8、重なる疑念
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ナビは、独り静かに黒蝶団の一室で座っていた。目を閉じ、思い描くのはかつての懐かしい日々。以前はおぼろげで砂のように崩れていく記憶の数々に苛立っていたが、今はもう何も感じない。
苦しみも、痛みも、もう何も感じることはないだろう。ナビは、自分のすべてである居場所を自ら手放したのだから。自ら幻影を装って、忘れてほしいと懇願したのだから。
そんな風に思っていると、まだ昼というのに珍しく訪問者が現れた。
「ナ、ビ!」
「オクニョ!どうしたの?」
「ちょっとナビに見てもらいたい人がね。何人かいるんだけど、いいかしら?」
新入団員なら、随時募集中だ。今後は何かと危険な作戦が増えるのだから、多い方がいい。ナビは武術服に着替えると、オクニョに耳打ちした。
「ああ、そうだ。………私が団長であることは、連れてきた者にはくれぐれも内密に」
「ええ?でも…」
「いいから。」
久しぶりに面白いものを見つけたと言わんばかりの笑顔を溢したナビは、足取り軽く部屋を出た。
外に出たナビは、十人程度の曰牌たちが待機しているのを見て、瞬時に使えるかどうかを見極めた。
───うん、悪くない。
「なぁ、いつになったら団長に会える?」
「俺たちはあんたに会いに来たんじゃないんだよ。団長はどこだ?」
ただ1つ、態度を除いては。ナビは一番態度の悪い男に話かけた。
「団長に会う前に、私と手合わせだ。ところで、どこの誰だ?」
「はぁ?俺はチョンス。全員、七牌を縄張りにしてる曰牌だ。」
七牌、と聞いて一瞬表情がほころぶ。つまり、トンチャンの知り合いか。ナビは軽く頷くと、次にチョンスの隣に立っている寡黙な人物に声をかけた。
「そなたは?」
「マンベです。」
「……なるほど。後は……追々聞こう」
ナビは適当に残りを流すと、集中しつつも辺りを見回した。チョンスは相変わらず、マンベと共にナビへ訝しげな視線を送りつけている。
「なぁ。あいつ、弱そうだよな。ほら、あの、女みたいなやつ」
「わかる。絶対泣きを見るやつだぜ。でもよ、本当に女かも知れねぇぜ?」
「女なら好みなんだけどなぁ……」
全く。曰牌という生き物に関しては、トンチャン以外は手に負えない輩達だ。ナビはどうやって打ちのめそうかと考え始めた。もちろん、すこし遠巻きにこちらを見ているオクニョは笑いを堪えきれない様子だ。隣のチョン・ウチとコ・テギルは、品定めといった気分でいるらしい。
「……さて、始めるぞ。早く団長に会いたいのなら、さっさと終わらせよ」
「当たりめぇだ!」
最初の攻撃を仕掛けてきたのは、やはりチョンスだった。ナビはまともに喰らわないように、ひらりと舞うように拳をかわした。しかも、その両手は後ろで組まれている。
「なっ………」
「当たっていないぞ」
余裕たっぷりに微笑むナビに逆上したチョンスは、そのまま再び突進してくる。さっと隣に回ったナビは、足で彼の膝を強打した。
「いてぇ!!!!」
勢い余って、チョンスが顔面から地面に衝突する。それを見た残りの者達も、木刀を持って一斉にかかってくる。舞の要領で足を運びながら、正確に次々と攻撃をかわしていくナビは、流石に何か持たねばと思いつつ、自分の懐を漁った。
───面白い物、発見。
ナビは不敵な笑みを浮かべると、懐から勢いよく手を出して、起き上がったチョンスの顔面をはたいた。手に持っているのは、扇子だ。しかも薄絹で出来た、舞を舞うためのもので、先の布が長くなっており、枠から出ている。扇子の布はナビが動く度に、風を受けたかのようにふわりと視界を奪った。同時に柄で首の急所を叩かれて、次々と男達が倒れていく。そして最後に残ったのは、ナビの完璧な舞だった。
「すごい………」
「武術というより、芸術ですね」
「しかも強い……」
オクニョたちも、これには言葉を無くしている。ナビはさっと扇子を畳むと、倒れている男達一人ずつに手を貸し始めた。
「大丈夫か?痛くはないか?」
「痛いに決まってるだろ!扇子は人を叩くもんじゃない!」
反抗的なチョンスに呆れると、ナビは彼が自分で立ち上がるのを見届けてから、剣を手にして掲げた。
「これは、剣だ。鞘を抜けば、あらゆる物を従わせることができよう。だが、剣で従わせることで残るものは何だ?」
誰もが下を向いて黙りこんだ。その中で、ナビは朗々と続けた。
「残ったものは、今の政治だ。ただの混沌と恐怖、そして理不尽だけだ。そなたは、私の扇子を武器ではないと言ったな。無論、これは武器ではない。舞を舞うためのものであり、妓生や芸人たちにとっては無くてはならない存在だ。」
ナビは扇子を仕舞うと再び剣を手に取り、今度は目の前に突きだした。
「───だが、剣はどうだ?剣が無くては生きては行けぬ者達は誰だ?………ユン・ウォニョンとチョン・ナンジョン、そして小尹派の面々だ。」
オクニョは、その言葉の力強さに胸を打たれた。剣を置いたナビは、真剣な眼差しで一同に訴えかけた。
「彼らは剣をなんのために使う?誰かを救うためか?この国の秩序を保つためか?いいや、違う。その剣の矛先はどこへ向かっている?大罪人か?外敵か?いいや、違う。その矛先は無実の民へと向いており、その使い道は私欲にまみれているではないか。今こうしている間にも、無実の民が死に追いやられている。かつて、この国を何度と混沌が襲った。災難に見舞われ、国の根幹は幾度となく乱れた。だが、王の権力がこれ程にまで軽んじられることはなかった。民の意見がねじ伏せられることはしばしばあったが、叫びをあげていないにも関わらず罰されたこと、あるいは生を奪われたことは無かった!」
ナビは鉢巻きを外すと、黒蝶団の印を手に取りながらこう続けた。
「そなたたちの中には大尹派も小尹派も、権力を握れば同じだからどうでもいい。そう思う者も居るだろう。だがそんな理由で、今腐っている者達を許してもいいのだろうか。大いに乱れたこの国の根幹を、放っておいても良いのだろうか?明日には、この国はもっと悪くなるだろう。夜が明けるのを恐れ、震える無実の民がいる。その事実から目を背けても良いのだろうか?答えは、そなた達に任せよう。各々考えるといい。」
ナビは石段を数段駆け上がり、一同に告げた。
「だが、もし我らと同じ答えを見出だすのなら、私はそなたたちを歓迎しよう。」
鉢巻きを巻き直し、ナビがにこりと微笑む。チョンスを含め、その場にいる曰牌たちはこの人物が誰であるかをもう理解しているようだ。
