7、無垢な心
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クムは木登りをしながら下にいる世子を見た。二人は党派も母同士のいがみ合いも関係なく、すっかり本当の兄弟のような関係になっていた。今日はクムが王宮のどんぐりの実を集めている。
「どんぐりは食べられるんですよ」
「へぇ…………不味そうだ…」
「はい、不味いです。でも賤民は皆これを食べて腹を満たしているのです」
「そうなのか…………」
二人がそんな話をしていると、いかにも連日の不安のせいで不機嫌な顔をしたヒジェがやって来た。彼は世子に気づいて一礼し、そして木の上に立っているクムを見て目を丸くした。
「ヨ、延礽君様!なっ、なっ、何をされているんですか!?」
「あ、叔父上!」
クムは木から飛び降りようとした。だが枝が足に引っ掛かって彼は体勢を崩した。そのとき偶然遠くから見ていたトンイは、間に合わないとしても助けねばと裾を捲り上げた。しかし、次の瞬間クムは地面ではなくヒジェの腕の中にいた。
「─────危ないではありませんか。」
「叔父上………」
その様子を見ていた彼女は、呆然と立ち尽くした。
「エジョン………ポン尚宮……今の、見たか?」
「は、はい。確かに、みました」
一同は何が起きているのかを把握できずにいた。トンイは心の中で、自分と息子の命を何度も危険に晒した男と同じ人物なのだろうかと思い、自分の目を疑った。だが、向こうに見える男は確かにこの国の領議政であり南人派のチャン・ヒジェだった。
────一体、何があの男の本性なの…?
そう不思議に思ったトンイは、三人が庭の方に消えていくまでずっと、その背中を見ているのだった。
ヒジェはクムに手を引かれ、庭に連れていかれていた。
「あの………王子様、一体何を………」
「叔父上に見せたいものがあるのです!」
クムはそのまま小さな小屋に入っていくと、一匹のウサギを抱き上げて戻ってきた。
「………ウサギ?」
「そうです!父上からもらったウサギです!叔父上はウサギは嫌いですか?」
雪のように真っ白なウサギはヒジェが怖いのか、しきりに鼻をひくつかせている。
「…………嫌いではない。」
「本当ですか!?この子、ウォルファ叔母上に似てはいませんか?」
「ええ?そうですか?そんなにこのウサギは不細工なのかな……?」
ヒジェは子供相手の茶番に自分でも笑いながら、ウサギを抱き上げてその顔つきをよく見る振りをした。
「うーん、延礽君様。この子は……うちの妻にしては可愛らしすぎます。もっとあの女は怖いですよ」
わざとそう答えるヒジェに、世子が首をかしげた。
「そうなのですか?私はまだ叔父上の奥さまを見たことがないのですが、延礽君から聞いている上では綺麗で優しくて、気立てがよくて………」
「嘘です。王子様、嘘はついてはなりませんよ?」
ウサギをクムに返しながら、彼は父親が子供に戯れるような優しい声で言った。クムはウサギとヒジェを交互に見比べ、しばらく考えてから満面の笑みを浮かべた。
「わかりました!叔母上は可愛いのではありません。綺麗なのですね!」
ヒジェはその瞬間、何も食べていないのに喉を詰まらせて死にそうになった。
「い、いや!!そ、それは…………」
「ヒ、ジェ、さ、ま」
「ひっ………………」
追い討ちをかけるように、いつのまにかやって来ていたウォルファがヒジェの肩をがっしりと掴んで微笑んでいる。
「そ、そなた………何ゆえ………」
「淑儀様に挨拶しに来たの。あなたこそこんなところで何をしているの?」
「ええと……それは……………その……」
どもったヒジェが答える前にクムが返事をする。
「ウサギです!」
「え?ウサギ?」
「はい!このウサギが可愛らしいので、叔母上に似ているのではと尋ねたら、叔父上が否定しました」
きょとんとしていたウォルファは、自分の居ない場所で可愛らしさを否定されていたことに図らずも怒りを覚えた。彼女がヒジェを睨み付けている姿を見て、世子はクムの肩を叩いた。
「延礽君、それは人聞きが悪いぞ………?」
「兄上、だって本当のことです!」
「可愛くなくって悪かったわね。あ、な、た」
