14、貴方は遠く
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ヒャンユンはテウォンとジェミョンが捕らえられた罪状を、トチとチャクトに調べさせた。すると、オクニョと典獄署の署長チョン・デシクも共に捕らえられたようで、その罪状は平市署の入札のことだった。一つは軍に納入するという機密情報を得たこと、そしてそれを入札に利用したこと。もう一つは、典獄署の囚人を用いたため、利益の一部を署長に納入していたことだった。後者は裏帳簿が流出したことが原因とされた。
「お嬢様。チョン・ナンジョンの仕業と見て、まず間違いはありません」
「そんな!どうしよう。これじゃ今回は本当にまずいわ」
狼狽する一同の空気を切り裂くように、ヒャンユンが立ち上がった。
「…………私が、何とかする。方法を探る。担当官に再調査を申請するわ」
「担当官って………捕盗庁のソン・ジホン隊長でしょう?あの人はユン・シネお嬢様の……」
「いいから!引き続き調査を続けて。………トチさん、ミン・ドンジュ大行首に連絡を入れて」
「え?ミン・ドンジュにですか?」
ヒャンユンは静かに頷くと、そう言い残して部屋を後にした。
「ヒャンユン、大丈夫かしら……」
「お嬢様が心配だ。一体何を考えているのか…」
残された一同は、言い様のない不安に包まれながらそれぞれの作業に戻った。
トチはもう一つだけ報告せねばならないことがあったため、ヒャンユンを追った。
「お嬢様、一つだけお耳に入れておかなければならないことが………あります」
「何、トチ」
トチは意を決すると、いつにもなく真剣な面持ちで答えた。
「…………典獄署の帳簿を持ち出したのはユ・ジョンフェという役人の仕業で、奴は今チョン・ナンジョンの力で署長代理に収まっているです。更に、帳簿が無くなる前日、ユ・ジョンフェはある人物と接触していました」
ヒャンユンはその人物が誰であるかを知りたい思いと、知りたくない思いが自分の中で拮抗する不快感を感じた。そして、トチが口を開く。
「それは────トンチャンです。」
「なっ…………………」
ヒャンユンの目が見開かれ、そのまま身体は硬直した。視界はまだ昼間だというのに、真っ暗だった。
「………しかも、オクニョを連れていこうと襲撃したようです」
「もう……わかったわ………下がりなさい………」
「お嬢様、あの……」
「早くミン・ドンジュに連絡を入れに行きなさいと言っているの!」
そう強く言い放ったヒャンユンの目は、真っ赤だった。それが怒りのせいなのか、それとも悲しみと絶望のせいなのかはトチには分からなかった。ただ、ヒャンユンの心が傷ついた。それだけは事実だった。
ヒャンユンはトチの話を振り払うように早足で歩き、捕盗庁に来ていた。大きく息を吸うと、彼女はソン・ジホンを見つけて捕まえた。
「もし、ソン・ジホン様ですか」
「いきなり何ですか。………そうですか、何用か」
驚いているジホンのことは気にも留めず、ヒャンユンは畳み掛けた。
「裏帳簿、典獄署、捕盗庁。これがどういう意味を持つかお分かりですか?」
「何をおっしゃる。全くわけが……」
「この三つは繋がっています。それくらい、ご存じでしょう?」
ジホンが一瞬目を泳がせたことを見逃さないヒャンユンは、満足げな笑顔を浮かべた。
「代理出獄と入獄、移送の際の賄賂。このすべてが、あの裏帳簿には書かれています。そしてもしこの件をばらせば、あなたの監督責任も問われることでしょう。」
ため息をついたジホンは、ようやくしっかりヒャンユンに向き直った。
「………なにが言いたい」
「再調査期間を下さい。それだけで結構です」
「再調査してどうする」
「父を救います。あなたは賄賂などでは動かないそうなので」
「………考えておこう」
ジホンは頷くと、そのまま歩き去ろうとした。だが、まだヒャンユンの話は終わらない。
「ああ、そうでした。私の父を捕らえたとき、あなたが一枚噛んでいたことをお忘れなく」
目を丸くしたジホンが顔面蒼白で振り返ったとき、既にヒャンユンは捕盗庁を後にしていた。
───コン・ヒャンユン………何と狡猾な女だ。オクニョとはまた違う賢さがある。あれは………
ジホンはまた一つ胃の痛い案件が増えたと思うと、取り調べに戻っていった。
トチはトンチャンに連絡を入れるべく、全身に敵意のこもった視線を受けながらチョン・ナンジョン商団に居た。
──ああ、なんで俺がこんな視線を投げ掛けられなきゃいけないんだ!俺じゃないだろ!絶対!
