1、暴かれた真実
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空を見上げ、ため息をつく。誰とも話さないように、存在を殺したように静かに。ヒャンユンは独り、手持ちぶさたに日々を過ごすことが増えていった。その理由を知っているジェミョンとチャクト、そしてテウォンだけは彼女をわかってあげられたが、ウンスとトチに察しをつけることができるわけは無かった。ウンスに至っては、商団がこんなことになったのはヒャンユンのせいだと憤っている。
「だから私は言ったのに。トンチャンと親しくなると嫌なことがあるんじゃないのかって。全部ヒャンユンのせいよ!」
「止めないか、ウンス!」
「どうしてよ。どうして叔父さんもヒャンユンの味方なのよ!おかしいじゃない」
そんな二人の言い争いも、自分に対する周りの評価も、全てが耳に入ってきていた。ヒャンユンはその場に居づらくなり、黙って家を離れた。だからといってどこに行くわけでもない。自分はどこにも行けないのだ。本当の両親の元にも、あるべき場所にも、大切な人の隣にも。
だったら自分はどこに帰ればいいのか。
「私は………何なの………」
ヒャンユンは縁側に座って膝を抱えると、泣く気力も失って目を閉じた。そんな養女の様子を、ジェミョンは誰よりも心痛めて見ていた。彼はどんなことでも娘の気分転換になればと思い、トチに尋ねた。
「トチ。今日何か仕事はあるか?」
「ええ。大きいのがひとつ。チョン・ナンジョンに取引を禁制された布を、誤魔化すために夜に搬入しにいきます。」
「………ヒャンユンを連れていけ」
「えっ?ヒャンユンをですか?」
トチは目を丸くしてジェミョンを見たが、大行首の考えは変わりそうもない。首を傾げながら承諾したトチは、一体何が起きているのだろうと考えるのだった。
チョン・ナンジョンはミン・ドンジュからヒャンユンの話を聞き、思案に耽っていた。
────そう言われてみれば、あの娘の眼差し。どこかで見たことがある。以前もあのように睨み付けられ…
ナンジョンは必死に記憶を辿った。だが何も思い出せない。やはり気のせいだったかと笑い飛ばそうとしたが、ちょうどその時夫のウォニョンの声が聞こえてきた。
「ナンジョン、いるか?」
「ええ。どうされましたか?」
「近々、イ・ジョンミョンが都に戻るらしい。」
「えっ?イ・ジョンミョンが?」
ナンジョンはウォニョンの話に目を大きく見開いた。だが彼女が驚いたのは、大尹派の主座であるイ・ジョンミョンが戻るからではない。その名である人を思い出したからだった。
───イ・ヒャンユン…………!そうだ。あの娘だ。あの娘は、コン・ヒャンユンと同じ目をしていた。そしてあの美貌に知略に富んだ頭脳……………
ナンジョンは驚愕を隠しながら夫との会話を終え、兄のマッケを急いで役所に向かわせた。戻ってきたマッケの顔も顔面蒼白だった。
「ナンジョン………大変だ。イ・ヒャンユンの遺体は、別の人物とすり代わっていたかもしれない。あの娘に関する記録や身分証などが、事件のあと全て屋敷から持ち去られていたらしい。」
「えっ?では……………」
「だが、この程度では証明はできない。何しろ、イ・ヒャンユンとコン・ヒャンユンは、出生の四柱が違う」
その言葉にナンジョンが閃く。彼女は余裕げに微笑むと、マッケに指示した。
「コン・ジェミョンを内密に調べよ。娘の母親、そして義州に居るという叔母のことも全てだ。良いな」
「ああ。わかった。」
「くれぐれも旦那様には内密に。これが知られればまずいこととなる。」
ナンジョンは自分の拳をあごに当て、一点を睨み付けた。
さて、どうするか。
ヒャンユンへ魔の手が、着実に迫っていた。
トンチャンは、帳簿をぼんやりと眺めながらヒャンユンのことを考えていた。どうして自分達がこんな目に遭わなければならないのだろうか。
「ああ………くそっ!」
突然何の前触れもなしに机を蹴りあげる音がして、周りがトンチャンに戦いた。
彼に命じられたのは、コン・ジェミョン商団の監視だった。そして今夜、密かに取引が行われることも知っていた。それに、ヒャンユンの様子がおかしいことも知っていた。だが、どうしても文句を言いに行く気にも、確かめる気にもなれなかった。それでも一言念を押しておく必要はある。トンチャンは義務と本心の間で板挟みになると、再び機嫌が悪そうに帳簿の整理に戻るのだった。
夕方になり、トンチャンはジェミョンの元を訪れた。会話をしたいとも思えない相手に、手短に話すにはどうすればいいのかと考えながら、トンチャンはぶっきらぼうに言い放った。
「………ここの商団は、うちの監視下にある。今夜しようとしていることも、全てお見通しだ。」
「…そうか」
トンチャンは業務連絡を終え、ヒャンユンが居ないかどうかを見渡して確かめようとした。すると、ジェミョンが気力のない声で答えた。
「……ヒャンユンは、一緒に取引へ行きました」
「………何だと?どこの道を通って行けと指示した?」
「…………山道です。」
それを聞いてトンチャンの顔色が変わった。
「あそこに娘をか!?」
「ええ。トチも居ますから……」
「トチは使い物にならねぇ。あそこには山賊がよく出るんだ。何てことを……」
トンチャンは職務も忘れて敷地を飛び出した。何事もなければ、杞憂に終わればいいのに。彼は祈るような思いでトチたちの後を追って走り出すのだった。
