1、届かぬ思慕
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ウォルファは厨房で料理を作っている。すると外からポン尚宮とエジョンが美味しそうな匂いにつられてやって来た。
「あら………美味しそうね…」
「ほんとです。尚宮様の料理とは大違いです」
「ちょっとエジョン!失礼ね!」
ウォルファは吹き出しそうになるのをこらえて食材をひっくり返した。今度はクムがやって来た。
「先生!一ついただいても?」
「どうしようかしら………お母様は今いない?」
いたずらっ子のように笑うと、ウォルファは彼にそう言った。クムはすぐに辺りをさっと見渡すと、母の姿が無いことを確認した。
「はい!大丈夫です!」
「じゃあ、あげるわ。内緒ね」
「ありがとうございます!」
彼は喜んで"味見"をした。ウォルファはそんな幸せそうな彼の姿を見ていると、この生活もいいのかもしれないと思うのだった。しかし、やはり最後はいつもヒジェのことを考えてしまう。
彼は今、何をしているのだろうか。噂によると領議政になるそうだ。
───お祝い申し上げます。生きていてくださり、ありがとうございます………
本当なら、その幸せを二人で分かち合えたはずなのに。どうして自分にはそれが許されないのか。彼女はため息をつくと、ぼんやり菜箸の先を眺めた。
「────せい…………──んせい………先生!!!」
「あっ………何でもないわ。大丈夫よ」
ウォルファはクムに微笑むが、彼は深刻そうな顔をしている。
「そうではありません。焦げています。」
「えっ!?」
彼女は慌てて我に返ると、急いで食材をひっくり返すのだった。
その日の午後、クムは清国語の講義中にウォルファの話を聞いていた。
「先生、ポン尚宮とエジョンが言っていました。先生はに恋慕うお方がいると。」
「………あの人たちは…………!」
ウォルファは呆れ返ると、渋々頷いた。それを見たクムは喜んでいる。
「やはりそうだったのですね!先生が時々思い出したように微笑んでいるのはその方のことを考えているからですか?」
「えっ………私が?」
彼女は自分の知らないところで表情に現れているのかと思うと、急に恥ずかしく思えた。クムは更に質問を続けた。
「それで、その人はどんな人なのですか?」
「素敵な方だけど、ちょっと間抜けなの。清国語がお上手で、とても優しい方よ」
「そうなのですか…………では、先生もその方に清国語を習ったのですか?」
ウォルファは静かに頷いた。捕盗庁にいた頃、清国の文献を読みながら無意識に発音していると、まだ武官だったヒジェに馬鹿にされたことがあった。そのときにあまりに腹が立ったので、翌日彼女はその文献をヒジェの目の前にわざと大きな音を立てて置き、一から発音を教えるようにと言ったのだ。通訳官の父を持つだけはあり、ヒジェの発音は素晴らしいものだった。清国語を話す彼は魅力的で、彼女はいつのまにか発音ではなくヒジェの声を聞くためだけに毎日新しい本を持ってくるようになっていた。
「ではひょっとしてこの今使っている本は、先生がそのときに使った本なのですか?」
クムは教本の一冊を取り出すと、ウォルファに見せた。彼女は懐かしくて思わず笑ってしまった。
「ええ、そうよ。ここにあの人の失礼な書き込みがあるでしょ?」
彼女は本の巻末のところにあるヒジェの書き込みを指差した。
「ええと…………"朝鮮語を話せば楊貴妃にも劣らぬ美しさというのに、清国語を話せば国一番のぶさいく"………ですか?」
「ほんと、失礼な人よ。あまりに腹が立つからすごく綺麗な朝鮮語で"馬鹿"って返してあげたわ。」
クムとウォルファは声をあげて笑った。そのとき、クムの中で一体、先生のことをこんなに失礼な言い方をするにも関わらず、何年も心をとらえて離さない男はどんな奴なのかという疑問が生じた。そしてそれは講義が終わってからも続いた。
彼は外へ出ると、本片手に発音を練習しながら歩いた。
「ここの発音が難しいのだな………ええと………」
すると、隣で男が流暢な発音で代わりに一節を読んだ。
「我谈恋爱谈了九年了。ではないか?」
