5、二人の夢
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翌日の朝。職場に現れたヒャンユンの姿を見て、コン・ジェミョン商団の全員が目を疑った。
「おはようございます、皆さん。今日から色々見学して商売を学ばせていただきます!皆さんのお邪魔はしませんから、どうか放っておいてください。」
鮮やかなチョゴリの上から商人の女性が着るペジャ(チョッキと同じ)を身に付けたヒャンユンは、左手に手帳、右手に持ち運びができる木炭の筆記具を持って微笑んでいる。流石に困ったテウォンは、ジェミョンに報告しに行こうとした。すると、なんとジェミョンが自ら赴いてヒャンユンの隣に立ちこう言った。
「娘自身の希望で、今日から商売を学ばせることにした。お前たちの仕事に茶々を入れさせる気はないし、率先して教える必要もない。見て学ばせる。では、宜しくな」
「はい、お父……じゃなくて大行首様。」
お父様と呼びそうになり、ヒャンユンは慌てて口をつぐんだ。商団の商いに携わる以上、あくまでも大行首様と呼ばねばならないからだ。前途が不安すぎる娘にため息をつくと、ジェミョンは持っていた帳簿で軽くその頭を叩いた。
「こいつめ………絶対に見学中はお父様と呼ぶなよ」
「はい!お父……じゃなくて大行首様!」
執務室に戻ったジェミョンは、チャクトに疑問に思ったことを尋ねた。
「なぁ、チャクト。何でヒャンユンは商いを学ぼうと思い立ったんだ?」
「さぁ………さっぱりわかりませんね。ご本人に聞いてみては?」
「まぁ、本人のやる気を削いではいけないからな。あまり聞かないでおこう。」
そんな父親の疑問をよそに、ヒャンユンは様々なことを細かく書き留めていった。
「松都に送るのはノリゲや装飾品で………向こうから来るのは………布ね。」
その様子に端から見ていたテウォンたちは思わず感心した。特定の地域からやって来る産物と、こちらが送る産物を知ることで各地域の特色と有益な収入源を学べることは、商売を志す者が最初に目を付けるところだからだ。
「お嬢様って、存外すごいんじゃ………」
「商才があるかもな」
そんな周りの関心をよそに、ヒャンユンは更に価格取り決めに関する話を盗み聞きしながら市場についても理解しようと試みた。だが、こちらは流石に難しすぎたのか、書き留める手が止まっている。
「今年も米の価格が上がるわ。だから出来るだけ押さえてね。ああ!それとお酒も!」
────どうして価格が上がるの?それに、お酒も?
彼女は悩んだ末にウンスに聞こうとして肩を叩くため手を出したが、すぐに引っ込めた。
───邪魔しちゃダメよね。
誰にも迷惑をかけず、誰の仕事も止めないということがジェミョンとの約束だった。なのでヒャンユンは密かに家を出ると、そのまま思案しながら町へと出掛けることしかできなかった。
結局気分転換のために外に出て半日考えても、答えは全く出なかった。しかも右頬を何度も軽く木炭で叩きながら歩き回っているため、その白く透き通る雪のような頬は部分的に黒く染まっていた。
「うーん…………何で………?きっと理由があるはずなのよ。でも、その理由って………難しく考えないで、ヒャンユン。物事って案外単純なはずなのよ」
独り言を呟くまでに至ったヒャンユンは、すっかり思考を奪われていた。だから目の前から来たトンチャンにも気づくことはない。仕事中だったものの彼はすぐに想い人の姿に気づくと、驚かせようと思って密かに近づいた。
「ヒャンユン!」
「うーん……やっぱりわかんない………なんで………?」
しかし、悩みを巡らせているせいで全くトンチャンの声と存在に反応しないヒャンユンは、あっさりと隣を素通りした。いつもと様子が違う彼女に驚いたトンチャンは、慌ててその後を追ってその肩を掴んだ。
「おい!ヒャンユン。ヒャンユン!」
「わっ!トンチャン!いつからそこに?」
完全に時差で驚かれたトンチャンは、拍子抜けと言わんばかりの顔でため息混じりに答えた。
「…………さっきからずっと呼んでた。」
「ごめんなさい………」
ようやくヒャンユンが気づいてくれると、トンチャンは今度はその格好が気になり始めた。
「それより、その服は何だ。うちの大行首みたいな格好になってるじゃないか」
「あ、これ?今日から商売について勉強するの。だから、この格好にしてみたの。どう?似合う?」
得意気な表情で笑いながら、一度回って見せる姿が可愛らしくてトンチャンは思わず笑みを溢した。だが次にその頬についた汚れに気づくと、彼は自分の頬を指差して汚れがついていると教えてやった。するとヒャンユンが木炭の粉が付いた手で拭おうとしたので、トンチャンは慌てて腕をつかんでなんとか阻止した。
「え?何で?」
「お前は馬鹿か。汚れた手で汚れを取ろうとしたらまた汚れるだろ。…………あんまり綺麗じゃないが、ちょっと我慢してくれ」
