8、父と娘
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捕盗庁の牢に入れられたジェミョンは、柵越しに見える月を眺めながら遠い記憶を回顧していた。
ヒャンユンが養女になってすぐにジェミョンがしたことといえば、有り金はたいて新しい偽のコン・ヒャンユンとしての戸籍を作ってやったことだった。だから彼女の本当の出生時の四柱と今の四柱は、全く別の物だった。相見と併せて占わなければ、その不自然さは誰も気づかないはず。そうは思っていたが、やはりジェミョンはずっとヒャンユンの四柱を誰かに教えることはためらっていた。
けれどそんな先の見えない不安は、誰よりも愛らしく、明朗活発で聡明な娘が出来た喜びには勝てなかった。ヒャンユンのお陰で日々が楽しく、商売をして生きていく意味も見つけることができた。
もし、あのときヒャンユンがいなければ、自分は商団を畳んでいただろう。そう思う出来事は数えきれないほどにあった。だからこそ、ジェミョンは今回の出来事に無力感を覚えていた。
────チョン・ナンジョンにテウォンが対抗しようとする理由は、ユン・ウォニョン様の庶子だからということも、もうトチから聞いた。だが、どうして俺の周りにはこんなにあの二人と因縁を持つ人が集まるんだ?
そんなことを考える度にジェミョンは、近頃すべての真実が明かされる日が来てしまうので無いだろうかという恐怖にも襲われていた。
───あるべき場所に戻すべきか、このまま隠し通すべきか。せめてあの子の記憶が戻れば選択の余地も与えてやれるのに………
彼は牢のすきま風が通りそうな頼りない天井をあおぎ、ため息をついた。その有り様が自分に瓜二つであると思いながら。
早朝、ヒャンユンは商団の仕事をトチたちに任せて捕盗庁に赴いていた。脇目も振らず父と親しい武官の一人であるヤン・ドングに声を掛けると、ヒャンユンは自分が貯めた金を握らせて頼み込んだ。
「お願いです、父に会わせてください」
だが、ドングは意外にも金の入った巾着を返し、気まずそうな返答をした。
「お引き取りを。捕盗大将からの命で、お父様とは面会も差し入れも誰であろうと出来ないことになっているんです。」
「そんな…………どうしてですか?お願いです、父に会わせてください。せめてこれだけでも………」
ヒャンユンが差し入れを包んだ包みを渡そうとしても、ドングはかたくなに拒んだ。そして何度も食い下がるうちに、とうとうその場から逃げてしまった。
「………お父様…………」
ジェミョンはあまり丈夫でない人だった。だからしっかりと食事をとり、栄養をつけさせなければすぐにでも体調を壊す恐れがあった。きっと牢では大した食事も出されず、長時間の厳しい取り調べがあるはずだ。そう見込んだヒャンユンは、高価な朝鮮人参で作ったサムゲタンを冷めないように布でくるんで差し入れようと思ったのだ。だが、父には会えそうもない。刻々と冷めてしまう差し入れをどうしようかと落ち込んでいたヒャンユンの姿を、通りかかったカン・ソノが捉えた。
「これは………ヒャンユン殿。どうしたのですか?」
「あ………あの………父にはどうしても会えないのですか?それと、執事のチャクトさんにもお会いしたいんです」
物悲しそうな顔をして包みに目を落とすヒャンユンを見て、ソノは少し考えると捕盗庁の宿直室に連れていった。
「あの、カン様………」
「差し入れをこちらで移してください。温め直すことも出来ますよ」
「え………?」
目を丸くしているヒャンユンに失笑すると、ソノはにこりと微笑んだ。
「後の言い訳は私が考えます。ですから、ヒャンユン殿はお父上に会えますよ」
「本当ですか?ありがとうございます!ありがとうございます、カン様!」
「さぁ、早く準備しましょう。私もお手伝いします」
そう言って腕捲りを始めるソノを見て、ヒャンユンは再び驚いた。
「カン様がですか?」
「こう見えても、料理はするんですよ?」
「へぇ…意外……です」
体探人だから自給自足は当たり前だとは言えず、ソノは不思議な笑顔を浮かべて返事にすることにした。
包みを解いて手際よく火をいれるヒャンユンの姿に、ソノは思わず驚嘆した。
「サムゲタンを差し入れにするとは………」
「やっぱり変でしたか?」
「いえ。ご自分で作ったんですか?」
「はい!こう見えても、料理はするんですよ?」
先程のソノと同じ言葉をわざと繰り返したヒャンユンは、驚きっぱなしのソノに無邪気な笑顔を向けた。
その瞬間、高鳴った彼の心にようやく確かな自覚が芽生えた。
────私は…………この人を、慕っているのか?いや、あり得ない。体探人として生きることとなって以来、私に浮かれた思慕の念など………
ソノは突然の衝撃に立ちくらみを覚えたが、どうしてもこの気持ちが嘘だと思いたくて、もう一度ヒャンユンの方を見やった。だがその行為は、際限なく輝いて見えるその姿にときめく自分と更に向き合うことになるだけだった。
────そんな……おいソノ!この方を誰だと心得る!大尹派の由緒ある両班のご令嬢だぞ!節度をわきまえろ!
