生きていた。それだけでいいんです。どんな瞬間も愛さずにはいられないあの人が生きている。その事実だけで、俺はもう充分です」
それ以上は望まない。そう言っているようにしか思えなくて、ジョンミョンは目の前の男を疑った。婚姻を迫ってくると思っていたからだった。だからこそこの男に信頼を感じたのか、彼はトンチャンの手を握った。
「……娘を、養父と会わせてやってほしい。あの人には返しても返しきれない恩があるのに、まだあの子が生きていると知らぬのだ」
「それが終われば、俺は消えればいいですか?」
「いいや。そなたさえ良ければ、娘のそばに居てやってくれ。傷ついたあの子を、私が癒せないその傷をどうか癒してやってほしい」
「旦那様……」
トンチャンは深々と頭を下げた。そして、このやり取りを聞いていた人物がもう一人、部屋の外に居た。
カン・ソノだった。彼の心はジョンミョンが抱いたトンチャンへの信頼を見て、酷く揺らいでいた。
───────ヒャンユンお嬢様をお守りできるのは、私ではなく……シン・ドンチャン、お前だというのか?
ヒャンユンのために選ぶべき道はどれなのか。そして僅かでも自分にまだ可能性のある道はどれなのか。その二つを比較すれば、とるべき道は決まっていた。
空を仰いで拳を握りしめると、ソノは道を進むべく部屋をそっと後にするのだった。
帰宅したヒャンユンは部屋へは向かわず、使用人たちが固唾を呑んで見守るなか厨房に立っていた。
「出来るわよ、これくらい。私はね、両班の令嬢としてよりも平民の小娘で居た方が長いの!」
「ですが……」
「みてなさい。全く……」
そう言うと、ヒャンユンは手際よくチヂミを作り始めた。つまみ食いをするトンチャンを叩いたことや、夫婦ごっこをしたこと。そんな甘い出来事が次々に思い返される。
出来上がったチヂミを部屋へと運んだヒャンユンは、隣に膳を置いて眠っているトンチャンを眺めた。
「……素敵なお顔。とても……素敵」
もっと近くで見ようと身を乗り出した時だった。狸寝入りをしていたトンチャンが、ヒャンユンの身体を引き寄せて布団へと抱き寄せたのだ。彼女の口から小さな悲鳴が漏れる。
「きゃっ……!」
「へへっ。捕まえたぜ、ヒャンユン」
「ち、ちょっと!傷が開いちゃうわよ」
「大丈夫だって。俺、治りはいいんだよ」
「そういう問題じゃなくて……」
トンチャンはそんなヒャンユンの唇に人差し指を当てて黙らせると、そっと愛しそうに頬を撫でた。
「俺の、ヒャンユン……」
「ト、トンチャン……」
「好きだ。愛してる」
頬から更に指を滑らせ、トンチャンは彼女の首筋にそっと触れた。ぞくりとしたのか、肩が僅かに動く。そんな様子も愛しそうに見つめると、トンチャンはゆっくりと首に口づけをした。とても長い口づけだった。
「あっ………」
「……お前は、可愛いよ。とても、とても可愛いよ。そうやって俺の愛を、お前はずっと受け止めてくれた」
言葉が紡ぎ出される度に吐息が首もとに当たるせいで、ヒャンユンはずっと赤面していた。だが、トンチャンの想いは止まるところを知らない。今度は頬に吐息が当たる距離にまで顔を近づけてきたのだ。
「だけどな。お前に今まで渡してた想いは、全然俺の気持ちと比べりゃ足りない」
「つ、つまり……?」
トンチャンは攻撃的な笑みを漏らすと、ヒャンユンの唇をそのまま奪った。
「……死にかけて気づいた。俺は、お前が好きだ。死んでもいいくらい好きだ。だから、もう迷わねぇ。お前がどこの誰であろうと関係ねぇ。俺が愛するこの気持ちを、素直に示したい。────この命が有る限り。」
「トンチャン………」
「お前を、守る。絶対に守り通してみせる。あと何回斬られようとも構わねぇ。………だから、居られる限り側に居てほしい」
ヒャンユンを抱き締めると、トンチャンは目を閉じた。彼女の温もりに安心と儚さを感じながら。
普通に歩けるほどまでなんとか回復したトンチャンは、ヒャンユンの機転で商団に潜入している団員を通して取り計らいがあったものの、ミン・ドンジュに適当な言い訳のせいで散々叱られた。おかげで時間外業務に追われることとなり、まだ癒えない傷を抱えたまま残業をこなしていた。
ようやく仕事が片付き、今日はゆっくり寝ようと思って帰路についていた彼は、歩きながら背後に気配を感じた。
────誰だ?俺をつけるなんて。……まさか、大行首か!?