そう言うと、トンチャンは自分の袖でヒャンユンの頬の汚れを取り始めた。一心に汚れを落としてやろうと集中している姿に見とれている彼女は、いつの間にか上の空になっていた。
「よし、これでいい。木炭じゃなくて持ち運びのできる筆とかを買ってやらないとな……って、何みてるんだ?」
「えっ?あ………うん……なんでもない。」
照れ臭そうに下を向くヒャンユンが愛しくて、思わずトンチャンは目尻を下げる程に笑ってしまった。
「なんだ、俺に見とれてたのか?」
「わ、悪い?別に、いいでしょ」
「お前ってやつは本当に………」
トンチャンは石段に腰かけると、ヒャンユンにも隣に座るよう促した。ふと、彼女はひらめいた。
「あ、そうだ。ねぇ、トンチャン。どうして米の値段が今年も上がるってわかるの?」
その質問を聞いたトンチャンは、目を丸くしてきょとんとしている想い人を思わず凝視しないわけにはいかなかった。
「お前………本当に商人の娘か?」
「うん。でも商売のことはお父様が教えてくれなかったの。でも、家のことは義州のおばさんのおうちで教わったから大丈夫!料理もお裁縫も得意なのよ?」
相変わらずの天真爛漫な姿に微笑むと、トンチャンは説明を始めた。
「毎年このところ凶作続きなんだ。だから、米が少ない。でも、米を必要とする人数は同じどころか増えていく。ところが買いたい肝心の米は少ないから値段が上がるというわけだ。」
「えっ、安くできないの?」
さっそくのお人好し発言にトンチャンは、呆れながらも失笑を交えて返事した。
「馬鹿。そんなことしたら商団が潰れるだろ」
「えぇ…………じゃあ、どうしようもないの?」
「ああ。米の代用品を探すしかないが、流通しないだろうな」
ヒャンユンは少し考えると、一連の説明から結論を導きだした。
「代用品の方が売れて、元々米を取引してた大口の商団が損をするから売らないの?」
「お、よくわかってるじゃねぇか。まぁ、つまり必要としている人が多い商品ほど、値段が上がるってことだ」
得意気に説明を締めくくったトンチャンの両肩を叩いたヒャンユンは、恥ずかしさをかなぐり捨てて喜びと感心のあまり、その身体に抱きついた。
「すごい!!トンチャンって、腕っぷしだけじゃなくて商才もあるのね」
「いや、これくらい商売をやってれば誰でも……」
照れ隠しをしようとする彼に、まだヒャンユンは続けた。
「ううん、すごいと思う!………惚れ直したかも」
その言葉に一気に赤面したトンチャンは、にやける口許を抑えきれず締まりのない表情を浮かべた。
「惚れ直したってか?こいつ、何が欲しいんだ?」
「えへへ。もう少し商売のことを教えてほしいの。」
「何だ、そんなことかぁ!何でも聞いてみろ!なっ?」
すっかり上機嫌のトンチャンをやや利用し始めたヒャンユンは、手帳をめくって質問を探し始めた。
「あ、どうして米の値段が上がるとお酒にも利益が及ぶの?」
「………お前、酒飲んだことないのか?」
「うん、ない。」
少しの間があってから、トンチャンは立ち上がってヒャンユンの手を取りこう言った。
「よし!ヨジュの店に行くぞ。」
「えっ?どうして?」
「酒とその他のことについても教えてやる。ここじゃ流石に人目につくからな」
と言いながらも、要は昼食の誘いであることに一応気づいているヒャンユンは、相変わらずの不器用な誘いかたに微笑みを溢した。けれどそれさえも愛しく思えたため、初めて会ったときのように素直な態度でその手を取るのだった。
ヨジュはいつも通りにいらっしゃいと声を掛けようとしたが、あまりに奇想天外な取り合わせにその挨拶は短い悲鳴に変わった。そのうろたえている様子を見て噂にされかねないと危惧したトンチャンは、相変わらず凄みのある声で彼女に警告した。
「この子と俺が一緒にいたことを万が一言いふらしたりしたら、お前がチョンドンと謀って盗品を売りさばいてることをばらしてやる。いいな」
「わ、わかったわよ……ご注文は?」
「酒を一つ。この子にはチヂミでも頼んだ」
すっかり萎縮したヨジュがすごすごと奥に戻っていったのを見計らい、トンチャンは先程とは打って変わって笑顔になった。
「すっかり言いそびれたけどな……あの……その格好も似合ってる」
特に普段ではわからない胸元の形がよくわかっていい目の保養になっている、とは流石に言えず、彼はありきたりな褒め方しかできない自分を呪った。だがそんな褒め言葉にさえも幸せを見いだせるヒャンユンは、お返しに普段から思っていることを勢いに乗って言ってみた。
「本当?ありがとう。トンチャンも素敵よ」
「よせよ………全くお前は……おい女将!蒸し鶏もつけてくれ」
「はいよー」
完全にご機嫌になったトンチャンは、ヒャンユンの頭を撫でながら追加注文をした。一番高い商品だったので、心なしかヨジュの声も嬉しそうだ。
「ち、ちょっとトンチャン!そんな、申し訳ないよ……」
