7、運命を切り裂く三日月
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ジェミョンの商団と明との取引が正式に始まってから数日後のことだった。行首として帳簿の確認をしていたヒャンユンの耳に、突然怒声が飛び込んできた。
「コン・ジェミョン商団が不正な取引をしているとの情報が入った。今から調査する」
それは捕盗庁の監査だった。一同は固唾を飲むと、禁じられている取引物が見つかった際の適当な言い訳を頭の中で反芻し始めた。ヒャンユンは場違いなほどに冷静な父のもとに駆け寄ると、監査の様子を横目で見ながら尋ねた。
「お父様、これは一体………」
「とうとう来たか、チョン・ナンジョン………」
その名前に眼を見開いたヒャンユンは、ジェミョンに震える声で聞き返した。
「それは……どういうことですか?何故チョン・ナンジョン様がうちの商団に対して攻撃を……」
「それは…………」
ジェミョンがテウォンの薦めによりチョン・ナンジョンと対立したからだ、と答えようとする前に捕盗庁の兵が言葉を遮った。
「火薬、硫黄、それに水牛の角。どれもこの商団で取り扱うには禁じられているものだ!罪人の大行首、コン・ジェミョンを直ちに捕らえよ!」
「お父様!?お父様!?どうしてですか?一体どういうことですか?お父様!お父様!」
「叔父さん!どうしよう………どうしよう……そんな……」
あっという間に捕らえられてしまった父の名を呼ぶヒャンユンに、ジェミョンは肩越しに消え入りそうな声で言った。
「─────あとのことは頼んだ、ヒャンユン。おい、トチ。代理の大行首としてヒャンユン行首を指示しておく。頼んだぞ」
「そんな!お父様…………行かないで!待って………」
「身体に気を付けろ。しっかり食べるんだぞ!」
「お父様………」
ヒャンユンは膝から地面に崩れ落ちると、両目から溢れる涙を止める術もなく流し続けた。執事のチャクトまで連れていかれたため、これからどうすれば良いのかとうろたえるトチは、押収されたために空になった棚を殴り付けた。ウンスはほらやっぱりと言いたげな顔でヒャンユンを叩いた。
「ほら!言わんこっちゃないじゃない!だからあれほどトンチャンと親しくしないでって言ったのに!」
「トンチャンは悪くない………トンチャンは………」
「お嬢様には気の毒ですが、トンチャンもこの事は知っていたと思います。ですから……」
「嘘よ!トンチャンは………トンチャンは……そんな人じゃない……そんな人じゃない……」
「お嬢様……」
手を差しのべてくるテウォンを叩くと、ヒャンユンは涙を拭き、毅然とした表情を浮かべながら一人で立ち上がった。
「────事の次第は私が探る。それよりも、今はうちの商団の信用を下げないことよ。いい?」
「はい、行首様。」
────今は誰かを疑ってる場合じゃない。商団のために動かないと。私がしっかりしないと、ここはこのまま潰されてしまう。
ヒャンユンは唇をかんで前を向くと、服に付いた汚れを払って大きく息を吸い込んだ。その表情からは、もはや今までの幼さは失われていた。
一方、密かにその様子を見ていたカン・ソノは、面倒なことになったと言わんばかりの顔でため息を付いた。
────どうしてチョン・ナンジョンに関わるようなことに…………何とかせねば。だが、どうやって………?
