10、蝶の涙
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空間を、昼下がりには似合わない張り詰めた空気が支配していた。トンチャンは目を凝らして見なければ難しい距離で、こちらに気づいていないミョンソルとオクニョたちとに対峙しながら、ある決断を迫られていた。彼女を消すために送った部下が、なんとオクニョに返り討ちにあったのだ。典獄署の茶女とは思えない異常な腕っぷしに戦いた部下たちを殴り付けたものの、トンチャン自身の心にも不安が生じていた。
───俺は、どうすべきなんだ。
こうなればミョンソルを消す任務を遂行できるのは自分を置いて他に居なくなる。だが、それはヒャンユンを裏切ることに繋がる決断だった。もちろん、断ることは出来ない。自分が生きる世界は、キム氏が望むような潔白なトンチャンでは居られない場所なのだ。
それが、曰牌の常識だった。いや、必死で自分にそう言い聞かせていた。
トンチャンは矢をつがえると、冷ややかな瞳で弓を引いた。いつもは気にならない弦が軋む音が耳障りに思える。
極限まで緊張と弦を張り詰め、トンチャンは冷静になれと己に言い聞かせながら、ミョンソルの心臓に狙いを定めた。
────急げ、もう少しであいつが全てを喋ってしまう。シン・ドンチャン、何を悩んでいるんだ。弦からただ手を離せばいいんだ。たったそれだけで全てが楽になるんだ!
ミョンソルはオクニョが連れてきた官僚に今にも真実を洗いざらい話しそうな勢いだ。トンチャンは覚悟を決めると、弦から手を離した。
空を切って真っ直ぐに放たれた矢は、みごと意図していた場所に命中した。トンチャンはそれを見届けると、すぐに全力疾走を始めた。
無我夢中で山道を駆け抜けた。自分でももはや、何から逃れようともがいているのか解らなかった。だが、とにかく今の彼はその場から一刻も早く、少しでも遠くに逃れたかった。
それを邪魔したのは、オクニョの追撃だった。矢が放たれた位置をしっかり把握していたオクニョはすかさずトンチャンを追い、その身軽な足取りであっという間に追い付いた。彼女は跳躍して足で一撃を食らわせると、トンチャンを地面に倒した。この際顔を見られるなどもはやどうでもよかった。トンチャンは立ち上がると次の攻撃に備えた。だが体探人仕込みのオクニョの武術には一切歯が立たず、彼はそのまま木の幹に押し付けられるような状態で首を締め付けられた。抵抗しようとして短刀を取り出そうとした手は逆にオクニョに封じられ、手から離れた反動でトンチャンは自分の刃で腕を切ってしまった。
「ぐっ……………くそっ……………」
間近で見て、オクニョはようやく刺客の正体がトンチャンであることを悟った。
「なっ…………あなたは…………!」
「邪魔だ………この手をどけろ………!」
「質問に答えて!一体誰の指図?」
「答える……わけがない………だろ?」
トンチャンは苦悶の表情でオクニョの手から逃れようともがいた。だが急所である首の血管付近を押さえられているのか、徐々に全身が痺れてくる感覚が彼を襲った。
「もう一度聞くわ、誰の差し金?」
「俺……………は……………」
遠退く意識の中で、オクニョの肩越しにトンチャンは必死で部下を探した。そして弓を構えて放とうとする姿を確認すると、余裕ありげな表情で答えた。
「俺は………間違ってなんていない!」
この男をどうすべきか。怒り心頭になったオクニョが更に手に力を加えようとしたときだった。トンチャンの部下が放った矢が風を切って飛んでくる。避けざるを得ないオクニョは、咄嗟にその手を離して木の裏に隠れた。自由の身になったトンチャンは、短刀を拾うと首を押さえて咳き込みながらも走り去った。残されたオクニョは、友にどう説明すべきだろうかと一瞬悩んだが、すぐにミョンソルのことを思い出して元来た道を大急ぎで戻るのだった。
オクニョに仕事を知られ、ミョンソルは仕留めたものの、トンチャンは不安で心が一杯だった。
────ヒャンユン……
もし、オクニョがヒャンユンに伝えれば。とんでもないことになってしまう。だが、トンチャンが怯えているのは斬首になることではなかった。ヒャンユンに軽蔑の眼差しを向けられることが、もっとも彼の恐れることだった。もちろん自業自得なのだが、事が全て終わってみてトンチャンは急に激しい不安に駈られた。そのせいで血が滲み、滴り落ちる腕の傷も忘れ、彼は独り川岸に座り込んでいた。
───頼む、今は来ないでくれ。ヒャンユン……今は会いたくないんだ………
だがそんなトンチャンの思いも虚しく、初めから定められた運命のようにヒャンユンがそこを通りかかった。いつも通りトンチャンに気づいたヒャンユンは、気落ちして沈んだ瞳の色をあっという間に輝かせてその隣に座った。
「トンチャン」
「お………お前か…………」
「どうしたの?元気がないけど…………」
どこか怯えているように思えるトンチャンを凝視し、ヒャンユンはすぐに怪我をしていることに気づいた。短い悲鳴を上げると、彼女は自分の髪を結んでいる飾り布を外してトンチャンの腕に巻きつけた。
