7、党派を越えた愛
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チャン・ヒジェは淑媛が幽閉されたことを知り、次はウォルファではと気を揉んでいた。彼はウォルファを隠すようウンテクに伝言すると、ようやく方々を探し回って見つけたチェ・ヒョウォンの家系図を片手に、どう王に説明しようかと考え始めた。まずは清国から圧力をかけてもらわねば困る。しかし、どうすれば良いのか。
そんなことを悩んでいるうちに、トンジュたちの処刑の日がやって来た。宮殿から出られないトンイの代わりに、ウォルファは全てを見届けると言って聞かないため、ヒジェは彼女に同行して刑場にやって来た。
ソリはトンジュと共に斬首に処されるという命を受け、彼の隣に座った。彼女は微笑むと、トンジュにこう言った。
「………もう、離れないわ。」
「ああ、そうだな」
「私のこの仕事とあなたの稼ぎじゃずっと一緒に居られないと言っていたけど、案外一緒に居られそうね」
彼女は死を受け入れていた。ふと、彼女は群衆の中にウォルファとヒジェを見つけた。二人もそれに気づき、人を割ってソリとトンジュのそばまで歩み寄った。ヒジェは役人に金を渡すと、しばしの猶予をもらうことに成功した。
「ウォルファ、あなたは生きるのよ。生きて、チャン様と幸せになるのよ。妓生でもないあなたにはその資格がある」
「私は………必ずそうします。お兄様とソリさん、そしてお父様が生きられなかった分も、必ず生きてみせます。私は決してソリさんを忘れません。義州で私を世話してくれたこと、いつも気にかけてくれたこと。ときには母のように、ときには姉のように、そしてときには友人のように接してくれたあなたを、私は決して忘れません。」
ウォルファはそう言うと、今度はトンジュに向き直った。
「……お兄様。トンジュお兄様。私のこの血に流れるお兄様。父から愛されていたことを教えてくれてありがとうございました。私はそれだけで生きていけます。ですから、私のことはもう、心配しないで」
「ウォルファ…………俺の妹………大好きだ。」
こらえていた涙が、彼女の言葉のせいでトンジュを満たす。しかしそこには、全てを伝えられたという充足感が溢れていた。
ウォルファが二人から離れると、トンジュはヒジェを呼び止めた。
「ヒジェ殿!妹を………ウォルファを、頼みます。」
「ああ、必ず幸せにしてみせる。」
彼はそう言うと、群衆の中に戻っていこうとした。だがその背中に、トンジュが言葉を投げ掛けた。
「それから………ありがとう。妹の全てを受け入れ、そして愛してくれて」
その言葉にヒジェが足を止める。彼は振り返ると一番爽やかな笑顔を向け、こう返した。
「………こちらこそ、礼を言う。俺たちの愛を理解してくれたのは……トンジュ殿、そなたただ一人だ。」
初めて特権階級の者に心ある言葉を掛けられたトンジュは、改めてヒジェに妹を託してよかったと思った。
そして、最期の時がやって来た。かけつけたウンテクもウォルファの隣でヒジェと共に見守るなか、後ろには既にムヨルが率いる漢城府の兵が彼女を捕らえるべく待機していた。
トンジュはヒジェを見ると、大声でこう言った。
「もし次があって、生まれ変われるなら!酒を飲みませんか?」
「ああ、いいだろう!俺も一人酒でいい加減退屈していたところだ。幸いにも、先約はない」
彼は笑顔でそう言った。トンジュは更にソリに教えられてウンテクを見つけると、彼に向かって一礼をした。言葉はないものの、そこには大きな感謝の意が込められていることを、ウンテク自身もしっかりと理解していた。
そして、処刑人が儀式を始めた。ウォルファの目を覆おうとするウンテクを、彼女は自ら払い除けた。