「お前が褒めちぎれば褒めちぎるほど、昼食の質が良くなるんだ。良かったな、ヒャンユン」
「もう……………私は一緒に居られるだけでいいのに……」
気が引けているせいでふてくされている様子も可愛らしく、もう少しでトンチャンは公衆の面前で口づけしそうになった。そんな彼の理性を引っ張り出してきたのは、注文の品を持ってきたヨジュだった。
「はい、お待ち。で、お代はどっちが払うんだい?」
すっかり舞い上がっているトンチャンは、その質問で上手く二人の関係を引き出そうとしているという意図にも気づかずあっさりと返事をした。
「俺が全額払う。」
「トっ、トンチャン!!駄目よ!ヨジュおばさん、私も払います」
しれっと金を取り出そうとしているトンチャンの横から慌てて身を乗り出したヒャンユンは、支払いを阻止しようとした。
「いいから。それよりお前は早く商売の勉強をしろ」
「でも………」
あっさりと打ち負かされたヒャンユンは、小さく礼を言うと元の席に座った。一方、二人のやり取りだけでどういう関係なのかを悟ったヨジュは、奥に戻るまで何度も首をかしげなからこのような状態に至る経緯を想像した。
そんなことを考えられているとは微塵も予想していないトンチャンは、ヒャンユンの手を引っ張って隣に座らせた。
「今日は返しに、たっぷり俺の相手をしてもらうからな。」
「うん!一緒に居たいから大歓迎よ。」
普通の女性なら、私は妓生かと怒りそうなくらいに下品な誘い方だが、世間知らずのヒャンユンにとっては大した問題ではなかった。それよりもトンチャンの隣に座れるだけでなく、これまた普通の女性なら怒りそうな行動ではあるが、背中から肩に腕を回されていることが嬉しくて、すっかり頬を赤く染めていた。
「じゃあ、まずは酒の話だな。酒の原料はずばり、米だ」
「えっ?そうだったの?だからかぁ…………」
酒が注がれた器を手にとって興味いものを見るかのようにまじまじと眺めていたので、トンチャンは飲んでみないかと試しに誘ってみた。するとヒャンユンは文字通りなにも考えず、一気に六分目程まで入っていた酒を飲み干した。初めて味わう味覚に一瞬目を丸くしたが、その後は全くけろっとした様子の姿にむしろトンチャンの方が驚く。
「おい……お前、けっこう強いんだな……」
「そうなのかしら?お父様とウンスを筆頭に、コン家の人は皆飲めないのよ。私って誰に似たのかしら……」
「おいおい、後で倒れるなよ」
不思議そうに首をかしげているヒャンユンから器を取り上げると、トンチャンは自分で酒を注ごうとしてその手を止めた。
「あ、そうだ。ヒャンユンに酌をしてもらうか」
「いいよ。はい、どうぞ」
どこか危なっかしい注ぎ方も彼女らしさが溢れていて、トンチャンの胸は器が酒で一杯になるように、恋心で埋め尽くされた。彼は自分の酒の強さを示したいがために、並々に注がれた酒を一気に飲み干した。もちろん、隣で見つめてくるヒャンユンは小さく驚嘆の声を上げた。
「で、他は何を聞きたいんだ?」
「ええとね……松都って、何があるの?ノリゲや装飾品が布と交換されてるけど」
「松都には………松都教坊っていう妓生の養成所がある。だから都にのぼる妓生のための装身具が売れるわけだ」
「へぇ…………」
「逆に義州からは輸入品の陶磁器とかが来るだろう?あれは明に近いからだ。義州は明との交易において重要な拠点だからな」
すらすらと知識が出てくるトンチャンに感心しつつも、ヒャンユンはしっかりと手帳にそれを余すことなく書き込んでいった。
そんな二人の様子を、またもや偶然通りかかったテウォンとトチが目撃した。
「おい、トンチャンあいつ………」
「お嬢様になんて下品な触り方をしてるんだ。」
「ジェミョンの大行首に知られたら殺されるよな」
「ああ、絶対殺される。止めなかった俺たちもお仕舞いだ」
二人は顔面蒼白になると、未だかつて見たこともないほどに上機嫌なトンチャンに悪寒を感じながらその場を後にするのだった。
すっかりトンチャンの商売についての知識を吸収しきったヒャンユンは、路地に差す夕日に包まれながら小さくあくびをした。
「眠そうだな。」
「うん……ちょっとだけ、ね」
ふと伸びをしているヒャンユンを見て、トンチャンはある疑問に行き当たった。
「ところで、お前はどうしてそんな急に商売を学ぼうと思い始めたんだ?」
そう聞かれたとたん、彼女の歩みが止まった。何事かと思って振り返ったトンチャンは、その裾を掴まれていることに気づいた。
「───あのね、私……」
ヒャンユンは世界で一番大好きな人を見上げると、満面の笑みでこう言った。
「私、いつか小さくてもいいから商団を開くの!それで、トンチャンの商団の下に入る。そうしたら、いつでも会えるでしょ?」
意外な望みに言葉を失ったトンチャンはきちんと向き直り、裾を掴んでいたか細く白い手を取って両手で包んだ。
「そんなこと、しなくていい。」
「え?」