彼はひとしきり思案すると、おもむろに何か閃いたような顔をしてその場を立ち去るのだった。
トンチャンは、商品の納入の警護を行うために遠出していた帰路にコン・ジェミョンが捕らえられたことを知った。彼は部下の襟を掴んで商団の状況を尋ねた。
「ジェミョンは今捕盗庁で取り調べを受けている状態です。」
「娘はどうなった!」
「娘は……代理大行首として、各所に取引を継続してもらうように頭を下げにいっているようです」
「ヒャンユン…………」
トンチャンはまだ幼さが残るヒャンユンが苦労を一気に背負い込んだことに胸を痛めた。そして偶然、頭を深々と下げて仕入れ先に頼み込んでいるヒャンユンの姿を見かけてしまった。
「今後とも、うちの商団をお願いします。」
「あなたも大変だな。他の商団もやってることだろうに………」
「そうでしたか………では、宜しくお願いします」
ヒャンユンが次の場所は、と部下に尋ねようとしたときだった。その視界にトンチャンが飛び込んできた。ヒャンユンは思慕と失望が混じりあった複雑な表情を浮かべると、思い人に一礼した。
────私はあなたを信じたい。けれど、今は……今はまだ、あなたのそばには行けそうもありません。
トンチャンはヒャンユンが両手からするりと抜け落ちたように感じた。突然遠い場所に行ってしまった気がした。だからこそ、その後を追えなかった。トンチャン自身も、その資格がないことを何より知っていた。
身を切られるように冷たい風が心の中に吹き込んだ。それでもヒャンユンへの思慕はまだ、彼の中で確かに暖かく残り続けていた。
ヒャンユンが仕入れ先の名前を確認していると、すっかり息をあげて駆け込んできたトチが大慌てで報告に来た。何事かと思い、帳簿を置いたヒャンユンはゆっくり息をするように指示を出して言葉の続きを待った。
「大変です………!!今商団にカン・ボンス商団が来ていて、そこの曰牌がうちの荷物を………」
「何ですって?一体どういうこと?」
「とにかく、来てください!テウォンも今居ないんです。」
ヒャンユンはトチと共に急いで商団に戻ると、曰牌たちと対峙することとなった。主格の男、カン・ボンスは、悠々とした風体で目の前に現れると、まだ幼い代理大行首を見て鼻で笑った。
「おい、お前がコン・ジェミョンの娘か」
「そうですが。商売を行う者として、商品を雑に扱うことはいかがなものかと思います」
「全く、威勢のいいやつだ。うちの商団を元々経営してたのは兄のマンボだったけどな、こちらのユン・テウォンに兄の不在をいいことに縄張りを取られたんだ。そこで七牌市場の曰牌としても信用を無くした俺も、今回の逮捕を利用させてもらう。やれ!」
ボンスの命令で、曰牌たちが一斉に商団を荒らすために動き始めた。トチたちが立ち向かおうとするが、何しろ相手の手勢は元々七牌市場をまとめていた曰牌だ。サムゲの渡し場とは訳が違う。
「なっ……………」
「おい!やめろ!」
「ちょっと!!トチさん、大丈夫!?誰か何とかしてよ!」
ヒャンユンたちが無力ながらも奮闘していると、背後から聞き慣れた声が響いた。
「────やっぱりお前らだったか。あのときヒャンユンを狙ったのもボンス、お前の差し金か」
トンチャンだった。しかも今回は一人ではなく数人の部下を連れている。ボンスは七牌市場の頃から面識があるこの男をよく知っていた。腕が立つことも知っていたが、何より立場をわきまえる男であることも知っていた。
「俺はこの商団に個人的な恨みが有るもんでな。ここはお前の縄張りじゃねぇだろ。奥様のもとに帰りな!」
「確かに、ここは俺の縄張りじゃねぇ。だがな、こいつは俺の女だ。だから助ける。それだけだ。」
「ああ、そう言えばこいつはお前の女だったな。へっ、七牌市場で一緒だったときから何かと目障りな男だったが、今はもっと目障りだぜ」
ボンスは懐から木の棒を取り出すと、手のひらを軽く叩きながら不敵な笑みを浮かべた。トンチャンは込み上げてくる怒りを抑えながら、ちらりとヒャンユンの姿を確認した。事の成り行きを固唾をのみながら隅でおとなしく見守っていることを認識したトンチャンは、安堵しながらも別の不安に駆られた。
───そこにいろよ………頼むから巻き込まれるなよ…
そして意を決すると、同じく木の棒を取り出してボンスの部下たちに向けた。
「やれ!手加減はしなくていい!」