ヒャンユンは浮かない顔をして、トチの隣で荷物を監視していた。別に放っておいてくれればいいのに。そんな気持ちで月を見上げた。こんな時に限って、月は腹が立つくらいに明るい。
これじゃ、私の表情も隠せないじゃない。
ヒャンユンはまたため息をこぼすと、地面に視線を落とした。
不意に風を切るような音を立て、それは放たれた。ヒャンユンの隣で荷物の確認をしていた男が一人、地面に倒れる。すぐにトチたちは最悪の事態を警告した。
「山賊だ!闘え!荷物を奪われるな!」
「荷物は全部奪え!女は好きにしろ!」
山賊の頭の指示を聞き、ヒャンユンは背筋の凍る思いで荷物の影に隠れた。だが三人の男が彼女に目をつけ、彼女にじりじりと迫り寄ってきた。
「近づかないで。」
「かかれ!」
辺りは開けており、逃げ場を探そうと試みるにも、どこにも逃げられそうな場所はない。
───トンチャン…………助けて………
だが、そのトンチャンは居ない。チョン・ナンジョンから禁止されている目録を密かに運び出して売ろうとしているからこそ、ここに来るはずはなかった。
「トンチャン………トンチャン………!!」
胸に秘めた想いが溢れだした。彼には届かない声が闇夜に吸い込まれていく。
「呼んでも無駄だぜ、お嬢さん。男は来ねぇ」
ヒャンユンが恐怖で凍りついたその時だった。
「ヒャンユン?そこにいるのか!?」
「トンチャン……?」
懐かしくて、とても愛しい声が彼女の耳に飛び込んできた。
「ヒャンユン!どこだ!返事をしろ!ヒャンユン!」
「トンチャン………トンチャン!どこにいるの?トンチャン!」
恐怖を必死で振り払いトンチャンの名前を呼んだヒャンユンは、山賊を振り払って色々なものに躓き、裾を汚しながらも彼を探して走り回った。焦りからよく回りが見えていないせいで、お互いがすぐ近くにいることに気づいていない。背中合わせで名前を呼びあう二人は、依然と互いを探している。
「トンチャン!トンチャン!」
「ヒャンユン!どこだ!俺だ!どこにいる!?」
そして乱闘の中、ついにヒャンユンの手がトンチャンに触れた。はっきり見えていなくとも、それがトンチャンの手であることはわかった。彼女はその手を引っ張ると、顔を確かめようと爪先で立った。
「トンチャン………トンチャン………私よ、ヒャンユンよ……私はここよ」
「ヒャンユン………」
間違いなく恋い焦がれたトンチャンがそこにいた。ヒャンユンは思わずその胸に飛び込むと、大粒の涙を流し始めた。
「トンチャン……………」
「もう、俺がいるから安心しろ」
そう言いながら、トンチャンは間髪入れず山賊を片手で殴り倒した。
「なんでここに?」
「俺が知らないとでも思うか?お前らは俺のとこの商団の監視下にあるんだぞ?」
唖然とするヒャンユンにそう言い放つと、トンチャンは彼女を背に回して守った。
「馬鹿野郎。」
「え………?」
「馬鹿野郎と言ったんだ。聞こえなかったんなら、もう一回言ってやる。馬鹿野郎」
回りの手勢を全て倒し終えた彼は、唖然とするヒャンユンを荒っぽく抱き寄せて、その柔らかな愛らしい頬をつねった。
「そうやっていつも一人で抱え込むんだな。俺だってお前の父親があの程度の品目でやっていけるとは到底思っていない。………だから、その………ある程度は目を瞑っておくつもりだった」
「……え?」
赤面したトンチャンは、語気を荒くしながらヒャンユンを抱き締めた。彼女の瞳に涙が浮かぶ。
「だから!程度はお前のためになら、目を瞑っておいてやるって言ってるんだ!お前は理解もできないくらいに馬鹿なのか?元気もないらしいし、何があったんだ。」
「トンチャン………」
彼の言葉に偽りはなかった。彼が怒っているのはむしろ、自分に黙って危険なことをしようとしたヒャンユンの無謀さだった。だが、ヒャンユンの涙は恐怖から溢れるものではなかった。それは、本当に自分を心配してくれて、無償に愛してくれる人がいるということだった。この人になら、全てを打ち明けられる。
ヒャンユンはうるんだ瞳でトンチャンを見つめると、何かを言おうとして口を開いた。けれど、改めて彼の立場を思いだし、打ち明けるのを止めた。
「…………何でもない。」
「は?」
「何でもない。お節介はやめて。荷を運んでもいいのなら、さっさと通して」
「おい、待てよ!俺はお前を助けたいんだ。何か言おうとしたんじゃ………」
「私とあなたは、相容れない。なにもかも違いすぎる。そんな助けなんて要らない。」
トンチャンの手を振り払って、ヒャンユンは歩き出した。
だめだ。この人を危険に晒せはしない。私が独りで抱えなければならないことなのよ。
その後ろ姿があまりに遠く、トンチャンは追いかけることもできずについ、こんなことを言ってしまった。
「……何なんだよ。自分勝手な奴だな。そんなお前は嫌いだ。大嫌いだ。お前は、初めて会ったときから蝶のような人だった。俺を選んだのは、ただ羽を休めるためだけで、もう飛び去るのか?」
それでもヒャンユンは無言で背を向けながら歩き続ける。
「無視か!?ああ、いいとも。お前なんて助けねぇ。絶対助けねぇからな!どっかでの垂れ死んでも知らねぇからな!おい!聞いてるのか!?心配してやってるのに。俺が嫌いなら婚約解消だ!ああ!」
引き際がわからず、トンチャンは次々とヒャンユンを傷つけるような言葉を口に出した。そしてトチと共に搬入に行ってしまい、背中が見えなくなってからようやく、酷いことを言ってしまったことに気づいた。
「あ……………」
トンチャンはばつが悪そうに地面を見ると、土を蹴って踵を返した。