「なっ、何するんだ」
「何って。怪我してるじゃない。急いで手当てしないと。ほら、ヨジュさんのお店で手当てするから。来て」
「おっ、おい………!いたたたた!!」
わざとなのか偶然なのか、ヒャンユンは怪我をしている方の手を引っ張ってトンチャンを立ち上がらせた。そのままヨジュの酒場に向かうと、ヒャンユンは先にトンチャンを部屋に通し、自分は手当ての道具を借りにいった。
ヨジュは道具こそ快く貸してくれたが、ヒャンユンには曇った表情を示した。
「大丈夫なのかい?」
「ええ。すぐに手当てすれば大丈夫よ」
「そういうことじゃなくてよ!あのねぇ……」
ヨジュは辺りを見回すと、ヒャンユンに耳打ちした。それを聞き終わるや否や、彼女の細く美しい整った眉がひそめられ、目は今までに見せたこともないような怒りに燃えた。
「トンチャンはそんな人じゃないわ!あの人は確かに曰牌だけど、人を傷つけることなんてしない!」
「でもよ。あんたは見たことあるのかい?そもそ曰牌がどんなことをして生きているか………」
「そんなこと……解ってる…………でも……でも、トンチャンは違います。ヨジュさんが心配するような人ではありません」
ヒャンユンは心の底から心配してくれるヨジュのためにも、必死に冷静に返答しようと声に込めた怒りを取り除こうとした。だが、ヨジュのお節介は止まらない。
「ヒャンユン。私は母親のいないあんたが心配なんだよ………騙されてるんじゃないの?みんなそう言ってるよ?」
「皆って?誰が?」
「オクニョもそうだし、テウォンもそうよ。ほかはほら……トチやチャクト、それにウンスさんも言っていたわ」
「そんな………」
意外な事実を突きつけられたヒャンユンは、目の前が真っ暗になるような感覚に陥った。
────皆が?どうして?あの人は……そんな人じゃないのに。
よろめく足を必死で動かし、ヒャンユンは部屋に戻った。そこには、自分で手当てしようとしているトンチャンがいた。
「………ありがとう。そこに置いておいてくれ。婚姻前の娘が見るもんじゃねぇ」
切った部分が腕の上部なので、手当ては上着を一式脱がなければ出来ない。トンチャンは道具を受け取ろうとしたが、その手は虚しく宙を切った。
ヒャンユンは黙って驚くトンチャンの上着を順に脱がせていくと、手当てを始めようとした。
「おい…………止めろって」
流石に倫理的に問題があると感じたトンチャンは、咄嗟にヒャンユンの手を握って止めた。だがそんなためらいも気にかけず、ヒャンユンは手を振り払って上着を全て脱がせた。
「………恥ずかしいとお思いなら、もう少し痩せては如何ですか?」
「いや、そういう問題じゃなくてだな……」
「じっとしていてください。……私だって恥ずかしいんですよ。……早く済ませますから」
稀に見る無愛想さが、トンチャンをますます怯えさせた。ひょっとして、全てこの人は知っているのでは?そんな恐怖心が鼓動を早める。
トンチャンの不安も知らず、ヒャンユンは黙々と手当てを始めた。あまり格好がいいとは言えない贅肉がやや付いた身体も、ヒャンユンにとっては愛しかった。
私は、この人の全てが好きなのね。
手当てを終えたヒャンユンは苦笑いをすると、先程から怖くて見ることができなかったトンチャンの目を見上げた。そこにあったのは、いつもと変わらない優しいトンチャンがいた。ヒャンユンは名前を呼ぼうと声をだしたが、思わず熱い涙が溢れた。何事かと目を丸くしたトンチャンは、震える手でその涙を拭ってやった。
「ど、どうしたんだ………?」
「ううん…………何でもない。ただ、トンチャンが今日もトンチャンのままで居ることが、とっても嬉しいだけ」
一体どうして泣いているのかがわからないトンチャンは、処遇に困り果てうろたえている。仕方がなく彼はヒャンユンを抱き寄せた。普段服の上から感じる温かさよりも、もっと温かいその肌に突然触れ、涙は一気に引っ込んでしまった。
たるんだ身体のように見えて、実は筋肉質であることに気づいたヒャンユンの心臓は、今にも飛び出しそうなくらいに震えた。その温もりに勇気をもらい、ヒャンユンは震える唇を開いた。
「…………あのね、トンチャン。」
「………ん?」
「私ね、トンチャンを信じることにしたの。トンチャンから聞いたことじゃないと、信じないことにしたの。だから、どうして怪我をしたかなんて聞かない。」
「ヒャンユン………?」
「怪我をした理由は、知らない。でも、皆が憶測することにはもう耳を貸さないことにしたの。あなたが私の全てなら、私が信じることの全ても、あなただから。」
ヒャンユンは目を閉じると、トンチャンの肩に頭を持たせかけた。
蝶が選んだ居場所。トンチャンはキム氏の言葉を思い出し、後悔と不安に彩られた涙を一筋流した。温かく柔らかなヒャンユンの手を優しく握るのも、涙を拭うのも同じ手なのに、どうしてこの手はこんなにも汚れているのか。どうして全うに生きていないのか。こんな自分が、到底愛する人の安らげる神聖な場所になれるはずがない。今までの自分が高価すぎるものを偶然手に入れただけなのに傲っていたように思え、トンチャンはおもむろに謝罪の言葉を口にした。
