10、華の涙
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目が覚めたウォルファは、夫チャン・ヒジェの横顔を眺めながらため息をついた。
「ん……………ウォルファ…………」
幸せそうに眠っている夫の裏の顔を知ったことで、ずっと何があっても揺らぐことはなかった思慕の念が、ここ数日間で砂上の楼閣だったのではないだろうかという疑いに変わり始めていた。党派を捨て、身分も失ってでも貫きたいと思って慕った人の姿。それは政治を行うためのものであったとしても、到底許されることではなかった。
だが自分が身分を回復するとき、南人と少論をまとめて黙らせたのもまたヒジェだった。どちらが真の姿で、どちらが偽りの姿であるのか。はたまたそのどちらでもない第三の素顔がこの人の真の姿なのだろうか。
ウォルファはため息をつくと、チェリョンから受け取った王宮からの知らせに目を通し始めた。送り主はやはりトンイであり、その内容は夫の動きの詳細についてだった。恐らくウンテクやソ・ヨンギ辺りから指示されて出したであろうこの手紙を、ウォルファは黙って燃やし始めた。
「……おい、何をしておるのだ」
いつの間にか目覚めていたヒジェが、ウォルファの手を止めさせた。
「俺が見てはまずいものなのか?」
「…………淑儀様からです。あなたの動向について尋ねられていますが、私は見なかったことにします。」
疑いの目を向けた夫に、ウォルファは言い様のない悲しみを覚えた。普段からあらゆることを隠しているからこその考え方なのだろうと思うと、ますます辛さが増す。
────こんな思いをするのなら、婚姻しない方が良かったのかもしれない。
ウォルファの心に初めて後悔の念が生じた。初めて見せる表情にうろたえると、ヒジェは燃えかすと化した手紙の残骸を虚ろに見つめる妻の手を引っ張り、自分の方を向かせた。
「一体どうしたのだ。そなたらしくないではないか。そなたはいつも、笑顔で俺に屈託のない純粋な思いで信じて、微笑みかけてくれるではないか」
「私が、純粋にあなたを信じて微笑みを?私がいつも隣で、どんなに複雑な思いで笑っていたとお思いですか?」
意外な返答に目を丸くしたヒジェの手を振り払い、ウォルファは立ち上がりきっぱりと言い放った。
「私は最年少の貞敬夫人の座も、領議政の正妻の座も、望んだ覚えはありません。ただ、チャン・ヒジェ。あなたの妻として、お側でお支えしたいと願っていました。」
「ウォルファ……?」
「ですが、どうやら私はヒジェ様───いえ、旦那様をお支えできてはいないようです。………失礼します」
「待て!」
くるりと向きを変え、部屋から出ていこうとしたウォルファの袖を咄嗟に掴むと、ヒジェは叫んだ。
「そなたは私を充分に支えてくれておる。だから俺はここにいるのだ。俺が毎日家に帰り、癒しを求めている訳が解るか?それは一重にそなたが居るからだ。そなたが私の唯一の心の拠り所だからだ」
目を決して合わせようとしないウォルファの頑なな態度が、ヒジェの心に亀裂を入れた。
「………それとも、そなたにとって私は同じような心の拠り所ではないのか?」
「………わかりません。今も昔も、そうだったのか……」
「そなたにとって、俺はその程度なのか?そなたが身分を失っても俺を守り、想いを抑えて断ち切ろうとした俺への想いだぞ?」
「………どちらか変わったのか。どちらが幻だったのか。私にもわからないことを聞かないでください」
ウォルファはそう言い放つと、夫の手を強く振り払って部屋を後にした。
そのまま逃げるようにして向かったのは、初めて会った市場通りだった。
────ここで出会わなければ、私は何も知らないままに死ねたのに!