「お前が商団を開くなら、俺は奥様のところを辞めていつでも雇い直してもらうから。別に傘下に入らなくてもいい。」
思いがけない嬉しい提案に、ヒャンユンは笑みを溢した。
「……本当?いいの?」
「ああ、いくらでもこき使ってくれ。」
あくまでも下働きを想定して話をしている彼に失笑すると、ヒャンユンは微笑みながらこう言った。
「違うわ。大行首はトンチャン、あなたがなって」
「え?俺が?大行首に?」
驚きを隠せないトンチャンをよそに、彼女の話は続く。
「そう!それでね、私が経理と書記をするの!………そうしたら、毎日一緒に居られる?」
「当たり前だろ!四六時中一緒だ。………いや、そうするならいっそ俺の嫁になるか?」
一体何の勢いを借りて言ったのか、トンチャンは突然婚姻の申し出をした。流石に言葉を濁されるのではと思った彼だったが、その不安をよそにヒャンユンは瞳を輝かせている。
「いいの?私で?私が、トンチャンの奥さんでいいの?」
「ああ。お前以外なんて、考えられない」
「やったぁ!嬉しい。ありがとう、トンチャン」
娘らしく無邪気に喜んだヒャンユンは、照れて赤く染まっているトンチャンの頬に軽く口づけした。一瞬何が起きたのかと思った彼は、少ししてからまじまじと目の前ではにかんでいる想い人を凝視した。
「お、おい…今のって……」
「私をお嫁さんに貰ってあげるって言ってくれた、初めての人だから。今までのお礼ってところかしら」
────好きって気持ちを、抑えられないっていうのはこういうことなのか。
トンチャンは黙ってヒャンユンの腰を引き寄せると、高まった思いに任せて躊躇せずその唇を奪った。突然のことで驚いた彼女は、丸くて愛らしい目を見開いている。
端から見れば長すぎる間だったが、二人は全く長いとは思わなかった。ようやく解放されると、ヒャンユンは震える指先で自分の唇に触れた。嫌われたと思ったトンチャンは、慌てて彼女の両肩を掴んで取り繕おうと試みた。
「………その………悪かった。急に……」
「えっ、ううん。そ、そんなのじゃなくて……その……」
少し狼狽してから、ヒャンユンはトンチャンの胸に顔を埋めて抱きついた。
「嬉しかったの。トンチャンに会えて、トンチャンに愛されて、私はこの朝鮮一幸せな娘なんだなって」
「ヒャンユン……………」
「トンチャンは私と一緒にいて、幸せ?」
そんなこと、当たり前に決まっていると言おうとした彼の声が詰まる。訳もわからず心の底から涙が溢れてきた。
好きだという想いで、今まで幸せになれた試しはなかった。だからいつも独りでいる方が気楽だし、誰かと比べられても仕方がないと自分に言い聞かせていた。でも、そんな自分の尖った心をヒャンユンが変えてくれた。トンチャンは返事をする代わりにその華奢な身体をしっかりと抱き締めた。
「……………ありがとう、トンチャン。」
「……………ん。」
口下手でも構わない。人一倍不器用でも構わない。何故ならヒャンユンにとって、トンチャンは世界で一番の人だからだ。
二人の重なった影は、夕日がその陽の落ちるまで照らされ続けていたのだった。
ヒャンユンが家に帰ると、ジェミョンは外出したとウンスから聞かされた。彼女は生返事をすると、部屋に戻って蝶の髪飾りを眺めた。
「トンチャン………」
そして、この幸せがずっと続くことを夢見た。
だが、二人の平凡な幸せはここから崩れていくことになる。その第一歩を、まさにその時ジェミョンは踏み出していた。彼は都一の妓楼、素素樓を訪れていた。もちろんただの遊びで来たわけではない。彼の目の前には、明の高官にして宦官のオ・チャンヒョンが座っている。
「お久しぶりです、若様」
「ジェミョンよ。あのときは済まなかった。」
「いえ。私も両親も、仕えているものとして当然のことをしたまでです。」
ジェミョンの一家はかつて、チャンヒョンの家に仕えていた。だが政変により彼の家は粛清に遇い、ジェミョンの両親は若かりし頃のチャンヒョンを逃がす際に殺害されたのだ。そして、時を経てそのチャンヒョンがジェミョンに恩を返すため、使節が明へ戻る際に同行して交易を始めるように提案しに来たのだ。もちろんジェミョンは提案を受け入れた。
だが、それはチョン・ナンジョン商団と決定的に真っ向から対立することを意味していた。僅かな不安が残る彼に、付き添いで来ていたテウォンがこう言った。
「チョン・ナンジョンと対決しなければ、うちの商団は今のままです。大行首様は実力がおありです。俺たちも全力でお支えします。ですから………」
「そうか。お前の口車に乗せられよう。俺も男だ。娘のためにも全財産と生涯を投げうって挑戦してみるとするか」
テウォンの後押しでジェミョンは決心をつけると、微笑みながらその背中を叩いた。そしてテウォンの提案の裏に、何か隠された思惑があることにも彼は気づいていた。