至って端から見ればいつもの冷静なカン・ソノだったが、その心中は思わぬ思慕に揺れていた。そんなことは露知らず、ヒャンユンは差し入れの準備を終えると、さっさとソノが呼んだ部下に連れられ面会室へ行ってしまった。残されたソノは深いため息をつくと、再びいつもの仕事に戻るために頬を一度自ら平手打ちするのだった。
面会室に縄を解かれて連れていかれたジェミョンとチャクトは、何事かと首をかしげながら部屋に入った。そしていつもの笑顔でそこに居るヒャンユンを見つけて驚くと、ジェミョンは隣に駆け寄って思わず涙した。
「ヒャンユンか!ヒャンユン…………ヒャンユン………ああ、俺の娘………どうしてここに?」
「知り合いの捕盗庁の方に手伝ってもらって、面会に来たの。二人とも、これ食べて元気を付けて」
「ありがとうございます、お嬢様……ってこれ、サムゲタンじゃないですか!どこでこんな高価な……」
チャクトは器に鼻を近づけると、独特な朝鮮人参の香りに悶絶した。ヒャンユンは相変わらずな姿に安心すると、二人に食器を渡して食べるように促した。
「上質な物のハネだから、気にしないで。」
「そうか………じゃあ有り難くいただこう。ありがとうな。」
ジェミョンは一口食べてまた悶絶するチャクトに失笑し、思い出したようにヒャンユンに言った。
「ああ、そうだ。何故か急に尋問が取り止めになってな。近々裁きを受けるまで典獄署に移送されるらしい。」
「あら、どうして?まだ尋問は続くはずなのに」
「さぁ、よくわからん。だが助かったの事実だ。恐らくそのうち罰金程度で釈放だ」
「どちらにせよ、良かった………」
本当に今回は大事になるところだった。商売の世界とは、どのような顛末が待っているかがわからないものであると言うことを、ヒャンユンは直に学んだ気がした。そして二人が美味しそうに食べているサムゲタンを眺めながら、後で人参をくれた人にも残った食材で作ってあげようと、密かに安堵の中で微笑むのだった。
朝鮮人参をくれた人────シン・ドンチャンは、独り暮らしのせいですっかり乱雑になっている部屋と、ほとんど使っていないことが丸分かりの調理場を、仕事から帰って以降ずっと大慌てで片付けていた。
「俺、思ってたよりも酷い環境に住んでいたんだな………」
掃除をしながらしみじみそう思ったトンチャンだったが、ふとこんな考えが頭の中を過った。
────いや、待てよ。ヒャンユンが嫁に来たら、住環境も料理も全部解決するんだよな。おいおい、まだあいつの料理が本当に上手いかどうかなんて………いや、この際やっぱ料理なんてもうどうでもいい。畜生、ミン・ドンジュ…………あの鬼大行首。ヒャンユンを嫁にもらったら、毎日何がなんでも定時に帰ってやる!
丁度そんな風な邪念に駆られたときだった。殺風景な何の華もない男の家には明らかに場違いなくらい、朗らかで可愛らしい声が響いた。
「ただいまぁ。今からご飯作るね」
「お、おう………って何だその言い方は」
まるで本当に嫁になったような言い方に、急に恥ずかしくなってきたトンチャンは雑巾を片付けて尋ねた。するとヒャンユンからは、案の定天真爛漫な返答が返ってきた。
「奥さんごっこ!……駄目?」
「いや、別に駄目ではないけど……な………」
「じゃあそうする!トンチャンが旦那様で、私が奥さんね!」
「………じゃあ俺が"お前"って呼ぶから、ヒャンユンも俺のことを“ あなた ”って呼ぶのか?」
「うーん………」
どうやら流石にそこまでは考えていなかったらしく、ヒャンユンはしばらく真剣に考えてから、にこりと笑ってこう言った。
「はい、“ あなた ”!」
「お……おう………」
良からぬことを妄想して独りにやけているトンチャンの隣をさっと過ぎて、ヒャンユンは先程と同じように手際よく食材を並べ始めた。
「あなたは特になにもすることないから、部屋でゆっくりしていらして」
さらりと酷いことを言う新妻役に、トンチャンは驚いて敷居の段差で躓きそうになった。
「は?いや、俺も手伝う。というか、火傷したり手を切ったりしたらどうするんだ。そもそも包丁持ったこと本当にあるのか?」
「うん!ある。じゃあそこで見てれば?あっ、つまみ食い厳禁だからね」
椅子に座らせたヒャンユンは郎君役の首についている贅肉をつまんで笑うと、言葉通り調理を始めた。
皮だけになっている鶏肉を手際よくさばき、高麗人参、もち米、松の実、ニンニクなどを中に入れたヒャンユンは、鍋に水を入れた状態にしてそのまま先程のものを入れて火にかけた。それから見た目からして線の細いヒャンユンが、一人で持つには明らかに重たそうな蓋を思っていたより軽々と持ち上げて横にのけると、予め洗っておいた普通の米を蒸すための用意をした。そしてトンチャンが心配する間もなく、水刺間の女官も目を見張るであろう見事な流れで、サムゲタンの下ごしらえは済んでしまった。
長めに煮込んでいる時間を利用して、ヒャンユンは更にナムルとチヂミも作り始めた。独り暮らしをしている普段には中々味わえない美味しそうな匂いにつられ、トンチャンは焼きたてのチヂミに手を伸ばした。すると、ヒャンユンはすかさずその手を叩いて頬をつねった。
「だぁめ!ちょっとは待てないの?」
「待つのは苦手なんだ!頼む。一口だけ………いたたたたた!!」
適当に頼み込んで甘えようとしている姿にも騙されず、ヒャンユンは容赦なく近くに置いてある使っていない木べらでその手を何度か叩いた。乾いた音とトンチャンの悲鳴が痛さを物語っている。
「駄目!もうちょっとで出来上がるから待つの!」
「焼きたてのチヂミが俺を呼んでる」
「私には聞こえないもん。あなたごと焼くわよ」
「ひぃ…………とんだ恐妻だな」
「あ、言ったわね?そうよ!私は恐妻だからね!でも婚約取り消しは認めないから」
二人はこの可笑しなやり取りに顔を見合わせて笑うと、すっかり夫婦ごっこに慣れてしまったお互いに驚いた。ヒャンユンは渋々チヂミを一枚だけ切り分けると、物欲しそうなトンチャンに渡した。
「はい、今回だけよ」
「流石はヒャンユン。俺の嫁だな」
「はいはい、あなた。」
トンチャンは一口食べただけで、その美味しさに目を丸くした。ヒャンユンは不味かったのだろうかと思い、心配そうに顔を覗きこんでいる。
「……大丈夫……?不味かった……?」
「いや!びっくりするほど美味かった!お前、すごいな。これならすぐにでも嫁に行ける」
「本当?……ありがとう。」
ヒャンユンははにかんで笑うと、出来上がったサムゲタンを器に移して部屋に持っていこうとした。すると、トンチャンがさっと代わりに台ごと軽々と持ちあげた。
「い、いいよ。私が持っていくから………」
「やめとけ。俺が持っていくから。戸を開けてくれ」
「は、はい」
部屋の戸を開けたヒャンユンは小綺麗にしてあるトンチャンの部屋を見て、流石だと感心した。
「部屋、綺麗ね」
