6、ただ一つの真実
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「やめて!!!」
ヒジェに振り下ろされるはずの刃は、空中で静止した。それは男の目の前に別の人が現れたからだ。彼は驚くとその月明かりに照らし出されている人を見つめた。
「───ウォルファ………?ウォルファではないか!なぜここにいる」
「ヒジェ様……良かった………間に合って……」
ウォルファは上がった息を抑えると、ヒジェの胸に顔を埋めた。その名前に聞き覚えがある男は、恐る恐る尋ねた。
「……ウォルファ?おい、お前、名は何という」
「シム・ウォルファよ。シム・ウンテクの妹よ。今すぐ彼を逃がしなさい。でないと義禁府を呼ぶわよ!」
だが、男にその言葉は届いていない。彼女もヒジェも何かがおかしいと思い、その顔をまじまじと見た。
男は覆面を外すと、ウォルファの前に跪づき、こう言った。
「────ウォルファ………私は君の、兄さんだよ」
怪しむヒジェを押し退け、彼女は男の顔つきをよく見た。どことなく自分に似ている面影がある。彼女は涙を目に溜めながら、声を絞り出した。
「私には、二人の兄がいます。一人は私を拾い、育ててくれた。そして気にかけてくれるせいで、いつも口うるさい人です。もう一人は私の肉親にも関わらず、一度も会ったことがなく、名前さえも知らなかった人です。」
男は震える声で尋ねた。
「………その兄の名は…?」
「一人目はシム・ウンテク、私の名字と今の幸せをくれた人です。もう一人は………掌楽院の楽士、トンジュです」
「ああ…………」
ウォルファは男──トンジュの頬に手をあてがうと、溢れ出す涙をぬぐうこともせずに、肉親に出会えたことを喜び、嗚咽をもらした。
「お兄様…………トンジュお兄様……」
「済まなかった、ウォルファ。お前が結婚するまでずっと父と影で見守るつもりだった。だが、父も私も、出来なかったんだ………」
ヒジェは気まずそうに地面を見つめた。自分達の策謀のせいで、愛する人の肉親から娘の成長を見守るという喜びを奪ってしまったのだから。
トンジュは顔をあげると、ヒジェに呼び掛けた。
「おい、チャン・ヒジェ。お前と妹の関係は何なんだ」
「………婚約者です。私が生涯ただ一人、心に決めたお方です」
今にも始末しそうな部下たちからヒジェを守るためにウォルファは彼の前に座った。トンジュは驚いて剣を取り落とした。
「───ヒジェは南人だろう?お前は西人の娘じゃないか」
「そうよ。でも、愛しているの。理解されなくてもいい。この人を愛しています。だから殺さないで、お兄様」
政治に関わる人間でないトンジュでも、南人と西人が度々換局により対立しているのは知っている。しかも再会したチョンスから、チャン・ヒジェの妹である禧嬪が宮殿に入り淑媛となったトンイと対立していることも聞いていた。トンジュはその場を離れるようにとウォルファに目で指示した。だが、彼女はヒジェにきつく抱きつくと、決してその場を離れまいと強い意思を示した。
「だめよ。絶対に殺させない。この人が死ぬなら、私も死ぬ。」
「ウォルファ…………」
「多くの人にとって、この人には守る価値がないのはわかっています。でも、私にとっては………」
ヒジェの目を見て彼女は優しく微笑むと、ゆっくりと自分から口づけをした。
「私にとっては、自分の命よりも大切な方なのです」
トンジュは剣を下ろすようにと部下に命じ、今度はヒジェに尋ねた。
「………政敵の妹を何故想う」
「聞くまでもない。この子だけが唯一、俺を人として、上を目指して生きる価値のある者だとして、初めて認めてくれたからだ。」
ヒジェは短刀を鞘に収めると、それをトンジュに差し出した。
「……彼女がくれたものだ。俺は何度もそれで助けられた。身体的にも、精神的にもだ。だから、政敵であろうと何であろうと、俺には関係ない。ウォルファがウォルファであれば、それだけで愛せる」
「………妹を、守れる自信はあるのか?」
「ある。……いや、正確にはまだ不十分だ。だが、必ず俺は彼女を守れるようになる。少なくとも俺はそう信じている。」
トンジュは短刀を返すと、ヒジェの顔をじっと睨んでこう言った。