「見ないほうがいい。止めておきなさい」
「いいえ、見るわ。私の肉親が、どんな最期を遂げるのか。全てをよく知らないのならせめて、それだけでも知っておきたい……」
黙り混むウンテクに、ヒジェはウォルファを抱き寄せながら言った。
「好きにさせてやれ。後悔の残らぬように考えるといい。……辛くなったらいつでも俺の胸に逃げよ」
そう言われて小さくうなずく彼女の手は尚も小刻みに震えていた。ヒジェがそれに気づき、そっと手を握る。
ふと、ウォルファは考えた。最期にトンジュは何を望むのだろうか。彼女はヒジェに尋ねた。
「ねえ、ヒジェ様。トンジュお兄様は最期に私に何を望むと思う?」
「そうだな………俺がもし禧嬪様に望むのなら………」
彼は少し考えると、にっこり笑って返事をした。
「笑っていてほしい。」
「……笑うのね。わかったわ。」
ウォルファはうなずくと、トンジュの方を真っ直ぐ見つめた。目があったその瞬間、彼女は今までで一番の美しくてまぶしい笑顔を作った。刹那、トンジュの表情から不安が消え去った。そしてその直後、刃が彼の首をいとも簡単に切り裂いた。その場に静寂が走る。ウォルファが心配になり、ヒジェは彼女の方を見た。彼女は下唇を噛み締め、震える片手で自分の首もとをぎゅっと掴んでいた。目は赤く染まっており、涙にならない悲しみが彼女を包んでいた。ヒジェもウンテクも、何も言わず、群衆が消えてからも彼女のそばにいた。
しびれを切らせたムヨルは、さっさとウォルファを捕らえるように指示をした。しかし、その声はすぐに遮られた。その声の主は、ユンだった。義禁府の兵を連れてきた彼は、自らが彼女を引き取ると主張すると、ムヨルたちを引き下がらせた。
しばらくすると、ウォルファのいる無音の世界に雨が降り注ぎはじめた。ヒジェは自分の二枚重ねになっている服の上の方であるタポを脱ぐと、彼女に被せて雨をしのいでやった。ウォルファは涙に潤む瞳で彼を見上げると、少しずつ言葉を紡いだ。
「………私、決めたの。絶対に泣かない。もう、二度と泣いたりしない。……でも、今日だけ、最後に泣かせて。」
「ああ、いいとも。俺の胸で、泣けばいい。これからも辛くなったら、いつでも俺の胸で泣けばいい。」
彼女はそれを聞くと子供のように顔を歪め、声を押し殺しきれずに泣きじゃくった。すべての悲しみを受け止めてくれるヒジェとは、もう会えなくなる。ウォルファにはそれがきちんと理解できていた。甘えたくはなかった。だが、最後に一度どころか何度でも甘えさせてくれるヒジェの優しさに、今日だけは浸りたかった。
ウンテクはちらりとユンを見ると、彼女を立ち上がらせた。
「………そろそろ、行かねばヒジェも風邪を引く。……いいか?」
「………はい、お兄様。」
そう言って顔を上げたウォルファに、もうあどけない面影は残っていなかった。
義禁府の牢は、ユンの計らいで快適なものだった。彼は尋問室をウォルファの牢にし、不安に思わないように何度も頻繁に通った。
「………ごめんなさい、ユン様。」
「そなたが決めた道だ。………あとはあの男を信じよ。きっとどんな手段を使ってでも救ってくれよう」
そう言われると、ますます彼に対する罪の意識が彼女を苛む。もっと早くに態度を示していれば、ユンをここまで傷つけずに済んだという罪悪感が、今でも彼女に残っていた。それに気づいていたユンは、哀しい笑顔でこう言った。
「ウォルファ、仕方がないことだ。家の決めたことには逆らえないのが両班の女。想いを口に出すことが出来ずにいるのは当然だ。……私の方こそ気づくことができず、済まなかった。」
「ユン様…………」
