9、明かされ始める真実
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トンチャンの視線を振りきり、ヒャンユンはその場から逃げ出した。辛いことが多すぎて、一人でもう抱えきれない。犯人は、この男なのだから。ヒャンユンは辛さが先行する中で、誰に話せばいいのだろうかと考えた。だが、どうしようもない。テウォンには話せない。オクニョには口が裂けても言えない。
いや、言わなければならない。だが言えないのだ。ヒャンユンはため息をつくと、空を見上げることしかできないのだった。
オクニョはその頃、チョンドクを助けるため、罪人の代わりに裁きを受ける外知部になるべく猛勉強を重ねていた。
「あの日、あの方向に行った人は居ないのかしら………」
「はぁ………ちょっと色々聞いてみますね。」
オクニョは証人を探していた。現在調べてわかっていることは、チン・スミョンを検視した検視官、捕盗庁の隊長、そして捕盗庁側の証人は公平でない。そして何より、チン・スミョンはチョン・ナンジョンの金庫番であり、死因も刺殺ではなく毒殺だったのだ。
「この事件、全てがおかしいわ。きっと誰かが知ってると思うんだけど………」
間違いないことはただひとつ。チョンドクはスミョンを殺していない。それだけは間違いなかった。
兵曹のキム・テジョンが、裁きの中心となるのならばと思うと、オクニョは自然とある人物の手助けが必要であると気づいた。
「ちょっと、行ってくるわ」
オクニョは立ち上がると、素素樓を尋ねた。案の定、そこにはナビが居た。ナビ───イ・ヒャンユンの父は兵曹判書イ・ジョンミョンだからだ。本当はあまり迷惑をかけたくはない。だが、どうしようもない。オクニョ自身も、今回はどうすればいいのかが分からないからだ。
「………ナビ………」
「オクニョ………?」
「ナビ……………!!!」
憔悴したオクニョの様子を一目見て、ナビは事が思わしくない方向に進んでいることを悟った。
「どうしたの………」
「ナビ………おじさんを助けて…………お願い………」
「落ち着いて、オクニョ。ねぇ………」
泣きついてくる親友をなだめながら、ナビはあの夜のことを思い出していた。
────恐らく、犯人はあの人…………けれども……
「ナビ、兵曹に公平なお裁きをしてもらえるように………」
「オクニョ………」
「無理なら、あの日におじさんを見ていないっていう人を探して!お願い!ナビ!」
親友の悲痛な訴えに対し、心動かされたナビは苦し紛れに頷いた。重い口を必死に押し上げて、声を出す。
「…………証言に、立つわ」
「──え?」
「あの日、素素樓の用事で外出したの。そのときに、チョンドクさんが居るはずの時間に彼が居なかったことを証言できる。」
オクニョは目を丸くして飛び上がり、ナビの肩を掴んだ。
「何か見ていない?他には?何か見た?」
───今日そなたを見たことは、口外せん。
約束したのだ。彼の意思ではない。今までもそんなことをしたことは……………
ナビはふと、過去にトンチャンが怪我をして落ち込んでいたことがあったなと思った。そしてその直後、安国洞のキム氏に仕えていたミョンソルが他殺遺体で見つかった。ミョンソルを殺したのは一体誰なのか。ナビは警鐘を鳴らす脳に逆らい、オクニョに尋ねた。
「…………オクニョ。安国洞の奥様を殺したのは、誰なの?」
「チョン・ナンジョンとミン・ドンジュ、そして協力したのはミョンソルよ。」
「…………じゃあ、ミョンソルは誰に殺されたの?」
オクニョが返答に詰まる。それだけでもう、答えは出ていた。
「────トンチャンが、殺したの?」
「……………そうよ、ヒャンユン。あなたの想い人が、あなたが母と慕っていた人を殺したのよ。ミョンソルがあのとき、兵曹のキム・テジョン様に証言していれば、奥様は死なずにすんだのよ!」
オクニョの言葉に耳を塞いだナビ───ヒャンユンは叫んだ。
「その名で呼ばないで!私はナビ。ファン・ナビになったの!ヒャンユンは死んだ!コン・ヒャンユンはあの日、死んだの!」
「ヒャンユン。あの男の相を初めて視たとき、私は知ってしまったの。あの男の目に、赤い格子模様が見えていた。それが何を意味するか、わかる?」
「やめて………やめて………」
「────それは、入獄の相なのよ」
ヒャンユンはオクニョを見上げ、涙目で彼女を注視した。そんな様子を見て、オクニョは一目であの夜彼女が何を見たかを悟った。
「…………トンチャンを、見たの?」
「聞かないで。私に何も──聞かないで!」
「トンチャンを見たの?ヒャンユン!こっちを見て!」
「見てない!知りたくない!もうやめて!あの人を何も知らないくせに。皆あの人の何を知っているというの!?」
「あなたこそ、トンチャンの全てを知っていると言い切れる?」
ヒャンユンの表情が硬直する。全てを知っているかという問い。
それには結局、はっきりと答えることはできないのだった。
二人のやり取りを密かに聞いている影がある。マノクだ。オクニョが何度もヒャンユンと激昂して呼んでいるのを見て、確実に同一人物であることに行き当たったのだ。だが、たしかな証拠がない。
マノクはナビが普段から誰も入れないように計らっている場所を、一つだけ知っていた。それは彼女の部屋だった。スリの勘が騒ぐ。
───絶対、そこに何かあるはず。裁きの日にはナビは素素樓に来ない。昼間はみんな寝てるし、その日が機会ね。
マノクは好奇心溢れる瞳を輝かせ、何度も静かに頷いた。絶対に正体を暴いてやる。そう決意して。
そして、裁きの日がやって来た。ナビはひとまず傍聴人として、その場を観察していた。ふと、その視線がトンチャンを捉える。ナビには気づいていない様子だが、その表情は安心そのものだった。
────あなたは、変わってしまったの?それとも、前から同じなの?どうして?私が見ていたあなたは………愛したあなたは……
別人だったのか。ナビにはもうわからなかった。だがその不安が、ますます彼女を罪悪感に追いやっていく。
裁きが始まった。案の定チョンドクは有罪だったが、そこへオクニョが外知部として登場し、なんとか代理で裁きを受けることを許された。毒殺であることを主張し、証人が目を患っており証言は無効であり、更には動機であるスミョンからの借金も帳消しになっていることを証明してのけた。
場をひとしきり沸かせてから、オクニョはナビの方を振り向いてこう言った。
「さて、証人を一人呼んでいます。ここに連れてきても?」
「証人、前へ出なさい。」
ナビの表情が固まる。足が思うように前へ出ない。歩かなければ。行かなければ。これ以上あの者たちのせいで命を落とす者を出すわけにはいかない。行け、ファン・ナビ!歩け!返事をしろ!