「………ごめん」
「謝らなくていいよ。だって、トンチャンは誰かの幸せを壊す人じゃないもの。誰かを笑顔にさせて、明るく楽しませてくれる太陽みたいな人なのよ。……そうでしょ?だって、あなたの名前は……」
「東昌 。そうだ。それが俺の名前に込められた意味だったな」
トンチャンは昔、誰かに名前通りじゃない奴だと笑われたことがあった。事実、今まで誰かを明るく楽しませたことは一度もなかった。だが、今は違う。今は、肩に留まっているこの蝶を笑顔にしているのだ。そして一番大事なことは、この笑顔がトンチャン自身をも笑顔にしているということだった。
「…………ごめん、ヒャンユン」
「なんで謝るの?変な人。」
「ごめん…………ごめん………」
「謝らないでってば………ねぇ、トンチャン……どうしたの?ほら、泣かないでよ。もう……」
その涙の真意を知らないヒャンユンは、いつまでもトンチャンの腕の中で温もりに甘えているのだった。
その日は、いつもと変わり映えしない天気だった。だが、その日の安国洞は一際慌ただしかった。
「奥様!いけません!しっかりなさってください!」
「ヒャンユンお嬢様はまだか!?母上!もう少しでヒャンユンが来ますから。それまで気を確かに…」
「テウォン………………オクニョ……………私は……もう……充分生きたわ………充分…………長すぎる夢を…………」
「奥様!」
「母上!!」
危篤を迎えたキム氏は、朦朧とする意識のなかでありながら、しっかりとテウォンの手を掴んだ。
「テウォン……………ごめんなさいね…………」
「母上…………」
「私がもっと…………力のある妻なら…………あなたを養子にして…………ユン家の嫡男に………………」
「母上、そんなことを言わないでください」
そんな謝罪の言葉を置いて、キム氏はいよいよ最期の時を迎えた。ヒャンユンが来る気配はない。だが彼女にははっきりと、黄金色の蝶が部屋に舞っている様子が見えていた。
「ああ………来て…………くれたの……ね…………」
その蝶を見て、一筋の涙が溢れた。まるでこの世の楽しかったこと、辛かったことの全てを置いていくかのような涙は、とても美しいものだった。テウォンはついに迎えが来てしまったのかと悟った。そして、ヒャンユンが最期の時に間に合わなかったことを心の底から悔やむのだった。
ヒャンユンは商談を済ませ、外に出た。ふと、彼女の視界を眩しいくらいに純白の蝶が横切った。
「あ……………蝶………」
「綺麗よね。何なのかしら」
「さぁ……………」
ウンスと共に見とれていると、蝶はヒャンユンの目の前にやって来た。何気なく手を伸ばしてみると、蝶はそのまま手のひらに留まった。
「綺麗ね。あなたはどこから来…………」
「お嬢様!!お嬢様!!安国洞の奥様が……奥様が、危篤……いえ、たった今息を引き取られました」
ヒャンユンはあまりの衝撃に目を大きく見開いたまま使いを眺めると、手のひらに留まっている美しい蝶にもう一度視線を戻した。
「………お母様?」
蝶は答えない。だが、ヒャンユンにはこの蝶が誰なのかがすぐに解った。仮にそうでないもしても、そう思うより他は無かった。
「お母様……ありがとうございました。私はお母様に娘のように思っていただけて、幸せでした。………お元気で……………」
蝶はヒャンユンの言葉が終わると、まるで聞き届けるのを待っていたかのようにふわりと舞い、そのままどこかへ消えてしまった。何が起きているのかがさっぱり分からないウンスは、ヒャンユンと使いの両方を見て首をかしげている。
「ねぇ、ヒャンユン。何があったの?ねぇ」
ウンスが従妹の肩を叩いて顔を覗きこむと、そこには普段は見せない表情が浮かんでいた。大きな瞳を見開いて涙を必死でこらえている姿は、まだこの世から大切な人が旅立ってしまったことを信じたくない想いを携えていた。
「……………今、行きます。葬儀が始まる前に、最期のお別れを言いに行きます。」
「ヒャンユン…………」
前を向いてそう言ったヒャンユンの目は、悲しみだけでは言い表せない愁いを帯びていた。そこからいつもの僅かな幼さは消えており、ただ世の移り変わりの無情さに冷え冷えとしている色だった。
なんの変哲もない風が、頬をかすめる。しかしそれさえも身を切るような痛みに思え、ヒャンユンは安国洞への道中を急ぐのだった。
話を聞いて急行したジェミョンは、涙もこぼさずキム氏の亡骸に向き合うヒャンユンを見て言葉を失った。
「ヒャンユン………」
「お父様…………奥様は…奥様は私をね、娘のように可愛がってくださったの。だから、私もこの方をお母様と……お呼びしていたんです」
「みんな知ってる。もう何も言わなくていい。」
ジェミョンは複雑な思いに駈られていた。テウォンらから聞き、誰が犯人であるかも知っていた。天井を見上げてため息をつくと、ジェミョンはヒャンユンの頭を撫でながら空いた方の手は拳を作って握りしめ、怒りに震えていた。
───どうしてこの子の大切な人は、皆チョン・ナンジョンとユン・ウォニョンの犠牲になっていくんだ…!