「片付けたからな。ほら、座れ。」
ヒャンユンを座らせたトンチャンは、思い出したようにこう言った。
「…………他の男の家には、こんな風に不用心に行くなよ」
「うん。トンチャンだから来たの」
「ちげぇよ。俺でもちょっとは用心しろ」
「大丈夫だよ、トンチャンは優しいから。」
優しいなどと言われたことがなかったトンチャンは、その言葉にまた胸を締め付けられる思いを呼び覚ました。何と返せばいいのかわからず、黙々とサムゲタンを口に運んだ彼だったが、一口食べてすぐに目を輝かせた。
「おぉ……………美味い!やっぱりお前はいい嫁になると思うぜ」
「じゃあ、トンチャンのお嫁さんになるまでに、もーっと上手になっておくね」
特に深いことは考えずにそう発言したヒャンユンに、トンチャンは言葉を選びながらこんなことをいった。
「………いや。直ぐにでも………いいからな」
「え?」
包み隠した本音がうずき、ついトンチャンは語気を強めた。
「だから!直ぐにでも俺の嫁になればいいんだって。ジェミョン大行首様が釈放されたら、一緒に挨拶へ行こう」
「本当?いいの?やったぁ!トンチャン、大好き!」
ヒャンユンは大喜びすると、婚約者の背中にしがみついて首筋に頬をぴったり引っ付けて笑った。急に気恥ずかしくなり、トンチャンは食器を置いてヒャンユンの頭を乱雑に撫でた。
「分かった分かった!引っ付いたら食べれないだろ」
「あ、ごめん」
少し経ってから、二人は顔を見合わせて大笑いした。夫婦になれば、毎日がこんなに楽しく過ごせるのだろうか。そんなほのかな甘い期待を含んだサムゲタンは、いつもよりも美味しく思えるのだった。
尋問期間が早くに切り上げられたジェミョンたちは、典獄署に収監されることとなった。しかしテウォンが予め支払っておいた賄賂により、その待遇は捕盗庁のときよりも格段に上がった。ジェミョンは牢に入りながら、同室になったチャクトに尋ねた。
「おい、いくら払ったんだ」
「500両くらいですかね」
「全く…………」
ジェミョンはため息をつくと、拳を握りしめて地面を睨み付けながら震える声でこう言った。
「───その金は、チョン・ナンジョンから必ず奪い返してやる。やられっぱなしでたまるか」
脳裏には苦労を強いられるヒャンユンの姿が浮かんだ。あの子のためにも、このままではいけない。ジェミョンは政争に身を投じる覚悟を込めた瞳で、柵から覗く僅かな青空を見据えるのだった。
ジェミョンが移送されて数日後のことだった。ヒャンユンの耳に、信じがたい事件が飛び込んできた。
「えっ?ユン・ウォニョン大監が捕らえられ、典獄署に?」
「そうなのよ!誰だか知らないけど、とりあえず叔父さんの仇は一本とったわ!」
一体何が起きてこんなことになったのか。あまりに唐突すぎて喜ぶべきか些か微妙だったが、ヒャンユンはウンスの調子に合わせて頷いた。そしてふと典獄署という言葉を聞き、久しぶりにオクニョの元でも訪ねてみようかと思い立った。
ヒャンユンが典獄署に行くと、養父のチョンドクが現れて安国洞にいると返事が返ってきた。
「安国洞?そんなところに知り合いが居たのかしら…?」
「お探しならそちらを当たってください」
不思議に思いながらも安国洞へ足を運んだヒャンユンは、ちょうどテウォンとオクニョが歩いている現場に出くわした。
「えっ、オクニョ?テウォン行首?」
「あ!ヒャンユン!私を探してたの?」
ヒャンユンはオクニョに駆け寄ると、二人をまじまじと観察し始めた。
「うん。随分仲が良さそうだけど、知り合い?」
「そうです。知り合いです」
仲が良さそうという言葉に、僅かながら反応したオクニョを見逃さなかったヒャンユンは、にやけながら何度も頷いて微笑んだ。
「へぇ………そうなんだぁ…………」
「ね、ねぇ、ヒャンユンも安国洞の奥様にお通ししてもいい?」
「ああ、もちろん。きっと喜ばれる」
「安国洞の奥様?」
「行けばわかるわ」
話題を変えたオクニョはてウォンにそう尋ねた。もちろんヒャンユンの方は、安国洞の奥様が誰であるのかは全く知らないので、ただ首をかしげてついていくしかなかった。
簡素な屋敷に案内されたヒャンユンは、物腰が柔らかく、万人の母親になれそうなくらいに器が広く見受けられる女性に出迎えられた。
「あら、テウォンにオクニョ。こちらはどなた?」
「私が世話になっている商団の大行首、コン・ジェミョン様のお嬢様です」
「そう、ジェミョン大行首の…………可愛らしいお嬢さんね」
「そ、そんな……とんでもない………」
安国洞の奥様────ユン・ウォニョンの正妻であり、ナンジョンに追い出されたキム氏は微笑むと、純粋で無邪気ながらも聡明なヒャンユンをすぐに気に入った。物心、というよりジェミョンの娘となったときから母が居なかったヒャンユンは、同じく母が居ないオクニョと同様、娘同然に受け入れられた。
「嬉しいわ、私に娘がもう一人増えたなんて。」
「えへへ。」
ふとヒャンユンは、部屋の外でこちらを伺う侍女に気づくと、傍に駆け寄って声をかけた。
「初めまして、ヒャンユンです。」
「…………ミョンソルです。」
「ミョンソルは幼い頃から母上にお仕えしているので、幼馴染みも同然です。な、ミョンソル」
テウォンがそう紹介すると、先程まで仏頂面を決め込んでいたミョンソルの表情に明るさが戻った。
「はい、若様」
「えっ、若様?」
その言葉に目を丸くしたヒャンユンに、テウォンは気まずそうに返事をした。
「………俺は、ユン・ウォニョン様の庶子なんです。妾だった母が捨てられて以来、俺は安国洞の奥様に育てられたのです」
「そう………だったの…………」
思わぬ心の傷を知ったヒャンユンは、どこかいつも憂いを帯びているテウォンの表情の意味を初めて知った。かける言葉も見当たらず、ヒャンユンはただ地面を見るしか出来なかった。
ヒャンユンが次にミョンソルを見たのは、またもや覗き見をしている所だった。
「何してるの?」
「ひゃっ!!!!おっ、驚かせないでよ!」
大きく愛らしい目を見開いて怒るミョンソルが可愛らしくて、ヒャンユンは怒られているのに笑いながら返答した。そして、先程思ったことを聞いてみた。
「ごめんごめん。ねぇ、ひょっとしてテウォン行首のことが好きなの?」
「えっ……………なっ、なんでそんなこと思うのよ!」
「だって、嬉しそうだったから。」
「……………あなたもどうせ、若様の取り巻きの一人でしょ?」
すっかりふてくされてしまったミョンソルを見て、ヒャンユンはますます大笑いした。
「なっ、何がおかしいのよ!」
「だって、みんな本当にテウォン行首を好きになるんだもの。これじゃ私が変みたいじゃない」
「だったら、あなたは誰が好きなのよ」
ヒャンユンは少し考えると、悪戯っ子のような笑顔を浮かべて口に指を当てた。
「えへへ……………内緒。でも、テウォン行首じゃないから。安心して」