トンチャンが背後を向いた瞬間、影は彼に剣を突きつけた。だが咄嗟にかわしたトンチャンは、力任せに相手を叩きつけた。
「誰だ!?」
「私だ。……覚えているか?シン・ドンチャン」
その声に聞き覚えがありすぎて、トンチャンは息をのんだ。
「………カン・ソノ…………!」
「その言い方だと、あまり良い印象は無さそうだな」
ソノは剣を仕舞うと、トンチャンと対峙するような形で立ち上がった。身構える彼に言い訳もせず、ソノは淡々と話し始めた。
「ヒャンユンお嬢様に危険が迫りつつある」
「だろうな。てめぇら、ちゃんと守ってんのか?ご主人に鈴でもつけたらどうだ」
「そうしたい気持ちはやまやまだ。……我々で力不足だと、お前は思うか?」
トンチャンは間髪入れずに頷いた。瞳は怒りの色に染まっている。
「ああ!当然だ!お前らなんて信用できやしねぇよ」
ソノはため息をつくと、毅然とした態度でトンチャンを見た。そして、ゆっくりと口を開いた。
「────だったら、お前が守れば良い」
「……は?」
「お前が私とイ・ジョンミョン様の推薦を受け、ヒャンユンお嬢様を傍でお守りする黒蝶団の護衛武士になれ」
トンチャンは自分の耳を疑わざるを得なかった。自分がヒャンユンを想い、またヒャンユンから想われていることは知っているはずだ。そして同じ男なら、その事に対する煮えたぎるような嫉妬心の強さは察しがつく。
ソノはそんなトンチャンの疑いを汲み取るかのように、苦笑いを浮かべた。
「……自分でも、馬鹿なことをしていると思う。だが、お前にしかもう頼れない。あの人の傷ついた身も心も、私でなくお前を欲している」
トンチャンは少し考えると、視線をそらすことなくソノに問いかけた。
「もし、護衛武士になると言えば?」
「黒蝶団の中でも強者たちが集う護衛武士の試験を受けてもらう」
「強者って……それじゃあ俺の勝ち目は最初からねぇってことか」
「いいや。それは違う」
鼻で笑うトンチャンに対し、ソノは剣をもう一本差し出した。トンチャンの目が点になり、真顔に返る。
「───お前は必ず護衛武士になれる。私が稽古をつけよう」
目の前に差し出された柄とソノの表情を見比べ、トンチャンは不敵な笑みを浮かべた。
「俺を雇うのは高くつくぜ、カン様」
「勘弁してくれ」
トンチャンは差し出された剣を取ってそう言ってみせた。その瞳は、不安ではなくヒャンユンと共に生きる道を歩み始めたという、確かな希望に輝いているのだった。
その日から、晩と明け方にかけてトンチャンの訓練が始まった。ソノは思った以上に筋があると見込んだのか、開始数日で指導に熱が入り始めていた。
「もっと早く!足が動いていない。やり直し!」
「ちょっと……流石に休憩させてくれよ……」
疲労困憊のトンチャンに対しても、ソノは厳しかった。
「だめだ。護衛に休憩はない。それに太りすぎだ」
「仕方ねぇだろ?何年も女に相手にされてなきゃ、食う以外にやることなくなるって」
「全く……聞けば聞くほど、お前をお嬢様が選んだ理由がわからん」
トンチャンは立ち上がると、渋々もう一度剣を構えた。
