5、覚めない夢
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ヒジェは日中の日差しを受けてまどろむ中、ウォルファが寝ている方向を手でまさぐった。
「………ん…………」
手に彼女の柔肌に包まれた肩が触れる。彼は安心するとそのままウォルファを抱き寄せた。まだ寝ぼけている彼女がヒジェの胸に顔を埋めてくる。寝息が肌に当たる度、彼は昨晩のことが夢ではなかったのだと喜びに打ち震えた。
「……………ウォルファ…………」
未だ冷めやらぬ熱を燻らせながら、ヒジェは目を開けてそっと彼女の髪を撫でた。
「…………ヒジェ様……………好き……………」
一体何の夢を見ているのか、ウォルファはその整った純情そうな顔を、ほんの少し妖艶に歪め喘ぐように寝言を言った。
「………もっと良くしてやろうか?ん?」
ヒジェは面白そうなものを見つけたと言いたげに笑うと、彼女の耳元で囁いた。彼女はヒジェの言葉にうっすら笑みを浮かべると、不意に目を開けた。目の前に居たのは、悪戯っ子のような笑顔を浮かべる裸のヒジェだった。
「えっ………………」
「お早う、ウォルファ。いや───"お前"。」
「お、お早うございます………あなた。」
ウォルファは起き上がると既に昼を過ぎようとしていることに気づいた。一方ヒジェはそんなことには慣れているのか、何食わぬ顔で使用人を呼びつけている。
「さて…………昨日はどうだった?」
「あ……………え………はい?」
ウォルファはきょとんとしながらヒジェの質問に質問で返す。
「ふふっ、そなた。誠に可愛らしいな。昨晩は俺の名をあんなに色っぽい声で呼んでいたくせに。」
「お、お忘れください!!も、もう………その……………」
彼はまたそんな姿が愛らしく思え、目覚めたばかりのウォルファを再び押し倒した。
「………朝も頼んだぞ」
「えっ………」
ヒジェが戸惑うウォルファの寝巻きに手をかけようとしたときだった。チェリョンとイェジンが支度のために部屋に入ってきた。
「失礼します、旦那様、奥様。」
「おっ、おう…………た、頼んだぞ…………」
「お、お早う、二人とも………」
ウォルファとヒジェは互いにそっぽを向くと、どこ吹く風のような顔をして服を着せられた。ウォルファの結い上げられた髪がかんざしで止められる。それが今日から彼女が、ヒジェの妻として生きていけるという証であり、また彼の妻であることを示すものだった。
少し大人しめで淡い紫色のチマと白を基調としたチョゴリを身に纏った彼女は、最後にヒジェから貰った紐飾りを付け、彼に向き直った。
「どうかしら………変、でしょうか?」
「い、いや。とても…………良い。綺麗だ。」
ヒジェは自分の目の前に立つ女性が本当に妻となったのかを確かめたくて、一度しっかり抱き締めた。
「……確かに、そなただ。そなたがいる。」
「はい、私です。妻として、今お側にいます。」
「夢のようだ………幸せだ」
「…そうですね。会いたかった。ずっと、確かな安心を持って会いたかった。」
彼は不甲斐なく出てくる涙を拭うと、愛しい妻の手をとって部屋を出るのだった。
一方、部屋ではウンテクがずっと苛立っていた。
「おい、チェリョン。あの男はちゃんとウォルファに睡眠を取らせているんだろうな………?」
「ええと…………」
ステクは戸惑う妻の代わりにあわてて答えた。
「も、もちろんです。」
「全く………お前たち、もっと相手にわからない嘘をつけ!使用人の間では、うちの妹が昨晩とんでもない目に遭わされたらしいと………」
ウンテクが激昂した時だった。わざとなのか、驚くほどに能天気なヒジェの声が聞こえてきた。
「失礼します、ウンテク殿。」
「………どうぞ、ヒジェ殿。」
清々しく部屋に入ってきた彼は、ウンテクの前に座ると丁寧に礼儀を踏んだお辞儀をした。
「………宜しくお願い致します、"兄上"」
ヒジェがそう言うと、ウンテクはわざとらしく手を振った。
「兄上だなんて、とんでもない!私の方が年下で位が下なのに。私こそ、"兄上"と呼ばせてください。」
「ではそうさせていただきますね、"弟"よ。」
してやったりと言いたげな表情で笑うと、ヒジェは嫌味たらしくそう呼んだ。ウンテクは青筋を額に浮かべながらひきつった笑顔を返した。
「…………はい、"兄上"。」
二人は握手を交わしたが、その手にはありったけの力が込められていた。互いの手を粉砕する勢いで手を握る二人を、チェリョンとステクがやんわり止めようとしたときだった。
「失礼します。」
ウォルファが部屋に現れた。どこか女性として輝いて見える妹のすっかり変わったその姿に、ウンテクは思わず二度見をしてしまう。
「改めて、ごあいさつさせていただきます。領議政チャン・ヒジェ様の妻となりました、ウォルファと申します。今後は西人ではなく南人として扱ってくださいな。」
「そ、そうか……………」
