9、蝶(ナビ)の幻
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月明かりが頬を刺すような夜。シン・ドンチャンは七牌市場の頃から子分としている商団の私兵たちを集め、紙の束を手渡していた。
「お前ら、見つかるんじゃねぇぞ。ばれたらぶっ殺してやる」
「はい、兄貴。」
紙には何が書いてあるのか。そんなことはトンチャンにとって重要ではなかった。むしろこれに失敗すれば命を落とすという方が重要な案件だった。
都の目の付きそうなあらゆるところに紙を貼っていく部下を見ながら、トンチャンは周囲に気を配っていた。すると、偶然にも盗みをして逃げている最中のチョンドンがトンチャンと鉢合わせした。塀から降りた先が思いがけない人物の前だったので、思わずチョンドンは目を丸くした。
「あれ、兄貴。何してるんですか?」
「チ、チョンドン!?」
珍しく慌てている様子のトンチャンを見て、何かまずい現場に出くわしたことは明瞭だった。チョンドンはその場から適当に逃げようとしたが、このままではいけないと思ったトンチャンに首根っこを捕まえられた。
「おい。この事、絶対誰にも言うんじゃねぇぞ。いいな!」
「い、言いませんよ……離してください………」
安心したのか、乱暴にチョンドンを離すとトンチャンは次の場所へ向かった。残されたチョンドンは、物陰に隠れて貼り紙の内容を読んだ。
そこに書いてあったのは、大妃とその兄ユン・ウォニョンを筆頭とする大尹派が暴政をふるっているという内容だった。
「兄貴……………」
チョンドンはトンチャンがこのような大事に関わって悲しむ人を、一人だけ知っていた。
「ヒャンユンお嬢様…………」
彼はこの後に続くであろう対立に身震いすると、この事実をどうすべきか悩むのだった。
その日珍しくヒャンユンは眠れず、明かりの中で服を作っていた。作っているのはもちろん、トンチャンの服だった。裁縫が得意な彼女は、家に行ったときにこっそり服の寸法を確認していたのだ。
「喜ぶかな、トンチャン。」
その時だった。鋭い痛みがヒャンユンの指先に走る。痛みのあった部分を見てみると、針が少しだけ刺さっていた。引き抜いた部分からは球体状になった血が僅かに溢れている。
────何か不吉なことでもあったのかしら。
手拭いで血を拭いながら、ヒャンユンは不意にそんなことを考えた。だがすぐに偶然かと思うと、完成した服を着て喜ぶトンチャンの姿を思い浮かべて微笑んだ。
「さて、まだ起きてても良いわよね」
ヒャンユンの夜なべはまだ、終わりそうにもない。
翌日、各所に貼り巡らされた貼り紙を見て、ヒャンユンはいったい何事だろうかと思った。しかも内容はかなり問題のあるものだ。時の権威にたてつくような文を貼るなど、どういう神経をしているのだろうかと首謀者をあれこれ考えていると、そこに平服のカン・ソノがやって来た。今日は偶然見つけたらしく、ソノは僅かに動揺を露にした。
「あ………ヒャンユン……殿ですか」
「カン様!あの…………貼り紙、見ました?」
「ええ、見ましたよ。」
「捕盗庁の関係で来られたんですか?」
すると、ソノは苦笑いしながらこう返した。
「実は、休職しました。今は別の役職を探してもらっています」
「そうなんですか?残念です。」
「残念?」
「はい。父のことでお世話になったので恩返しをしなければと思っていたのですが、これからはお会いするのも大変そうですね」
僅かに期待を寄せていたソノは、社交辞令であることを見抜いて失望した。だがすぐにいつもの笑顔に戻ると、近くの本屋を指差してこう言った。
「あそこの店主にいつでも用件を言ってください。そうすればお会いできるように計らいます。」
「ありがとうございます。では、失礼します」
「あ、ああ………では………」
あっさりと去ってしまったヒャンユンの後ろ姿を止めることもできず、ソノはしばらく呆然としていた。だがやがてため息をつき、体探人らしい表情に戻ると貼り紙を観察し始めた。
────あれは間違いなく、大妃とチョン・ナンジョンが企てたことだ。今回は一体誰を首謀者に仕立てあげるつもりだ?
というのも、これは大妃と大尹派の常套手段だった。目障りな者に謀反の疑いをかけて処罰し、一掃する。ヒャンユンの父を流刑にしたのも、そういった類いの計略の一環だった。だが、ここでソノは一つ疑問に思った。
───動機は?何があったのだろうか?
もう少し調査が必要だなと静かに頷いたソノは踵を返し、雑踏のなかに溶け込んでいった。
一方、ヒャンユンは帰ってきたと同時に何かがおかしいと感じた。しかもいつもは気丈なウンスが泣いている。一体何が起きたのかと思ったヒャンユンは、ウンスに近づいてその背中をさすった。
「ウンス、何があったの?どうしたの?」
「テウォンさんが………テウォンさんが……捕盗庁に………」
「テウォン行首が?何故?」
「知らないわよ!!謀反の貼り紙と関係があるとか……」
「何ですって?謀反と?」
テウォンと謀反の貼り紙が何故結び付くのか。全く見当がつかないヒャンユンは、どうしたものかと狼狽した。すかさずトチが青ざめた顔で助言をする。
「お嬢様、急いで大行首様にお知らせしないと。商団存亡の危機です」
「わかった。典獄署へ行ってくるわ」
「お願い致します」
ヒャンユンはすぐに決断すると、裾を持って走り出して典獄署へまっすぐ向かった。だが、いつも通り面会を申し込もうとした手続きに何故か問題が生じた。
「あの………すみませんが、面会は出来ません」
「え?どうして?前は出来たでしょう?」
「すみません………」
役人が去った後、これはますますおかしいと思ったヒャンユンは、明らかに誰かがテウォンを孤立無援にさせようと企んでいるに違いないと踏んだ。そして頼れるのはあと一人しかいないと決意すると、最後の望みをかけてその人の元を訪ねるべく、典獄署の官舎へ向かった。
オクニョはすっとんきょうな声を上げると、驚いた様子でヒャンユンの手を引いて裏口に連れていった。
「正気!?私もテウォンさんを助けたいけど、こんなの危険すぎるわ。」
「それより、何があったの?知っているなら教えて」
オクニョは眉をひそめると、渋々説明を始めた。
「実は典獄署に入っていたイ・ミョンウという方と、紙の独占件をチョン・ナンジョン商団から奪う話を進めていたの。でも、その方は何者かに殺された。そしてありもしない謀反の主犯に仕立てあげられたの。」
「それとテウォン行首に何の関係が?」
「テウォンさんがあなたの商団には内密に進めたことだから、帳簿に彼の名前が載っていたの………」
「そんな…………」
一体何故そんなことをしようと思い立ったのか。ヒャンユンは立ちくらみを抑えてやっとのことで返事をした。
「………わかった。でも、やらなきゃ。私が会って話さないと。」