「……お前に、党派を捨ててでも妹を守る決意はあるのか?」
「ある。」
間髪いれずにヒジェはそう返事をした。初めて知った彼の決意の固さにウォルファは驚いた。だが驚いたのは彼女だけではない。トンジュも驚いていた。彼はヒジェの手を力を込めて握ると、頭を地面につけた。突然の動作に、ヒジェは慌てて彼を起こそうとした。だが、トンジュは涙を流しながらヒジェに頼み込んだ。
「頼みます!!妹を………頼みます!!あなたになら安心してこの子を預けられる。どうか、どうかこの子の夫となってやって下さい!」
「お………おい………どうしたのだ。」
「妹は、あなたを愛しています。あなたももし、妹を愛していらっしゃるなら…………私はあなたを信じます。どうかご無礼をお許しください!」
その言葉を聞いて、ヒジェは心の底から笑顔が溢れるのを感じた。初めてこのウォルファへの愛を認めてくれる人が現れたからだ。彼はトンジュの顔を上げさせると、その手を握り返した。
「俺も、妹を持つ兄だ。故にその思いはよくわかる。だから、必ずその約束を守ろう。そなたの妹を、必ず守るし幸せにもする。」
二人が約束を取り交わした直後、義禁府がやって来た。トンジュたちが縄をかけられ、兵士に連行されていく。オ・ユンはウォルファとヒジェの前にやって来ると、安否を尋ねた。
「………あいつが、ウォルファの兄だ。」
「何………?ウォルファ、そなたが淑媛様の姉だという話が、淑媛様が剣契の頭の娘だという話と共に朝廷の中で騒ぎを起こしているぞ。ただでは済まんだろう。……恐らくこのままでは………」
「凌上罪、ですよね」
大罪を覚悟していたのかと今更知ったユンとヒジェは、守りきれなかったことに心を痛めた。だが当のウォルファはそんなことを思っている訳ではない。それよりも彼女はやらねばならないことがあると知っていた。
「……ついてきてくれる?ヒジェ様」
「……ああ。そうしよう」
二人は宝慶堂にやって来ていた。幽閉状態のトンイを出してもらえるように何とかヒジェが取り計らうと、ウォルファは彼女を義禁府の牢に誘った。そして、ある部屋の前で立ち止まり、中を見るようにと促した。
「………兄さん………?」
そこには、トンイが9歳のときに死んだはずの兄がいた。トンジュは立ち上がると、彼女の手を握った。
「トンイ?トンイ?そうなのか?」
「そうよ、兄さん………私よ、トンイよ!」
夢のような話だった。姉がみつかり、兄も生きていた。トンイはずっと聞きたかったことを尋ねた。
「───兄さん。私、父さんに酷いことを言って別れてしまったの。…………父さん、名にか言っていた?」
「ああ。………トンイは私の誇りだ、そう言っていたよ。」
トンイはそれを聞いて膝から崩れ落ちた。トンジュはウォルファにも父のことを伝えた。
「……ヒョウォン父さんは、一度だけお前に会ったことがあるんだよ?」
「え……?いつ?」
意外な事実に彼女は身を乗り出した。そして、ふと思い出した。
それは彼女が9歳のとき。奇しくも若きヒジェと初めて出会った日のことだった。彼女は再び侍女とはぐれてしまい、今度はごろつきに絡まれていた。そんなとき、一人の賤民らしき男性が助けてくれたのだ。
彼はそのときに怪我をしたので、ウォルファは手当てをしてやるとお礼に自分が作った紐細工を渡した。たいそう喜んだ彼は、何度も自分を振り返って、そのまま消えていった。
「………あれが……お父様……?」
「あのときの紐細工を、父はずっと持っていた。亡くなってから遺体を見に行ったとき、父はあの紐細工とトンイが縫った巾着を握って、死んでいた。」
ヒジェは父が死んだときのことを人から聞かされたときの自分と今のウォルファの姿を重ね、一筋涙を流した。
「……父さんは、ウォルファが良い人に拾われたことを喜んでいたよ。名前の漢字も、とても気に入っていた。きっと可愛くて綺麗な娘になるんだろうなと…………」
トンジュはそこまで言うと、涙で声を詰まらせた。ウォルファは力が抜けたように後ずさると、ヒジェに支えられて義禁府を後にした。
部屋に戻ったトンイは、姉がトンジュの話を聞いている間、ヒジェが涙を流していたことを思い出した。あの冷酷なヒジェに、泣くという反応ができるとは思ってもみなかったからだ。