ナビは必死に自分にそう言い聞かせた。だが、オクニョもナビ自身も、やがてこの状況で気づいた。証言を拒んでいるのは、ファン・ナビではないと。他でもない、死んだはずのコン・ヒャンユンであると。
ヒャンユンの脳裏に、様々な思い出が次々と流れていく。
『俺は、トンチャンだ。曰牌のトンチャン兄貴………と言えばすぐに誰でもわかる』
あのとき、自分も兄貴と呼んだほうがいいのかと尋ねたせいで、トンチャンは初めて笑いかけてくれた。
『似合ってる。綺麗だと思う。』
髪飾りを褒めてくれたトンチャン。
『ヒャンユンが、初めて俺を信じさせてくれたからだ。何も信じられない人生を生きてきた俺が、たった一人信じられる人が、ヒャンユンだからだ』
不器用でも、愛を語るときは真っ直ぐだった。
『───好きだ。』
どれほど嬉しかったか。トンチャンに愛されて、ヒャンユンは幸せだった。
痛いほど、幸せだった。
「────はい」
皆が息を呑んで見守る中、ヒャンユンは長すぎる時間の後に返事をした。その両目には涙が湛えられている。
「証言します。名はファン・ナビ。素素樓の代理管理人です」
その名を聞いてトンチャンは耳を疑った。
───ナビが?なんだってここに?まさか…………
思い当たることは一つしかない。あの晩のことを証言する気か!トンチャンは焦ってミン・ドンジュに耳打ちしようとした。だが、肝心のドンジュの方が呆然としている。
「何故……あの娘が………?」
「ドンジュ。違う。あの娘は死んだはずだ。他人の空似だろう」
「いいえ、あれほど似ている者が居ますか?ありえません。もしや…………」
それもそのはずだ。ドンジュは確かにあの日、ヒャンユンを殺害するように指示を出した。だが、気がかりなことがある。遺体が見つかっていないのだ。一体これはどういうことなのか。一年前の胸騒ぎが甦る。
ドンジュの動揺に、トンチャンは違和感を感じていた。何故大行首が動揺するのか。自身が経験した、死んだ娘が生きているのではという程度の驚き加減ではない。これはまるで………
息の根を止めたはずの人間が、目の前に現れたかのような反応のようにトンチャンには思えた。
────まさか、大行首様たちがヒャンユンを………?
「あの晩、私は外出していました。ですがその時間に、私は会わなければ不自然な方と一度もすれ違いませんでした。」
「それはどういうことだ」
テジョンが身を乗り出す。ヒャンユンは一言一言を慎重に選びながら、重ねていった。
「…………チ・チョンドクです」
「何…………!?それは確かか?」
「はい。そして被害者の家の近くを偶然通ったとき、あまりはっきりとは見えませんでしたが……………」
トンチャンが息を呑む。ヒャンユンは両目から涙が溢れそうになるのを必死でこらえ、上を向きながら続けた。
「確かに何かが家の脇に落ちており、僅かな光を受けて反射していました。」
「短刀か…………」
「つまりチョンドクが居ない代わりに、短刀が落ちていたと?」
「はい。そして、私はこの証人が通った道を通りましたが、すれ違ってすらいません」
ヒャンユンは証人───恐らく犯人たちによって買収された者を睨み付けた。その鋭い眼光に、証人はたちまち萎縮した。だが、まだテジョンの追求は止まない。
「では、ファン・ナビ。そなたは、短刀を落とした……あるいは置いた者を見たか?」
ヒャンユンは目を閉じた。そして黙りこんでしまった。自らの手で、全てを終わらせることのできる絶好の機会を逃すというのか。いや、言ってはいけない。あれは本心から犯したくて犯した罪ではない。トンチャンも被害者なのだ。ヒャンユンの中で再び葛藤が起こる。だが、今回は決断する必要はなかった。
「はい、見まし───」
「貴様!先程の証人のときも、月明かりが充分ではなかったため、人の顔を識別できる状況ではなかったと証明されていただろう!」
捕盗庁の隊長がそうわめき散らした。土壇場の巧妙な切り返しだ。オクニョも、自分の証明したことと矛盾しては困ると思い直し、ヒャンユンに切り上げていいと目で合図した。しかもこれで人影はチョンドクだったかもしれないと追求されでもしたら、自傷自縛の行為になってしまうやもしれない。
ヒャンユンは素直にオクニョの意図を読み取り、何食わぬ顔で返答した。
「───暗かったので、そこまではわかりませんでした。」
「そうか。ご苦労であった」
「はい。」
ヒャンユンは再び傍聴人として後ろに下がった。だが今度はトンチャンの視線をはっきりと感じた。
───どうして、言わなかった。オクニョと結託して俺を追い込み、捕らえる絶好の機会なのに。どうしてお前は俺を………俺を庇ったんだ?
その間、ヒャンユンは必死に自分に言い聞かせていた。
────違う。勘違いしないで。あなたを庇ったんじゃない。私はただ、オクニョの指示に従ったまで。裁きを有利に持っていくために黙っていただけ。私は…………
だが、明らかな安堵がヒャンユンの心を占有していた。彼女は耐えきれなくなり、裁きの結果も待たずして静かにその場を後にするのだった。
マノクは首尾よくソジョンたちを避け、ナビの部屋に忍び込んでいた。部屋は簡素で、妓楼の一室というのにどこか殺風景だった。
「さて……探して見つけて、ずらかるわよ。」
マノクは腕捲りをすると、怪しげな場所に目星をつけ始めた。まずは戸棚。しかし何も出てこない。続いては掛け軸の裏。これも外れ。そして最後の頼みの綱だった、屏風の裏と机の中も収穫なしだった。マノクはため息をつくと、座布団に座り込んだ。
「やっぱり、勘違いなのかしら……」
彼女は怒りに任せて、ほんの少しだけ机を拳で叩いた。すると、普通の机からはしないような音がした。
「……ん?」
再度叩いてみる。また同じ音がする。良質な木で出来ているはずの天板が、何故か空洞のありそうな軽い音を立てるのだ。それと同じ音を、マノクは聞いたことがあった。
────壁の隠し金庫だわ!