「私はファン・ナビ。───黒蝶団団長だ」
その声には、もう迷いはなかった。帰る場所を手放したヒャンユンは、強くならざるを得なくなったのだ。
トンチャンは職場に復帰してからずっと、黒蝶団について調査を続けていた。何とか大尹派の庇護を受けているらしいという情報までは掴めたが、正確な規模は一切解らないままだった。それどころか、昨日も提携先の商団が積み荷の襲撃を受けている。
───何とかしねぇと………
トンチャンは焦っていた。このままでは大行首から大目玉を食らうことは火を見るよりも明らかだ。
さて、どうしたものか。トンチャンは思案に耽りながら、全容の見えない物を追いかける難しさを身に染みて感じるのだった。
黒蝶団は、既に左捕盗庁の下級武官以上の人数を従えるほどにまで成長していた。彼らは入団までに筆記試験や口頭試問を重ね、それぞれの職能や特技に応じてあらゆる場所に配属されていた。既にチョン・ナンジョン商団にも、チョンドンとマンスの他に数人の団員が潜入している。顔が知られていたり、潜入に適していない者達は、大尹派の重臣達の護衛を担当している。そして最も武術に優れた者達は、ナビの護衛を行っている。
「団長、どうも」
「うん。もっと柄は軽く持て。卵を持つ感覚だ」
「卵ですか?」
「ああ。実戦の際は、力が入りすぎるもの。卵と思うくらいが丁度だったりするのだ」
ナビは指導を行いながら、団員達の様子も気遣っている。だが、誰も彼女が団長であることしか知らない。大尹派の重鎮である兵曹判書イ・ジョンミョンの令嬢であることは、カン・ソノ、チョヒ、ヨンソン、そしてギョムだけが知っている。
トンチャンも、いつかは知るのだろうか。ふと、そんな考えが頭をよぎる。だが、すぐにナビは雑念を振り払った。
───全く。何を考えているのだ。
胸が苦しい。ずっと、本心を隠しているからだろうか。誰にも胸のうちを話さないからだろうか。ナビは苦痛に顔を歪めた。身体の痛みよりも、心の痛みは鋭く、深かった。
「ナビさん。」
「何だ。」
「お兄様のヨンフェ若様が、都へご到着されるそうです。その際、長年守り続けた小尹派の罪を暴く証拠を携えて来るそうで、万が一に備えて護衛をすべきかと」
なるほど、とナビは頷いた。そして同時にヨンフェが戻ることに驚きを隠せなかった。
「あの…………イ・ジョンミョン大監は何故、今ヨンフェ様をお戻しになったのでしょうか?」
「わからない。けれど、それが我々の計画に支障を与えるものではないことを祈ろう」
まだ、父には告げていなかった。ナビはため息をつきながら、いつ話すべきかを思案した。泣きすがるような状況で真実を話すことだけは、どうしても避けたかった。だとすれば、今が好機なのだろうか。兄の護衛は自ら買って出たい。それが妹としての心情だった。
────もう、ユン・ウォニョンのせいで誰かを失うのは嫌。
「到着は今夜だな」
「はい。サムゲに着くとか」
「品物に紛れて来るのか………流石だ」
オクニョが手配した配下の商団である、ホン・マンジョン商団の船の貨物に紛れて到着するという計画に、ナビは思わず舌を巻いた。
何事も問題はない。このときのナビは、そう信じたかった。
夜のサムゲは、しんと静まり返っている。昼間は所場代を巻き上げる曰牌たちと、荷を下ろす商団の部下たちで一杯の渡し場も、人一人としていない。
合図と共にヨンフェが船から出てくる。すっかり大人になった妹には気づく様子もない。無理はないとため息を圧し殺し、ナビはヨンフェをジョンミョンの屋敷まで護衛した。
「………では、こちらへ。」
ナビは屋敷に入ろうとして、足がすくむ感覚を覚えた。
───無理だ、やっぱり………まだ、私は父に何も……
「どうかしましたか?」
チョヒが心配そうに覗きこんでくる。ナビは優しい子だなと思って微笑むと、何でもないと返して家の裏口から入った。
漆黒の武術服からいつもの服に着替えながらも、ナビ──というよりヒャンユンはまだ考えていた。実父が幼い頃から愛情を与えてくれていたことは覚えている。だが、人生で一番楽しい時期を共に過ごしたのは、養父のジェミョンの方だった。反抗もしたし、甘えもした。それは一重に両班の令嬢であれば出来なかった、人間らしいことだった。だからこそ、どうしても懐かしさと苦しさに板挟みにされ、ヒャンユンはジョンミョンとの距離を見失っていた。
「実父と、養父………」
どちらかを選ばなければならない日が来るのだろうか。いや、答えは既に出ているのだろうか。
考えるのが嫌になったヒャンユンは、息苦しく感じる屋敷を後にして外へ出た。珍しく、行く宛もない道をゆっくりと辿り始める。
思い返せば、ずいぶん遠くへ来た気がする。愛する人の手を離れ、居場所を失い、残ったものは空虚な自分。ナビとしての自分に何かを足さなければならないとすれば、それはただ一つ、愛だった。弱い自分と共に忘れたはずの思慕は、今も時折懐古され、むせかえっては自分を苦しめる。苦しくて逃げたくて、なのに寄り添いたいと思ってしまう。
「だったら、どうすればいいのよ…………」
思わず口から不満がそのまま漏れる。ふと、ヒャンユンは視線をある人に留めた。
「…………シン・ドンチャン……?」
こんな夜更けに歩いているはずはない。けれど、確かに彼だった。特に飲み歩いている様子もなければ、仕事をしている様子でもない。ヒャンユンは近づくことも出来ず、物陰からじっとその様子を伺っていた。すると、辺りを見回しながらトンチャンが何かを落としたのが見えた。
「………あれは、何?」
必死に目を凝らして見ても、何かまでははっきりとわからない。だがトンチャンが、また何かとんでもない汚れ仕事をミン・ドンジュ達から頼まれたことだけは察しがついた。
────どうしよう。
今すぐ捕盗庁に言うことも出来る。このまま何も見ない振りも。ヒャンユンは迷った。しかも、トンチャンの行く先にはなんと捕盗庁の巡回が来ているではないか。考える余地はもう無かった。
ヒャンユンは三つ目の選択肢────トンチャンを助けることを決めた。
物陰から近づくと、ヒャンユンはトンチャンの口を塞いで抱き寄せた。
「なっ、何しや…………」
「しっ。捕盗庁の巡回が来ている」
ナビであると気づいたトンチャンは、目を丸くして彼女を見た。
「えっ……………」
「立ち尽くすな、馬鹿。しゃがめ!」
呆然としているトンチャンの肩を掴むと、ナビは慌てて物陰にしゃがませた。だが、彼はまだ驚いたままだ。
─────ナビ…………?