ソノは口に出して誉めることはしなかったものの、トンチャンの才能に気づいていた。普通の体探民候補生が一ヶ月でこなす内容と習熟度を、トンチャンはものの数日単位で会得していくのだ。
──────これは、可能性があるかもしれん。
「お前、何が得意だった?」
「半殺しとかか?」
「馬鹿者。剣や弓、槍のことだ!」
トンチャンは少し考えると、柄を回しながら答えた。
「ああ、それなら弓だな。自慢じゃねぇが、これだけは外したことはねぇ」
「弓か……一度やってみろ」
剣を置かせると、ソノはトンチャンに弓矢を差し出した。言葉通り、慣れた手つきで矢をつがえると、トンチャンは真っ直ぐに弦を引いた。その横顔は、いつものしまりのない笑いかたからは想像もつかないほどに凛々しかった。
一本目は、真っ直ぐに的の中央を正確に射抜いた。トンチャンはすぐに二本目をつがえると、今度は的枠の両端を狙った。当たるか当たらないかの絶妙な距離を計算しつつ、彼は矢を放った。結果はやはり、命中だ。
ここでソノはある事実に気づいた。
──────構えてから射るまでの時間が短い……!それでいて正確を期しているとは……あの体型と性格からは考えられないような緻密さだ。
彼が思わず感嘆している間も、トンチャンは射続けていた。結局合計で矢は六本使われ、中央・的端の四隅に放たれた矢はすべて命中だった。だが、六本放ったはずの矢が、一本だけ見当たらない。ソノはやはり検討違いかと言いたげに彼を見た。ところがトンチャンは自信ありげに彼を的まで連れていくと、 的下に落ちているものを取って渡した。
「これが、俺の特技です」
「これは──────!! 」
一見木切れのように見えるそれは、なんと真っ二つにされた矢だった。そう、トンチャンは矢の中に矢を射たのだ。この卓越した技術には、流石のソノも舌を巻かざるを得なかった。
「一体、どこでこんな技術を……」
「ちょっと、昔モテたくてな」
そんな風に本気か嘘か見分けがつかないような返答をして不敵に笑うトンチャンを見ながら、ソノは確かに僅かな尊敬の念と可能性を感じているのだった。
そして、ついに試験の日が来た。手にはソノが書いた推薦状が握られている。トンチャンは深呼吸して、会場である私有地の門に手をかけた。
──────俺の人生は、もう計算通りには行かないだろう。でも、いいんだ。計算していた人生の中に、ヒャンユンと出会う項目は無かった。そして今も、あいつを愛してる。
息を吐ききり、彼は顔をあげた。
──────行こう。あの人が笑って暮らせる未来のために。
扉が開かれる。目の前に現れたのは、意外にもヒャンユンだった。なにも知らない彼女は、ただ目を丸くして立ち尽くしている。
「トン……チャン?」
「カン・ソノ様の推薦を受け、試験を受けに来ました。あなたを守るために」
二人の間に、秋の訪れを告げる風が吹いた。ヒャンユンを見つめるトンチャンの瞳に、もう迷いはなかった。
これが、彼の選んだ道なのだから。
─────早くしなければ。手遅れになる前に……!