それはある中人の家にあった、手の込んだ仕掛けだった。壁と家の間に出来た空洞を利用し、手形などを保管していたものだった。つまり、あのときと同じ音がこの机の天板から鳴っているということは………
マノクの身体は考えるよりも先に動いた。天板と引き出しの間に隙間を探し、持ち上げ始めたのだ。そして一見彫り装飾に見えた部分に力をかけた瞬間────
天板が持ち上がった。そしてマノクは息を呑んだ。
「嘘…………でしょ………?」
天板と引き出しの間には、睨んでいた通りに隙間があった。だが、彼女を驚かせたのはその仕掛けではない。そこにある物だった。
そう、見覚えのある…というより忘れようのない男の肖像画と目があったのだ。
「トンチャン………?」
いつもチョンドンを殴っていたから知っている。だが、絵の中のトンチャンは、今まで見たこともないような優しい表情をしている。そして、マノクを驚かせたものはそれだけに留まらない。最も彼女を驚愕させたのもの。それは…………
かつて彼女自身がコン・ヒャンユンから掏り、お陰で典獄署に入れられるきっかけとなったあの蝶の髪飾りだった。同じものがあるはずがない。特徴的で凝った細工は、細部まであのときのままだ。
「嘘……でしょ………?」
そしてマノクは悟った。自分の勘は間違いでも思い過ごしでも何でもなく、紛れもない事実だったことを。そして、ファン・ナビがコン・ヒャンユンは、違いようのない同一人物であるということを。
だが彼女が呆然としていると、外に突然気配を感じた。慌てて蓋を閉めたマノクは、咄嗟に屏風の裏に隠れた。細身の彼女はみごと、綺麗に上手く収まっている。
そして部屋にナビ───コン・ヒャンユンが入ってきた。マノクは息を殺し、目を閉じている。
だが、元体探人相手に戦うことができるヒャンユンが、マノクごときに気づかないはずはない。彼女は刺客の可能性を疑い、静かに短刀を取り出して抜いた。まっすぐ握り直し、じりじりとマノクの隠れている屏風に近づいていく。
そして、その刹那。ヒャンユンが短刀を持っている手を一閃させた。美しくもどこか物悲しい屏風に、無惨にも穴が開く。そしてその切っ先は、マノクの目と鼻の先で止まった。
「ひっ………」
必死に声を圧し殺しているつもりでも、その口からは恐怖の吐息が漏れる。ヒャンユンは剣を持って鞘から抜くと、構えて屏風を一刀両断した。
「─────ここで、何をしている。」
「ち、ちょっと用事で………」
「何を見た」
「何も見てないわよ!本当よ!」
恐怖に萎縮し、いつもの威勢を無くしたマノクに短刀を突きつけると、ヒャンユンはその手をつかんだ。
「なっ、何を………」
「机を開けたわね」
何故解るのかと聞こうとして、マノクは自分の手を見てはっとした。天板を押し上げて裏に触った部分に、黒い粉のような何かがついているのだ。それは百済の王朝の技術書に使われていたものと同じ特殊な粉で、誰かが触った痕跡を知ることができるものだった。
「………だったら教えてよ。あんた、何で正体を明かさないの?」
開き直るしかないマノクは、逆にヒャンユンに問うた。すると、その表情が今まで見せたこともないくらいに苦痛に歪んだ。
「────私は、あの人の傍には行けないからよ」
「どうしてよ!好きなんでしょ?他の女がいるわけでもあるまいし…」
「出来ないのよ!私は……………私は、イ・ジョンミョン大監の娘なの。コン・ジェミョン大行首は、養父だった。私の母はチョン・ナンジョンに殺され、私も幼い頃に殺されかけた。そして行方不明になったあの日も、私はあの女に命を狙われた。生き残るために、家族の無実を晴らすために、私はファン・ナビとして生きる道を選んだの。黒蝶団の団長として、あの人に刃を向ける存在になることを!」
全てを話し終えたヒャンユンは、泣いていた。マノクは一部始終を聞き終え、呆然としている。
「あんたは……嘘つきだ。あの男を守るために、あんたは正体を明かさないんだ」
「…………そんな綺麗事で済む話なら、どれ程良いことか」
ずっと本心を隠し、愛する人に冷淡に接し続けることはどれほど辛いのだろうか。そう思うと、不思議とマノクの心の中に、ナビ───ヒャンユンへの共感が沸いた。
「ずっと、嘘をつき続けて、辛くないの?」
「それが、あの人を苦しませずに済む方法だから。」
真実を知れば、きっとトンチャンはヒャンユンのために命を捨てる覚悟で手を貸すだろう。だからこそ、言うことができない。帰りたくても身分のせいでどのみち帰れないのならば、自分一人が辛い思いを隠し通せばいい。
きっと、ヒャンユンはそう思ってる。でも…………
「こんなの、間違ってる」
「え………?」
マノクは机の天板をもう一度押し上げると、トンチャンの肖像画を取り出し、ヒャンユンの目の前に突き出して叫んだ。
「こんなの、間違ってる!あんた、この人がどんな思いで生きてきたと思ってんの?あんたの帰りをずっと待ってるのは、他の誰でもないこいつなんじゃないの?」
その言葉はヒャンユンの頭に、間違いなく大きな衝撃を与えた。
「私はあいつが嫌いよ。チョンドンさんとマンスのことをいつも殴るし、指示があれば簡単に誰かを手にかけられる。そんな最低なやつだけど!だけど、あんたには違った!あんたはあいつに間違いなく愛されてた!私がチョンドンさんを好きなように……いいや、それ以上にトンチャンはあんたを愛してんのよ!?」
マノクは続けた。
「この1年間、チョンドンさんが言ってた。あんたが死んでから、もっとトンチャンは狂暴になったって。何をしても本当に平気になっちゃったって。あんたが辛うじて繋ぎ止めていた、良心ってものが無くなったのよ!チョンドンさんはいつも殴られるけど、絶対に殴り返さない。なんでか分かる?」
ヒャンユンは黙っている。
「それは………チョンドンさんは自分を殴りたいんじゃなくて、やり場のない怒りが消えないからなんだって!いつもそう言って青あざを作ってた。トンチャンの痛みは、もう永遠に消えないから…………永遠に、苦しみ続ける呪縛になるからって………殴り返せないのよ………可哀想だから………」
マノクは勢いに任せて全て言い終わり、肩で息をしている。ヒャンユンは肖像画を見て、震える手を伸ばしてその指先でそっと触れた。