「ま、今度謝りゃいいか。俺にここまで言わせるあいつも悪いんだ。」
その今度が二度とやってこないことは、トンチャンの知る由もないことだった。
ヒャンユンは何よりも癒えない傷を抱えて帰宅した。トンチャンにかけられた言葉の一つ一つが身に滲みる。
あの人は、私に手をさしのべてくれた。なのに私は…………
ヒャンユンは自暴自棄になっていた自分を呪った。そして、彼への誤解を解くにはどうすれば良いのだろうかと考えた。だが、いい案は浮かばない。
「もう…………こんなときに限って………私ったら……」
ヒャンユンは両目から涙をこぼしながら机を拳で叩いた。その手に伝わる痛みより、心に刺さった痛みの方が辛くて、余計に涙があふれた。
「トンチャン……………」
仇の部下を愛してしまった。どうしてこんなにも愛しているのか。
ヒャンユンは衣装箱から作り終わったトンチャンの服を取り出すと、丁寧に包みにくるみ始めた。そして紙を机に置き、筆を取った。
────とりあえず、謝りたい。
ヒャンユンは覚悟を決めると、筆を滑らせ始めた。
マッケはナンジョンとドンジュが待つ部屋に入ると、調べたことをのべた。
「まず、コン・ジェミョンの妻の子ではない。妻は出産のときに子と一緒に亡くなっている。」
「つまり、養女ということですか?」
「そうだ。……そして、義州の叔母も叔母ではない。その者は……………」
マッケは少し間を置くと、恐る恐る口を開いた。
「その者は、イ・ヒャンユンの乳母だ。行方不明の兄、イ・ヨンフェとも接触を持っている。」
「最近あの娘が出入りした仕立て屋に聞いてみると、どうもイ・ヒャンユンが斬られた位置と同じ場所に傷跡があったそうです。それに、昔から仕えている者によると、コン・ジェミョンがある日突然にヒャンユンを連れてきたとか。その後すぐに役所へ戸籍の偽造をしています。どうやら実子ではなさそうです」
ナンジョンは深く息をはくと、憤りに沈んだ。
「10年前に始末しそびれた、内禁衛の隊長キ・チュンスを呼び出しましょうか?」
「いいや、構わぬ。それより、我々で息の根を止める。あの日の件が公になれば、大変なことだ」
ナンジョンはドンジュに目配せをすると、無言で指示を出した。
その視線は、イ・ヒャンユンを確実に殺せ。そう確かに物語っていた。
トンチャンの仕事が終わる夕方終わりすぐに合わせて、ヒャンユンは包みと手紙を持ってチョン・ナンジョン商団にやって来た。だが、あいにくトンチャンは外出中だった。ヒャンユンはついていないとため息をつき、そのまま荷物を持って帰ろうとした。だが、そこに偶然報告へ来ていたトチと鉢合わせし、ヒャンユンはその腕をつかんで引き留めた。
「トチ!お願いがあるの。まだしばらくここに居るでしょう?あのね、トンチャンにこれを渡してほしいの。」
「えっ?トンチャンにですか?」
「そう。お願い。絶対に渡してね」
ヒャンユンのいつにない念押しに折れて、トチは渋々包みと手紙を受け取った。
「わかりました。………あいつ、どうせすぐに戻ると思いますよ?」
「いいの。あの人も私には会いたくないと……思うから。」
ヒャンユンはとぼとぼ歩きだし、ふと振り返った。
「トチ。」
「はい?」
「あの人に伝えてほしいの。────ずっと、いつまでも愛してるって。その気持ちだけは永遠に変わらないって。」
「わかりました。伝えますよ」
トチが承諾したのを見て笑顔になると、ヒャンユンは帰路とは逆方向に向かった。
その笑顔が最期の目撃に、その言葉が最期の会話になるとは、誰も予想しなかった。
ヒャンユンはカン・ソノを訪ねるためにやって来たが、店は休業で誰もいなかった。
「カン様もいないのね………」
すると、店の奥から店主が現れた。
「おっ、お嬢さん。カンの旦那かな?」
「そうです。」
「伝えておくよ。さようなら」
「うん、さようなら」
ヒャンユンは一礼すると、少し暗くなった道を歩き出した。夜空を引っ掻いたような月───母を失ったあの日の月の形である以外は、いつもと変わらない風景だった。
ふと、ヒャンユンは自分の後ろから別の足音が二、三聞こえてくるのを感じた。自分が止まると、その音も止まる。背筋が凍りつく感覚を覚えた彼女は走り出した。
橋を渡ったところで上手く撒けたと思っていたヒャンユンだったが、思惑に反してその周りにはいつの間にか四人の刺客が現れていた。ただのごろつきよりも危険な、殺しを本職とする彼らは剣を抜くと、ヒャンユンにじりじりと歩みを進めた。おおよそ、誰が寄越した奴等なのかは見当がついている。ヒャンユンは隙を縫って人気のある場所へ逃げようとした。だが、向かった先は行き止まり。塀は越えられるような高さではない。
「トンチャン……………」
やはりきちんと会って話がしたかった。誤解を解きたかった。自分で伝えたかった。
そして、ヒャンユンが空を仰いだ時だった。塀を飛び越え、目の前に誰かが刺客との間に割って入った。
「大丈夫ですか、お嬢様」
「えっ………………」
振り向いたのは、カン・ソノだった。彼は剣を抜くと、目にも止まらぬ速さで刺客に斬りかかり、トンチャンとは比べ物にもならない圧倒的な強さで敵を怯ませた。
「………申し訳ないが、お前たちには一人を除いて全員死んでもらう」
ソノはそう宣言すると、男の首に回し蹴りを入れてのけぞらせた。その反動で露になった首もとを剣で切り裂く。その場に血が飛び散るが、全く彼は動じていない。残り二人の刺客も倒され、最後の一人はいつの間にかやって来ていた先程の店主に捕らえられた。