「ご、誤解だ………やめてくれ………そんな目で俺を見るな!」
彼女がつんとしてヒジェから視線をそらしたとき、世子がようやく目に入った。慌ててウォルファが挨拶をする。
「せ、世子様!失礼しました。挨拶が遅れて済みません………世子様の叔父上様の妻、ウォルファと申します」
「そんな!頭を下げないでください。………綺麗ですね、奥様は。」
「えっ?あら…そう……かしら?」
思わず思ったことを口に出した世子は、顔を赤くしてしまった。ウォルファも褒められたことが嬉しくて照れている。ヒジェはそんな二人の様子を見てすっかり拗ねてしまった。
「………たかだか綺麗だと言われたくらいで……情けない」
「叔父上。女性は皆、あのエジョンでも綺麗だと褒められると喜びます。ですから、叔父上も叔母上をほめるのです!沢山褒めれば良いことがあるやも知れません!」
目を輝かせて慰めてくれるクムの方を呆れながら見たヒジェは、ため息混じりに返事をした。
「褒める、か……一番苦手なことなのですが………」
「では、私で練習してみてください!」
意外な提案に彼は驚いた。一体、憎たらしい子供のどこを褒めれば良いのか。だが、頭でそう思っている彼だったが、何故か今回は口が先に動いていた。
「────延礽君様は、いつも笑顔で素晴らしいです。大人になると、笑顔を忘れてしまうものですから……」
「そうなのですか?叔父上は笑わないのですか?」
「そうではありませんが………妻と居るとき以外はあまり、心の底からは笑いませんね」
クムは少し考えると、おもむろに顔を手で覆って後ろを向いた。ヒジェもウォルファも世子も、この話の流れから一体何が始まるのかと不思議に思っていた。すると、もう一度振り向いたクムは変顔をしながらヒジェを見た。
「……………酷い顔です。」
「面白いですか?笑えそうですか?」
「……………え?」
「叔父上が誰の前でも心から笑えるように、私は頑張ってみます!いいですか?」
ヒジェはしばらく黙り込んでいると、クムの目は見ずに頷いた。
幼子の純粋な優しさが、ウォルファが政治家としての心を溶かしたように、ヒジェの悪人としての二面性を形取っている仮面にひびを入れた。そして、その僅かな変化をウォルファだけはしっかりと見ているのだった。
クムはヒジェの手を再び引っ張ると、世子の庭に連れてきた。そこには筒に矢を投げ入れて遊ぶ道具が用意されており、彼はヒジェに矢を無理矢理持たせると投げるように催促した。
「叔父上!失敗したら顔に墨を塗りますね!」
「えっ?そ、そんな……」
どうせ子供の遊びとたかをくくっていたヒジェは、ウォルファを哀願するような目で見た。だが彼女は縁側に座って微笑みを返すだけだ。仕方がなく彼は矢を構えた。だが、ここでふと悩みが生じた。
───これは、真剣な振りをして外した方がいいのか?やはり、成功させるのは最後にすべきなのだよな……?
そう、ウォルファはヒジェがどこまで大人として子供に接することができるかを楽しみに見ているのだ。彼はそんな妻の意図も知らず、わざと真剣な振りをして矢を投げた。的屋のものでさえ命中させられた彼だからこそ、縁に当てて惜しさを演出するのもお手のものだった。
「ああっ!惜しい………」
「困りましたね……真剣に頑張ったんですが……いやはや……」
ヒジェは楽しそうなクムに見られないように確認しながら、これで正解かどうかを知るためにウォルファの方をちらりと見た。彼女は含み笑いを湛えてこそいるが、目元は満足そうにしている。ヒジェはクムに向き直って矢を渡しながらこんな提案をした。
「では、ここは下手な私に王子様が見本を示してくださいな」
「私がか?」
「そうです!やってみてくださいな」
クムは頷くと、矢を構えて投げた。矢は美しい弧を描いて一発で筒の中に心地よい音を立てて命中した。ヒジェはすかさず反射的に彼を褒めた。
「おおお!やりましたね!流石は王子様!私に投げ方を教えてください。このままだと私のせいで日が暮れそうです」
クムは笑うと丁寧にヒジェに投げ方を教え始めた。彼は熱心に聞いている振りをしながら、どこまでも真剣で輝いているクムの表情の一つ一つを観察していた。