「トンチャン………………」
────愛してる。あなたを、私は愛してる。
「あんたのこと、黙っとくから。あとは自分で考えな」
そう言い残すと、マノクは絵を手放して去っていった。そして、ヒャンユンはどうしようもないくらいに遠くへ来てしまったと感じながら、絵を抱き締めて泣くのだった。
トンチャンはチョンドンとマンスを呼び出していた。自分を騙していたこの男たちを頼ってでも、どうしても知らなければならないことがあったからだ。彼は商団の団員名簿を叩きつけると、チョンドンにこう言った。
「この中で、この日を境に都から行方をくらました団員が8人いる。そいつらを探しだして、俺のとこにつれてこい」
トンチャンは更に一枚の紙切れを取りだし、チョンドンに掴ませた。彼はそれを見て目を丸くし、息を呑んだ。
「あっ………兄貴………この日は………」
「そうだ。一年前、コン・ヒャンユンが死んだと思われる日だ。」
「でも、どうしてこれを………?」
「理由は…聞くな。俺の、最後の意地だと思ってくれ。」
それは、トンチャンが初めて一度もチョンドンを叩かずに頼んできた依頼だった。二人は渋々承知すると、調査へ向かうためにその場を後にした。
残されたトンチャンは、独り思い返していた。あの裁きのあと、彼は密かにヤン・ドングの元を訪ねていた。
『ヤン・ドング様が、コン・ヒャンユンの事件を担当したんですよね?』
『ああ、そうだ。………いつか来るとは思っていたが、お前にずっと言わなきゃならんことがあったんだ。』
ドングは深呼吸すると、トンチャンにこう言った。
『恐らくだが………恐らくだ。ヒャンユンお嬢様は、生きてる。』
『えっ………?』
『お前は葬儀に出てないから知らんだろうが、一週間ずっと探し続けても遺体が見つからなかったんだ。遺体が見つからない場合、かなりの確率で…………』
トンチャンは驚きと困惑でうろたえた。
『そんな…………じゃあ…………』
『でも妙なんだよな。生きていたら、お前とジェミョン大行首に会いに行くよな。何か、会いに行けない事情でもあるんだろうか………』
そう。もしヒャンユンが生きており、すぐそばにいるとすれば……
「ナビ…………お前は………」
────本当に、ヒャンユンなのか?
もし違ったとしても、自分からヒャンユンを奪った奴等を暴かねば。せめてもの弔いに、真犯人とその意図を知らなければ。トンチャンは既にその疑いの目を、自分の上司であるミン・ドンジュとチョン・ナンジョンに向けていた。
そして、その予想はみごと的中した。数日後、チョンドンが名簿のうちの一人を連れてきたのだ。縛られた男は、トンチャンを見て明らかに怯えていた。
「兄貴………!助けてください………俺は………」
「安心しろ。今は大行首様や奥様の指示で動いてる訳じゃない。だから、あの日本当は何があったのか、包み隠さず教えろ。」
「兄貴!言ったら、兄貴は俺を絶対殺します。だから言えません!」
男は首を横に振っている。いつもなら剣を取り出して脅しにかかるトンチャンだが、今日は違った。なんと彼の方が膝をついて土下座したのだ。
「頼む!あの日、何があったのか。お前はコン・ヒャンユンの死について何か知っているのか。教えてくれ!あいつは……あいつは………俺の…………」
「婚約者だった……ですよね」
「そうだ。たった独りの、大切な人だった。だからあいつの死に際と、殺害を指示した奴を知らなきゃならねぇんだ!」
男はしばらく考えると、重たい口を開いて尋ねた。
「…………黒幕を知ったら、どうするつもりですか?」
「そいつに復讐する。例えどんなに大きな相手だろうとも」
トンチャンは本気だ。男はようやく全てを話す覚悟を決めたようで、渋々あの日のことを話し始めた。
「俺は、兄貴以外で腕の立つ奴等を七人集めました。それで、大行首様からの指示を待ったんです。」
トンチャンは、やはりと言いたげに頷いた。だが、男の話はそれでは終わらない。
「ところが…………そこに来たのは大行首様だけではありませんでした。」
「どういうことだ?」
「奥様も居たんです。俺はそのとき、とんでもないことに巻き込まれたと思いました。」
「そんな………奥様が………真の黒幕……」
トンチャンは大きすぎる敵に愕然とした。だが男の話はまだ続く。
「俺たちは、コン・ジェミョン大行首の娘を殺害するように命じられました。独りで行動することがほとんどのお嬢様を殺害するのに、しくじるなんてありませんでした。ですが…………」
男の顔つきが、苦悶の色に変わった。
「ですがお嬢様を助けに、この世の者とは思えないほどに腕が立つ男が、二人も出てきたんです。」
「それで!?ヒャンユンは!?」
「ヒャンユンお嬢様は……………」
トンチャンが見守るなか、男は呟くように答えた。
「─────お嬢様は、俺たちが仕損じたせいで助かりました。つまり、あれから何事も起きていなければ………お嬢様は生きてるんですよ、兄貴。」
トンチャンは呆然としてふらつく足を抑えられず、床に膝から崩れ落ちた。
「唯一残った俺は、男のうちの一人にさんざん脅されて、大行首や奥様に殺害したと報告しろと言われました。そうすれば家族と俺の命は守ってやると。」
残りの経緯は、既にトンチャンの耳には雑音程度にしか聞こえていなかった。
ヒャンユンが生きている。この世界のどこかに、まだ生きている。ファン・ナビが赤の他人だとしても、少なくともヒャンユンはまだ生きている。そんな希望がトンチャンの心を照らした。ずっと諦めず、想い続けてようやく報われたのだ。
「ヒャンユン……………待ってろ………必ず………お前を探しだしてみせる。」
──今度はもう二度と、失わないように。
一方、ヒャンユンの姿は黒蝶団の本拠地にあった。チョヒが彼女に計画書を手渡す。
「…………今日、民に届けられるはずの米を奪い、自らの倉に納めるチョン・ナンジョンの配下を襲う。そして米は餓えに苦しむ地域の民に無償で配る。」
「はい!」
「位置につけ。夜に始める」
夕日がヒャンユンの横顔を照らしている。それを複雑な思いで見ていたのは、やはりカン・ソノだった。
────お嬢様。私の愛したお嬢様に、いつ戻ってくれるのですか。私は、あなたの帰る場所には成れぬのですか?