「カン様、間に合って良かったです」
「ええ。ありがとうございました」
「あなたは……店主さん?」
店主は刺客に猿ぐつわをはめながら笑った。
「ええ。店主です。昔は体探人でしたけどね」
「体探人……?」
ソノは剣を収めると、ヒャンユンに手をさしのべた。
「その辺にしておけ。………お嬢様、チョン・ナンジョンに命を狙われる訳はご存じですか?」
「……はい」
それを聞いてほっとした彼は、ヒャンユンを立ち上がらせて屋敷へ歩き出した。
「良かった。なにもご存じでいらっしゃらない場合なら、危うく混乱させるところでした。」
「いえ…………」
二人は無言で歩いた。部屋に通されると、そこには一人の女性がいた。
「尚宮様、この方です」
「まぁ………あなたがイ・ジョンミョン大監の……」
尚宮様と呼ばれた女性は、ヒャンユンを見て微笑んだ。緊迫した状況を忘れてしまうほどに暖かな笑顔だった。ヒャンユンは思わず嗚咽を漏らしてその場に座りこんだ。
「だっ、大丈夫ですか!?」
「カン様、少しそっとしてあげましょう。」
「いえ…大丈夫なんです………それより、私は家に…養父のもとに帰れるのでしょうか?」
ヒャンユンは懇願するような目で二人を見た。だが、ソノの表情は既に返答を提示していた。
「…………申し訳ありませんが、このままお戻りになればまた命を狙われます。亡くなったことにしておく手筈は整えてあります。ですから…………」
「また………別の人生になるの?」
「………申し訳ございません。今の状況では、コン・ジェミョン大行首を含め、すべての方に亡くなったと思っていただかねばなりません。私の不徳でこのようなことに…………」
ヒャンユンは呆然となり、しばらく一言も発さなかったが、やがて小さな声で承諾した。
尚宮───ミン・スオクはカン・ソノを部屋からつまみ出すと、しばらく一人にしてやるべきだと主張した。
「あんなに辛そうな顔………見ていられません。」
「あの方が乗り越えるべきことなのです。……ですが、私にも、あれはあまりに辛すぎるように思えます」
ソノが肩を落としていると、ヒャンユンが部屋から出てきて彼を呼んだ。
「カン様」
「何でしょうか。」
「あの………何故私のことをご存じで?」
「実は、あなたの兄上──ヨンフェ若様にお嬢様の捜索と、密かにお守りするようにと命じられていたのです。」
ヒャンユンの中ですべての辻褄が合った。ジェミョンを助けたのも、取引を手伝ってくれたのも全て、命令のうちだったのか。
そこに思慕の念など読み取れるわけもなく、ヒャンユンはソノの手を取った。
「カン様、ありがとうございました。何とお礼を言えばいいのか……」
「あっ……いえ………そんな……」
手を取られたせいで頭が真っ白になったソノは、必死で言葉を探した。だが、慰めの言葉など到底出てくるはずもない。たちまち黙りこんだソノのことを忘れ、ヒャンユンは自分が亡くなったと信じることになる人々に思案を巡らせるのだった。
既になかなか帰らないヒャンユンを心配し、ジェミョンは捕盗庁の知り合いであるヤン・ドングに連絡を入れていた。彼の中で胸騒ぎがしていた。
───ヒャンユン…………何があったんだ………
ヒャンユンが行方不明になったことは、いつの間にか都中の噂となっていた。もちろん真っ先に疑われたのはトンチャンだった。事件翌日の早朝、捕盗庁に連行された彼はそこで初めてヒャンユンが行方不明になったことを知った。
「ど………どういうことですか?あの…………ヒャンユンが?行方不明に?」
「そうだ。お前が一番怪しいが………証言もあるし、形式だけの取り調べを始めるから………」
「ヒャンユンが行方不明ってのはどういうことかって聞いてるんだよ!!!てめぇが俺の質問に答えやがれ!ヒャンユンはどこだ!!!」
「落ち着け!トンチャン!」
取り乱したトンチャンは、椅子から立ち上がってドングを殴ろうとした。瞳には信じられないと言いたげな色が浮かんでいる。唇は震え、目は見開かれている。
「ヒャンユンが……………行方不明……そんな………俺は………」
───俺は、なんてことをしてしまったんだ。
最期の会話だったのかもしれないのに。救えたのかもしれないのに。様々な気持ちが錯綜して、不協和音を奏でた。トンチャンはとりすがるような表情でドングを見た。
「ヒャンユンは、見つかるんですよね?そうですよね?」
「…………わからん。………三日目の夜に、捜索は打ちきりだ。見つかる可能性は低いだろう。」
「そんな…………」
悪夢を見ているような気分にかられたトンチャンは、絶望と深い後悔を味わいながらただ、床を眺めることしかできなかった。
それから三日三晩にかけて捜索は続けられた。仕舞いにはジェミョン自らが、松明を持ってヒャンユンを探しにいっていた。だが、打ちきりの時間がやって来た。
「ヒャンユン!どこにいるんだ!ヒャンユン!お前にはたくさん謝らねばならないことがある!ヒャンユン!どこなんだ!」
「大行首様!もう止めてください!」
「ジェミョン!もうやめろ」
ジェミョンはトチとドングの手を振り払うと、がむしゃらに草を掻き分け始めた。
「ヒャンユンが!娘が!生きているかもしれないのに。助けを求めているかもしれないのに!ここで止められはしない。俺だけでも探し続ける!ヒャンユン!ヒャンユン!」
「大行首様…………ヒャンユンは………お嬢様は……お亡くなりになったんですよ……」
チャクトが膝から崩れ落ちながら、そうこぼした。ジェミョンは立ち止まると、空に向かって声にならない声で叫んだ。