しかしこの養女を思う決断のために、自分と大切な娘同然のヒャンユンが大きな政治権力の渦に飲み込まれていくことに関しては、ジェミョンはまだ気づいてはいないのだった。
「おはようございます、皆さん。今日から色々見学して商売を学ばせていただきます!皆さんのお邪魔はしませんから、どうか放っておいてください。」
鮮やかなチョゴリの上から商人の女性が着るペジャ(チョッキと同じ)を身に付けたヒャンユンは、左手に手帳、右手に持ち運びができる木炭の筆記具を持って微笑んでいる。流石に困ったテウォンは、ジェミョンに報告しに行こうとした。すると、なんとジェミョンが自ら赴いてヒャンユンの隣に立ちこう言った。
「娘自身の希望で、今日から商売を学ばせることにした。お前たちの仕事に茶々を入れさせる気はないし、率先して教える必要もない。見て学ばせる。では、宜しくな」
「はい、お父……じゃなくて大行首様。」
お父様と呼びそうになり、ヒャンユンは慌てて口をつぐんだ。商団の商いに携わる以上、あくまでも大行首様と呼ばねばならないからだ。前途が不安すぎる娘にため息をつくと、ジェミョンは持っていた帳簿で軽くその頭を叩いた。
「こいつめ………絶対に見学中はお父様と呼ぶなよ」
「はい!お父……じゃなくて大行首様!」
執務室に戻ったジェミョンは、チャクトに疑問に思ったことを尋ねた。
「なぁ、チャクト。何でヒャンユンは商いを学ぼうと思い立ったんだ?」
「さぁ………さっぱりわかりませんね。ご本人に聞いてみては?」
「まぁ、本人のやる気を削いではいけないからな。あまり聞かないでおこう。」
そんな父親の疑問をよそに、ヒャンユンは様々なことを細かく書き留めていった。
「松都に送るのはノリゲや装飾品で………向こうから来るのは………布ね。」
その様子に端から見ていたテウォンたちは思わず感心した。特定の地域からやって来る産物と、こちらが送る産物を知ることで各地域の特色と有益な収入源を学べることは、商売を志す者が最初に目を付けるところだからだ。
「お嬢様って、存外すごいんじゃ………」
「商才があるかもな」
そんな周りの関心をよそに、ヒャンユンは更に価格取り決めに関する話を盗み聞きしながら市場についても理解しようと試みた。だが、こちらは流石に難しすぎたのか、書き留める手が止まっている。
「今年も米の価格が上がるわ。だから出来るだけ押さえてね。ああ!それとお酒も!」
────どうして価格が上がるの?それに、お酒も?
彼女は悩んだ末にウンスに聞こうとして肩を叩くため手を出したが、すぐに引っ込めた。
───邪魔しちゃダメよね。
誰にも迷惑をかけず、誰の仕事も止めないということがジェミョンとの約束だった。なのでヒャンユンは密かに家を出ると、そのまま思案しながら町へと出掛けることしかできなかった。
結局気分転換のために外に出て半日考えても、答えは全く出なかった。しかも右頬を何度も軽く木炭で叩きながら歩き回っているため、その白く透き通る雪のような頬は部分的に黒く染まっていた。
「うーん…………何で………?きっと理由があるはずなのよ。でも、その理由って………難しく考えないで、ヒャンユン。物事って案外単純なはずなのよ」
独り言を呟くまでに至ったヒャンユンは、すっかり思考を奪われていた。だから目の前から来たトンチャンにも気づくことはない。仕事中だったものの彼はすぐに想い人の姿に気づくと、驚かせようと思って密かに近づいた。
「ヒャンユン!」
「うーん……やっぱりわかんない………なんで………?」
しかし、悩みを巡らせているせいで全くトンチャンの声と存在に反応しないヒャンユンは、あっさりと隣を素通りした。いつもと様子が違う彼女に驚いたトンチャンは、慌ててその後を追ってその肩を掴んだ。
「おい!ヒャンユン。ヒャンユン!」
「わっ!トンチャン!いつからそこに?」
完全に時差で驚かれたトンチャンは、拍子抜けと言わんばかりの顔でため息混じりに答えた。
「…………さっきからずっと呼んでた。」
「ごめんなさい………」
ようやくヒャンユンが気づいてくれると、トンチャンは今度はその格好が気になり始めた。
「それより、その服は何だ。うちの大行首みたいな格好になってるじゃないか」
「あ、これ?今日から商売について勉強するの。だから、この格好にしてみたの。どう?似合う?」
得意気な表情で笑いながら、一度回って見せる姿が可愛らしくてトンチャンは思わず笑みを溢した。だが次にその頬についた汚れに気づくと、彼は自分の頬を指差して汚れがついていると教えてやった。するとヒャンユンが木炭の粉が付いた手で拭おうとしたので、トンチャンは慌てて腕をつかんでなんとか阻止した。
「え?何で?」
「お前は馬鹿か。汚れた手で汚れを取ろうとしたらまた汚れるだろ。…………あんまり綺麗じゃないが、ちょっと我慢してくれ」
そう言うと、トンチャンは自分の袖でヒャンユンの頬の汚れを取り始めた。一心に汚れを落としてやろうと集中している姿に見とれている彼女は、いつの間にか上の空になっていた。