────不思議だ。あの女の子供と言うのに………世子様の地位を揺るがしかねない存在と言うのに………どうしてこんなに憎めないのだろうか。
「ヒジェ叔父上、聞いていますか?」
クムの声で我に返ったヒジェは慌てて頷いた。
「え、ええ!聞いていますよ。このチャン・ヒジェ、今度は成功させますね!」
そしていつも通りに投げて見事命中させた。クムは大喜びではしゃいでいる。彼はヒジェの足下にしがみつくと、満面の笑みを浮かべて見上げた。
「叔父上!さすがです!」
「いやいや。墨を塗られるのはかないませんから……」
だがクムはいつまでたってもヒジェから離れようとはしない。彼はしばらくクムの目を凝視して、その意図に気がついた。そして彼はしゃがみこんでクムを抱き上げた。
「叔父上は背が高いですね!見える世界が違います!」
「王様も高いでしょうに………」
「そうですか?叔父上の方が少し高いですよ。それに、どこを掴んでも怒られません」
「王子様………」
そう言いながらクムは彼の首に手を回した。そして、ヒジェにぽつりと呟いた。
「叔父上。父上と母上の次に、叔父上が大好きです」
「……………延礽君様…………」
その二人の次に、というところがまた子供らしくて可愛い。ヒジェは心の底から微笑むと、クムを一度抱き締めてから部屋の前で下ろした。
「では、また今度。」
「はい!叔父上!」
ヒジェは一礼するとクムに背を向けて歩きだした。その背中が見えなくなるまで、彼はいつまでも手を振り続けた。ヒジェは心苦しく思いながら、一度だけ見えなくなる最後のときに振り返った。笑顔を向けてくるクムがあまりに眩しく、自分はなんて酷い心の持ち主だったのだろうかとヒジェは悲しく思った。遠くで一部始終を見守っていたウォルファは、黙ってヒジェの隣を歩いた。
「……………今日は酒でも飲みたい気分なのでは?」
「……………そなたが酌をしてくれるのなら、飲みたい。………帰るのは気が引ける。家に連絡を入れてから宿屋に行こう」
彼女は黙って頷くと、力無いヒジェの手に自分の手を重ね、そっと握りしめた。
ヒジェは黙々と酒を飲みながら、黙って注いでくれるウォルファに何か話さねばと思い詰め、酒のせいもあって今まで語らなかったことを切り出し始めた。
「────俺の母、つまりそなたの姑、ユン・ソンリプは後妻だ。」
「えっ…そうだったの?」
「前妻は若くして亡くなった下級両班の人だったらしい。間には一人の息子がいて、とても優秀だった。両班との子供だったから、中人の中でも科挙を受けても恥ずかしくないくらいに将来有望な子だったそうだ。」
だった、という言葉にウォルファは嫌な予感を覚えた。そしてヒジェは彼女の予想通りの内容を続けた。
「───だが、皮肉だな。その子は成人する前に流行り病で死んだ。そして跡取りが必要だったし、器量で見初められた母上が後妻としてやって来た。」
ヒジェはそこで一旦言葉を止めた。それから、今まで見せたこともないような辛い顔をしながら再び会話を続けた。
「…………俺は、チャン家の第二子として生を受けた。病気ひとつしない非常に丈夫な子供でな。……だが、父は言葉にさえしなかったが、俺と死んだ長男の出来を心のどこかで比べていた。俺は知っての通り、科挙を受けるほどに学はないし才もない。だから……だから、せめて認めてもらおう、褒めてもらおうと思って、清国語を必死に学んだ。」
「…………もちろん、お父さんは褒めてくれたんでしょう?」
だがウォルファの言葉にヒジェは力なく首を横に振った。
「いや。褒めてなどくれなかった。むしろはっきりと貶され、呆れられた。」
「そんな………」
「父があの日言った言葉を、俺は今も忘れられない。」
彼は目を細めてあの日のことを思い出していた。
その日の天気は、大人になったヒジェが大嫌いな晴れだった。彼は若いながらも中国語の通訳を引き受け、小遣いを稼いできたことを報告することで、父チャン・リョンに成果を認めてもらおうと思い、日差しが居場所を奪おうとせんばかりに照りつけるなか、上機嫌で帰ってきた。
『父上!』
若き14才のヒジェは心の底からの満面の笑みで父にこう言った。
