6、運命の歪み
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
典獄署の茶女オクニョは朝からの一連の用事を済ませ、椅子に座って一息ついていた。
「オ、ク、ニ、ョ」
ふと隣から聞き覚えのある声が耳に飛び込んできて、何気なく視線を向けると、彼女はびっくり仰天した。
「わっ!!!ヒャンユンじゃない!いつ義州から戻ったの?」
「えへへ、ついこの間よ。元気にしてたー?」
ヒャンユンは幼子のように笑うと、幼い頃からの親友の隣に腰かけた。
「ええ、もちろん。見ない間に綺麗になったわね」
「それはこちらの台詞よ、オクニョ」
二人は顔を見合わせて笑うと、今まであったことを語り始めた。
「懐かしいわね。最初にあったのも典獄署だったから」
「ええ。典獄署に物品を納入したときに会ったのよね」
「あのときは、茶女にも気さくに話しかける不思議なお嬢様だと思ったわ」
「子曰く、教え有りて類無し。だからね」
その懐かしい例の言葉にオクニョは吹き出した。
「そんなこと典獄署のど真ん中で大声でいうなんて、流石の私とイ・ジハム様でもびっくりだったわ」
「だって、本当のことだもん。身分だけで貴賤が決まる世界なんておかしいよ。私は特に今そう思う。」
「あら、どうして?」
オクニョの質問に眉を潜めて少し考えると、ヒャンユンは小さな声で耳打ちした。
「あのね、今ね、私……婚約者がいるの」
「えっ?誰なの?」
「都一の商団に勤めてる曰牌。」
曰牌と聞いて、オクニョは思わず顔をしかめてしまった。典獄署で長年仕事をしてきて、その界隈の者にはあまり良い思い出がないからだ。
「曰牌?………ヒャンユンがいい人って思うなら、そうなのかもしれないけど……」
「とってもいい人なの!でもオクニョの方が可愛いから、紹介してあげない!」
「ええ、なにそれ?」
「えへへ、じゃあね!」
「あっ、ちょっと!」
跳び跳ねるようにして去っていくヒャンユンを追いかけようとして立ち上がったオクニョは、慌てて門まで付いていった。
「うちの商団に今度、遊びに来てね!」
「うん、行くようにするわ。ありがとう」
「じゃあね!ばいばい!」
だが、勢いよくヒャンユンが歩きだそうとした瞬間、目の前にある何かにぶつかった。後ろに転けそうになった彼女を誰かが支えた。
「大丈夫ですか?」
「えっ、あ………あの………すみません!ぶつかってしまって……」
目の前に立っていたのは、捕盗庁の隊長の格好をした壮麗な出で立ちの男性だった。
「カン様!」
「ああ、オクニョ。」
カン様とオクニョに呼ばれた男は一枚の書状を手渡すと、再びヒャンユンに向き直った。咄嗟にオクニョが彼女を紹介した。
「あっ、あの………コン・ジェミョン商団の大行首の娘、コン・ヒャンユンお嬢様です」
その名前を聞いた男────体探人のカン・ソノは、一瞬目を大きく見開いた。そして、声が上ずるのを抑えながら言葉を慎重に選んだ。
「ああ、そうでしたか………私はカン・ソノ。捕盗庁の隊長カン・ソノです。」
「カン・ソノ様………ここで会ったのも何かの縁ですね!宜しくお願い致します!」
「ええ、きっと何かの縁だと私も思います」
「じゃあね!オクニョ。また今度!」
笑顔で丁寧にお辞儀をしてから手を振って歩きだしたヒャンユンの後ろ姿を見ながら、ソノは胸が締め付けられる思いに駈られていた。
─────ついに見つけました、イ・ヨンフェ様。あなたの妹君を………
そう、ソノは体探人として小尹派に従う振りをしていたが、実は大尹派に属していた。そして彼は大尹派の名家の一つである子息のヨンフェ───つまりヒャンユンの実の兄から、妹を探しだして見守るようにと言われていたのだ。探さずとも向こうから出会いのきっかけを持ち込んできたことに奇遇さを感じながら、ソノはいつまでもヒャンユンが消えた路地を見つめていた。
家に帰ったヒャンユンは、何やら突然商団が荷物でごった返していることに気づき、いつにも増して忙しそうなウンスに尋ねた。
「ねぇ、ウンス。何してるの?」
「明日テウォンさんとトチさんたちが明に発つの!うちも明との交易が出来るようになるの!」
「本当?明と?じゃあ、もううちは………」
「小さな商団じゃ無くなるの!チョン・ナンジョン商団とまではいかないけど、キム・ジュギョン商団くらいの規模にはなるわ!」
「やったぁ!!お父様、本当?」
嬉しくともにわかに信じがたい話に僅かな疑いがぬぐいきれず、ヒャンユンはやって来た父にも尋ねた。
「ああ、本当だ。これでお前の父親として恥ずかしくない大行首だ」
「お父様、大好き!」
やっと信じたヒャンユンは、そのままジェミョンに抱きついた。流石に恥ずかしい様子の彼は、顔を赤くしている。
「おいおい、その年にもなって恥ずかしいからやめなさい」