決して戻ることは許されない男と、その権利を持つ男。二人の運命が、交差しようとしていた。
いや、言わなければならない。だが言えないのだ。ヒャンユンはため息をつくと、空を見上げることしかできないのだった。
オクニョはその頃、チョンドクを助けるため、罪人の代わりに裁きを受ける外知部になるべく猛勉強を重ねていた。
「あの日、あの方向に行った人は居ないのかしら………」
「はぁ………ちょっと色々聞いてみますね。」
オクニョは証人を探していた。現在調べてわかっていることは、チン・スミョンを検視した検視官、捕盗庁の隊長、そして捕盗庁側の証人は公平でない。そして何より、チン・スミョンはチョン・ナンジョンの金庫番であり、死因も刺殺ではなく毒殺だったのだ。
「この事件、全てがおかしいわ。きっと誰かが知ってると思うんだけど………」
間違いないことはただひとつ。チョンドクはスミョンを殺していない。それだけは間違いなかった。
兵曹のキム・テジョンが、裁きの中心となるのならばと思うと、オクニョは自然とある人物の手助けが必要であると気づいた。
「ちょっと、行ってくるわ」
オクニョは立ち上がると、素素樓を尋ねた。案の定、そこにはナビが居た。ナビ───イ・ヒャンユンの父は兵曹判書イ・ジョンミョンだからだ。本当はあまり迷惑をかけたくはない。だが、どうしようもない。オクニョ自身も、今回はどうすればいいのかが分からないからだ。
「………ナビ………」
「オクニョ………?」
「ナビ……………!!!」
憔悴したオクニョの様子を一目見て、ナビは事が思わしくない方向に進んでいることを悟った。
「どうしたの………」
「ナビ………おじさんを助けて…………お願い………」
「落ち着いて、オクニョ。ねぇ………」
泣きついてくる親友をなだめながら、ナビはあの夜のことを思い出していた。
────恐らく、犯人はあの人…………けれども……
「ナビ、兵曹に公平なお裁きをしてもらえるように………」
「オクニョ………」
「無理なら、あの日におじさんを見ていないっていう人を探して!お願い!ナビ!」
親友の悲痛な訴えに対し、心動かされたナビは苦し紛れに頷いた。重い口を必死に押し上げて、声を出す。
「…………証言に、立つわ」
「──え?」
「あの日、素素樓の用事で外出したの。そのときに、チョンドクさんが居るはずの時間に彼が居なかったことを証言できる。」
オクニョは目を丸くして飛び上がり、ナビの肩を掴んだ。
「何か見ていない?他には?何か見た?」
───今日そなたを見たことは、口外せん。
約束したのだ。彼の意思ではない。今までもそんなことをしたことは……………
ナビはふと、過去にトンチャンが怪我をして落ち込んでいたことがあったなと思った。そしてその直後、安国洞のキム氏に仕えていたミョンソルが他殺遺体で見つかった。ミョンソルを殺したのは一体誰なのか。ナビは警鐘を鳴らす脳に逆らい、オクニョに尋ねた。
「…………オクニョ。安国洞の奥様を殺したのは、誰なの?」
「チョン・ナンジョンとミン・ドンジュ、そして協力したのはミョンソルよ。」
「…………じゃあ、ミョンソルは誰に殺されたの?」
オクニョが返答に詰まる。それだけでもう、答えは出ていた。
「────トンチャンが、殺したの?」
「……………そうよ、ヒャンユン。あなたの想い人が、あなたが母と慕っていた人を殺したのよ。ミョンソルがあのとき、兵曹のキム・テジョン様に証言していれば、奥様は死なずにすんだのよ!」
オクニョの言葉に耳を塞いだナビ───ヒャンユンは叫んだ。
「その名で呼ばないで!私はナビ。ファン・ナビになったの!ヒャンユンは死んだ!コン・ヒャンユンはあの日、死んだの!」
「ヒャンユン。あの男の相を初めて視たとき、私は知ってしまったの。あの男の目に、赤い格子模様が見えていた。それが何を意味するか、わかる?」
「やめて………やめて………」
「────それは、入獄の相なのよ」
ヒャンユンはオクニョを見上げ、涙目で彼女を注視した。そんな様子を見て、オクニョは一目であの夜彼女が何を見たかを悟った。
「…………トンチャンを、見たの?」
「聞かないで。私に何も──聞かないで!」
「トンチャンを見たの?ヒャンユン!こっちを見て!」
「見てない!知りたくない!もうやめて!あの人を何も知らないくせに。皆あの人の何を知っているというの!?」
「あなたこそ、トンチャンの全てを知っていると言い切れる?」
ヒャンユンの表情が硬直する。全てを知っているかという問い。
それには結局、はっきりと答えることはできないのだった。
二人のやり取りを密かに聞いている影がある。マノクだ。オクニョが何度もヒャンユンと激昂して呼んでいるのを見て、確実に同一人物であることに行き当たったのだ。だが、たしかな証拠がない。
マノクはナビが普段から誰も入れないように計らっている場所を、一つだけ知っていた。それは彼女の部屋だった。スリの勘が騒ぐ。
───絶対、そこに何かあるはず。裁きの日にはナビは素素樓に来ない。昼間はみんな寝てるし、その日が機会ね。
マノクは好奇心溢れる瞳を輝かせ、何度も静かに頷いた。絶対に正体を暴いてやる。そう決意して。
そして、裁きの日がやって来た。ナビはひとまず傍聴人として、その場を観察していた。ふと、その視線がトンチャンを捉える。ナビには気づいていない様子だが、その表情は安心そのものだった。
────あなたは、変わってしまったの?それとも、前から同じなの?どうして?私が見ていたあなたは………愛したあなたは……
別人だったのか。ナビにはもうわからなかった。だがその不安が、ますます彼女を罪悪感に追いやっていく。
裁きが始まった。案の定チョンドクは有罪だったが、そこへオクニョが外知部として登場し、なんとか代理で裁きを受けることを許された。毒殺であることを主張し、証人が目を患っており証言は無効であり、更には動機であるスミョンからの借金も帳消しになっていることを証明してのけた。
場をひとしきり沸かせてから、オクニョはナビの方を振り向いてこう言った。
「さて、証人を一人呼んでいます。ここに連れてきても?」
「証人、前へ出なさい。」
ナビの表情が固まる。足が思うように前へ出ない。歩かなければ。行かなければ。これ以上あの者たちのせいで命を落とす者を出すわけにはいかない。行け、ファン・ナビ!歩け!返事をしろ!