トンチャンは訳がわからなかった。何故なら、ナビの服が夢に見たヒャンユンの服と同じだったからだ。しかも、抱き寄せられたときの香の匂いまで、夢のはずなのに牢に漂っていた残り香と同じなのだ。
「お前…………」
「今は黙って……………」
トンチャンは、やはりヒャンユンなのではと言いかけて口を閉じた。
───むかつくんだよ!あいつにそっくりなお前が。俺の心に入り込もうとしてくる。俺にはあいつだけなのに。なんで性格も悪くて憮然なお前なんか………
ヒャンユンは死んだ。自分はその面影を押し付けて追いかけているだけなのに。
トンチャンは巡回の兵をやり過ごしながら、そんなことを思うのだった。
兵が過ぎてから、ナビはトンチャンに向き直って尋ねた。
「一体、こんなところで何を?」
「えっ……ああ……その………」
「全く。ろくでもない仕事であることは知っているが──」
ヒャンユンの言葉が止まる。トンチャンの手が、普通ではない色をしていたからだ。
「それは…………まさか…………」
「あっ、いや、気にするな。」
慌てて手を後ろに隠そうとしたが、ナビは相変わらず一手早かった。トンチャンの手を掴むと、じっと凝視している。
「………怪我?」
「ま、まぁ……そんなとこだな」
その手には、血がついていたのだ。しかもどこか反り血のように飛沫が飛んでいる。だが、この日は生憎月明かりがそこまで強くなかったため、怪我か反り血かの検討はつかなかった。
ナビはずっと共に居ることも気まずいと思い、我にかえると手を離して踵を返した。
「…………今日そなたを見たことは、口外せん。お休みなさい」
「あ、ああ…………」
ナビは歩き出した。明日は敵として面と向かうかもしれない愛しい人に背を向けて。
次の日、父を避けて素素樓へ行ったナビは驚きの一報を知った。
「ナビさん、大変です。素素樓に捕盗庁が……」
「捕盗庁が?」
ナビが目を丸くして詳細を聞こうとすると、奥からミョンソンの悲鳴───というより怒声が上がった。
「何すんのよ!離せよ!おいこら!離せ!」
「妓生なのに、何て柄の悪い……」
「ミョンソン!」
ナビは咄嗟に兵士たちからミョンソンを引き離すと、その間に割って入った。
「ナビ………?」
「何をする気だ。妓生たちに怪我でもさせたら、お前たちに償えるのか?」
「なんだ、この女は」
「素素樓の代理管理人だ。ミョンソンを連れていくのなら、私も共に行こう。」
ミョンソン───マノクは息を呑んだ。背中越しに伝わってくる気迫は、とても自分より年下の17歳のものとは思えなかったからだ。ナビは振り向くと、心配そうに見ているキョハとソジョンに微笑むと、捕盗庁へ歩き出すのだった。
ミョンソンはナビの隣で取り調べを待つ間、ずっと不思議そうにその横顔を眺めていた。
どんな剣の切っ先よりも厳しい眼差しに、女性であっても目を惹く美麗な顔立ち。どれも絵に描いたような美しさで溢れており、一度見れば忘れられない顔つきをしている。視線の鋭さを除けば、同じ顔をしている人を彼女は知っていた。
────あんた、やっぱりあの娘なんじゃないの……?