「…………兄さん、父さん……」
ヒョウォンならウォルファとヒジェを見て何と言ったのだろう。反対したのだろうか?それとも…………
────やっぱり、もっと強く認めてあげるべきだった。手遅れになる前に……
だが、もう遅い。二人は永遠に結ばれないだろう。何故ならばこれは南人の策略なのだから。
深い絶望が、トンイを蝕んでいくのだった。
トンジュは小さな窓から見える月を見ながらため息をついた。すると、新たな人が隣の牢に入れられた。彼はその人の顔も見ずに尋ねた。
「………やあ。何をしてここに?」
「お慕いした人のことを忘れられず、謀反の片棒を担いでしまいました。」
その声に聞き覚えがあるトンジュは、ゆっくりと柵に近づいた。すると、そこにいた囚人も彼の顔を見や否や柵に飛び付いてきた。
「トンジュさん!?」
「ソリ!?ソリなのか?」
「生きていたのね…………トンジュさん…………」
そう、かつてソリが言っていた想い人とは、トンジュのことだったのだ。掌楽院に躍りを教えたり舞を舞うために出入りしていた彼女は、いつのまにか楽士だったトンジュと恋仲になっていたのだ。死んでいると思った人が目の前にいる。彼女はそれだけで牢の冷たさや居心地の悪さを忘れた。
「……相変わらず、綺麗だ」
「トンジュさんも………変わっていないのね。トンイ……それからウォルファには会ったの?」
「ああ。会ったとも。……それぞれいい人が出来たみたいだ。」
トンジュがヒジェを見ればどう思うのだろうと気になっていたソリは、意外な反応に驚きを隠せなかった。
「………チャン・ヒジェ様は南人よ?」
「そうだな。だが、それ以上にあの子を大切にしている。だから………あの人にウォルファのことを頼むと、そう言っておいた。」
トンジュをそこまで納得させるほどに強い愛なのか、それとも完璧な嘘つきなのか。ソリにはヒジェのことがいまいち分からなかったが、ウォルファのことを義州で追いかける彼の姿は、心の底からの愛のように感じられた。あの放蕩息子から一心に愛を受けているからなのか、ウォルファはいつも美しかった。
ふと、ソリはあることを思い出した。それはウォルファが妓生顔負けの演奏が出来ることだ。
「ねえ、トンジュさん。ウォルファってあなたに似てるんじゃないかしら?」
「え?」
「あの子、とっても伽耶琴の演奏が上手なのよ?」
トンジュは、掌楽院で一番の楽士だった。どんな楽器でも巧みに操ることができ、彼の右に出る者はいなかった。ウォルファはしっかりとその血を継いでいたのだ。
「……そうか………」
彼は感慨深くため息をつくと、うっすら笑顔を浮かべた。その横顔が昔と何一つ変わっていないことを確かめると、ソリは心から安堵するのだった。
ヒジェがもう一度牢へ来たのは夜が更ける頃だった。彼はトンジュを呼ぶと、声を潜めて質問した。
「すまん、一つ早急に済ませねばならないことがあってな。」
「なんでしょうか?喜んで協力します」
「…知っての通り、ウォルファは西人の両班に拾われたが、元は賤民だ。南人は淑媛──トンイと共に西人の力を削ぐためにこのことを利用し、凌上罪に処する気だ。」
凌上罪と聞いて、トンジュの顔が曇る。ヒジェは冷静に続けた。
「……あの子は、本当に賤民の血しか継いでいないのか?何か分家や……失礼だが庶子の父として両班は居たりしないのか?それがあれば上手く揺すれる。」
トンジュは少し考えると、深くうなずいた。
「………ある。」
「何だ。」
「しかし、それを証明するものは…………役所にあります。チェ・ヒョウォンの戸籍とその元を辿れば、両班に行き着くはずです」
「両班………だと?」
予想外の話にヒジェの声がひっくり返る。隣で聞いていたソリも言葉を失った。
「はい。元々は高位につく武官でした。しかし、祖父のチェ・マルチョンが昭顕世子様のお妃である姜嬪(カンビン)様の謀逆事件を無実として暴こうとしたために、姜嬪様が賜死された後に家が籍没され賎民に落ちたのです。」
彼はトンジュの話を聞き終わると、目を見開いて後ずさった。そこに壁があることを確かめると、彼はその場に座り込んだ。その瞳は驚嘆で彩られている。