だがそんな後悔の脳裏に、過ってはいけない思い出の数々が浮かんでは消えた。
───また何かあったら、私が居ればいつでも助けてやる故、安心するといい。これは今日の思い出にでも受け取りなさい、可愛いお嬢さん。
あのときの紅は、今も思い出の品だった。優しくて時折意地悪な姿は、青年だったころと何も変わっていない。
──お嬢さん。
あのときもう一度出会わなければ、きっと恋には落ちていなかった。
「もう一度……もし、あの日をやり直せるなら……」
ウォルファは紐飾りを取り出して握りしめ、己に尋ねた。
丁度その時だった。息を切らしてやって来たテハが、鬼気迫る表情で報告を始めた。
「奥様、大変です。今すぐお伝えしなければならないことが……旦那様が……」
「わかった。むこうで聞こう」
ウォルファはテハの報告を受け、耳を疑った。
「旦那様が?王妃様付の宮女を誘拐し、医女の居場所を探している?」
「はい。如何しましょう。」
厳しい表情を浮かべたウォルファは、いつになく鋭い視線と言葉をテハに返した。
「……とりあえず、宮女を救うのよ。いいわね?」
「はい。承知しました」
一礼して去っていった部下を見届けると、ウォルファは次の一手を考えた。そして、夫に如何にして灸を据えようかと考え始めるのだった。
ウォルファが黙りこんで部屋で待っていると、案の定冷静さを欠いている夫がやって来た。ヒジェは音もなく静かに自室で待機していたウォルファを見て、小さく悲鳴をあげた。
「ひっ…………そ、そなたか。ど、どうしてここに………」
「………お帰りなさいませ、旦那様。」
「………何だ。変わった俺は嫌いなのでは?」
「ええ。変わったあなたは嫌いです。」
やはりと言いたげな顔をしているヒジェの意表を突くように、ウォルファは相手の顔を見ずに呟いた。
「───ですが、あなたは何も変わっていませんでした。」
ヒジェは黙って机を挟んで座ると、ろうそく一本に照らし出された妻の表情をまじまじと眺めた。
「……ヒジェ様は、何も変わっていませんでした。最初から、恐ろしい方でした。この国の常識も、倫理も、身分さえも、全て乗り越えられてしまわれる。」
ウォルファはヒジェの頬に、震える指先を添えた。彼女の目から、涙が溢れた。
「………国禁も、法も、全てあなたは無視なさる。ですが、もう止めてください。もう、終わりにしてください。換局政争に巻き込まれ、辛い想いをするのは私たちだけで充分です」
「ウォルファ………?」
「全て、知っています。」
その言葉を聞き、ヒジェの顔色が変わる。唇は恐怖で震えている。動揺の色を見せると、政治家ではなくただの男になるのか。ウォルファは責任ある妻としてではなく、純粋に一人の男を恋慕う女性として、ヒジェの手をとって嘆願した。
「お願いです。もうお止めください。もう、これ以上宮廷に血の嵐を呼んではなりません!世子様と延礽君様のためにも止めてください。あの二人に、私が受けた苦しみを味わせてはなりません。」
「ウォルファ…………」
換局政治は、それほどに愛する人の心に傷を負わせていたのか。ヒジェは申し訳なさで胸が一杯になるのを感じた。だが、同時に言わなければならないことがあることに戸惑いを覚えていた。
「………あのな………その…………医女を探しに行った場所に…………」
「どうしたのですか?何かあったのですか?」
歯切れの悪い言葉に嫌な予感を覚えたウォルファは、額に一筋の汗を流した。
「その………それが………短刀を、落としたようだ」
「えっ………」
「恐らく………今ごろ押収されて、監察部にあるだろう…」
ウォルファは絶句した。何ということだ。運が悪すぎる。だが、彼女はまだ挽回する余地があることを知っていた。
「ヒジェ様。決して動かないでください。今日は大人しく、ユン様を招いてお食事をなさってください。」
「こ、こんなときにか?だが、短刀は───」
「私は何も聞いていません。」
「だが───」
「従ってください!いいですね?」
ウォルファは、ヒジェに初めて見せる気迫でそう言い放つと、王宮へ向かう支度を始めた。
「おい、やめておけ!そなたまで巻き込まれるぞ!」
「もうとっくに巻き込まれています。」
───あなたを愛したときから。
換局の度に泣くことは慣れていた。けれど、やはり愛する人が窮地に陥る様子を見過ごすことはできない。
ウォルファは王宮へ向かう輿の中で、独りため息をつくのだった。
久しぶりにトンイに会うと、彼女は大いに歓迎してくれた。近況についてあれこれ会話をしているが、ウォルファには何一つとして頭に残らないものばかりだった。
───なんとか、監察部に行く方法は無いのかしら……怪しまれずに……
ウォルファがそんなことを思案していると、偶然にもトンイがこんなことを言い出した。
「そうだ!姉さん、チョンイムたちに会っていって!」
「あら、でも忙しいんじゃないの?」
「大丈夫よ!心配ないわ。姉さんは優しいのね」
遠慮している素振りを見せているが、ウォルファは勝機を逃すものかと視線を輝かせていた。だが、ふと思う。
───罠なのでは?