「……その、だな。もし、生まれ変わったら………そのときはそなたが愛してくれるような男になる。それでもあいつを選ぶのなら、また次の時にそなたに愛されるように努力する。そうすれば、いつの日かそなたは……そなたはチャン・ヒジェでなく、私に振り向いてくれるか?」
どこまでも控えめで優しいユンに、ウォルファは頷いた。彼は王命を待ちながら、天井を仰いだ。そこに減刑の願いを込めながら。
一方、ウンテクと母イェリ、そしてチェリョンは家の一室で黙って座っていた。
「………あの子が、まさか淑媛様の姉だなんて………賤民であったとしても死産したあの子にそっくりな赤ん坊を愛せると思っていたし、今も愛してるわ。でも、何も淑媛様の親戚じゃなくていいじゃない…そうすれば黙っていられたのに…」
「凌上罪を免れたとしても、身分は剥奪でしょうね………本当に、チャン・ヒジェと恋仲になったこと、淑媛様と姉妹であること……どれもこれも気の毒としか言いようがない………」
「お嬢様のことは、ヒジェ様が助けて下さるのでしょう?若旦那様?」
ウンテクもイェリも、チェリョンのその問いには返事をしなかった。過ぎ行く時間の中、いてもたっても居られなくなったウンテクは、立ち上がって家を飛び出した。
目指す先は、王宮。王の住まう便殿だった。
チャン・ヒジェは、御前会議で繰り広げられる淑媛の始末とウォルファの罪についての不毛で台本通りの展開に吐き気を感じていた。彼は黙っていたが、一人の男の発言についに口を開いた。
「だいたい賤民の身でありながら、身分を偽るなどもってのほか。王様、シム氏……いや、チョン・ウォルファは両班を冒涜しています!」
「───では仮にその者が生まれてこのかた、一度もそんなことを知らずに生きていたら?」
誰もがヒジェの発言に驚いた。隣に座っているユンが肘で彼の腕を小突く。それでもヒジェは止めなかった。
「第一、あのときに飢饉が起きていなければあの子は普通に育てられたはず。あれが起きたのは西人が失策したからです。そして、南人に換局したのをお忘れですか?」
ユンは改めてこの男の政治家としての手腕に感心した。一見西人を批判しているように見えるが、実際はウォルファをかばっている。
会議が終わり、南人も西人も何事かと話をしながら帰る中、ヒジェは禧嬪に呼び出されていた。
「兄上。お願いですから、この件は見て見ぬふりをしてください。決して口を出してはなりません。黙っておくのです。あの子を助ければ淑媛まで助けることになります」
「………わかりました」
自分と世子と妹の未来を考えれば、ヒジェはそれが正しいと分かっていたので、何一つ反論せずに頷いた。
就善堂を後にし、彼はその足で義禁府へ向かった。ウォルファはヒジェを見つけると、笑顔を作って柵に寄ってきた。彼はその姿を見て、また胸を痛めた。
「ヒジェ様が御前会議で私を庇ってくれたと聞きました。………でも、もういいんですよ。私は甘んじて罪を受け入れる覚悟はできています。」
彼はそれを聞いて目を丸くした。
「だ、だめだ!!そんなこと………必ずそなたを救い出す。二人で生きていけるなら別邸にでも住まわせるし、清国に行ってもいい!俺のことを信じてくれ」
だが、彼女はそんなヒジェの頬を柵の間から出した手で優しくなぞると、目を閉じて言った。
「…あなたを信じるから、こう言うんです。あなたは、出来ないことも出来ると約束する方ですから………」
「そんな…………」
どれ程頑張ろうとも、党派を越えることは出来ない。ウォルファにもそんなことくらいわかっていた。その思いだけで充分だった。もう、彼女は愛する人を苦しめたくなかった。
ウォルファは紐飾りを取り出すと、彼に返した。
「……ありがとう、私に夢を見せてくれて……」