まさか本当にかかってくるとは思わなかったボンスは、大慌てで同じく部下たちに指示を出した。
「おい!トンチャンを殺れ!トンチャンだ!シン・ドンチャンを殺れ!」
短刀を抜く曰牌たちを見たヒャンユンは、とっさに置いてあった頑丈な棒を手にとって叫んだ。
「トンチャン!これを使って!」
「おう、そこに居ろよ!」
トンチャンめがけて投げた棒は、綺麗にその手に収まった。これに関してはヒャンユンが偶然選んだのだが、実は彼は棒術が何より得意で、それを知っていたボンスは顔を青ざめた。
「なっ…………棒をへし折れ!」
ボンスがあわてふためいている間にも、トンチャンは着実に手勢を倒していた。体格に似合わず、棒を手の一部であるかのように的確かつ俊敏に扱う姿は、身分が違えば一流の武官になってもおかしくない腕前だった。
テウォン顔負けの意外なその強さに、思わずウンスも見とれてしまっている。だが、がむしゃらに棒を掴んでくる二、三人の曰牌に気を取られ、トンチャンに僅かな隙ができた。それを見逃さないボンスは懐から小刀を取り出して、トンチャンの首に突き立てようと突進した。
「なっ……………」
「死ね!トンチャン!」
誰もが間に合わないと思った。だが、次の瞬間小刀の刃はトンチャンの首筋ではなく、空中に静止していた。
「トンチャンを傷つける奴は、私が許さない!死んでもこの手は離さないんだから!」
「ヒャンユン!!?」
そう、ヒャンユンが小刀を振りかざした方の手を必死に引っ張っている。顔を真っ赤にして全力を振り絞りながら、トンチャンを命がけで守っていた。
「離せ!この小娘!」
「離すのはそっちよ!」
ヒャンユンが力一杯ボンスの腕を噛むと、彼はたちまち悲鳴をあげて小刀を取り落とした。そして次に部下たちが反撃に出ようとしたときだった。
「捕盗庁だ!通報があって来た!カン・ボンス並びにその部下共、全員逮捕する!」
カン・ソノがコン・ジェミョン商団側の通報を受け、適当な罪状を見繕って異例の検挙を行うため、その場に兵を連れて現れた。ボンスは跪くと、縄をかけられながら叫んだ。
「おい!トンチャン!てめぇ、典獄署から出てきたらぶっ殺してやる!」
「ああ。もし出てこれたら、な」
彼が連れていかれたのを見届けると、トンチャンは人目も気にせずヒャンユンに駆け寄った。
「大丈夫だったか!?怪我は?」
「大丈………」
ヒャンユンが大丈夫だと言い終えるまえに、トンチャンは右の掌を擦りむいていることに気づいた。
「いや、手を擦りむいてるじゃねぇか。何が大丈夫だ!」
「トンチャン………ありがとう」
「………別に、気にするな。俺も、助かった。もう、あんな危ない真似するんじゃねぇぞ!」
「ううん。トンチャンが危ないときは、私が助けるから。それだけは従えない。」
ヒャンユンは微笑むと、トンチャンを大きく愛らしい瞳で見つめた。だがそれも二人の関係を知らない人には自然に思えるほど、ほんの刹那だった。
ソノはトンチャンに近づくと、怪訝そうな表情で頭のてっぺんから爪先までまじまじと眺めた。
「………お前がシン・ドンチャンか。」
「はい、そうですが」
「お前はチョン・ナンジョン商団のモノだろう?ここで何をしている」
「あ、いえ……ちょっと」
狼狽えるトンチャンを助けるため、ヒャンユンはソノとの間に割って入った。
「いえ!違います、武官様。曰牌たちから助けてくれたのです。」
ソノは思慕の念こそ悟らなかったものの、自分の名前を覚えていないヒャンユンに何故か失望した。
「そうでしたか。協力いただけて助かった。では」
背を向けて歩き出そうとする姿を見てようやく閃いたのか、ヒャンユンはソノを呼び止めた。
「あっ、ちょっと待ってください!カン・ソノ様でしたよね?お名前は」
「そうです。よく覚えておいでで」
振り返って微笑むソノの視線に、彼自身が気づいていない淡い恋心を見抜いたトンチャンは、すかさずヒャンユンが怪我をした手を取ってトチを呼んだ。
「おい、トチ。手当てするから何か持ってこい」
「そんな!大丈夫よ…大袈裟な……」
「うるさい。お前は黙ってろ」
「えぇ………?」
トンチャンが振り向いたとき、ソノの視線がそこに交差した。何故か敵意と殺意すら感じるトンチャンの視線に、ソノは疑問を抱いた。
────一体私はこの男に何をした?それに一介の曰牌に過ぎない男が、何故ヒャンユン殿を助けたのだ?