「───ウォルファは………賤民ではなかったのか………」
「彼女の産みの母も、許嫁だったために同じ事件で賤民に降格された半両班であり、中人の女性でした。ですから、あの子とトンイは賤民ではありません。」
ヒジェが初めて会ったときから、ウォルファからは良家の子女であるという雰囲気が漂っていた。元が賤民と聞いても違和感しか感じなかったのは、ずっと育ちの環境のせいだとばかり思っていた。
───だが、まさか本当に良家の子女であったのか。
彼はよろめく足をしっかりさせると、トンジュにもう一度向き直った。
「………それなら姜嬪が無実であると証明できずとも、あの方の名誉を回復させれば父親共々二人を平民には戻せる。優秀な平民と両班の養子縁組はたまにある故、追求は出来ぬだろう」
「ですが、そうすれば南人の中のあなたの立場が……」
「阿呆。そなたとの約束と政治は両立できん。少なくとも今は出来ぬ。王様は以前から姜嬪様の名誉回復に興味を持たれていた。清国と懇意にしていた昭顕世子を利用して、清国との関係改善するためにな。」
ヒジェの目は、本気だった。だが、今ではない。今はできない。彼はそれを知っていた。だからこそ、領議政になることが最優先となってしまった。皮肉にも、もう一度彼女のために残酷な夢を掴まねばならないことになった彼は、牢を後にすると不意に月を見上げた。
それは、奇しくもユンと仲の良いウォルファを見たとき、気分を害して眺めた月と同じ形をしていた。夜空を引っ掻いたようにかかる三日月。その頼りなさは、あの日の自分そのものだった。そして今も何一つ守れていない自分が腹立たしかった。あのとき自分はこの月を眺め、全てを手に入れられる領議政になろうと誓った。
そして今、再び彼はその月を見上げて誓った。それがいかに果てしなく、険しい道であったとしても。彼女の手を二度と離さずに済む方法ならば、それは生きる喜びとなって彼の心に降り注ぐだろう。
彼はきびすを返して戸籍と身分を証明するものを探すため、書庫へ向かった。
そしてチャン・ヒジェはもう、二度と月を見上げるために振り返ることはないのだった。
ヒジェに振り下ろされるはずの刃は、空中で静止した。それは男の目の前に別の人が現れたからだ。彼は驚くとその月明かりに照らし出されている人を見つめた。
「───ウォルファ………?ウォルファではないか!なぜここにいる」
「ヒジェ様……良かった………間に合って……」
ウォルファは上がった息を抑えると、ヒジェの胸に顔を埋めた。その名前に聞き覚えがある男は、恐る恐る尋ねた。
「……ウォルファ?おい、お前、名は何という」
「シム・ウォルファよ。シム・ウンテクの妹よ。今すぐ彼を逃がしなさい。でないと義禁府を呼ぶわよ!」
だが、男にその言葉は届いていない。彼女もヒジェも何かがおかしいと思い、その顔をまじまじと見た。
男は覆面を外すと、ウォルファの前に跪づき、こう言った。
「────ウォルファ………私は君の、兄さんだよ」
怪しむヒジェを押し退け、彼女は男の顔つきをよく見た。どことなく自分に似ている面影がある。彼女は涙を目に溜めながら、声を絞り出した。
「私には、二人の兄がいます。一人は私を拾い、育ててくれた。そして気にかけてくれるせいで、いつも口うるさい人です。もう一人は私の肉親にも関わらず、一度も会ったことがなく、名前さえも知らなかった人です。」
男は震える声で尋ねた。
「………その兄の名は…?」
「一人目はシム・ウンテク、私の名字と今の幸せをくれた人です。もう一人は………掌楽院の楽士、トンジュです」
「ああ…………」
ウォルファは男──トンジュの頬に手をあてがうと、溢れ出す涙をぬぐうこともせずに、肉親に出会えたことを喜び、嗚咽をもらした。
「お兄様…………トンジュお兄様……」
「済まなかった、ウォルファ。お前が結婚するまでずっと父と影で見守るつもりだった。だが、父も私も、出来なかったんだ………」
ヒジェは気まずそうに地面を見つめた。自分達の策謀のせいで、愛する人の肉親から娘の成長を見守るという喜びを奪ってしまったのだから。
トンジュは顔をあげると、ヒジェに呼び掛けた。