居心地の悪さを感じていると、奥の方で部下を叩いているトンチャンを見つけた。トチは寒気を覚えると、覚悟を決めて彼に歩み寄った。
「トンチャン」
「何だ!てめぇも殴られてぇのか……って、トチか。」
「久しぶり……だな」
「………ふん。何の用だ」
トンチャンは嫌悪感のこもった視線でトチを睨み付けた。二人は一応幼馴染みなのだが、トチは幼い頃からトンチャンが苦手だった。すぐに人を叩くわ殴るわ蹴るわのガキ大将で、既に六歳までには今の性根に完成しきっていた。
「あの………ミン・ドンジュ大行首に、ヒャンユン行首がお会いしたいと」
ヒャンユンという名で、トンチャンの表情が変わる。先程まで仏頂面だった顔つきが、一気に春の穏やかな日差しのように暖かみを帯びた。トチは更に寒気を覚えると、そのまま一礼して帰ろうとした。だが、その腕をトンチャンが掴んだ。
「お、おい。他には、何か言っていなかったか?」
「…………いや、何も」
「嘘だろう?おい、トチ!ぶん殴られたいのか?」
「本当だって!お嬢様はお前のことなんか何も言ってないんだよ」
トンチャンは捨てられた子犬のような哀愁漂う顔をすると、ため息をついてトチを離した。
「…………わかった。大行首様にそう伝えておく」
「頼んだぞ」
トチがそう言って去ってからも、トンチャンの心の中には不安が募り続けた。
────ヒャンユン………まさか俺を、嫌いになったりはしないよな?お前なら分かってくれる。きっと……
恐れている事態が起こらないこと。それだけをトンチャンは祈った。
そしてその半時辰後、チャクトとトチを伴ってヒャンユンがやって来た。普段の明るい面持ちからは想像もできないほどに険しい顔をしているヒャンユンを見て、トンチャンの心に警鐘が鳴り響いた。
「ヒャンユン………?」
「大行首様にお取り次ぎを」
「おい、何か言うことあるだろう?」
「………ありません。お退きください。」
ヒャンユンはトンチャンを睨み付けると、無言の怒りをぶつけた。あまりに鋭い怒りに、トンチャンの心は一瞬で撃ち抜かれた。愛する人に向けられる嫌悪の視線が、痛みよりも喪失感の方が強いものだったことなど、彼は初めて知った。
「大行首様は平市署でのこと、あなたは父の拒絶を恨んでいること。そんなことは分かっていました。ですが、まさかここまでなさるとは………正直、驚きました。あなたが作ろうとした縁は、実に卑劣なものですね。」
「ヒャンユン、聞いてくれ。俺は……」
「奥様に、私の全てを手に入れさせてやると約束でもされましたか?」
トンチャンはそれ以上言葉を返せず、口をつぐんだ。そして、ヒャンユンは最も恐れていた言葉を告げた。
「ええ。今のままでしたら、私は手に入りましょう。……ですが、それは心を殺した私です。今のあなたに、私の心は捧げられません。いえ、身体も未来も自由も、あなたには差し上げたくもありません。」
「ヒャンユン!」
「肝に命じておいてください。このままで、私が引き下がるとは思いませぬように。決して私はあなたを許しません。この商団と共に、あなたも倒す。絶対にそうします」
ヒャンユンは唖然とするトンチャンの隣をすり抜けた。
────さようなら、トンチャン。
心の中では、まだ愛していると言いたいと叫んでいる幼い自分を抑えながら。
ミン・ドンジュは、ヒャンユンから突きつけられた取引予定帳簿を見て唇を震わせた。
「こ…………これは…………そなた!正気か?うちを敵に回してタダで済むと………」
「思ってはいません。ですが、もし取引価格の下落を抑えたくば、父とユン・テウォン行首を解放してください。」
「うちがその二人に対して影響力を持つと?」
「大行首様が一番よくお分かりでは?」
ヒャンユンは毅然としてドンジュを見据えた。普段は冷静で高みの見物を行うドンジュの方が、今回は少女の域を出ない娘相手に怯んでいる。
「───トンチャンに、何を言ったんですか。あの人は、こんなことをする人じゃなかった。あなた方が、あの人を変えたのね」
「それは違う。あの男は、元からああいう性分だ。曰牌とは、そういうものだ。金のためなら何でもする。例えそれが朝鮮の法に触れようが、構いはしない。そして、私達には下の者が何をしようと関係はない」
下の者が何をしようと関係はない。その言葉がはっきりとヒャンユンの逆鱗に触れた。帳簿を乱暴に奪い返して立ち上がると、彼女はドンジュを殺意の籠った瞳で睨み付けた。思わずドンジュ自身が萎縮するほど、その視線は鋭く冷ややかだった。
「────私は、あなた方を決して許しません。」
そう言い残すと、ヒャンユンは部屋を後にした。ようやく凍てつく空気から解放され、ドンジュはその場に座り込んでしまった。入れ替わるようにして部屋に入ってきた夫のチョン・マッケは、いつもと様子が違う妻に慌てて駆け寄った。
「どうした!?」
「あなた………あの娘、一体何なんです?」
「あの娘とは?」
ドンジュは察しの悪い夫に金切り声をあげた。
「コン・ヒャンユンです!純で大人しいように見えて、恐ろしい小娘です。………ですが、コン・ジェミョンとは似ても似つかぬ策士です。そもそもよく考えると、何一つ似ていません。」
「確かに………私も気にはなっていた。顔立ちが全く違うのも、おかしな話だ」
ようやく一息ついたドンジュは、目を閉じて眉間にシワを寄せた。
「とにかく、今は布の価格の下落を抑えねば。絶対に抑えねばなりません。取引は明日です。」
「………ナンジョンに相談するか?」
「こんな馬鹿げた話、相談できません!部下に何とかさせます。」
夫の手を借りて立ち上がったドンジュの表情には、後がないという焦りが浮かんでいた。彼女はトンチャンの部下を密かに呼びつけると、何やら話始めた。
その内容を一部始終聞いていたトンチャンは、急いでヒャンユンの後を追い始めた。
────娘は今、トチと一緒だがあの者は弱い。故に、殺すのだ。良いな。
ドンジュの言葉が、何時にも増して冷淡な声で反芻する。トンチャンは全力で走りながら、間に合うかどうかわからない現状を嘆いた。いや、嘆いている暇はなかった。
───頼む、ヒャンユン。無事でいてくれ。
ヒャンユンは現れたごろつきたちの様子にただならぬ殺意を感じ、トチの背中に隠れた。だが、トチ一人ではあまりに多勢に無勢だ。ちらりと後ろを向くと、トチは隙を見て逃げるようにと言った。
「でも、トチ……」
「いいから。お嬢様に何かあれば、俺が殺されます」
言い終わると、彼は退路を作るため男に殴りかかろうとかまえた。だが、その拳が男に当たるよりも前にトチは地面に叩きつけられた。ヒャンユンはすっかり足がすくんでしまい、その場に立ち尽くしている。好機と言わんばかりに近寄ってくる男たちを退ける術もなく、たはだ息をのむばかりだ。
手に持った剣が抜かれ、月光に刃が光る。だがその様子を見てヒャンユンは、何かが脳裏を駆け巡る衝撃を感じた。避けなければいけない。わかってはいた。だが、身体が必死に何かを訴えているせいで思うように動かない。
─────私、以前にもこんな風に……………?