「えっ……?」
クムが顔を上げると、そこには見るからに図々しそうな男の顔があった。非常に背が高く、顔つきは悪くない。男はクムの教本を上から取り上げると、馬鹿にしたような目付きで流し読みし始めた。
「…………こんな本で練習しているのか。それにしても随分下手くそな発音だな」
「何だと?そなた、今私を馬鹿にしたな?」
「…………こいつ、なんと図体のでかい子供だ………!」
男───チャン・ヒジェはクムを睨み付けた。たかだか六歳そこそこのガキに"そなた"などと言われ、彼はたいそう立腹した。クムはヒジェとも知らず得意気に続けた。
「当然だ!私はこの国の王子だ!」
「………あのなぁ、坊や。寝言は寝てから言え。お前が王子なら私はこの国の領議政だ」
まあもうすぐ名実ともにそうなるがな、と心の中で付け加えたヒジェは、クムを冷ややかな目で見返した。
「失礼なやつだ…………!絶対に母上に言いつけてやる………!名を名乗らぬか!」
「ああ、いいだろう。チャン・ヒジェだ。私はチャン・ヒジェ。この国の……………」
領議政と言いそうになったが、彼はこの子を一つからかってやろうと思い直すと、こう名乗った。
「通訳官だ。」
「通訳官だったのか…………ではそなた、清国語が流暢なよう故、私に教えよ!」
何て図体のでかい子供だと呆れ返るヒジェをよそにクムはふと、清国語が流暢で図体のでかい見た目のよい男の話を思い出した。そしておもむろに先程の本を開いて、ウォルファが言っていた部分をヒジェに見せた。
「通訳官、この部分に思い当たることはないか?」
「なんだ?……………これは───!?」
間違いなくヒジェの字で書かれたそれを、彼はしっかりと覚えていた。その本を持っている人は、世界に一人しかいない。
───ウォルファだ!!!
彼はクムの両肩を掴むと、揺さぶりながら尋ねた。
「おい!この本をどこで手にいれた!?」
「手にいれたのではない。母上のお姉様に貸してもらっているのだ。」
母上のお姉様───つまり、この子はトンイの息子でもう一人の王子なのかということに驚く余裕もなく、彼はクムを呆然と眺めた。
「そ………その人の名前は、ウォルファ………ではないか?」
「そうだ。チェ・ウォルファだ。」
ヒジェはまさかこんなところでウォルファの消息を掴めるとは思ってもみなかったので、開いた口が塞がらない。そんな彼の様子を見て、察しの良いクムはヒジェと先生の言っていた恋人が同一人物であることに気づいた。
「やはりそうだったのか!そなたが先生の恋人なのだな!」
「………先生?」
「ウォルファ殿は私の清国語の先生だ!他にも塾では習えぬようなことを教えてくれる。」
そこまで言ってクムは口をつぐんだ。
「あっ…………私は何と失礼なことを………先生の清国語の発音の先生なら、私の先生だ。失礼しました、知らなかったもので……」
「まずは清国語より礼儀を知るのが先決ですね、王子様。」
ヒジェはとたんに態度を柔軟にすると、精一杯の笑顔を作ってクムに尋ねた。
「ところで王子様。今ウォルファ先生はどちらにお住まいかな?」
「うちの隣です。」
「は?」
………ステクのやつ…………見落としていたのか。
ヒジェは今すぐに駆け出したいのを抑え、もう一つ尋ねた。
「お一人で住んでいるのか?」
「そうです。先生はあなたを想ってずっと独り身です。近所の人たちが求婚してきても、お慕いする人がいるとお断りし続けています。」
自分のことを想い続けているとは……六年間の悲しみやもどかしさが彼の中で一気に吹き飛んだ。
そして最後にヒジェは一番の核心を尋ねた。
「…………今もし先生の前に私が現れたら嬉しいかどうか、今日聞いてくれないか?そしてもう一度明日ここで会おう。代わりに清国語の発音のコツを教えてやる」
クムは大好きな先生の哀しみを取り除けるならと、大喜びで頷いた。それを見届けたヒジェは満足そうに笑うと、足取り軽く帰路についた。
その日の夜、ヒジェは私兵とステクを連れてウォルファの家の前にやって来ていた。
「…………ウォルファは、俺を待っていた。ずっと変わらぬ想いで………」