ウンテクは少し考えると、柄にもなくこんなことを言った。
「ウォルファ。今日から三日間は、ヒジェ兄上とうちで自由に過ごしなさい。」
「え………?」
「ずっと許されなかった二人の幸せを、私がこれからは許そう。存分に謳歌すれば良い。」
ウォルファとヒジェは目を丸くして互いの顔を見合わせたが、やがて花が咲いたような笑顔を浮かべると、ウンテクに一礼するのだった。
ヒジェとウォルファは、彼女の案内でウォルファの部屋に来ていた。
「ほう………ここがそなたの部屋か。きちんと見たことがなくてな。」
薄桃色を基調にした薄布が所々に掛けてある部屋は、彼女らしくて実に可愛らしかった。
「この部屋の内装を、そのままそなたの新しい部屋に写そう。その方が落ち着くだろう?」
「えっ?私の部屋があるのですか?」
「当然だ。その代わり、寝室は同じだぞ。」
ウォルファはあくまで少しでも共に居たいというヒジェのささやかな願いに愛しさを覚えると、素直に頷いた。
「お屋敷のどこに私の部屋は決まるの?」
「ん?ああ、それは………俺の部屋のすぐ向かい側、だな。」
「そんなに近くして、嫌になったらどうするんですか。」
ヒジェはその言葉に吹き出すと、彼女のでこを指先で小突いた。
「問題ない。それより扉を開けるとき、同時に開けると頭をぶつけるから気を付けろよ」
彼は失笑すると、ウォルファを抱き寄せた。
「わかっています。私、石頭ですから死なないでくださいね」
「おお、怖い……………はっ、そういえば昨日の夜。俺の胸に頭をぶつけていたな。肋骨が折れたのではないか……?」
「もう!失礼ですね!」
おどけた調子で胸元をさするヒジェの手を軽く叩くと、ウォルファは笑った。彼もそれを見て笑う。
その楽しそうなやり取りは外にも聞こえていた。イェリはチェリョンたちとその声を聞き、感慨深さにふけっていた。
「………あの子が声をあげて、あんなに楽しそうに笑うのを見たのは久しぶりだわ。」
「そうですね。お嬢様、ずっと鬱ぎ込んでいましたから。」
「そうか?チェリョン。私など、あんなに楽しそうなヒジェ様なんて初めて見たぞ。」
ステクはここまで来るのに随分かかったなと思い返していた。一時はどうなることかと思った二人だったが、運命の悪戯としか言い様のない偶然を重ね、元あるべき道に戻ってきたのだ。
「…………私決めた!今年の豊穣祭のお願い事は、もう誰もお二人の幸せを邪魔しませんように。これにする!」
「いいな、それ。俺もそう願おうか。」
「二人とも楽しそうね。私もそうしようかしら。」
三人は微笑み合うと、再び新婚夫婦の姿に視線を戻した。庭に出ている二人は幼い頃の話に花咲かせている。
「ここの塀によく登って外を見ていたわ。チェリョンについてきてもらってこっそり出たこともあるの。」
「ふぅん……………まぁ、木に登るくらいのお転婆だからな。それくらいは有り得る」
「なっ……………」
ウォルファがその言葉に拗ねた振りをして そっぽを向く。ヒジェは手慣れた様子でそんな彼女を後ろから包み込むように抱き締めた。
「……………愛してる。」
「……………私も、愛してる。あなたが大好き。ずっと側に居たい」
「何故、俺とそなたはこれほどにも同じ気持ちなのだろうな…………」
「わかりません。でも、確かなことはひとつだけです。私が、あなたを愛している。それだけです。」
ウォルファは彼に向き直ると、その胸に顔を埋めた。
「お側に…………居たい………それが夢でした。今、それが叶っているなんて。夢みたい」
「ずっとそなたの手を離さずに済むことが、俺の夢だった。もう、離さん。決して離さん。愛してる。俺が生涯ただ一人愛したそなたを。」
ヒジェは彼女の頬を指でなぞりながら微笑んだ。
「不可能なことはない。やっと俺は証明できた。中人と賤民の子であっても、愛する人と生きていけると。身分にも党派にも抗えると。」
「ヒジェ様……………」
「ウォルファ。俺を待っていてくれて、ありがとう」
「それは私の台詞です。六年間も……………」
彼女は溢れる涙のせいで最後まで言えず、言葉を途切れさせた。
「待っていたから?俺が?いいや、当然のことだ。そなたを愛しているのだから……………」
ヒジェは彼女の涙を唇で拭うと、そのまま口づけをした。
「本当に………ありがとう……………俺のことを愛してくれて………」
「いいのよ………そんなの…………」
彼はウォルファの手を取ると、中庭へと移動した。その手から伝わる温もりがあまりに優しくて、彼女はそっと握り返した。
───この幸せが、永遠に続けばいいのに。
もうどんな苦難も二人なら乗り越えられる。このとき、二人は幸せの絶頂の中でそう信じていた。そして、もう越えられないものも抗えないものもないと。
そして三日後、初夜の期間が終わったヒジェは妻───ウォルファを連れて屋敷に戻った。部屋に通された彼女は、そのまま宮殿へ向かう支度を始めた。