ヒャンユンは呆然としながら他人事のように剣の切っ先を見つめ、宛もなく記憶を手繰っていた。
そして正に剣が振り下ろされ、ヒャンユンの柔肌を切り裂こうとしたときだった。その身体が不意に宙へと浮いた。一瞬で現実に引き戻されたものの、何が起きたのかさっぱりのヒャンユンは、地面に倒れ込むことを覚悟して目を固く閉じた。だがその身体は予想に反して地面には叩きつけられず、懐かしい感覚に包まれた。
そう、目を開けたヒャンユンの目の前にはトンチャンが居た。居るはずのない男が、助けるはずのない男が、そこに居た。
「トン…チャン……!?」
「…………お前は、俺が守る。その約束だけは、まだ守る機会が残っていたからな。………下がってろ」
ヒャンユンに背を向け立ち上がったトンチャンは、男たちが明らかに半刺客家業を請け負う、七牌の曰牌でも腕利きの輩たちであると瞬時に悟った。ため息をつくと、トンチャンは足を一歩引いて拳に力をいれた。
「おいトチ!そこで倒れてないでちょっとは手伝え、この野郎」
登場こそ、トチでさえ格好がよいと認めるくらいに完璧だったが、それにしても何て口の悪い男だと呆れながらも身体を起こすと、トチはトンチャンの隣に立った。
「………お嬢様は、俺たちが私的な用事で使うスラク山の隠れ家に連れていく。まとまった手勢で迎えに来い。」
「悪いが、信じられないな。その合間にでもお嬢様のことを手に掛けられるからな」
トンチャンは頑なに信じようとしないトチに苛立つと、黙って一人の曰牌を殴り付けた。
「俺だって前科持ちに成りたくはない!自分で殺るよりこいつらに任せた方がよっぽど効率的だ!そうだろうが!」
確かにとようやく納得したトチは、小さく頷いた。
「………何かあったら、大行首様に殺されると思え」
「うるせぇ。黙って手伝え」
二人は寄ってくる男どもを着実に倒し始めた。トチが素手の者たちを相手していると、トンチャンの方を強いとみた剣を持った男たちは彼に向かって一斉にかかった。
「お前ら。細身でもねぇ素手の男を、寄ってたかって剣で倒すってのは………いささか恥ずかしいとは思わねぇのか?」
トンチャンは隙をついて四人のうち、一人の男の懐に近づくとその腹に一発叩き込んだ。続いてテウォンとは違って身軽でない身体にも関わらず剣を素早く避けると、その剣を奪って一気に形勢逆転を図った。
「これで五分五分だ。てめぇら七牌の曰牌なら鬼に金棒、シン・ドンチャンに弓矢と剣ってことくらい聞いたことあるだろ?」
だが男たちは相当腕に自信があるのか、その程度では怯まなかった。久々に剣を扱うトンチャンは、どう持つのだったかとうろ覚えで構えた。ヒャンユンがその様子を固唾を飲んで見守っている。
「…………俺の女にまで手を出して、どうやら死にてぇようだな。」
トンチャンは剣を地面に向けて一度振り下ろし、体勢を整えると残りの二人を睨み付け、こう言い放った。
「───だったら、望み通りにしてやるよ」
彼は地面を蹴ると、ありったけの力を込めて自らの刃を男の剣に叩きつけた。金属の鋭い音が響く。つばぜり合いに持ち込むと力関係敵に不利だと見た男は、もう一人に横から斬り込むように目で指示をした。だが斬り込まれる前に、トンチャンは向かってくる男を蹴り倒した。そのとき不覚にも出来た隙を、残りの男は見逃さなかった。トンチャンは咄嗟に避けたものの、その切っ先が頬を少し切り裂いた。一気に劣勢に追い込まれたと思いきや、トチがようやく始末を終え、逃げ出した男が持っていた剣を取って加勢した。
「トンチャン!お嬢様を連れて逃げろ!」
「お前はどうする!」
「こいつらは俺目当てじゃない!だから急げ!」
トチが、剣をなかなか離さない男を羽交い締めにしながらトンチャンに叫ぶ。ヒャンユンをちらりと見たトンチャンは覚悟を決めて、片手に剣を、空いた方の手でヒャンユンの手を取って走り出した。
「ど、何処へいくの?」
「黙ってついてこい。少し走るぞ」
ヒャンユンは、鼓動が速まるのは恐怖と全力疾走しているせいだと自分に言い聞かせた。
目の前に居るのは命の恩人でも何でもなく、父を投獄した男なのだと。共に生きることはできない、相容れぬ存在なのだと。
それでも鼓動と胸のときめきが収まる様子はない。ヒャンユンはこんなときに何を考えているのだと、自分で自分を叱り飛ばした。そんなことを考えながら走っていると、彼女は木に躓いて転けてしまった。
「痛っ………」
「おい!大丈夫か?」
トンチャンは慌ててしゃがみこむと、ヒャンユンを抱き起こした。相当山道を走ったせいで、服の裾は見るに耐えない有り様だった。更にこけたときに足をくじいたらしく、表情は苦痛と疲労の色に染まっていた。
「…………お一人で、戻ってください。どうせ、助けてもらったところで私の心は………」
