2、それぞれの今
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ウォルファはクムが塾から帰ってきたのを見て、授業の準備を始めた。すると、彼は思い出したように青ざめた顔でこう言った。
「あっ…………先生の本を……その、塾の机の中に忘れてきてしまいました」
「あら…………困ったわね。じゃあ、私がとってくるから、待っていなさい」
彼女はそう言って立ち上がると、教本を探しに塾へ向かった。人はもう既に誰も居らず、彼女は門を自分で押し開けて中に入った。
本は机ではなく縁側に置いてあり、ウォルファはどうすればこんなところに忘れていくのかと失笑しながら、教室に入って本に手を伸ばした。
しかし、その手は本を掴まなかった。その手が何者かの手に掴まれたのである。ウォルファはとっさに身の危険を感じて逃れようとしたが、その手は彼女を離さない。
「だっ………誰ですか!?人を呼びますよ」
「───呼べるものなら、呼んでみよ。」
「えっ……………?」
その人は、なんと彼女が長らく恋い焦がれていたチャン・ヒジェだった。ウォルファは驚きのあまり声を裏返しながら、みすぼらしい自分を隠そうとした。
「な………何故、私のことを…」
「逃げるでない。色々あってな。」
「そんな……………」
ヒジェは彼女の手を手繰って頬に手を当てた。
「………ずっと、探していた。だが、ようやく見つけた。俺は…………もう、そなたを離さん。」
「ヒジェ様……………」
突然のことで嬉しさが溢れすぎて、どういう言葉をかければいいのかわからなくなる。彼はウォルファにこう言った。
「………俺のもとへおいで。もう、どこにも行かせはせん。」
彼はもちろん喜ぶと思っていた。だが、ウォルファの反応は違っていた。彼女はヒジェを突き放して本を取ると、教室の入り口まで逃げてから彼に告げた。
「ごめんなさい。私もう、あなたのお側にはいられないの。私がいれば、きっとまたあなたを悲しませるだろうし、苦しめてしまう。だから、だめ。あなたは領議政になって、南人の奥さまを貰うのよ。私なんてだめ。絶対にだめ。」
「俺はいい!そなたはどう思っている」
「私は………………………もう、夢なんて見ない。だから、嫌。当然じゃない、不可能なことに期待しても何も生まれないわ。」
ウォルファは後を追おうとしているヒジェを振り切るようにしてその場を立ち去った。本当は、ずっと望んでいた。優しくて暖かく、いつも惜しみ無く愛を与えてくれるヒジェの腕の中で幸福に生きていきたいと。だが、二人は住む世界があまりに違いすぎたのだ。
「何で……………どうして……………」
自分が側にいれば、きっとまたヒジェに災難が降りかかる。それが彼の命を削っているような気がして、ウォルファは彼の申し出を受け入れることが出来なかった。昔なら快諾していただろう。だが、もう昔の純真無垢で世間知らずのシム・ウォルファは死んだのだ。あの日身分を降格されたときに、もう彼女は死んだ。今ここに生きているのは、ただのチェ・ウォルファ。身分も大義も何もない適齢婚期を過ぎた女だった。
ウォルファは声をあげて泣くことも出来ず、家の裏で声を殺して泣いた。そしてその悲しみは、声だけでなく彼女自身も殺しながら、静かに心の中に沈んでいくのだった。
翌日、ウォルファはクムに尋ねたいことがあったので、塾に行くよりも前にトンイの家を訪ねた。しかし、返ってきた答えは意外なものだった。
「え?クム?さっき塾に行きましたよ?」
「こんな時間に?………まだ出てすぐだから追い付けるかしら。行ってくるわ」
彼女は早足でクムの辿ったであろう道を歩き始めた。残されたトンイは何が起きているのかさっぱりわからない。
「ええ………姉さん?ちょっと……姉さん?……変なの。」
だが、特に深くは考えていない彼女はやがて、読みかけの書物を伏せたままであることを思いだし、慌てて部屋に戻っていくのだった。
ウォルファは塾にやって来たが、そこにもクムの姿は無かった。胸騒ぎがした彼女は、彼のいそうな場所を全て探してみたが、やはりどこにも見当たらない。
「クムさん…………」
彼女が途方にくれていると、クムの友人である賤民の子供たちが偶然にも通りかかり、ウォルファに声をかけた。
「あ、王子様の先生ですか?」
「そうよ。ねぇ、あの子がどこにいるか…知らない?」
「知っていますよ!今日は賤民の子達を招いて王宮で開かれる施しの宴に友達と行きました」
「えっ………?王宮に!?」
ウォルファは顔を真っ青にすると、軽く礼を言って駆け出した。向かう先はもちろん、トンイの元だ。
「トンイ!!トンイ!!大変よ!クムさんが……王子様が…………王宮に行ったの!!」
「えっ!?王宮に……!?エジョン、監察部に連絡を。ポン尚宮、ソ・ヨンギ様に捜索を頼んで。決して禧嬪様たちに知られてはならないわよ」
気を動転しつつも的確なトンイの指示で、二人はすぐさま飛んでいった。
禧嬪に知られては命の危険が及ぶ。ウォルファはヒジェが最も危険であることを知っていた。だからこそ、彼と再び接点を持つことを恐れていたのだ。
───だから、もう無理だと言ったのに………!!