自分が動けば、夫の罪を隠蔽したと悟られるやもしれない。けれど、こんなところで悩んでいる猶予はないのも事実だ。ウォルファは腹をくくると、いつものにこやかな笑みを浮かべてトンイの隣を歩きだした。
監察部での挨拶を終え、ウォルファはしばらく部屋で待たされることになった。部屋の空間にはチョンイムが居るが、彼女を部屋から出すのは容易いことだった。
「あの………ここの薬草についての書物を読みたいのだけれど…書庫に行ってはだめかしら?」
「薬草ですか?」
「ええ。夫の夜が盛んすぎるもので……」
チョンイムは苦笑いすると、すぐに書物を持ってくるためにわざわざ部屋にウォルファを独り残していってくれた。
さて、探さねば。ウォルファは部屋を見渡して短刀を探し始めた。必ずどこかにあるはずなのだ。
捕盗庁で捜査を手伝っていた頃の勘を働かせ、ウォルファは根気よく探し続けた。そして、そろそろチョンイムが書庫から出てこちらに向かってくるであろう頃に、ようやく短刀を発見した。しかも運良く、内禁衛が丁寧に袋に入れ、盆に乗せて運んできたのだ。ご苦労と何気なく労ったウォルファは、兵士が去っていったのを見計らって、短刀を袋から取り出した。もちろん、そのまま持って帰ればすぐにばれてしまう。そこでウォルファは袋の上からならばほとんど同じに見える短刀と、夫のものをすり替えた。これで時間は稼げる。下手をすれば監察部はこのことに気づかないかもしれない。
だがこの件で一番の焦点は、すり替えたことが万が一発覚したときに、短刀をあのときヒジェはすでに持ってはいなかったと主張することだ。何というかは決まっている。ウォルファ自身が持っていたと言えば良いのだ。医女は実際彼女が匿っているし、何らおかしくはない。
───運が良かったわ。
ウォルファは微笑みながらチョンイムを待った。すると、何も気づいていない彼女が部屋に戻ってきた。
「お待たせしました。薬草では毒草しか見つかりませんでしたが、干し椎茸から出汁を取った汁物を毎日飲ませると良いそうです」
「あら……干し椎茸は陰の物だからかしら…試してみるわ、ありがとう」
ウォルファはにこやかに会釈した。その感謝の言葉に、彼女なりの他意を含ませながら。
家に帰ったウォルファは、ヒジェの目の前に短刀を置いて彼の目をじっと睨むように見た。
「これで満足ですか?」
「ウォルファ……お前、どうやって…」
「幸い、監察部に渡される前でした。内禁衛が持ってきたすぐ後、すり替えましたから」
ヒジェは絶句した。愛らしい妻が、ここまでやってのけるとは。
「そなた………」
「仮に発覚したとしても、私が持っていたと仰ってください。私が短刀をあなたに渡したことを、誰かからきっと聞き出すでしょうが、私はこれを作る際に自分名義にしてあります。ですから、ヒジェ様はどうかご心配なさらずに───」
言い終わる前に、ウォルファの顔はヒジェの胸に引き寄せられていた。痛く感じるほどに強く抱き締められているのがわかる。
「すまない…………すまなかった………だが、なんて馬鹿なのだ。私に惚れた女は多かったが、ここまでの馬鹿をやってのけた女はそなただけだぞ!分かっているのか?」