「よし、これでいい。木炭じゃなくて持ち運びのできる筆とかを買ってやらないとな……って、何みてるんだ?」
「えっ?あ………うん……なんでもない。」
照れ臭そうに下を向くヒャンユンが愛しくて、思わずトンチャンは目尻を下げる程に笑ってしまった。
「なんだ、俺に見とれてたのか?」
「わ、悪い?別に、いいでしょ」
「お前ってやつは本当に………」
トンチャンは石段に腰かけると、ヒャンユンにも隣に座るよう促した。ふと、彼女はひらめいた。
「あ、そうだ。ねぇ、トンチャン。どうして米の値段が今年も上がるってわかるの?」
その質問を聞いたトンチャンは、目を丸くしてきょとんとしている想い人を思わず凝視しないわけにはいかなかった。
「お前………本当に商人の娘か?」
「うん。でも商売のことはお父様が教えてくれなかったの。でも、家のことは義州のおばさんのおうちで教わったから大丈夫!料理もお裁縫も得意なのよ?」
相変わらずの天真爛漫な姿に微笑むと、トンチャンは説明を始めた。
「毎年このところ凶作続きなんだ。だから、米が少ない。でも、米を必要とする人数は同じどころか増えていく。ところが買いたい肝心の米は少ないから値段が上がるというわけだ。」
「えっ、安くできないの?」
さっそくのお人好し発言にトンチャンは、呆れながらも失笑を交えて返事した。
「馬鹿。そんなことしたら商団が潰れるだろ」
「えぇ…………じゃあ、どうしようもないの?」
「ああ。米の代用品を探すしかないが、流通しないだろうな」
ヒャンユンは少し考えると、一連の説明から結論を導きだした。
「代用品の方が売れて、元々米を取引してた大口の商団が損をするから売らないの?」
「お、よくわかってるじゃねぇか。まぁ、つまり必要としている人が多い商品ほど、値段が上がるってことだ」
得意気に説明を締めくくったトンチャンの両肩を叩いたヒャンユンは、恥ずかしさをかなぐり捨てて喜びと感心のあまり、その身体に抱きついた。
「すごい!!トンチャンって、腕っぷしだけじゃなくて商才もあるのね」
「いや、これくらい商売をやってれば誰でも……」
照れ隠しをしようとする彼に、まだヒャンユンは続けた。
「ううん、すごいと思う!………惚れ直したかも」
その言葉に一気に赤面したトンチャンは、にやける口許を抑えきれず締まりのない表情を浮かべた。
「惚れ直したってか?こいつ、何が欲しいんだ?」
「えへへ。もう少し商売のことを教えてほしいの。」
「何だ、そんなことかぁ!何でも聞いてみろ!なっ?」
すっかり上機嫌のトンチャンをやや利用し始めたヒャンユンは、手帳をめくって質問を探し始めた。
「あ、どうして米の値段が上がるとお酒にも利益が及ぶの?」
「………お前、酒飲んだことないのか?」
「うん、ない。」
少しの間があってから、トンチャンは立ち上がってヒャンユンの手を取りこう言った。
「よし!ヨジュの店に行くぞ。」
「えっ?どうして?」
「酒とその他のことについても教えてやる。ここじゃ流石に人目につくからな」
と言いながらも、要は昼食の誘いであることに一応気づいているヒャンユンは、相変わらずの不器用な誘いかたに微笑みを溢した。けれどそれさえも愛しく思えたため、初めて会ったときのように素直な態度でその手を取るのだった。
ヨジュはいつも通りにいらっしゃいと声を掛けようとしたが、あまりに奇想天外な取り合わせにその挨拶は短い悲鳴に変わった。そのうろたえている様子を見て噂にされかねないと危惧したトンチャンは、相変わらず凄みのある声で彼女に警告した。
「この子と俺が一緒にいたことを万が一言いふらしたりしたら、お前がチョンドンと謀って盗品を売りさばいてることをばらしてやる。いいな」
「わ、わかったわよ……ご注文は?」
「酒を一つ。この子にはチヂミでも頼んだ」
すっかり萎縮したヨジュがすごすごと奥に戻っていったのを見計らい、トンチャンは先程とは打って変わって笑顔になった。
「すっかり言いそびれたけどな……あの……その格好も似合ってる」
特に普段ではわからない胸元の形がよくわかっていい目の保養になっている、とは流石に言えず、彼はありきたりな褒め方しかできない自分を呪った。だがそんな褒め言葉にさえも幸せを見いだせるヒャンユンは、お返しに普段から思っていることを勢いに乗って言ってみた。
「本当?ありがとう。トンチャンも素敵よ」
「よせよ………全くお前は……おい女将!蒸し鶏もつけてくれ」
「はいよー」
完全にご機嫌になったトンチャンは、ヒャンユンの頭を撫でながら追加注文をした。一番高い商品だったので、心なしかヨジュの声も嬉しそうだ。
「ち、ちょっとトンチャン!そんな、申し訳ないよ……」
「お前が褒めちぎれば褒めちぎるほど、昼食の質が良くなるんだ。良かったな、ヒャンユン」
「もう……………私は一緒に居られるだけでいいのに……」