「ううん!恥ずかしくない!」
ヒャンユンは一度きつく父を抱き締めると、軽やかな足取りで町に駆け出した。向かう先はやはり、トンチャンの元だった。
「トンチャン!トンチャン!」
「どうした、ヒャンユン。随分嬉しそうだな」
「あのね!聞いて!……うちの商団も、明と取引することになったの」
ヒャンユンが声を抑えて耳打ちすると、トンチャンは心の底からの賛辞を送った。
「おお!良かったな、ヒャンユン!」
「うん!」
「俺も頑張って行首にならないとな。その調子だと、俺が曰牌のままになっちまう」
「えへへ、大丈夫よ!きっと!」
そんな幸せそうな二人を、険のこもった目で見ていたのはチョン・ナンジョンとミン・ドンジュだった。ナンジョンは冷ややかな面持ちで、指にさしている豪奢な指輪を何度もしきりに触っている。
「…………コン・ジェミョンか。背後にユン・テウォンがついているのならば、必ず驚異になるであろう」
「旦那様の庶子ではありますが、我らに対しての復讐心はいずれ刃となって喉元に向けられるかと」
そう、テウォンはナンジョンの夫であるユン・ウォニョンと別の妾の間にできた息子だったのだ。母ホンメをナンジョンの策略で失ったテウォンは、以来ずっとナンジョンとウォニョンを憎んでいた。だからジェミョンにナンジョンの商団と対峙するような選択を迫ったのだ。
「うちのトンチャンとコン・ジェミョンの娘は親しいようです。」
「私の元で素素樓に居たそなたに、あれがただの親しさに見えるのか?」
面白いものでも見るかのように冷笑しているナンジョンの言葉に意表を突かれたドンジュは、ヒャンユンとトンチャンを注意深く凝視した。
「まさか、それ以上の………」
「恋慕う想いは、存分に利用せよ。コン・ジェミョンの弱みは娘、娘の弱みはトンチャン、そしてトンチャンの弱みは娘なのだからな。またとない絶妙な解決策となりそうだ」
「はい、奥様」
ナンジョンは二人に美しい笑顔を向けると、そのままくるりと向きを変えてその場をあとにするのだった。
翌朝、テウォンたちを見送るために外へ出たヒャンユンは、期待を胸に大きく手を振った。
「いってらっしゃい、テウォンさんたち!」
「あーあ。テウォンさんが居なかったら私、どうやって生きていこうかしら………テウォンさんは私の主食同然なのに……」
「止めなさいよ、怖いこと言わないで」
テウォンを見送ると、急に元気がなくなったウンスに渇を入れ、ヒャンユンは数週間後に戻ってくる彼らの姿を想像しながら帳簿をめくるのだった。
その日からテウォンたちが居ない代わりに、ヒャンユンが仕入れ先から納入する商品の確認を手伝うこととなった。お陰でトンチャンと話をする機会はめっきり減ったが、二人で約束した夢を実現するためだと思えばそれも辛くはなかった。
そんなヒャンユンが、いつものようにすっかり慣れた手つきで確認作業を進めていると、突然五、六人程の男たちが荷物を蹴り倒してきた。何事かと思い顔をあげた彼女の目に飛び込んできたのは、トンチャンと同じ業種である曰牌たちだった。
「おい、コン・ジェミョンの娘だな」
「それが何か?どこの曰牌なのかは知らないけれど、大方商品を丁寧に扱いなさいという教育もなっていない商団からの差し金ね」
「てめぇ………女の癖になめた口聞きやがって!」
主犯の男はヒャンユンを突き飛ばすと、その両手を羽交い締めにして興味深そうに見いってきた。
「へぇ………上玉なのに勿体無いな。」
「何をする気?」
「好きにしろっていうのが指示でな。たっぷり可愛がってやるよ」
悪意と下品さが入り交じった笑いに恐怖を覚えたヒャンユンは、震える声で気丈に言い返した。
「こんなことをして、ただで済むとは思っていないわよね?」
「こんなお嬢ちゃんに何ができるっていうんだ」
男たちがそろって大笑いした。ヒャンユンは心の中で何度もトンチャンの名前を呼びながら目を閉じた。
商団に大慌てで報告に行った部下はジェミョンに救いを求めようとしたが、間が悪くそこにはウンスとチャクトしかいなかった。彼が息を切らせながら事の次第を報告すると、二人は顔を真っ青にした。
「どうしよう……テウォンさんたちが居ないのに……」
「誰か腕の立つやつは居ませんかね?」
「いや……五六人の屈強な曰牌を倒せるやつなんて……」
ふと、ウンスはそのチャクトの言葉に閃いた。
「トンチャンしか居ないわ!トンチャンを探して!ほら!早く!」
やや引っ掛かるものがあったものの、躊躇してはいられない。チャクトとウンスは大慌てで走り出すと、チョン・ナンジョン商団へ向かうのだった。
いつも通り仕事をこなしていたトンチャンに突然の来客が来たことは、自身にとっても驚くべき出来事だった。
「コン・ジェミョン商団の奴らが一体何の用だ」
いつもなら突っかかるところだが、ウンスは両手を振って用件を伝えた。