「…………何があっても保証はしないから。いい?」
「もちろん。やるしかない。」
二人は顔を見合わせて頷くと、洗濯室へ向かった。
洗濯室には茶女の服が山積みにされており、オクニョはそこから一式取り出すと、ヒャンユンに手渡して真剣な声でもう一度確かめた。
「本当に、やるのね?」
「うん。絶対にやらなきゃだめなの。」
「わかった。できる限り助けるけど、手助けできないこともあるから。」
「ありがとう、オクニョ。」
茶女の服を受け取ったヒャンユンは親友に一礼すると、人目につかない別室へ移動した。オクニョは部屋の前でそつなく仕事をしている振りをしながらも、誰か来ないだろうかと辺りを見張り始めるのだった。
ペッシテンギを含む髪飾り全てを外し、髪も地味な布で束ね上げ、すっかり茶女の格好になじんだヒャンユンはオクニョの後ろをついていった。
「…………牢に食事を届けるときに、中を確認する振りをして外に出る時間に落ち合うと言って。」
「わかった。」
「それと、署長とユ・ジョンフェ様には気を付けてね。」
「うん。」
誰か知らない者をどうやって気を付けるのかはよくわからないが、ヒャンユンはとりあえず返事をした。
二人で食事を届けるのはさすがに怪しまれるので、オクニョは気は進まないがヒャンユンを単独行動させることにした。どこから見ても茶女にしか見えない彼女は、自然に食事を渡すと、小声でジェミョンを呼んだ。
「あの………コン・ジェミョン大行首」
「なんだ。今は大行首でもないんだから、頼まれても何も…………って、おい────」
驚きで声が上ずるジェミョンの口を柵から入れた手で塞ぐと、ヒャンユンは小声で先程の計画を伝えた。
「静かに。外に出る自由時間に話がしたいの。面会が何故か出来ないから、そのときにしか機会はない。私も失敗しないようにするからお願いね、お父様。」
「わかった。そうしよう」
何とか上手くいったと胸を撫で下ろしたヒャンユンは、オクニョのもとに戻り静かに頷き、成功した旨を伝えた。
あとは用件を伝えれば終わり。もう一度気を引き締めたヒャンユンは、オクニョに案内されるまま倉庫へ隠れて息を潜めた。その間、頭の中では事の次第を必死に巡らせていた。
────一体、何が起きているの?やっぱり、またユン・ウォニョンとチョン・ナンジョン?でも、どうしてテウォン行首はナンジョンの商団と対立しようと?だとすればあの人が庶子であることに理由があるの?ああ、わからない!
考えれば考えるほど国家権力が絡んでいるような気がしてならないヒャンユンは、とめどない不安に駆られるようになった。そして同時に、トンチャンはどこまで知っているのだろうかという疑問も生じ始めた。一つを疑えば更にまた一つと疑わしく思えてしまう。そんな心理状態に陥ったヒャンユンは、とうとう頭を抱え込んだ。そして丁度不安が最高潮になろうとしている時、オクニョが再び迎えに来た。
「ヒャンユン、行くわよ」
「う、うん…ありがとう」
オクニョは顔色が悪そうなヒャンユンに気づくと、てを差し出して心配そうに顔を覗きこんだ。
「……大丈夫?」
「え、ええ。大丈夫。たぶん………」
「そう、ならいいわ」
ヒャンユンはオクニョの手を優しく取ると、立ち上がって父の元へ向かった。既に何か察しているらしいジェミョンは、落ち着かない様子で待っていた。
「お父様、テウォン行首が謀反の罪で捕らえられました。どうすれば良いのでしょうか」
「何?どういうことだ」
ヒャンユンは深呼吸すると、事の次第を全て話した。聞き終わり深刻な表情を浮かべたジェミョンは、分かったと一言だけ返すと娘に戻るよう指示をした。
とりあえず伝えられたということだけでも前進したとオクニョに慰められながら、ヒャンユンは着てきた服と飾りを入れた包みを持って典獄署を後にしようとした。ここで再び着替えては怪しまれるかもしれないというオクニョの案だった。
「じゃあ、気を付けてね。また今度」
「うん、ありがとう。」
親友に改めて礼を述べ、官舎から出ようとしたときだった。目の前からやって来た官吏の一人であるユ・ジョンフェがその姿に目を留めた。
「おっ……………?あんな茶女、居たっけな?」
オクニョとはまた違う美しさが漂うヒャンユンは、ジョンフェの好みそのものだった。職務中であることも忘れた彼はそのままヒャンユンに近づくと、低い背をごまかすために胸を張って声をかけた。
「おい、そこの茶女!」
「は、はい。なんでしょうか」
声も見た目に違わず可愛らしい様子で、思わずジョンフェは目を丸くしているヒャンユンの手を握った。もちろんヒャンユンの背中には、触れられた手の部分から背中に掛けて悪寒が走った。
「俺はユ・ジョンフェだ。そなた、名は?」
「わ、私ですか……?私は………」
名前を聞かれるとは思ってもみなくて、ヒャンユンは本名を告げるべきか一瞬躊躇した。だがここで嘘をつくのも問題なので、渋々彼女は名字を伏せて名前だけを伝えた。
「ヒャンユンと申します。」
「そうか。ヒャンユンか…………新入りだな。よし、もう行ってもよいぞ」
「は、はい………」
ようやく手を離してもらえたヒャンユンは、小走りでその場を離れると、典獄署の門を出てからは振り返らず全力疾走した。
一方ジョンフェはにやけながら腕を組んで歩いていた。
「ふふ、これで少しは典獄署勤めも楽しくなりそうだ」
その奇怪な様子を見ていた同僚のイ・ヒョソンが、隣でジョンフェを諌めた。
「何が楽しいのだ?」
「知らずとも良い!ああー幸せだ!」
首をかしげたヒョソンは、上機嫌そうなジョンフェを眺めながらため息を一つもらすのだった。
ヒャンユンは着替える部屋を貸してもらうため、ヨジュの店に駆け込んだ。
「すみません!部屋を貸してくれませんか?」
すると、偶然そこで部下と昼食をとっている最中だったトンチャンが、ヒャンユンの格好を二度見して叫んだ。
「おっ、おい!!!お前、なんて格好をしてるんだ!」
「ちょっと用事で、ね」
ヒャンユンが苦笑いを浮かべていると、顔立ちの良いトンチャンの部下が微笑みながら横から口を出してきた。
「どこから見ても典獄署の茶女ですけど、相変わらず綺麗というか可愛いですね」
「黙れこの野郎。俺の女に気安い口開くんじゃねぇ」
トンチャンは部下の頭を音が響くほど叩くと、今度はヒャンユンに向き直り、先程叩いた手と同じ手で優しくその頭を撫でた。
「お前は今日も可愛いなぁ…………」
「ト………トンチャン………」
「何だ、照れてるのか?ん?全く……どこまで俺を困らせたら気が済むんだ。ほら、早く着替えてこい。変な格好は止めろ」
「はぁい。」
ヒャンユンが包みを持って部屋に入ったのを見届け、部下は一言こう漏らした。
「………覗かないんですか?兄貴」
「お前は馬鹿か!俺がそんなこと………するわけ……ないだろ!」