ウォルファは王宮で唯一クムが行きそうな、心当たりのある場所を知っていた。
───便殿。そこしかないわ。あの子は王様に会いに行くはず。でも、それには就善堂と東宮殿の近くを通るわ。禧嬪様もよく出入りしているはず。なら……急がないと!
彼女は裾を掴んで走り出した。久しぶりのことなので息がすぐに上がるが、そんなことは気にしていられない。
「………クムさん…………!」
王宮殿へ入るためには本来なら正当な手続きが必要だ。だがウォルファは上手く抜け道から入ると、危険を顧みずそのまま便殿へ直行した。願うことはただひとつ、クムの無事。ただそれだけだった。
一方クムは父にも会えず、独り就善堂の離れでしょげていた。実は、この行動には別の理由があった。彼は、ウォルファをヒジェと引き合わせている最中に聞いた部下たちの会話の中で、チャン・ヒジェが実は訳官ではなく次期領議政であるということを知ったのだ。真偽を問うために町の人々にも聞いてみたが、やはりチャン・ヒジェという人物は次期領議政候補であるという答えしか得られなかったのだ。彼は父にも会え、自分を探しに来ればヒジェにもウォルファは会えるだろうと考え、今回の行動に至ったのだ。
だが、どちらにも会えず終いのクムはすっかりうちひしがれていた。すると、花見のために散歩をする禧嬪が彼に近づいてくる。気づいていないクムは、相変わらず地面を見ている。ちょうどその時、ウォルファが禧嬪とクム、双方の死角に到着した。彼女は慌てて飛び出そうとしたが、間に合いそうもない。
───クムさん………!こっちに気づいて…!
だが願いも空しく、彼がウォルファに気づく様子はない。彼女は何かあれば身を呈してでも救わねばと拳を握りしめ、覚悟を決めた。
ところが次の瞬間、クムが彼女の視界から消えた。もちろんそのあとにやって来た禧嬪は気づいていない。一体一瞬目を閉じた隙に何が起きたのか全く分かっていないウォルファは、禧嬪が通りすぎるのを見計らって事の次第を確かめるために、一旦物陰に隠れた。
クムは無事だった。それも意外な人物の助けのお陰で窮地を脱していた。
「チャン先──ふがっ!」
「しっ!お前は阿呆か、何故就善堂にいる。死にたいのか?」
命の恩人は、なんとチャン・ヒジェだった。赤い高官の印である官服を着ている彼は、クムの口に手を宛がうと、禧嬪が消えたことを見届けて彼をそっと離した。
「何をしている。………王様に会いに来たのか?」
「以前から計画していたのは主にそうでしたが……あなたにも会いに来たのです。調べましたよ、あなたが領議政候補の方だと」
「………それで?何故私に会いに来たのです。」
察しのいい子供はこれだから嫌いだと肩をすくめると、ヒジェは無意識に膝を折り、クムの目線に合わせて話を聞きはじめた。
「ここに来れば、きっと先生が探してくれます。そうすれば、あなたと先生を会わせられます」
「だから、何故そこまでして………」
「ウォルファ先生の本当の気持ちは、チャン先生──領議政様には伝わっていないからです。私は、母上にも、父上にも、先生にも、幸せになってほしいのです。」
彼はそのクムの言葉に目を丸くした。
「俺が………幸せに?」
「そうです。」
自分はお前から見れば幸せになる資格など無い男だと言おうとしたヒジェの言葉は、発する前にウォルファによって遮られた。
「クムさん!!」
「先生!!」
ウォルファは駆け寄ってくるクムを抱き締めると、怪我はないか、酷い目にはあっていないか、怖い思いはしなかったかを尋ねた。だが、クムは嬉しそうだ。
「チャン・ヒジェ殿が助けてくれたのです!先生がお会いしたかった方ですよね?」
「えっ…………?あの人が、あなたを助けたの?」
訳がわからないウォルファは、確かにそこにいるヒジェとクムを交互に見た。クムはウォルファの手を引っ張ってヒジェの隣に連れてきた。
「ほら、先生。………嬉しくないのですか?」
「………ありがとう。」