それを聞いて警戒心を解いたらしいミョンソルは、ほっと胸を撫で下ろした。ヒャンユンはそんな彼女の背中をばしっと叩くと、頑張れと一言声をかけてその場を後にするのだった。
まさかこのときミョンソルが既に恐ろしい計画に荷担しており、そこに自分の想い人が関与しているとは、まだヒャンユンは知る由もなかった。
オクニョとヒャンユンが安国洞から帰るために歩いていると、向こうからトンチャンが歩いてきた。ヒャンユンはすぐに気づくと、大声で手を振ってその名を呼んだ。
「トンチャンー!」
「おっ、ヒャンユンじゃねぇか。こんなところで何してる?」
「あのねあのね、オクニョと一緒に安国洞にいたの!そこの奥様がとってもいい人で、お母様って呼んでいいって言ってくれたの!」
それを聞いて一瞬トンチャンの瞳が曇る。その背筋が凍るほど冷たい表情をオクニョは見逃さなかった。だがトンチャンはすぐに元の表情に戻ると、ヒャンユンの頭を撫でて笑った。
「そうか。……で、そちらがオクニョって人か?」
「うん!私の親友なの。」
オクニョが軽く会釈をすると、トンチャンも渋々会釈を返した。ヒャンユンは不思議そうな顔をしているオクニョに、耳打ちをしてこう言った。
「あのね、この人がこの前言ってた人なの」
「えっ?婚約者の……?」
言われてみて再度ちらりと見ても、オクニョのトンチャンに対する印象はあまり良いものではなかった。実はオクニョは体探人という密偵の職に一時期就いており、その時に様々な人々に接していた。トンチャンの目は、誰かを手にかけることさえ厭わない、同じ界隈の目であるようにオクニョには映っていた。もちろんそんなことは考えもしないヒャンユンは、親友に相を見るようにせがんだ。
「うん。どう?素敵な人でしょ?ねぇ、オクニョ。相を見るのが得意なんでしょ?この人のも見てみてよ!」
オクニョは気を引き締めてトンチャンに向き直ると、じっとその相を見極め始めた。
────目立って危険な相ではないのに………どうして気になるのかしら………
彼女が適当な返事をしようとしたときだった。目の結膜に僅かな特徴が見えた。息を呑んでしまいそうになるのを必死で抑え、オクニョはもう一度しっかり観察をし直した。だが、やはり結果は同じだった。ヒャンユンが流石に気になり、どうしたのかと尋ねようとしたが丁度そこにテウォンがやって来た。
「すまない、待たせたな。…………って、トンチャン?」
「おっ………おお…………テウォンか………」
トンチャンの顔が引きつる。この世で最も苦手とするユン・テウォンが、物珍しいものでも見るような顔でこちらを見ているからだ。丁度良いときに来てくれたものだと思ったオクニョは、相のことをはぐらかすためにテウォンの隣に駆け寄った。
「ああ…………ええと………」
トンチャンとヒャンユンの関係に触れても良いものか迷ったテウォンだが、そんな葛藤も知らないオクニョはあっさりとこう言った。
「あ、私の親友のヒャンユンです。………ジェミョン大行首のお嬢様ですから、ご存じですよね?」
「あ、ああ…………そうだな」
「じゃあ、このトンチャンって方と親しいこともご存じですよね?」
「えっ?そ、そうなのか?知らなかったな………はは…」
テウォンは気まずそうにしながら、苦笑いをヒャンユンとトンチャンに向けた。もちろんトンチャンの方はにこりともせず、この世にはお前が軽蔑するような男を好きになる女も居るんだぞという思いを込めて、むしろ隠しもせずヒャンユンの手を握った。
「まぁ、そういうことだ。」
────何が気まずいんだ?俺にこんな良い女がいることか?
トンチャンは片眉をつり上げ、口の端を歪めながら笑いかけた。
「なるほどな。ま、大行首様には黙っておいてやるから」
────世の中、妙なこともあるもんだな……
二人はにこりともせず互いに向きを変え、それぞれの方向に歩きだした。もちろんヒャンユンはトンチャンと手を繋いだまま同じ方向へ歩き出すのだった。
トンチャンはヒャンユンを商団の近くまで送ると、ミン・ドンジュの元へ報告へ向かった。
「それで、どうなっている?」
いつも通り冷静なドンジュに、トンチャンはヒャンユンに見せている優しく暖かみのある姿とは真逆で、淡々と恐ろしい事実を並べ始めた。
「はい。安国洞の正妻にミョンソルは毒を盛り続けています。既に効果が現れ始めているようです。ただ、気がかりなことが一つ………」
「何だ?」
「オクニョという女とユン・テウォンが、頻繁に安国洞へ通っています。それと………」
コン・ジェミョンの娘も、と言おうとしてトンチャンは言葉を詰まらせた。
────巻き込むなんて………出来ない。
「どうしたのだ。早くせぬか」
「あ、いえ………下女のことは引き続き部下に見張らせます。」
「わかった。もし事が露見しそうになったら、迷いなく息の根を止めよ。良いな」
「はい。」
そう、オクニョが見抜いていたトンチャンのもう一つの顔は、決して思い過ごしではなかったのだ。手を汚す行いさえ躊躇なく実行する曰牌として、七牌市場に居たときから有名だった彼を引き抜いたことをドンジュは改めて正解だったと確信した。ただ、トンチャンの中には僅かな不安が芽生えていた。
────俺にはいつか……………いつか、ヒャンユンを手にかけなければならない日が来る気がしてならない。そのときに、俺はどうするのだろう。俺には、あの人たちに逆らってでもヒャンユンを救うことが出来るのだろうか。
その悩みは日に日に大きく膨らみ、留まることを知らない。ヒャンユンの笑顔を見るたびに、心が痛む。自分にもこんな良心があったなんて、とその度にトンチャンは気づかされていた。そしていつも、その日が来ないことを心の中で祈りながら自分は笑顔を返すことしか出来ない。
二人の恋に、最初の影が射そうとしていた。
ヒャンユンが養女になってすぐにジェミョンがしたことといえば、有り金はたいて新しい偽のコン・ヒャンユンとしての戸籍を作ってやったことだった。だから彼女の本当の出生時の四柱と今の四柱は、全く別の物だった。相見と併せて占わなければ、その不自然さは誰も気づかないはず。そうは思っていたが、やはりジェミョンはずっとヒャンユンの四柱を誰かに教えることはためらっていた。
けれどそんな先の見えない不安は、誰よりも愛らしく、明朗活発で聡明な娘が出来た喜びには勝てなかった。ヒャンユンのお陰で日々が楽しく、商売をして生きていく意味も見つけることができた。
もし、あのときヒャンユンがいなければ、自分は商団を畳んでいただろう。そう思う出来事は数えきれないほどにあった。だからこそ、ジェミョンは今回の出来事に無力感を覚えていた。
────チョン・ナンジョンにテウォンが対抗しようとする理由は、ユン・ウォニョン様の庶子だからということも、もうトチから聞いた。だが、どうして俺の周りにはこんなにあの二人と因縁を持つ人が集まるんだ?