「やめろ………言うな、それ以上………」
「幸せでした。誰よりも、幸せでした。ありがとう、ヒジェ様…………」
もはや、どうすることも出来なかった。ヒジェは改めて自分の無力さを思い知ると、悔しくて涙も出なかった。そんな彼の気持ちを理解しているのか、ウォルファは彼にこう言った。
「私のことを、嫌いになってください。憎んでください。そうすれば、きっと悲しみも消えます。だから………」
「嫌だ。そなたを愛している!」
彼は取り乱した様子で返事をすると、遠くから見ていたユンに掴みかかった。
「ユン、おい、今すぐ彼女をここから出せ!!出せ!!連れて帰る!!この子はずっと俺のそばに居るべきだ!誰にも引き離させはしない!!返してくれ!頼む………頼む…………俺から奪わないでくれ………」
彼は膝から崩れ落ちると、その場で泣きはじめた。その声はいつまでも義禁府の牢で響き続けるのだった。
翌日、ヒジェは便殿の前に独り立っていた。手にはウォルファの父ヒョウォンが元々両班の身であったことや、清国との外交のために昭顕世子とその妻姜嬪の名誉回復が重要であることをまとめた資料が包みとして握られていた。
彼は石畳の上に座ると、前を見据えて声の限り叫んだ。
「王様!シム氏をどうか凌上罪に処するのだけはお止めください!あの子………彼女は、何も知りませんでした!ですから、どうか!どうか厳罰を降されることだけはお止めください!王様!どうかお聞きいれください!」
その声に何の騒ぎかと人々が集まってくる。兄の狂動はすぐに就善堂の禧嬪の耳にも届いた。彼女は慌てて便殿へ向かい、ヒジェを叱り飛ばした。
「兄上!!何をしているのですか!?」
「私のことは放っておいてください!此処にいるのは禧嬪様の政治家としての兄ではありません。ただの愛に生きる愚かな男としてのチャン・ヒジェです」
ヒジェは初めて妹の願いに逆らった。禧嬪は目が眩むような驚きに耐えられず、石段の手すりに寄りかかった。それでもヒジェは一心不乱に王に訴え続けた。
党派を越える愛を彼自ら実現し、確かに存在するということをウォルファに伝えるために。
そんなことを悩んでいるうちに、トンジュたちの処刑の日がやって来た。宮殿から出られないトンイの代わりに、ウォルファは全てを見届けると言って聞かないため、ヒジェは彼女に同行して刑場にやって来た。
ソリはトンジュと共に斬首に処されるという命を受け、彼の隣に座った。彼女は微笑むと、トンジュにこう言った。
「………もう、離れないわ。」
「ああ、そうだな」
「私のこの仕事とあなたの稼ぎじゃずっと一緒に居られないと言っていたけど、案外一緒に居られそうね」
彼女は死を受け入れていた。ふと、彼女は群衆の中にウォルファとヒジェを見つけた。二人もそれに気づき、人を割ってソリとトンジュのそばまで歩み寄った。ヒジェは役人に金を渡すと、しばしの猶予をもらうことに成功した。
「ウォルファ、あなたは生きるのよ。生きて、チャン様と幸せになるのよ。妓生でもないあなたにはその資格がある」
「私は………必ずそうします。お兄様とソリさん、そしてお父様が生きられなかった分も、必ず生きてみせます。私は決してソリさんを忘れません。義州で私を世話してくれたこと、いつも気にかけてくれたこと。ときには母のように、ときには姉のように、そしてときには友人のように接してくれたあなたを、私は決して忘れません。」
ウォルファはそう言うと、今度はトンジュに向き直った。
「……お兄様。トンジュお兄様。私のこの血に流れるお兄様。父から愛されていたことを教えてくれてありがとうございました。私はそれだけで生きていけます。ですから、私のことはもう、心配しないで」
「ウォルファ…………俺の妹………大好きだ。」