『父上、私の通訳で金が稼げました!先生も清国に留学しても申し分ないくらいに上達したと仰っています!すごいでしょう?』
目を輝かせながらそう言った彼は、次の瞬間父に思いり叩かれた。驚きのあまり、ヒジェは目を白黒させながら父を見上げた。
『父上………?』
『当然だ。お前は中人の子供だからな。身分に合った職能を継ぎ、人生を送ることは当たり前のこと。そんな珍しくもないことで跡取りが子供のように喜ぶな。』
『ち、父上、でも…………』
『いいか、ヒジェ。お前の"小学"を諳じることさえも怪しい能力では、科挙も武官試験も受けられない。だが、幸いにもお前は中人だ。中人の血をしっかり受け継いでいる。お陰で通訳官になれる。それが当然として受け入れられなければ、お前はいつか身の程をわきまえられず痛い目に遭う。』
科挙、という言葉にその頃から血気盛んだったヒジェはとうとう頭の血を迸らせた。
『父上は亡くなった兄さんの方が可愛いんですね!ああ、そうですか!分かっていました!!ずっと分かっていました!!俺はどうせ丈夫なだけのクソガキだ!俺みたいな出来の悪い跡取りが、両班気取りに科挙も武官試験も受けて落ちたらあなたの面目が丸潰れですからね!俺は中人らしく生きればいいんだろう!』
『おいヒジェ、父親に向かってなんという口の聞き方だ』
『うるさい!!子供を大事にしない父親なんて、父親じゃない!俺が死んで兄さんが生きていれば良かったのにって思ってるんだろ!どうせそうなんだろう!?ほら、否定してみろよ!』
『ヒジェ、やめなさい!』
その瞬間、ヒジェの中に今で感じたことの無い冷たい感情が降りた。そして、彼はそのまま父の部屋を飛び出してしまった。子供が稼いだにしてはそこそこの大金だったが、それももう彼の基準では何の価値も持たないただの金属だった。
こうしてヒジェはその金で初めて女を買い、放蕩に明け暮れる生活を始めた。
すべてを話終えて息を切らせたヒジェは、ウォルファの顔を見るのが怖くて俯いた。だが、彼女はクムと同じように予想と反する行動をした。
「……………生きていてくれて、ありがとう」
「……ウォルファ………?」
「あなたが居なければ、私は………私は生きる喜びなんて知らなかった。あなたは、私の生きる意味なのよ。もちろんそれがあなたがお父様に求めていた承認を全て満たすとは思っていないわ。でも………でも…………私はあなたが必要なの。世界の全ての人があなたの敵になったとしても、私はあなたのそばにいたい。あなたが大切だから。私の全てだから。あなたが居なければ私は私では無くなってしまう。」
彼女は両目に涙をためながら、彼を優しく抱き締めた。その言葉を聞いて何かが溢れたヒジェが子供のように泣きじゃくっても、その背中を優しくさすってやった。
「ウォルファ……………………ウォルファ…………そなたが…………………そなたが私の妻で………………妻で居てくれて……………良かった…良かった……本当に………良かった……………」
「ヒジェ様………今日は泣いてね。ずっと泣いていいのよ。気が済むまで…ね」
ずっと泣き続け、しばらくしてから泣きつかれたヒジェは、子供のように目を赤くはらしながらウォルファを見上げた。
「旦那様は大きな子供とは本当のことね」
「………それは誰の言葉だ」
「お母様ですよ。昔、ジングお父様のことをそう仰っていました。」
彼はとたんに口を尖らせると、宿の床に頬杖をついた。その様子がまた子供のようで、ウォルファの笑いを誘う。
「………あのなぁ………人を見て笑うな!どこから見ても美男子ではないか!」
「美男ではありませんか?流石の私にも、男子と言える年には見えません」
「こいつ…………」
ヒジェは彼女の頬を引っ張ると、それでも笑うのを止めない妻に制裁を加えた。
「………ありがとう、ウォルファ」
それはとてもずるく、甘い制裁だった。彼はウォルファの唇に自分の唇を重ね、吐息が漏れるその隙間に舌を這わせた。
「ん……………っ……………」
「そなたが、大好きだ。愛しておる。だから、ずっと俺のものでいて欲しい。それだけが、俺の望みだ。俺の………」
ヒジェの低く、心地よく、安心できる声が彼女の耳元で甘く囁いている。