「チャン様、探せず申し訳ありませんでした。まさか淑媛の元にいるとは………」
「構わん。仕方がない。」
二人がそんなこんなと話をしていると、ウォルファが出てきた。彼女は縁側に座って頬杖をつき、ぼんやりと月を眺めながら───ヒジェへの想いを呟いていた。
「…………同じ空の下にいるのに、どうして私にはそうは思えないのかしら。お陰でお嫁に行き遅れてしまったじゃない!」
その姿があまりにもいじらしく、ヒジェは今すぐにでも拐って自分のものにしてしまいたいと思った。ふと、ウォルファは目を閉じてヒジェには気づかず独り言を言い始めた。
「────お祝い申し上げます、ヒジェ様。領議政様になられるなんて……私、何もお支え出来なかった………」
「ウォルファ………」
ヒジェの声は彼女には届かない。
「でも………いいんです。私はいつまでもあなたをお慕いしています。けれど、会わない方がいいんです。だから、私はあなたに会いには行きません。あなたは………あなたの人生を生きないと………」
胸を締め付けるような想いだった。まだ迎えにいけない自分がとてももどかしく、彼は拳を握りしめた。
「…………会いたい…………とても…………」
ウォルファの涙が月光を受けて光る。ヒジェはこれ以上見ていられず、自宅に戻った。そして部屋の机に拳を叩きつけると、この六年間の痛みを改めて思い知るのだった。
次の日、クムはウォルファから聞いたことを思い出しながらヒジェの元へ急いでいた。
──え?それは……当然、会いたいに決まってるじゃない。……どうしてそんなことを?
──な、何となく気になったのです!それだけです!
「先生、チャン様が本当に好きなのですね………」
クムはヒジェの元に着くと、顛末を事細かに語った。ヒジェはそれを聞き幼子のような満面の笑みを浮かべ、お返しにクムに発音を教えた。
彼は説明を終えると、クムにまた頼んだ。
「私のことは黙っておいてくれ。頼んだぞ、秘密だ。それと…………先生に私が独身らしいという話をそれとなく伝えておいてくれ。宜しくな」
「はい!チャン先生!また明日、お知らせすればいいんですね?」
「そうだ。では、またな」
ステクは怪訝そうな目でクムを見送るヒジェを見ていた。その視線に気づいた彼は、ステクをじとりと見た。
「……何だ。」
「就善堂に知れたら一大事ですよ。クムという王子は殺害するべきでは……?」
「阿呆。殺せばウォルファと淑媛が戻る宗学の口実が無くなるではないか。……憎たらしいやつだが、仕方がない」
一体どれが本音なのか。ステクは相変わらず本心が読めない主人に肩をすくめると、その後をついていくのだった。
クムはウォルファにいつヒジェの質問を切り出そうかと悩んでいた。すると、彼女の方から意外なことを聞いてきた。
「……クムさん。」
「はい、先生!」
「どうして最近発音が上手なの?ひょっとして……誰かに習った?」
クムはどきりとしてウォルファを見た。そこで彼は仕方がなく嘘をついた。
「い、いいえ!練習したのです」
「そうなの………ふぅん………やっぱりあなたはすごいわね」
彼はほっと一息つく間も無く、平常心なウォルファに尋ねた。
「先生、チャン・ヒジェ殿はご存じですか?」
「えっ………?ど、どうして……その名を………」
うろたえる彼女を置いて、クムは続けた。
「40になるのにまだ独身だとか。先生はどう思われます?そういう人は珍しいと思いますが………」
「────その人の名前は、お母様の前で出してはいけないわよ。絶対、だめ。いい?」
喜ぶと思っていた反面、意外にも制止されたクムは驚いてしまった。そして思わず余計なことを言った。
「何故ですか?何故通訳官様の名前を母上の前で言ってはいけないのですか?──あっ……」
「通訳官?あの方は通訳官などではないわ。…………まさか、あなた……」
ウォルファはクムの目をじっと見た。もしヒジェと会ったことがあるのなら、絶対に二度と会わせてはならない。
───禧嬪様ならこの子の命を狙うはず………
しかし、クムも賢かった。彼はとっさに言い繕った。