あらゆる世情を知るために地下で活動する体探人としての素顔を併せ持ち、様々な訓練を重ねたソノだったが、人の恋情を読み解くことは苦手だった。彼はやれやれと首を振ると、表向きと裏向きの双方の仕事に戻るためにその場から立ち去った。
トンチャンはソノの背中を眼を細めて見ながら、何度もその名前を反復して記憶に刻み付けた。
────面倒くさい奴が現れたな。
ここからカン・ソノとの因縁が始まろうとは、今のトンチャンは予想だにしなかった。
手当てをしてもらいながら、ヒャンユンはトンチャンの横顔に見とれていた。確かに目はテウォンのようなぱっと見映えのするような面持ちをしていないが、鼻筋が通っているせいで仏頂面をしていてもあまり気にならない。何よりも時おり眼を細めて浮かべる笑顔が柔らかく、ヒャンユンはそんなトンチャンが大好きだった。
「………何見とれてるんだ」
「ご、ごめん………」
「別に……謝らなくていいだろ。」
急に気まずそうに俯くヒャンユンに失笑したトンチャンは、その細い顎に手をかけて自分の方に引き寄せた。
「────俺のことが、好きなんだろ?」
直球過ぎる質問に耳まで顔を真っ赤にしたヒャンユンが首を縦に振った。それを確認したトンチャンは、無言で自分の唇で愛する人のさくらんぼのような唇を奪った。初めてこうしたときと同じように柔らかくて温かな感触に震えると、彼は一度離れた後に間髪いれずもう一度口づけをした。
「……………ヒャンユン。俺も好きだ。お前は俺を人生でただ一人、心の底から無条件に愛してくれた。」
「そんなの………当然じゃない。だって………だって……トンチャンは………」
ヒャンユンは眼を閉じてトンチャンの胸に耳を当てた。確かな鼓動が伝わってきて、涙が溢れそうになる。
「トンチャンは………どんなことがあっても私の味方でいてくれるから。だから私もあなたの味方になる。世界があなたを責めても、私はあなたを………」
ヒャンユンの脳裏を様々な出来事が通りすぎていく。
───一介の曰牌が、お嬢様と並んで歩くわけにはいきません。
身分も違う。
───好きだ。
いつも口下手だった。
───いっそ俺の嫁になるか?
ただ、その言葉だけが嬉しかった。この人と婚約したという事実だけが、ヒャンユンにとっての喜びだった。
───俺が傍に居てやるから。
それが叶うのなら、どれ程幸せだろうか。立場の違う自分が永遠を約束して貰えるのだろうか。
対立する商団の男であり、今後はもっと辛い選択を迫られることはわかっていた。だが、それでもヒャンユンは震える声で言った。
「───あなたを、愛してるから。」
トンチャンは何も言わず、黙ってその小さな頭を大きな手で撫でた。今はただ、それしかできなかった。普通の恋人同士のように永遠の関係も約束できず、ただ愛しているだけでは乗り越えられない壁もあった。
それでも二人の心の中には、後悔はなかった。ただ、今は傍にいたい。その想いだけがその場を支配しているのだった。
ウンスとトチ、そしてテウォンは出来事の一部始終を見届け、獄中の大行首に報告するべきかをいよいよ迫られた。だが、珍しくウンスがその提案を真っ向から否定した。
「だめよ!絶対だめ。黙っておくの。でないと………」