邸宅の前に戻ってきたヒャンユンは、馬からトンチャンを何とか引きずり下ろして全身で戸を叩いた。
「何事だ!?ヒャンユン、一体何を……」
「この人を……助けてください!お願いです。この人を……!」
支えきれず共に地面に倒れたヒャンユンは、跪きながら父と兄を見上げた。
「お願いです。私を庇って深い傷を負ったのです。医者を呼んでください……!でないと……死んでしまいます……」
ジョンミョンはすぐに医者を呼ぶように言伝てをした。ヒャンユンはそれを見届けて安心すると、誰の手も借りずにトンチャンを自室へ運び込んだ。
「トンチャン、しっかりして。もうすぐでお医者様が来るから。大丈夫よ。きっと助かるから」
しかし、返事はない。使用人が持ってきた布を桶の水に浸して絞ると、ヒャンユンは優しく汗を拭き取り始めた。その様子を見て、ジョンミョンは直感でトンチャンが娘にとって大切な人物であると悟った。
「……帰れない場所とは、その者のことだったのか」
どんな人物にも向けない、優しい表情を浮かべている娘の様子はジョンミョンの心を苦しめた。両班と平民の身分違いの恋。決して許されぬ大罪であるにも関わらず、絶ちきることのできない想い。彼女の丹念な看病の仕草の一つ一つから、そんな感情が滲み出ていた。
「ごめんなさい……私が……私が、弱いせいで……本当のことを打ち明けたせいで……もし、真実を知ってあなたがこうなると知っていれば、私は……」
トンチャンの頬に涙が一粒落ちる。ヒャンユンのものだった。
「私は、あなたのもとに戻る夢なんて……もう二度と見なかった!だからお願い、死なないで。私のせいで死なないで!お願い!トンチャン!」
それでも返事はない。血の滲んだ服が、傷の凄惨さを物語っている。医者はまだなのか。そう思ったときだった。ようやく医者がやって来た。
「この人は……助かるのですか?」
「手は尽くしてみますが……」
「お願いします。この人は私の命なんです。この人が居なければ、私は生きていけないんです。」
医者はため息をつくと、治療を始めた。ヒャンユンはただ、祈るような思いで見守ることしか出来ない自分をもどかしく思うのだった。
治療が終わり、これ以上施すことはないと言われてもまだ、ヒャンユンはトンチャンの隣で看病を続けた。丸二日経ったこの日も、昔と変わらない感触の手を握りながら彼女はじっと待ち続けた。愛する人が目覚める奇跡を。
「このままじゃ……後悔する。きっと。もっと伝えたいこともあるし、もっと一緒に居たい。あなたを一年間悲しませた埋め合わせをしたい」
そして、三度目の朝日が彼の顔を照らした時だった。眉を一度潜めたと思うと、トンチャンが目を覚ました。
「トンチャン!私よ、わかる?私。ヒャンユンよ!」
「ヒャンユン……?ここは……極楽……か?」
「違うわ、私の部屋よ。あなたは生きてるの。死んでなんかいない」
しっかり覚醒するのも待たず、ヒャンユンはトンチャンに飛び付いた。
「トンチャン……良かった……生きてる……あなたが生きてる……」
「ヒャンユン……お前が……看病してくれていたのか?」
まだ残っている痛みに顔を歪めながらも、トンチャンはヒャンユンに尋ねた。
「ええ。私がお世話しました」
微笑みながらそう言ったが、その小さな口からあくびが漏れた。トンチャンは失笑しながら隣に積んである掛け布団をもう一枚取って、ヒャンユンの肩にかけてやった。
「ちょっと寝たらどうだ」
「でも……」
「いいから。おやすみ」
「うん……」
トンチャンが眠るように促すと、ヒャンユンはあっさりと彼の膝頭で夢に落ちてしまった。優しくその頭を撫でると、トンチャンももう一度床に臥すのだった。
再び目覚めたトンチャンは、先程まで愛らしい寝顔を浮かべながら眠っていたヒャンユンが居ないことに気づき、一言礼を言わなければと立ち上がった。部屋をそのまま出ると、目の前に無言で腕を後ろに組んでいるヒャンユンの実父であるイ・ジョンミョンがこちらを見ていた。トンチャンは痛みも忘れて慌てて会釈すると、冷や汗をかきながら必死にうつむいた。
──────殺される……!