「───はい。私は、ヒジェ様の妻です。そして、チャン家に───いえ、南人に嫁いだ女です。罪を犯すことに対して、勿論この手は不安に震えました。罪悪感がこの身を締め付けました。ですが…これで……これしきのことで、もう私たち二人が離れずに済むのであれば、私は構いやしないと思ったのです。ただ、それだけです」
「ウォルファ………」
それほどに、ウォルファ自身とヒジェを何度も引き裂く要因となった換局政争は、彼女自身の身も心も全て疲れはてさせていた。けれど今は違う。今度はもう、ウォルファは西人ではない。同じ党派の者になれたのだ。ようやく、同じ色に染まることができたのだ。
「もう………離れたくないのです…………私は………!」
「………俺もだ。俺も、二度と離れたくはない。そなたをこの胸に抱くことを、どれ程待ち焦がれていたか。公の場で"夫人"と呼ぶことを、どれ程望んでいたことか。」
引き裂かれる度に、ヒジェもまた身を切るような思いに駈られていた。そしてその度に、彼は絶対的な権力を握って二人の関係を守ろうと決意してきた。
今がずっと続けばよいのに。……いや、続かねばならん。絶対に終わらせてはならんのだ!
ヒジェは震える手でウォルファの両頬を包むと、情熱的に唇を重ねた。まるで自分の目の前にある人が、確かに待ち焦がれていた人であることを確かめるように。
こんなに自分が愛した人は、決して居ないだろう。互いにそんなことを思いながら、二人は見つめあった。運命のように惹かれ合い、偶然さえも必然だと信じて互いを求め合ってきた。かつてはそれが周囲の声のせいで、酷い間違いを冒していると思ったこともあった。だが、今は違う。今、誰にも邪魔されることがなく傍に居られるこの時が、この愛を正しいものだと教えてくれている。
ウォルファはヒジェの手を取ると、彼の長くて美しい指をチョゴリの紐に絡ませた。そして、微笑みかけた。もちろんヒジェは拒まない。
部屋の灯りが消え、二人の影が重なる。
ただの平凡な夫婦でいられること。それが二人の幸せの形なのだった。
その夜。ユン氏はある場所を訪れていた。
「…………我が家の運勢を、占って欲しい」
それは有名な巫女の家だった。巫女はチャン家の者たち───オクチョン、ヒジェ、ユン氏自身、そしてウォルファの四柱を一目見ると、静かに目を閉じた。
「な、なにがわかる?」
「今、奥様の家の運勢は全て、王妃様次第です。王妃様が全ての元凶のようです。」
「なんだと………?で、では、息子夫婦のことはどうなのだ?」
巫女はヒジェとウォルファの四柱を見比べ、うっすら微笑みを浮かべた。
「相性は悪くないようです。むしろ、最良の夫婦でしょう。………ですが奥様のご嫡男は、このままでは最愛の奥様を失うでしょう」
「何だと?嫁が?どういうことだ!」
「このお二人は、太陽と月。あるいは魚と鳥のような存在です。互いに惹かれ合い、相性は良いものの、本来は相容れぬ者です。」
ユン氏は心臓が一瞬縮み上がるかと思った。大当たりだからだ。
「そこに今、王妃様という影が横たわっています。これはその方の気運を確実に奪いつつあります。」
「ど……どうすれば良いのだ……?」
巫女は何も言わない。ただ黙っているだけだ。顔色を真っ青にしたユン氏は、そのまま帰宅せざるを得なかった。そして、このことをヒジェに伝えるべきかどうかを悩むのだった。
「ん……………ウォルファ…………」