「まずは王様の元へ向かう。それから就善堂へ。……悪いが、宝慶堂は最後になる。」
「全然気になさらないでください。私はもう南人の妻ですから。」
支度を済ませたウォルファが笑顔でヒジェの手を繋いだ。彼は少し痛む想いをこらえ、輿に乗った。
宮殿へ行くまでの道中、あらゆる人の視線が彼らを捉えた。ある人は純粋に羨ましがり、またある人は妬み、蔑みもした。初めて曝される社会の視線から守ってやろうと思い、ヒジェはチェリョンに伝言をした。
「…………旦那様が気にするな、と仰せです。」
「ありがとう。私は大丈夫です。旦那様の妻として社会に見られていることが、私にとって何よりの幸せだと伝えてちょうだい。」
チェリョンはそのままそれをヒジェに伝えた。公衆の面前とはいえ、彼の口許が思わず綻ぶ。そして誰にも聞こえないよう、小さな声でこぼした。
「………………当分寝不足になりそうだ。」
ウォルファは妻としてやって来る宮殿の空気の違いに驚いていた。ヒジェの隣に立つ。それはつまり、領議政の正妻として見られることになるからだ。しかもただの正妻ではない。溢れんばかりの激しい愛を一身に受け、西人である妻なのだ。緊張する彼女の肩を叩き、手を握ったヒジェは耳打ちをした。
「あまりそう固まるな。気にすることはない。」
「で、でも………………」
「大丈夫だ、俺が守ってやる。ただし、チャン・ムヨルには気を付けよ。あいつがそなたを拐って火をつけた。」
ため息をついた彼女は、ヒジェの手を無言で握り返す。彼はウォルファの手を引くと、優しく先導した。
「おお、これは。領議政殿ではないか」
「どうも、サンヒョン殿。」
少論のイム・サンヒョンがヒジェに気づくと声をかけてきた。ウォルファは一礼をすると、相手の表情をうかがい、夫の敵か見方かを探った。彼はウォルファに近づくと、まじまじとその顔立ちを観察し始めた。
「ほう…………お美しいですね。」
「サンヒョン殿。」
怯えるウォルファをこの好色な官僚の視線から守るため、ヒジェは彼女の前に立ち塞がった。
「今から王様と今回新たに親戚関係となった各内命婦の皆様に挨拶をせねばなりません。ですから、今日のことろは失礼します。」
「わかった。また後日な」
「はい」
ヒジェはサンヒョンを追い払ったことを見届けてから、ウォルファを抱き締めた。
「大丈夫か?あのスケベじじいめ…………」
「旦那様が助けてくださったから、大丈夫です。」
「………俺が?」
「ええ。ありがとうございます。」
彼女はそう言うと、ヒジェの服を直し始めた。
「王様に謁見するのですから、きれいにしないと。ね?」
「あ、ああ…………ありがとう…………」
すっかり妻らしくなったウォルファが、本当に夢のような存在だったので、彼は思わずその手を掴んだ。
「…………どうしたのですか?」
「そなた……だよな?」
「はい。そうです。」
「…………そうか……………そなただよな…………済まん、変なことを聞いて。」
何度も自分に言い聞かせている様子のヒジェのことを不思議に思った彼女は首をかしげたが、それ以上は何も言わなかった。
二人は便殿に行ったが、粛宗は宝慶堂にいると伝えられた。そして伝言を預かっている尚宮が、ヒジェとウォルファが来たら宝慶堂に来なさいと彼らに伝えた。
ヒジェは渋々宝慶堂へと歩き始めた。ウォルファは憂鬱そうな彼のことを心配すると、今度は自分からその手を掴んだ。
「大丈夫です。淑儀様も許してくれますよ。」
「そういう問題ではないのだがな…………」
二人が宝慶堂にやって来ると、真っ先に出迎えたのは意外にもクム───延礽君だった
「先生!!!領議政とは相変わらず………あれ?先生、婚姻したのですか?」
ウォルファは延礽君を抱き締めると、微笑みながらしゃがみこんだ。
「そうですよ。クムさん……じゃなくて延礽君様が放火騒ぎのせいでお母様と王様の別邸にいらっしゃる間に、私も事件に遇い、領議政様の別邸に匿ってもらったの。それで、身分が回復してから王様に婚姻を許してもらったのです」
「そうだったのですか!では今日から領議政は私の叔父上にもなるのですね!」
「………はい?」
クムは満面の笑みでヒジェの手を握った。子供が元来大嫌いな彼はトンイの子供というのもあり、思わず引き付けを起こしそうになった。だが、クムは気にせず彼にべったりしている。
「叔父上!叔父上!私には親戚が少ないので、叔父上はたった一人の叔父上なのです。叔父上~!」
今まではウォルファが戻るために必要だったから大切にしていただけだ。ヒジェはそう言い聞かせると、クムを上手く引き剥がそうと手を伸ばした。だが、何故か手がそれを拒む。まるで良心の欠片が少しでも残っているかのように、彼の大きく広い手は優しくクムの頭を撫でた。
「…………どうぞ。お好きに呼んでください。」
「本当ですか?やったぁ!!あ、母上!!母上!!」