顔を真っ赤にしてむきになっている姿を見て、これはまんざらでも無いのかもしれないと思った部下は、上司の弱味を見つけたような気がして勝ち誇ったような笑みを心の中で浮かべた。トンチャンは酒を自分でつぎ一杯あおると、ヒャンユンが入っていった部屋の戸にちらりと目をやって、また慌てて酒をつぐのだった。
ヒャンユンが部屋から出ると、そこには顔面蒼白になっているオクニョが立っていた。
「あの……どうしたの?オクニョ」
「あ…………安国洞の奥様が…………奥様が………!」
珍しく息を切らして冷静さを欠いているその様子に、何か非常事態が起きたことは明白だった。トンチャンは安国洞と聞いて、息を殺しながら耳をそばだてている。
「とにかく、来て!テウォンさんが居ない状況で奥様が倒れたの。お医者様も呼んであるわ。お願い、急いで!」
「わ、わかった。」
その話を聞いてトンチャンはすぐに毒の効果が現れたことに気づいた。だが、ここで一度ミョンソルに念を押しておかねばならない。そう思い立った彼は立ち上がると、ヒャンユンたちが走り去った道を冷ややかな面持ちで歩き出した。
口からは吐血しており、顔はすっかり青白くなってしまったキム氏の額に浮かんだ汗を拭いながら、ヒャンユンは涙をこぼさないように唇をかんだ。
「…………ヒャンユン…………ごめんなさいね…………こんな…………」
「いいんです、お母様。母の居ない私にとって、お母様は本当のお母様みたいなんですもの。」
「………どうしてこうなったかは、わかっているの。だから…………」
ヒャンユンはキム氏の手を取ると、その力のこもっていない手をしっかりと握りしめた。
「どうして?教えて。私が助けてあげるから」
「………いいえ、あなたを………巻き込む資格は………私にはないわ……」
静かに首を振る理由がわからず、ヒャンユンはついに涙をこぼした。
「そんなの……………そんなの…………あんまりです。私もオクニョやテウォン行首みたいに、誰かの役に立ちたい………大切な人を守りたいのに…………なのに……なのに………私はお母様のことも守れないなんて………」
肩を震わせて泣く少女の頭を優しく撫でたキム氏は、力の限りを尽くして微笑んだ。
「ヒャンユン……お前は本当に、やさしい子ね。こんな娘が……私と大監の間にも居れば………少しは寂しさも……」
「居てあげる!ユン・ウォニョン大監の娘じゃないけど、お母様が良いとおっしゃるなら私はお母様の子になります!私が娘になるから!だから……だから……」
「ありがとう………ヒャンユン…………」
ふと、キム氏の視界に黄金色の蝶が入ってきた。蝶は砂金のような美しい光の破片を散らしながら、ヒャンユンの左のこめかみに留まった。
「………綺麗な………蝶 (韓国語での蝶の呼び方)………」
「蝶?…………どこにいます?」
キム氏はほらそこにと指を指そうとしたが、次の瞬間もう蝶は姿を消していた。
「……気のせいみたいだわ。……きっと疲れているのね。休むわ、ありがとう。」
「いいえ。お母様、お大事にね」
「ええ、そうするわね」
「おやすみなさい、お母様」
「おやすみ、ヒャンユン」
ヒャンユンは立ち上がると、床についたキム氏に振り返って微笑みかけた。病床のはずの彼女もまた、眩しい笑顔を返した。
これが母と慕う人の最期の姿であるとは、今のヒャンユンにはまだ想像もつかなかった。
帰り道、ヒャンユンはミョンソルを見かけたため、慰めようと思って近づこうとした。だが、その足取りは思わぬ理由で阻まれた。
────トンチャン?それに……あれはミン・ドンジュ大行首?
二人は何やら神妙な面持ちでミョンソルを囲んでいる。また、彼女はどこか怯えているようにすらも見えた。だがユン家の状況を知らないヒャンユンは、その様子を見てこう思った。
───きっと、正妻が病気だから大監とシネのお母様が、トンチャンたちを通して薬剤を渡したのね。自分が長年仕えている人があんな深刻な病気になったら、誰でも怯えてしまうわ………
何故だか話しかけるのも戸惑われ、ヒャンユンはその場を静かに立ち去った。そしてその様子を更に別の場所から見ていたオクニョは、医師に言われた言葉と台所で見つけた粉について思い返していた。
医師は目を丸くしてオクニョに粉を返した。
「これをどこで?こんなに高価な薬剤、なかなかありませんよ。これは清国から取り寄せなければならない毒薬です。徐々に身体を蝕み、自然に見せかけて死に至らせる恐ろしい薬です。」
「そうでしたか………」
それは、ミョンソルがキム氏に出す汁物に入れていたものだった。粉を混ぜている現場を見たとき、オクニョを邪険に扱ったのもこれで説明がつく。一緒に話を聞いていたテウォンも開いた口が塞がらない様子だった。
この事実を知れば、誰よりもなついていたヒャンユンはどうなるのだろうか。
オクニョはただそれが心配だった。そして、その裏に愛する人が関わっているということも知れば………到底耐えられる事実ではないだろう。
彼女はどうして、こんなにも真逆の人を求めてしまうのだろうか。理解に苦しみながらも、オクニョは同じく母のように慕う人を救うべく決意を固めるのだった。
帰宅したヒャンユンは、表情を落胆と絶望から驚きと困惑に瞬く間に変える羽目になった。
「お…………お父様………?」
「ヒャンユン。…………心配をかけたな」
そこにいたのは、父だった。少しやつれたような気はするが、入獄前と変わらぬ姿のジェミョンがそこにいた。ヒャンユンは涙目になって飛び付くと、その裾に取り付いて心を安らげた。
「お父様………お父様…………良かった……ご無事で…」
「釈放は、カン・ソノ様という方が職を退く前に計らってくれたらしい。捕盗庁から典獄署へ早くに移送されたのも同じ方のお力添えらしいが………お前、知り合いか?」
カン・ソノと聞いて、ヒャンユンはすぐに笑顔になった。
「ええ!そうよ!捕盗庁での面会をお許しくださった方なの。今は………官職には就いていないようだけど」
「そうか…………一度ご挨拶に行かないとな」
「私が言っておきます。……それより、せっかく釈放なのに浮かないお顔ですね」
ヒャンユンはジェミョンの顔を覗きこむと、どこか物憂げな様子であることに気づいた。苦笑いしたジェミョンは、娘の頭を不器用に撫でてこう言った。
「お前は、心配しなくていい。」
「そう……ですか」
「それより、留守中は随分頑張ってくれたらしいな。お前を行首にして良かった」
突然褒められたせいで、ヒャンユンはすっかり照れてしまった。ジェミョンも何やら恥ずかしくなったようで、上を向いて咳払いをしている。チャクトとトチはようやく戻り始めた日常にほっとすると、笑いながらその様子を眺めていた。
この数日後テウォンが釈放されたことにより、事件は一件落着を見せるのだった。