「おい、チャン・ヒジェ。お前と妹の関係は何なんだ」
「………婚約者です。私が生涯ただ一人、心に決めたお方です」
今にも始末しそうな部下たちからヒジェを守るためにウォルファは彼の前に座った。トンジュは驚いて剣を取り落とした。
「───ヒジェは南人だろう?お前は西人の娘じゃないか」
「そうよ。でも、愛しているの。理解されなくてもいい。この人を愛しています。だから殺さないで、お兄様」
政治に関わる人間でないトンジュでも、南人と西人が度々換局により対立しているのは知っている。しかも再会したチョンスから、チャン・ヒジェの妹である禧嬪が宮殿に入り淑媛となったトンイと対立していることも聞いていた。トンジュはその場を離れるようにとウォルファに目で指示した。だが、彼女はヒジェにきつく抱きつくと、決してその場を離れまいと強い意思を示した。
「だめよ。絶対に殺させない。この人が死ぬなら、私も死ぬ。」
「ウォルファ…………」
「多くの人にとって、この人には守る価値がないのはわかっています。でも、私にとっては………」
ヒジェの目を見て彼女は優しく微笑むと、ゆっくりと自分から口づけをした。
「私にとっては、自分の命よりも大切な方なのです」
トンジュは剣を下ろすようにと部下に命じ、今度はヒジェに尋ねた。
「………政敵の妹を何故想う」
「聞くまでもない。この子だけが唯一、俺を人として、上を目指して生きる価値のある者だとして、初めて認めてくれたからだ。」
ヒジェは短刀を鞘に収めると、それをトンジュに差し出した。
「……彼女がくれたものだ。俺は何度もそれで助けられた。身体的にも、精神的にもだ。だから、政敵であろうと何であろうと、俺には関係ない。ウォルファがウォルファであれば、それだけで愛せる」
「………妹を、守れる自信はあるのか?」
「ある。……いや、正確にはまだ不十分だ。だが、必ず俺は彼女を守れるようになる。少なくとも俺はそう信じている。」
トンジュは短刀を返すと、ヒジェの顔をじっと睨んでこう言った。
「……お前に、党派を捨ててでも妹を守る決意はあるのか?」
「ある。」
間髪いれずにヒジェはそう返事をした。初めて知った彼の決意の固さにウォルファは驚いた。だが驚いたのは彼女だけではない。トンジュも驚いていた。彼はヒジェの手を力を込めて握ると、頭を地面につけた。突然の動作に、ヒジェは慌てて彼を起こそうとした。だが、トンジュは涙を流しながらヒジェに頼み込んだ。
「頼みます!!妹を………頼みます!!あなたになら安心してこの子を預けられる。どうか、どうかこの子の夫となってやって下さい!」
「お………おい………どうしたのだ。」
「妹は、あなたを愛しています。あなたももし、妹を愛していらっしゃるなら…………私はあなたを信じます。どうかご無礼をお許しください!」
その言葉を聞いて、ヒジェは心の底から笑顔が溢れるのを感じた。初めてこのウォルファへの愛を認めてくれる人が現れたからだ。彼はトンジュの顔を上げさせると、その手を握り返した。
「俺も、妹を持つ兄だ。故にその思いはよくわかる。だから、必ずその約束を守ろう。そなたの妹を、必ず守るし幸せにもする。」
二人が約束を取り交わした直後、義禁府がやって来た。トンジュたちが縄をかけられ、兵士に連行されていく。オ・ユンはウォルファとヒジェの前にやって来ると、安否を尋ねた。
「………あいつが、ウォルファの兄だ。」
「何………?ウォルファ、そなたが淑媛様の姉だという話が、淑媛様が剣契の頭の娘だという話と共に朝廷の中で騒ぎを起こしているぞ。ただでは済まんだろう。……恐らくこのままでは………」
「凌上罪、ですよね」
大罪を覚悟していたのかと今更知ったユンとヒジェは、守りきれなかったことに心を痛めた。だが当のウォルファはそんなことを思っている訳ではない。それよりも彼女はやらねばならないことがあると知っていた。
「……ついてきてくれる?ヒジェ様」
「……ああ。そうしよう」
二人は宝慶堂にやって来ていた。幽閉状態のトンイを出してもらえるように何とかヒジェが取り計らうと、ウォルファは彼女を義禁府の牢に誘った。そして、ある部屋の前で立ち止まり、中を見るようにと促した。