「ああああああぁ!」
「大行首様…………」
ジェミョンの叫びは、その場にいた誰もの心に刺さった。だが、その悲しみの裏に更に深い隠された悲しみがあることを知っているのは、チャクトだけだった。
「だから私は言ったのに。トンチャンと親しくなると嫌なことがあるんじゃないのかって。全部ヒャンユンのせいよ!」
「止めないか、ウンス!」
「どうしてよ。どうして叔父さんもヒャンユンの味方なのよ!おかしいじゃない」
そんな二人の言い争いも、自分に対する周りの評価も、全てが耳に入ってきていた。ヒャンユンはその場に居づらくなり、黙って家を離れた。だからといってどこに行くわけでもない。自分はどこにも行けないのだ。本当の両親の元にも、あるべき場所にも、大切な人の隣にも。
だったら自分はどこに帰ればいいのか。
「私は………何なの………」
ヒャンユンは縁側に座って膝を抱えると、泣く気力も失って目を閉じた。そんな養女の様子を、ジェミョンは誰よりも心痛めて見ていた。彼はどんなことでも娘の気分転換になればと思い、トチに尋ねた。
「トチ。今日何か仕事はあるか?」
「ええ。大きいのがひとつ。チョン・ナンジョンに取引を禁制された布を、誤魔化すために夜に搬入しにいきます。」
「………ヒャンユンを連れていけ」
「えっ?ヒャンユンをですか?」
トチは目を丸くしてジェミョンを見たが、大行首の考えは変わりそうもない。首を傾げながら承諾したトチは、一体何が起きているのだろうと考えるのだった。
チョン・ナンジョンはミン・ドンジュからヒャンユンの話を聞き、思案に耽っていた。
────そう言われてみれば、あの娘の眼差し。どこかで見たことがある。以前もあのように睨み付けられ…
ナンジョンは必死に記憶を辿った。だが何も思い出せない。やはり気のせいだったかと笑い飛ばそうとしたが、ちょうどその時夫のウォニョンの声が聞こえてきた。
「ナンジョン、いるか?」
「ええ。どうされましたか?」
「近々、イ・ジョンミョンが都に戻るらしい。」
「えっ?イ・ジョンミョンが?」
ナンジョンはウォニョンの話に目を大きく見開いた。だが彼女が驚いたのは、大尹派の主座であるイ・ジョンミョンが戻るからではない。その名である人を思い出したからだった。
───イ・ヒャンユン…………!そうだ。あの娘だ。あの娘は、コン・ヒャンユンと同じ目をしていた。そしてあの美貌に知略に富んだ頭脳……………
ナンジョンは驚愕を隠しながら夫との会話を終え、兄のマッケを急いで役所に向かわせた。戻ってきたマッケの顔も顔面蒼白だった。
「ナンジョン………大変だ。イ・ヒャンユンの遺体は、別の人物とすり代わっていたかもしれない。あの娘に関する記録や身分証などが、事件のあと全て屋敷から持ち去られていたらしい。」
「えっ?では……………」
「だが、この程度では証明はできない。何しろ、イ・ヒャンユンとコン・ヒャンユンは、出生の四柱が違う」
その言葉にナンジョンが閃く。彼女は余裕げに微笑むと、マッケに指示した。
「コン・ジェミョンを内密に調べよ。娘の母親、そして義州に居るという叔母のことも全てだ。良いな」
「ああ。わかった。」
「くれぐれも旦那様には内密に。これが知られればまずいこととなる。」
ナンジョンは自分の拳をあごに当て、一点を睨み付けた。
さて、どうするか。
ヒャンユンへ魔の手が、着実に迫っていた。
トンチャンは、帳簿をぼんやりと眺めながらヒャンユンのことを考えていた。どうして自分達がこんな目に遭わなければならないのだろうか。
「ああ………くそっ!」
突然何の前触れもなしに机を蹴りあげる音がして、周りがトンチャンに戦いた。
彼に命じられたのは、コン・ジェミョン商団の監視だった。そして今夜、密かに取引が行われることも知っていた。それに、ヒャンユンの様子がおかしいことも知っていた。だが、どうしても文句を言いに行く気にも、確かめる気にもなれなかった。それでも一言念を押しておく必要はある。トンチャンは義務と本心の間で板挟みになると、再び機嫌が悪そうに帳簿の整理に戻るのだった。
夕方になり、トンチャンはジェミョンの元を訪れた。会話をしたいとも思えない相手に、手短に話すにはどうすればいいのかと考えながら、トンチャンはぶっきらぼうに言い放った。
「………ここの商団は、うちの監視下にある。今夜しようとしていることも、全てお見通しだ。」
「…そうか」
トンチャンは業務連絡を終え、ヒャンユンが居ないかどうかを見渡して確かめようとした。すると、ジェミョンが気力のない声で答えた。
「……ヒャンユンは、一緒に取引へ行きました」
「………何だと?どこの道を通って行けと指示した?」
「…………山道です。」
それを聞いてトンチャンの顔色が変わった。
「あそこに娘をか!?」
「ええ。トチも居ますから……」
「トチは使い物にならねぇ。あそこには山賊がよく出るんだ。何てことを……」
トンチャンは職務も忘れて敷地を飛び出した。何事もなければ、杞憂に終わればいいのに。彼は祈るような思いでトチたちの後を追って走り出すのだった。
ヒャンユンは浮かない顔をして、トチの隣で荷物を監視していた。別に放っておいてくれればいいのに。そんな気持ちで月を見上げた。こんな時に限って、月は腹が立つくらいに明るい。
これじゃ、私の表情も隠せないじゃない。
ヒャンユンはまたため息をこぼすと、地面に視線を落とした。