幸せそうに眠っている夫の裏の顔を知ったことで、ずっと何があっても揺らぐことはなかった思慕の念が、ここ数日間で砂上の楼閣だったのではないだろうかという疑いに変わり始めていた。党派を捨て、身分も失ってでも貫きたいと思って慕った人の姿。それは政治を行うためのものであったとしても、到底許されることではなかった。
だが自分が身分を回復するとき、南人と少論をまとめて黙らせたのもまたヒジェだった。どちらが真の姿で、どちらが偽りの姿であるのか。はたまたそのどちらでもない第三の素顔がこの人の真の姿なのだろうか。
ウォルファはため息をつくと、チェリョンから受け取った王宮からの知らせに目を通し始めた。送り主はやはりトンイであり、その内容は夫の動きの詳細についてだった。恐らくウンテクやソ・ヨンギ辺りから指示されて出したであろうこの手紙を、ウォルファは黙って燃やし始めた。
「……おい、何をしておるのだ」
いつの間にか目覚めていたヒジェが、ウォルファの手を止めさせた。
「俺が見てはまずいものなのか?」
「…………淑儀様からです。あなたの動向について尋ねられていますが、私は見なかったことにします。」
疑いの目を向けた夫に、ウォルファは言い様のない悲しみを覚えた。普段からあらゆることを隠しているからこその考え方なのだろうと思うと、ますます辛さが増す。
────こんな思いをするのなら、婚姻しない方が良かったのかもしれない。
ウォルファの心に初めて後悔の念が生じた。初めて見せる表情にうろたえると、ヒジェは燃えかすと化した手紙の残骸を虚ろに見つめる妻の手を引っ張り、自分の方を向かせた。
「一体どうしたのだ。そなたらしくないではないか。そなたはいつも、笑顔で俺に屈託のない純粋な思いで信じて、微笑みかけてくれるではないか」
「私が、純粋にあなたを信じて微笑みを?私がいつも隣で、どんなに複雑な思いで笑っていたとお思いですか?」
意外な返答に目を丸くしたヒジェの手を振り払い、ウォルファは立ち上がりきっぱりと言い放った。
「私は最年少の貞敬夫人の座も、領議政の正妻の座も、望んだ覚えはありません。ただ、チャン・ヒジェ。あなたの妻として、お側でお支えしたいと願っていました。」
「ウォルファ……?」
「ですが、どうやら私はヒジェ様───いえ、旦那様をお支えできてはいないようです。………失礼します」
「待て!」
くるりと向きを変え、部屋から出ていこうとしたウォルファの袖を咄嗟に掴むと、ヒジェは叫んだ。
「そなたは私を充分に支えてくれておる。だから俺はここにいるのだ。俺が毎日家に帰り、癒しを求めている訳が解るか?それは一重にそなたが居るからだ。そなたが私の唯一の心の拠り所だからだ」
目を決して合わせようとしないウォルファの頑なな態度が、ヒジェの心に亀裂を入れた。
「………それとも、そなたにとって私は同じような心の拠り所ではないのか?」
「………わかりません。今も昔も、そうだったのか……」
「そなたにとって、俺はその程度なのか?そなたが身分を失っても俺を守り、想いを抑えて断ち切ろうとした俺への想いだぞ?」
「………どちらか変わったのか。どちらが幻だったのか。私にもわからないことを聞かないでください」
ウォルファはそう言い放つと、夫の手を強く振り払って部屋を後にした。
そのまま逃げるようにして向かったのは、初めて会った市場通りだった。
────ここで出会わなければ、私は何も知らないままに死ねたのに!
