1、新たな季節
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シム・ウォルファは今日も裁縫の練習をし、料理の修行をしている…はずだった。
「うーん、今日もいい天気ね」
「あの、お嬢様……またさぼるんですか?」
「都の手紙には適当によろしくね」
彼女はまたしても家を抜け出し、テヒョンの店に来ていた。彼女はすっかり料理屋の女将という風格だ。
「あんたたちでもタダ飯は食べさせないからね」
「知ってるわ。テジュさんを使ってくれていいからね」
「えっ?お、お嬢様!!?」
ウォルファはテジュに微笑むと、テヒョンの側に行くようにと促した。実はこの一年間で、テジュはすっかりテヒョンのことが気になってしまったのだ。彼女はステクとチェリョンが人目を気にしながらも身を寄せあっているのを見て、平凡な恋人たちに憧れを抱いた。
「……私も、いつかはこんな風に二人で平穏な暮らしが出来るのかしら………」
いつの間にか一年が経過した。ウォルファはヒジェから送られてきた手紙の数々を、何度も読み返しては懐かしい日々に思いを馳せていた。戻れるなら、初めて出会った頃に戻りたい。彼女は滅多にしないため息をはくと、遠くみえる空を眺めた。
────あの人も、同じ空を見ているのかしら。
その想いが届くことを願い、彼女はいつまでもヒジェのことを考えていた。
西人の力が戻った宮廷では、今日も会議が開かれていた。御前会議に出られるまでに昇進したウンテクは、重臣たちの仲間入りを果たした。彼らは今日もあることを議論するはめになった。それはちまたで起こる両班連続殺人事件についての対処だった。だが実は西人は家門が良いだけで、実際の政治的能力は南人の方が上だった。粛宗は換局によって西人の知恵がつくことを願っていたが、変わりはない。彼は悩んでいた。政治のためには南人を戻した方がよい。しかし、彼らを戻せば告発したトンイたちはただでは済まない。
そんな中、事件の解決を任された漢城府の判官チャン・ムヨルが都にやって来た。彼は清く正しい官僚として有名な男だ。彼は接待を断り執務室に入ると、さっそく仕事にとりかかった。だが、仕事は事件解決ではない。南人との会合の打ち合わせだ。そう、彼は中立の立場のように見えているが、本当は南人の者なのだ。野心家の彼は、南人からの書状を読み、不敵な笑みを浮かべた。
そう、彼こそが後にウォルファとヒジェの運命を根底から狂わせることになる、トンイとウォルファにとっての最大の宿敵なのだ。だが、その裏の顔に気づいている者は、一部の人間だけであった。
そんな混乱の中、ウォルファは都に戻るようにという手紙を受け取った。
「お嬢様、ついに都へ戻れますね。きっとチャン様の流罪を解く方法も見つかりますよ」
チェリョンが荷造りをしながら声を弾ませている。だがウォルファは依然、曇った表情をしている。心配に思ったテジュとステクが彼女に尋ねる。
「どうか、なさったんですか?」
「ヒジェ様は、今頃どうされているのかな……と。寒くはないか、寂しくはないか、心細くはないか、私に会いたがってはいないか………」
ヒジェの居ない都は、ウォルファにとって色褪せて見えるだろう。この一年間、孤独に待ち続けた彼女の思いを考えると、一同にはかける言葉さえ見当たらなかった。ウォルファはヒジェの手紙が入った箱を取り出して荷物に入れると、かつて彼が大晦日の日にくれた服を眺めた。
「……これ、あの人が帰ったら着るわ」
「そうですね、お嬢様。チャン様もお喜びになると思いますよ」
微笑むチェリョンを支持するため、テジュは感慨深そうにこう言った。
「ユン様とチャン殿が帰れば、私たちもお別れですね」
「そうですね。この一年間、けっこう楽しかった」
「まぁ、もう都に嘘の手紙を書かずにすむのは楽だ」
そのステクの言葉に一同が笑う。
「ごめんなさいね、とっくの昔に出来ていることをするのは辛くて…」
そんなふうに他愛ない話をしていると、いつの間にか出発の準備が整った。ウォルファは気を引きしめて靴を履いた。
─────待っていて、ヒジェ様。必ずあなたを戻してみせる。
困難ではあるが必ず成し遂げたい強い決意を抱いたウォルファは、都の方角を見据えると、小さく頷いて帰路への一歩を踏み出した。それは家へ戻る帰路ではない。彼女にとってこれは、ヒジェとの日々を取り戻すための帰路なのだった。
物騒な事件が相次ぐ都の噂を聞きながら、ウォルファは懐かしい我が家に戻った。部屋には既に多数の両班から寄越されたらしい縁談書が山積みにされている。彼女はそれら全てを机から丁寧に下ろすと、ヒジェが作った紐飾りと自分が返すべき短刀を並べて置いた。
────会いたい、ヒジェ様。
その想いは、遠く離れたヒジェも同じだった。同じくウォルファの手紙を読み返しては遠い昔のように感じる思い出の中を辿る。
「………ウォルファ………」
──例え全てを捨ててでも、戻ってみせる。奪われた平穏な日々の全てを取り返してみせる。
だが、なにも出来ない自分があまりにもどかしかった。ヒジェは風通しが良すぎる部屋に震えると、ウォルファが作ってくれた綿入れを被って暖をとった。その度に言い様のない悲しみに襲われるのが、彼は一番辛かった。
「ウォルファ……会いたい……」
「ヒジェ様……会いたい……」