「………兄さん………?」
そこには、トンイが9歳のときに死んだはずの兄がいた。トンジュは立ち上がると、彼女の手を握った。
「トンイ?トンイ?そうなのか?」
「そうよ、兄さん………私よ、トンイよ!」
夢のような話だった。姉がみつかり、兄も生きていた。トンイはずっと聞きたかったことを尋ねた。
「───兄さん。私、父さんに酷いことを言って別れてしまったの。…………父さん、名にか言っていた?」
「ああ。………トンイは私の誇りだ、そう言っていたよ。」
トンイはそれを聞いて膝から崩れ落ちた。トンジュはウォルファにも父のことを伝えた。
「……ヒョウォン父さんは、一度だけお前に会ったことがあるんだよ?」
「え……?いつ?」
意外な事実に彼女は身を乗り出した。そして、ふと思い出した。
それは彼女が9歳のとき。奇しくも若きヒジェと初めて出会った日のことだった。彼女は再び侍女とはぐれてしまい、今度はごろつきに絡まれていた。そんなとき、一人の賤民らしき男性が助けてくれたのだ。
彼はそのときに怪我をしたので、ウォルファは手当てをしてやるとお礼に自分が作った紐細工を渡した。たいそう喜んだ彼は、何度も自分を振り返って、そのまま消えていった。
「………あれが……お父様……?」
「あのときの紐細工を、父はずっと持っていた。亡くなってから遺体を見に行ったとき、父はあの紐細工とトンイが縫った巾着を握って、死んでいた。」
ヒジェは父が死んだときのことを人から聞かされたときの自分と今のウォルファの姿を重ね、一筋涙を流した。
「……父さんは、ウォルファが良い人に拾われたことを喜んでいたよ。名前の漢字も、とても気に入っていた。きっと可愛くて綺麗な娘になるんだろうなと…………」
トンジュはそこまで言うと、涙で声を詰まらせた。ウォルファは力が抜けたように後ずさると、ヒジェに支えられて義禁府を後にした。
部屋に戻ったトンイは、姉がトンジュの話を聞いている間、ヒジェが涙を流していたことを思い出した。あの冷酷なヒジェに、泣くという反応ができるとは思ってもみなかったからだ。
「…………兄さん、父さん……」
ヒョウォンならウォルファとヒジェを見て何と言ったのだろう。反対したのだろうか?それとも…………
────やっぱり、もっと強く認めてあげるべきだった。手遅れになる前に……
だが、もう遅い。二人は永遠に結ばれないだろう。何故ならばこれは南人の策略なのだから。
深い絶望が、トンイを蝕んでいくのだった。
トンジュは小さな窓から見える月を見ながらため息をついた。すると、新たな人が隣の牢に入れられた。彼はその人の顔も見ずに尋ねた。
「………やあ。何をしてここに?」
「お慕いした人のことを忘れられず、謀反の片棒を担いでしまいました。」
その声に聞き覚えがあるトンジュは、ゆっくりと柵に近づいた。すると、そこにいた囚人も彼の顔を見や否や柵に飛び付いてきた。
「トンジュさん!?」
「ソリ!?ソリなのか?」
「生きていたのね…………トンジュさん…………」
そう、かつてソリが言っていた想い人とは、トンジュのことだったのだ。掌楽院に躍りを教えたり舞を舞うために出入りしていた彼女は、いつのまにか楽士だったトンジュと恋仲になっていたのだ。死んでいると思った人が目の前にいる。彼女はそれだけで牢の冷たさや居心地の悪さを忘れた。
「……相変わらず、綺麗だ」
「トンジュさんも………変わっていないのね。トンイ……それからウォルファには会ったの?」
「ああ。会ったとも。……それぞれいい人が出来たみたいだ。」
トンジュがヒジェを見ればどう思うのだろうと気になっていたソリは、意外な反応に驚きを隠せなかった。
「………チャン・ヒジェ様は南人よ?」
「そうだな。だが、それ以上にあの子を大切にしている。だから………あの人にウォルファのことを頼むと、そう言っておいた。」
トンジュをそこまで納得させるほどに強い愛なのか、それとも完璧な嘘つきなのか。ソリにはヒジェのことがいまいち分からなかったが、ウォルファのことを義州で追いかける彼の姿は、心の底からの愛のように感じられた。あの放蕩息子から一心に愛を受けているからなのか、ウォルファはいつも美しかった。