忘れるわけがない。あの娘のせいで、チョンドンもろとも典獄署に放り込まれたのだから。だが、腑に落ちない部分がどうしてもあった。
ナビが自分にだけは厳しい理由が、ヒャンユンと同一人物であり、髪飾りを掏られたことだとすれば、何故今日は助けてくれたのだろうか。
「あの………ナビさん………」
「ん?」
「なんで、私を助けたの?」
「何故………だと?」
一瞬考えてから、ナビはミョンソンの額を叩いた。その表情は性悪げに歪んでいるように見える。
「なっ………何すんのよ!」
「痛いか?」
「当たり前でしょうが!はぁ?」
「理由もなにも、変なことを言われたら困るだけだ」
そう言うと、ナビはさっさと呼び出しに答えて立ち上がって行ってしまった。残されたミョンソンはしばらく呆然としていたが、やがて前言撤回しようと心に決めて歩き出すのだった。
捕盗庁の用事とは、前日の夜にあったいさかいについてだった。チン・スミョンという男が、どうやらチ・チョンドクという典獄署の役人と、ミョンソンの居る素素樓の席で揉め事を起こしたらしい。そして────
「チン・スミョンは死んだ……か」
ナビは目を閉じて思案した。
しかも、他殺。刃物で十ヶ所以上腹部を刺され、その凶器が家のすぐそばから見つかったらしい。だが、事件はここでは終わらない。なんとその刃物はチョンドクの短刀だったのだ。チョンドクはオクニョの養父で、ナビにとっても幼い頃に世話になったことのある恩人だ。
「チ・チョンドクが犯人と………なるな、普通は。」
ナビは二本の筆を両手に持ちながら、事件の全容を一人で再現して一人で納得している。その様子を見ながら、ソジョンは武官の真似事でも始めたのかと思っているようだ。ナビは筆を眺めたまま、ソジョンに尋ねた。
「ソジョン。」
「はい、なんでしょう」
「チン・スミョンの屋敷の場所は、わかるか?」
「ええ。だいたいは。」
ソジョンは執事から所在を聞き出すと、紙に書いて渡してくれた。ナビがそれを見て眉をひそめる。
「どうか……しましたか?」
「うちの………近所だ」
「つまり?」
ナビは絶句した。ソジョンはもちろん意味がわかるわけもなく、相変わらず不思議そうな顔をしている。
そう、トンチャンが昨日居た場所のすぐ近くなのだ。それも、気味が悪い程にすぐ側だった。
胸騒ぎがして、ナビは素素樓を飛び出した。向かう場所はスミョンの屋敷。気のせいであってほしい。暗かったから見間違えたのだ。きっとそうだ。
ナビは祈るような思いで屋敷にたどり着いた。オクニョの協力者であるヤン・ドングを見つけると、ナビはすぐに尋ねた。
「短刀が落ちていたのはどこだ?」
「お耳が早いですね、ナビさん」
「いいから!早く教えてくれ」
切迫した声で急かしてくるナビに異変を感じたドングは、茶化すのを止めて真面目に短刀の落ちていた場所辺りを指差した。
「ええと………この辺りですね」
そこは、確かにトンチャンが何かを落とした場所だった。そしてその手は────
「血で…………」
汚れていた。だが、ナビは自分に言い聞かせた。
トンチャンが怪我をした可能性はまだある。何を断定しているの、ファン・ナビ。
ナビは真相を知りたくないという思いを感じながら、その足でチョン・ナンジョン商団へ向かった。嫌な思い出しかないこの場所には、顔もばれる可能性があるので来たくはなかった。だが、どうしても確かめたいという思いが先行する。ナビはトンチャンを探した。そして、その姿を見つけて声をかけようとした。
だが、先客が居た。
「お前に受け取ってほしいものがあってな。」
「何?どうしてこれを?」
「それは…………お前が可愛いからだよ」
トンチャンがその人の手を取る。その人はシネの付き人であり、ユン家の使用人頭のチョングムだった。
わかってはいた。自分が言ったことなのだから、仕方がない。忘れて前を向いてほしい。そう言って不毛な想いを絶ちきらせてやろうと思ったはずなのに。ナビはいつのまにか、トンチャンを一途に想い、戻れないはずの場所に心を寄せるヒャンユンに戻っていた。
だが次の瞬間、場の空気が一変した。乾いた音がその場に響く。
「なっ、何するんだよ!」
「気色悪いわね!私があんたなんか相手すると思う!?え?あんたなんか、コン・ジェミョン様のお嬢様くらいしか相手してくれないわよ!ああ、趣味が悪い。」
チョングムがトンチャンを叩いたのだ。ヒャンユンの身体に怒りがこみ上げてくる。
「…………随分失礼な人ですね。」
「あんた、誰?」
関係ないのだから、口を出してはいけない。見ない振りをしなければ。だが、ヒャンユンは自分の怒りを制御できなかった。自分が貶されたことよりも、トンチャンが叩かれて貶められた。その方が余程許せなかった。
「私はこの方に用があるのですが、邪魔です。罵倒なさるのであれば、さっさと私の用を済ませたいのですが」
トンチャンは一体何事かと思ってナビ──ヒャンユンを見ている。ヒャンユンはチョングムを一瞥すると、冷ややかに続けた。
「………誠意を侮辱するほど、あの家の使用人は落ちぶれているのですか?しかも、使用人頭。恥ずかしとは思わぬのですか?」
「あんたみたいな小娘に説教されたくないわ。」
チョングムも負けじと言い返し、ユン家の使用人の威勢に乗ってヒャンユンの頬を叩いた。
「…………私を叩いたこと、後悔なさいませんように。」
ヒャンユンはうっすら微笑みながらそう言った。何のことかさっぱりのチョングムは、不思議な自信に怯え始めた。
「なっ………何故、私があんたなんかに後悔するの?」
「それはいずれ解ること。だからその日まで、どうか私を覚えておいてくださいね。」
「なんなのよ…………気分悪いったらありゃしない!」
チョングムは場が気まずくなるのを感じて、その場を逃げるように後にした。
続いてヒャンユンはトンチャンに向き直り、吐き捨てるように言った。
「あのような女に、なにも言い返せないとは。」
「あ……いや……その…………」
トンチャンは何故か後ろめたさを感じていた。ヒャンユンではないと思ってはいても、やはり気分が悪い。それに、ナビのことを気にかける自分を振り払いたくてあんな行動をしたのに、かえってナビに借りを作ることになるとは。
「…………何の用だよ、ファン・ナビ。」
「…………右手。」
「……は?」
ナビは手を取ると、じっと観察し始めた。
「なっ…………」
「怪我を、したのではないかなと思ったのだが。違ったようだ。では」
手には、ヒャンユンがあってほしいと願った怪我は無かった。つまり、あれは反り血だったのだ。
────教えてちょうだい、トンチャン。チン・スミョンを殺し、チ・チョンドクに濡れ衣を着せたのは……………あなたなの?
ヒャンユンはぞんざいにトンチャンの手を離すも、衝撃を隠すことに必死だった。そして心の中で問うた。
────あなたは………………一体、誰なの?
そして、トンチャンもまた同じことを考えた。
────お前は…………………本当に、誰なんだ?どうして、チョングムを知ってる?どうしてこんなにもあの人に似てるんだ?どうしていつも、俺の目の前に現れるんだ?