クムは大喜びでヒジェから離れると、トンイの手を引いて二人の前に連れてきた。
「領議政が叔父上になってくださるそうです!」
「えっ………?」
トンイは目を丸くしてヒジェとクムを交互に見た。今までずっと命を狙ってきた男が、何故今更クムに優しくするのか。その好意になんの裏表もないとは信じられない彼女は、じっと彼の顔を見た。ただならぬ互いの敵意に子供ながら勘づいたクムは、母の手を離すと粛宗を呼びに行った。
トンイは静かな声でこう言った。
「…………クムに何をする気だ」
「とんでもない。王様は換局政治をお止めになった。その方針を真っ先に領議政である私が行うのは当然のこと。」
「…………信じられぬ。」
睨み合う二人の間に入ったウォルファは、ヒジェの腰に手を回すとトンイの方を振り返り、笑顔を作った。
「淑儀様、あなた。お止めになってください。王様が来られましたよ」
「ああ、そうか。ありがとう、ウォルファ」
王の元へ行くヒジェの背中を、トンイはいつまでも疑惑のこもった目で見続けるのだった。
王との謁見を済ませた二人は、その足で就善堂へ向かった。クムはもちろんヒジェを引き留めようとしたが、彼はまた今度行きますとだけ言うと、またいつもの政治家としての顔に戻った。ウォルファは不安そうに彼の顔を覗き込んだ。
「………優しいんですね。でも淑儀様の仰る通り、裏があるようにしか思えません」
「そうか?まぁ、俺のような男が人に優しくすると、疑われることはもはや宿命だ。だが、延礽君様のことは本当に何も謀ってはおらぬ。放火の犯人も知らん。」
本音で語っていることに気付いたウォルファは、少しずつ彼の優しさが滲み出始めているのだろうかと思った。だが、もちろん彼自身は気づいていない。それが少し面白くて、彼女はくすっと笑った。
「………何が面白い。」
「あなたが優しいからよ。」
「…………俺が優しいのは、そなたと互いの母上、そして禧嬪様と世子様だけだ。」
それを聞いて、彼女はふと思った。
「あなたのお父様は?」
「え?ん?父か?………………わからん。もうとっくの昔に死んだからな。忘れた」
その言葉には明らかな動揺と、ウォルファにさえも踏み込んでほしくないという強い拒絶が存在していた。
「………そう。」
そして無言で歩くヒジェの横顔を見て、彼女は痛感した。
────まだ、私はこの人のことを何も知らない。
だが、これから知っていけばいい。先は長いのだから。そう思うと、彼女は少しだけ早足になってヒジェに追い付くのだった。
禧嬪は無言で待っていた。懐かしい親友との再会なのに、素直に喜べないのは、やはり兄のヒジェが禧嬪の子である世子をも危険に晒してでも彼女を手に入れようとしたからだった。
─────兄上は、異常だ。ここまで人を愛するなど。
ヒジェはウォルファを連れて部屋に入ると、どこから話せばいいのだろうかと珍しく口をもごつかせた。すると、意外にも話始めたのはウォルファの方だった。
「───禧嬪様が、お怒りなのは分かっています。ですが、嫁いだからには全身全霊で西人を捨てて南人になります。その覚悟がなければ、この方への愛など到底貫けませんから」
彼女は静かに微笑んだ。ため息をついた禧嬪──オクチョンは、おもむろに紐細工を取り出した。
「……覚えているか?そなたが作ってくれたものだ。嫁入り道具の蝶の鍵飾り。これを持って承恩尚宮になったときは、本当に嬉しかった。友として、そなたはずっと私を支えてくれた。」
ウォルファは懐かしさに目を細めた。オクチョンは束の間───ほんの束の間、チャン・オクチョンに戻った。
「そなたは兄上のことを、兄上だとは知らずに散々駄目だしをしていたな。まさか婚姻するとは思っても見なかったであろう」
ウォルファと彼女は大笑いした。もちろんヒジェは何の話かさっぱりである。
「禧嬪様、ちなみにどのような駄目出しで………?」
「それは言えません。親友との秘密ですから。」
「ありがとうございます。お陰で痛い目に遭わされずに済みそうです。」
ぺろりと舌先を少しだけ出して笑うウォルファに対して、ますます何の話だろうかと思ったヒジェは、今晩絶対に聞いてやると強く思った。オクチョンはヒジェに真剣な顔でこう言った。
「兄上、ウォルファを大切にしてくださいね。この子ならきっと、先程の誓い通りに兄上を支えてくれるでしょう。」
「はい、勿論です。必ず、大切にします。肝に命じておきます。」
そして再び禧嬪に戻った彼女は、無言で帰宅するように促した。ウォルファとヒジェは就善堂から出ると、ヒジェの方が久しぶりにどこかに出掛けようと言い出した。
「党首会議は?」
「明日になった。ユンが腹痛らしい。」
と言うと彼は不敵な笑みを浮かべた。その表情からすぐ、ユンは自分達のことを気遣って会議を延期したのだとウォルファは気付いた。
「では、どこへ行こう。」
「………もう一度、都が見渡せるあの場所へ行きたい。」
「ああ…………大晦日のときの…………」