クムはヒジェの手を開き、彼女の手を握らせると満足げに前の方を歩き始めた。だがウォルファはクムにわからないように彼の手を振り払うと、訝しげな目で睨み付けた。
「あなた、クムさんに何をしたの。というか、何をするつもり?」
「なにもしておらん!偶然通りで出会ってだな。中国語の発音を教えただけだ。」
どこ吹く風のヒジェの言葉に、ウォルファはすぐにピンときた。
「えっ、じゃああのクムさんが聞いていた独身の通訳官の人ってまさか………」
「そうだ、俺だ。普通に名乗って淑媛様の耳にでも入れば、俺は間違いなくソ大将とチャ・チョンスに殺されるからな」
ウォルファは肩をすくめると、そのまますたすたと歩き始めた。慌ててヒジェがついてくる。
「待て!なぜ歩き去ろうとする」
「……二度とクムさんに近づかないで。」
「えっ……?」
「どういうつもりか知らないけれど、いずれはあの子を殺すつもりなのでしょう?それが南人のやりかた。私、もう騙されないわ。」
今までのウォルファからは想像もつかない冷たい言葉と表情だった。ヒジェはこの六年間で彼女の心まで変わってしまったのかと思うと、急に悲しくなってきた。
「………会いたくなかったのか?俺に待っていて欲しくはなかったのか?」
「ええ、迷惑。とても迷惑よ。クムさんの好意は受け取らないといけないから、王宮の外までは一緒に居るけれど。後はもう付いてこないで」
何がそこまで彼女に嘘をつかせるのか。妹とその息子の幸せを守るためだというのか。あるいは………
「俺のために意地を張るなら止めておけ。俺なら大丈夫だから…………」
「大丈夫だといっておいて、あなたはいつも出来ない約束をし続けていた。だから、もう信じない。あなたのことなんて信じたりする馬鹿な娘はもう死んだの。私はあなたが慕ったシム・ウォルファじゃない。私はチェ・ウォルファよ。」
だが、ヒジェは思ったよりも引き下がらなかった。彼はウォルファの腕を掴むと、無理矢理後ろを向かせて抱き締めた。
「違う。俺が愛したのは、西人でも、両班の令嬢でも、賤民の姉でも、剣契の頭の娘でもないが、そのどれでもある───ウォルファ、ただその名を持つ人なのだ。」
意外な返答に、ウォルファは言葉を失った。だが彼女は力なく首を横に振ると王宮の門をくぐり、ヒジェに背を向けて歩き去ってしまった。一度も振り返らないその強がっている背中があまりに愛しく、あまりに遠く感じた彼は、ただ立ち尽くして思慕を燻らせることしか出来ないのだった。
チャン・ムヨルは部下からチャン・ヒジェがチェ・ウォルファと接触を持ったという話を聞き、静かに頷いた。
「………急ぎ、禧嬪様に報告すべきでは?」
「いや、その必要はない。あとで報告すればよい。………事を実行に移せ。あの男なら女のために南人を滅亡させかねない。」
「承知しました。」
部下は一礼をすると、そのまま立ち去った。ムヨルはヒジェを以前から邪魔だと感じていた。だが消すわけにはいかない。ならばそのまま滅亡させる要因を潰せば良いのだ。彼は不敵な笑みを浮かべると、遠目に見えるチャン・ヒジェに蔑みの視線を投げ掛けるのだった。
その日の帰り、ウォルファが独りでぼおっとしながら歩いていると、どこかで見たことのある男を見かけた。トンイの家の中をじろじろと見て喜んでいる変質者にしか見えない男にそっと近づくと、ウォルファは大きな声で尋ねた。
「あの!何しているんですか?」
「えっ………あっ………お、お前は、チャン・ヒジェの女ではないか!!」
「…………何ですか。───あっ、あなたは……」
まじまじと顔を見てようやく誰であるかを思い出したウォルファは、必死に今度は名前を思い出そうと努めた。
「ええと……あのとき………ユン様とヒジェ様と、兄が出席した宴の主催者で…………ユン様の従兄弟の…………」
だが思い出されてはこまると思った淑媛を下世話な思いで慕う男──ホヤンは慌ててその場から逃げ出した。