不意に風を切るような音を立て、それは放たれた。ヒャンユンの隣で荷物の確認をしていた男が一人、地面に倒れる。すぐにトチたちは最悪の事態を警告した。
「山賊だ!闘え!荷物を奪われるな!」
「荷物は全部奪え!女は好きにしろ!」
山賊の頭の指示を聞き、ヒャンユンは背筋の凍る思いで荷物の影に隠れた。だが三人の男が彼女に目をつけ、彼女にじりじりと迫り寄ってきた。
「近づかないで。」
「かかれ!」
辺りは開けており、逃げ場を探そうと試みるにも、どこにも逃げられそうな場所はない。
───トンチャン…………助けて………
だが、そのトンチャンは居ない。チョン・ナンジョンから禁止されている目録を密かに運び出して売ろうとしているからこそ、ここに来るはずはなかった。
「トンチャン………トンチャン………!!」
胸に秘めた想いが溢れだした。彼には届かない声が闇夜に吸い込まれていく。
「呼んでも無駄だぜ、お嬢さん。男は来ねぇ」
ヒャンユンが恐怖で凍りついたその時だった。
「ヒャンユン?そこにいるのか!?」
「トンチャン……?」
懐かしくて、とても愛しい声が彼女の耳に飛び込んできた。
「ヒャンユン!どこだ!返事をしろ!ヒャンユン!」
「トンチャン………トンチャン!どこにいるの?トンチャン!」
恐怖を必死で振り払いトンチャンの名前を呼んだヒャンユンは、山賊を振り払って色々なものに躓き、裾を汚しながらも彼を探して走り回った。焦りからよく回りが見えていないせいで、お互いがすぐ近くにいることに気づいていない。背中合わせで名前を呼びあう二人は、依然と互いを探している。
「トンチャン!トンチャン!」
「ヒャンユン!どこだ!俺だ!どこにいる!?」
そして乱闘の中、ついにヒャンユンの手がトンチャンに触れた。はっきり見えていなくとも、それがトンチャンの手であることはわかった。彼女はその手を引っ張ると、顔を確かめようと爪先で立った。
「トンチャン………トンチャン………私よ、ヒャンユンよ……私はここよ」
「ヒャンユン………」
間違いなく恋い焦がれたトンチャンがそこにいた。ヒャンユンは思わずその胸に飛び込むと、大粒の涙を流し始めた。
「トンチャン……………」
「もう、俺がいるから安心しろ」
そう言いながら、トンチャンは間髪入れず山賊を片手で殴り倒した。
「なんでここに?」
「俺が知らないとでも思うか?お前らは俺のとこの商団の監視下にあるんだぞ?」
唖然とするヒャンユンにそう言い放つと、トンチャンは彼女を背に回して守った。
「馬鹿野郎。」
「え………?」
「馬鹿野郎と言ったんだ。聞こえなかったんなら、もう一回言ってやる。馬鹿野郎」
回りの手勢を全て倒し終えた彼は、唖然とするヒャンユンを荒っぽく抱き寄せて、その柔らかな愛らしい頬をつねった。
「そうやっていつも一人で抱え込むんだな。俺だってお前の父親があの程度の品目でやっていけるとは到底思っていない。………だから、その………ある程度は目を瞑っておくつもりだった」
「……え?」
赤面したトンチャンは、語気を荒くしながらヒャンユンを抱き締めた。彼女の瞳に涙が浮かぶ。
「だから!程度はお前のためになら、目を瞑っておいてやるって言ってるんだ!お前は理解もできないくらいに馬鹿なのか?元気もないらしいし、何があったんだ。」
「トンチャン………」
彼の言葉に偽りはなかった。彼が怒っているのはむしろ、自分に黙って危険なことをしようとしたヒャンユンの無謀さだった。だが、ヒャンユンの涙は恐怖から溢れるものではなかった。それは、本当に自分を心配してくれて、無償に愛してくれる人がいるということだった。この人になら、全てを打ち明けられる。
ヒャンユンはうるんだ瞳でトンチャンを見つめると、何かを言おうとして口を開いた。けれど、改めて彼の立場を思いだし、打ち明けるのを止めた。
「…………何でもない。」
「は?」
「何でもない。お節介はやめて。荷を運んでもいいのなら、さっさと通して」
「おい、待てよ!俺はお前を助けたいんだ。何か言おうとしたんじゃ………」
「私とあなたは、相容れない。なにもかも違いすぎる。そんな助けなんて要らない。」
トンチャンの手を振り払って、ヒャンユンは歩き出した。
だめだ。この人を危険に晒せはしない。私が独りで抱えなければならないことなのよ。
その後ろ姿があまりに遠く、トンチャンは追いかけることもできずについ、こんなことを言ってしまった。
「……何なんだよ。自分勝手な奴だな。そんなお前は嫌いだ。大嫌いだ。お前は、初めて会ったときから蝶のような人だった。俺を選んだのは、ただ羽を休めるためだけで、もう飛び去るのか?」
それでもヒャンユンは無言で背を向けながら歩き続ける。
「無視か!?ああ、いいとも。お前なんて助けねぇ。絶対助けねぇからな!どっかでの垂れ死んでも知らねぇからな!おい!聞いてるのか!?心配してやってるのに。俺が嫌いなら婚約解消だ!ああ!」
引き際がわからず、トンチャンは次々とヒャンユンを傷つけるような言葉を口に出した。そしてトチと共に搬入に行ってしまい、背中が見えなくなってからようやく、酷いことを言ってしまったことに気づいた。
「あ……………」
トンチャンはばつが悪そうに地面を見ると、土を蹴って踵を返した。
「ま、今度謝りゃいいか。俺にここまで言わせるあいつも悪いんだ。」
その今度が二度とやってこないことは、トンチャンの知る由もないことだった。
ヒャンユンは何よりも癒えない傷を抱えて帰宅した。トンチャンにかけられた言葉の一つ一つが身に滲みる。