だが、ヒャンユンが言い終わる前にその身体は軽々と持ち上げられた。
「………やっぱり、軽いな」
「なっ、何をするの!?」
「心を手に入れようなんて、もう思わねぇ。これからはお前が遠ざかった分だけ………その分だけ俺が近づくことにする。」
ヒャンユンを横抱きにすると、トンチャンは額に汗を浮かべなからも険しい山道を登り始めた。辛いはずなのにその足取りはとても軽く、とても頼もしく力強かった。
ヒャンユンは黙って片腕を首に回し、空いた方の手で少しだけしがみついた。懐かしい温もりが全身に伝わり、懐かしい香りが鼻をくすぐった。そして思慕の念が燻り返すことは、もう止められなかった。いつの間にかヒャンユンの口から、独り言のように素直な言葉が溢れ始める。
「…………トンチャン、あのね………」
「…………そういうのは、後でにしてくれ。今は気の効いた返事が出来そうもねぇ」
「それでもいい。意地でも手離してくれなくたっていい。他の殿方と話しするだけで機嫌が悪くなってもいい。誰より気持ちを伝えるのが下手くそでもいい。ありふれた恋人みたいな、普通の幸せが一生手に入らなくてもいい。隣に居るだけで命を狙われてもいい。覚悟は出来ているから。」
そこまで聞くと、トンチャンは祭りの日にヒャンユンが自分の想いに対して告げた、嬉しすぎて泣きそうになったくらいに温かだったあの返事の内容だと気づいた。
それが、あのときのヒャンユンの返事だった。なのに、自分は何もわかっていなかった。
黙りこんでいるトンチャンに、ヒャンユンは続けた。
「永遠がないのは知ってる。無理かもしれないことだって………夢も望みも、叶わないからそう呼ぶことは知ってる。でも…………でも、例え永遠でなくても………地面に落ちた綿雪みたいに一瞬で消える定めでも、私はあなたの側にいたい。いつか、シワだらけになったあなたの手を握って、幸せだったねって笑えるような未来が………私の………」
ヒャンユンは震える声を必死で抑え、絞り出すように呟いた。
「────私の、夢だから………」
だが、言い終わってすぐにトンチャンが沈黙を破った。
「夢が叶わねぇもんなら、夢なんかにさせてたまるか。」
隠れ家に着いたと同時にヒャンユンを縁側に降ろすと、トンチャンは力強くも壊れないよう、そして逃げないよう、性急に彼女を抱き寄せた。
「トンチャン…………」
「悪かった。俺が悪かった。典獄署の裏帳簿を盗ませたのも、お前の親友を連れていこうとしたのも、全部俺だ。俺は、一日でも早くにお前と一緒になりたかった。もう一度、会いたかった。だが……それはお前を悲しませた。だからもう、望まない。何も、望んだりはしない。」
トンチャンはもう一度強く抱きしめ直すと、消え入りそうな声で呟いた。
「───だから……もうこれ以上、俺のことを………避けないでくれ。いつか、お前が帰ってこなくなるんじゃないかと思って…………俺は………ずっと、ずっと怯えてた。それが今日なのかもしれない。昨日だったのかもしれない。あるいは明日なのかもしれない。そう思う度に、会って確かめて、傍に居てくれるっていう確証が欲しかった。」
ようやく、初めて会ったときの誠実なトンチャンに向き合えた。そんな気がしてヒャンユンは嬉しかった。何より、トンチャンを好きでいてよかった。心の底からそう思った。
「…………ありがとう、トンチャン。私ね、ずっと言いたかったの。」
ヒャンユンは大きな瞳でじっとトンチャンを見つめると、二、三度まばたきをしてから大きく息を吸い込み、笑ってこう言った。
「───初めて会ったときから、好きでした。」
「ヒャンユン…………」
「スリから助けてくれて目が合ったときから、トンチャンの全てが好きでした。そして今も変わらず……いえ、以前よりももっとずっとあなたが好きです。だからこれから先も、ずっとお慕いしています。」
思わずトンチャンの口から、ヒャンユンが心配するような嗚咽が漏れた。
「大丈夫………?どこか痛いの?」
「違う…………違うんだ……………」
トンチャンは肩を震わせ、微笑みながら泣いていた。止めどなく溢れる熱い涙は、彼の人生で数えるほどしか流したことがなかった嬉し涙というものだった。
「ありがとう……………俺は……………本当に…………ヒャンユンの…………帰る場所になっても、いいのか?」
「帰る……場所?」
意味がよくわからず一瞬戸惑ったものの、ヒャンユンは何となく概要を察して頷いた。
「うん。私は、トンチャンのもとに帰る。あなたが迷惑だと思うその日まで、絶対に帰ってくる。」
トンチャンの広くて安心感のある肩に頭をもたせ掛けると、ヒャンユンは目を閉じた。
「…………暖かい、ね」
「………ああ」
「ずっと、一緒に居たいね」