だがそんな後悔の脳裏に、過ってはいけない思い出の数々が浮かんでは消えた。
───また何かあったら、私が居ればいつでも助けてやる故、安心するといい。これは今日の思い出にでも受け取りなさい、可愛いお嬢さん。
あのときの紅は、今も思い出の品だった。優しくて時折意地悪な姿は、青年だったころと何も変わっていない。
──お嬢さん。
あのときもう一度出会わなければ、きっと恋には落ちていなかった。
「もう一度……もし、あの日をやり直せるなら……」
ウォルファは紐飾りを取り出して握りしめ、己に尋ねた。
丁度その時だった。息を切らしてやって来たテハが、鬼気迫る表情で報告を始めた。
「奥様、大変です。今すぐお伝えしなければならないことが……旦那様が……」
「わかった。むこうで聞こう」
ウォルファはテハの報告を受け、耳を疑った。
「旦那様が?王妃様付の宮女を誘拐し、医女の居場所を探している?」
「はい。如何しましょう。」
厳しい表情を浮かべたウォルファは、いつになく鋭い視線と言葉をテハに返した。
「……とりあえず、宮女を救うのよ。いいわね?」
「はい。承知しました」
一礼して去っていった部下を見届けると、ウォルファは次の一手を考えた。そして、夫に如何にして灸を据えようかと考え始めるのだった。
ウォルファが黙りこんで部屋で待っていると、案の定冷静さを欠いている夫がやって来た。ヒジェは音もなく静かに自室で待機していたウォルファを見て、小さく悲鳴をあげた。
「ひっ…………そ、そなたか。ど、どうしてここに………」
「………お帰りなさいませ、旦那様。」
「………何だ。変わった俺は嫌いなのでは?」
「ええ。変わったあなたは嫌いです。」
やはりと言いたげな顔をしているヒジェの意表を突くように、ウォルファは相手の顔を見ずに呟いた。
「───ですが、あなたは何も変わっていませんでした。」
ヒジェは黙って机を挟んで座ると、ろうそく一本に照らし出された妻の表情をまじまじと眺めた。
「……ヒジェ様は、何も変わっていませんでした。最初から、恐ろしい方でした。この国の常識も、倫理も、身分さえも、全て乗り越えられてしまわれる。」
ウォルファはヒジェの頬に、震える指先を添えた。彼女の目から、涙が溢れた。
「………国禁も、法も、全てあなたは無視なさる。ですが、もう止めてください。もう、終わりにしてください。換局政争に巻き込まれ、辛い想いをするのは私たちだけで充分です」
「ウォルファ………?」
「全て、知っています。」
その言葉を聞き、ヒジェの顔色が変わる。唇は恐怖で震えている。動揺の色を見せると、政治家ではなくただの男になるのか。ウォルファは責任ある妻としてではなく、純粋に一人の男を恋慕う女性として、ヒジェの手をとって嘆願した。
「お願いです。もうお止めください。もう、これ以上宮廷に血の嵐を呼んではなりません!世子様と延礽君様のためにも止めてください。あの二人に、私が受けた苦しみを味わせてはなりません。」
「ウォルファ…………」
換局政治は、それほどに愛する人の心に傷を負わせていたのか。ヒジェは申し訳なさで胸が一杯になるのを感じた。だが、同時に言わなければならないことがあることに戸惑いを覚えていた。
「………あのな………その…………医女を探しに行った場所に…………」
「どうしたのですか?何かあったのですか?」
歯切れの悪い言葉に嫌な予感を覚えたウォルファは、額に一筋の汗を流した。
「その………それが………短刀を、落としたようだ」
「えっ………」
「恐らく………今ごろ押収されて、監察部にあるだろう…」
ウォルファは絶句した。何ということだ。運が悪すぎる。だが、彼女はまだ挽回する余地があることを知っていた。
「ヒジェ様。決して動かないでください。今日は大人しく、ユン様を招いてお食事をなさってください。」
「こ、こんなときにか?だが、短刀は───」
「私は何も聞いていません。」
「だが───」
「従ってください!いいですね?」
ウォルファは、ヒジェに初めて見せる気迫でそう言い放つと、王宮へ向かう支度を始めた。
「おい、やめておけ!そなたまで巻き込まれるぞ!」
「もうとっくに巻き込まれています。」
───あなたを愛したときから。
換局の度に泣くことは慣れていた。けれど、やはり愛する人が窮地に陥る様子を見過ごすことはできない。
ウォルファは王宮へ向かう輿の中で、独りため息をつくのだった。
久しぶりにトンイに会うと、彼女は大いに歓迎してくれた。近況についてあれこれ会話をしているが、ウォルファには何一つとして頭に残らないものばかりだった。
───なんとか、監察部に行く方法は無いのかしら……怪しまれずに……
ウォルファがそんなことを思案していると、偶然にもトンイがこんなことを言い出した。
「そうだ!姉さん、チョンイムたちに会っていって!」
「あら、でも忙しいんじゃないの?」
「大丈夫よ!心配ないわ。姉さんは優しいのね」
遠慮している素振りを見せているが、ウォルファは勝機を逃すものかと視線を輝かせていた。だが、ふと思う。
───罠なのでは?