気が引けているせいでふてくされている様子も可愛らしく、もう少しでトンチャンは公衆の面前で口づけしそうになった。そんな彼の理性を引っ張り出してきたのは、注文の品を持ってきたヨジュだった。
「はい、お待ち。で、お代はどっちが払うんだい?」
すっかり舞い上がっているトンチャンは、その質問で上手く二人の関係を引き出そうとしているという意図にも気づかずあっさりと返事をした。
「俺が全額払う。」
「トっ、トンチャン!!駄目よ!ヨジュおばさん、私も払います」
しれっと金を取り出そうとしているトンチャンの横から慌てて身を乗り出したヒャンユンは、支払いを阻止しようとした。
「いいから。それよりお前は早く商売の勉強をしろ」
「でも………」
あっさりと打ち負かされたヒャンユンは、小さく礼を言うと元の席に座った。一方、二人のやり取りだけでどういう関係なのかを悟ったヨジュは、奥に戻るまで何度も首をかしげなからこのような状態に至る経緯を想像した。
そんなことを考えられているとは微塵も予想していないトンチャンは、ヒャンユンの手を引っ張って隣に座らせた。
「今日は返しに、たっぷり俺の相手をしてもらうからな。」
「うん!一緒に居たいから大歓迎よ。」
普通の女性なら、私は妓生かと怒りそうなくらいに下品な誘い方だが、世間知らずのヒャンユンにとっては大した問題ではなかった。それよりもトンチャンの隣に座れるだけでなく、これまた普通の女性なら怒りそうな行動ではあるが、背中から肩に腕を回されていることが嬉しくて、すっかり頬を赤く染めていた。
「じゃあ、まずは酒の話だな。酒の原料はずばり、米だ」
「えっ?そうだったの?だからかぁ…………」
酒が注がれた器を手にとって興味いものを見るかのようにまじまじと眺めていたので、トンチャンは飲んでみないかと試しに誘ってみた。するとヒャンユンは文字通りなにも考えず、一気に六分目程まで入っていた酒を飲み干した。初めて味わう味覚に一瞬目を丸くしたが、その後は全くけろっとした様子の姿にむしろトンチャンの方が驚く。
「おい……お前、けっこう強いんだな……」
「そうなのかしら?お父様とウンスを筆頭に、コン家の人は皆飲めないのよ。私って誰に似たのかしら……」
「おいおい、後で倒れるなよ」
不思議そうに首をかしげているヒャンユンから器を取り上げると、トンチャンは自分で酒を注ごうとしてその手を止めた。
「あ、そうだ。ヒャンユンに酌をしてもらうか」
「いいよ。はい、どうぞ」
どこか危なっかしい注ぎ方も彼女らしさが溢れていて、トンチャンの胸は器が酒で一杯になるように、恋心で埋め尽くされた。彼は自分の酒の強さを示したいがために、並々に注がれた酒を一気に飲み干した。もちろん、隣で見つめてくるヒャンユンは小さく驚嘆の声を上げた。
「で、他は何を聞きたいんだ?」
「ええとね……松都って、何があるの?ノリゲや装飾品が布と交換されてるけど」
「松都には………松都教坊っていう妓生の養成所がある。だから都にのぼる妓生のための装身具が売れるわけだ」
「へぇ…………」
「逆に義州からは輸入品の陶磁器とかが来るだろう?あれは明に近いからだ。義州は明との交易において重要な拠点だからな」
すらすらと知識が出てくるトンチャンに感心しつつも、ヒャンユンはしっかりと手帳にそれを余すことなく書き込んでいった。
そんな二人の様子を、またもや偶然通りかかったテウォンとトチが目撃した。
「おい、トンチャンあいつ………」
「お嬢様になんて下品な触り方をしてるんだ。」
「ジェミョンの大行首に知られたら殺されるよな」
「ああ、絶対殺される。止めなかった俺たちもお仕舞いだ」
二人は顔面蒼白になると、未だかつて見たこともないほどに上機嫌なトンチャンに悪寒を感じながらその場を後にするのだった。
すっかりトンチャンの商売についての知識を吸収しきったヒャンユンは、路地に差す夕日に包まれながら小さくあくびをした。
「眠そうだな。」
「うん……ちょっとだけ、ね」
ふと伸びをしているヒャンユンを見て、トンチャンはある疑問に行き当たった。
「ところで、お前はどうしてそんな急に商売を学ぼうと思い始めたんだ?」
そう聞かれたとたん、彼女の歩みが止まった。何事かと思って振り返ったトンチャンは、その裾を掴まれていることに気づいた。
「───あのね、私……」
ヒャンユンは世界で一番大好きな人を見上げると、満面の笑みでこう言った。
「私、いつか小さくてもいいから商団を開くの!それで、トンチャンの商団の下に入る。そうしたら、いつでも会えるでしょ?」
意外な望みに言葉を失ったトンチャンはきちんと向き直り、裾を掴んでいたか細く白い手を取って両手で包んだ。
「そんなこと、しなくていい。」
「え?」
「お前が商団を開くなら、俺は奥様のところを辞めていつでも雇い直してもらうから。別に傘下に入らなくてもいい。」