オクニョは拷問で傷を負ったテウォンを看病するために、安国洞へ通えないことを気にしていた。そこで彼女はヒャンユンの元に向かうと、薬剤を届けてほしいと頼み込んだ。
「お願いできるかしら?宜しくね」
「うん!いいよ!」
相変わらず元気な声で返事をしたヒャンユンだったが、オクニョが帰ってからある重要な案件を思い出した。
「あっ、商談があるんだった………どうしよう」
ヒャンユンは薬剤の包みと空を交互に見た。そして、妙案を閃いた。
唯一頼れる相手────シン・ドンチャンはヒャンユンと薬剤の包みを困惑の眼差しで往復した。彼は安国洞に何故行かねばならないのかと深くため息をついたものの、ヒャンユンの潤んでいる瞳に対して断ることも出来ず、勢いで承知してしまった。
そして今、トンチャンは安国洞のキム氏の門前に立っている。自分は一体何をしているのだろうか。流石にそんなことが頭を過ったが、慌てて振り払うと門をくぐってミョンソルを呼びつけた。
「おい、ミョンソル」
「は、はい……って、シン様がこ、こちらに何のご用です………?」
また脅されるのではと怯えているミョンソルは、トンチャンが手に持っている薬剤を見て、また毒の量を増やすのかと勘違いした。
「あっ……それを混ぜればいいんですか……?」
「馬鹿野郎。薬だ。頼まれたから届けに来たんだよ!」
「だっ、誰にです………?」
トンチャンは苛立って答えた。
「ヒャンユンだ。コン・ヒャンユン。コン・ジェミョンの娘だよ!」
「────まぁ………ヒャンユンからの使い?」
すると、ヒャンユンという名に反応したキム氏がわざわざ無理を押して外に出てきた。驚いたミョンソルは、心臓が飛び出そうなほどに飛び上がって挨拶をした。
「おっ、奥様!いけません!お部屋にお戻りください!」
キム氏は優しげに微笑むと、トンチャンをじっと見てから一瞬目を見開いた。
「いいえ、大丈夫よ。………あなたが、シン・ドンチャンね?」
「は、はい……って、何故ご存じで?」
「まぁ、色々話しはするわ。さ、入ってちょうだい。」
首をかしげたミョンソルに、きちんと出せよと薬を押し付けると、トンチャンは渋々部屋へ入った。
床に就こうとしたキム氏がふらついたため、トンチャンは咄嗟に手を貸した。もちろんすぐにこの状況に違和感を覚えた彼は、そそくさと手を貸し終えると床に座り、仏頂面で今まさに殺そうとしている人物に向きなおった。互いの奇怪な関係性に気づいているのかそうでないのか、キム氏は面白いものを見るかのように余裕げな笑みを浮かべた。
「………ヒャンユンがね、いつも教えてくれるのよ。最初は他愛もないことだったんだけれどもね……」
そう言うと、彼女は一つずつヒャンユンと話したことを回想しながら、トンチャンに独り言のように話していった。
ヒャンユンが安国洞に出入りするようになってから数日後。キム氏はその年だし、こんなに綺麗なのだから、婚約者や気になる人は居ないのかと尋ねた。するとヒャンユンは、はにかみながら小さく頷いた。
「………はい、居ます。」
「そうなの?どんな人?」
キム氏がそう聞くと、またヒャンユンは顔を赤らめながら答えた。
「………チョン・ナンジョン商団の、ミン・ドンジュ大行首の下で働く曰牌なんです。」
それを聞いたキム氏の表情が一瞬曇った。だがすぐに彼女はいつもの穏やかな顔に戻ると、今度はその人となりを尋ねた。
「ええと………とても、素敵な方です。優しくて、強くて、真面目で、しっかりしていて、とても格好いい方なんです。」
「そう。名前は?」
「トンチャン。シン・ドンチャンです」
「トンチャン…………東昌と書くの?」
「はい、そうです。」
「東から朝日が昇るように、ヒャンユンのことを幸せにする人なのね、きっと。」
「はい、そんな方です。」
そのときのヒャンユンの笑顔があまりに眩しくて、キム氏は思わず自分も笑顔の花を咲かせてしまった。
そこからトンチャンの話を聞くこと、そしてヒャンユンの恋慕っていることが溢れている笑顔を見ることが、いつしか彼女の楽しみになっていった。
トンチャンは話を聞き終わると、ため息混じりに尋ねた。
「…………たくさんお聞きになったんですね」
「ええ。初めて会ったときから、あの子の身分がばれたとき、それから………ああ、服を買ってあげたでしょう?あの服も着て見せてもらったわ」
「はは…………」
トンチャンは気恥ずかしさのあまりに空笑いをした。キム氏のことをヒャンユンは母のように慕っている。その事実が少なからずともトンチャンの良心をえぐりだした。
「そうそう。最近ね、ヒャンユンが訪ねるようになってから不思議な夢を見るようになったのよ。黄金色の蝶が出てくる夢を………」
「黄金色の…………蝶ですか?」
「ええ。と思っていたら、とうとう最近はヒャンユンの左こめかみに留まっている幻覚まで見てしまったわ」
もうろくしてしまったのだろうかと失笑するキム氏に対して、トンチャンは呟くように答えた。
「────ヒャンユンは、蝶のような人です」
「ヒャンユンが?どうして?」
トンチャンがその問いに答えるか否かを考えるより先に、その口が自然と記憶をなぞっていた。
「ヒャンユンと私が初めて会ったのは、市場通りでした。あのとき私は、彼女を蝶のようだと思いました。可憐で自由気ままに飛んでいると思ったら、途端に飛ぶのを止めて、場所も特に何も考えず羽を休める。それが最初は偶然、自分の肩に留まっただけだったんです。」
「そうなのね………じゃあ、今もヒャンユンはあなたの肩がお気に入りのようね」
「え……?」
キム氏は目を細めると、トンチャンの右肩に目をやった。その穏やかな笑みを見て、一目でトンチャンは今自分の肩に蝶が留まっているように見えていることに気づいた。
「………見えるんですか?」
「ええ。疲れているのかしら…………」
キム氏は目を閉じて、もう一度トンチャンの肩を見た。だがそこにはまだ蝶がいる。トンチャンに近づくよう手招きをすると、キム氏はその手を取った。
「…………トンチャン……あの子を……綺麗な蝶を、幸せにしてあげてちょうだいね。蝶が選んだ居場所は、あなたなのよ」
「俺を…………選んだ?」
「ええ。あなたは蝶が戻る場所なのよ。だから………」
小さくため息をついたキム氏は、今までに見たこともない鋭い表情をトンチャンに向けた。その全てを見透かしていると言いたげな表情に、思わず不安がトンチャンの体を駆け巡った。
「────全うに、生きるのよ。曰牌のシン・ドンチャン」
呆然としているトンチャンをよそに、キム氏は眠りについてしまった。冷たい目眩に襲われながら、彼は後ろめたさを感じながら部屋を後にした。
キム氏が蝶の幻を見たのは、毒に侵されたことによるものなのか、それとも本当に死に際に見たものだったのか。それは誰にもわからない。だが、蝶───ヒャンユンが、自分の戻る場所にトンチャンを選んだ。それは確かなことだった。