「あっ、待ちなさい!こら!」
彼女は一体何を企んでいるのかを確かめるため、ホヤンを追いかけることにした。
ホヤンはトンイの家の裏手に回ると、茂みに隠れてウォルファをやり過ごした。ふと、彼は家の向こうにある小高い丘に目をやった。するとそこには彼の目を疑うような人が居た。
「おっ……王様!?」
そこにいたのは、トンイを追放してからは一度も会おうとはしない粛宗だった。遠目からでもわかるその姿は、ホヤンの好奇心を駆り立てた。彼はすぐに家に帰ると、母親のパク氏に事の次第を伝えた。ヒジェとオクチョンの母ユン・ソンリプことユン氏と仲の悪い彼女は、このことを面白がってすぐにソンリプに伝えた。
「お、王様が………!?」
「そうなのよ!禧嬪様もさぞかし気を揉まれることでしょうね」
「か、帰りなさい!!目障りな!」
もちろん驚いた彼女は、パク氏を追い返してからすぐに私兵を呼んだ。
「………今夜、内密に淑媛と王子を始末せよ。よいな」
「はい」
ソンリプは満足げに首を何度も縦に振った。もちろん禧嬪にもヒジェにも心配させまいと報告はしていない。
この事が後に大きな事件を呼ぶのだが、彼女はまだ知らない。そして、偶然にもムヨルの計画とソンリプの計画の日にちと時間が重なることで、再びヒジェとウォルファの運命が大きく動き始めることになるのだった。
「あっ…………先生の本を……その、塾の机の中に忘れてきてしまいました」
「あら…………困ったわね。じゃあ、私がとってくるから、待っていなさい」
彼女はそう言って立ち上がると、教本を探しに塾へ向かった。人はもう既に誰も居らず、彼女は門を自分で押し開けて中に入った。
本は机ではなく縁側に置いてあり、ウォルファはどうすればこんなところに忘れていくのかと失笑しながら、教室に入って本に手を伸ばした。
しかし、その手は本を掴まなかった。その手が何者かの手に掴まれたのである。ウォルファはとっさに身の危険を感じて逃れようとしたが、その手は彼女を離さない。
「だっ………誰ですか!?人を呼びますよ」
「───呼べるものなら、呼んでみよ。」
「えっ……………?」
その人は、なんと彼女が長らく恋い焦がれていたチャン・ヒジェだった。ウォルファは驚きのあまり声を裏返しながら、みすぼらしい自分を隠そうとした。
「な………何故、私のことを…」
「逃げるでない。色々あってな。」
「そんな……………」
ヒジェは彼女の手を手繰って頬に手を当てた。
「………ずっと、探していた。だが、ようやく見つけた。俺は…………もう、そなたを離さん。」
「ヒジェ様……………」
突然のことで嬉しさが溢れすぎて、どういう言葉をかければいいのかわからなくなる。彼はウォルファにこう言った。
「………俺のもとへおいで。もう、どこにも行かせはせん。」
彼はもちろん喜ぶと思っていた。だが、ウォルファの反応は違っていた。彼女はヒジェを突き放して本を取ると、教室の入り口まで逃げてから彼に告げた。
「ごめんなさい。私もう、あなたのお側にはいられないの。私がいれば、きっとまたあなたを悲しませるだろうし、苦しめてしまう。だから、だめ。あなたは領議政になって、南人の奥さまを貰うのよ。私なんてだめ。絶対にだめ。」
「俺はいい!そなたはどう思っている」
「私は………………………もう、夢なんて見ない。だから、嫌。当然じゃない、不可能なことに期待しても何も生まれないわ。」
ウォルファは後を追おうとしているヒジェを振り切るようにしてその場を立ち去った。本当は、ずっと望んでいた。優しくて暖かく、いつも惜しみ無く愛を与えてくれるヒジェの腕の中で幸福に生きていきたいと。だが、二人は住む世界があまりに違いすぎたのだ。
「何で……………どうして……………」