「どうでもいい!どうでもいいからヒャンユンを助けて!!曰牌に乱暴されそうなの!」
「何だと?ヒャンユンが?」
その名前を聞いて、トンチャンの顔色が変わった。チャクトは彼の手を引いて連れ出すと、現場へと急がせた。
「今はテウォンたちが居ないから、お前にしか頼めん!」
「わかった。行こう」
珍しく頼もしいトンチャンを見て、二人はどこで世話になるかわからないものだと思いながらため息をつくのだった。
ヒャンユンは男たちにまだ挑んでいた。羽交い締めにされていても近づく男を足で蹴っては寄せ付けない姿に、流石の彼らもてこずっていた。
「おい、お前。本当に面倒くさい女だな」
「だから言ってるでしょ!私はあなたたちが名前を聞けば震え上がるくらい、頼もしい曰牌と知り合いなんだから。本当に今止めないと痛い目に合うわよ」
「誰だそれは」
「トンチャン!元七牌市場の曰牌のシン・ドンチャンよ!」
その名前を聞いて一瞬一同は戸惑ったが、すぐにそれは嘲笑に変わった。
「トンチャンが?お前の知り合いだと?はっ、笑わせるな。おい、早く連れていけ」
「やめて!離して!」
ヒャンユンが身の危険を感じて悲痛な叫びをあげた瞬間だった。男たちの背後から聞き覚えのある声が響いた。
「─────その女の話は本当だ。」
「何だと?って…………お前は………!!」
「────そうとも、トンチャン。シン・ドンチャンだ」
その場が凍りついた。まさか本当にトンチャンが現れるとは思っていなかったからだ。しかし今さら引くわけにはいかない。男はトンチャンの目の前に歩み出て、持っていた木の棒でその肩を小突いた。
「お前、チョン・ナンジョン商団なんだろ?ん?島が違うじゃねえか。痛い目に遭いたくなきゃ引っ込んでろ」
「うるせぇ。お前らこそ殺されたいのか?」
膠着が続く空気に不安を覚えたヒャンユンは、安堵と懸念の思いが混じった涙を浮かべ、トンチャンを見ている。
「トンチャン…………」
「大丈夫だ。すぐ終わらせてやる」
そしてその言葉を合図に、男たちが一斉にトンチャンに殴りかかった。彼は最初の一撃を筆頭に、体格に似合わず俊敏な動きでそれらをひらりとかわすと、近くに居た男の拳を掌で受け止めて横にそらした。そのまま彼には腹に強い蹴りを入れ、隣で唖然としている男と共に地面へ沈めた。
そんなこんなであっという間に手勢がやられていく様子を見て焦った主犯の男は、懐から短刀を取り出してトンチャンへ切りかかった。だがその手も虚しくねじ伏せられ、男はトンチャンの目の前に膝をつかせられた。
「な……なんでこんなことをするんだ……」
「知らねぇのか。だったら教えてやるよ。俺の女に手ぇ出したからだ」
「へ……?お前の?笑わせ……あいたたたたたたた!」
嘲笑されたことに怒ったトンチャンは、男の腕をねじあげた。
「どうやら本気で死にたいようだな。」
「わかったから!止めるから!!許してくれ!」
ようやく怒りの度合いを理解した男はすっかり縮み上がると、半泣きで許しを訴えた。
「わかったなら二度と姿を現すな。それと!他の曰牌にも伝えろ。俺の女に手ぇ出したら、世間様に普通の死に様は晒せねえってな」
「わっ、わかりました!!帰ります!伝えます!」
すっかり腰を抜かした男たちは今にも本気で殺してきそうな勢いのトンチャンを二度見したあと、転げる勢いで去っていった。すべてが終わったことを見届けると、トンチャンはヒャンユンに駆け寄った。
「大丈夫だったか?なにもされなかったか?」
「うん……トンチャンが……来てくれた………から……」
恐怖でまだ震えている身体を見て、トンチャンの心の中で、男たちを追いかけて息の根を止めてやろうかという激しい怒りが沸き上がった。
「もう、大丈夫だ。俺がついてる。俺が傍に居てやるから………」
「トンチャン………トンチャン……」
大粒の涙をこぼしているヒャンユンを抱き締めながら、彼は自分がこの人を守らなければという使命を感じていた。そして、いつか万が一守れなくなる時が来たら、一体どうすればいいのだろうかという不安にも襲われた。だからこそ、彼はヒャンユンの身体をしっかりと抱き締めた。誰にも奪わせたりはしない。誰にも指一本触れさせない。
それは一重に、自分の大切な人だから。
そんな手段を問わない彼の思いが、今のヒャンユンにとっては嬉しかった。
そう、今はまだ二人でいる時間は幸せだけが支配していた。その幸せがあまりに脆く、権力と真実の前では無力な存在であることを、二人はもうじき知ることになるのだった。
ジェミョンは帰宅すると、市場での騒動をどこで聞き付けたのかは知らないが、すぐにチャクトたちを呼びつけて叱り飛ばした。
「お前たち!商い事をする際には腕利きのやつをつけておけとあれほど言っただろう!一体どういうことだ!」