───ああ。この人の腕の中で、この声を聞けるなら、いつ死んでもいい。
そしてそのまま押し倒されたウォルファは、また彼との甘美で夢見心地な一時に酔いしれるのだった。
「どんぐりは食べられるんですよ」
「へぇ…………不味そうだ…」
「はい、不味いです。でも賤民は皆これを食べて腹を満たしているのです」
「そうなのか…………」
二人がそんな話をしていると、いかにも連日の不安のせいで不機嫌な顔をしたヒジェがやって来た。彼は世子に気づいて一礼し、そして木の上に立っているクムを見て目を丸くした。
「ヨ、延礽君様!なっ、なっ、何をされているんですか!?」
「あ、叔父上!」
クムは木から飛び降りようとした。だが枝が足に引っ掛かって彼は体勢を崩した。そのとき偶然遠くから見ていたトンイは、間に合わないとしても助けねばと裾を捲り上げた。しかし、次の瞬間クムは地面ではなくヒジェの腕の中にいた。
「─────危ないではありませんか。」
「叔父上………」
その様子を見ていた彼女は、呆然と立ち尽くした。
「エジョン………ポン尚宮……今の、見たか?」
「は、はい。確かに、みました」
一同は何が起きているのかを把握できずにいた。トンイは心の中で、自分と息子の命を何度も危険に晒した男と同じ人物なのだろうかと思い、自分の目を疑った。だが、向こうに見える男は確かにこの国の領議政であり南人派のチャン・ヒジェだった。
────一体、何があの男の本性なの…?
そう不思議に思ったトンイは、三人が庭の方に消えていくまでずっと、その背中を見ているのだった。
ヒジェはクムに手を引かれ、庭に連れていかれていた。
「あの………王子様、一体何を………」
「叔父上に見せたいものがあるのです!」
クムはそのまま小さな小屋に入っていくと、一匹のウサギを抱き上げて戻ってきた。
「………ウサギ?」
「そうです!父上からもらったウサギです!叔父上はウサギは嫌いですか?」
雪のように真っ白なウサギはヒジェが怖いのか、しきりに鼻をひくつかせている。
「…………嫌いではない。」
「本当ですか!?この子、ウォルファ叔母上に似てはいませんか?」
「ええ?そうですか?そんなにこのウサギは不細工なのかな……?」
ヒジェは子供相手の茶番に自分でも笑いながら、ウサギを抱き上げてその顔つきをよく見る振りをした。
「うーん、延礽君様。この子は……うちの妻にしては可愛らしすぎます。もっとあの女は怖いですよ」
わざとそう答えるヒジェに、世子が首をかしげた。
「そうなのですか?私はまだ叔父上の奥さまを見たことがないのですが、延礽君から聞いている上では綺麗で優しくて、気立てがよくて………」
「嘘です。王子様、嘘はついてはなりませんよ?」
ウサギをクムに返しながら、彼は父親が子供に戯れるような優しい声で言った。クムはウサギとヒジェを交互に見比べ、しばらく考えてから満面の笑みを浮かべた。
「わかりました!叔母上は可愛いのではありません。綺麗なのですね!」
ヒジェはその瞬間、何も食べていないのに喉を詰まらせて死にそうになった。
「い、いや!!そ、それは…………」
「ヒ、ジェ、さ、ま」
「ひっ………………」
追い討ちをかけるように、いつのまにかやって来ていたウォルファがヒジェの肩をがっしりと掴んで微笑んでいる。
「そ、そなた………何ゆえ………」
「淑儀様に挨拶しに来たの。あなたこそこんなところで何をしているの?」
「ええと……それは……………その……」
どもったヒジェが答える前にクムが返事をする。
「ウサギです!」
「え?ウサギ?」
「はい!このウサギが可愛らしいので、叔母上に似ているのではと尋ねたら、叔父上が否定しました」
きょとんとしていたウォルファは、自分の居ない場所で可愛らしさを否定されていたことに図らずも怒りを覚えた。彼女がヒジェを睨み付けている姿を見て、世子はクムの肩を叩いた。
「延礽君、それは人聞きが悪いぞ………?」
「兄上、だって本当のことです!」
「可愛くなくって悪かったわね。あ、な、た」
「ご、誤解だ………やめてくれ………そんな目で俺を見るな!」
彼女がつんとしてヒジェから視線をそらしたとき、世子がようやく目に入った。慌ててウォルファが挨拶をする。