全うに、生きるのよ。曰牌のシン・ドンチャン。
その言葉が、過去と今の罪に汚れきったトンチャンの心の中で、いつまでも反芻され続けるのだった。
「お前ら、見つかるんじゃねぇぞ。ばれたらぶっ殺してやる」
「はい、兄貴。」
紙には何が書いてあるのか。そんなことはトンチャンにとって重要ではなかった。むしろこれに失敗すれば命を落とすという方が重要な案件だった。
都の目の付きそうなあらゆるところに紙を貼っていく部下を見ながら、トンチャンは周囲に気を配っていた。すると、偶然にも盗みをして逃げている最中のチョンドンがトンチャンと鉢合わせした。塀から降りた先が思いがけない人物の前だったので、思わずチョンドンは目を丸くした。
「あれ、兄貴。何してるんですか?」
「チ、チョンドン!?」
珍しく慌てている様子のトンチャンを見て、何かまずい現場に出くわしたことは明瞭だった。チョンドンはその場から適当に逃げようとしたが、このままではいけないと思ったトンチャンに首根っこを捕まえられた。
「おい。この事、絶対誰にも言うんじゃねぇぞ。いいな!」
「い、言いませんよ……離してください………」
安心したのか、乱暴にチョンドンを離すとトンチャンは次の場所へ向かった。残されたチョンドンは、物陰に隠れて貼り紙の内容を読んだ。
そこに書いてあったのは、大妃とその兄ユン・ウォニョンを筆頭とする大尹派が暴政をふるっているという内容だった。
「兄貴……………」
チョンドンはトンチャンがこのような大事に関わって悲しむ人を、一人だけ知っていた。
「ヒャンユンお嬢様…………」
彼はこの後に続くであろう対立に身震いすると、この事実をどうすべきか悩むのだった。
その日珍しくヒャンユンは眠れず、明かりの中で服を作っていた。作っているのはもちろん、トンチャンの服だった。裁縫が得意な彼女は、家に行ったときにこっそり服の寸法を確認していたのだ。
「喜ぶかな、トンチャン。」
その時だった。鋭い痛みがヒャンユンの指先に走る。痛みのあった部分を見てみると、針が少しだけ刺さっていた。引き抜いた部分からは球体状になった血が僅かに溢れている。
────何か不吉なことでもあったのかしら。
手拭いで血を拭いながら、ヒャンユンは不意にそんなことを考えた。だがすぐに偶然かと思うと、完成した服を着て喜ぶトンチャンの姿を思い浮かべて微笑んだ。
「さて、まだ起きてても良いわよね」
ヒャンユンの夜なべはまだ、終わりそうにもない。
翌日、各所に貼り巡らされた貼り紙を見て、ヒャンユンはいったい何事だろうかと思った。しかも内容はかなり問題のあるものだ。時の権威にたてつくような文を貼るなど、どういう神経をしているのだろうかと首謀者をあれこれ考えていると、そこに平服のカン・ソノがやって来た。今日は偶然見つけたらしく、ソノは僅かに動揺を露にした。
「あ………ヒャンユン……殿ですか」
「カン様!あの…………貼り紙、見ました?」
「ええ、見ましたよ。」
「捕盗庁の関係で来られたんですか?」
すると、ソノは苦笑いしながらこう返した。
「実は、休職しました。今は別の役職を探してもらっています」
「そうなんですか?残念です。」
「残念?」
「はい。父のことでお世話になったので恩返しをしなければと思っていたのですが、これからはお会いするのも大変そうですね」
僅かに期待を寄せていたソノは、社交辞令であることを見抜いて失望した。だがすぐにいつもの笑顔に戻ると、近くの本屋を指差してこう言った。
「あそこの店主にいつでも用件を言ってください。そうすればお会いできるように計らいます。」
「ありがとうございます。では、失礼します」
「あ、ああ………では………」
あっさりと去ってしまったヒャンユンの後ろ姿を止めることもできず、ソノはしばらく呆然としていた。だがやがてため息をつき、体探人らしい表情に戻ると貼り紙を観察し始めた。
────あれは間違いなく、大妃とチョン・ナンジョンが企てたことだ。今回は一体誰を首謀者に仕立てあげるつもりだ?
というのも、これは大妃と大尹派の常套手段だった。目障りな者に謀反の疑いをかけて処罰し、一掃する。ヒャンユンの父を流刑にしたのも、そういった類いの計略の一環だった。だが、ここでソノは一つ疑問に思った。
───動機は?何があったのだろうか?
もう少し調査が必要だなと静かに頷いたソノは踵を返し、雑踏のなかに溶け込んでいった。
一方、ヒャンユンは帰ってきたと同時に何かがおかしいと感じた。しかもいつもは気丈なウンスが泣いている。一体何が起きたのかと思ったヒャンユンは、ウンスに近づいてその背中をさすった。
「ウンス、何があったの?どうしたの?」
「テウォンさんが………テウォンさんが……捕盗庁に………」
「テウォン行首が?何故?」
「知らないわよ!!謀反の貼り紙と関係があるとか……」
「何ですって?謀反と?」
テウォンと謀反の貼り紙が何故結び付くのか。全く見当がつかないヒャンユンは、どうしたものかと狼狽した。すかさずトチが青ざめた顔で助言をする。
「お嬢様、急いで大行首様にお知らせしないと。商団存亡の危機です」
「わかった。典獄署へ行ってくるわ」
「お願い致します」
ヒャンユンはすぐに決断すると、裾を持って走り出して典獄署へまっすぐ向かった。だが、いつも通り面会を申し込もうとした手続きに何故か問題が生じた。
「あの………すみませんが、面会は出来ません」
「え?どうして?前は出来たでしょう?」
「すみません………」
役人が去った後、これはますますおかしいと思ったヒャンユンは、明らかに誰かがテウォンを孤立無援にさせようと企んでいるに違いないと踏んだ。そして頼れるのはあと一人しかいないと決意すると、最後の望みをかけてその人の元を訪ねるべく、典獄署の官舎へ向かった。
オクニョはすっとんきょうな声を上げると、驚いた様子でヒャンユンの手を引いて裏口に連れていった。
「正気!?私もテウォンさんを助けたいけど、こんなの危険すぎるわ。」
「それより、何があったの?知っているなら教えて」
オクニョは眉をひそめると、渋々説明を始めた。
「実は典獄署に入っていたイ・ミョンウという方と、紙の独占件をチョン・ナンジョン商団から奪う話を進めていたの。でも、その方は何者かに殺された。そしてありもしない謀反の主犯に仕立てあげられたの。」
「それとテウォン行首に何の関係が?」
「テウォンさんがあなたの商団には内密に進めたことだから、帳簿に彼の名前が載っていたの………」
「そんな…………」
一体何故そんなことをしようと思い立ったのか。ヒャンユンは立ちくらみを抑えてやっとのことで返事をした。
「………わかった。でも、やらなきゃ。私が会って話さないと。」
「…………何があっても保証はしないから。いい?」
「もちろん。やるしかない。」