ヒジェは色々と思い出して微笑むと、官服も着替えずに彼女の手をしっかりと握って歩きだした。
「………ん…………」
手に彼女の柔肌に包まれた肩が触れる。彼は安心するとそのままウォルファを抱き寄せた。まだ寝ぼけている彼女がヒジェの胸に顔を埋めてくる。寝息が肌に当たる度、彼は昨晩のことが夢ではなかったのだと喜びに打ち震えた。
「……………ウォルファ…………」
未だ冷めやらぬ熱を燻らせながら、ヒジェは目を開けてそっと彼女の髪を撫でた。
「…………ヒジェ様……………好き……………」
一体何の夢を見ているのか、ウォルファはその整った純情そうな顔を、ほんの少し妖艶に歪め喘ぐように寝言を言った。
「………もっと良くしてやろうか?ん?」
ヒジェは面白そうなものを見つけたと言いたげに笑うと、彼女の耳元で囁いた。彼女はヒジェの言葉にうっすら笑みを浮かべると、不意に目を開けた。目の前に居たのは、悪戯っ子のような笑顔を浮かべる裸のヒジェだった。
「えっ………………」
「お早う、ウォルファ。いや───"お前"。」
「お、お早うございます………あなた。」
ウォルファは起き上がると既に昼を過ぎようとしていることに気づいた。一方ヒジェはそんなことには慣れているのか、何食わぬ顔で使用人を呼びつけている。
「さて…………昨日はどうだった?」
「あ……………え………はい?」
ウォルファはきょとんとしながらヒジェの質問に質問で返す。
「ふふっ、そなた。誠に可愛らしいな。昨晩は俺の名をあんなに色っぽい声で呼んでいたくせに。」
「お、お忘れください!!も、もう………その……………」
彼はまたそんな姿が愛らしく思え、目覚めたばかりのウォルファを再び押し倒した。
「………朝も頼んだぞ」
「えっ………」
ヒジェが戸惑うウォルファの寝巻きに手をかけようとしたときだった。チェリョンとイェジンが支度のために部屋に入ってきた。
「失礼します、旦那様、奥様。」
「おっ、おう…………た、頼んだぞ…………」
「お、お早う、二人とも………」
ウォルファとヒジェは互いにそっぽを向くと、どこ吹く風のような顔をして服を着せられた。ウォルファの結い上げられた髪がかんざしで止められる。それが今日から彼女が、ヒジェの妻として生きていけるという証であり、また彼の妻であることを示すものだった。
少し大人しめで淡い紫色のチマと白を基調としたチョゴリを身に纏った彼女は、最後にヒジェから貰った紐飾りを付け、彼に向き直った。
「どうかしら………変、でしょうか?」
「い、いや。とても…………良い。綺麗だ。」
ヒジェは自分の目の前に立つ女性が本当に妻となったのかを確かめたくて、一度しっかり抱き締めた。
「……確かに、そなただ。そなたがいる。」
「はい、私です。妻として、今お側にいます。」
「夢のようだ………幸せだ」
「…そうですね。会いたかった。ずっと、確かな安心を持って会いたかった。」
彼は不甲斐なく出てくる涙を拭うと、愛しい妻の手をとって部屋を出るのだった。
一方、部屋ではウンテクがずっと苛立っていた。
「おい、チェリョン。あの男はちゃんとウォルファに睡眠を取らせているんだろうな………?」
「ええと…………」
ステクは戸惑う妻の代わりにあわてて答えた。
「も、もちろんです。」
「全く………お前たち、もっと相手にわからない嘘をつけ!使用人の間では、うちの妹が昨晩とんでもない目に遭わされたらしいと………」
ウンテクが激昂した時だった。わざとなのか、驚くほどに能天気なヒジェの声が聞こえてきた。
「失礼します、ウンテク殿。」
「………どうぞ、ヒジェ殿。」
清々しく部屋に入ってきた彼は、ウンテクの前に座ると丁寧に礼儀を踏んだお辞儀をした。
「………宜しくお願い致します、"兄上"」
ヒジェがそう言うと、ウンテクはわざとらしく手を振った。
「兄上だなんて、とんでもない!私の方が年下で位が下なのに。私こそ、"兄上"と呼ばせてください。」
「ではそうさせていただきますね、"弟"よ。」
してやったりと言いたげな表情で笑うと、ヒジェは嫌味たらしくそう呼んだ。ウンテクは青筋を額に浮かべながらひきつった笑顔を返した。
「…………はい、"兄上"。」
二人は握手を交わしたが、その手にはありったけの力が込められていた。互いの手を粉砕する勢いで手を握る二人を、チェリョンとステクがやんわり止めようとしたときだった。
「失礼します。」
ウォルファが部屋に現れた。どこか女性として輝いて見える妹のすっかり変わったその姿に、ウンテクは思わず二度見をしてしまう。
「改めて、ごあいさつさせていただきます。領議政チャン・ヒジェ様の妻となりました、ウォルファと申します。今後は西人ではなく南人として扱ってくださいな。」
「そ、そうか……………」
ウンテクは少し考えると、柄にもなくこんなことを言った。
「ウォルファ。今日から三日間は、ヒジェ兄上とうちで自由に過ごしなさい。」