二人の視線が重なる。そこには、それぞれの疑念が込められているのだった。
苦しみも、痛みも、もう何も感じることはないだろう。ナビは、自分のすべてである居場所を自ら手放したのだから。自ら幻影を装って、忘れてほしいと懇願したのだから。
そんな風に思っていると、まだ昼というのに珍しく訪問者が現れた。
「ナ、ビ!」
「オクニョ!どうしたの?」
「ちょっとナビに見てもらいたい人がね。何人かいるんだけど、いいかしら?」
新入団員なら、随時募集中だ。今後は何かと危険な作戦が増えるのだから、多い方がいい。ナビは武術服に着替えると、オクニョに耳打ちした。
「ああ、そうだ。………私が団長であることは、連れてきた者にはくれぐれも内密に」
「ええ?でも…」
「いいから。」
久しぶりに面白いものを見つけたと言わんばかりの笑顔を溢したナビは、足取り軽く部屋を出た。
外に出たナビは、十人程度の曰牌たちが待機しているのを見て、瞬時に使えるかどうかを見極めた。
───うん、悪くない。
「なぁ、いつになったら団長に会える?」
「俺たちはあんたに会いに来たんじゃないんだよ。団長はどこだ?」
ただ1つ、態度を除いては。ナビは一番態度の悪い男に話かけた。
「団長に会う前に、私と手合わせだ。ところで、どこの誰だ?」
「はぁ?俺はチョンス。全員、七牌を縄張りにしてる曰牌だ。」
七牌、と聞いて一瞬表情がほころぶ。つまり、トンチャンの知り合いか。ナビは軽く頷くと、次にチョンスの隣に立っている寡黙な人物に声をかけた。
「そなたは?」
「マンベです。」
「……なるほど。後は……追々聞こう」
ナビは適当に残りを流すと、集中しつつも辺りを見回した。チョンスは相変わらず、マンベと共にナビへ訝しげな視線を送りつけている。
「なぁ。あいつ、弱そうだよな。ほら、あの、女みたいなやつ」
「わかる。絶対泣きを見るやつだぜ。でもよ、本当に女かも知れねぇぜ?」
「女なら好みなんだけどなぁ……」
全く。曰牌という生き物に関しては、トンチャン以外は手に負えない輩達だ。ナビはどうやって打ちのめそうかと考え始めた。もちろん、すこし遠巻きにこちらを見ているオクニョは笑いを堪えきれない様子だ。隣のチョン・ウチとコ・テギルは、品定めといった気分でいるらしい。
「……さて、始めるぞ。早く団長に会いたいのなら、さっさと終わらせよ」
「当たりめぇだ!」
最初の攻撃を仕掛けてきたのは、やはりチョンスだった。ナビはまともに喰らわないように、ひらりと舞うように拳をかわした。しかも、その両手は後ろで組まれている。
「なっ………」
「当たっていないぞ」
余裕たっぷりに微笑むナビに逆上したチョンスは、そのまま再び突進してくる。さっと隣に回ったナビは、足で彼の膝を強打した。
「いてぇ!!!!」
勢い余って、チョンスが顔面から地面に衝突する。それを見た残りの者達も、木刀を持って一斉にかかってくる。舞の要領で足を運びながら、正確に次々と攻撃をかわしていくナビは、流石に何か持たねばと思いつつ、自分の懐を漁った。
───面白い物、発見。
ナビは不敵な笑みを浮かべると、懐から勢いよく手を出して、起き上がったチョンスの顔面をはたいた。手に持っているのは、扇子だ。しかも薄絹で出来た、舞を舞うためのもので、先の布が長くなっており、枠から出ている。扇子の布はナビが動く度に、風を受けたかのようにふわりと視界を奪った。同時に柄で首の急所を叩かれて、次々と男達が倒れていく。そして最後に残ったのは、ナビの完璧な舞だった。
「すごい………」
「武術というより、芸術ですね」
「しかも強い……」
オクニョたちも、これには言葉を無くしている。ナビはさっと扇子を畳むと、倒れている男達一人ずつに手を貸し始めた。
「大丈夫か?痛くはないか?」
「痛いに決まってるだろ!扇子は人を叩くもんじゃない!」
反抗的なチョンスに呆れると、ナビは彼が自分で立ち上がるのを見届けてから、剣を手にして掲げた。
「これは、剣だ。鞘を抜けば、あらゆる物を従わせることができよう。だが、剣で従わせることで残るものは何だ?」
誰もが下を向いて黙りこんだ。その中で、ナビは朗々と続けた。
「残ったものは、今の政治だ。ただの混沌と恐怖、そして理不尽だけだ。そなたは、私の扇子を武器ではないと言ったな。無論、これは武器ではない。舞を舞うためのものであり、妓生や芸人たちにとっては無くてはならない存在だ。」
ナビは扇子を仕舞うと再び剣を手に取り、今度は目の前に突きだした。
「───だが、剣はどうだ?剣が無くては生きては行けぬ者達は誰だ?………ユン・ウォニョンとチョン・ナンジョン、そして小尹派の面々だ。」
オクニョは、その言葉の力強さに胸を打たれた。剣を置いたナビは、真剣な眼差しで一同に訴えかけた。
「彼らは剣をなんのために使う?誰かを救うためか?この国の秩序を保つためか?いいや、違う。その剣の矛先はどこへ向かっている?大罪人か?外敵か?いいや、違う。その矛先は無実の民へと向いており、その使い道は私欲にまみれているではないか。今こうしている間にも、無実の民が死に追いやられている。かつて、この国を何度と混沌が襲った。災難に見舞われ、国の根幹は幾度となく乱れた。だが、王の権力がこれ程にまで軽んじられることはなかった。民の意見がねじ伏せられることはしばしばあったが、叫びをあげていないにも関わらず罰されたこと、あるいは生を奪われたことは無かった!」
ナビは鉢巻きを外すと、黒蝶団の印を手に取りながらこう続けた。
「そなたたちの中には大尹派も小尹派も、権力を握れば同じだからどうでもいい。そう思う者も居るだろう。だがそんな理由で、今腐っている者達を許してもいいのだろうか。大いに乱れたこの国の根幹を、放っておいても良いのだろうか?明日には、この国はもっと悪くなるだろう。夜が明けるのを恐れ、震える無実の民がいる。その事実から目を背けても良いのだろうか?答えは、そなた達に任せよう。各々考えるといい。」
ナビは石段を数段駆け上がり、一同に告げた。
「だが、もし我らと同じ答えを見出だすのなら、私はそなたたちを歓迎しよう。」
鉢巻きを巻き直し、ナビがにこりと微笑む。チョンスを含め、その場にいる曰牌たちはこの人物が誰であるかをもう理解しているようだ。
「私はファン・ナビ。───黒蝶団団長だ」
その声には、もう迷いはなかった。帰る場所を手放したヒャンユンは、強くならざるを得なくなったのだ。