そんなことを考える度にジェミョンは、近頃すべての真実が明かされる日が来てしまうので無いだろうかという恐怖にも襲われていた。
───あるべき場所に戻すべきか、このまま隠し通すべきか。せめてあの子の記憶が戻れば選択の余地も与えてやれるのに………
彼は牢のすきま風が通りそうな頼りない天井をあおぎ、ため息をついた。その有り様が自分に瓜二つであると思いながら。
早朝、ヒャンユンは商団の仕事をトチたちに任せて捕盗庁に赴いていた。脇目も振らず父と親しい武官の一人であるヤン・ドングに声を掛けると、ヒャンユンは自分が貯めた金を握らせて頼み込んだ。
「お願いです、父に会わせてください」
だが、ドングは意外にも金の入った巾着を返し、気まずそうな返答をした。
「お引き取りを。捕盗大将からの命で、お父様とは面会も差し入れも誰であろうと出来ないことになっているんです。」
「そんな…………どうしてですか?お願いです、父に会わせてください。せめてこれだけでも………」
ヒャンユンが差し入れを包んだ包みを渡そうとしても、ドングはかたくなに拒んだ。そして何度も食い下がるうちに、とうとうその場から逃げてしまった。
「………お父様…………」
ジェミョンはあまり丈夫でない人だった。だからしっかりと食事をとり、栄養をつけさせなければすぐにでも体調を壊す恐れがあった。きっと牢では大した食事も出されず、長時間の厳しい取り調べがあるはずだ。そう見込んだヒャンユンは、高価な朝鮮人参で作ったサムゲタンを冷めないように布でくるんで差し入れようと思ったのだ。だが、父には会えそうもない。刻々と冷めてしまう差し入れをどうしようかと落ち込んでいたヒャンユンの姿を、通りかかったカン・ソノが捉えた。
「これは………ヒャンユン殿。どうしたのですか?」
「あ………あの………父にはどうしても会えないのですか?それと、執事のチャクトさんにもお会いしたいんです」
物悲しそうな顔をして包みに目を落とすヒャンユンを見て、ソノは少し考えると捕盗庁の宿直室に連れていった。
「あの、カン様………」
「差し入れをこちらで移してください。温め直すことも出来ますよ」
「え………?」
目を丸くしているヒャンユンに失笑すると、ソノはにこりと微笑んだ。
「後の言い訳は私が考えます。ですから、ヒャンユン殿はお父上に会えますよ」
「本当ですか?ありがとうございます!ありがとうございます、カン様!」
「さぁ、早く準備しましょう。私もお手伝いします」
そう言って腕捲りを始めるソノを見て、ヒャンユンは再び驚いた。
「カン様がですか?」
「こう見えても、料理はするんですよ?」
「へぇ…意外……です」
体探人だから自給自足は当たり前だとは言えず、ソノは不思議な笑顔を浮かべて返事にすることにした。
包みを解いて手際よく火をいれるヒャンユンの姿に、ソノは思わず驚嘆した。
「サムゲタンを差し入れにするとは………」
「やっぱり変でしたか?」
「いえ。ご自分で作ったんですか?」
「はい!こう見えても、料理はするんですよ?」
先程のソノと同じ言葉をわざと繰り返したヒャンユンは、驚きっぱなしのソノに無邪気な笑顔を向けた。
その瞬間、高鳴った彼の心にようやく確かな自覚が芽生えた。
────私は…………この人を、慕っているのか?いや、あり得ない。体探人として生きることとなって以来、私に浮かれた思慕の念など………
ソノは突然の衝撃に立ちくらみを覚えたが、どうしてもこの気持ちが嘘だと思いたくて、もう一度ヒャンユンの方を見やった。だがその行為は、際限なく輝いて見えるその姿にときめく自分と更に向き合うことになるだけだった。
────そんな……おいソノ!この方を誰だと心得る!大尹派の由緒ある両班のご令嬢だぞ!節度をわきまえろ!