「え………?」
「ずっと許されなかった二人の幸せを、私がこれからは許そう。存分に謳歌すれば良い。」
ウォルファとヒジェは目を丸くして互いの顔を見合わせたが、やがて花が咲いたような笑顔を浮かべると、ウンテクに一礼するのだった。
ヒジェとウォルファは、彼女の案内でウォルファの部屋に来ていた。
「ほう………ここがそなたの部屋か。きちんと見たことがなくてな。」
薄桃色を基調にした薄布が所々に掛けてある部屋は、彼女らしくて実に可愛らしかった。
「この部屋の内装を、そのままそなたの新しい部屋に写そう。その方が落ち着くだろう?」
「えっ?私の部屋があるのですか?」
「当然だ。その代わり、寝室は同じだぞ。」
ウォルファはあくまで少しでも共に居たいというヒジェのささやかな願いに愛しさを覚えると、素直に頷いた。
「お屋敷のどこに私の部屋は決まるの?」
「ん?ああ、それは………俺の部屋のすぐ向かい側、だな。」
「そんなに近くして、嫌になったらどうするんですか。」
ヒジェはその言葉に吹き出すと、彼女のでこを指先で小突いた。
「問題ない。それより扉を開けるとき、同時に開けると頭をぶつけるから気を付けろよ」
彼は失笑すると、ウォルファを抱き寄せた。
「わかっています。私、石頭ですから死なないでくださいね」
「おお、怖い……………はっ、そういえば昨日の夜。俺の胸に頭をぶつけていたな。肋骨が折れたのではないか……?」
「もう!失礼ですね!」
おどけた調子で胸元をさするヒジェの手を軽く叩くと、ウォルファは笑った。彼もそれを見て笑う。
その楽しそうなやり取りは外にも聞こえていた。イェリはチェリョンたちとその声を聞き、感慨深さにふけっていた。
「………あの子が声をあげて、あんなに楽しそうに笑うのを見たのは久しぶりだわ。」
「そうですね。お嬢様、ずっと鬱ぎ込んでいましたから。」
「そうか?チェリョン。私など、あんなに楽しそうなヒジェ様なんて初めて見たぞ。」
ステクはここまで来るのに随分かかったなと思い返していた。一時はどうなることかと思った二人だったが、運命の悪戯としか言い様のない偶然を重ね、元あるべき道に戻ってきたのだ。
「…………私決めた!今年の豊穣祭のお願い事は、もう誰もお二人の幸せを邪魔しませんように。これにする!」
「いいな、それ。俺もそう願おうか。」
「二人とも楽しそうね。私もそうしようかしら。」
三人は微笑み合うと、再び新婚夫婦の姿に視線を戻した。庭に出ている二人は幼い頃の話に花咲かせている。
「ここの塀によく登って外を見ていたわ。チェリョンについてきてもらってこっそり出たこともあるの。」
「ふぅん……………まぁ、木に登るくらいのお転婆だからな。それくらいは有り得る」
「なっ……………」
ウォルファがその言葉に拗ねた振りをして そっぽを向く。ヒジェは手慣れた様子でそんな彼女を後ろから包み込むように抱き締めた。
「……………愛してる。」
「……………私も、愛してる。あなたが大好き。ずっと側に居たい」
「何故、俺とそなたはこれほどにも同じ気持ちなのだろうな…………」
「わかりません。でも、確かなことはひとつだけです。私が、あなたを愛している。それだけです。」
ウォルファは彼に向き直ると、その胸に顔を埋めた。
「お側に…………居たい………それが夢でした。今、それが叶っているなんて。夢みたい」
「ずっとそなたの手を離さずに済むことが、俺の夢だった。もう、離さん。決して離さん。愛してる。俺が生涯ただ一人愛したそなたを。」
ヒジェは彼女の頬を指でなぞりながら微笑んだ。
「不可能なことはない。やっと俺は証明できた。中人と賤民の子であっても、愛する人と生きていけると。身分にも党派にも抗えると。」
「ヒジェ様……………」
「ウォルファ。俺を待っていてくれて、ありがとう」
「それは私の台詞です。六年間も……………」
彼女は溢れる涙のせいで最後まで言えず、言葉を途切れさせた。
「待っていたから?俺が?いいや、当然のことだ。そなたを愛しているのだから……………」
ヒジェは彼女の涙を唇で拭うと、そのまま口づけをした。
「本当に………ありがとう……………俺のことを愛してくれて………」
「いいのよ………そんなの…………」
彼はウォルファの手を取ると、中庭へと移動した。その手から伝わる温もりがあまりに優しくて、彼女はそっと握り返した。
───この幸せが、永遠に続けばいいのに。
もうどんな苦難も二人なら乗り越えられる。このとき、二人は幸せの絶頂の中でそう信じていた。そして、もう越えられないものも抗えないものもないと。
そして三日後、初夜の期間が終わったヒジェは妻───ウォルファを連れて屋敷に戻った。部屋に通された彼女は、そのまま宮殿へ向かう支度を始めた。
「まずは王様の元へ向かう。それから就善堂へ。……悪いが、宝慶堂は最後になる。」