「…そうだな」
ヒャンユンはどうしても離れがたい居場所を見つけた気がして、安堵のあまりそのまま眠りについた。いつの間にか寝落ちている想い人の寝息に口許を綻ばせると、トンチャンは肩から頭をそっと外して自分の膝に乗せた。寝顔を眺めながら、トンチャンは暖かな気持ちに包まれた。
「ヒャンユン。ずっと、俺だけを愛してくれ。他の誰の物にもならないで欲しい。ずっと、俺の物であってくれ」
言い終わってやや束縛が過ぎたかなと反省したトンチャンに、ヒャンユンが寝言のように返事をした。
「────いい………………よ……………」
「へっ?」
再び規則正しい寝息を立て始めたヒャンユンを見て、トンチャンは目を丸くした。月明かりに照らし出された横顔がどこか遠い気がして、彼の心はほんの少しだけ哀しみを覚えるのだった。
「お嬢様。チョン・ナンジョンの仕業と見て、まず間違いはありません」
「そんな!どうしよう。これじゃ今回は本当にまずいわ」
狼狽する一同の空気を切り裂くように、ヒャンユンが立ち上がった。
「…………私が、何とかする。方法を探る。担当官に再調査を申請するわ」
「担当官って………捕盗庁のソン・ジホン隊長でしょう?あの人はユン・シネお嬢様の……」
「いいから!引き続き調査を続けて。………トチさん、ミン・ドンジュ大行首に連絡を入れて」
「え?ミン・ドンジュにですか?」
ヒャンユンは静かに頷くと、そう言い残して部屋を後にした。
「ヒャンユン、大丈夫かしら……」
「お嬢様が心配だ。一体何を考えているのか…」
残された一同は、言い様のない不安に包まれながらそれぞれの作業に戻った。
トチはもう一つだけ報告せねばならないことがあったため、ヒャンユンを追った。
「お嬢様、一つだけお耳に入れておかなければならないことが………あります」
「何、トチ」
トチは意を決すると、いつにもなく真剣な面持ちで答えた。
「…………典獄署の帳簿を持ち出したのはユ・ジョンフェという役人の仕業で、奴は今チョン・ナンジョンの力で署長代理に収まっているです。更に、帳簿が無くなる前日、ユ・ジョンフェはある人物と接触していました」
ヒャンユンはその人物が誰であるかを知りたい思いと、知りたくない思いが自分の中で拮抗する不快感を感じた。そして、トチが口を開く。
「それは────トンチャンです。」
「なっ…………………」
ヒャンユンの目が見開かれ、そのまま身体は硬直した。視界はまだ昼間だというのに、真っ暗だった。
「………しかも、オクニョを連れていこうと襲撃したようです」
「もう……わかったわ………下がりなさい………」
「お嬢様、あの……」
「早くミン・ドンジュに連絡を入れに行きなさいと言っているの!」
そう強く言い放ったヒャンユンの目は、真っ赤だった。それが怒りのせいなのか、それとも悲しみと絶望のせいなのかはトチには分からなかった。ただ、ヒャンユンの心が傷ついた。それだけは事実だった。
ヒャンユンはトチの話を振り払うように早足で歩き、捕盗庁に来ていた。大きく息を吸うと、彼女はソン・ジホンを見つけて捕まえた。
「もし、ソン・ジホン様ですか」
「いきなり何ですか。………そうですか、何用か」
驚いているジホンのことは気にも留めず、ヒャンユンは畳み掛けた。
「裏帳簿、典獄署、捕盗庁。これがどういう意味を持つかお分かりですか?」
「何をおっしゃる。全くわけが……」
「この三つは繋がっています。それくらい、ご存じでしょう?」
ジホンが一瞬目を泳がせたことを見逃さないヒャンユンは、満足げな笑顔を浮かべた。
「代理出獄と入獄、移送の際の賄賂。このすべてが、あの裏帳簿には書かれています。そしてもしこの件をばらせば、あなたの監督責任も問われることでしょう。」
ため息をついたジホンは、ようやくしっかりヒャンユンに向き直った。
「………なにが言いたい」
「再調査期間を下さい。それだけで結構です」
「再調査してどうする」
「父を救います。あなたは賄賂などでは動かないそうなので」
「………考えておこう」
ジホンは頷くと、そのまま歩き去ろうとした。だが、まだヒャンユンの話は終わらない。
「ああ、そうでした。私の父を捕らえたとき、あなたが一枚噛んでいたことをお忘れなく」
目を丸くしたジホンが顔面蒼白で振り返ったとき、既にヒャンユンは捕盗庁を後にしていた。
───コン・ヒャンユン………何と狡猾な女だ。オクニョとはまた違う賢さがある。あれは………
ジホンはまた一つ胃の痛い案件が増えたと思うと、取り調べに戻っていった。
トチはトンチャンに連絡を入れるべく、全身に敵意のこもった視線を受けながらチョン・ナンジョン商団に居た。
──ああ、なんで俺がこんな視線を投げ掛けられなきゃいけないんだ!俺じゃないだろ!絶対!