「何を勘違いされているのですか?先生。私はただの通訳官のチャン・ヒジェ殿の話をしています。実は、その方から発音を教わりました。先生が知っている方は、その者と同姓同名なのでは?」
「そ、そうよね………あり得るはずがないわ。あの人とクムさんが会うだなんて………」
上手く煙に巻けたことを確認すると、クムは安心して再び教本に目を落とした。ウォルファも最初の頃はどこか落ち着かなかったが、やがて勘違いと思ったのか何事も無かったかのように戻るのだった。
次の日、クムはヒジェになんと説明すればいいのだろうかと悩んでいた。そんな彼の様子を見ていて、ヒジェもあまり芳しくない返事が返ってきたのだろうと察すると、敢えて何も聞かずにいた。
しばらくして、クムが言った。
「……先生はあなたの名前を出すとすぐに青ざめて、母上の前でその名は言ってはならないと仰いました。」
「そうか…………手放しではもう喜べんか…」
無邪気な少女だった頃は、自分の名前を聞いただけで喜んでいたウォルファ。それが一番記憶に新しい彼女だった。けれど、今はもうすっかり政治のせいで冷えきってしまったのかと思うと、彼は罪悪感に苛まれた。
「同姓同名に、母上も知っているチャン・ヒジェという方はいますか?先生は、その人と勘違いしていて…」
「ああ…………ええと…………」
母親の命を少なくとも三度程狙ったから知っているとは言えず、ヒジェは黙りこんだ。
「通訳官様は、本当に通訳官様なのですか?」
「えっ?と、当然だ!私は通訳官だ」
彼はこれ以上に上手い言い訳も思い付かず、とうとう本当に一切言葉を発しなくなった。彼は全てが手遅れになる前に、ウォルファと会わねばと思っていた。そして、あることを提案した。
「…そなたの発音にはもう教えることはない。だから俺の最後の頼みを聞いてほしい。………いいか?」
「はい!何をすればいいのでしょう?」
クムが快諾したのを見て、ヒジェは彼に耳打ちをした。
全て聞き終わると、クムは笑顔で頷いた。
「わかりました!やってみます。失敗したときは……どうすれば?」
「日が沈んでも来なければ、諦める。それでいいか?」
「はい、先生!」
元気よく返事をした彼の背を見送ったヒジェは、ステクにこう命じた。
「…………別邸の準備を整えさせろ。」
「はい。……しかし、良いのですか?」
「時が来た。問題はない。」
彼は紐飾りを取り出すと、空を仰いで深呼吸した。
────もう、待つのは止めた。そなたを迎えにいく。
そんなヒジェの決意を知るはずもないウォルファはクムの帰りを待ちながら、写本の手を休めることなく動かし続けるのだった。
「あら………美味しそうね…」
「ほんとです。尚宮様の料理とは大違いです」
「ちょっとエジョン!失礼ね!」
ウォルファは吹き出しそうになるのをこらえて食材をひっくり返した。今度はクムがやって来た。
「先生!一ついただいても?」
「どうしようかしら………お母様は今いない?」
いたずらっ子のように笑うと、ウォルファは彼にそう言った。クムはすぐに辺りをさっと見渡すと、母の姿が無いことを確認した。
「はい!大丈夫です!」
「じゃあ、あげるわ。内緒ね」
「ありがとうございます!」
彼は喜んで"味見"をした。ウォルファはそんな幸せそうな彼の姿を見ていると、この生活もいいのかもしれないと思うのだった。しかし、やはり最後はいつもヒジェのことを考えてしまう。
彼は今、何をしているのだろうか。噂によると領議政になるそうだ。
───お祝い申し上げます。生きていてくださり、ありがとうございます………
本当なら、その幸せを二人で分かち合えたはずなのに。どうして自分にはそれが許されないのか。彼女はため息をつくと、ぼんやり菜箸の先を眺めた。
「────せい…………──んせい………先生!!!」
「あっ………何でもないわ。大丈夫よ」
ウォルファはクムに微笑むが、彼は深刻そうな顔をしている。
「そうではありません。焦げています。」
「えっ!?」
彼女は慌てて我に返ると、急いで食材をひっくり返すのだった。
その日の午後、クムは清国語の講義中にウォルファの話を聞いていた。