二人の様子に目をやり、ウンスはぽつんと呟いた。
「私………あの二人が可哀想………」
その日の月は、刃のように鋭い三日月だった。そしてそれはどこか、二人の縁を無情に切り裂く刀のようにも思えるのだった。
「コン・ジェミョン商団が不正な取引をしているとの情報が入った。今から調査する」
それは捕盗庁の監査だった。一同は固唾を飲むと、禁じられている取引物が見つかった際の適当な言い訳を頭の中で反芻し始めた。ヒャンユンは場違いなほどに冷静な父のもとに駆け寄ると、監査の様子を横目で見ながら尋ねた。
「お父様、これは一体………」
「とうとう来たか、チョン・ナンジョン………」
その名前に眼を見開いたヒャンユンは、ジェミョンに震える声で聞き返した。
「それは……どういうことですか?何故チョン・ナンジョン様がうちの商団に対して攻撃を……」
「それは…………」
ジェミョンがテウォンの薦めによりチョン・ナンジョンと対立したからだ、と答えようとする前に捕盗庁の兵が言葉を遮った。
「火薬、硫黄、それに水牛の角。どれもこの商団で取り扱うには禁じられているものだ!罪人の大行首、コン・ジェミョンを直ちに捕らえよ!」
「お父様!?お父様!?どうしてですか?一体どういうことですか?お父様!お父様!」
「叔父さん!どうしよう………どうしよう……そんな……」
あっという間に捕らえられてしまった父の名を呼ぶヒャンユンに、ジェミョンは肩越しに消え入りそうな声で言った。
「─────あとのことは頼んだ、ヒャンユン。おい、トチ。代理の大行首としてヒャンユン行首を指示しておく。頼んだぞ」
「そんな!お父様…………行かないで!待って………」
「身体に気を付けろ。しっかり食べるんだぞ!」
「お父様………」
ヒャンユンは膝から地面に崩れ落ちると、両目から溢れる涙を止める術もなく流し続けた。執事のチャクトまで連れていかれたため、これからどうすれば良いのかとうろたえるトチは、押収されたために空になった棚を殴り付けた。ウンスはほらやっぱりと言いたげな顔でヒャンユンを叩いた。
「ほら!言わんこっちゃないじゃない!だからあれほどトンチャンと親しくしないでって言ったのに!」
「トンチャンは悪くない………トンチャンは………」
「お嬢様には気の毒ですが、トンチャンもこの事は知っていたと思います。ですから……」
「嘘よ!トンチャンは………トンチャンは……そんな人じゃない……そんな人じゃない……」
「お嬢様……」
手を差しのべてくるテウォンを叩くと、ヒャンユンは涙を拭き、毅然とした表情を浮かべながら一人で立ち上がった。
「────事の次第は私が探る。それよりも、今はうちの商団の信用を下げないことよ。いい?」
「はい、行首様。」
────今は誰かを疑ってる場合じゃない。商団のために動かないと。私がしっかりしないと、ここはこのまま潰されてしまう。
ヒャンユンは唇をかんで前を向くと、服に付いた汚れを払って大きく息を吸い込んだ。その表情からは、もはや今までの幼さは失われていた。
一方、密かにその様子を見ていたカン・ソノは、面倒なことになったと言わんばかりの顔でため息を付いた。
────どうしてチョン・ナンジョンに関わるようなことに…………何とかせねば。だが、どうやって………?