「せ、世子様!失礼しました。挨拶が遅れて済みません………世子様の叔父上様の妻、ウォルファと申します」
「そんな!頭を下げないでください。………綺麗ですね、奥様は。」
「えっ?あら…そう……かしら?」
思わず思ったことを口に出した世子は、顔を赤くしてしまった。ウォルファも褒められたことが嬉しくて照れている。ヒジェはそんな二人の様子を見てすっかり拗ねてしまった。
「………たかだか綺麗だと言われたくらいで……情けない」
「叔父上。女性は皆、あのエジョンでも綺麗だと褒められると喜びます。ですから、叔父上も叔母上をほめるのです!沢山褒めれば良いことがあるやも知れません!」
目を輝かせて慰めてくれるクムの方を呆れながら見たヒジェは、ため息混じりに返事をした。
「褒める、か……一番苦手なことなのですが………」
「では、私で練習してみてください!」
意外な提案に彼は驚いた。一体、憎たらしい子供のどこを褒めれば良いのか。だが、頭でそう思っている彼だったが、何故か今回は口が先に動いていた。
「────延礽君様は、いつも笑顔で素晴らしいです。大人になると、笑顔を忘れてしまうものですから……」
「そうなのですか?叔父上は笑わないのですか?」
「そうではありませんが………妻と居るとき以外はあまり、心の底からは笑いませんね」
クムは少し考えると、おもむろに顔を手で覆って後ろを向いた。ヒジェもウォルファも世子も、この話の流れから一体何が始まるのかと不思議に思っていた。すると、もう一度振り向いたクムは変顔をしながらヒジェを見た。
「……………酷い顔です。」
「面白いですか?笑えそうですか?」
「……………え?」
「叔父上が誰の前でも心から笑えるように、私は頑張ってみます!いいですか?」
ヒジェはしばらく黙り込んでいると、クムの目は見ずに頷いた。
幼子の純粋な優しさが、ウォルファが政治家としての心を溶かしたように、ヒジェの悪人としての二面性を形取っている仮面にひびを入れた。そして、その僅かな変化をウォルファだけはしっかりと見ているのだった。
クムはヒジェの手を再び引っ張ると、世子の庭に連れてきた。そこには筒に矢を投げ入れて遊ぶ道具が用意されており、彼はヒジェに矢を無理矢理持たせると投げるように催促した。
「叔父上!失敗したら顔に墨を塗りますね!」
「えっ?そ、そんな……」
どうせ子供の遊びとたかをくくっていたヒジェは、ウォルファを哀願するような目で見た。だが彼女は縁側に座って微笑みを返すだけだ。仕方がなく彼は矢を構えた。だが、ここでふと悩みが生じた。
───これは、真剣な振りをして外した方がいいのか?やはり、成功させるのは最後にすべきなのだよな……?
そう、ウォルファはヒジェがどこまで大人として子供に接することができるかを楽しみに見ているのだ。彼はそんな妻の意図も知らず、わざと真剣な振りをして矢を投げた。的屋のものでさえ命中させられた彼だからこそ、縁に当てて惜しさを演出するのもお手のものだった。
「ああっ!惜しい………」
「困りましたね……真剣に頑張ったんですが……いやはや……」
ヒジェは楽しそうなクムに見られないように確認しながら、これで正解かどうかを知るためにウォルファの方をちらりと見た。彼女は含み笑いを湛えてこそいるが、目元は満足そうにしている。ヒジェはクムに向き直って矢を渡しながらこんな提案をした。
「では、ここは下手な私に王子様が見本を示してくださいな」
「私がか?」
「そうです!やってみてくださいな」
クムは頷くと、矢を構えて投げた。矢は美しい弧を描いて一発で筒の中に心地よい音を立てて命中した。ヒジェはすかさず反射的に彼を褒めた。
「おおお!やりましたね!流石は王子様!私に投げ方を教えてください。このままだと私のせいで日が暮れそうです」
クムは笑うと丁寧にヒジェに投げ方を教え始めた。彼は熱心に聞いている振りをしながら、どこまでも真剣で輝いているクムの表情の一つ一つを観察していた。
────不思議だ。あの女の子供と言うのに………世子様の地位を揺るがしかねない存在と言うのに………どうしてこんなに憎めないのだろうか。
「ヒジェ叔父上、聞いていますか?」