「先生、ポン尚宮とエジョンが言っていました。先生はに恋慕うお方がいると。」
「………あの人たちは…………!」
ウォルファは呆れ返ると、渋々頷いた。それを見たクムは喜んでいる。
「やはりそうだったのですね!先生が時々思い出したように微笑んでいるのはその方のことを考えているからですか?」
「えっ………私が?」
彼女は自分の知らないところで表情に現れているのかと思うと、急に恥ずかしく思えた。クムは更に質問を続けた。
「それで、その人はどんな人なのですか?」
「素敵な方だけど、ちょっと間抜けなの。清国語がお上手で、とても優しい方よ」
「そうなのですか…………では、先生もその方に清国語を習ったのですか?」
ウォルファは静かに頷いた。捕盗庁にいた頃、清国の文献を読みながら無意識に発音していると、まだ武官だったヒジェに馬鹿にされたことがあった。そのときにあまりに腹が立ったので、翌日彼女はその文献をヒジェの目の前にわざと大きな音を立てて置き、一から発音を教えるようにと言ったのだ。通訳官の父を持つだけはあり、ヒジェの発音は素晴らしいものだった。清国語を話す彼は魅力的で、彼女はいつのまにか発音ではなくヒジェの声を聞くためだけに毎日新しい本を持ってくるようになっていた。
「ではひょっとしてこの今使っている本は、先生がそのときに使った本なのですか?」
クムは教本の一冊を取り出すと、ウォルファに見せた。彼女は懐かしくて思わず笑ってしまった。
「ええ、そうよ。ここにあの人の失礼な書き込みがあるでしょ?」
彼女は本の巻末のところにあるヒジェの書き込みを指差した。
「ええと…………"朝鮮語を話せば楊貴妃にも劣らぬ美しさというのに、清国語を話せば国一番のぶさいく"………ですか?」
「ほんと、失礼な人よ。あまりに腹が立つからすごく綺麗な朝鮮語で"馬鹿"って返してあげたわ。」
クムとウォルファは声をあげて笑った。そのとき、クムの中で一体、先生のことをこんなに失礼な言い方をするにも関わらず、何年も心をとらえて離さない男はどんな奴なのかという疑問が生じた。そしてそれは講義が終わってからも続いた。
彼は外へ出ると、本片手に発音を練習しながら歩いた。
「ここの発音が難しいのだな………ええと………」
すると、隣で男が流暢な発音で代わりに一節を読んだ。
「我谈恋爱谈了九年了。ではないか?」
「えっ……?」
クムが顔を上げると、そこには見るからに図々しそうな男の顔があった。非常に背が高く、顔つきは悪くない。男はクムの教本を上から取り上げると、馬鹿にしたような目付きで流し読みし始めた。
「…………こんな本で練習しているのか。それにしても随分下手くそな発音だな」
「何だと?そなた、今私を馬鹿にしたな?」
「…………こいつ、なんと図体のでかい子供だ………!」
男───チャン・ヒジェはクムを睨み付けた。たかだか六歳そこそこのガキに"そなた"などと言われ、彼はたいそう立腹した。クムはヒジェとも知らず得意気に続けた。
「当然だ!私はこの国の王子だ!」
「………あのなぁ、坊や。寝言は寝てから言え。お前が王子なら私はこの国の領議政だ」
まあもうすぐ名実ともにそうなるがな、と心の中で付け加えたヒジェは、クムを冷ややかな目で見返した。
「失礼なやつだ…………!絶対に母上に言いつけてやる………!名を名乗らぬか!」
「ああ、いいだろう。チャン・ヒジェだ。私はチャン・ヒジェ。この国の……………」
領議政と言いそうになったが、彼はこの子を一つからかってやろうと思い直すと、こう名乗った。
「通訳官だ。」
「通訳官だったのか…………ではそなた、清国語が流暢なよう故、私に教えよ!」
何て図体のでかい子供だと呆れ返るヒジェをよそにクムはふと、清国語が流暢で図体のでかい見た目のよい男の話を思い出した。そしておもむろに先程の本を開いて、ウォルファが言っていた部分をヒジェに見せた。
「通訳官、この部分に思い当たることはないか?」
「なんだ?……………これは───!?」
間違いなくヒジェの字で書かれたそれを、彼はしっかりと覚えていた。その本を持っている人は、世界に一人しかいない。
───ウォルファだ!!!