彼はひとしきり思案すると、おもむろに何か閃いたような顔をしてその場を立ち去るのだった。
トンチャンは、商品の納入の警護を行うために遠出していた帰路にコン・ジェミョンが捕らえられたことを知った。彼は部下の襟を掴んで商団の状況を尋ねた。
「ジェミョンは今捕盗庁で取り調べを受けている状態です。」
「娘はどうなった!」
「娘は……代理大行首として、各所に取引を継続してもらうように頭を下げにいっているようです」
「ヒャンユン…………」
トンチャンはまだ幼さが残るヒャンユンが苦労を一気に背負い込んだことに胸を痛めた。そして偶然、頭を深々と下げて仕入れ先に頼み込んでいるヒャンユンの姿を見かけてしまった。
「今後とも、うちの商団をお願いします。」
「あなたも大変だな。他の商団もやってることだろうに………」
「そうでしたか………では、宜しくお願いします」
ヒャンユンが次の場所は、と部下に尋ねようとしたときだった。その視界にトンチャンが飛び込んできた。ヒャンユンは思慕と失望が混じりあった複雑な表情を浮かべると、思い人に一礼した。
────私はあなたを信じたい。けれど、今は……今はまだ、あなたのそばには行けそうもありません。
トンチャンはヒャンユンが両手からするりと抜け落ちたように感じた。突然遠い場所に行ってしまった気がした。だからこそ、その後を追えなかった。トンチャン自身も、その資格がないことを何より知っていた。
身を切られるように冷たい風が心の中に吹き込んだ。それでもヒャンユンへの思慕はまだ、彼の中で確かに暖かく残り続けていた。
ヒャンユンが仕入れ先の名前を確認していると、すっかり息をあげて駆け込んできたトチが大慌てで報告に来た。何事かと思い、帳簿を置いたヒャンユンはゆっくり息をするように指示を出して言葉の続きを待った。
「大変です………!!今商団にカン・ボンス商団が来ていて、そこの曰牌がうちの荷物を………」
「何ですって?一体どういうこと?」
「とにかく、来てください!テウォンも今居ないんです。」
ヒャンユンはトチと共に急いで商団に戻ると、曰牌たちと対峙することとなった。主格の男、カン・ボンスは、悠々とした風体で目の前に現れると、まだ幼い代理大行首を見て鼻で笑った。
「おい、お前がコン・ジェミョンの娘か」
「そうですが。商売を行う者として、商品を雑に扱うことはいかがなものかと思います」
「全く、威勢のいいやつだ。うちの商団を元々経営してたのは兄のマンボだったけどな、こちらのユン・テウォンに兄の不在をいいことに縄張りを取られたんだ。そこで七牌市場の曰牌としても信用を無くした俺も、今回の逮捕を利用させてもらう。やれ!」
ボンスの命令で、曰牌たちが一斉に商団を荒らすために動き始めた。トチたちが立ち向かおうとするが、何しろ相手の手勢は元々七牌市場をまとめていた曰牌だ。サムゲの渡し場とは訳が違う。
「なっ……………」
「おい!やめろ!」
「ちょっと!!トチさん、大丈夫!?誰か何とかしてよ!」
ヒャンユンたちが無力ながらも奮闘していると、背後から聞き慣れた声が響いた。
「────やっぱりお前らだったか。あのときヒャンユンを狙ったのもボンス、お前の差し金か」
トンチャンだった。しかも今回は一人ではなく数人の部下を連れている。ボンスは七牌市場の頃から面識があるこの男をよく知っていた。腕が立つことも知っていたが、何より立場をわきまえる男であることも知っていた。
「俺はこの商団に個人的な恨みが有るもんでな。ここはお前の縄張りじゃねぇだろ。奥様のもとに帰りな!」
「確かに、ここは俺の縄張りじゃねぇ。だがな、こいつは俺の女だ。だから助ける。それだけだ。」
「ああ、そう言えばこいつはお前の女だったな。へっ、七牌市場で一緒だったときから何かと目障りな男だったが、今はもっと目障りだぜ」
ボンスは懐から木の棒を取り出すと、手のひらを軽く叩きながら不敵な笑みを浮かべた。トンチャンは込み上げてくる怒りを抑えながら、ちらりとヒャンユンの姿を確認した。事の成り行きを固唾をのみながら隅でおとなしく見守っていることを認識したトンチャンは、安堵しながらも別の不安に駆られた。
───そこにいろよ………頼むから巻き込まれるなよ…
そして意を決すると、同じく木の棒を取り出してボンスの部下たちに向けた。
「やれ!手加減はしなくていい!」