至って端から見ればいつもの冷静なカン・ソノだったが、その心中は思わぬ思慕に揺れていた。そんなことは露知らず、ヒャンユンは差し入れの準備を終えると、さっさとソノが呼んだ部下に連れられ面会室へ行ってしまった。残されたソノは深いため息をつくと、再びいつもの仕事に戻るために頬を一度自ら平手打ちするのだった。
面会室に縄を解かれて連れていかれたジェミョンとチャクトは、何事かと首をかしげながら部屋に入った。そしていつもの笑顔でそこに居るヒャンユンを見つけて驚くと、ジェミョンは隣に駆け寄って思わず涙した。
「ヒャンユンか!ヒャンユン…………ヒャンユン………ああ、俺の娘………どうしてここに?」
「知り合いの捕盗庁の方に手伝ってもらって、面会に来たの。二人とも、これ食べて元気を付けて」
「ありがとうございます、お嬢様……ってこれ、サムゲタンじゃないですか!どこでこんな高価な……」
チャクトは器に鼻を近づけると、独特な朝鮮人参の香りに悶絶した。ヒャンユンは相変わらずな姿に安心すると、二人に食器を渡して食べるように促した。
「上質な物のハネだから、気にしないで。」
「そうか………じゃあ有り難くいただこう。ありがとうな。」
ジェミョンは一口食べてまた悶絶するチャクトに失笑し、思い出したようにヒャンユンに言った。
「ああ、そうだ。何故か急に尋問が取り止めになってな。近々裁きを受けるまで典獄署に移送されるらしい。」
「あら、どうして?まだ尋問は続くはずなのに」
「さぁ、よくわからん。だが助かったの事実だ。恐らくそのうち罰金程度で釈放だ」
「どちらにせよ、良かった………」
本当に今回は大事になるところだった。商売の世界とは、どのような顛末が待っているかがわからないものであると言うことを、ヒャンユンは直に学んだ気がした。そして二人が美味しそうに食べているサムゲタンを眺めながら、後で人参をくれた人にも残った食材で作ってあげようと、密かに安堵の中で微笑むのだった。
朝鮮人参をくれた人────シン・ドンチャンは、独り暮らしのせいですっかり乱雑になっている部屋と、ほとんど使っていないことが丸分かりの調理場を、仕事から帰って以降ずっと大慌てで片付けていた。
「俺、思ってたよりも酷い環境に住んでいたんだな………」
掃除をしながらしみじみそう思ったトンチャンだったが、ふとこんな考えが頭の中を過った。
────いや、待てよ。ヒャンユンが嫁に来たら、住環境も料理も全部解決するんだよな。おいおい、まだあいつの料理が本当に上手いかどうかなんて………いや、この際やっぱ料理なんてもうどうでもいい。畜生、ミン・ドンジュ…………あの鬼大行首。ヒャンユンを嫁にもらったら、毎日何がなんでも定時に帰ってやる!
丁度そんな風な邪念に駆られたときだった。殺風景な何の華もない男の家には明らかに場違いなくらい、朗らかで可愛らしい声が響いた。
「ただいまぁ。今からご飯作るね」
「お、おう………って何だその言い方は」
まるで本当に嫁になったような言い方に、急に恥ずかしくなってきたトンチャンは雑巾を片付けて尋ねた。するとヒャンユンからは、案の定天真爛漫な返答が返ってきた。
「奥さんごっこ!……駄目?」
「いや、別に駄目ではないけど……な………」
「じゃあそうする!トンチャンが旦那様で、私が奥さんね!」
「………じゃあ俺が"お前"って呼ぶから、ヒャンユンも俺のことを“ あなた ”って呼ぶのか?」
「うーん………」
どうやら流石にそこまでは考えていなかったらしく、ヒャンユンはしばらく真剣に考えてから、にこりと笑ってこう言った。
「はい、“ あなた ”!」
「お……おう………」
良からぬことを妄想して独りにやけているトンチャンの隣をさっと過ぎて、ヒャンユンは先程と同じように手際よく食材を並べ始めた。
「あなたは特になにもすることないから、部屋でゆっくりしていらして」
さらりと酷いことを言う新妻役に、トンチャンは驚いて敷居の段差で躓きそうになった。
「は?いや、俺も手伝う。というか、火傷したり手を切ったりしたらどうするんだ。そもそも包丁持ったこと本当にあるのか?」
「うん!ある。じゃあそこで見てれば?あっ、つまみ食い厳禁だからね」
椅子に座らせたヒャンユンは郎君役の首についている贅肉をつまんで笑うと、言葉通り調理を始めた。
皮だけになっている鶏肉を手際よくさばき、高麗人参、もち米、松の実、ニンニクなどを中に入れたヒャンユンは、鍋に水を入れた状態にしてそのまま先程のものを入れて火にかけた。それから見た目からして線の細いヒャンユンが、一人で持つには明らかに重たそうな蓋を思っていたより軽々と持ち上げて横にのけると、予め洗っておいた普通の米を蒸すための用意をした。そしてトンチャンが心配する間もなく、水刺間の女官も目を見張るであろう見事な流れで、サムゲタンの下ごしらえは済んでしまった。
長めに煮込んでいる時間を利用して、ヒャンユンは更にナムルとチヂミも作り始めた。独り暮らしをしている普段には中々味わえない美味しそうな匂いにつられ、トンチャンは焼きたてのチヂミに手を伸ばした。すると、ヒャンユンはすかさずその手を叩いて頬をつねった。
「だぁめ!ちょっとは待てないの?」
「待つのは苦手なんだ!頼む。一口だけ………いたたたたた!!」
適当に頼み込んで甘えようとしている姿にも騙されず、ヒャンユンは容赦なく近くに置いてある使っていない木べらでその手を何度か叩いた。乾いた音とトンチャンの悲鳴が痛さを物語っている。
「駄目!もうちょっとで出来上がるから待つの!」
「焼きたてのチヂミが俺を呼んでる」
「私には聞こえないもん。あなたごと焼くわよ」
「ひぃ…………とんだ恐妻だな」
「あ、言ったわね?そうよ!私は恐妻だからね!でも婚約取り消しは認めないから」
二人はこの可笑しなやり取りに顔を見合わせて笑うと、すっかり夫婦ごっこに慣れてしまったお互いに驚いた。ヒャンユンは渋々チヂミを一枚だけ切り分けると、物欲しそうなトンチャンに渡した。
「はい、今回だけよ」
「流石はヒャンユン。俺の嫁だな」
「はいはい、あなた。」
トンチャンは一口食べただけで、その美味しさに目を丸くした。ヒャンユンは不味かったのだろうかと思い、心配そうに顔を覗きこんでいる。
「……大丈夫……?不味かった……?」
「いや!びっくりするほど美味かった!お前、すごいな。これならすぐにでも嫁に行ける」
「本当?……ありがとう。」