こらえていた涙が、彼女の言葉のせいでトンジュを満たす。しかしそこには、全てを伝えられたという充足感が溢れていた。
ウォルファが二人から離れると、トンジュはヒジェを呼び止めた。
「ヒジェ殿!妹を………ウォルファを、頼みます。」
「ああ、必ず幸せにしてみせる。」
彼はそう言うと、群衆の中に戻っていこうとした。だがその背中に、トンジュが言葉を投げ掛けた。
「それから………ありがとう。妹の全てを受け入れ、そして愛してくれて」
その言葉にヒジェが足を止める。彼は振り返ると一番爽やかな笑顔を向け、こう返した。
「………こちらこそ、礼を言う。俺たちの愛を理解してくれたのは……トンジュ殿、そなたただ一人だ。」
初めて特権階級の者に心ある言葉を掛けられたトンジュは、改めてヒジェに妹を託してよかったと思った。
そして、最期の時がやって来た。かけつけたウンテクもウォルファの隣でヒジェと共に見守るなか、後ろには既にムヨルが率いる漢城府の兵が彼女を捕らえるべく待機していた。
トンジュはヒジェを見ると、大声でこう言った。
「もし次があって、生まれ変われるなら!酒を飲みませんか?」
「ああ、いいだろう!俺も一人酒でいい加減退屈していたところだ。幸いにも、先約はない」
彼は笑顔でそう言った。トンジュは更にソリに教えられてウンテクを見つけると、彼に向かって一礼をした。言葉はないものの、そこには大きな感謝の意が込められていることを、ウンテク自身もしっかりと理解していた。
そして、処刑人が儀式を始めた。ウォルファの目を覆おうとするウンテクを、彼女は自ら払い除けた。
「見ないほうがいい。止めておきなさい」
「いいえ、見るわ。私の肉親が、どんな最期を遂げるのか。全てをよく知らないのならせめて、それだけでも知っておきたい……」
黙り混むウンテクに、ヒジェはウォルファを抱き寄せながら言った。
「好きにさせてやれ。後悔の残らぬように考えるといい。……辛くなったらいつでも俺の胸に逃げよ」
そう言われて小さくうなずく彼女の手は尚も小刻みに震えていた。ヒジェがそれに気づき、そっと手を握る。
ふと、ウォルファは考えた。最期にトンジュは何を望むのだろうか。彼女はヒジェに尋ねた。
「ねえ、ヒジェ様。トンジュお兄様は最期に私に何を望むと思う?」
「そうだな………俺がもし禧嬪様に望むのなら………」
彼は少し考えると、にっこり笑って返事をした。
「笑っていてほしい。」
「……笑うのね。わかったわ。」
ウォルファはうなずくと、トンジュの方を真っ直ぐ見つめた。目があったその瞬間、彼女は今までで一番の美しくてまぶしい笑顔を作った。刹那、トンジュの表情から不安が消え去った。そしてその直後、刃が彼の首をいとも簡単に切り裂いた。その場に静寂が走る。ウォルファが心配になり、ヒジェは彼女の方を見た。彼女は下唇を噛み締め、震える片手で自分の首もとをぎゅっと掴んでいた。目は赤く染まっており、涙にならない悲しみが彼女を包んでいた。ヒジェもウンテクも、何も言わず、群衆が消えてからも彼女のそばにいた。
しびれを切らせたムヨルは、さっさとウォルファを捕らえるように指示をした。しかし、その声はすぐに遮られた。その声の主は、ユンだった。義禁府の兵を連れてきた彼は、自らが彼女を引き取ると主張すると、ムヨルたちを引き下がらせた。
しばらくすると、ウォルファのいる無音の世界に雨が降り注ぎはじめた。ヒジェは自分の二枚重ねになっている服の上の方であるタポを脱ぐと、彼女に被せて雨をしのいでやった。ウォルファは涙に潤む瞳で彼を見上げると、少しずつ言葉を紡いだ。
「………私、決めたの。絶対に泣かない。もう、二度と泣いたりしない。……でも、今日だけ、最後に泣かせて。」