「全然気になさらないでください。私はもう南人の妻ですから。」
支度を済ませたウォルファが笑顔でヒジェの手を繋いだ。彼は少し痛む想いをこらえ、輿に乗った。
宮殿へ行くまでの道中、あらゆる人の視線が彼らを捉えた。ある人は純粋に羨ましがり、またある人は妬み、蔑みもした。初めて曝される社会の視線から守ってやろうと思い、ヒジェはチェリョンに伝言をした。
「…………旦那様が気にするな、と仰せです。」
「ありがとう。私は大丈夫です。旦那様の妻として社会に見られていることが、私にとって何よりの幸せだと伝えてちょうだい。」
チェリョンはそのままそれをヒジェに伝えた。公衆の面前とはいえ、彼の口許が思わず綻ぶ。そして誰にも聞こえないよう、小さな声でこぼした。
「………………当分寝不足になりそうだ。」
ウォルファは妻としてやって来る宮殿の空気の違いに驚いていた。ヒジェの隣に立つ。それはつまり、領議政の正妻として見られることになるからだ。しかもただの正妻ではない。溢れんばかりの激しい愛を一身に受け、西人である妻なのだ。緊張する彼女の肩を叩き、手を握ったヒジェは耳打ちをした。
「あまりそう固まるな。気にすることはない。」
「で、でも………………」
「大丈夫だ、俺が守ってやる。ただし、チャン・ムヨルには気を付けよ。あいつがそなたを拐って火をつけた。」
ため息をついた彼女は、ヒジェの手を無言で握り返す。彼はウォルファの手を引くと、優しく先導した。
「おお、これは。領議政殿ではないか」
「どうも、サンヒョン殿。」
少論のイム・サンヒョンがヒジェに気づくと声をかけてきた。ウォルファは一礼をすると、相手の表情をうかがい、夫の敵か見方かを探った。彼はウォルファに近づくと、まじまじとその顔立ちを観察し始めた。
「ほう…………お美しいですね。」
「サンヒョン殿。」
怯えるウォルファをこの好色な官僚の視線から守るため、ヒジェは彼女の前に立ち塞がった。
「今から王様と今回新たに親戚関係となった各内命婦の皆様に挨拶をせねばなりません。ですから、今日のことろは失礼します。」
「わかった。また後日な」
「はい」
ヒジェはサンヒョンを追い払ったことを見届けてから、ウォルファを抱き締めた。
「大丈夫か?あのスケベじじいめ…………」
「旦那様が助けてくださったから、大丈夫です。」
「………俺が?」
「ええ。ありがとうございます。」
彼女はそう言うと、ヒジェの服を直し始めた。
「王様に謁見するのですから、きれいにしないと。ね?」
「あ、ああ…………ありがとう…………」
すっかり妻らしくなったウォルファが、本当に夢のような存在だったので、彼は思わずその手を掴んだ。
「…………どうしたのですか?」
「そなた……だよな?」
「はい。そうです。」
「…………そうか……………そなただよな…………済まん、変なことを聞いて。」
何度も自分に言い聞かせている様子のヒジェのことを不思議に思った彼女は首をかしげたが、それ以上は何も言わなかった。
二人は便殿に行ったが、粛宗は宝慶堂にいると伝えられた。そして伝言を預かっている尚宮が、ヒジェとウォルファが来たら宝慶堂に来なさいと彼らに伝えた。
ヒジェは渋々宝慶堂へと歩き始めた。ウォルファは憂鬱そうな彼のことを心配すると、今度は自分からその手を掴んだ。
「大丈夫です。淑儀様も許してくれますよ。」
「そういう問題ではないのだがな…………」
二人が宝慶堂にやって来ると、真っ先に出迎えたのは意外にもクム───延礽君だった
「先生!!!領議政とは相変わらず………あれ?先生、婚姻したのですか?」
ウォルファは延礽君を抱き締めると、微笑みながらしゃがみこんだ。
「そうですよ。クムさん……じゃなくて延礽君様が放火騒ぎのせいでお母様と王様の別邸にいらっしゃる間に、私も事件に遇い、領議政様の別邸に匿ってもらったの。それで、身分が回復してから王様に婚姻を許してもらったのです」
「そうだったのですか!では今日から領議政は私の叔父上にもなるのですね!」
「………はい?」
クムは満面の笑みでヒジェの手を握った。子供が元来大嫌いな彼はトンイの子供というのもあり、思わず引き付けを起こしそうになった。だが、クムは気にせず彼にべったりしている。
「叔父上!叔父上!私には親戚が少ないので、叔父上はたった一人の叔父上なのです。叔父上~!」
今まではウォルファが戻るために必要だったから大切にしていただけだ。ヒジェはそう言い聞かせると、クムを上手く引き剥がそうと手を伸ばした。だが、何故か手がそれを拒む。まるで良心の欠片が少しでも残っているかのように、彼の大きく広い手は優しくクムの頭を撫でた。
「…………どうぞ。お好きに呼んでください。」
「本当ですか?やったぁ!!あ、母上!!母上!!」
クムは大喜びでヒジェから離れると、トンイの手を引いて二人の前に連れてきた。
「領議政が叔父上になってくださるそうです!」
「えっ………?」