トンチャンも知っているはずだ。テウォンからはそうも聞いていた。何故、自分が心寄せる人が母と慕う人に手を掛けるような行為が簡単に出来るのか。ジェミョンは理解に苦しんだ。
今トンチャンが来れば、絶対あの顔に拳を叩き込んでやる。
ジェミョンの瞳には怒りの炎が灯っていた。だが、それでも悲しむヒャンユンに追い討ちを掛けるように、真実を打ち明けるほどの勇気もなかった。
───全てを打ち明けなければならない日が、すぐそこまで来ているというのか……?
ジェミョンには、泣くに泣けぬ空涙で目を腫らしたヒャンユンの横顔をただ黙って見続けることしか出来なかった。
葬式が執り行われ、ヒャンユンは独り安国洞の家の隅で泣いていた。いや、正確には泣き疲れて目を真っ赤に腫らし、放心状態で宙を見つめていた。知らせを受けたトンチャンは報告のためその場に急行したが、そこで見たヒャンユンの憔悴しきった姿に唖然とした。
傍に行って、慰めてやりたい。その涙をこの手で拭い、自分が傍についているからと言って勇気づけてやりたい。だが、トンチャンにはそれは出来なかった。そもそもその資格すら持ち合わせてはいなかったのだ。
────俺は、今はあの子の隣には行けない。……いや、今は行く資格はない。済まない、ヒャンユン。お前を慰めてやることは、出来ないんだ。……俺は、お前が思うほどにいい人間じゃない。
トンチャンはやるせなさに震える拳を必死で抑えると、そのまま踵を返して商団へ戻った。
入れ替わりにやって来たのは、同じく話を聞き付けて駆けつけたカン・ソノだった。彼はいつもの様子とは全く違う沈んだ様子のヒャンユンを見て、躊躇なく隣に座った。
「………大切な方を、亡くされたようですね」
「………はい。私が父に次いで、母のようにお慕いする方でした」
「………辛いときは、泣けばいいのです。もちろん、泣けば全てが解決するわけではありません。ですが、泣けないよりもましです。その想いがあるだけで、故人は浮かばれるものですから」
ヒャンユンはいつもどこか寂しげな影が射しているソノの横顔を見て尋ねた。
「…………カン様も同じようなことが?」
「ええ。私は自らの意思の弱さのせいで、人生に於いて最も尊敬する師を失いました。」
ソノは目を細めると、体探人だった頃の憧れであり師でもあったパク・テスという男を懐古しながら一つ一つ語り始めた。
「その方は私の武術の師であり、生き方、考え方、知識……全てに於いて私の模範でした。厳しい方だったのに、時には父のような優しさで私を包んでくれました。…………なのに私は無力にも、強大な国家権力の前にその方の命をお守りすることができませんでした。あのとき………あのとき、私がもし………」
ソノはパク・テスがユン・ウォニョンの指示で、部下の体探人であるチェ・チョルギにより殺害されたときのことを思い返し、思わず嗚咽を漏らした。いつもは冷静なソノが動揺している様子を見て、ヒャンユンはついその肩に手を置いた。
「…………泣けばいいんです。それにカン様は、きっと最善を尽くされたのだと思います。」
「何故……そう思われるのですか?」
不思議そうに目を丸くするソノに、ヒャンユンはようやくいつもの笑顔に戻って立ち上がるとこう言った。
「だって、カン様はそういうお方ですから。いつも最善を全力で尽くされるお方です。父の移送を早めてくださったり、釈放してくださったり………本当にカン様は私のことをいつも助けてくださるんですね。」
ヒャンユンの笑顔があまりに眩しくて、ソノの胸はまたときめいた。見守る以上の関係を求めてしまう自分に抱く不安よりも、この人に傍で笑っていてほしい。そんな願いが生じた。
だからこそ、必ずこの人は守ろう。ソノの心のなかにはそんな決意が刻まれるのだった。
ヒャンユンは部屋に戻って、ヨジュが耳打ちした言葉が頭から離れない自分を呪った。
────トンチャンが、人を殺してるんじゃないかって噂があるんだよ。
曰牌とは、一寸先は闇の仕事である。だが、トンチャンはそんなことをしていない。そう信じていた。いや、そう信じたかった。その口から、真実を聞くその日までは。
蝶の心が、儚く揺れ始めた。その僅かな不安が大きな歪みを生むまで、そう長くはかからない。
───俺は、どうすべきなんだ。
こうなればミョンソルを消す任務を遂行できるのは自分を置いて他に居なくなる。だが、それはヒャンユンを裏切ることに繋がる決断だった。もちろん、断ることは出来ない。自分が生きる世界は、キム氏が望むような潔白なトンチャンでは居られない場所なのだ。
それが、曰牌の常識だった。いや、必死で自分にそう言い聞かせていた。
トンチャンは矢をつがえると、冷ややかな瞳で弓を引いた。いつもは気にならない弦が軋む音が耳障りに思える。
極限まで緊張と弦を張り詰め、トンチャンは冷静になれと己に言い聞かせながら、ミョンソルの心臓に狙いを定めた。
────急げ、もう少しであいつが全てを喋ってしまう。シン・ドンチャン、何を悩んでいるんだ。弦からただ手を離せばいいんだ。たったそれだけで全てが楽になるんだ!