クムの声で我に返ったヒジェは慌てて頷いた。
「え、ええ!聞いていますよ。このチャン・ヒジェ、今度は成功させますね!」
そしていつも通りに投げて見事命中させた。クムは大喜びではしゃいでいる。彼はヒジェの足下にしがみつくと、満面の笑みを浮かべて見上げた。
「叔父上!さすがです!」
「いやいや。墨を塗られるのはかないませんから……」
だがクムはいつまでたってもヒジェから離れようとはしない。彼はしばらくクムの目を凝視して、その意図に気がついた。そして彼はしゃがみこんでクムを抱き上げた。
「叔父上は背が高いですね!見える世界が違います!」
「王様も高いでしょうに………」
「そうですか?叔父上の方が少し高いですよ。それに、どこを掴んでも怒られません」
「王子様………」
そう言いながらクムは彼の首に手を回した。そして、ヒジェにぽつりと呟いた。
「叔父上。父上と母上の次に、叔父上が大好きです」
「……………延礽君様…………」
その二人の次に、というところがまた子供らしくて可愛い。ヒジェは心の底から微笑むと、クムを一度抱き締めてから部屋の前で下ろした。
「では、また今度。」
「はい!叔父上!」
ヒジェは一礼するとクムに背を向けて歩きだした。その背中が見えなくなるまで、彼はいつまでも手を振り続けた。ヒジェは心苦しく思いながら、一度だけ見えなくなる最後のときに振り返った。笑顔を向けてくるクムがあまりに眩しく、自分はなんて酷い心の持ち主だったのだろうかとヒジェは悲しく思った。遠くで一部始終を見守っていたウォルファは、黙ってヒジェの隣を歩いた。
「……………今日は酒でも飲みたい気分なのでは?」
「……………そなたが酌をしてくれるのなら、飲みたい。………帰るのは気が引ける。家に連絡を入れてから宿屋に行こう」
彼女は黙って頷くと、力無いヒジェの手に自分の手を重ね、そっと握りしめた。
ヒジェは黙々と酒を飲みながら、黙って注いでくれるウォルファに何か話さねばと思い詰め、酒のせいもあって今まで語らなかったことを切り出し始めた。
「────俺の母、つまりそなたの姑、ユン・ソンリプは後妻だ。」
「えっ…そうだったの?」
「前妻は若くして亡くなった下級両班の人だったらしい。間には一人の息子がいて、とても優秀だった。両班との子供だったから、中人の中でも科挙を受けても恥ずかしくないくらいに将来有望な子だったそうだ。」
だった、という言葉にウォルファは嫌な予感を覚えた。そしてヒジェは彼女の予想通りの内容を続けた。
「───だが、皮肉だな。その子は成人する前に流行り病で死んだ。そして跡取りが必要だったし、器量で見初められた母上が後妻としてやって来た。」
ヒジェはそこで一旦言葉を止めた。それから、今まで見せたこともないような辛い顔をしながら再び会話を続けた。
「…………俺は、チャン家の第二子として生を受けた。病気ひとつしない非常に丈夫な子供でな。……だが、父は言葉にさえしなかったが、俺と死んだ長男の出来を心のどこかで比べていた。俺は知っての通り、科挙を受けるほどに学はないし才もない。だから……だから、せめて認めてもらおう、褒めてもらおうと思って、清国語を必死に学んだ。」
「…………もちろん、お父さんは褒めてくれたんでしょう?」
だがウォルファの言葉にヒジェは力なく首を横に振った。
「いや。褒めてなどくれなかった。むしろはっきりと貶され、呆れられた。」
「そんな………」
「父があの日言った言葉を、俺は今も忘れられない。」
彼は目を細めてあの日のことを思い出していた。
その日の天気は、大人になったヒジェが大嫌いな晴れだった。彼は若いながらも中国語の通訳を引き受け、小遣いを稼いできたことを報告することで、父チャン・リョンに成果を認めてもらおうと思い、日差しが居場所を奪おうとせんばかりに照りつけるなか、上機嫌で帰ってきた。
『父上!』
若き14才のヒジェは心の底からの満面の笑みで父にこう言った。
『父上、私の通訳で金が稼げました!先生も清国に留学しても申し分ないくらいに上達したと仰っています!すごいでしょう?』
目を輝かせながらそう言った彼は、次の瞬間父に思いり叩かれた。驚きのあまり、ヒジェは目を白黒させながら父を見上げた。