トンイは目を丸くしてヒジェとクムを交互に見た。今までずっと命を狙ってきた男が、何故今更クムに優しくするのか。その好意になんの裏表もないとは信じられない彼女は、じっと彼の顔を見た。ただならぬ互いの敵意に子供ながら勘づいたクムは、母の手を離すと粛宗を呼びに行った。
トンイは静かな声でこう言った。
「…………クムに何をする気だ」
「とんでもない。王様は換局政治をお止めになった。その方針を真っ先に領議政である私が行うのは当然のこと。」
「…………信じられぬ。」
睨み合う二人の間に入ったウォルファは、ヒジェの腰に手を回すとトンイの方を振り返り、笑顔を作った。
「淑儀様、あなた。お止めになってください。王様が来られましたよ」
「ああ、そうか。ありがとう、ウォルファ」
王の元へ行くヒジェの背中を、トンイはいつまでも疑惑のこもった目で見続けるのだった。
王との謁見を済ませた二人は、その足で就善堂へ向かった。クムはもちろんヒジェを引き留めようとしたが、彼はまた今度行きますとだけ言うと、またいつもの政治家としての顔に戻った。ウォルファは不安そうに彼の顔を覗き込んだ。
「………優しいんですね。でも淑儀様の仰る通り、裏があるようにしか思えません」
「そうか?まぁ、俺のような男が人に優しくすると、疑われることはもはや宿命だ。だが、延礽君様のことは本当に何も謀ってはおらぬ。放火の犯人も知らん。」
本音で語っていることに気付いたウォルファは、少しずつ彼の優しさが滲み出始めているのだろうかと思った。だが、もちろん彼自身は気づいていない。それが少し面白くて、彼女はくすっと笑った。
「………何が面白い。」
「あなたが優しいからよ。」
「…………俺が優しいのは、そなたと互いの母上、そして禧嬪様と世子様だけだ。」
それを聞いて、彼女はふと思った。
「あなたのお父様は?」
「え?ん?父か?………………わからん。もうとっくの昔に死んだからな。忘れた」
その言葉には明らかな動揺と、ウォルファにさえも踏み込んでほしくないという強い拒絶が存在していた。
「………そう。」
そして無言で歩くヒジェの横顔を見て、彼女は痛感した。
────まだ、私はこの人のことを何も知らない。
だが、これから知っていけばいい。先は長いのだから。そう思うと、彼女は少しだけ早足になってヒジェに追い付くのだった。
禧嬪は無言で待っていた。懐かしい親友との再会なのに、素直に喜べないのは、やはり兄のヒジェが禧嬪の子である世子をも危険に晒してでも彼女を手に入れようとしたからだった。
─────兄上は、異常だ。ここまで人を愛するなど。
ヒジェはウォルファを連れて部屋に入ると、どこから話せばいいのだろうかと珍しく口をもごつかせた。すると、意外にも話始めたのはウォルファの方だった。
「───禧嬪様が、お怒りなのは分かっています。ですが、嫁いだからには全身全霊で西人を捨てて南人になります。その覚悟がなければ、この方への愛など到底貫けませんから」
彼女は静かに微笑んだ。ため息をついた禧嬪──オクチョンは、おもむろに紐細工を取り出した。
「……覚えているか?そなたが作ってくれたものだ。嫁入り道具の蝶の鍵飾り。これを持って承恩尚宮になったときは、本当に嬉しかった。友として、そなたはずっと私を支えてくれた。」
ウォルファは懐かしさに目を細めた。オクチョンは束の間───ほんの束の間、チャン・オクチョンに戻った。
「そなたは兄上のことを、兄上だとは知らずに散々駄目だしをしていたな。まさか婚姻するとは思っても見なかったであろう」
ウォルファと彼女は大笑いした。もちろんヒジェは何の話かさっぱりである。
「禧嬪様、ちなみにどのような駄目出しで………?」
「それは言えません。親友との秘密ですから。」
「ありがとうございます。お陰で痛い目に遭わされずに済みそうです。」
ぺろりと舌先を少しだけ出して笑うウォルファに対して、ますます何の話だろうかと思ったヒジェは、今晩絶対に聞いてやると強く思った。オクチョンはヒジェに真剣な顔でこう言った。
「兄上、ウォルファを大切にしてくださいね。この子ならきっと、先程の誓い通りに兄上を支えてくれるでしょう。」
「はい、勿論です。必ず、大切にします。肝に命じておきます。」
そして再び禧嬪に戻った彼女は、無言で帰宅するように促した。ウォルファとヒジェは就善堂から出ると、ヒジェの方が久しぶりにどこかに出掛けようと言い出した。
「党首会議は?」
「明日になった。ユンが腹痛らしい。」
と言うと彼は不敵な笑みを浮かべた。その表情からすぐ、ユンは自分達のことを気遣って会議を延期したのだとウォルファは気付いた。
「では、どこへ行こう。」
「………もう一度、都が見渡せるあの場所へ行きたい。」
「ああ…………大晦日のときの…………」
ヒジェは色々と思い出して微笑むと、官服も着替えずに彼女の手をしっかりと握って歩きだした。