ナビは必死に自分にそう言い聞かせた。だが、オクニョもナビ自身も、やがてこの状況で気づいた。証言を拒んでいるのは、ファン・ナビではないと。他でもない、死んだはずのコン・ヒャンユンであると。
ヒャンユンの脳裏に、様々な思い出が次々と流れていく。
『俺は、トンチャンだ。曰牌のトンチャン兄貴………と言えばすぐに誰でもわかる』
あのとき、自分も兄貴と呼んだほうがいいのかと尋ねたせいで、トンチャンは初めて笑いかけてくれた。
『似合ってる。綺麗だと思う。』
髪飾りを褒めてくれたトンチャン。
『ヒャンユンが、初めて俺を信じさせてくれたからだ。何も信じられない人生を生きてきた俺が、たった一人信じられる人が、ヒャンユンだからだ』
不器用でも、愛を語るときは真っ直ぐだった。
『───好きだ。』
どれほど嬉しかったか。トンチャンに愛されて、ヒャンユンは幸せだった。
痛いほど、幸せだった。
「────はい」
皆が息を呑んで見守る中、ヒャンユンは長すぎる時間の後に返事をした。その両目には涙が湛えられている。
「証言します。名はファン・ナビ。素素樓の代理管理人です」
その名を聞いてトンチャンは耳を疑った。
───ナビが?なんだってここに?まさか…………
思い当たることは一つしかない。あの晩のことを証言する気か!トンチャンは焦ってミン・ドンジュに耳打ちしようとした。だが、肝心のドンジュの方が呆然としている。
「何故……あの娘が………?」
「ドンジュ。違う。あの娘は死んだはずだ。他人の空似だろう」
「いいえ、あれほど似ている者が居ますか?ありえません。もしや…………」
それもそのはずだ。ドンジュは確かにあの日、ヒャンユンを殺害するように指示を出した。だが、気がかりなことがある。遺体が見つかっていないのだ。一体これはどういうことなのか。一年前の胸騒ぎが甦る。
ドンジュの動揺に、トンチャンは違和感を感じていた。何故大行首が動揺するのか。自身が経験した、死んだ娘が生きているのではという程度の驚き加減ではない。これはまるで………
息の根を止めたはずの人間が、目の前に現れたかのような反応のようにトンチャンには思えた。
────まさか、大行首様たちがヒャンユンを………?
「あの晩、私は外出していました。ですがその時間に、私は会わなければ不自然な方と一度もすれ違いませんでした。」
「それはどういうことだ」
テジョンが身を乗り出す。ヒャンユンは一言一言を慎重に選びながら、重ねていった。
「…………チ・チョンドクです」
「何…………!?それは確かか?」
「はい。そして被害者の家の近くを偶然通ったとき、あまりはっきりとは見えませんでしたが……………」
トンチャンが息を呑む。ヒャンユンは両目から涙が溢れそうになるのを必死でこらえ、上を向きながら続けた。
「確かに何かが家の脇に落ちており、僅かな光を受けて反射していました。」
「短刀か…………」
「つまりチョンドクが居ない代わりに、短刀が落ちていたと?」
「はい。そして、私はこの証人が通った道を通りましたが、すれ違ってすらいません」
ヒャンユンは証人───恐らく犯人たちによって買収された者を睨み付けた。その鋭い眼光に、証人はたちまち萎縮した。だが、まだテジョンの追求は止まない。
「では、ファン・ナビ。そなたは、短刀を落とした……あるいは置いた者を見たか?」
ヒャンユンは目を閉じた。そして黙りこんでしまった。自らの手で、全てを終わらせることのできる絶好の機会を逃すというのか。いや、言ってはいけない。あれは本心から犯したくて犯した罪ではない。トンチャンも被害者なのだ。ヒャンユンの中で再び葛藤が起こる。だが、今回は決断する必要はなかった。
「はい、見まし───」
「貴様!先程の証人のときも、月明かりが充分ではなかったため、人の顔を識別できる状況ではなかったと証明されていただろう!」
捕盗庁の隊長がそうわめき散らした。土壇場の巧妙な切り返しだ。オクニョも、自分の証明したことと矛盾しては困ると思い直し、ヒャンユンに切り上げていいと目で合図した。しかもこれで人影はチョンドクだったかもしれないと追求されでもしたら、自傷自縛の行為になってしまうやもしれない。
ヒャンユンは素直にオクニョの意図を読み取り、何食わぬ顔で返答した。
「───暗かったので、そこまではわかりませんでした。」
「そうか。ご苦労であった」
「はい。」
ヒャンユンは再び傍聴人として後ろに下がった。だが今度はトンチャンの視線をはっきりと感じた。
───どうして、言わなかった。オクニョと結託して俺を追い込み、捕らえる絶好の機会なのに。どうしてお前は俺を………俺を庇ったんだ?
その間、ヒャンユンは必死に自分に言い聞かせていた。
────違う。勘違いしないで。あなたを庇ったんじゃない。私はただ、オクニョの指示に従ったまで。裁きを有利に持っていくために黙っていただけ。私は…………
だが、明らかな安堵がヒャンユンの心を占有していた。彼女は耐えきれなくなり、裁きの結果も待たずして静かにその場を後にするのだった。
マノクは首尾よくソジョンたちを避け、ナビの部屋に忍び込んでいた。部屋は簡素で、妓楼の一室というのにどこか殺風景だった。
「さて……探して見つけて、ずらかるわよ。」
マノクは腕捲りをすると、怪しげな場所に目星をつけ始めた。まずは戸棚。しかし何も出てこない。続いては掛け軸の裏。これも外れ。そして最後の頼みの綱だった、屏風の裏と机の中も収穫なしだった。マノクはため息をつくと、座布団に座り込んだ。
「やっぱり、勘違いなのかしら……」
彼女は怒りに任せて、ほんの少しだけ机を拳で叩いた。すると、普通の机からはしないような音がした。
「……ん?」
再度叩いてみる。また同じ音がする。良質な木で出来ているはずの天板が、何故か空洞のありそうな軽い音を立てるのだ。それと同じ音を、マノクは聞いたことがあった。
────壁の隠し金庫だわ!