居心地の悪さを感じていると、奥の方で部下を叩いているトンチャンを見つけた。トチは寒気を覚えると、覚悟を決めて彼に歩み寄った。
「トンチャン」
「何だ!てめぇも殴られてぇのか……って、トチか。」
「久しぶり……だな」
「………ふん。何の用だ」
トンチャンは嫌悪感のこもった視線でトチを睨み付けた。二人は一応幼馴染みなのだが、トチは幼い頃からトンチャンが苦手だった。すぐに人を叩くわ殴るわ蹴るわのガキ大将で、既に六歳までには今の性根に完成しきっていた。
「あの………ミン・ドンジュ大行首に、ヒャンユン行首がお会いしたいと」
ヒャンユンという名で、トンチャンの表情が変わる。先程まで仏頂面だった顔つきが、一気に春の穏やかな日差しのように暖かみを帯びた。トチは更に寒気を覚えると、そのまま一礼して帰ろうとした。だが、その腕をトンチャンが掴んだ。
「お、おい。他には、何か言っていなかったか?」
「…………いや、何も」
「嘘だろう?おい、トチ!ぶん殴られたいのか?」
「本当だって!お嬢様はお前のことなんか何も言ってないんだよ」
トンチャンは捨てられた子犬のような哀愁漂う顔をすると、ため息をついてトチを離した。
「…………わかった。大行首様にそう伝えておく」
「頼んだぞ」
トチがそう言って去ってからも、トンチャンの心の中には不安が募り続けた。
────ヒャンユン………まさか俺を、嫌いになったりはしないよな?お前なら分かってくれる。きっと……
恐れている事態が起こらないこと。それだけをトンチャンは祈った。
そしてその半時辰後、チャクトとトチを伴ってヒャンユンがやって来た。普段の明るい面持ちからは想像もできないほどに険しい顔をしているヒャンユンを見て、トンチャンの心に警鐘が鳴り響いた。
「ヒャンユン………?」
「大行首様にお取り次ぎを」
「おい、何か言うことあるだろう?」
「………ありません。お退きください。」
ヒャンユンはトンチャンを睨み付けると、無言の怒りをぶつけた。あまりに鋭い怒りに、トンチャンの心は一瞬で撃ち抜かれた。愛する人に向けられる嫌悪の視線が、痛みよりも喪失感の方が強いものだったことなど、彼は初めて知った。
「大行首様は平市署でのこと、あなたは父の拒絶を恨んでいること。そんなことは分かっていました。ですが、まさかここまでなさるとは………正直、驚きました。あなたが作ろうとした縁は、実に卑劣なものですね。」
「ヒャンユン、聞いてくれ。俺は……」
「奥様に、私の全てを手に入れさせてやると約束でもされましたか?」
トンチャンはそれ以上言葉を返せず、口をつぐんだ。そして、ヒャンユンは最も恐れていた言葉を告げた。
「ええ。今のままでしたら、私は手に入りましょう。……ですが、それは心を殺した私です。今のあなたに、私の心は捧げられません。いえ、身体も未来も自由も、あなたには差し上げたくもありません。」
「ヒャンユン!」
「肝に命じておいてください。このままで、私が引き下がるとは思いませぬように。決して私はあなたを許しません。この商団と共に、あなたも倒す。絶対にそうします」
ヒャンユンは唖然とするトンチャンの隣をすり抜けた。
────さようなら、トンチャン。
心の中では、まだ愛していると言いたいと叫んでいる幼い自分を抑えながら。
ミン・ドンジュは、ヒャンユンから突きつけられた取引予定帳簿を見て唇を震わせた。
「こ…………これは…………そなた!正気か?うちを敵に回してタダで済むと………」
「思ってはいません。ですが、もし取引価格の下落を抑えたくば、父とユン・テウォン行首を解放してください。」
「うちがその二人に対して影響力を持つと?」
「大行首様が一番よくお分かりでは?」
ヒャンユンは毅然としてドンジュを見据えた。普段は冷静で高みの見物を行うドンジュの方が、今回は少女の域を出ない娘相手に怯んでいる。
「───トンチャンに、何を言ったんですか。あの人は、こんなことをする人じゃなかった。あなた方が、あの人を変えたのね」
「それは違う。あの男は、元からああいう性分だ。曰牌とは、そういうものだ。金のためなら何でもする。例えそれが朝鮮の法に触れようが、構いはしない。そして、私達には下の者が何をしようと関係はない」
下の者が何をしようと関係はない。その言葉がはっきりとヒャンユンの逆鱗に触れた。帳簿を乱暴に奪い返して立ち上がると、彼女はドンジュを殺意の籠った瞳で睨み付けた。思わずドンジュ自身が萎縮するほど、その視線は鋭く冷ややかだった。
「────私は、あなた方を決して許しません。」
そう言い残すと、ヒャンユンは部屋を後にした。ようやく凍てつく空気から解放され、ドンジュはその場に座り込んでしまった。入れ替わるようにして部屋に入ってきた夫のチョン・マッケは、いつもと様子が違う妻に慌てて駆け寄った。
「どうした!?」
「あなた………あの娘、一体何なんです?」
「あの娘とは?」
ドンジュは察しの悪い夫に金切り声をあげた。
「コン・ヒャンユンです!純で大人しいように見えて、恐ろしい小娘です。………ですが、コン・ジェミョンとは似ても似つかぬ策士です。そもそもよく考えると、何一つ似ていません。」
「確かに………私も気にはなっていた。顔立ちが全く違うのも、おかしな話だ」
ようやく一息ついたドンジュは、目を閉じて眉間にシワを寄せた。
「とにかく、今は布の価格の下落を抑えねば。絶対に抑えねばなりません。取引は明日です。」
「………ナンジョンに相談するか?」
「こんな馬鹿げた話、相談できません!部下に何とかさせます。」
夫の手を借りて立ち上がったドンジュの表情には、後がないという焦りが浮かんでいた。彼女はトンチャンの部下を密かに呼びつけると、何やら話始めた。
その内容を一部始終聞いていたトンチャンは、急いでヒャンユンの後を追い始めた。
────娘は今、トチと一緒だがあの者は弱い。故に、殺すのだ。良いな。
ドンジュの言葉が、何時にも増して冷淡な声で反芻する。トンチャンは全力で走りながら、間に合うかどうかわからない現状を嘆いた。いや、嘆いている暇はなかった。
───頼む、ヒャンユン。無事でいてくれ。
ヒャンユンは現れたごろつきたちの様子にただならぬ殺意を感じ、トチの背中に隠れた。だが、トチ一人ではあまりに多勢に無勢だ。ちらりと後ろを向くと、トチは隙を見て逃げるようにと言った。
「でも、トチ……」
「いいから。お嬢様に何かあれば、俺が殺されます」
言い終わると、彼は退路を作るため男に殴りかかろうとかまえた。だが、その拳が男に当たるよりも前にトチは地面に叩きつけられた。ヒャンユンはすっかり足がすくんでしまい、その場に立ち尽くしている。好機と言わんばかりに近寄ってくる男たちを退ける術もなく、たはだ息をのむばかりだ。
手に持った剣が抜かれ、月光に刃が光る。だがその様子を見てヒャンユンは、何かが脳裏を駆け巡る衝撃を感じた。避けなければいけない。わかってはいた。だが、身体が必死に何かを訴えているせいで思うように動かない。
─────私、以前にもこんな風に……………?