彼はクムの両肩を掴むと、揺さぶりながら尋ねた。
「おい!この本をどこで手にいれた!?」
「手にいれたのではない。母上のお姉様に貸してもらっているのだ。」
母上のお姉様───つまり、この子はトンイの息子でもう一人の王子なのかということに驚く余裕もなく、彼はクムを呆然と眺めた。
「そ………その人の名前は、ウォルファ………ではないか?」
「そうだ。チェ・ウォルファだ。」
ヒジェはまさかこんなところでウォルファの消息を掴めるとは思ってもみなかったので、開いた口が塞がらない。そんな彼の様子を見て、察しの良いクムはヒジェと先生の言っていた恋人が同一人物であることに気づいた。
「やはりそうだったのか!そなたが先生の恋人なのだな!」
「………先生?」
「ウォルファ殿は私の清国語の先生だ!他にも塾では習えぬようなことを教えてくれる。」
そこまで言ってクムは口をつぐんだ。
「あっ…………私は何と失礼なことを………先生の清国語の発音の先生なら、私の先生だ。失礼しました、知らなかったもので……」
「まずは清国語より礼儀を知るのが先決ですね、王子様。」
ヒジェはとたんに態度を柔軟にすると、精一杯の笑顔を作ってクムに尋ねた。
「ところで王子様。今ウォルファ先生はどちらにお住まいかな?」
「うちの隣です。」
「は?」
………ステクのやつ…………見落としていたのか。
ヒジェは今すぐに駆け出したいのを抑え、もう一つ尋ねた。
「お一人で住んでいるのか?」
「そうです。先生はあなたを想ってずっと独り身です。近所の人たちが求婚してきても、お慕いする人がいるとお断りし続けています。」
自分のことを想い続けているとは……六年間の悲しみやもどかしさが彼の中で一気に吹き飛んだ。
そして最後にヒジェは一番の核心を尋ねた。
「…………今もし先生の前に私が現れたら嬉しいかどうか、今日聞いてくれないか?そしてもう一度明日ここで会おう。代わりに清国語の発音のコツを教えてやる」
クムは大好きな先生の哀しみを取り除けるならと、大喜びで頷いた。それを見届けたヒジェは満足そうに笑うと、足取り軽く帰路についた。
その日の夜、ヒジェは私兵とステクを連れてウォルファの家の前にやって来ていた。
「…………ウォルファは、俺を待っていた。ずっと変わらぬ想いで………」
「チャン様、探せず申し訳ありませんでした。まさか淑媛の元にいるとは………」
「構わん。仕方がない。」
二人がそんなこんなと話をしていると、ウォルファが出てきた。彼女は縁側に座って頬杖をつき、ぼんやりと月を眺めながら───ヒジェへの想いを呟いていた。
「…………同じ空の下にいるのに、どうして私にはそうは思えないのかしら。お陰でお嫁に行き遅れてしまったじゃない!」
その姿があまりにもいじらしく、ヒジェは今すぐにでも拐って自分のものにしてしまいたいと思った。ふと、ウォルファは目を閉じてヒジェには気づかず独り言を言い始めた。
「────お祝い申し上げます、ヒジェ様。領議政様になられるなんて……私、何もお支え出来なかった………」
「ウォルファ………」
ヒジェの声は彼女には届かない。
「でも………いいんです。私はいつまでもあなたをお慕いしています。けれど、会わない方がいいんです。だから、私はあなたに会いには行きません。あなたは………あなたの人生を生きないと………」
胸を締め付けるような想いだった。まだ迎えにいけない自分がとてももどかしく、彼は拳を握りしめた。
「…………会いたい…………とても…………」
ウォルファの涙が月光を受けて光る。ヒジェはこれ以上見ていられず、自宅に戻った。そして部屋の机に拳を叩きつけると、この六年間の痛みを改めて思い知るのだった。
次の日、クムはウォルファから聞いたことを思い出しながらヒジェの元へ急いでいた。
──え?それは……当然、会いたいに決まってるじゃない。……どうしてそんなことを?
──な、何となく気になったのです!それだけです!