「すみませんでした、大行首様。ですが、あの件に関してはなんとか……」
ジェミョンの怒りを抑えようとしたチャクトは、苦笑いしながら慎重に言葉を選んだ。だが、怒りが収まる様子はない。
「トンチャンに頼ったことか?それが問題だ!一体どうしてうちの娘とトンチャンが親しくなっているんだ。何か知っているのか、ウンス」
「えっ?えっ?わ、私は知らないわよ、叔父さん。」
ウンスは巻き込まれることを恐れ、早々とその場から逃げ去った。その様子を見て、ジェミョンはトンチャンとヒャンユンが周知の仲であることを悟った。
「全く………チャクト、ちょっと話がある」
彼はチャクトを部屋に残すと、ヒャンユンの本当の出生を示す書類を一式入れた箱を隠し戸棚から取り出して机の上に置いた。
「お前はあの子………いや、お嬢様が本来どうあるべきか知っているだろう」
「はい、大行首様。ですが、何故お嬢様はトンチャンと惹き合うのでしょうか?」
ジェミョンはその問いに目を細めると、深いため息の後に話始めた。
「昔、相見の男にあの子の相を見てもらったことがある。そのときに、自分と正反対の者を求める傾向があるから気を付けろと言われた。……それが人生の全てを壊すことになるとな」
「正反対の………コン・ジェミョン商団とチョン・ナンジョン商団、シネお嬢様と親友といったことですか?」
「そうだ。すべてお嬢様は真逆のものに接点を持ちたがる。トンチャンなんていい例だ。あの方が身分を回復された暁には、決して結ばれることはないだろう」
「どうなさるおつもりで?」
ジェミョンは書類の入った箱を元通りに直し、遠い目で返事をした。
「大尹派が力無い今は、伏せておこうと思う。だが万が一何かあれば………そのときは真実を告げよう。例え俺が父親で無くなることになったとしても」
「トンチャンのことは……」
「トンチャンは駄目だ。それだけは預かっている身として、許可できん。いずれあの子にしっかり話すつもりだ。」
口調では厳しく言っているように聞こえるが、心境は複雑だった。
───お嬢様、申し訳ございません。私にはお嬢様の幸せが何であるかは決めかねます。ですが、両班の身分であられるお嬢様が、曰牌の男と結ばれることは……いずれお嬢様が思いを深めた後、自ら知って悲しまれるのならば、この私が縁を絶ちきるしかないのです。お許しください、お嬢様。ですからそれまでどうか、愛する方とのささやかな幸せを…………
今までにないほどに恋慕う気持ちのせいで輝いているヒャンユンの姿は、ジェミョンの心を締め付けた。どうしてあの子はこんなに辛い運命を歩まねばならないのか。しかし、そこから解き放ってやる術を、彼は持ち合わせていなかった。
その日の夜だった。妓楼から珍しく使いがやって来て、ジェミョンは慌てて素素樓へ向かった。既にただならぬ事態が起きていることは明らかだった。彼は固唾を飲んで店主のファン・ギョハから事の次第を伺った。そして、彼女の口から信じられない事実が知らされた。
「────使節団が襲撃にあって、オ・チャンヒョン様が殺害されたらしいわ」
「えっ…………?」
「こんなに奇遇に問題が起きるなんて。チョン・ナンジョンとユン・ウォニョンが仕組んだことに違いないわ」
「そんな……じゃあ、取引は………」
チャクトは唖然としているジェミョンの隣で、その続きさえいうことがはばかられる気がして押し黙った。
全財産を投じて賭けた取引に失敗したということは、商団存続の危機を示していた。
─────なんてことだ…………
その噂はすぐにナンジョンたちの元にも届いた。もちろん読み通り彼女が仕組んだことなので、何も驚くことはない。
「上手く行きましたね、奥様」
ドンジュの言葉に喜びを隠せない声調子のナンジョンが笑った。
「ああ。旦那様がオ・チャンヒョンを葬り去るついでに私たちの邪魔をするものも消えた。これぞまさに一石二鳥だ」
その会話を聞いていたトンチャンは、二人には悟られぬようにチョン・マッケに尋ねた。
「あの………コン・ジェミョン商団はどうなるのですか?」
「さぁな。だが、少なくとも商団経営を続けていくのは難しいだろう。ナンジョンのやることだ。下手をすればこのまま監査を入れて再起不能にすることだってあり得るだろうな」
「そうなれば、コン・ジェミョンとその家族は……?」
「恐らく捕らえられ、保釈金が払えないから刑罰を受けて死ぬだろう。娘と姪は………路頭に迷うことになるか、運が悪ければ奴婢になるかもしれん。ところで、何故そんなことを?」
「え?あ、いえ……少し気になっただけです」
トンチャンは必死で動揺を抑え、商団の離れで自分にできることは無いかと考えた。だがナンジョンたちの力が絶大であり、その前では成す術もないことは彼が一番よく知っていた。
────ヒャンユン……………!