ヒャンユンは呆然としながら他人事のように剣の切っ先を見つめ、宛もなく記憶を手繰っていた。
そして正に剣が振り下ろされ、ヒャンユンの柔肌を切り裂こうとしたときだった。その身体が不意に宙へと浮いた。一瞬で現実に引き戻されたものの、何が起きたのかさっぱりのヒャンユンは、地面に倒れ込むことを覚悟して目を固く閉じた。だがその身体は予想に反して地面には叩きつけられず、懐かしい感覚に包まれた。
そう、目を開けたヒャンユンの目の前にはトンチャンが居た。居るはずのない男が、助けるはずのない男が、そこに居た。
「トン…チャン……!?」
「…………お前は、俺が守る。その約束だけは、まだ守る機会が残っていたからな。………下がってろ」
ヒャンユンに背を向け立ち上がったトンチャンは、男たちが明らかに半刺客家業を請け負う、七牌の曰牌でも腕利きの輩たちであると瞬時に悟った。ため息をつくと、トンチャンは足を一歩引いて拳に力をいれた。
「おいトチ!そこで倒れてないでちょっとは手伝え、この野郎」
登場こそ、トチでさえ格好がよいと認めるくらいに完璧だったが、それにしても何て口の悪い男だと呆れながらも身体を起こすと、トチはトンチャンの隣に立った。
「………お嬢様は、俺たちが私的な用事で使うスラク山の隠れ家に連れていく。まとまった手勢で迎えに来い。」
「悪いが、信じられないな。その合間にでもお嬢様のことを手に掛けられるからな」
トンチャンは頑なに信じようとしないトチに苛立つと、黙って一人の曰牌を殴り付けた。
「俺だって前科持ちに成りたくはない!自分で殺るよりこいつらに任せた方がよっぽど効率的だ!そうだろうが!」
確かにとようやく納得したトチは、小さく頷いた。
「………何かあったら、大行首様に殺されると思え」
「うるせぇ。黙って手伝え」
二人は寄ってくる男どもを着実に倒し始めた。トチが素手の者たちを相手していると、トンチャンの方を強いとみた剣を持った男たちは彼に向かって一斉にかかった。
「お前ら。細身でもねぇ素手の男を、寄ってたかって剣で倒すってのは………いささか恥ずかしいとは思わねぇのか?」
トンチャンは隙をついて四人のうち、一人の男の懐に近づくとその腹に一発叩き込んだ。続いてテウォンとは違って身軽でない身体にも関わらず剣を素早く避けると、その剣を奪って一気に形勢逆転を図った。
「これで五分五分だ。てめぇら七牌の曰牌なら鬼に金棒、シン・ドンチャンに弓矢と剣ってことくらい聞いたことあるだろ?」
だが男たちは相当腕に自信があるのか、その程度では怯まなかった。久々に剣を扱うトンチャンは、どう持つのだったかとうろ覚えで構えた。ヒャンユンがその様子を固唾を飲んで見守っている。
「…………俺の女にまで手を出して、どうやら死にてぇようだな。」
トンチャンは剣を地面に向けて一度振り下ろし、体勢を整えると残りの二人を睨み付け、こう言い放った。
「───だったら、望み通りにしてやるよ」
彼は地面を蹴ると、ありったけの力を込めて自らの刃を男の剣に叩きつけた。金属の鋭い音が響く。つばぜり合いに持ち込むと力関係敵に不利だと見た男は、もう一人に横から斬り込むように目で指示をした。だが斬り込まれる前に、トンチャンは向かってくる男を蹴り倒した。そのとき不覚にも出来た隙を、残りの男は見逃さなかった。トンチャンは咄嗟に避けたものの、その切っ先が頬を少し切り裂いた。一気に劣勢に追い込まれたと思いきや、トチがようやく始末を終え、逃げ出した男が持っていた剣を取って加勢した。
「トンチャン!お嬢様を連れて逃げろ!」
「お前はどうする!」
「こいつらは俺目当てじゃない!だから急げ!」
トチが、剣をなかなか離さない男を羽交い締めにしながらトンチャンに叫ぶ。ヒャンユンをちらりと見たトンチャンは覚悟を決めて、片手に剣を、空いた方の手でヒャンユンの手を取って走り出した。
「ど、何処へいくの?」
「黙ってついてこい。少し走るぞ」
ヒャンユンは、鼓動が速まるのは恐怖と全力疾走しているせいだと自分に言い聞かせた。
目の前に居るのは命の恩人でも何でもなく、父を投獄した男なのだと。共に生きることはできない、相容れぬ存在なのだと。
それでも鼓動と胸のときめきが収まる様子はない。ヒャンユンはこんなときに何を考えているのだと、自分で自分を叱り飛ばした。そんなことを考えながら走っていると、彼女は木に躓いて転けてしまった。
「痛っ………」
「おい!大丈夫か?」
トンチャンは慌ててしゃがみこむと、ヒャンユンを抱き起こした。相当山道を走ったせいで、服の裾は見るに耐えない有り様だった。更にこけたときに足をくじいたらしく、表情は苦痛と疲労の色に染まっていた。
「…………お一人で、戻ってください。どうせ、助けてもらったところで私の心は………」
だが、ヒャンユンが言い終わる前にその身体は軽々と持ち上げられた。
「………やっぱり、軽いな」
「なっ、何をするの!?」
「心を手に入れようなんて、もう思わねぇ。これからはお前が遠ざかった分だけ………その分だけ俺が近づくことにする。」
ヒャンユンを横抱きにすると、トンチャンは額に汗を浮かべなからも険しい山道を登り始めた。辛いはずなのにその足取りはとても軽く、とても頼もしく力強かった。