だがトンチャンの予想に反して、ジョンミョンは部屋で話がしたいと言い出した。その言葉を聞いて、彼は養父のジェミョンから手切れ金を渡されたことを思い返し、僅かに顔をしかめた。
「安心しろ。手切れ金など渡すつもりはない。ただ、少し話がしたくてな。」
「……え?」
「当然であろう。娘の想い人を知らぬ父など父ではない。さ、随分頑丈な身体をしているようだが……まだまだ養生せねばいかんぞ。こちらへ」
思いがけない態度で接されたため、トンチャンは面食らってしまった。けれども部屋へ入らない方が失礼であることに気づくと、慌てて再び部屋へとんぼ返りするのだった。
部屋に入ったものの、上座に決して座らずに待っているジョンミョンを気遣い、トンチャンは部屋の端に控えた。ところがジョンミョンに反って失笑されてしまった。
「面白い男だ。まぁ、控えめで良いとも言えるが……今は重傷者なのだから、気にすることはない。早く布団へお行きなさい」
許可が出て安心したトンチャンは、そそくさと布団に座った。ジョンミョンはそのすぐ近くに座って顔をまじまじと見てはくるが、それでも決して上座に座ろうとはしない。トンチャンは意を決して訳を聞いた。
「あの……何故、旦那様は上座に座ろうとなさらないのですか?常民の俺を、両班のあなた様が気遣う必要は……」
「全く。何を申すか。」
そう言うと、ジョンミョンは突然座り直して両手を前につき────深々と頭を下げた。
「やっ、やめてください!旦那様!頭をお上げになってください!困ります!」
慌ててトンチャンが頭を上げさせようとしても、ジョンミョンの姿勢はそのままだ。彼は震える声でこう言った。
「───────娘を助けてくれて、ありがとう。娘が私のもとに無事帰ってこれたのは、そなたのお陰だ」
「そんな……俺はただ……」
「そなたがチョン・ナンジョン商団で働いていることは知っている。そんなそなたが娘を助けることが、どれ程危険なことかは察しがつく。いや、想像以上かもしれん。なのにそなたは……」
トンチャンはため息をつくと、目を細めて話し始めた。
「……俺は一年前のある日、お嬢様をお守りできませんでした。ですから、これでようやく借りが返せた程度です。……いえ。そもそも俺は、お嬢様から頂いた分を返せているとは思えません。それくらいに、お嬢様は俺に得難いものを下さいました」
ジョンミョンはその言葉の中に温かさを感じ、娘のことを少しでも知りたい、空白の時間を埋めたいとの一心でトンチャンに尋ねた。
「ヒャンユンが……娘が何をそなたに与えたのか、どんな日々を二人で過ごしてきたのか。全て教えてほしい。」
叱りを受けるのではないかと怯えるトンチャンに対し、ジョンミョンは力なく微笑みかけた。
「……私は、まことに幼い頃のヒャンユン以外を知らぬ。教えてくれ。父として、あの子の姿を知りたい。」
トンチャンは目を閉じると、初めて会ったときのことを思い返した。昨日のように生き生きと思い出せる瞬間の数々に、彼は愛しさを込めながら言葉へと紡ぎ始めた。
「お嬢様に初めてお目にかかったのは……忘れもしない、花香る春の日でした。暖かな日差しが心地よい眠りを誘うようなあの日、俺は市場通りでお嬢様をお見かけしたんです。遠目ではありましたが、すぐにわかりました。コン・ジェミョン様に内緒で出掛けていたため、服装は華やかではありませんでしたが、それでも気品と愛らしさが漂う方でした。」
トンチャンは目を閉じたまま開いた手を少し伸ばし、空中でそっと握りしめた。
「自由奔放であり、純真無垢であり、無邪気でもあったお嬢様────蝶のようなあの方は、俺の肩に偶然にも留まったんです。もちろん、近くには寄りました。ですが、あの方は俺を選んでくれた」
ジョンミョンが笑みを漏らした。トンチャンが娘に心奪われた瞬間の話だと気づいたからだ。