二人は顔を見合わせて頷くと、洗濯室へ向かった。
洗濯室には茶女の服が山積みにされており、オクニョはそこから一式取り出すと、ヒャンユンに手渡して真剣な声でもう一度確かめた。
「本当に、やるのね?」
「うん。絶対にやらなきゃだめなの。」
「わかった。できる限り助けるけど、手助けできないこともあるから。」
「ありがとう、オクニョ。」
茶女の服を受け取ったヒャンユンは親友に一礼すると、人目につかない別室へ移動した。オクニョは部屋の前でそつなく仕事をしている振りをしながらも、誰か来ないだろうかと辺りを見張り始めるのだった。
ペッシテンギを含む髪飾り全てを外し、髪も地味な布で束ね上げ、すっかり茶女の格好になじんだヒャンユンはオクニョの後ろをついていった。
「…………牢に食事を届けるときに、中を確認する振りをして外に出る時間に落ち合うと言って。」
「わかった。」
「それと、署長とユ・ジョンフェ様には気を付けてね。」
「うん。」
誰か知らない者をどうやって気を付けるのかはよくわからないが、ヒャンユンはとりあえず返事をした。
二人で食事を届けるのはさすがに怪しまれるので、オクニョは気は進まないがヒャンユンを単独行動させることにした。どこから見ても茶女にしか見えない彼女は、自然に食事を渡すと、小声でジェミョンを呼んだ。
「あの………コン・ジェミョン大行首」
「なんだ。今は大行首でもないんだから、頼まれても何も…………って、おい────」
驚きで声が上ずるジェミョンの口を柵から入れた手で塞ぐと、ヒャンユンは小声で先程の計画を伝えた。
「静かに。外に出る自由時間に話がしたいの。面会が何故か出来ないから、そのときにしか機会はない。私も失敗しないようにするからお願いね、お父様。」
「わかった。そうしよう」
何とか上手くいったと胸を撫で下ろしたヒャンユンは、オクニョのもとに戻り静かに頷き、成功した旨を伝えた。
あとは用件を伝えれば終わり。もう一度気を引き締めたヒャンユンは、オクニョに案内されるまま倉庫へ隠れて息を潜めた。その間、頭の中では事の次第を必死に巡らせていた。
────一体、何が起きているの?やっぱり、またユン・ウォニョンとチョン・ナンジョン?でも、どうしてテウォン行首はナンジョンの商団と対立しようと?だとすればあの人が庶子であることに理由があるの?ああ、わからない!
考えれば考えるほど国家権力が絡んでいるような気がしてならないヒャンユンは、とめどない不安に駆られるようになった。そして同時に、トンチャンはどこまで知っているのだろうかという疑問も生じ始めた。一つを疑えば更にまた一つと疑わしく思えてしまう。そんな心理状態に陥ったヒャンユンは、とうとう頭を抱え込んだ。そして丁度不安が最高潮になろうとしている時、オクニョが再び迎えに来た。
「ヒャンユン、行くわよ」
「う、うん…ありがとう」
オクニョは顔色が悪そうなヒャンユンに気づくと、てを差し出して心配そうに顔を覗きこんだ。
「……大丈夫?」
「え、ええ。大丈夫。たぶん………」
「そう、ならいいわ」
ヒャンユンはオクニョの手を優しく取ると、立ち上がって父の元へ向かった。既に何か察しているらしいジェミョンは、落ち着かない様子で待っていた。
「お父様、テウォン行首が謀反の罪で捕らえられました。どうすれば良いのでしょうか」
「何?どういうことだ」
ヒャンユンは深呼吸すると、事の次第を全て話した。聞き終わり深刻な表情を浮かべたジェミョンは、分かったと一言だけ返すと娘に戻るよう指示をした。
とりあえず伝えられたということだけでも前進したとオクニョに慰められながら、ヒャンユンは着てきた服と飾りを入れた包みを持って典獄署を後にしようとした。ここで再び着替えては怪しまれるかもしれないというオクニョの案だった。
「じゃあ、気を付けてね。また今度」
「うん、ありがとう。」
親友に改めて礼を述べ、官舎から出ようとしたときだった。目の前からやって来た官吏の一人であるユ・ジョンフェがその姿に目を留めた。
「おっ……………?あんな茶女、居たっけな?」
オクニョとはまた違う美しさが漂うヒャンユンは、ジョンフェの好みそのものだった。職務中であることも忘れた彼はそのままヒャンユンに近づくと、低い背をごまかすために胸を張って声をかけた。
「おい、そこの茶女!」
「は、はい。なんでしょうか」
声も見た目に違わず可愛らしい様子で、思わずジョンフェは目を丸くしているヒャンユンの手を握った。もちろんヒャンユンの背中には、触れられた手の部分から背中に掛けて悪寒が走った。
「俺はユ・ジョンフェだ。そなた、名は?」
「わ、私ですか……?私は………」
名前を聞かれるとは思ってもみなくて、ヒャンユンは本名を告げるべきか一瞬躊躇した。だがここで嘘をつくのも問題なので、渋々彼女は名字を伏せて名前だけを伝えた。
「ヒャンユンと申します。」
「そうか。ヒャンユンか…………新入りだな。よし、もう行ってもよいぞ」
「は、はい………」
ようやく手を離してもらえたヒャンユンは、小走りでその場を離れると、典獄署の門を出てからは振り返らず全力疾走した。
一方ジョンフェはにやけながら腕を組んで歩いていた。
「ふふ、これで少しは典獄署勤めも楽しくなりそうだ」
その奇怪な様子を見ていた同僚のイ・ヒョソンが、隣でジョンフェを諌めた。
「何が楽しいのだ?」
「知らずとも良い!ああー幸せだ!」
首をかしげたヒョソンは、上機嫌そうなジョンフェを眺めながらため息を一つもらすのだった。
ヒャンユンは着替える部屋を貸してもらうため、ヨジュの店に駆け込んだ。
「すみません!部屋を貸してくれませんか?」
すると、偶然そこで部下と昼食をとっている最中だったトンチャンが、ヒャンユンの格好を二度見して叫んだ。
「おっ、おい!!!お前、なんて格好をしてるんだ!」
「ちょっと用事で、ね」
ヒャンユンが苦笑いを浮かべていると、顔立ちの良いトンチャンの部下が微笑みながら横から口を出してきた。
「どこから見ても典獄署の茶女ですけど、相変わらず綺麗というか可愛いですね」
「黙れこの野郎。俺の女に気安い口開くんじゃねぇ」
トンチャンは部下の頭を音が響くほど叩くと、今度はヒャンユンに向き直り、先程叩いた手と同じ手で優しくその頭を撫でた。
「お前は今日も可愛いなぁ…………」
「ト………トンチャン………」
「何だ、照れてるのか?ん?全く……どこまで俺を困らせたら気が済むんだ。ほら、早く着替えてこい。変な格好は止めろ」
「はぁい。」
ヒャンユンが包みを持って部屋に入ったのを見届け、部下は一言こう漏らした。
「………覗かないんですか?兄貴」
「お前は馬鹿か!俺がそんなこと………するわけ……ないだろ!」