トンチャンは職場に復帰してからずっと、黒蝶団について調査を続けていた。何とか大尹派の庇護を受けているらしいという情報までは掴めたが、正確な規模は一切解らないままだった。それどころか、昨日も提携先の商団が積み荷の襲撃を受けている。
───何とかしねぇと………
トンチャンは焦っていた。このままでは大行首から大目玉を食らうことは火を見るよりも明らかだ。
さて、どうしたものか。トンチャンは思案に耽りながら、全容の見えない物を追いかける難しさを身に染みて感じるのだった。
黒蝶団は、既に左捕盗庁の下級武官以上の人数を従えるほどにまで成長していた。彼らは入団までに筆記試験や口頭試問を重ね、それぞれの職能や特技に応じてあらゆる場所に配属されていた。既にチョン・ナンジョン商団にも、チョンドンとマンスの他に数人の団員が潜入している。顔が知られていたり、潜入に適していない者達は、大尹派の重臣達の護衛を担当している。そして最も武術に優れた者達は、ナビの護衛を行っている。
「団長、どうも」
「うん。もっと柄は軽く持て。卵を持つ感覚だ」
「卵ですか?」
「ああ。実戦の際は、力が入りすぎるもの。卵と思うくらいが丁度だったりするのだ」
ナビは指導を行いながら、団員達の様子も気遣っている。だが、誰も彼女が団長であることしか知らない。大尹派の重鎮である兵曹判書イ・ジョンミョンの令嬢であることは、カン・ソノ、チョヒ、ヨンソン、そしてギョムだけが知っている。
トンチャンも、いつかは知るのだろうか。ふと、そんな考えが頭をよぎる。だが、すぐにナビは雑念を振り払った。
───全く。何を考えているのだ。
胸が苦しい。ずっと、本心を隠しているからだろうか。誰にも胸のうちを話さないからだろうか。ナビは苦痛に顔を歪めた。身体の痛みよりも、心の痛みは鋭く、深かった。
「ナビさん。」
「何だ。」
「お兄様のヨンフェ若様が、都へご到着されるそうです。その際、長年守り続けた小尹派の罪を暴く証拠を携えて来るそうで、万が一に備えて護衛をすべきかと」
なるほど、とナビは頷いた。そして同時にヨンフェが戻ることに驚きを隠せなかった。
「あの…………イ・ジョンミョン大監は何故、今ヨンフェ様をお戻しになったのでしょうか?」
「わからない。けれど、それが我々の計画に支障を与えるものではないことを祈ろう」
まだ、父には告げていなかった。ナビはため息をつきながら、いつ話すべきかを思案した。泣きすがるような状況で真実を話すことだけは、どうしても避けたかった。だとすれば、今が好機なのだろうか。兄の護衛は自ら買って出たい。それが妹としての心情だった。
────もう、ユン・ウォニョンのせいで誰かを失うのは嫌。
「到着は今夜だな」
「はい。サムゲに着くとか」
「品物に紛れて来るのか………流石だ」
オクニョが手配した配下の商団である、ホン・マンジョン商団の船の貨物に紛れて到着するという計画に、ナビは思わず舌を巻いた。
何事も問題はない。このときのナビは、そう信じたかった。
夜のサムゲは、しんと静まり返っている。昼間は所場代を巻き上げる曰牌たちと、荷を下ろす商団の部下たちで一杯の渡し場も、人一人としていない。
合図と共にヨンフェが船から出てくる。すっかり大人になった妹には気づく様子もない。無理はないとため息を圧し殺し、ナビはヨンフェをジョンミョンの屋敷まで護衛した。
「………では、こちらへ。」
ナビは屋敷に入ろうとして、足がすくむ感覚を覚えた。
───無理だ、やっぱり………まだ、私は父に何も……
「どうかしましたか?」
チョヒが心配そうに覗きこんでくる。ナビは優しい子だなと思って微笑むと、何でもないと返して家の裏口から入った。
漆黒の武術服からいつもの服に着替えながらも、ナビ──というよりヒャンユンはまだ考えていた。実父が幼い頃から愛情を与えてくれていたことは覚えている。だが、人生で一番楽しい時期を共に過ごしたのは、養父のジェミョンの方だった。反抗もしたし、甘えもした。それは一重に両班の令嬢であれば出来なかった、人間らしいことだった。だからこそ、どうしても懐かしさと苦しさに板挟みにされ、ヒャンユンはジョンミョンとの距離を見失っていた。
「実父と、養父………」
どちらかを選ばなければならない日が来るのだろうか。いや、答えは既に出ているのだろうか。
考えるのが嫌になったヒャンユンは、息苦しく感じる屋敷を後にして外へ出た。珍しく、行く宛もない道をゆっくりと辿り始める。
思い返せば、ずいぶん遠くへ来た気がする。愛する人の手を離れ、居場所を失い、残ったものは空虚な自分。ナビとしての自分に何かを足さなければならないとすれば、それはただ一つ、愛だった。弱い自分と共に忘れたはずの思慕は、今も時折懐古され、むせかえっては自分を苦しめる。苦しくて逃げたくて、なのに寄り添いたいと思ってしまう。
「だったら、どうすればいいのよ…………」
思わず口から不満がそのまま漏れる。ふと、ヒャンユンは視線をある人に留めた。
「…………シン・ドンチャン……?」
こんな夜更けに歩いているはずはない。けれど、確かに彼だった。特に飲み歩いている様子もなければ、仕事をしている様子でもない。ヒャンユンは近づくことも出来ず、物陰からじっとその様子を伺っていた。すると、辺りを見回しながらトンチャンが何かを落としたのが見えた。
「………あれは、何?」
必死に目を凝らして見ても、何かまでははっきりとわからない。だがトンチャンが、また何かとんでもない汚れ仕事をミン・ドンジュ達から頼まれたことだけは察しがついた。
────どうしよう。
今すぐ捕盗庁に言うことも出来る。このまま何も見ない振りも。ヒャンユンは迷った。しかも、トンチャンの行く先にはなんと捕盗庁の巡回が来ているではないか。考える余地はもう無かった。
ヒャンユンは三つ目の選択肢────トンチャンを助けることを決めた。
物陰から近づくと、ヒャンユンはトンチャンの口を塞いで抱き寄せた。
「なっ、何しや…………」
「しっ。捕盗庁の巡回が来ている」
ナビであると気づいたトンチャンは、目を丸くして彼女を見た。
「えっ……………」
「立ち尽くすな、馬鹿。しゃがめ!」
呆然としているトンチャンの肩を掴むと、ナビは慌てて物陰にしゃがませた。だが、彼はまだ驚いたままだ。
─────ナビ…………?