ミョンソルはオクニョが連れてきた官僚に今にも真実を洗いざらい話しそうな勢いだ。トンチャンは覚悟を決めると、弦から手を離した。
空を切って真っ直ぐに放たれた矢は、みごと意図していた場所に命中した。トンチャンはそれを見届けると、すぐに全力疾走を始めた。
無我夢中で山道を駆け抜けた。自分でももはや、何から逃れようともがいているのか解らなかった。だが、とにかく今の彼はその場から一刻も早く、少しでも遠くに逃れたかった。
それを邪魔したのは、オクニョの追撃だった。矢が放たれた位置をしっかり把握していたオクニョはすかさずトンチャンを追い、その身軽な足取りであっという間に追い付いた。彼女は跳躍して足で一撃を食らわせると、トンチャンを地面に倒した。この際顔を見られるなどもはやどうでもよかった。トンチャンは立ち上がると次の攻撃に備えた。だが体探人仕込みのオクニョの武術には一切歯が立たず、彼はそのまま木の幹に押し付けられるような状態で首を締め付けられた。抵抗しようとして短刀を取り出そうとした手は逆にオクニョに封じられ、手から離れた反動でトンチャンは自分の刃で腕を切ってしまった。
「ぐっ……………くそっ……………」
間近で見て、オクニョはようやく刺客の正体がトンチャンであることを悟った。
「なっ…………あなたは…………!」
「邪魔だ………この手をどけろ………!」
「質問に答えて!一体誰の指図?」
「答える……わけがない………だろ?」
トンチャンは苦悶の表情でオクニョの手から逃れようともがいた。だが急所である首の血管付近を押さえられているのか、徐々に全身が痺れてくる感覚が彼を襲った。
「もう一度聞くわ、誰の差し金?」
「俺……………は……………」
遠退く意識の中で、オクニョの肩越しにトンチャンは必死で部下を探した。そして弓を構えて放とうとする姿を確認すると、余裕ありげな表情で答えた。
「俺は………間違ってなんていない!」
この男をどうすべきか。怒り心頭になったオクニョが更に手に力を加えようとしたときだった。トンチャンの部下が放った矢が風を切って飛んでくる。避けざるを得ないオクニョは、咄嗟にその手を離して木の裏に隠れた。自由の身になったトンチャンは、短刀を拾うと首を押さえて咳き込みながらも走り去った。残されたオクニョは、友にどう説明すべきだろうかと一瞬悩んだが、すぐにミョンソルのことを思い出して元来た道を大急ぎで戻るのだった。
オクニョに仕事を知られ、ミョンソルは仕留めたものの、トンチャンは不安で心が一杯だった。
────ヒャンユン……
もし、オクニョがヒャンユンに伝えれば。とんでもないことになってしまう。だが、トンチャンが怯えているのは斬首になることではなかった。ヒャンユンに軽蔑の眼差しを向けられることが、もっとも彼の恐れることだった。もちろん自業自得なのだが、事が全て終わってみてトンチャンは急に激しい不安に駈られた。そのせいで血が滲み、滴り落ちる腕の傷も忘れ、彼は独り川岸に座り込んでいた。
───頼む、今は来ないでくれ。ヒャンユン……今は会いたくないんだ………
だがそんなトンチャンの思いも虚しく、初めから定められた運命のようにヒャンユンがそこを通りかかった。いつも通りトンチャンに気づいたヒャンユンは、気落ちして沈んだ瞳の色をあっという間に輝かせてその隣に座った。
「トンチャン」
「お………お前か…………」
「どうしたの?元気がないけど…………」
どこか怯えているように思えるトンチャンを凝視し、ヒャンユンはすぐに怪我をしていることに気づいた。短い悲鳴を上げると、彼女は自分の髪を結んでいる飾り布を外してトンチャンの腕に巻きつけた。
「なっ、何するんだ」
「何って。怪我してるじゃない。急いで手当てしないと。ほら、ヨジュさんのお店で手当てするから。来て」
「おっ、おい………!いたたたた!!」
わざとなのか偶然なのか、ヒャンユンは怪我をしている方の手を引っ張ってトンチャンを立ち上がらせた。そのままヨジュの酒場に向かうと、ヒャンユンは先にトンチャンを部屋に通し、自分は手当ての道具を借りにいった。
ヨジュは道具こそ快く貸してくれたが、ヒャンユンには曇った表情を示した。
「大丈夫なのかい?」
「ええ。すぐに手当てすれば大丈夫よ」
「そういうことじゃなくてよ!あのねぇ……」
ヨジュは辺りを見回すと、ヒャンユンに耳打ちした。それを聞き終わるや否や、彼女の細く美しい整った眉がひそめられ、目は今までに見せたこともないような怒りに燃えた。
「トンチャンはそんな人じゃないわ!あの人は確かに曰牌だけど、人を傷つけることなんてしない!」