あの人は、私に手をさしのべてくれた。なのに私は…………
ヒャンユンは自暴自棄になっていた自分を呪った。そして、彼への誤解を解くにはどうすれば良いのだろうかと考えた。だが、いい案は浮かばない。
「もう…………こんなときに限って………私ったら……」
ヒャンユンは両目から涙をこぼしながら机を拳で叩いた。その手に伝わる痛みより、心に刺さった痛みの方が辛くて、余計に涙があふれた。
「トンチャン……………」
仇の部下を愛してしまった。どうしてこんなにも愛しているのか。
ヒャンユンは衣装箱から作り終わったトンチャンの服を取り出すと、丁寧に包みにくるみ始めた。そして紙を机に置き、筆を取った。
────とりあえず、謝りたい。
ヒャンユンは覚悟を決めると、筆を滑らせ始めた。
マッケはナンジョンとドンジュが待つ部屋に入ると、調べたことをのべた。
「まず、コン・ジェミョンの妻の子ではない。妻は出産のときに子と一緒に亡くなっている。」
「つまり、養女ということですか?」
「そうだ。……そして、義州の叔母も叔母ではない。その者は……………」
マッケは少し間を置くと、恐る恐る口を開いた。
「その者は、イ・ヒャンユンの乳母だ。行方不明の兄、イ・ヨンフェとも接触を持っている。」
「最近あの娘が出入りした仕立て屋に聞いてみると、どうもイ・ヒャンユンが斬られた位置と同じ場所に傷跡があったそうです。それに、昔から仕えている者によると、コン・ジェミョンがある日突然にヒャンユンを連れてきたとか。その後すぐに役所へ戸籍の偽造をしています。どうやら実子ではなさそうです」
ナンジョンは深く息をはくと、憤りに沈んだ。
「10年前に始末しそびれた、内禁衛の隊長キ・チュンスを呼び出しましょうか?」
「いいや、構わぬ。それより、我々で息の根を止める。あの日の件が公になれば、大変なことだ」
ナンジョンはドンジュに目配せをすると、無言で指示を出した。
その視線は、イ・ヒャンユンを確実に殺せ。そう確かに物語っていた。
トンチャンの仕事が終わる夕方終わりすぐに合わせて、ヒャンユンは包みと手紙を持ってチョン・ナンジョン商団にやって来た。だが、あいにくトンチャンは外出中だった。ヒャンユンはついていないとため息をつき、そのまま荷物を持って帰ろうとした。だが、そこに偶然報告へ来ていたトチと鉢合わせし、ヒャンユンはその腕をつかんで引き留めた。
「トチ!お願いがあるの。まだしばらくここに居るでしょう?あのね、トンチャンにこれを渡してほしいの。」
「えっ?トンチャンにですか?」
「そう。お願い。絶対に渡してね」
ヒャンユンのいつにない念押しに折れて、トチは渋々包みと手紙を受け取った。
「わかりました。………あいつ、どうせすぐに戻ると思いますよ?」
「いいの。あの人も私には会いたくないと……思うから。」
ヒャンユンはとぼとぼ歩きだし、ふと振り返った。
「トチ。」
「はい?」
「あの人に伝えてほしいの。────ずっと、いつまでも愛してるって。その気持ちだけは永遠に変わらないって。」
「わかりました。伝えますよ」
トチが承諾したのを見て笑顔になると、ヒャンユンは帰路とは逆方向に向かった。
その笑顔が最期の目撃に、その言葉が最期の会話になるとは、誰も予想しなかった。
ヒャンユンはカン・ソノを訪ねるためにやって来たが、店は休業で誰もいなかった。
「カン様もいないのね………」
すると、店の奥から店主が現れた。
「おっ、お嬢さん。カンの旦那かな?」
「そうです。」
「伝えておくよ。さようなら」
「うん、さようなら」
ヒャンユンは一礼すると、少し暗くなった道を歩き出した。夜空を引っ掻いたような月───母を失ったあの日の月の形である以外は、いつもと変わらない風景だった。
ふと、ヒャンユンは自分の後ろから別の足音が二、三聞こえてくるのを感じた。自分が止まると、その音も止まる。背筋が凍りつく感覚を覚えた彼女は走り出した。
橋を渡ったところで上手く撒けたと思っていたヒャンユンだったが、思惑に反してその周りにはいつの間にか四人の刺客が現れていた。ただのごろつきよりも危険な、殺しを本職とする彼らは剣を抜くと、ヒャンユンにじりじりと歩みを進めた。おおよそ、誰が寄越した奴等なのかは見当がついている。ヒャンユンは隙を縫って人気のある場所へ逃げようとした。だが、向かった先は行き止まり。塀は越えられるような高さではない。
「トンチャン……………」
やはりきちんと会って話がしたかった。誤解を解きたかった。自分で伝えたかった。
そして、ヒャンユンが空を仰いだ時だった。塀を飛び越え、目の前に誰かが刺客との間に割って入った。
「大丈夫ですか、お嬢様」
「えっ………………」
振り向いたのは、カン・ソノだった。彼は剣を抜くと、目にも止まらぬ速さで刺客に斬りかかり、トンチャンとは比べ物にもならない圧倒的な強さで敵を怯ませた。
「………申し訳ないが、お前たちには一人を除いて全員死んでもらう」
ソノはそう宣言すると、男の首に回し蹴りを入れてのけぞらせた。その反動で露になった首もとを剣で切り裂く。その場に血が飛び散るが、全く彼は動じていない。残り二人の刺客も倒され、最後の一人はいつの間にかやって来ていた先程の店主に捕らえられた。
「カン様、間に合って良かったです」
「ええ。ありがとうございました」
「あなたは……店主さん?」
店主は刺客に猿ぐつわをはめながら笑った。
「ええ。店主です。昔は体探人でしたけどね」
「体探人……?」