トンチャンは訳がわからなかった。何故なら、ナビの服が夢に見たヒャンユンの服と同じだったからだ。しかも、抱き寄せられたときの香の匂いまで、夢のはずなのに牢に漂っていた残り香と同じなのだ。
「お前…………」
「今は黙って……………」
トンチャンは、やはりヒャンユンなのではと言いかけて口を閉じた。
───むかつくんだよ!あいつにそっくりなお前が。俺の心に入り込もうとしてくる。俺にはあいつだけなのに。なんで性格も悪くて憮然なお前なんか………
ヒャンユンは死んだ。自分はその面影を押し付けて追いかけているだけなのに。
トンチャンは巡回の兵をやり過ごしながら、そんなことを思うのだった。
兵が過ぎてから、ナビはトンチャンに向き直って尋ねた。
「一体、こんなところで何を?」
「えっ……ああ……その………」
「全く。ろくでもない仕事であることは知っているが──」
ヒャンユンの言葉が止まる。トンチャンの手が、普通ではない色をしていたからだ。
「それは…………まさか…………」
「あっ、いや、気にするな。」
慌てて手を後ろに隠そうとしたが、ナビは相変わらず一手早かった。トンチャンの手を掴むと、じっと凝視している。
「………怪我?」
「ま、まぁ……そんなとこだな」
その手には、血がついていたのだ。しかもどこか反り血のように飛沫が飛んでいる。だが、この日は生憎月明かりがそこまで強くなかったため、怪我か反り血かの検討はつかなかった。
ナビはずっと共に居ることも気まずいと思い、我にかえると手を離して踵を返した。
「…………今日そなたを見たことは、口外せん。お休みなさい」
「あ、ああ…………」
ナビは歩き出した。明日は敵として面と向かうかもしれない愛しい人に背を向けて。
次の日、父を避けて素素樓へ行ったナビは驚きの一報を知った。
「ナビさん、大変です。素素樓に捕盗庁が……」
「捕盗庁が?」
ナビが目を丸くして詳細を聞こうとすると、奥からミョンソンの悲鳴───というより怒声が上がった。
「何すんのよ!離せよ!おいこら!離せ!」
「妓生なのに、何て柄の悪い……」
「ミョンソン!」
ナビは咄嗟に兵士たちからミョンソンを引き離すと、その間に割って入った。
「ナビ………?」
「何をする気だ。妓生たちに怪我でもさせたら、お前たちに償えるのか?」
「なんだ、この女は」
「素素樓の代理管理人だ。ミョンソンを連れていくのなら、私も共に行こう。」
ミョンソン───マノクは息を呑んだ。背中越しに伝わってくる気迫は、とても自分より年下の17歳のものとは思えなかったからだ。ナビは振り向くと、心配そうに見ているキョハとソジョンに微笑むと、捕盗庁へ歩き出すのだった。
ミョンソンはナビの隣で取り調べを待つ間、ずっと不思議そうにその横顔を眺めていた。
どんな剣の切っ先よりも厳しい眼差しに、女性であっても目を惹く美麗な顔立ち。どれも絵に描いたような美しさで溢れており、一度見れば忘れられない顔つきをしている。視線の鋭さを除けば、同じ顔をしている人を彼女は知っていた。
────あんた、やっぱりあの娘なんじゃないの……?