思いがけない嬉しい提案に、ヒャンユンは笑みを溢した。
「……本当?いいの?」
「ああ、いくらでもこき使ってくれ。」
あくまでも下働きを想定して話をしている彼に失笑すると、ヒャンユンは微笑みながらこう言った。
「違うわ。大行首はトンチャン、あなたがなって」
「え?俺が?大行首に?」
驚きを隠せないトンチャンをよそに、彼女の話は続く。
「そう!それでね、私が経理と書記をするの!………そうしたら、毎日一緒に居られる?」
「当たり前だろ!四六時中一緒だ。………いや、そうするならいっそ俺の嫁になるか?」
一体何の勢いを借りて言ったのか、トンチャンは突然婚姻の申し出をした。流石に言葉を濁されるのではと思った彼だったが、その不安をよそにヒャンユンは瞳を輝かせている。
「いいの?私で?私が、トンチャンの奥さんでいいの?」
「ああ。お前以外なんて、考えられない」
「やったぁ!嬉しい。ありがとう、トンチャン」
娘らしく無邪気に喜んだヒャンユンは、照れて赤く染まっているトンチャンの頬に軽く口づけした。一瞬何が起きたのかと思った彼は、少ししてからまじまじと目の前ではにかんでいる想い人を凝視した。
「お、おい…今のって……」
「私をお嫁さんに貰ってあげるって言ってくれた、初めての人だから。今までのお礼ってところかしら」
────好きって気持ちを、抑えられないっていうのはこういうことなのか。
トンチャンは黙ってヒャンユンの腰を引き寄せると、高まった思いに任せて躊躇せずその唇を奪った。突然のことで驚いた彼女は、丸くて愛らしい目を見開いている。
端から見れば長すぎる間だったが、二人は全く長いとは思わなかった。ようやく解放されると、ヒャンユンは震える指先で自分の唇に触れた。嫌われたと思ったトンチャンは、慌てて彼女の両肩を掴んで取り繕おうと試みた。
「………その………悪かった。急に……」
「えっ、ううん。そ、そんなのじゃなくて……その……」
少し狼狽してから、ヒャンユンはトンチャンの胸に顔を埋めて抱きついた。
「嬉しかったの。トンチャンに会えて、トンチャンに愛されて、私はこの朝鮮一幸せな娘なんだなって」
「ヒャンユン……………」
「トンチャンは私と一緒にいて、幸せ?」
そんなこと、当たり前に決まっていると言おうとした彼の声が詰まる。訳もわからず心の底から涙が溢れてきた。
好きだという想いで、今まで幸せになれた試しはなかった。だからいつも独りでいる方が気楽だし、誰かと比べられても仕方がないと自分に言い聞かせていた。でも、そんな自分の尖った心をヒャンユンが変えてくれた。トンチャンは返事をする代わりにその華奢な身体をしっかりと抱き締めた。
「……………ありがとう、トンチャン。」
「……………ん。」
口下手でも構わない。人一倍不器用でも構わない。何故ならヒャンユンにとって、トンチャンは世界で一番の人だからだ。
二人の重なった影は、夕日がその陽の落ちるまで照らされ続けていたのだった。
ヒャンユンが家に帰ると、ジェミョンは外出したとウンスから聞かされた。彼女は生返事をすると、部屋に戻って蝶の髪飾りを眺めた。
「トンチャン………」
そして、この幸せがずっと続くことを夢見た。
だが、二人の平凡な幸せはここから崩れていくことになる。その第一歩を、まさにその時ジェミョンは踏み出していた。彼は都一の妓楼、素素樓を訪れていた。もちろんただの遊びで来たわけではない。彼の目の前には、明の高官にして宦官のオ・チャンヒョンが座っている。
「お久しぶりです、若様」
「ジェミョンよ。あのときは済まなかった。」
「いえ。私も両親も、仕えているものとして当然のことをしたまでです。」
ジェミョンの一家はかつて、チャンヒョンの家に仕えていた。だが政変により彼の家は粛清に遇い、ジェミョンの両親は若かりし頃のチャンヒョンを逃がす際に殺害されたのだ。そして、時を経てそのチャンヒョンがジェミョンに恩を返すため、使節が明へ戻る際に同行して交易を始めるように提案しに来たのだ。もちろんジェミョンは提案を受け入れた。
だが、それはチョン・ナンジョン商団と決定的に真っ向から対立することを意味していた。僅かな不安が残る彼に、付き添いで来ていたテウォンがこう言った。
「チョン・ナンジョンと対決しなければ、うちの商団は今のままです。大行首様は実力がおありです。俺たちも全力でお支えします。ですから………」
「そうか。お前の口車に乗せられよう。俺も男だ。娘のためにも全財産と生涯を投げうって挑戦してみるとするか」
テウォンの後押しでジェミョンは決心をつけると、微笑みながらその背中を叩いた。そしてテウォンの提案の裏に、何か隠された思惑があることにも彼は気づいていた。
しかしこの養女を思う決断のために、自分と大切な娘同然のヒャンユンが大きな政治権力の渦に飲み込まれていくことに関しては、ジェミョンはまだ気づいてはいないのだった。