自分が側にいれば、きっとまたヒジェに災難が降りかかる。それが彼の命を削っているような気がして、ウォルファは彼の申し出を受け入れることが出来なかった。昔なら快諾していただろう。だが、もう昔の純真無垢で世間知らずのシム・ウォルファは死んだのだ。あの日身分を降格されたときに、もう彼女は死んだ。今ここに生きているのは、ただのチェ・ウォルファ。身分も大義も何もない適齢婚期を過ぎた女だった。
ウォルファは声をあげて泣くことも出来ず、家の裏で声を殺して泣いた。そしてその悲しみは、声だけでなく彼女自身も殺しながら、静かに心の中に沈んでいくのだった。
翌日、ウォルファはクムに尋ねたいことがあったので、塾に行くよりも前にトンイの家を訪ねた。しかし、返ってきた答えは意外なものだった。
「え?クム?さっき塾に行きましたよ?」
「こんな時間に?………まだ出てすぐだから追い付けるかしら。行ってくるわ」
彼女は早足でクムの辿ったであろう道を歩き始めた。残されたトンイは何が起きているのかさっぱりわからない。
「ええ………姉さん?ちょっと……姉さん?……変なの。」
だが、特に深くは考えていない彼女はやがて、読みかけの書物を伏せたままであることを思いだし、慌てて部屋に戻っていくのだった。
ウォルファは塾にやって来たが、そこにもクムの姿は無かった。胸騒ぎがした彼女は、彼のいそうな場所を全て探してみたが、やはりどこにも見当たらない。
「クムさん…………」
彼女が途方にくれていると、クムの友人である賤民の子供たちが偶然にも通りかかり、ウォルファに声をかけた。
「あ、王子様の先生ですか?」
「そうよ。ねぇ、あの子がどこにいるか…知らない?」
「知っていますよ!今日は賤民の子達を招いて王宮で開かれる施しの宴に友達と行きました」
「えっ………?王宮に!?」
ウォルファは顔を真っ青にすると、軽く礼を言って駆け出した。向かう先はもちろん、トンイの元だ。
「トンイ!!トンイ!!大変よ!クムさんが……王子様が…………王宮に行ったの!!」
「えっ!?王宮に……!?エジョン、監察部に連絡を。ポン尚宮、ソ・ヨンギ様に捜索を頼んで。決して禧嬪様たちに知られてはならないわよ」
気を動転しつつも的確なトンイの指示で、二人はすぐさま飛んでいった。
禧嬪に知られては命の危険が及ぶ。ウォルファはヒジェが最も危険であることを知っていた。だからこそ、彼と再び接点を持つことを恐れていたのだ。
───だから、もう無理だと言ったのに………!!
ウォルファは王宮で唯一クムが行きそうな、心当たりのある場所を知っていた。
───便殿。そこしかないわ。あの子は王様に会いに行くはず。でも、それには就善堂と東宮殿の近くを通るわ。禧嬪様もよく出入りしているはず。なら……急がないと!
彼女は裾を掴んで走り出した。久しぶりのことなので息がすぐに上がるが、そんなことは気にしていられない。
「………クムさん…………!」
王宮殿へ入るためには本来なら正当な手続きが必要だ。だがウォルファは上手く抜け道から入ると、危険を顧みずそのまま便殿へ直行した。願うことはただひとつ、クムの無事。ただそれだけだった。
一方クムは父にも会えず、独り就善堂の離れでしょげていた。実は、この行動には別の理由があった。彼は、ウォルファをヒジェと引き合わせている最中に聞いた部下たちの会話の中で、チャン・ヒジェが実は訳官ではなく次期領議政であるということを知ったのだ。真偽を問うために町の人々にも聞いてみたが、やはりチャン・ヒジェという人物は次期領議政候補であるという答えしか得られなかったのだ。彼は父にも会え、自分を探しに来ればヒジェにもウォルファは会えるだろうと考え、今回の行動に至ったのだ。
だが、どちらにも会えず終いのクムはすっかりうちひしがれていた。すると、花見のために散歩をする禧嬪が彼に近づいてくる。気づいていないクムは、相変わらず地面を見ている。ちょうどその時、ウォルファが禧嬪とクム、双方の死角に到着した。彼女は慌てて飛び出そうとしたが、間に合いそうもない。
───クムさん………!こっちに気づいて…!