自分が動けば、夫の罪を隠蔽したと悟られるやもしれない。けれど、こんなところで悩んでいる猶予はないのも事実だ。ウォルファは腹をくくると、いつものにこやかな笑みを浮かべてトンイの隣を歩きだした。
監察部での挨拶を終え、ウォルファはしばらく部屋で待たされることになった。部屋の空間にはチョンイムが居るが、彼女を部屋から出すのは容易いことだった。
「あの………ここの薬草についての書物を読みたいのだけれど…書庫に行ってはだめかしら?」
「薬草ですか?」
「ええ。夫の夜が盛んすぎるもので……」
チョンイムは苦笑いすると、すぐに書物を持ってくるためにわざわざ部屋にウォルファを独り残していってくれた。
さて、探さねば。ウォルファは部屋を見渡して短刀を探し始めた。必ずどこかにあるはずなのだ。
捕盗庁で捜査を手伝っていた頃の勘を働かせ、ウォルファは根気よく探し続けた。そして、そろそろチョンイムが書庫から出てこちらに向かってくるであろう頃に、ようやく短刀を発見した。しかも運良く、内禁衛が丁寧に袋に入れ、盆に乗せて運んできたのだ。ご苦労と何気なく労ったウォルファは、兵士が去っていったのを見計らって、短刀を袋から取り出した。もちろん、そのまま持って帰ればすぐにばれてしまう。そこでウォルファは袋の上からならばほとんど同じに見える短刀と、夫のものをすり替えた。これで時間は稼げる。下手をすれば監察部はこのことに気づかないかもしれない。
だがこの件で一番の焦点は、すり替えたことが万が一発覚したときに、短刀をあのときヒジェはすでに持ってはいなかったと主張することだ。何というかは決まっている。ウォルファ自身が持っていたと言えば良いのだ。医女は実際彼女が匿っているし、何らおかしくはない。
───運が良かったわ。
ウォルファは微笑みながらチョンイムを待った。すると、何も気づいていない彼女が部屋に戻ってきた。
「お待たせしました。薬草では毒草しか見つかりませんでしたが、干し椎茸から出汁を取った汁物を毎日飲ませると良いそうです」
「あら……干し椎茸は陰の物だからかしら…試してみるわ、ありがとう」
ウォルファはにこやかに会釈した。その感謝の言葉に、彼女なりの他意を含ませながら。
家に帰ったウォルファは、ヒジェの目の前に短刀を置いて彼の目をじっと睨むように見た。
「これで満足ですか?」
「ウォルファ……お前、どうやって…」
「幸い、監察部に渡される前でした。内禁衛が持ってきたすぐ後、すり替えましたから」
ヒジェは絶句した。愛らしい妻が、ここまでやってのけるとは。
「そなた………」
「仮に発覚したとしても、私が持っていたと仰ってください。私が短刀をあなたに渡したことを、誰かからきっと聞き出すでしょうが、私はこれを作る際に自分名義にしてあります。ですから、ヒジェ様はどうかご心配なさらずに───」
言い終わる前に、ウォルファの顔はヒジェの胸に引き寄せられていた。痛く感じるほどに強く抱き締められているのがわかる。
「すまない…………すまなかった………だが、なんて馬鹿なのだ。私に惚れた女は多かったが、ここまでの馬鹿をやってのけた女はそなただけだぞ!分かっているのか?」