「ああ、いいとも。俺の胸で、泣けばいい。これからも辛くなったら、いつでも俺の胸で泣けばいい。」
彼女はそれを聞くと子供のように顔を歪め、声を押し殺しきれずに泣きじゃくった。すべての悲しみを受け止めてくれるヒジェとは、もう会えなくなる。ウォルファにはそれがきちんと理解できていた。甘えたくはなかった。だが、最後に一度どころか何度でも甘えさせてくれるヒジェの優しさに、今日だけは浸りたかった。
ウンテクはちらりとユンを見ると、彼女を立ち上がらせた。
「………そろそろ、行かねばヒジェも風邪を引く。……いいか?」
「………はい、お兄様。」
そう言って顔を上げたウォルファに、もうあどけない面影は残っていなかった。
義禁府の牢は、ユンの計らいで快適なものだった。彼は尋問室をウォルファの牢にし、不安に思わないように何度も頻繁に通った。
「………ごめんなさい、ユン様。」
「そなたが決めた道だ。………あとはあの男を信じよ。きっとどんな手段を使ってでも救ってくれよう」
そう言われると、ますます彼に対する罪の意識が彼女を苛む。もっと早くに態度を示していれば、ユンをここまで傷つけずに済んだという罪悪感が、今でも彼女に残っていた。それに気づいていたユンは、哀しい笑顔でこう言った。
「ウォルファ、仕方がないことだ。家の決めたことには逆らえないのが両班の女。想いを口に出すことが出来ずにいるのは当然だ。……私の方こそ気づくことができず、済まなかった。」
「ユン様…………」
「……その、だな。もし、生まれ変わったら………そのときはそなたが愛してくれるような男になる。それでもあいつを選ぶのなら、また次の時にそなたに愛されるように努力する。そうすれば、いつの日かそなたは……そなたはチャン・ヒジェでなく、私に振り向いてくれるか?」
どこまでも控えめで優しいユンに、ウォルファは頷いた。彼は王命を待ちながら、天井を仰いだ。そこに減刑の願いを込めながら。
一方、ウンテクと母イェリ、そしてチェリョンは家の一室で黙って座っていた。
「………あの子が、まさか淑媛様の姉だなんて………賤民であったとしても死産したあの子にそっくりな赤ん坊を愛せると思っていたし、今も愛してるわ。でも、何も淑媛様の親戚じゃなくていいじゃない…そうすれば黙っていられたのに…」
「凌上罪を免れたとしても、身分は剥奪でしょうね………本当に、チャン・ヒジェと恋仲になったこと、淑媛様と姉妹であること……どれもこれも気の毒としか言いようがない………」
「お嬢様のことは、ヒジェ様が助けて下さるのでしょう?若旦那様?」
ウンテクもイェリも、チェリョンのその問いには返事をしなかった。過ぎ行く時間の中、いてもたっても居られなくなったウンテクは、立ち上がって家を飛び出した。
目指す先は、王宮。王の住まう便殿だった。
チャン・ヒジェは、御前会議で繰り広げられる淑媛の始末とウォルファの罪についての不毛で台本通りの展開に吐き気を感じていた。彼は黙っていたが、一人の男の発言についに口を開いた。
「だいたい賤民の身でありながら、身分を偽るなどもってのほか。王様、シム氏……いや、チョン・ウォルファは両班を冒涜しています!」
「───では仮にその者が生まれてこのかた、一度もそんなことを知らずに生きていたら?」
誰もがヒジェの発言に驚いた。隣に座っているユンが肘で彼の腕を小突く。それでもヒジェは止めなかった。
「第一、あのときに飢饉が起きていなければあの子は普通に育てられたはず。あれが起きたのは西人が失策したからです。そして、南人に換局したのをお忘れですか?」
ユンは改めてこの男の政治家としての手腕に感心した。一見西人を批判しているように見えるが、実際はウォルファをかばっている。