己の無力さを呪いながら、トンチャンは柱を拳で叩いた。そしてその痛みが強ければ強いほど、今後のヒャンユンに降りかかるであろう災いの火の粉の恐ろしさに絶望するのだった。
「オ、ク、ニ、ョ」
ふと隣から聞き覚えのある声が耳に飛び込んできて、何気なく視線を向けると、彼女はびっくり仰天した。
「わっ!!!ヒャンユンじゃない!いつ義州から戻ったの?」
「えへへ、ついこの間よ。元気にしてたー?」
ヒャンユンは幼子のように笑うと、幼い頃からの親友の隣に腰かけた。
「ええ、もちろん。見ない間に綺麗になったわね」
「それはこちらの台詞よ、オクニョ」
二人は顔を見合わせて笑うと、今まであったことを語り始めた。
「懐かしいわね。最初にあったのも典獄署だったから」
「ええ。典獄署に物品を納入したときに会ったのよね」
「あのときは、茶女にも気さくに話しかける不思議なお嬢様だと思ったわ」
「子曰く、教え有りて類無し。だからね」
その懐かしい例の言葉にオクニョは吹き出した。
「そんなこと典獄署のど真ん中で大声でいうなんて、流石の私とイ・ジハム様でもびっくりだったわ」
「だって、本当のことだもん。身分だけで貴賤が決まる世界なんておかしいよ。私は特に今そう思う。」
「あら、どうして?」
オクニョの質問に眉を潜めて少し考えると、ヒャンユンは小さな声で耳打ちした。
「あのね、今ね、私……婚約者がいるの」
「えっ?誰なの?」
「都一の商団に勤めてる曰牌。」
曰牌と聞いて、オクニョは思わず顔をしかめてしまった。典獄署で長年仕事をしてきて、その界隈の者にはあまり良い思い出がないからだ。
「曰牌?………ヒャンユンがいい人って思うなら、そうなのかもしれないけど……」
「とってもいい人なの!でもオクニョの方が可愛いから、紹介してあげない!」
「ええ、なにそれ?」
「えへへ、じゃあね!」
「あっ、ちょっと!」
跳び跳ねるようにして去っていくヒャンユンを追いかけようとして立ち上がったオクニョは、慌てて門まで付いていった。
「うちの商団に今度、遊びに来てね!」
「うん、行くようにするわ。ありがとう」
「じゃあね!ばいばい!」
だが、勢いよくヒャンユンが歩きだそうとした瞬間、目の前にある何かにぶつかった。後ろに転けそうになった彼女を誰かが支えた。
「大丈夫ですか?」
「えっ、あ………あの………すみません!ぶつかってしまって……」
目の前に立っていたのは、捕盗庁の隊長の格好をした壮麗な出で立ちの男性だった。
「カン様!」
「ああ、オクニョ。」
カン様とオクニョに呼ばれた男は一枚の書状を手渡すと、再びヒャンユンに向き直った。咄嗟にオクニョが彼女を紹介した。
「あっ、あの………コン・ジェミョン商団の大行首の娘、コン・ヒャンユンお嬢様です」
その名前を聞いた男────体探人のカン・ソノは、一瞬目を大きく見開いた。そして、声が上ずるのを抑えながら言葉を慎重に選んだ。
「ああ、そうでしたか………私はカン・ソノ。捕盗庁の隊長カン・ソノです。」
「カン・ソノ様………ここで会ったのも何かの縁ですね!宜しくお願い致します!」
「ええ、きっと何かの縁だと私も思います」
「じゃあね!オクニョ。また今度!」
笑顔で丁寧にお辞儀をしてから手を振って歩きだしたヒャンユンの後ろ姿を見ながら、ソノは胸が締め付けられる思いに駈られていた。
─────ついに見つけました、イ・ヨンフェ様。あなたの妹君を………
そう、ソノは体探人として小尹派に従う振りをしていたが、実は大尹派に属していた。そして彼は大尹派の名家の一つである子息のヨンフェ───つまりヒャンユンの実の兄から、妹を探しだして見守るようにと言われていたのだ。探さずとも向こうから出会いのきっかけを持ち込んできたことに奇遇さを感じながら、ソノはいつまでもヒャンユンが消えた路地を見つめていた。
家に帰ったヒャンユンは、何やら突然商団が荷物でごった返していることに気づき、いつにも増して忙しそうなウンスに尋ねた。
「ねぇ、ウンス。何してるの?」
「明日テウォンさんとトチさんたちが明に発つの!うちも明との交易が出来るようになるの!」
「本当?明と?じゃあ、もううちは………」
「小さな商団じゃ無くなるの!チョン・ナンジョン商団とまではいかないけど、キム・ジュギョン商団くらいの規模にはなるわ!」
「やったぁ!!お父様、本当?」
嬉しくともにわかに信じがたい話に僅かな疑いがぬぐいきれず、ヒャンユンはやって来た父にも尋ねた。
「ああ、本当だ。これでお前の父親として恥ずかしくない大行首だ」
「お父様、大好き!」
やっと信じたヒャンユンは、そのままジェミョンに抱きついた。流石に恥ずかしい様子の彼は、顔を赤くしている。
「おいおい、その年にもなって恥ずかしいからやめなさい」
「ううん!恥ずかしくない!」