「でもよ。あんたは見たことあるのかい?そもそ曰牌がどんなことをして生きているか………」
「そんなこと……解ってる…………でも……でも、トンチャンは違います。ヨジュさんが心配するような人ではありません」
ヒャンユンは心の底から心配してくれるヨジュのためにも、必死に冷静に返答しようと声に込めた怒りを取り除こうとした。だが、ヨジュのお節介は止まらない。
「ヒャンユン。私は母親のいないあんたが心配なんだよ………騙されてるんじゃないの?みんなそう言ってるよ?」
「皆って?誰が?」
「オクニョもそうだし、テウォンもそうよ。ほかはほら……トチやチャクト、それにウンスさんも言っていたわ」
「そんな………」
意外な事実を突きつけられたヒャンユンは、目の前が真っ暗になるような感覚に陥った。
────皆が?どうして?あの人は……そんな人じゃないのに。
よろめく足を必死で動かし、ヒャンユンは部屋に戻った。そこには、自分で手当てしようとしているトンチャンがいた。
「………ありがとう。そこに置いておいてくれ。婚姻前の娘が見るもんじゃねぇ」
切った部分が腕の上部なので、手当ては上着を一式脱がなければ出来ない。トンチャンは道具を受け取ろうとしたが、その手は虚しく宙を切った。
ヒャンユンは黙って驚くトンチャンの上着を順に脱がせていくと、手当てを始めようとした。
「おい…………止めろって」
流石に倫理的に問題があると感じたトンチャンは、咄嗟にヒャンユンの手を握って止めた。だがそんなためらいも気にかけず、ヒャンユンは手を振り払って上着を全て脱がせた。
「………恥ずかしいとお思いなら、もう少し痩せては如何ですか?」
「いや、そういう問題じゃなくてだな……」
「じっとしていてください。……私だって恥ずかしいんですよ。……早く済ませますから」
稀に見る無愛想さが、トンチャンをますます怯えさせた。ひょっとして、全てこの人は知っているのでは?そんな恐怖心が鼓動を早める。
トンチャンの不安も知らず、ヒャンユンは黙々と手当てを始めた。あまり格好がいいとは言えない贅肉がやや付いた身体も、ヒャンユンにとっては愛しかった。
私は、この人の全てが好きなのね。
手当てを終えたヒャンユンは苦笑いをすると、先程から怖くて見ることができなかったトンチャンの目を見上げた。そこにあったのは、いつもと変わらない優しいトンチャンがいた。ヒャンユンは名前を呼ぼうと声をだしたが、思わず熱い涙が溢れた。何事かと目を丸くしたトンチャンは、震える手でその涙を拭ってやった。
「ど、どうしたんだ………?」
「ううん…………何でもない。ただ、トンチャンが今日もトンチャンのままで居ることが、とっても嬉しいだけ」
一体どうして泣いているのかがわからないトンチャンは、処遇に困り果てうろたえている。仕方がなく彼はヒャンユンを抱き寄せた。普段服の上から感じる温かさよりも、もっと温かいその肌に突然触れ、涙は一気に引っ込んでしまった。
たるんだ身体のように見えて、実は筋肉質であることに気づいたヒャンユンの心臓は、今にも飛び出しそうなくらいに震えた。その温もりに勇気をもらい、ヒャンユンは震える唇を開いた。
「…………あのね、トンチャン。」
「………ん?」
「私ね、トンチャンを信じることにしたの。トンチャンから聞いたことじゃないと、信じないことにしたの。だから、どうして怪我をしたかなんて聞かない。」
「ヒャンユン………?」
「怪我をした理由は、知らない。でも、皆が憶測することにはもう耳を貸さないことにしたの。あなたが私の全てなら、私が信じることの全ても、あなただから。」
ヒャンユンは目を閉じると、トンチャンの肩に頭を持たせかけた。
蝶が選んだ居場所。トンチャンはキム氏の言葉を思い出し、後悔と不安に彩られた涙を一筋流した。温かく柔らかなヒャンユンの手を優しく握るのも、涙を拭うのも同じ手なのに、どうしてこの手はこんなにも汚れているのか。どうして全うに生きていないのか。こんな自分が、到底愛する人の安らげる神聖な場所になれるはずがない。今までの自分が高価すぎるものを偶然手に入れただけなのに傲っていたように思え、トンチャンはおもむろに謝罪の言葉を口にした。
「………ごめん」
「謝らなくていいよ。だって、トンチャンは誰かの幸せを壊す人じゃないもの。誰かを笑顔にさせて、明るく楽しませてくれる太陽みたいな人なのよ。……そうでしょ?だって、あなたの名前は……」
「