会議が終わり、南人も西人も何事かと話をしながら帰る中、ヒジェは禧嬪に呼び出されていた。
「兄上。お願いですから、この件は見て見ぬふりをしてください。決して口を出してはなりません。黙っておくのです。あの子を助ければ淑媛まで助けることになります」
「………わかりました」
自分と世子と妹の未来を考えれば、ヒジェはそれが正しいと分かっていたので、何一つ反論せずに頷いた。
就善堂を後にし、彼はその足で義禁府へ向かった。ウォルファはヒジェを見つけると、笑顔を作って柵に寄ってきた。彼はその姿を見て、また胸を痛めた。
「ヒジェ様が御前会議で私を庇ってくれたと聞きました。………でも、もういいんですよ。私は甘んじて罪を受け入れる覚悟はできています。」
彼はそれを聞いて目を丸くした。
「だ、だめだ!!そんなこと………必ずそなたを救い出す。二人で生きていけるなら別邸にでも住まわせるし、清国に行ってもいい!俺のことを信じてくれ」
だが、彼女はそんなヒジェの頬を柵の間から出した手で優しくなぞると、目を閉じて言った。
「…あなたを信じるから、こう言うんです。あなたは、出来ないことも出来ると約束する方ですから………」
「そんな…………」
どれ程頑張ろうとも、党派を越えることは出来ない。ウォルファにもそんなことくらいわかっていた。その思いだけで充分だった。もう、彼女は愛する人を苦しめたくなかった。
ウォルファは紐飾りを取り出すと、彼に返した。
「……ありがとう、私に夢を見せてくれて……」
「やめろ………言うな、それ以上………」
「幸せでした。誰よりも、幸せでした。ありがとう、ヒジェ様…………」
もはや、どうすることも出来なかった。ヒジェは改めて自分の無力さを思い知ると、悔しくて涙も出なかった。そんな彼の気持ちを理解しているのか、ウォルファは彼にこう言った。
「私のことを、嫌いになってください。憎んでください。そうすれば、きっと悲しみも消えます。だから………」
「嫌だ。そなたを愛している!」
彼は取り乱した様子で返事をすると、遠くから見ていたユンに掴みかかった。
「ユン、おい、今すぐ彼女をここから出せ!!出せ!!連れて帰る!!この子はずっと俺のそばに居るべきだ!誰にも引き離させはしない!!返してくれ!頼む………頼む…………俺から奪わないでくれ………」
彼は膝から崩れ落ちると、その場で泣きはじめた。その声はいつまでも義禁府の牢で響き続けるのだった。
翌日、ヒジェは便殿の前に独り立っていた。手にはウォルファの父ヒョウォンが元々両班の身であったことや、清国との外交のために昭顕世子とその妻姜嬪の名誉回復が重要であることをまとめた資料が包みとして握られていた。
彼は石畳の上に座ると、前を見据えて声の限り叫んだ。
「王様!シム氏をどうか凌上罪に処するのだけはお止めください!あの子………彼女は、何も知りませんでした!ですから、どうか!どうか厳罰を降されることだけはお止めください!王様!どうかお聞きいれください!」
その声に何の騒ぎかと人々が集まってくる。兄の狂動はすぐに就善堂の禧嬪の耳にも届いた。彼女は慌てて便殿へ向かい、ヒジェを叱り飛ばした。
「兄上!!何をしているのですか!?」
「私のことは放っておいてください!此処にいるのは禧嬪様の政治家としての兄ではありません。ただの愛に生きる愚かな男としてのチャン・ヒジェです」
ヒジェは初めて妹の願いに逆らった。禧嬪は目が眩むような驚きに耐えられず、石段の手すりに寄りかかった。それでもヒジェは一心不乱に王に訴え続けた。
党派を越える愛を彼自ら実現し、確かに存在するということをウォルファに伝えるために。