ヒャンユンは一度きつく父を抱き締めると、軽やかな足取りで町に駆け出した。向かう先はやはり、トンチャンの元だった。
「トンチャン!トンチャン!」
「どうした、ヒャンユン。随分嬉しそうだな」
「あのね!聞いて!……うちの商団も、明と取引することになったの」
ヒャンユンが声を抑えて耳打ちすると、トンチャンは心の底からの賛辞を送った。
「おお!良かったな、ヒャンユン!」
「うん!」
「俺も頑張って行首にならないとな。その調子だと、俺が曰牌のままになっちまう」
「えへへ、大丈夫よ!きっと!」
そんな幸せそうな二人を、険のこもった目で見ていたのはチョン・ナンジョンとミン・ドンジュだった。ナンジョンは冷ややかな面持ちで、指にさしている豪奢な指輪を何度もしきりに触っている。
「…………コン・ジェミョンか。背後にユン・テウォンがついているのならば、必ず驚異になるであろう」
「旦那様の庶子ではありますが、我らに対しての復讐心はいずれ刃となって喉元に向けられるかと」
そう、テウォンはナンジョンの夫であるユン・ウォニョンと別の妾の間にできた息子だったのだ。母ホンメをナンジョンの策略で失ったテウォンは、以来ずっとナンジョンとウォニョンを憎んでいた。だからジェミョンにナンジョンの商団と対峙するような選択を迫ったのだ。
「うちのトンチャンとコン・ジェミョンの娘は親しいようです。」
「私の元で素素樓に居たそなたに、あれがただの親しさに見えるのか?」
面白いものでも見るかのように冷笑しているナンジョンの言葉に意表を突かれたドンジュは、ヒャンユンとトンチャンを注意深く凝視した。
「まさか、それ以上の………」
「恋慕う想いは、存分に利用せよ。コン・ジェミョンの弱みは娘、娘の弱みはトンチャン、そしてトンチャンの弱みは娘なのだからな。またとない絶妙な解決策となりそうだ」
「はい、奥様」
ナンジョンは二人に美しい笑顔を向けると、そのままくるりと向きを変えてその場をあとにするのだった。
翌朝、テウォンたちを見送るために外へ出たヒャンユンは、期待を胸に大きく手を振った。
「いってらっしゃい、テウォンさんたち!」
「あーあ。テウォンさんが居なかったら私、どうやって生きていこうかしら………テウォンさんは私の主食同然なのに……」
「止めなさいよ、怖いこと言わないで」
テウォンを見送ると、急に元気がなくなったウンスに渇を入れ、ヒャンユンは数週間後に戻ってくる彼らの姿を想像しながら帳簿をめくるのだった。
その日からテウォンたちが居ない代わりに、ヒャンユンが仕入れ先から納入する商品の確認を手伝うこととなった。お陰でトンチャンと話をする機会はめっきり減ったが、二人で約束した夢を実現するためだと思えばそれも辛くはなかった。
そんなヒャンユンが、いつものようにすっかり慣れた手つきで確認作業を進めていると、突然五、六人程の男たちが荷物を蹴り倒してきた。何事かと思い顔をあげた彼女の目に飛び込んできたのは、トンチャンと同じ業種である曰牌たちだった。
「おい、コン・ジェミョンの娘だな」
「それが何か?どこの曰牌なのかは知らないけれど、大方商品を丁寧に扱いなさいという教育もなっていない商団からの差し金ね」
「てめぇ………女の癖になめた口聞きやがって!」
主犯の男はヒャンユンを突き飛ばすと、その両手を羽交い締めにして興味深そうに見いってきた。
「へぇ………上玉なのに勿体無いな。」
「何をする気?」
「好きにしろっていうのが指示でな。たっぷり可愛がってやるよ」
悪意と下品さが入り交じった笑いに恐怖を覚えたヒャンユンは、震える声で気丈に言い返した。
「こんなことをして、ただで済むとは思っていないわよね?」
「こんなお嬢ちゃんに何ができるっていうんだ」
男たちがそろって大笑いした。ヒャンユンは心の中で何度もトンチャンの名前を呼びながら目を閉じた。
商団に大慌てで報告に行った部下はジェミョンに救いを求めようとしたが、間が悪くそこにはウンスとチャクトしかいなかった。彼が息を切らせながら事の次第を報告すると、二人は顔を真っ青にした。
「どうしよう……テウォンさんたちが居ないのに……」
「誰か腕の立つやつは居ませんかね?」
「いや……五六人の屈強な曰牌を倒せるやつなんて……」
ふと、ウンスはそのチャクトの言葉に閃いた。
「トンチャンしか居ないわ!トンチャンを探して!ほら!早く!」
やや引っ掛かるものがあったものの、躊躇してはいられない。チャクトとウンスは大慌てで走り出すと、チョン・ナンジョン商団へ向かうのだった。
いつも通り仕事をこなしていたトンチャンに突然の来客が来たことは、自身にとっても驚くべき出来事だった。
「コン・ジェミョン商団の奴らが一体何の用だ」
いつもなら突っかかるところだが、ウンスは両手を振って用件を伝えた。
「どうでもいい!どうでもいいからヒャンユンを助けて!!曰牌に乱暴されそうなの!」