トンチャンは昔、誰かに名前通りじゃない奴だと笑われたことがあった。事実、今まで誰かを明るく楽しませたことは一度もなかった。だが、今は違う。今は、肩に留まっているこの蝶を笑顔にしているのだ。そして一番大事なことは、この笑顔がトンチャン自身をも笑顔にしているということだった。
「…………ごめん、ヒャンユン」
「なんで謝るの?変な人。」
「ごめん…………ごめん………」
「謝らないでってば………ねぇ、トンチャン……どうしたの?ほら、泣かないでよ。もう……」
その涙の真意を知らないヒャンユンは、いつまでもトンチャンの腕の中で温もりに甘えているのだった。
その日は、いつもと変わり映えしない天気だった。だが、その日の安国洞は一際慌ただしかった。
「奥様!いけません!しっかりなさってください!」
「ヒャンユンお嬢様はまだか!?母上!もう少しでヒャンユンが来ますから。それまで気を確かに…」
「テウォン………………オクニョ……………私は……もう……充分生きたわ………充分…………長すぎる夢を…………」
「奥様!」
「母上!!」
危篤を迎えたキム氏は、朦朧とする意識のなかでありながら、しっかりとテウォンの手を掴んだ。
「テウォン……………ごめんなさいね…………」
「母上…………」
「私がもっと…………力のある妻なら…………あなたを養子にして…………ユン家の嫡男に………………」
「母上、そんなことを言わないでください」
そんな謝罪の言葉を置いて、キム氏はいよいよ最期の時を迎えた。ヒャンユンが来る気配はない。だが彼女にははっきりと、黄金色の蝶が部屋に舞っている様子が見えていた。
「ああ………来て…………くれたの……ね…………」
その蝶を見て、一筋の涙が溢れた。まるでこの世の楽しかったこと、辛かったことの全てを置いていくかのような涙は、とても美しいものだった。テウォンはついに迎えが来てしまったのかと悟った。そして、ヒャンユンが最期の時に間に合わなかったことを心の底から悔やむのだった。
ヒャンユンは商談を済ませ、外に出た。ふと、彼女の視界を眩しいくらいに純白の蝶が横切った。
「あ……………蝶………」
「綺麗よね。何なのかしら」
「さぁ……………」
ウンスと共に見とれていると、蝶はヒャンユンの目の前にやって来た。何気なく手を伸ばしてみると、蝶はそのまま手のひらに留まった。
「綺麗ね。あなたはどこから来…………」
「お嬢様!!お嬢様!!安国洞の奥様が……奥様が、危篤……いえ、たった今息を引き取られました」
ヒャンユンはあまりの衝撃に目を大きく見開いたまま使いを眺めると、手のひらに留まっている美しい蝶にもう一度視線を戻した。
「………お母様?」
蝶は答えない。だが、ヒャンユンにはこの蝶が誰なのかがすぐに解った。仮にそうでないもしても、そう思うより他は無かった。
「お母様……ありがとうございました。私はお母様に娘のように思っていただけて、幸せでした。………お元気で……………」
蝶はヒャンユンの言葉が終わると、まるで聞き届けるのを待っていたかのようにふわりと舞い、そのままどこかへ消えてしまった。何が起きているのかがさっぱり分からないウンスは、ヒャンユンと使いの両方を見て首をかしげている。
「ねぇ、ヒャンユン。何があったの?ねぇ」
ウンスが従妹の肩を叩いて顔を覗きこむと、そこには普段は見せない表情が浮かんでいた。大きな瞳を見開いて涙を必死でこらえている姿は、まだこの世から大切な人が旅立ってしまったことを信じたくない想いを携えていた。
「……………今、行きます。葬儀が始まる前に、最期のお別れを言いに行きます。」
「ヒャンユン…………」
前を向いてそう言ったヒャンユンの目は、悲しみだけでは言い表せない愁いを帯びていた。そこからいつもの僅かな幼さは消えており、ただ世の移り変わりの無情さに冷え冷えとしている色だった。
なんの変哲もない風が、頬をかすめる。しかしそれさえも身を切るような痛みに思え、ヒャンユンは安国洞への道中を急ぐのだった。
話を聞いて急行したジェミョンは、涙もこぼさずキム氏の亡骸に向き合うヒャンユンを見て言葉を失った。
「ヒャンユン………」
「お父様…………奥様は…奥様は私をね、娘のように可愛がってくださったの。だから、私もこの方をお母様と……お呼びしていたんです」
「みんな知ってる。もう何も言わなくていい。」
ジェミョンは複雑な思いに駈られていた。テウォンらから聞き、誰が犯人であるかも知っていた。天井を見上げてため息をつくと、ジェミョンはヒャンユンの頭を撫でながら空いた方の手は拳を作って握りしめ、怒りに震えていた。
───どうしてこの子の大切な人は、皆チョン・ナンジョンとユン・ウォニョンの犠牲になっていくんだ…!