顔を真っ赤にしてむきになっている姿を見て、これはまんざらでも無いのかもしれないと思った部下は、上司の弱味を見つけたような気がして勝ち誇ったような笑みを心の中で浮かべた。トンチャンは酒を自分でつぎ一杯あおると、ヒャンユンが入っていった部屋の戸にちらりと目をやって、また慌てて酒をつぐのだった。
ヒャンユンが部屋から出ると、そこには顔面蒼白になっているオクニョが立っていた。
「あの……どうしたの?オクニョ」
「あ…………安国洞の奥様が…………奥様が………!」
珍しく息を切らして冷静さを欠いているその様子に、何か非常事態が起きたことは明白だった。トンチャンは安国洞と聞いて、息を殺しながら耳をそばだてている。
「とにかく、来て!テウォンさんが居ない状況で奥様が倒れたの。お医者様も呼んであるわ。お願い、急いで!」
「わ、わかった。」
その話を聞いてトンチャンはすぐに毒の効果が現れたことに気づいた。だが、ここで一度ミョンソルに念を押しておかねばならない。そう思い立った彼は立ち上がると、ヒャンユンたちが走り去った道を冷ややかな面持ちで歩き出した。
口からは吐血しており、顔はすっかり青白くなってしまったキム氏の額に浮かんだ汗を拭いながら、ヒャンユンは涙をこぼさないように唇をかんだ。
「…………ヒャンユン…………ごめんなさいね…………こんな…………」
「いいんです、お母様。母の居ない私にとって、お母様は本当のお母様みたいなんですもの。」
「………どうしてこうなったかは、わかっているの。だから…………」
ヒャンユンはキム氏の手を取ると、その力のこもっていない手をしっかりと握りしめた。
「どうして?教えて。私が助けてあげるから」
「………いいえ、あなたを………巻き込む資格は………私にはないわ……」
静かに首を振る理由がわからず、ヒャンユンはついに涙をこぼした。
「そんなの……………そんなの…………あんまりです。私もオクニョやテウォン行首みたいに、誰かの役に立ちたい………大切な人を守りたいのに…………なのに……なのに………私はお母様のことも守れないなんて………」
肩を震わせて泣く少女の頭を優しく撫でたキム氏は、力の限りを尽くして微笑んだ。
「ヒャンユン……お前は本当に、やさしい子ね。こんな娘が……私と大監の間にも居れば………少しは寂しさも……」
「居てあげる!ユン・ウォニョン大監の娘じゃないけど、お母様が良いとおっしゃるなら私はお母様の子になります!私が娘になるから!だから……だから……」
「ありがとう………ヒャンユン…………」
ふと、キム氏の視界に黄金色の蝶が入ってきた。蝶は砂金のような美しい光の破片を散らしながら、ヒャンユンの左のこめかみに留まった。
「………綺麗な………
「蝶?…………どこにいます?」
キム氏はほらそこにと指を指そうとしたが、次の瞬間もう蝶は姿を消していた。
「……気のせいみたいだわ。……きっと疲れているのね。休むわ、ありがとう。」
「いいえ。お母様、お大事にね」
「ええ、そうするわね」
「おやすみなさい、お母様」
「おやすみ、ヒャンユン」
ヒャンユンは立ち上がると、床についたキム氏に振り返って微笑みかけた。病床のはずの彼女もまた、眩しい笑顔を返した。
これが母と慕う人の最期の姿であるとは、今のヒャンユンにはまだ想像もつかなかった。
帰り道、ヒャンユンはミョンソルを見かけたため、慰めようと思って近づこうとした。だが、その足取りは思わぬ理由で阻まれた。
────トンチャン?それに……あれはミン・ドンジュ大行首?
二人は何やら神妙な面持ちでミョンソルを囲んでいる。また、彼女はどこか怯えているようにすらも見えた。だがユン家の状況を知らないヒャンユンは、その様子を見てこう思った。
───きっと、正妻が病気だから大監とシネのお母様が、トンチャンたちを通して薬剤を渡したのね。自分が長年仕えている人があんな深刻な病気になったら、誰でも怯えてしまうわ………
何故だか話しかけるのも戸惑われ、ヒャンユンはその場を静かに立ち去った。そしてその様子を更に別の場所から見ていたオクニョは、医師に言われた言葉と台所で見つけた粉について思い返していた。
医師は目を丸くしてオクニョに粉を返した。
「これをどこで?こんなに高価な薬剤、なかなかありませんよ。これは清国から取り寄せなければならない毒薬です。徐々に身体を蝕み、自然に見せかけて死に至らせる恐ろしい薬です。」
「そうでしたか………」
それは、ミョンソルがキム氏に出す汁物に入れていたものだった。粉を混ぜている現場を見たとき、オクニョを邪険に扱ったのもこれで説明がつく。一緒に話を聞いていたテウォンも開いた口が塞がらない様子だった。
この事実を知れば、誰よりもなついていたヒャンユンはどうなるのだろうか。
オクニョはただそれが心配だった。そして、その裏に愛する人が関わっているということも知れば………到底耐えられる事実ではないだろう。
彼女はどうして、こんなにも真逆の人を求めてしまうのだろうか。理解に苦しみながらも、オクニョは同じく母のように慕う人を救うべく決意を固めるのだった。
帰宅したヒャンユンは、表情を落胆と絶望から驚きと困惑に瞬く間に変える羽目になった。
「お…………お父様………?」
「ヒャンユン。…………心配をかけたな」
そこにいたのは、父だった。少しやつれたような気はするが、入獄前と変わらぬ姿のジェミョンがそこにいた。ヒャンユンは涙目になって飛び付くと、その裾に取り付いて心を安らげた。
「お父様………お父様…………良かった……ご無事で…」
「釈放は、カン・ソノ様という方が職を退く前に計らってくれたらしい。捕盗庁から典獄署へ早くに移送されたのも同じ方のお力添えらしいが………お前、知り合いか?」
カン・ソノと聞いて、ヒャンユンはすぐに笑顔になった。
「ええ!そうよ!捕盗庁での面会をお許しくださった方なの。今は………官職には就いていないようだけど」
「そうか…………一度ご挨拶に行かないとな」
「私が言っておきます。……それより、せっかく釈放なのに浮かないお顔ですね」
ヒャンユンはジェミョンの顔を覗きこむと、どこか物憂げな様子であることに気づいた。苦笑いしたジェミョンは、娘の頭を不器用に撫でてこう言った。
「お前は、心配しなくていい。」
「そう……ですか」
「それより、留守中は随分頑張ってくれたらしいな。お前を行首にして良かった」
突然褒められたせいで、ヒャンユンはすっかり照れてしまった。ジェミョンも何やら恥ずかしくなったようで、上を向いて咳払いをしている。チャクトとトチはようやく戻り始めた日常にほっとすると、笑いながらその様子を眺めていた。
この数日後テウォンが釈放されたことにより、事件は一件落着を見せるのだった。
オクニョは拷問で傷を負ったテウォンを看病するために、安国洞へ通えないことを気にしていた。そこで彼女はヒャンユンの元に向かうと、薬剤を届けてほしいと頼み込んだ。
「お願いできるかしら?宜しくね」