それはある中人の家にあった、手の込んだ仕掛けだった。壁と家の間に出来た空洞を利用し、手形などを保管していたものだった。つまり、あのときと同じ音がこの机の天板から鳴っているということは………
マノクの身体は考えるよりも先に動いた。天板と引き出しの間に隙間を探し、持ち上げ始めたのだ。そして一見彫り装飾に見えた部分に力をかけた瞬間────
天板が持ち上がった。そしてマノクは息を呑んだ。
「嘘…………でしょ………?」
天板と引き出しの間には、睨んでいた通りに隙間があった。だが、彼女を驚かせたのはその仕掛けではない。そこにある物だった。
そう、見覚えのある…というより忘れようのない男の肖像画と目があったのだ。
「トンチャン………?」
いつもチョンドンを殴っていたから知っている。だが、絵の中のトンチャンは、今まで見たこともないような優しい表情をしている。そして、マノクを驚かせたものはそれだけに留まらない。最も彼女を驚愕させたのもの。それは…………
かつて彼女自身がコン・ヒャンユンから掏り、お陰で典獄署に入れられるきっかけとなったあの蝶の髪飾りだった。同じものがあるはずがない。特徴的で凝った細工は、細部まであのときのままだ。
「嘘……でしょ………?」
そしてマノクは悟った。自分の勘は間違いでも思い過ごしでも何でもなく、紛れもない事実だったことを。そして、ファン・ナビがコン・ヒャンユンは、違いようのない同一人物であるということを。
だが彼女が呆然としていると、外に突然気配を感じた。慌てて蓋を閉めたマノクは、咄嗟に屏風の裏に隠れた。細身の彼女はみごと、綺麗に上手く収まっている。
そして部屋にナビ───コン・ヒャンユンが入ってきた。マノクは息を殺し、目を閉じている。
だが、元体探人相手に戦うことができるヒャンユンが、マノクごときに気づかないはずはない。彼女は刺客の可能性を疑い、静かに短刀を取り出して抜いた。まっすぐ握り直し、じりじりとマノクの隠れている屏風に近づいていく。
そして、その刹那。ヒャンユンが短刀を持っている手を一閃させた。美しくもどこか物悲しい屏風に、無惨にも穴が開く。そしてその切っ先は、マノクの目と鼻の先で止まった。
「ひっ………」
必死に声を圧し殺しているつもりでも、その口からは恐怖の吐息が漏れる。ヒャンユンは剣を持って鞘から抜くと、構えて屏風を一刀両断した。
「─────ここで、何をしている。」
「ち、ちょっと用事で………」
「何を見た」
「何も見てないわよ!本当よ!」
恐怖に萎縮し、いつもの威勢を無くしたマノクに短刀を突きつけると、ヒャンユンはその手をつかんだ。
「なっ、何を………」
「机を開けたわね」
何故解るのかと聞こうとして、マノクは自分の手を見てはっとした。天板を押し上げて裏に触った部分に、黒い粉のような何かがついているのだ。それは百済の王朝の技術書に使われていたものと同じ特殊な粉で、誰かが触った痕跡を知ることができるものだった。
「………だったら教えてよ。あんた、何で正体を明かさないの?」
開き直るしかないマノクは、逆にヒャンユンに問うた。すると、その表情が今まで見せたこともないくらいに苦痛に歪んだ。
「────私は、あの人の傍には行けないからよ」
「どうしてよ!好きなんでしょ?他の女がいるわけでもあるまいし…」
「出来ないのよ!私は……………私は、イ・ジョンミョン大監の娘なの。コン・ジェミョン大行首は、養父だった。私の母はチョン・ナンジョンに殺され、私も幼い頃に殺されかけた。そして行方不明になったあの日も、私はあの女に命を狙われた。生き残るために、家族の無実を晴らすために、私はファン・ナビとして生きる道を選んだの。黒蝶団の団長として、あの人に刃を向ける存在になることを!」
全てを話し終えたヒャンユンは、泣いていた。マノクは一部始終を聞き終え、呆然としている。
「あんたは……嘘つきだ。あの男を守るために、あんたは正体を明かさないんだ」
「…………そんな綺麗事で済む話なら、どれ程良いことか」
ずっと本心を隠し、愛する人に冷淡に接し続けることはどれほど辛いのだろうか。そう思うと、不思議とマノクの心の中に、ナビ───ヒャンユンへの共感が沸いた。
「ずっと、嘘をつき続けて、辛くないの?」
「それが、あの人を苦しませずに済む方法だから。」
真実を知れば、きっとトンチャンはヒャンユンのために命を捨てる覚悟で手を貸すだろう。だからこそ、言うことができない。帰りたくても身分のせいでどのみち帰れないのならば、自分一人が辛い思いを隠し通せばいい。
きっと、ヒャンユンはそう思ってる。でも…………
「こんなの、間違ってる」
「え………?」
マノクは机の天板をもう一度押し上げると、トンチャンの肖像画を取り出し、ヒャンユンの目の前に突き出して叫んだ。
「こんなの、間違ってる!あんた、この人がどんな思いで生きてきたと思ってんの?あんたの帰りをずっと待ってるのは、他の誰でもないこいつなんじゃないの?」
その言葉はヒャンユンの頭に、間違いなく大きな衝撃を与えた。
「私はあいつが嫌いよ。チョンドンさんとマンスのことをいつも殴るし、指示があれば簡単に誰かを手にかけられる。そんな最低なやつだけど!だけど、あんたには違った!あんたはあいつに間違いなく愛されてた!私がチョンドンさんを好きなように……いいや、それ以上にトンチャンはあんたを愛してんのよ!?」
マノクは続けた。
「この1年間、チョンドンさんが言ってた。あんたが死んでから、もっとトンチャンは狂暴になったって。何をしても本当に平気になっちゃったって。あんたが辛うじて繋ぎ止めていた、良心ってものが無くなったのよ!チョンドンさんはいつも殴られるけど、絶対に殴り返さない。なんでか分かる?」
ヒャンユンは黙っている。
「それは………チョンドンさんは自分を殴りたいんじゃなくて、やり場のない怒りが消えないからなんだって!いつもそう言って青あざを作ってた。トンチャンの痛みは、もう永遠に消えないから…………永遠に、苦しみ続ける呪縛になるからって………殴り返せないのよ………可哀想だから………」
マノクは勢いに任せて全て言い終わり、肩で息をしている。ヒャンユンは肖像画を見て、震える手を伸ばしてその指先でそっと触れた。
「トンチャン………………」