ソノは剣を収めると、ヒャンユンに手をさしのべた。
「その辺にしておけ。………お嬢様、チョン・ナンジョンに命を狙われる訳はご存じですか?」
「……はい」
それを聞いてほっとした彼は、ヒャンユンを立ち上がらせて屋敷へ歩き出した。
「良かった。なにもご存じでいらっしゃらない場合なら、危うく混乱させるところでした。」
「いえ…………」
二人は無言で歩いた。部屋に通されると、そこには一人の女性がいた。
「尚宮様、この方です」
「まぁ………あなたがイ・ジョンミョン大監の……」
尚宮様と呼ばれた女性は、ヒャンユンを見て微笑んだ。緊迫した状況を忘れてしまうほどに暖かな笑顔だった。ヒャンユンは思わず嗚咽を漏らしてその場に座りこんだ。
「だっ、大丈夫ですか!?」
「カン様、少しそっとしてあげましょう。」
「いえ…大丈夫なんです………それより、私は家に…養父のもとに帰れるのでしょうか?」
ヒャンユンは懇願するような目で二人を見た。だが、ソノの表情は既に返答を提示していた。
「…………申し訳ありませんが、このままお戻りになればまた命を狙われます。亡くなったことにしておく手筈は整えてあります。ですから…………」
「また………別の人生になるの?」
「………申し訳ございません。今の状況では、コン・ジェミョン大行首を含め、すべての方に亡くなったと思っていただかねばなりません。私の不徳でこのようなことに…………」
ヒャンユンは呆然となり、しばらく一言も発さなかったが、やがて小さな声で承諾した。
尚宮───ミン・スオクはカン・ソノを部屋からつまみ出すと、しばらく一人にしてやるべきだと主張した。
「あんなに辛そうな顔………見ていられません。」
「あの方が乗り越えるべきことなのです。……ですが、私にも、あれはあまりに辛すぎるように思えます」
ソノが肩を落としていると、ヒャンユンが部屋から出てきて彼を呼んだ。
「カン様」
「何でしょうか。」
「あの………何故私のことをご存じで?」
「実は、あなたの兄上──ヨンフェ若様にお嬢様の捜索と、密かにお守りするようにと命じられていたのです。」
ヒャンユンの中ですべての辻褄が合った。ジェミョンを助けたのも、取引を手伝ってくれたのも全て、命令のうちだったのか。
そこに思慕の念など読み取れるわけもなく、ヒャンユンはソノの手を取った。
「カン様、ありがとうございました。何とお礼を言えばいいのか……」
「あっ……いえ………そんな……」
手を取られたせいで頭が真っ白になったソノは、必死で言葉を探した。だが、慰めの言葉など到底出てくるはずもない。たちまち黙りこんだソノのことを忘れ、ヒャンユンは自分が亡くなったと信じることになる人々に思案を巡らせるのだった。
既になかなか帰らないヒャンユンを心配し、ジェミョンは捕盗庁の知り合いであるヤン・ドングに連絡を入れていた。彼の中で胸騒ぎがしていた。
───ヒャンユン…………何があったんだ………
ヒャンユンが行方不明になったことは、いつの間にか都中の噂となっていた。もちろん真っ先に疑われたのはトンチャンだった。事件翌日の早朝、捕盗庁に連行された彼はそこで初めてヒャンユンが行方不明になったことを知った。
「ど………どういうことですか?あの…………ヒャンユンが?行方不明に?」
「そうだ。お前が一番怪しいが………証言もあるし、形式だけの取り調べを始めるから………」
「ヒャンユンが行方不明ってのはどういうことかって聞いてるんだよ!!!てめぇが俺の質問に答えやがれ!ヒャンユンはどこだ!!!」
「落ち着け!トンチャン!」
取り乱したトンチャンは、椅子から立ち上がってドングを殴ろうとした。瞳には信じられないと言いたげな色が浮かんでいる。唇は震え、目は見開かれている。
「ヒャンユンが……………行方不明……そんな………俺は………」
───俺は、なんてことをしてしまったんだ。
最期の会話だったのかもしれないのに。救えたのかもしれないのに。様々な気持ちが錯綜して、不協和音を奏でた。トンチャンはとりすがるような表情でドングを見た。
「ヒャンユンは、見つかるんですよね?そうですよね?」
「…………わからん。………三日目の夜に、捜索は打ちきりだ。見つかる可能性は低いだろう。」
「そんな…………」
悪夢を見ているような気分にかられたトンチャンは、絶望と深い後悔を味わいながらただ、床を眺めることしかできなかった。
それから三日三晩にかけて捜索は続けられた。仕舞いにはジェミョン自らが、松明を持ってヒャンユンを探しにいっていた。だが、打ちきりの時間がやって来た。
「ヒャンユン!どこにいるんだ!ヒャンユン!お前にはたくさん謝らねばならないことがある!ヒャンユン!どこなんだ!」
「大行首様!もう止めてください!」
「ジェミョン!もうやめろ」
ジェミョンはトチとドングの手を振り払うと、がむしゃらに草を掻き分け始めた。
「ヒャンユンが!娘が!生きているかもしれないのに。助けを求めているかもしれないのに!ここで止められはしない。俺だけでも探し続ける!ヒャンユン!ヒャンユン!」
「大行首様…………ヒャンユンは………お嬢様は……お亡くなりになったんですよ……」
チャクトが膝から崩れ落ちながら、そうこぼした。ジェミョンは立ち止まると、空に向かって声にならない声で叫んだ。
「ああああああぁ!」
「大行首様…………」
ジェミョンの叫びは、その場にいた誰もの心に刺さった。だが、その悲しみの裏に更に深い隠された悲しみがあることを知っているのは、チャクトだけだった。