だが願いも空しく、彼がウォルファに気づく様子はない。彼女は何かあれば身を呈してでも救わねばと拳を握りしめ、覚悟を決めた。
ところが次の瞬間、クムが彼女の視界から消えた。もちろんそのあとにやって来た禧嬪は気づいていない。一体一瞬目を閉じた隙に何が起きたのか全く分かっていないウォルファは、禧嬪が通りすぎるのを見計らって事の次第を確かめるために、一旦物陰に隠れた。
クムは無事だった。それも意外な人物の助けのお陰で窮地を脱していた。
「チャン先──ふがっ!」
「しっ!お前は阿呆か、何故就善堂にいる。死にたいのか?」
命の恩人は、なんとチャン・ヒジェだった。赤い高官の印である官服を着ている彼は、クムの口に手を宛がうと、禧嬪が消えたことを見届けて彼をそっと離した。
「何をしている。………王様に会いに来たのか?」
「以前から計画していたのは主にそうでしたが……あなたにも会いに来たのです。調べましたよ、あなたが領議政候補の方だと」
「………それで?何故私に会いに来たのです。」
察しのいい子供はこれだから嫌いだと肩をすくめると、ヒジェは無意識に膝を折り、クムの目線に合わせて話を聞きはじめた。
「ここに来れば、きっと先生が探してくれます。そうすれば、あなたと先生を会わせられます」
「だから、何故そこまでして………」
「ウォルファ先生の本当の気持ちは、チャン先生──領議政様には伝わっていないからです。私は、母上にも、父上にも、先生にも、幸せになってほしいのです。」
彼はそのクムの言葉に目を丸くした。
「俺が………幸せに?」
「そうです。」
自分はお前から見れば幸せになる資格など無い男だと言おうとしたヒジェの言葉は、発する前にウォルファによって遮られた。
「クムさん!!」
「先生!!」
ウォルファは駆け寄ってくるクムを抱き締めると、怪我はないか、酷い目にはあっていないか、怖い思いはしなかったかを尋ねた。だが、クムは嬉しそうだ。
「チャン・ヒジェ殿が助けてくれたのです!先生がお会いしたかった方ですよね?」
「えっ…………?あの人が、あなたを助けたの?」
訳がわからないウォルファは、確かにそこにいるヒジェとクムを交互に見た。クムはウォルファの手を引っ張ってヒジェの隣に連れてきた。
「ほら、先生。………嬉しくないのですか?」
「………ありがとう。」
クムはヒジェの手を開き、彼女の手を握らせると満足げに前の方を歩き始めた。だがウォルファはクムにわからないように彼の手を振り払うと、訝しげな目で睨み付けた。
「あなた、クムさんに何をしたの。というか、何をするつもり?」
「なにもしておらん!偶然通りで出会ってだな。中国語の発音を教えただけだ。」
どこ吹く風のヒジェの言葉に、ウォルファはすぐにピンときた。
「えっ、じゃああのクムさんが聞いていた独身の通訳官の人ってまさか………」
「そうだ、俺だ。普通に名乗って淑媛様の耳にでも入れば、俺は間違いなくソ大将とチャ・チョンスに殺されるからな」
ウォルファは肩をすくめると、そのまますたすたと歩き始めた。慌ててヒジェがついてくる。
「待て!なぜ歩き去ろうとする」
「……二度とクムさんに近づかないで。」
「えっ……?」
「どういうつもりか知らないけれど、いずれはあの子を殺すつもりなのでしょう?それが南人のやりかた。私、もう騙されないわ。」
今までのウォルファからは想像もつかない冷たい言葉と表情だった。ヒジェはこの六年間で彼女の心まで変わってしまったのかと思うと、急に悲しくなってきた。
「………会いたくなかったのか?俺に待っていて欲しくはなかったのか?」
「ええ、迷惑。とても迷惑よ。クムさんの好意は受け取らないといけないから、王宮の外までは一緒に居るけれど。後はもう付いてこないで」