「うん!いいよ!」
相変わらず元気な声で返事をしたヒャンユンだったが、オクニョが帰ってからある重要な案件を思い出した。
「あっ、商談があるんだった………どうしよう」
ヒャンユンは薬剤の包みと空を交互に見た。そして、妙案を閃いた。
唯一頼れる相手────シン・ドンチャンはヒャンユンと薬剤の包みを困惑の眼差しで往復した。彼は安国洞に何故行かねばならないのかと深くため息をついたものの、ヒャンユンの潤んでいる瞳に対して断ることも出来ず、勢いで承知してしまった。
そして今、トンチャンは安国洞のキム氏の門前に立っている。自分は一体何をしているのだろうか。流石にそんなことが頭を過ったが、慌てて振り払うと門をくぐってミョンソルを呼びつけた。
「おい、ミョンソル」
「は、はい……って、シン様がこ、こちらに何のご用です………?」
また脅されるのではと怯えているミョンソルは、トンチャンが手に持っている薬剤を見て、また毒の量を増やすのかと勘違いした。
「あっ……それを混ぜればいいんですか……?」
「馬鹿野郎。薬だ。頼まれたから届けに来たんだよ!」
「だっ、誰にです………?」
トンチャンは苛立って答えた。
「ヒャンユンだ。コン・ヒャンユン。コン・ジェミョンの娘だよ!」
「────まぁ………ヒャンユンからの使い?」
すると、ヒャンユンという名に反応したキム氏がわざわざ無理を押して外に出てきた。驚いたミョンソルは、心臓が飛び出そうなほどに飛び上がって挨拶をした。
「おっ、奥様!いけません!お部屋にお戻りください!」
キム氏は優しげに微笑むと、トンチャンをじっと見てから一瞬目を見開いた。
「いいえ、大丈夫よ。………あなたが、シン・ドンチャンね?」
「は、はい……って、何故ご存じで?」
「まぁ、色々話しはするわ。さ、入ってちょうだい。」
首をかしげたミョンソルに、きちんと出せよと薬を押し付けると、トンチャンは渋々部屋へ入った。
床に就こうとしたキム氏がふらついたため、トンチャンは咄嗟に手を貸した。もちろんすぐにこの状況に違和感を覚えた彼は、そそくさと手を貸し終えると床に座り、仏頂面で今まさに殺そうとしている人物に向きなおった。互いの奇怪な関係性に気づいているのかそうでないのか、キム氏は面白いものを見るかのように余裕げな笑みを浮かべた。
「………ヒャンユンがね、いつも教えてくれるのよ。最初は他愛もないことだったんだけれどもね……」
そう言うと、彼女は一つずつヒャンユンと話したことを回想しながら、トンチャンに独り言のように話していった。
ヒャンユンが安国洞に出入りするようになってから数日後。キム氏はその年だし、こんなに綺麗なのだから、婚約者や気になる人は居ないのかと尋ねた。するとヒャンユンは、はにかみながら小さく頷いた。
「………はい、居ます。」
「そうなの?どんな人?」
キム氏がそう聞くと、またヒャンユンは顔を赤らめながら答えた。
「………チョン・ナンジョン商団の、ミン・ドンジュ大行首の下で働く曰牌なんです。」
それを聞いたキム氏の表情が一瞬曇った。だがすぐに彼女はいつもの穏やかな顔に戻ると、今度はその人となりを尋ねた。
「ええと………とても、素敵な方です。優しくて、強くて、真面目で、しっかりしていて、とても格好いい方なんです。」
「そう。名前は?」
「トンチャン。シン・ドンチャンです」
「トンチャン…………東昌と書くの?」
「はい、そうです。」
「東から朝日が昇るように、ヒャンユンのことを幸せにする人なのね、きっと。」
「はい、そんな方です。」
そのときのヒャンユンの笑顔があまりに眩しくて、キム氏は思わず自分も笑顔の花を咲かせてしまった。
そこからトンチャンの話を聞くこと、そしてヒャンユンの恋慕っていることが溢れている笑顔を見ることが、いつしか彼女の楽しみになっていった。
トンチャンは話を聞き終わると、ため息混じりに尋ねた。
「…………たくさんお聞きになったんですね」
「ええ。初めて会ったときから、あの子の身分がばれたとき、それから………ああ、服を買ってあげたでしょう?あの服も着て見せてもらったわ」
「はは…………」
トンチャンは気恥ずかしさのあまりに空笑いをした。キム氏のことをヒャンユンは母のように慕っている。その事実が少なからずともトンチャンの良心をえぐりだした。
「そうそう。最近ね、ヒャンユンが訪ねるようになってから不思議な夢を見るようになったのよ。黄金色の蝶が出てくる夢を………」
「黄金色の…………蝶ですか?」
「ええ。と思っていたら、とうとう最近はヒャンユンの左こめかみに留まっている幻覚まで見てしまったわ」
もうろくしてしまったのだろうかと失笑するキム氏に対して、トンチャンは呟くように答えた。
「────ヒャンユンは、蝶のような人です」
「ヒャンユンが?どうして?」
トンチャンがその問いに答えるか否かを考えるより先に、その口が自然と記憶をなぞっていた。
「ヒャンユンと私が初めて会ったのは、市場通りでした。あのとき私は、彼女を蝶のようだと思いました。可憐で自由気ままに飛んでいると思ったら、途端に飛ぶのを止めて、場所も特に何も考えず羽を休める。それが最初は偶然、自分の肩に留まっただけだったんです。」
「そうなのね………じゃあ、今もヒャンユンはあなたの肩がお気に入りのようね」
「え……?」
キム氏は目を細めると、トンチャンの右肩に目をやった。その穏やかな笑みを見て、一目でトンチャンは今自分の肩に蝶が留まっているように見えていることに気づいた。
「………見えるんですか?」
「ええ。疲れているのかしら…………」
キム氏は目を閉じて、もう一度トンチャンの肩を見た。だがそこにはまだ蝶がいる。トンチャンに近づくよう手招きをすると、キム氏はその手を取った。
「…………トンチャン……あの子を……綺麗な蝶を、幸せにしてあげてちょうだいね。蝶が選んだ居場所は、あなたなのよ」
「俺を…………選んだ?」
「ええ。あなたは蝶が戻る場所なのよ。だから………」
小さくため息をついたキム氏は、今までに見たこともない鋭い表情をトンチャンに向けた。その全てを見透かしていると言いたげな表情に、思わず不安がトンチャンの体を駆け巡った。
「────全うに、生きるのよ。曰牌のシン・ドンチャン」
呆然としているトンチャンをよそに、キム氏は眠りについてしまった。冷たい目眩に襲われながら、彼は後ろめたさを感じながら部屋を後にした。
キム氏が蝶の幻を見たのは、毒に侵されたことによるものなのか、それとも本当に死に際に見たものだったのか。それは誰にもわからない。だが、蝶───ヒャンユンが、自分の戻る場所にトンチャンを選んだ。それは確かなことだった。
全うに、生きるのよ。曰牌のシン・ドンチャン。
その言葉が、過去と今の罪に汚れきったトンチャンの心の中で、いつまでも反芻され続けるのだった。