「それからしばらく、俺はあの人が誰か知りませんでした。大行首の娘だと聞いて、俺はあの人を遠く感じました。それでもお嬢様は俺を慕っていると証明してくれました。……二人で過ごした日常は、俺にとっていつのまにか掛け換えのないものとなっていました。なのに……俺は……」
「チョン・ナンジョンが、お前の知らぬところで娘を殺そうとした」
「ご存じなの……ですか?」
「ああ。それが大尹派首座として戻ることを決めた、私の理由だ」
そこまで聞くと、ジョンミョンはトンチャンが本当のヒャンユンの出自について、どれくらい知っているのかに興味を持ち始めた。
「娘のことだが……」
「ええ、全て聞きました。本当の生まれも、幼い頃にどんな辛い体験をなさったか。あの人が死んだと思ったあの日から、俺は生きる意味を無くしました。ですから、生き写しの人が現れて本当に驚いたんです。ご自分の正体を偽られたので、別人だと思って混乱しました」
苦笑いを浮かべていたトンチャンは、ふっと笑みをこぼした。胸に手を当てると、彼は目を細めて続けた。
「でも……もう、いいんです。あの人が生きていた。それだけでいいんです。どんな瞬間も愛さずにはいられないあの人が生きている。その事実だけで、俺はもう充分です」
それ以上は望まない。そう言っているようにしか思えなくて、ジョンミョンは目の前の男を疑った。婚姻を迫ってくると思っていたからだった。だからこそこの男に信頼を感じたのか、彼はトンチャンの手を握った。
「……娘を、養父と会わせてやってほしい。あの人には返しても返しきれない恩があるのに、まだあの子が生きていると知らぬのだ」
「それが終われば、俺は消えればいいですか?」
「いいや。そなたさえ良ければ、娘のそばに居てやってくれ。傷ついたあの子を、私が癒せないその傷をどうか癒してやってほしい」
「旦那様……」
トンチャンは深々と頭を下げた。そして、このやり取りを聞いていた人物がもう一人、部屋の外に居た。
カン・ソノだった。彼の心はジョンミョンが抱いたトンチャンへの信頼を見て、酷く揺らいでいた。
───────ヒャンユンお嬢様をお守りできるのは、私ではなく……シン・ドンチャン、お前だというのか?
ヒャンユンのために選ぶべき道はどれなのか。そして僅かでも自分にまだ可能性のある道はどれなのか。その二つを比較すれば、とるべき道は決まっていた。
空を仰いで拳を握りしめると、ソノは道を進むべく部屋をそっと後にするのだった。
帰宅したヒャンユンは部屋へは向かわず、使用人たちが固唾を呑んで見守るなか厨房に立っていた。
「出来るわよ、これくらい。私はね、両班の令嬢としてよりも平民の小娘で居た方が長いの!」
「ですが……」
「みてなさい。全く……」
そう言うと、ヒャンユンは手際よくチヂミを作り始めた。つまみ食いをするトンチャンを叩いたことや、夫婦ごっこをしたこと。そんな甘い出来事が次々に思い返される。
出来上がったチヂミを部屋へと運んだヒャンユンは、隣に膳を置いて眠っているトンチャンを眺めた。
「……素敵なお顔。とても……素敵」
もっと近くで見ようと身を乗り出した時だった。狸寝入りをしていたトンチャンが、ヒャンユンの身体を引き寄せて布団へと抱き寄せたのだ。彼女の口から小さな悲鳴が漏れる。
「きゃっ……!」
「へへっ。捕まえたぜ、ヒャンユン」
「ち、ちょっと!傷が開いちゃうわよ」
「大丈夫だって。俺、治りはいいんだよ」
「そういう問題じゃなくて……」
トンチャンはそんなヒャンユンの唇に人差し指を当てて黙らせると、そっと愛しそうに頬を撫でた。
「俺の、ヒャンユン……」
「ト、トンチャン……」
「好きだ。愛してる」
頬から更に指を滑らせ、トンチャンは彼女の首筋にそっと触れた。ぞくりとしたのか、肩が僅かに動く。そんな様子も愛しそうに見つめると、トンチャンはゆっくりと首に口づけをした。とても長い口づけだった。