何がそこまで彼女に嘘をつかせるのか。妹とその息子の幸せを守るためだというのか。あるいは………
「俺のために意地を張るなら止めておけ。俺なら大丈夫だから…………」
「大丈夫だといっておいて、あなたはいつも出来ない約束をし続けていた。だから、もう信じない。あなたのことなんて信じたりする馬鹿な娘はもう死んだの。私はあなたが慕ったシム・ウォルファじゃない。私はチェ・ウォルファよ。」
だが、ヒジェは思ったよりも引き下がらなかった。彼はウォルファの腕を掴むと、無理矢理後ろを向かせて抱き締めた。
「違う。俺が愛したのは、西人でも、両班の令嬢でも、賤民の姉でも、剣契の頭の娘でもないが、そのどれでもある───ウォルファ、ただその名を持つ人なのだ。」
意外な返答に、ウォルファは言葉を失った。だが彼女は力なく首を横に振ると王宮の門をくぐり、ヒジェに背を向けて歩き去ってしまった。一度も振り返らないその強がっている背中があまりに愛しく、あまりに遠く感じた彼は、ただ立ち尽くして思慕を燻らせることしか出来ないのだった。
チャン・ムヨルは部下からチャン・ヒジェがチェ・ウォルファと接触を持ったという話を聞き、静かに頷いた。
「………急ぎ、禧嬪様に報告すべきでは?」
「いや、その必要はない。あとで報告すればよい。………事を実行に移せ。あの男なら女のために南人を滅亡させかねない。」
「承知しました。」
部下は一礼をすると、そのまま立ち去った。ムヨルはヒジェを以前から邪魔だと感じていた。だが消すわけにはいかない。ならばそのまま滅亡させる要因を潰せば良いのだ。彼は不敵な笑みを浮かべると、遠目に見えるチャン・ヒジェに蔑みの視線を投げ掛けるのだった。
その日の帰り、ウォルファが独りでぼおっとしながら歩いていると、どこかで見たことのある男を見かけた。トンイの家の中をじろじろと見て喜んでいる変質者にしか見えない男にそっと近づくと、ウォルファは大きな声で尋ねた。
「あの!何しているんですか?」
「えっ………あっ………お、お前は、チャン・ヒジェの女ではないか!!」
「…………何ですか。───あっ、あなたは……」
まじまじと顔を見てようやく誰であるかを思い出したウォルファは、必死に今度は名前を思い出そうと努めた。
「ええと……あのとき………ユン様とヒジェ様と、兄が出席した宴の主催者で…………ユン様の従兄弟の…………」
だが思い出されてはこまると思った淑媛を下世話な思いで慕う男──ホヤンは慌ててその場から逃げ出した。
「あっ、待ちなさい!こら!」
彼女は一体何を企んでいるのかを確かめるため、ホヤンを追いかけることにした。
ホヤンはトンイの家の裏手に回ると、茂みに隠れてウォルファをやり過ごした。ふと、彼は家の向こうにある小高い丘に目をやった。するとそこには彼の目を疑うような人が居た。
「おっ……王様!?」
そこにいたのは、トンイを追放してからは一度も会おうとはしない粛宗だった。遠目からでもわかるその姿は、ホヤンの好奇心を駆り立てた。彼はすぐに家に帰ると、母親のパク氏に事の次第を伝えた。ヒジェとオクチョンの母ユン・ソンリプことユン氏と仲の悪い彼女は、このことを面白がってすぐにソンリプに伝えた。
「お、王様が………!?」
「そうなのよ!禧嬪様もさぞかし気を揉まれることでしょうね」
「か、帰りなさい!!目障りな!」
もちろん驚いた彼女は、パク氏を追い返してからすぐに私兵を呼んだ。
「………今夜、内密に淑媛と王子を始末せよ。よいな」
「はい」
ソンリプは満足げに首を何度も縦に振った。もちろん禧嬪にもヒジェにも心配させまいと報告はしていない。
この事が後に大きな事件を呼ぶのだが、彼女はまだ知らない。そして、偶然にもムヨルの計画とソンリプの計画の日にちと時間が重なることで、再びヒジェとウォルファの運命が大きく動き始めることになるのだった。