『父上………?』
『当然だ。お前は中人の子供だからな。身分に合った職能を継ぎ、人生を送ることは当たり前のこと。そんな珍しくもないことで跡取りが子供のように喜ぶな。』
『ち、父上、でも…………』
『いいか、ヒジェ。お前の"小学"を諳じることさえも怪しい能力では、科挙も武官試験も受けられない。だが、幸いにもお前は中人だ。中人の血をしっかり受け継いでいる。お陰で通訳官になれる。それが当然として受け入れられなければ、お前はいつか身の程をわきまえられず痛い目に遭う。』
科挙、という言葉にその頃から血気盛んだったヒジェはとうとう頭の血を迸らせた。
『父上は亡くなった兄さんの方が可愛いんですね!ああ、そうですか!分かっていました!!ずっと分かっていました!!俺はどうせ丈夫なだけのクソガキだ!俺みたいな出来の悪い跡取りが、両班気取りに科挙も武官試験も受けて落ちたらあなたの面目が丸潰れですからね!俺は中人らしく生きればいいんだろう!』
『おいヒジェ、父親に向かってなんという口の聞き方だ』
『うるさい!!子供を大事にしない父親なんて、父親じゃない!俺が死んで兄さんが生きていれば良かったのにって思ってるんだろ!どうせそうなんだろう!?ほら、否定してみろよ!』
『ヒジェ、やめなさい!』
その瞬間、ヒジェの中に今で感じたことの無い冷たい感情が降りた。そして、彼はそのまま父の部屋を飛び出してしまった。子供が稼いだにしてはそこそこの大金だったが、それももう彼の基準では何の価値も持たないただの金属だった。
こうしてヒジェはその金で初めて女を買い、放蕩に明け暮れる生活を始めた。
すべてを話終えて息を切らせたヒジェは、ウォルファの顔を見るのが怖くて俯いた。だが、彼女はクムと同じように予想と反する行動をした。
「……………生きていてくれて、ありがとう」
「……ウォルファ………?」
「あなたが居なければ、私は………私は生きる喜びなんて知らなかった。あなたは、私の生きる意味なのよ。もちろんそれがあなたがお父様に求めていた承認を全て満たすとは思っていないわ。でも………でも…………私はあなたが必要なの。世界の全ての人があなたの敵になったとしても、私はあなたのそばにいたい。あなたが大切だから。私の全てだから。あなたが居なければ私は私では無くなってしまう。」
彼女は両目に涙をためながら、彼を優しく抱き締めた。その言葉を聞いて何かが溢れたヒジェが子供のように泣きじゃくっても、その背中を優しくさすってやった。
「ウォルファ……………………ウォルファ…………そなたが…………………そなたが私の妻で………………妻で居てくれて……………良かった…良かった……本当に………良かった……………」
「ヒジェ様………今日は泣いてね。ずっと泣いていいのよ。気が済むまで…ね」
ずっと泣き続け、しばらくしてから泣きつかれたヒジェは、子供のように目を赤くはらしながらウォルファを見上げた。
「旦那様は大きな子供とは本当のことね」
「………それは誰の言葉だ」
「お母様ですよ。昔、ジングお父様のことをそう仰っていました。」
彼はとたんに口を尖らせると、宿の床に頬杖をついた。その様子がまた子供のようで、ウォルファの笑いを誘う。
「………あのなぁ………人を見て笑うな!どこから見ても美男子ではないか!」
「美男ではありませんか?流石の私にも、男子と言える年には見えません」
「こいつ…………」
ヒジェは彼女の頬を引っ張ると、それでも笑うのを止めない妻に制裁を加えた。
「………ありがとう、ウォルファ」
それはとてもずるく、甘い制裁だった。彼はウォルファの唇に自分の唇を重ね、吐息が漏れるその隙間に舌を這わせた。
「ん……………っ……………」
「そなたが、大好きだ。愛しておる。だから、ずっと俺のものでいて欲しい。それだけが、俺の望みだ。俺の………」
ヒジェの低く、心地よく、安心できる声が彼女の耳元で甘く囁いている。
───ああ。この人の腕の中で、この声を聞けるなら、いつ死んでもいい。
そしてそのまま押し倒されたウォルファは、また彼との甘美で夢見心地な一時に酔いしれるのだった。