「あっ………」
「……お前は、可愛いよ。とても、とても可愛いよ。そうやって俺の愛を、お前はずっと受け止めてくれた」
言葉が紡ぎ出される度に吐息が首もとに当たるせいで、ヒャンユンはずっと赤面していた。だが、トンチャンの想いは止まるところを知らない。今度は頬に吐息が当たる距離にまで顔を近づけてきたのだ。
「だけどな。お前に今まで渡してた想いは、全然俺の気持ちと比べりゃ足りない」
「つ、つまり……?」
トンチャンは攻撃的な笑みを漏らすと、ヒャンユンの唇をそのまま奪った。
「……死にかけて気づいた。俺は、お前が好きだ。死んでもいいくらい好きだ。だから、もう迷わねぇ。お前がどこの誰であろうと関係ねぇ。俺が愛するこの気持ちを、素直に示したい。────この命が有る限り。」
「トンチャン………」
「お前を、守る。絶対に守り通してみせる。あと何回斬られようとも構わねぇ。………だから、居られる限り側に居てほしい」
ヒャンユンを抱き締めると、トンチャンは目を閉じた。彼女の温もりに安心と儚さを感じながら。
普通に歩けるほどまでなんとか回復したトンチャンは、ヒャンユンの機転で商団に潜入している団員を通して取り計らいがあったものの、ミン・ドンジュに適当な言い訳のせいで散々叱られた。おかげで時間外業務に追われることとなり、まだ癒えない傷を抱えたまま残業をこなしていた。
ようやく仕事が片付き、今日はゆっくり寝ようと思って帰路についていた彼は、歩きながら背後に気配を感じた。
────誰だ?俺をつけるなんて。……まさか、大行首か!?
トンチャンが背後を向いた瞬間、影は彼に剣を突きつけた。だが咄嗟にかわしたトンチャンは、力任せに相手を叩きつけた。
「誰だ!?」
「私だ。……覚えているか?シン・ドンチャン」
その声に聞き覚えがありすぎて、トンチャンは息をのんだ。
「………カン・ソノ…………!」
「その言い方だと、あまり良い印象は無さそうだな」
ソノは剣を仕舞うと、トンチャンと対峙するような形で立ち上がった。身構える彼に言い訳もせず、ソノは淡々と話し始めた。
「ヒャンユンお嬢様に危険が迫りつつある」
「だろうな。てめぇら、ちゃんと守ってんのか?ご主人に鈴でもつけたらどうだ」
「そうしたい気持ちはやまやまだ。……我々で力不足だと、お前は思うか?」
トンチャンは間髪入れずに頷いた。瞳は怒りの色に染まっている。
「ああ!当然だ!お前らなんて信用できやしねぇよ」
ソノはため息をつくと、毅然とした態度でトンチャンを見た。そして、ゆっくりと口を開いた。
「────だったら、お前が守れば良い」
「……は?」
「お前が私とイ・ジョンミョン様の推薦を受け、ヒャンユンお嬢様を傍でお守りする黒蝶団の護衛武士になれ」
トンチャンは自分の耳を疑わざるを得なかった。自分がヒャンユンを想い、またヒャンユンから想われていることは知っているはずだ。そして同じ男なら、その事に対する煮えたぎるような嫉妬心の強さは察しがつく。
ソノはそんなトンチャンの疑いを汲み取るかのように、苦笑いを浮かべた。
「……自分でも、馬鹿なことをしていると思う。だが、お前にしかもう頼れない。あの人の傷ついた身も心も、私でなくお前を欲している」
トンチャンは少し考えると、視線をそらすことなくソノに問いかけた。
「もし、護衛武士になると言えば?」
「黒蝶団の中でも強者たちが集う護衛武士の試験を受けてもらう」
「強者って……それじゃあ俺の勝ち目は最初からねぇってことか」
「いいや。それは違う」
鼻で笑うトンチャンに対し、ソノは剣をもう一本差し出した。トンチャンの目が点になり、真顔に返る。
「───お前は必ず護衛武士になれる。私が稽古をつけよう」
目の前に差し出された柄とソノの表情を見比べ、トンチャンは不敵な笑みを浮かべた。