忘れるわけがない。あの娘のせいで、チョンドンもろとも典獄署に放り込まれたのだから。だが、腑に落ちない部分がどうしてもあった。
ナビが自分にだけは厳しい理由が、ヒャンユンと同一人物であり、髪飾りを掏られたことだとすれば、何故今日は助けてくれたのだろうか。
「あの………ナビさん………」
「ん?」
「なんで、私を助けたの?」
「何故………だと?」
一瞬考えてから、ナビはミョンソンの額を叩いた。その表情は性悪げに歪んでいるように見える。
「なっ………何すんのよ!」
「痛いか?」
「当たり前でしょうが!はぁ?」
「理由もなにも、変なことを言われたら困るだけだ」
そう言うと、ナビはさっさと呼び出しに答えて立ち上がって行ってしまった。残されたミョンソンはしばらく呆然としていたが、やがて前言撤回しようと心に決めて歩き出すのだった。
捕盗庁の用事とは、前日の夜にあったいさかいについてだった。チン・スミョンという男が、どうやらチ・チョンドクという典獄署の役人と、ミョンソンの居る素素樓の席で揉め事を起こしたらしい。そして────
「チン・スミョンは死んだ……か」
ナビは目を閉じて思案した。
しかも、他殺。刃物で十ヶ所以上腹部を刺され、その凶器が家のすぐそばから見つかったらしい。だが、事件はここでは終わらない。なんとその刃物はチョンドクの短刀だったのだ。チョンドクはオクニョの養父で、ナビにとっても幼い頃に世話になったことのある恩人だ。
「チ・チョンドクが犯人と………なるな、普通は。」
ナビは二本の筆を両手に持ちながら、事件の全容を一人で再現して一人で納得している。その様子を見ながら、ソジョンは武官の真似事でも始めたのかと思っているようだ。ナビは筆を眺めたまま、ソジョンに尋ねた。
「ソジョン。」
「はい、なんでしょう」
「チン・スミョンの屋敷の場所は、わかるか?」
「ええ。だいたいは。」
ソジョンは執事から所在を聞き出すと、紙に書いて渡してくれた。ナビがそれを見て眉をひそめる。
「どうか……しましたか?」
「うちの………近所だ」
「つまり?」
ナビは絶句した。ソジョンはもちろん意味がわかるわけもなく、相変わらず不思議そうな顔をしている。
そう、トンチャンが昨日居た場所のすぐ近くなのだ。それも、気味が悪い程にすぐ側だった。
胸騒ぎがして、ナビは素素樓を飛び出した。向かう場所はスミョンの屋敷。気のせいであってほしい。暗かったから見間違えたのだ。きっとそうだ。
ナビは祈るような思いで屋敷にたどり着いた。オクニョの協力者であるヤン・ドングを見つけると、ナビはすぐに尋ねた。
「短刀が落ちていたのはどこだ?」
「お耳が早いですね、ナビさん」
「いいから!早く教えてくれ」
切迫した声で急かしてくるナビに異変を感じたドングは、茶化すのを止めて真面目に短刀の落ちていた場所辺りを指差した。
「ええと………この辺りですね」
そこは、確かにトンチャンが何かを落とした場所だった。そしてその手は────
「血で…………」
汚れていた。だが、ナビは自分に言い聞かせた。
トンチャンが怪我をした可能性はまだある。何を断定しているの、ファン・ナビ。
ナビは真相を知りたくないという思いを感じながら、その足でチョン・ナンジョン商団へ向かった。嫌な思い出しかないこの場所には、顔もばれる可能性があるので来たくはなかった。だが、どうしても確かめたいという思いが先行する。ナビはトンチャンを探した。そして、その姿を見つけて声をかけようとした。
だが、先客が居た。
「お前に受け取ってほしいものがあってな。」
「何?どうしてこれを?」
「それは…………お前が可愛いからだよ」
トンチャンがその人の手を取る。その人はシネの付き人であり、ユン家の使用人頭のチョングムだった。
わかってはいた。自分が言ったことなのだから、仕方がない。忘れて前を向いてほしい。そう言って不毛な想いを絶ちきらせてやろうと思ったはずなのに。ナビはいつのまにか、トンチャンを一途に想い、戻れないはずの場所に心を寄せるヒャンユンに戻っていた。
だが次の瞬間、場の空気が一変した。乾いた音がその場に響く。
「なっ、何するんだよ!」
「気色悪いわね!私があんたなんか相手すると思う!?え?あんたなんか、コン・ジェミョン様のお嬢様くらいしか相手してくれないわよ!ああ、趣味が悪い。」
チョングムがトンチャンを叩いたのだ。ヒャンユンの身体に怒りがこみ上げてくる。
「…………随分失礼な人ですね。」
「あんた、誰?」
関係ないのだから、口を出してはいけない。見ない振りをしなければ。だが、ヒャンユンは自分の怒りを制御できなかった。自分が貶されたことよりも、トンチャンが叩かれて貶められた。その方が余程許せなかった。
「私はこの方に用があるのですが、邪魔です。罵倒なさるのであれば、さっさと私の用を済ませたいのですが」
トンチャンは一体何事かと思ってナビ──ヒャンユンを見ている。ヒャンユンはチョングムを一瞥すると、冷ややかに続けた。
「………誠意を侮辱するほど、あの家の使用人は落ちぶれているのですか?しかも、使用人頭。恥ずかしとは思わぬのですか?」
「あんたみたいな小娘に説教されたくないわ。」
チョングムも負けじと言い返し、ユン家の使用人の威勢に乗ってヒャンユンの頬を叩いた。
「…………私を叩いたこと、後悔なさいませんように。」
ヒャンユンはうっすら微笑みながらそう言った。何のことかさっぱりのチョングムは、不思議な自信に怯え始めた。
「なっ………何故、私があんたなんかに後悔するの?」
「それはいずれ解ること。だからその日まで、どうか私を覚えておいてくださいね。」
「なんなのよ…………気分悪いったらありゃしない!」
チョングムは場が気まずくなるのを感じて、その場を逃げるように後にした。
続いてヒャンユンはトンチャンに向き直り、吐き捨てるように言った。
「あのような女に、なにも言い返せないとは。」
「あ……いや……その…………」
トンチャンは何故か後ろめたさを感じていた。ヒャンユンではないと思ってはいても、やはり気分が悪い。それに、ナビのことを気にかける自分を振り払いたくてあんな行動をしたのに、かえってナビに借りを作ることになるとは。
「…………何の用だよ、ファン・ナビ。」
「…………右手。」
「……は?」
ナビは手を取ると、じっと観察し始めた。
「なっ…………」
「怪我を、したのではないかなと思ったのだが。違ったようだ。では」
手には、ヒャンユンがあってほしいと願った怪我は無かった。つまり、あれは反り血だったのだ。
────教えてちょうだい、トンチャン。チン・スミョンを殺し、チ・チョンドクに濡れ衣を着せたのは……………あなたなの?
ヒャンユンはぞんざいにトンチャンの手を離すも、衝撃を隠すことに必死だった。そして心の中で問うた。
────あなたは………………一体、誰なの?
そして、トンチャンもまた同じことを考えた。
────お前は…………………本当に、誰なんだ?どうして、チョングムを知ってる?どうしてこんなにもあの人に似てるんだ?どうしていつも、俺の目の前に現れるんだ?
二人の視線が重なる。そこには、それぞれの疑念が込められているのだった。