「何だと?ヒャンユンが?」
その名前を聞いて、トンチャンの顔色が変わった。チャクトは彼の手を引いて連れ出すと、現場へと急がせた。
「今はテウォンたちが居ないから、お前にしか頼めん!」
「わかった。行こう」
珍しく頼もしいトンチャンを見て、二人はどこで世話になるかわからないものだと思いながらため息をつくのだった。
ヒャンユンは男たちにまだ挑んでいた。羽交い締めにされていても近づく男を足で蹴っては寄せ付けない姿に、流石の彼らもてこずっていた。
「おい、お前。本当に面倒くさい女だな」
「だから言ってるでしょ!私はあなたたちが名前を聞けば震え上がるくらい、頼もしい曰牌と知り合いなんだから。本当に今止めないと痛い目に合うわよ」
「誰だそれは」
「トンチャン!元七牌市場の曰牌のシン・ドンチャンよ!」
その名前を聞いて一瞬一同は戸惑ったが、すぐにそれは嘲笑に変わった。
「トンチャンが?お前の知り合いだと?はっ、笑わせるな。おい、早く連れていけ」
「やめて!離して!」
ヒャンユンが身の危険を感じて悲痛な叫びをあげた瞬間だった。男たちの背後から聞き覚えのある声が響いた。
「─────その女の話は本当だ。」
「何だと?って…………お前は………!!」
「────そうとも、トンチャン。シン・ドンチャンだ」
その場が凍りついた。まさか本当にトンチャンが現れるとは思っていなかったからだ。しかし今さら引くわけにはいかない。男はトンチャンの目の前に歩み出て、持っていた木の棒でその肩を小突いた。
「お前、チョン・ナンジョン商団なんだろ?ん?島が違うじゃねえか。痛い目に遭いたくなきゃ引っ込んでろ」
「うるせぇ。お前らこそ殺されたいのか?」
膠着が続く空気に不安を覚えたヒャンユンは、安堵と懸念の思いが混じった涙を浮かべ、トンチャンを見ている。
「トンチャン…………」
「大丈夫だ。すぐ終わらせてやる」
そしてその言葉を合図に、男たちが一斉にトンチャンに殴りかかった。彼は最初の一撃を筆頭に、体格に似合わず俊敏な動きでそれらをひらりとかわすと、近くに居た男の拳を掌で受け止めて横にそらした。そのまま彼には腹に強い蹴りを入れ、隣で唖然としている男と共に地面へ沈めた。
そんなこんなであっという間に手勢がやられていく様子を見て焦った主犯の男は、懐から短刀を取り出してトンチャンへ切りかかった。だがその手も虚しくねじ伏せられ、男はトンチャンの目の前に膝をつかせられた。
「な……なんでこんなことをするんだ……」
「知らねぇのか。だったら教えてやるよ。俺の女に手ぇ出したからだ」
「へ……?お前の?笑わせ……あいたたたたたたた!」
嘲笑されたことに怒ったトンチャンは、男の腕をねじあげた。
「どうやら本気で死にたいようだな。」
「わかったから!止めるから!!許してくれ!」
ようやく怒りの度合いを理解した男はすっかり縮み上がると、半泣きで許しを訴えた。
「わかったなら二度と姿を現すな。それと!他の曰牌にも伝えろ。俺の女に手ぇ出したら、世間様に普通の死に様は晒せねえってな」
「わっ、わかりました!!帰ります!伝えます!」
すっかり腰を抜かした男たちは今にも本気で殺してきそうな勢いのトンチャンを二度見したあと、転げる勢いで去っていった。すべてが終わったことを見届けると、トンチャンはヒャンユンに駆け寄った。
「大丈夫だったか?なにもされなかったか?」
「うん……トンチャンが……来てくれた………から……」
恐怖でまだ震えている身体を見て、トンチャンの心の中で、男たちを追いかけて息の根を止めてやろうかという激しい怒りが沸き上がった。
「もう、大丈夫だ。俺がついてる。俺が傍に居てやるから………」
「トンチャン………トンチャン……」
大粒の涙をこぼしているヒャンユンを抱き締めながら、彼は自分がこの人を守らなければという使命を感じていた。そして、いつか万が一守れなくなる時が来たら、一体どうすればいいのだろうかという不安にも襲われた。だからこそ、彼はヒャンユンの身体をしっかりと抱き締めた。誰にも奪わせたりはしない。誰にも指一本触れさせない。
それは一重に、自分の大切な人だから。
そんな手段を問わない彼の思いが、今のヒャンユンにとっては嬉しかった。
そう、今はまだ二人でいる時間は幸せだけが支配していた。その幸せがあまりに脆く、権力と真実の前では無力な存在であることを、二人はもうじき知ることになるのだった。
ジェミョンは帰宅すると、市場での騒動をどこで聞き付けたのかは知らないが、すぐにチャクトたちを呼びつけて叱り飛ばした。
「お前たち!商い事をする際には腕利きのやつをつけておけとあれほど言っただろう!一体どういうことだ!」
「すみませんでした、大行首様。ですが、あの件に関してはなんとか……」
ジェミョンの怒りを抑えようとしたチャクトは、苦笑いしながら慎重に言葉を選んだ。だが、怒りが収まる様子はない。