────愛してる。あなたを、私は愛してる。
「あんたのこと、黙っとくから。あとは自分で考えな」
そう言い残すと、マノクは絵を手放して去っていった。そして、ヒャンユンはどうしようもないくらいに遠くへ来てしまったと感じながら、絵を抱き締めて泣くのだった。
トンチャンはチョンドンとマンスを呼び出していた。自分を騙していたこの男たちを頼ってでも、どうしても知らなければならないことがあったからだ。彼は商団の団員名簿を叩きつけると、チョンドンにこう言った。
「この中で、この日を境に都から行方をくらました団員が8人いる。そいつらを探しだして、俺のとこにつれてこい」
トンチャンは更に一枚の紙切れを取りだし、チョンドンに掴ませた。彼はそれを見て目を丸くし、息を呑んだ。
「あっ………兄貴………この日は………」
「そうだ。一年前、コン・ヒャンユンが死んだと思われる日だ。」
「でも、どうしてこれを………?」
「理由は…聞くな。俺の、最後の意地だと思ってくれ。」
それは、トンチャンが初めて一度もチョンドンを叩かずに頼んできた依頼だった。二人は渋々承知すると、調査へ向かうためにその場を後にした。
残されたトンチャンは、独り思い返していた。あの裁きのあと、彼は密かにヤン・ドングの元を訪ねていた。
『ヤン・ドング様が、コン・ヒャンユンの事件を担当したんですよね?』
『ああ、そうだ。………いつか来るとは思っていたが、お前にずっと言わなきゃならんことがあったんだ。』
ドングは深呼吸すると、トンチャンにこう言った。
『恐らくだが………恐らくだ。ヒャンユンお嬢様は、生きてる。』
『えっ………?』
『お前は葬儀に出てないから知らんだろうが、一週間ずっと探し続けても遺体が見つからなかったんだ。遺体が見つからない場合、かなりの確率で…………』
トンチャンは驚きと困惑でうろたえた。
『そんな…………じゃあ…………』
『でも妙なんだよな。生きていたら、お前とジェミョン大行首に会いに行くよな。何か、会いに行けない事情でもあるんだろうか………』
そう。もしヒャンユンが生きており、すぐそばにいるとすれば……
「ナビ…………お前は………」
────本当に、ヒャンユンなのか?
もし違ったとしても、自分からヒャンユンを奪った奴等を暴かねば。せめてもの弔いに、真犯人とその意図を知らなければ。トンチャンは既にその疑いの目を、自分の上司であるミン・ドンジュとチョン・ナンジョンに向けていた。
そして、その予想はみごと的中した。数日後、チョンドンが名簿のうちの一人を連れてきたのだ。縛られた男は、トンチャンを見て明らかに怯えていた。
「兄貴………!助けてください………俺は………」
「安心しろ。今は大行首様や奥様の指示で動いてる訳じゃない。だから、あの日本当は何があったのか、包み隠さず教えろ。」
「兄貴!言ったら、兄貴は俺を絶対殺します。だから言えません!」
男は首を横に振っている。いつもなら剣を取り出して脅しにかかるトンチャンだが、今日は違った。なんと彼の方が膝をついて土下座したのだ。
「頼む!あの日、何があったのか。お前はコン・ヒャンユンの死について何か知っているのか。教えてくれ!あいつは……あいつは………俺の…………」
「婚約者だった……ですよね」
「そうだ。たった独りの、大切な人だった。だからあいつの死に際と、殺害を指示した奴を知らなきゃならねぇんだ!」
男はしばらく考えると、重たい口を開いて尋ねた。
「…………黒幕を知ったら、どうするつもりですか?」
「そいつに復讐する。例えどんなに大きな相手だろうとも」
トンチャンは本気だ。男はようやく全てを話す覚悟を決めたようで、渋々あの日のことを話し始めた。
「俺は、兄貴以外で腕の立つ奴等を七人集めました。それで、大行首様からの指示を待ったんです。」
トンチャンは、やはりと言いたげに頷いた。だが、男の話はそれでは終わらない。
「ところが…………そこに来たのは大行首様だけではありませんでした。」
「どういうことだ?」
「奥様も居たんです。俺はそのとき、とんでもないことに巻き込まれたと思いました。」
「そんな………奥様が………真の黒幕……」
トンチャンは大きすぎる敵に愕然とした。だが男の話はまだ続く。
「俺たちは、コン・ジェミョン大行首の娘を殺害するように命じられました。独りで行動することがほとんどのお嬢様を殺害するのに、しくじるなんてありませんでした。ですが…………」
男の顔つきが、苦悶の色に変わった。
「ですがお嬢様を助けに、この世の者とは思えないほどに腕が立つ男が、二人も出てきたんです。」
「それで!?ヒャンユンは!?」
「ヒャンユンお嬢様は……………」
トンチャンが見守るなか、男は呟くように答えた。
「─────お嬢様は、俺たちが仕損じたせいで助かりました。つまり、あれから何事も起きていなければ………お嬢様は生きてるんですよ、兄貴。」
トンチャンは呆然としてふらつく足を抑えられず、床に膝から崩れ落ちた。
「唯一残った俺は、男のうちの一人にさんざん脅されて、大行首や奥様に殺害したと報告しろと言われました。そうすれば家族と俺の命は守ってやると。」
残りの経緯は、既にトンチャンの耳には雑音程度にしか聞こえていなかった。
ヒャンユンが生きている。この世界のどこかに、まだ生きている。ファン・ナビが赤の他人だとしても、少なくともヒャンユンはまだ生きている。そんな希望がトンチャンの心を照らした。ずっと諦めず、想い続けてようやく報われたのだ。
「ヒャンユン……………待ってろ………必ず………お前を探しだしてみせる。」
──今度はもう二度と、失わないように。
一方、ヒャンユンの姿は黒蝶団の本拠地にあった。チョヒが彼女に計画書を手渡す。
「…………今日、民に届けられるはずの米を奪い、自らの倉に納めるチョン・ナンジョンの配下を襲う。そして米は餓えに苦しむ地域の民に無償で配る。」
「はい!」
「位置につけ。夜に始める」
夕日がヒャンユンの横顔を照らしている。それを複雑な思いで見ていたのは、やはりカン・ソノだった。
────お嬢様。私の愛したお嬢様に、いつ戻ってくれるのですか。私は、あなたの帰る場所には成れぬのですか?
決して戻ることは許されない男と、その権利を持つ男。二人の運命が、交差しようとしていた。