ヒャンユンははにかんで笑うと、出来上がったサムゲタンを器に移して部屋に持っていこうとした。すると、トンチャンがさっと代わりに台ごと軽々と持ちあげた。
「い、いいよ。私が持っていくから………」
「やめとけ。俺が持っていくから。戸を開けてくれ」
「は、はい」
部屋の戸を開けたヒャンユンは小綺麗にしてあるトンチャンの部屋を見て、流石だと感心した。
「部屋、綺麗ね」
「片付けたからな。ほら、座れ。」
ヒャンユンを座らせたトンチャンは、思い出したようにこう言った。
「…………他の男の家には、こんな風に不用心に行くなよ」
「うん。トンチャンだから来たの」
「ちげぇよ。俺でもちょっとは用心しろ」
「大丈夫だよ、トンチャンは優しいから。」
優しいなどと言われたことがなかったトンチャンは、その言葉にまた胸を締め付けられる思いを呼び覚ました。何と返せばいいのかわからず、黙々とサムゲタンを口に運んだ彼だったが、一口食べてすぐに目を輝かせた。
「おぉ……………美味い!やっぱりお前はいい嫁になると思うぜ」
「じゃあ、トンチャンのお嫁さんになるまでに、もーっと上手になっておくね」
特に深いことは考えずにそう発言したヒャンユンに、トンチャンは言葉を選びながらこんなことをいった。
「………いや。直ぐにでも………いいからな」
「え?」
包み隠した本音がうずき、ついトンチャンは語気を強めた。
「だから!直ぐにでも俺の嫁になればいいんだって。ジェミョン大行首様が釈放されたら、一緒に挨拶へ行こう」
「本当?いいの?やったぁ!トンチャン、大好き!」
ヒャンユンは大喜びすると、婚約者の背中にしがみついて首筋に頬をぴったり引っ付けて笑った。急に気恥ずかしくなり、トンチャンは食器を置いてヒャンユンの頭を乱雑に撫でた。
「分かった分かった!引っ付いたら食べれないだろ」
「あ、ごめん」
少し経ってから、二人は顔を見合わせて大笑いした。夫婦になれば、毎日がこんなに楽しく過ごせるのだろうか。そんなほのかな甘い期待を含んだサムゲタンは、いつもよりも美味しく思えるのだった。
尋問期間が早くに切り上げられたジェミョンたちは、典獄署に収監されることとなった。しかしテウォンが予め支払っておいた賄賂により、その待遇は捕盗庁のときよりも格段に上がった。ジェミョンは牢に入りながら、同室になったチャクトに尋ねた。
「おい、いくら払ったんだ」
「500両くらいですかね」
「全く…………」
ジェミョンはため息をつくと、拳を握りしめて地面を睨み付けながら震える声でこう言った。
「───その金は、チョン・ナンジョンから必ず奪い返してやる。やられっぱなしでたまるか」
脳裏には苦労を強いられるヒャンユンの姿が浮かんだ。あの子のためにも、このままではいけない。ジェミョンは政争に身を投じる覚悟を込めた瞳で、柵から覗く僅かな青空を見据えるのだった。
ジェミョンが移送されて数日後のことだった。ヒャンユンの耳に、信じがたい事件が飛び込んできた。
「えっ?ユン・ウォニョン大監が捕らえられ、典獄署に?」
「そうなのよ!誰だか知らないけど、とりあえず叔父さんの仇は一本とったわ!」
一体何が起きてこんなことになったのか。あまりに唐突すぎて喜ぶべきか些か微妙だったが、ヒャンユンはウンスの調子に合わせて頷いた。そしてふと典獄署という言葉を聞き、久しぶりにオクニョの元でも訪ねてみようかと思い立った。
ヒャンユンが典獄署に行くと、養父のチョンドクが現れて安国洞にいると返事が返ってきた。
「安国洞?そんなところに知り合いが居たのかしら…?」
「お探しならそちらを当たってください」
不思議に思いながらも安国洞へ足を運んだヒャンユンは、ちょうどテウォンとオクニョが歩いている現場に出くわした。
「えっ、オクニョ?テウォン行首?」
「あ!ヒャンユン!私を探してたの?」
ヒャンユンはオクニョに駆け寄ると、二人をまじまじと観察し始めた。
「うん。随分仲が良さそうだけど、知り合い?」
「そうです。知り合いです」
仲が良さそうという言葉に、僅かながら反応したオクニョを見逃さなかったヒャンユンは、にやけながら何度も頷いて微笑んだ。
「へぇ………そうなんだぁ…………」
「ね、ねぇ、ヒャンユンも安国洞の奥様にお通ししてもいい?」
「ああ、もちろん。きっと喜ばれる」
「安国洞の奥様?」
「行けばわかるわ」
話題を変えたオクニョはてウォンにそう尋ねた。もちろんヒャンユンの方は、安国洞の奥様が誰であるのかは全く知らないので、ただ首をかしげてついていくしかなかった。
簡素な屋敷に案内されたヒャンユンは、物腰が柔らかく、万人の母親になれそうなくらいに器が広く見受けられる女性に出迎えられた。
「あら、テウォンにオクニョ。こちらはどなた?」
「私が世話になっている商団の大行首、コン・ジェミョン様のお嬢様です」
「そう、ジェミョン大行首の…………可愛らしいお嬢さんね」
「そ、そんな……とんでもない………」
安国洞の奥様────ユン・ウォニョンの正妻であり、ナンジョンに追い出されたキム氏は微笑むと、純粋で無邪気ながらも聡明なヒャンユンをすぐに気に入った。物心、というよりジェミョンの娘となったときから母が居なかったヒャンユンは、同じく母が居ないオクニョと同様、娘同然に受け入れられた。
「嬉しいわ、私に娘がもう一人増えたなんて。」
「えへへ。」
ふとヒャンユンは、部屋の外でこちらを伺う侍女に気づくと、傍に駆け寄って声をかけた。
「初めまして、ヒャンユンです。」
「…………ミョンソルです。」
「ミョンソルは幼い頃から母上にお仕えしているので、幼馴染みも同然です。な、ミョンソル」
テウォンがそう紹介すると、先程まで仏頂面を決め込んでいたミョンソルの表情に明るさが戻った。
「はい、若様」
「えっ、若様?」
その言葉に目を丸くしたヒャンユンに、テウォンは気まずそうに返事をした。
「………俺は、ユン・ウォニョン様の庶子なんです。妾だった母が捨てられて以来、俺は安国洞の奥様に育てられたのです」
「そう………だったの…………」
思わぬ心の傷を知ったヒャンユンは、どこかいつも憂いを帯びているテウォンの表情の意味を初めて知った。かける言葉も見当たらず、ヒャンユンはただ地面を見るしか出来なかった。
ヒャンユンが次にミョンソルを見たのは、またもや覗き見をしている所だった。
「何してるの?」
「ひゃっ!!!!おっ、驚かせないでよ!」
大きく愛らしい目を見開いて怒るミョンソルが可愛らしくて、ヒャンユンは怒られているのに笑いながら返答した。そして、先程思ったことを聞いてみた。