まさか本当にかかってくるとは思わなかったボンスは、大慌てで同じく部下たちに指示を出した。
「おい!トンチャンを殺れ!トンチャンだ!シン・ドンチャンを殺れ!」
短刀を抜く曰牌たちを見たヒャンユンは、とっさに置いてあった頑丈な棒を手にとって叫んだ。
「トンチャン!これを使って!」
「おう、そこに居ろよ!」
トンチャンめがけて投げた棒は、綺麗にその手に収まった。これに関してはヒャンユンが偶然選んだのだが、実は彼は棒術が何より得意で、それを知っていたボンスは顔を青ざめた。
「なっ…………棒をへし折れ!」
ボンスがあわてふためいている間にも、トンチャンは着実に手勢を倒していた。体格に似合わず、棒を手の一部であるかのように的確かつ俊敏に扱う姿は、身分が違えば一流の武官になってもおかしくない腕前だった。
テウォン顔負けの意外なその強さに、思わずウンスも見とれてしまっている。だが、がむしゃらに棒を掴んでくる二、三人の曰牌に気を取られ、トンチャンに僅かな隙ができた。それを見逃さないボンスは懐から小刀を取り出して、トンチャンの首に突き立てようと突進した。
「なっ……………」
「死ね!トンチャン!」
誰もが間に合わないと思った。だが、次の瞬間小刀の刃はトンチャンの首筋ではなく、空中に静止していた。
「トンチャンを傷つける奴は、私が許さない!死んでもこの手は離さないんだから!」
「ヒャンユン!!?」
そう、ヒャンユンが小刀を振りかざした方の手を必死に引っ張っている。顔を真っ赤にして全力を振り絞りながら、トンチャンを命がけで守っていた。
「離せ!この小娘!」
「離すのはそっちよ!」
ヒャンユンが力一杯ボンスの腕を噛むと、彼はたちまち悲鳴をあげて小刀を取り落とした。そして次に部下たちが反撃に出ようとしたときだった。
「捕盗庁だ!通報があって来た!カン・ボンス並びにその部下共、全員逮捕する!」
カン・ソノがコン・ジェミョン商団側の通報を受け、適当な罪状を見繕って異例の検挙を行うため、その場に兵を連れて現れた。ボンスは跪くと、縄をかけられながら叫んだ。
「おい!トンチャン!てめぇ、典獄署から出てきたらぶっ殺してやる!」
「ああ。もし出てこれたら、な」
彼が連れていかれたのを見届けると、トンチャンは人目も気にせずヒャンユンに駆け寄った。
「大丈夫だったか!?怪我は?」
「大丈………」
ヒャンユンが大丈夫だと言い終えるまえに、トンチャンは右の掌を擦りむいていることに気づいた。
「いや、手を擦りむいてるじゃねぇか。何が大丈夫だ!」
「トンチャン………ありがとう」
「………別に、気にするな。俺も、助かった。もう、あんな危ない真似するんじゃねぇぞ!」
「ううん。トンチャンが危ないときは、私が助けるから。それだけは従えない。」
ヒャンユンは微笑むと、トンチャンを大きく愛らしい瞳で見つめた。だがそれも二人の関係を知らない人には自然に思えるほど、ほんの刹那だった。
ソノはトンチャンに近づくと、怪訝そうな表情で頭のてっぺんから爪先までまじまじと眺めた。
「………お前がシン・ドンチャンか。」
「はい、そうですが」
「お前はチョン・ナンジョン商団のモノだろう?ここで何をしている」
「あ、いえ……ちょっと」
狼狽えるトンチャンを助けるため、ヒャンユンはソノとの間に割って入った。
「いえ!違います、武官様。曰牌たちから助けてくれたのです。」
ソノは思慕の念こそ悟らなかったものの、自分の名前を覚えていないヒャンユンに何故か失望した。
「そうでしたか。協力いただけて助かった。では」
背を向けて歩き出そうとする姿を見てようやく閃いたのか、ヒャンユンはソノを呼び止めた。
「あっ、ちょっと待ってください!カン・ソノ様でしたよね?お名前は」
「そうです。よく覚えておいでで」
振り返って微笑むソノの視線に、彼自身が気づいていない淡い恋心を見抜いたトンチャンは、すかさずヒャンユンが怪我をした手を取ってトチを呼んだ。
「おい、トチ。手当てするから何か持ってこい」
「そんな!大丈夫よ…大袈裟な……」
「うるさい。お前は黙ってろ」
「えぇ………?」
トンチャンが振り向いたとき、ソノの視線がそこに交差した。何故か敵意と殺意すら感じるトンチャンの視線に、ソノは疑問を抱いた。
────一体私はこの男に何をした?それに一介の曰牌に過ぎない男が、何故ヒャンユン殿を助けたのだ?