「先生、チャン様が本当に好きなのですね………」
クムはヒジェの元に着くと、顛末を事細かに語った。ヒジェはそれを聞き幼子のような満面の笑みを浮かべ、お返しにクムに発音を教えた。
彼は説明を終えると、クムにまた頼んだ。
「私のことは黙っておいてくれ。頼んだぞ、秘密だ。それと…………先生に私が独身らしいという話をそれとなく伝えておいてくれ。宜しくな」
「はい!チャン先生!また明日、お知らせすればいいんですね?」
「そうだ。では、またな」
ステクは怪訝そうな目でクムを見送るヒジェを見ていた。その視線に気づいた彼は、ステクをじとりと見た。
「……何だ。」
「就善堂に知れたら一大事ですよ。クムという王子は殺害するべきでは……?」
「阿呆。殺せばウォルファと淑媛が戻る宗学の口実が無くなるではないか。……憎たらしいやつだが、仕方がない」
一体どれが本音なのか。ステクは相変わらず本心が読めない主人に肩をすくめると、その後をついていくのだった。
クムはウォルファにいつヒジェの質問を切り出そうかと悩んでいた。すると、彼女の方から意外なことを聞いてきた。
「……クムさん。」
「はい、先生!」
「どうして最近発音が上手なの?ひょっとして……誰かに習った?」
クムはどきりとしてウォルファを見た。そこで彼は仕方がなく嘘をついた。
「い、いいえ!練習したのです」
「そうなの………ふぅん………やっぱりあなたはすごいわね」
彼はほっと一息つく間も無く、平常心なウォルファに尋ねた。
「先生、チャン・ヒジェ殿はご存じですか?」
「えっ………?ど、どうして……その名を………」
うろたえる彼女を置いて、クムは続けた。
「40になるのにまだ独身だとか。先生はどう思われます?そういう人は珍しいと思いますが………」
「────その人の名前は、お母様の前で出してはいけないわよ。絶対、だめ。いい?」
喜ぶと思っていた反面、意外にも制止されたクムは驚いてしまった。そして思わず余計なことを言った。
「何故ですか?何故通訳官様の名前を母上の前で言ってはいけないのですか?──あっ……」
「通訳官?あの方は通訳官などではないわ。…………まさか、あなた……」
ウォルファはクムの目をじっと見た。もしヒジェと会ったことがあるのなら、絶対に二度と会わせてはならない。
───禧嬪様ならこの子の命を狙うはず………
しかし、クムも賢かった。彼はとっさに言い繕った。
「何を勘違いされているのですか?先生。私はただの通訳官のチャン・ヒジェ殿の話をしています。実は、その方から発音を教わりました。先生が知っている方は、その者と同姓同名なのでは?」
「そ、そうよね………あり得るはずがないわ。あの人とクムさんが会うだなんて………」
上手く煙に巻けたことを確認すると、クムは安心して再び教本に目を落とした。ウォルファも最初の頃はどこか落ち着かなかったが、やがて勘違いと思ったのか何事も無かったかのように戻るのだった。
次の日、クムはヒジェになんと説明すればいいのだろうかと悩んでいた。そんな彼の様子を見ていて、ヒジェもあまり芳しくない返事が返ってきたのだろうと察すると、敢えて何も聞かずにいた。
しばらくして、クムが言った。
「……先生はあなたの名前を出すとすぐに青ざめて、母上の前でその名は言ってはならないと仰いました。」
「そうか…………手放しではもう喜べんか…」
無邪気な少女だった頃は、自分の名前を聞いただけで喜んでいたウォルファ。それが一番記憶に新しい彼女だった。けれど、今はもうすっかり政治のせいで冷えきってしまったのかと思うと、彼は罪悪感に苛まれた。
「同姓同名に、母上も知っているチャン・ヒジェという方はいますか?先生は、その人と勘違いしていて…」
「ああ…………ええと…………」
母親の命を少なくとも三度程狙ったから知っているとは言えず、ヒジェは黙りこんだ。
「通訳官様は、本当に通訳官様なのですか?」
「えっ?と、当然だ!私は通訳官だ」
彼はこれ以上に上手い言い訳も思い付かず、とうとう本当に一切言葉を発しなくなった。彼は全てが手遅れになる前に、ウォルファと会わねばと思っていた。そして、あることを提案した。
「…そなたの発音にはもう教えることはない。だから俺の最後の頼みを聞いてほしい。………いいか?」
「はい!何をすればいいのでしょう?」
クムが快諾したのを見て、ヒジェは彼に耳打ちをした。
全て聞き終わると、クムは笑顔で頷いた。
「わかりました!やってみます。失敗したときは……どうすれば?」
「日が沈んでも来なければ、諦める。それでいいか?」
「はい、先生!」
元気よく返事をした彼の背を見送ったヒジェは、ステクにこう命じた。
「…………別邸の準備を整えさせろ。」
「はい。……しかし、良いのですか?」
「時が来た。問題はない。」
彼は紐飾りを取り出すと、空を仰いで深呼吸した。
────もう、待つのは止めた。そなたを迎えにいく。
そんなヒジェの決意を知るはずもないウォルファはクムの帰りを待ちながら、写本の手を休めることなく動かし続けるのだった。