「ごめんごめん。ねぇ、ひょっとしてテウォン行首のことが好きなの?」
「えっ……………なっ、なんでそんなこと思うのよ!」
「だって、嬉しそうだったから。」
「……………あなたもどうせ、若様の取り巻きの一人でしょ?」
すっかりふてくされてしまったミョンソルを見て、ヒャンユンはますます大笑いした。
「なっ、何がおかしいのよ!」
「だって、みんな本当にテウォン行首を好きになるんだもの。これじゃ私が変みたいじゃない」
「だったら、あなたは誰が好きなのよ」
ヒャンユンは少し考えると、悪戯っ子のような笑顔を浮かべて口に指を当てた。
「えへへ……………内緒。でも、テウォン行首じゃないから。安心して」
それを聞いて警戒心を解いたらしいミョンソルは、ほっと胸を撫で下ろした。ヒャンユンはそんな彼女の背中をばしっと叩くと、頑張れと一言声をかけてその場を後にするのだった。
まさかこのときミョンソルが既に恐ろしい計画に荷担しており、そこに自分の想い人が関与しているとは、まだヒャンユンは知る由もなかった。
オクニョとヒャンユンが安国洞から帰るために歩いていると、向こうからトンチャンが歩いてきた。ヒャンユンはすぐに気づくと、大声で手を振ってその名を呼んだ。
「トンチャンー!」
「おっ、ヒャンユンじゃねぇか。こんなところで何してる?」
「あのねあのね、オクニョと一緒に安国洞にいたの!そこの奥様がとってもいい人で、お母様って呼んでいいって言ってくれたの!」
それを聞いて一瞬トンチャンの瞳が曇る。その背筋が凍るほど冷たい表情をオクニョは見逃さなかった。だがトンチャンはすぐに元の表情に戻ると、ヒャンユンの頭を撫でて笑った。
「そうか。……で、そちらがオクニョって人か?」
「うん!私の親友なの。」
オクニョが軽く会釈をすると、トンチャンも渋々会釈を返した。ヒャンユンは不思議そうな顔をしているオクニョに、耳打ちをしてこう言った。
「あのね、この人がこの前言ってた人なの」
「えっ?婚約者の……?」
言われてみて再度ちらりと見ても、オクニョのトンチャンに対する印象はあまり良いものではなかった。実はオクニョは体探人という密偵の職に一時期就いており、その時に様々な人々に接していた。トンチャンの目は、誰かを手にかけることさえ厭わない、同じ界隈の目であるようにオクニョには映っていた。もちろんそんなことは考えもしないヒャンユンは、親友に相を見るようにせがんだ。
「うん。どう?素敵な人でしょ?ねぇ、オクニョ。相を見るのが得意なんでしょ?この人のも見てみてよ!」
オクニョは気を引き締めてトンチャンに向き直ると、じっとその相を見極め始めた。
────目立って危険な相ではないのに………どうして気になるのかしら………
彼女が適当な返事をしようとしたときだった。目の結膜に僅かな特徴が見えた。息を呑んでしまいそうになるのを必死で抑え、オクニョはもう一度しっかり観察をし直した。だが、やはり結果は同じだった。ヒャンユンが流石に気になり、どうしたのかと尋ねようとしたが丁度そこにテウォンがやって来た。
「すまない、待たせたな。…………って、トンチャン?」
「おっ………おお…………テウォンか………」
トンチャンの顔が引きつる。この世で最も苦手とするユン・テウォンが、物珍しいものでも見るような顔でこちらを見ているからだ。丁度良いときに来てくれたものだと思ったオクニョは、相のことをはぐらかすためにテウォンの隣に駆け寄った。
「ああ…………ええと………」
トンチャンとヒャンユンの関係に触れても良いものか迷ったテウォンだが、そんな葛藤も知らないオクニョはあっさりとこう言った。
「あ、私の親友のヒャンユンです。………ジェミョン大行首のお嬢様ですから、ご存じですよね?」
「あ、ああ…………そうだな」
「じゃあ、このトンチャンって方と親しいこともご存じですよね?」
「えっ?そ、そうなのか?知らなかったな………はは…」
テウォンは気まずそうにしながら、苦笑いをヒャンユンとトンチャンに向けた。もちろんトンチャンの方はにこりともせず、この世にはお前が軽蔑するような男を好きになる女も居るんだぞという思いを込めて、むしろ隠しもせずヒャンユンの手を握った。
「まぁ、そういうことだ。」
────何が気まずいんだ?俺にこんな良い女がいることか?
トンチャンは片眉をつり上げ、口の端を歪めながら笑いかけた。
「なるほどな。ま、大行首様には黙っておいてやるから」
────世の中、妙なこともあるもんだな……
二人はにこりともせず互いに向きを変え、それぞれの方向に歩きだした。もちろんヒャンユンはトンチャンと手を繋いだまま同じ方向へ歩き出すのだった。
トンチャンはヒャンユンを商団の近くまで送ると、ミン・ドンジュの元へ報告へ向かった。
「それで、どうなっている?」
いつも通り冷静なドンジュに、トンチャンはヒャンユンに見せている優しく暖かみのある姿とは真逆で、淡々と恐ろしい事実を並べ始めた。
「はい。安国洞の正妻にミョンソルは毒を盛り続けています。既に効果が現れ始めているようです。ただ、気がかりなことが一つ………」
「何だ?」
「オクニョという女とユン・テウォンが、頻繁に安国洞へ通っています。それと………」
コン・ジェミョンの娘も、と言おうとしてトンチャンは言葉を詰まらせた。
────巻き込むなんて………出来ない。
「どうしたのだ。早くせぬか」
「あ、いえ………下女のことは引き続き部下に見張らせます。」
「わかった。もし事が露見しそうになったら、迷いなく息の根を止めよ。良いな」
「はい。」
そう、オクニョが見抜いていたトンチャンのもう一つの顔は、決して思い過ごしではなかったのだ。手を汚す行いさえ躊躇なく実行する曰牌として、七牌市場に居たときから有名だった彼を引き抜いたことをドンジュは改めて正解だったと確信した。ただ、トンチャンの中には僅かな不安が芽生えていた。
────俺にはいつか……………いつか、ヒャンユンを手にかけなければならない日が来る気がしてならない。そのときに、俺はどうするのだろう。俺には、あの人たちに逆らってでもヒャンユンを救うことが出来るのだろうか。
その悩みは日に日に大きく膨らみ、留まることを知らない。ヒャンユンの笑顔を見るたびに、心が痛む。自分にもこんな良心があったなんて、とその度にトンチャンは気づかされていた。そしていつも、その日が来ないことを心の中で祈りながら自分は笑顔を返すことしか出来ない。
二人の恋に、最初の影が射そうとしていた。