「俺を雇うのは高くつくぜ、カン様」
「勘弁してくれ」
トンチャンは差し出された剣を取ってそう言ってみせた。その瞳は、不安ではなくヒャンユンと共に生きる道を歩み始めたという、確かな希望に輝いているのだった。
その日から、晩と明け方にかけてトンチャンの訓練が始まった。ソノは思った以上に筋があると見込んだのか、開始数日で指導に熱が入り始めていた。
「もっと早く!足が動いていない。やり直し!」
「ちょっと……流石に休憩させてくれよ……」
疲労困憊のトンチャンに対しても、ソノは厳しかった。
「だめだ。護衛に休憩はない。それに太りすぎだ」
「仕方ねぇだろ?何年も女に相手にされてなきゃ、食う以外にやることなくなるって」
「全く……聞けば聞くほど、お前をお嬢様が選んだ理由がわからん」
トンチャンは立ち上がると、渋々もう一度剣を構えた。
ソノは口に出して誉めることはしなかったものの、トンチャンの才能に気づいていた。普通の体探民候補生が一ヶ月でこなす内容と習熟度を、トンチャンはものの数日単位で会得していくのだ。
──────これは、可能性があるかもしれん。
「お前、何が得意だった?」
「半殺しとかか?」
「馬鹿者。剣や弓、槍のことだ!」
トンチャンは少し考えると、柄を回しながら答えた。
「ああ、それなら弓だな。自慢じゃねぇが、これだけは外したことはねぇ」
「弓か……一度やってみろ」
剣を置かせると、ソノはトンチャンに弓矢を差し出した。言葉通り、慣れた手つきで矢をつがえると、トンチャンは真っ直ぐに弦を引いた。その横顔は、いつものしまりのない笑いかたからは想像もつかないほどに凛々しかった。
一本目は、真っ直ぐに的の中央を正確に射抜いた。トンチャンはすぐに二本目をつがえると、今度は的枠の両端を狙った。当たるか当たらないかの絶妙な距離を計算しつつ、彼は矢を放った。結果はやはり、命中だ。
ここでソノはある事実に気づいた。
──────構えてから射るまでの時間が短い……!それでいて正確を期しているとは……あの体型と性格からは考えられないような緻密さだ。
彼が思わず感嘆している間も、トンチャンは射続けていた。結局合計で矢は六本使われ、中央・的端の四隅に放たれた矢はすべて命中だった。だが、六本放ったはずの矢が、一本だけ見当たらない。ソノはやはり検討違いかと言いたげに彼を見た。ところがトンチャンは自信ありげに彼を的まで連れていくと、 的下に落ちているものを取って渡した。
「これが、俺の特技です」
「これは──────!! 」
一見木切れのように見えるそれは、なんと真っ二つにされた矢だった。そう、トンチャンは矢の中に矢を射たのだ。この卓越した技術には、流石のソノも舌を巻かざるを得なかった。
「一体、どこでこんな技術を……」
「ちょっと、昔モテたくてな」
そんな風に本気か嘘か見分けがつかないような返答をして不敵に笑うトンチャンを見ながら、ソノは確かに僅かな尊敬の念と可能性を感じているのだった。
そして、ついに試験の日が来た。手にはソノが書いた推薦状が握られている。トンチャンは深呼吸して、会場である私有地の門に手をかけた。
──────俺の人生は、もう計算通りには行かないだろう。でも、いいんだ。計算していた人生の中に、ヒャンユンと出会う項目は無かった。そして今も、あいつを愛してる。
息を吐ききり、彼は顔をあげた。
──────行こう。あの人が笑って暮らせる未来のために。
扉が開かれる。目の前に現れたのは、意外にもヒャンユンだった。なにも知らない彼女は、ただ目を丸くして立ち尽くしている。
「トン……チャン?」
「カン・ソノ様の推薦を受け、試験を受けに来ました。あなたを守るために」
二人の間に、秋の訪れを告げる風が吹いた。ヒャンユンを見つめるトンチャンの瞳に、もう迷いはなかった。
これが、彼の選んだ道なのだから。