トンチャンも知っているはずだ。テウォンからはそうも聞いていた。何故、自分が心寄せる人が母と慕う人に手を掛けるような行為が簡単に出来るのか。ジェミョンは理解に苦しんだ。
今トンチャンが来れば、絶対あの顔に拳を叩き込んでやる。
ジェミョンの瞳には怒りの炎が灯っていた。だが、それでも悲しむヒャンユンに追い討ちを掛けるように、真実を打ち明けるほどの勇気もなかった。
───全てを打ち明けなければならない日が、すぐそこまで来ているというのか……?
ジェミョンには、泣くに泣けぬ空涙で目を腫らしたヒャンユンの横顔をただ黙って見続けることしか出来なかった。
葬式が執り行われ、ヒャンユンは独り安国洞の家の隅で泣いていた。いや、正確には泣き疲れて目を真っ赤に腫らし、放心状態で宙を見つめていた。知らせを受けたトンチャンは報告のためその場に急行したが、そこで見たヒャンユンの憔悴しきった姿に唖然とした。
傍に行って、慰めてやりたい。その涙をこの手で拭い、自分が傍についているからと言って勇気づけてやりたい。だが、トンチャンにはそれは出来なかった。そもそもその資格すら持ち合わせてはいなかったのだ。
────俺は、今はあの子の隣には行けない。……いや、今は行く資格はない。済まない、ヒャンユン。お前を慰めてやることは、出来ないんだ。……俺は、お前が思うほどにいい人間じゃない。
トンチャンはやるせなさに震える拳を必死で抑えると、そのまま踵を返して商団へ戻った。
入れ替わりにやって来たのは、同じく話を聞き付けて駆けつけたカン・ソノだった。彼はいつもの様子とは全く違う沈んだ様子のヒャンユンを見て、躊躇なく隣に座った。
「………大切な方を、亡くされたようですね」
「………はい。私が父に次いで、母のようにお慕いする方でした」
「………辛いときは、泣けばいいのです。もちろん、泣けば全てが解決するわけではありません。ですが、泣けないよりもましです。その想いがあるだけで、故人は浮かばれるものですから」
ヒャンユンはいつもどこか寂しげな影が射しているソノの横顔を見て尋ねた。
「…………カン様も同じようなことが?」
「ええ。私は自らの意思の弱さのせいで、人生に於いて最も尊敬する師を失いました。」
ソノは目を細めると、体探人だった頃の憧れであり師でもあったパク・テスという男を懐古しながら一つ一つ語り始めた。
「その方は私の武術の師であり、生き方、考え方、知識……全てに於いて私の模範でした。厳しい方だったのに、時には父のような優しさで私を包んでくれました。…………なのに私は無力にも、強大な国家権力の前にその方の命をお守りすることができませんでした。あのとき………あのとき、私がもし………」
ソノはパク・テスがユン・ウォニョンの指示で、部下の体探人であるチェ・チョルギにより殺害されたときのことを思い返し、思わず嗚咽を漏らした。いつもは冷静なソノが動揺している様子を見て、ヒャンユンはついその肩に手を置いた。
「…………泣けばいいんです。それにカン様は、きっと最善を尽くされたのだと思います。」
「何故……そう思われるのですか?」
不思議そうに目を丸くするソノに、ヒャンユンはようやくいつもの笑顔に戻って立ち上がるとこう言った。
「だって、カン様はそういうお方ですから。いつも最善を全力で尽くされるお方です。父の移送を早めてくださったり、釈放してくださったり………本当にカン様は私のことをいつも助けてくださるんですね。」
ヒャンユンの笑顔があまりに眩しくて、ソノの胸はまたときめいた。見守る以上の関係を求めてしまう自分に抱く不安よりも、この人に傍で笑っていてほしい。そんな願いが生じた。
だからこそ、必ずこの人は守ろう。ソノの心のなかにはそんな決意が刻まれるのだった。
ヒャンユンは部屋に戻って、ヨジュが耳打ちした言葉が頭から離れない自分を呪った。
────トンチャンが、人を殺してるんじゃないかって噂があるんだよ。
曰牌とは、一寸先は闇の仕事である。だが、トンチャンはそんなことをしていない。そう信じていた。いや、そう信じたかった。その口から、真実を聞くその日までは。
蝶の心が、儚く揺れ始めた。その僅かな不安が大きな歪みを生むまで、そう長くはかからない。