「トンチャンに頼ったことか?それが問題だ!一体どうしてうちの娘とトンチャンが親しくなっているんだ。何か知っているのか、ウンス」
「えっ?えっ?わ、私は知らないわよ、叔父さん。」
ウンスは巻き込まれることを恐れ、早々とその場から逃げ去った。その様子を見て、ジェミョンはトンチャンとヒャンユンが周知の仲であることを悟った。
「全く………チャクト、ちょっと話がある」
彼はチャクトを部屋に残すと、ヒャンユンの本当の出生を示す書類を一式入れた箱を隠し戸棚から取り出して机の上に置いた。
「お前はあの子………いや、お嬢様が本来どうあるべきか知っているだろう」
「はい、大行首様。ですが、何故お嬢様はトンチャンと惹き合うのでしょうか?」
ジェミョンはその問いに目を細めると、深いため息の後に話始めた。
「昔、相見の男にあの子の相を見てもらったことがある。そのときに、自分と正反対の者を求める傾向があるから気を付けろと言われた。……それが人生の全てを壊すことになるとな」
「正反対の………コン・ジェミョン商団とチョン・ナンジョン商団、シネお嬢様と親友といったことですか?」
「そうだ。すべてお嬢様は真逆のものに接点を持ちたがる。トンチャンなんていい例だ。あの方が身分を回復された暁には、決して結ばれることはないだろう」
「どうなさるおつもりで?」
ジェミョンは書類の入った箱を元通りに直し、遠い目で返事をした。
「大尹派が力無い今は、伏せておこうと思う。だが万が一何かあれば………そのときは真実を告げよう。例え俺が父親で無くなることになったとしても」
「トンチャンのことは……」
「トンチャンは駄目だ。それだけは預かっている身として、許可できん。いずれあの子にしっかり話すつもりだ。」
口調では厳しく言っているように聞こえるが、心境は複雑だった。
───お嬢様、申し訳ございません。私にはお嬢様の幸せが何であるかは決めかねます。ですが、両班の身分であられるお嬢様が、曰牌の男と結ばれることは……いずれお嬢様が思いを深めた後、自ら知って悲しまれるのならば、この私が縁を絶ちきるしかないのです。お許しください、お嬢様。ですからそれまでどうか、愛する方とのささやかな幸せを…………
今までにないほどに恋慕う気持ちのせいで輝いているヒャンユンの姿は、ジェミョンの心を締め付けた。どうしてあの子はこんなに辛い運命を歩まねばならないのか。しかし、そこから解き放ってやる術を、彼は持ち合わせていなかった。
その日の夜だった。妓楼から珍しく使いがやって来て、ジェミョンは慌てて素素樓へ向かった。既にただならぬ事態が起きていることは明らかだった。彼は固唾を飲んで店主のファン・ギョハから事の次第を伺った。そして、彼女の口から信じられない事実が知らされた。
「────使節団が襲撃にあって、オ・チャンヒョン様が殺害されたらしいわ」
「えっ…………?」
「こんなに奇遇に問題が起きるなんて。チョン・ナンジョンとユン・ウォニョンが仕組んだことに違いないわ」
「そんな……じゃあ、取引は………」
チャクトは唖然としているジェミョンの隣で、その続きさえいうことがはばかられる気がして押し黙った。
全財産を投じて賭けた取引に失敗したということは、商団存続の危機を示していた。
─────なんてことだ…………
その噂はすぐにナンジョンたちの元にも届いた。もちろん読み通り彼女が仕組んだことなので、何も驚くことはない。
「上手く行きましたね、奥様」
ドンジュの言葉に喜びを隠せない声調子のナンジョンが笑った。
「ああ。旦那様がオ・チャンヒョンを葬り去るついでに私たちの邪魔をするものも消えた。これぞまさに一石二鳥だ」
その会話を聞いていたトンチャンは、二人には悟られぬようにチョン・マッケに尋ねた。
「あの………コン・ジェミョン商団はどうなるのですか?」
「さぁな。だが、少なくとも商団経営を続けていくのは難しいだろう。ナンジョンのやることだ。下手をすればこのまま監査を入れて再起不能にすることだってあり得るだろうな」
「そうなれば、コン・ジェミョンとその家族は……?」
「恐らく捕らえられ、保釈金が払えないから刑罰を受けて死ぬだろう。娘と姪は………路頭に迷うことになるか、運が悪ければ奴婢になるかもしれん。ところで、何故そんなことを?」
「え?あ、いえ……少し気になっただけです」
トンチャンは必死で動揺を抑え、商団の離れで自分にできることは無いかと考えた。だがナンジョンたちの力が絶大であり、その前では成す術もないことは彼が一番よく知っていた。
────ヒャンユン……………!
己の無力さを呪いながら、トンチャンは柱を拳で叩いた。そしてその痛みが強ければ強いほど、今後のヒャンユンに降りかかるであろう災いの火の粉の恐ろしさに絶望するのだった。