ヒャンユンは黙って片腕を首に回し、空いた方の手で少しだけしがみついた。懐かしい温もりが全身に伝わり、懐かしい香りが鼻をくすぐった。そして思慕の念が燻り返すことは、もう止められなかった。いつの間にかヒャンユンの口から、独り言のように素直な言葉が溢れ始める。
「…………トンチャン、あのね………」
「…………そういうのは、後でにしてくれ。今は気の効いた返事が出来そうもねぇ」
「それでもいい。意地でも手離してくれなくたっていい。他の殿方と話しするだけで機嫌が悪くなってもいい。誰より気持ちを伝えるのが下手くそでもいい。ありふれた恋人みたいな、普通の幸せが一生手に入らなくてもいい。隣に居るだけで命を狙われてもいい。覚悟は出来ているから。」
そこまで聞くと、トンチャンは祭りの日にヒャンユンが自分の想いに対して告げた、嬉しすぎて泣きそうになったくらいに温かだったあの返事の内容だと気づいた。
それが、あのときのヒャンユンの返事だった。なのに、自分は何もわかっていなかった。
黙りこんでいるトンチャンに、ヒャンユンは続けた。
「永遠がないのは知ってる。無理かもしれないことだって………夢も望みも、叶わないからそう呼ぶことは知ってる。でも…………でも、例え永遠でなくても………地面に落ちた綿雪みたいに一瞬で消える定めでも、私はあなたの側にいたい。いつか、シワだらけになったあなたの手を握って、幸せだったねって笑えるような未来が………私の………」
ヒャンユンは震える声を必死で抑え、絞り出すように呟いた。
「────私の、夢だから………」
だが、言い終わってすぐにトンチャンが沈黙を破った。
「夢が叶わねぇもんなら、夢なんかにさせてたまるか。」
隠れ家に着いたと同時にヒャンユンを縁側に降ろすと、トンチャンは力強くも壊れないよう、そして逃げないよう、性急に彼女を抱き寄せた。
「トンチャン…………」
「悪かった。俺が悪かった。典獄署の裏帳簿を盗ませたのも、お前の親友を連れていこうとしたのも、全部俺だ。俺は、一日でも早くにお前と一緒になりたかった。もう一度、会いたかった。だが……それはお前を悲しませた。だからもう、望まない。何も、望んだりはしない。」
トンチャンはもう一度強く抱きしめ直すと、消え入りそうな声で呟いた。
「───だから……もうこれ以上、俺のことを………避けないでくれ。いつか、お前が帰ってこなくなるんじゃないかと思って…………俺は………ずっと、ずっと怯えてた。それが今日なのかもしれない。昨日だったのかもしれない。あるいは明日なのかもしれない。そう思う度に、会って確かめて、傍に居てくれるっていう確証が欲しかった。」
ようやく、初めて会ったときの誠実なトンチャンに向き合えた。そんな気がしてヒャンユンは嬉しかった。何より、トンチャンを好きでいてよかった。心の底からそう思った。
「…………ありがとう、トンチャン。私ね、ずっと言いたかったの。」
ヒャンユンは大きな瞳でじっとトンチャンを見つめると、二、三度まばたきをしてから大きく息を吸い込み、笑ってこう言った。
「───初めて会ったときから、好きでした。」
「ヒャンユン…………」
「スリから助けてくれて目が合ったときから、トンチャンの全てが好きでした。そして今も変わらず……いえ、以前よりももっとずっとあなたが好きです。だからこれから先も、ずっとお慕いしています。」
思わずトンチャンの口から、ヒャンユンが心配するような嗚咽が漏れた。
「大丈夫………?どこか痛いの?」
「違う…………違うんだ……………」
トンチャンは肩を震わせ、微笑みながら泣いていた。止めどなく溢れる熱い涙は、彼の人生で数えるほどしか流したことがなかった嬉し涙というものだった。
「ありがとう……………俺は……………本当に…………ヒャンユンの…………帰る場所になっても、いいのか?」
「帰る……場所?」
意味がよくわからず一瞬戸惑ったものの、ヒャンユンは何となく概要を察して頷いた。
「うん。私は、トンチャンのもとに帰る。あなたが迷惑だと思うその日まで、絶対に帰ってくる。」
トンチャンの広くて安心感のある肩に頭をもたせ掛けると、ヒャンユンは目を閉じた。
「…………暖かい、ね」
「………ああ」
「ずっと、一緒に居たいね」
「…そうだな」
ヒャンユンはどうしても離れがたい居場所を見つけた気がして、安堵のあまりそのまま眠りについた。いつの間にか寝落ちている想い人の寝息に口許を綻ばせると、トンチャンは肩から頭をそっと外して自分の膝に乗せた。寝顔を眺めながら、トンチャンは暖かな気持ちに包まれた。
「ヒャンユン。ずっと、俺だけを愛してくれ。他の誰の物にもならないで欲しい。ずっと、俺の物であってくれ」
言い終わってやや束縛が過ぎたかなと反省したトンチャンに、ヒャンユンが寝言のように返事をした。
「────いい………………よ……………」
「へっ?」
再び規則正しい寝息を立て始めたヒャンユンを見て、トンチャンは目を丸くした。月明かりに照らし出された横顔がどこか遠い気がして、彼の心はほんの少しだけ哀しみを覚えるのだった。