「───はい。私は、ヒジェ様の妻です。そして、チャン家に───いえ、南人に嫁いだ女です。罪を犯すことに対して、勿論この手は不安に震えました。罪悪感がこの身を締め付けました。ですが…これで……これしきのことで、もう私たち二人が離れずに済むのであれば、私は構いやしないと思ったのです。ただ、それだけです」
「ウォルファ………」
それほどに、ウォルファ自身とヒジェを何度も引き裂く要因となった換局政争は、彼女自身の身も心も全て疲れはてさせていた。けれど今は違う。今度はもう、ウォルファは西人ではない。同じ党派の者になれたのだ。ようやく、同じ色に染まることができたのだ。
「もう………離れたくないのです…………私は………!」
「………俺もだ。俺も、二度と離れたくはない。そなたをこの胸に抱くことを、どれ程待ち焦がれていたか。公の場で"夫人"と呼ぶことを、どれ程望んでいたことか。」
引き裂かれる度に、ヒジェもまた身を切るような思いに駈られていた。そしてその度に、彼は絶対的な権力を握って二人の関係を守ろうと決意してきた。
今がずっと続けばよいのに。……いや、続かねばならん。絶対に終わらせてはならんのだ!
ヒジェは震える手でウォルファの両頬を包むと、情熱的に唇を重ねた。まるで自分の目の前にある人が、確かに待ち焦がれていた人であることを確かめるように。
こんなに自分が愛した人は、決して居ないだろう。互いにそんなことを思いながら、二人は見つめあった。運命のように惹かれ合い、偶然さえも必然だと信じて互いを求め合ってきた。かつてはそれが周囲の声のせいで、酷い間違いを冒していると思ったこともあった。だが、今は違う。今、誰にも邪魔されることがなく傍に居られるこの時が、この愛を正しいものだと教えてくれている。
ウォルファはヒジェの手を取ると、彼の長くて美しい指をチョゴリの紐に絡ませた。そして、微笑みかけた。もちろんヒジェは拒まない。
部屋の灯りが消え、二人の影が重なる。
ただの平凡な夫婦でいられること。それが二人の幸せの形なのだった。
その夜。ユン氏はある場所を訪れていた。
「…………我が家の運勢を、占って欲しい」
それは有名な巫女の家だった。巫女はチャン家の者たち───オクチョン、ヒジェ、ユン氏自身、そしてウォルファの四柱を一目見ると、静かに目を閉じた。
「な、なにがわかる?」
「今、奥様の家の運勢は全て、王妃様次第です。王妃様が全ての元凶のようです。」
「なんだと………?で、では、息子夫婦のことはどうなのだ?」
巫女はヒジェとウォルファの四柱を見比べ、うっすら微笑みを浮かべた。
「相性は悪くないようです。むしろ、最良の夫婦でしょう。………ですが奥様のご嫡男は、このままでは最愛の奥様を失うでしょう」
「何だと?嫁が?どういうことだ!」
「このお二人は、太陽と月。あるいは魚と鳥のような存在です。互いに惹かれ合い、相性は良いものの、本来は相容れぬ者です。」
ユン氏は心臓が一瞬縮み上がるかと思った。大当たりだからだ。
「そこに今、王妃様という影が横たわっています。これはその方の気運を確実に奪いつつあります。」
「ど……どうすれば良いのだ……?」
巫女は何も言わない。ただ黙っているだけだ。顔色を真っ青にしたユン氏は、そのまま帰宅せざるを得なかった。そして、このことをヒジェに伝えるべきかどうかを悩むのだった。