あらゆる世情を知るために地下で活動する体探人としての素顔を併せ持ち、様々な訓練を重ねたソノだったが、人の恋情を読み解くことは苦手だった。彼はやれやれと首を振ると、表向きと裏向きの双方の仕事に戻るためにその場から立ち去った。
トンチャンはソノの背中を眼を細めて見ながら、何度もその名前を反復して記憶に刻み付けた。
────面倒くさい奴が現れたな。
ここからカン・ソノとの因縁が始まろうとは、今のトンチャンは予想だにしなかった。
手当てをしてもらいながら、ヒャンユンはトンチャンの横顔に見とれていた。確かに目はテウォンのようなぱっと見映えのするような面持ちをしていないが、鼻筋が通っているせいで仏頂面をしていてもあまり気にならない。何よりも時おり眼を細めて浮かべる笑顔が柔らかく、ヒャンユンはそんなトンチャンが大好きだった。
「………何見とれてるんだ」
「ご、ごめん………」
「別に……謝らなくていいだろ。」
急に気まずそうに俯くヒャンユンに失笑したトンチャンは、その細い顎に手をかけて自分の方に引き寄せた。
「────俺のことが、好きなんだろ?」
直球過ぎる質問に耳まで顔を真っ赤にしたヒャンユンが首を縦に振った。それを確認したトンチャンは、無言で自分の唇で愛する人のさくらんぼのような唇を奪った。初めてこうしたときと同じように柔らかくて温かな感触に震えると、彼は一度離れた後に間髪いれずもう一度口づけをした。
「……………ヒャンユン。俺も好きだ。お前は俺を人生でただ一人、心の底から無条件に愛してくれた。」
「そんなの………当然じゃない。だって………だって……トンチャンは………」
ヒャンユンは眼を閉じてトンチャンの胸に耳を当てた。確かな鼓動が伝わってきて、涙が溢れそうになる。
「トンチャンは………どんなことがあっても私の味方でいてくれるから。だから私もあなたの味方になる。世界があなたを責めても、私はあなたを………」
ヒャンユンの脳裏を様々な出来事が通りすぎていく。
───一介の曰牌が、お嬢様と並んで歩くわけにはいきません。
身分も違う。
───好きだ。
いつも口下手だった。
───いっそ俺の嫁になるか?
ただ、その言葉だけが嬉しかった。この人と婚約したという事実だけが、ヒャンユンにとっての喜びだった。
───俺が傍に居てやるから。
それが叶うのなら、どれ程幸せだろうか。立場の違う自分が永遠を約束して貰えるのだろうか。
対立する商団の男であり、今後はもっと辛い選択を迫られることはわかっていた。だが、それでもヒャンユンは震える声で言った。
「───あなたを、愛してるから。」
トンチャンは何も言わず、黙ってその小さな頭を大きな手で撫でた。今はただ、それしかできなかった。普通の恋人同士のように永遠の関係も約束できず、ただ愛しているだけでは乗り越えられない壁もあった。
それでも二人の心の中には、後悔はなかった。ただ、今は傍にいたい。その想いだけがその場を支配しているのだった。
ウンスとトチ、そしてテウォンは出来事の一部始終を見届け、獄中の大行首に報告するべきかをいよいよ迫られた。だが、珍しくウンスがその提案を真っ向から否定した。
「だめよ!絶対だめ。黙っておくの。でないと………」
二人の様子に目をやり、ウンスはぽつんと呟いた。
「私………あの二人が可哀想………」
その日の月は、刃のように鋭い三日月だった。そしてそれはどこか、二人の縁を無情に切り裂く刀のようにも思えるのだった。