ふと、ソリはあることを思い出した。それはウォルファが妓生顔負けの演奏が出来ることだ。
「ねえ、トンジュさん。ウォルファってあなたに似てるんじゃないかしら?」
「え?」
「あの子、とっても伽耶琴の演奏が上手なのよ?」
トンジュは、掌楽院で一番の楽士だった。どんな楽器でも巧みに操ることができ、彼の右に出る者はいなかった。ウォルファはしっかりとその血を継いでいたのだ。
「……そうか………」
彼は感慨深くため息をつくと、うっすら笑顔を浮かべた。その横顔が昔と何一つ変わっていないことを確かめると、ソリは心から安堵するのだった。
ヒジェがもう一度牢へ来たのは夜が更ける頃だった。彼はトンジュを呼ぶと、声を潜めて質問した。
「すまん、一つ早急に済ませねばならないことがあってな。」
「なんでしょうか?喜んで協力します」
「…知っての通り、ウォルファは西人の両班に拾われたが、元は賤民だ。南人は淑媛──トンイと共に西人の力を削ぐためにこのことを利用し、凌上罪に処する気だ。」
凌上罪と聞いて、トンジュの顔が曇る。ヒジェは冷静に続けた。
「……あの子は、本当に賤民の血しか継いでいないのか?何か分家や……失礼だが庶子の父として両班は居たりしないのか?それがあれば上手く揺すれる。」
トンジュは少し考えると、深くうなずいた。
「………ある。」
「何だ。」
「しかし、それを証明するものは…………役所にあります。チェ・ヒョウォンの戸籍とその元を辿れば、両班に行き着くはずです」
「両班………だと?」
予想外の話にヒジェの声がひっくり返る。隣で聞いていたソリも言葉を失った。
「はい。元々は高位につく武官でした。しかし、祖父のチェ・マルチョンが昭顕世子様のお妃である姜嬪(カンビン)様の謀逆事件を無実として暴こうとしたために、姜嬪様が賜死された後に家が籍没され賎民に落ちたのです。」
彼はトンジュの話を聞き終わると、目を見開いて後ずさった。そこに壁があることを確かめると、彼はその場に座り込んだ。その瞳は驚嘆で彩られている。
「───ウォルファは………賤民ではなかったのか………」
「彼女の産みの母も、許嫁だったために同じ事件で賤民に降格された半両班であり、中人の女性でした。ですから、あの子とトンイは賤民ではありません。」
ヒジェが初めて会ったときから、ウォルファからは良家の子女であるという雰囲気が漂っていた。元が賤民と聞いても違和感しか感じなかったのは、ずっと育ちの環境のせいだとばかり思っていた。
───だが、まさか本当に良家の子女であったのか。
彼はよろめく足をしっかりさせると、トンジュにもう一度向き直った。
「………それなら姜嬪が無実であると証明できずとも、あの方の名誉を回復させれば父親共々二人を平民には戻せる。優秀な平民と両班の養子縁組はたまにある故、追求は出来ぬだろう」
「ですが、そうすれば南人の中のあなたの立場が……」
「阿呆。そなたとの約束と政治は両立できん。少なくとも今は出来ぬ。王様は以前から姜嬪様の名誉回復に興味を持たれていた。清国と懇意にしていた昭顕世子を利用して、清国との関係改善するためにな。」
ヒジェの目は、本気だった。だが、今ではない。今はできない。彼はそれを知っていた。だからこそ、領議政になることが最優先となってしまった。皮肉にも、もう一度彼女のために残酷な夢を掴まねばならないことになった彼は、牢を後にすると不意に月を見上げた。
それは、奇しくもユンと仲の良いウォルファを見たとき、気分を害して眺めた月と同じ形をしていた。夜空を引っ掻いたようにかかる三日月。その頼りなさは、あの日の自分そのものだった。そして今も何一つ守れていない自分が腹立たしかった。あのとき自分はこの月を眺め、全てを手に入れられる領議政になろうと誓った。
そして今、再び彼はその月を見上げて誓った。それがいかに果てしなく、険しい道であったとしても。彼女の手を二度と離さずに済む方法ならば、それは生きる喜びとなって彼の心に降り注ぐだろう。
彼はきびすを返して戸籍と身分を証明するものを探すため、書庫へ向かった。
そしてチャン・ヒジェはもう、二度と月を見上げるために振り返ることはないのだった。