二人は同じ空を眺めている。だが、生きる場所は全く違う。切なる願いは空気に溶け、やがてどこかへ届くこともなく吸い込まれていくのだった。
その日、ウォルファは密かに禧嬪の元を訪ねていた。人目を避けるように夜更けにやって来た彼女は、声を潜めて淡々と切り出した。
「西人はどうしようもない無能ばかり。ですから、王様も本音では南人を戻したいはず。」
「だが、どうすればよい?兄上を戻す手だてを知っていると連絡したのはそなたではないか。」
苛立つ禧嬪に、ウォルファは人払いを命じてから地図を取り出した。
「これは、地方の地図ではないか。何を考えている」
「現在、困窮しているのはここと、ここと、ここの民です。そこの者たちを全財産投げ売って救済するのです」
「ええ?全財産を差し出せと申すか!?」
意外な提案に驚いた彼女は、裏返りそうな声で聞き直した。だが、ウォルファの考えは変わらない。
「金の使い時をよく心得ている方なら、きっとすぐにでも行動するでしょう」
それが南人──要はヒジェを都に戻す唯一の方法なのだ。ウォルファはこの一年間、地方に居たことで遊んでいる振りをして各地の情報を集めることができた。堪え忍んできた全ては、ヒジェのためなのだ。
それ以外に方法がないと知っている禧嬪は渋々頷くと、兄と南人たちに送るための書状を書き始めた。だが、ウォルファは筆を進める前に一言だけ彼女に頼んだ。
「お願いがあります。全ては禧嬪様の思い付いたことということにしてください。そうしないとまたヒジェ様……いえ、兄君が巻き込まれてしまいます。」
「わかった。このことは口外せぬ。」
禧嬪が納得したところを見届け、ウォルファは部屋を去ろうとした。すると、珍しく禧嬪──いや、オクチョンがそれを引き留めた。
「ウォルファ!」
「はい、何でしょうか」
「……兄上のこと、ありがとう。そして、済まなかった」
彼女なりに気を遣ってくれていることが嬉しかったウォルファは、こぼれた微笑みを隠すように後ろを向いたまま返事をした。
「……仕方がありません。そういう運命なのです。」
「運命で言い切れるのか?」
「ええ。信じてはいませんが」
そう言い残すと、彼女は就善堂を後にした。ウォルファが就善堂を訪れたのは、これが最後となった。
書状を受け取ったヒジェは、すぐに行動に出た。そしてその行動は瞬く間に都にまで届き、ついに粛宗の耳にも届いた。ウォルファはウンテクが夕食中にぼやいているのを聞きながら、必死で笑いをこらえていた。
「全く……一体どこの誰が入れ知恵をしたんだか……やはり、南人と会っていたらしいあのチャン・ムヨルか……?」
「お兄様の知らないところで動いている者が居るのやも。」
「うーん、わからん。お前はもうそんな無謀なことをする訳がないし………」
それがそうなのだ、と言いたくなり、ウォルファは口をつぐんだ。だが、唯一すべてに感づいている人物がいた。それはやり取りを遠くから見ていた母のイェリだ。彼女は食事が終わってウォルファが部屋で一人になったところを見計らい、何も言わずに入室した。
「お母様……!一言せめて仰ってくださいな」
机の上に置かれた短刀と紐飾りだけで、イェリは確信した。そして、無謀なことをする娘の肩を揺さぶった。
「ウォルファ!何故ここまでするの。淑媛様と王子様に迷惑がかかるのよ。お前だけじゃない。兄も、西人全員が危うくなるのよ!何故ここまでヒジェ様への愛に命をかけるの!!」
「お母様はわからないのよ!難しい愛を貫くことへの代償が、自分の命だけでは済まないということを」
「ウォルファ!戻ってきてももうヒジェ様には会わせないわ。西人の両班の子息との婚姻を取り計らうから、そのつもりでいなさい」
何としてでも母を止めないとと思い立ったウォルファは、とっさにヒジェの短刀を抜くと、自らの腕を軽く縦に切り裂いた。鮮血が色の薄いチマに花弁のように垂れる。
「ウォルファ……あ、あなた、一体何をしているの!!?」
狼狽する母に向かって、ウォルファは腕の痛みなど気にせず淡々と続けた。
「これが私の血。これが私に流れる血。そしてこの深紅は、ヒジェ様の色。私の身体の一部は、誰にも奪えない。いいえ、奪わせない。」
「ウォルファ…………」
「あの人は私のすべて。私から奪わないでください。もう……あの人を……私から奪わないで………」
錯乱して取り乱しているのか、正気なのか。我が子の表情から切に迫る想いを感じとったイェリは、その瞳に浮かぶ涙の訳をようやく知った。
「ウォルファ、お前まさか……」
「嘘じゃない。本当。子供だましの恋なんかじゃない。あの人を愛しています。」
イェリはため息をつくと、そのまま部屋を後にした。そして数分後、手当ての道具を持って戻ってきた。ウォルファは母の行動に驚いた。
「……怒っていないの?」
「怒るわ、西人の妻として。……でも、お前の母としては怒らないわ」
「お母様………」
「秘めた激情を、人は狂恋だというわ。でもお前の恋は、狂ってなんかいない。狂わないと、貫けない恋なのよね?」
産まれてはじめて誰かが自分の想いを理解してくれたことに、ウォルファの心は一気に軽くなった。その分、抱えていた苦しみや重みが、涙となって彼女の中から溢れだした。
「お母様…………大好き…………」
「ウォルファ………」
彼女は腕の痛みも忘れ、いつまでも母の腕の中で泣き続けた。
チャン・ヒジェ含む南人の者たちが都へ戻るという事実は、多くの者たちを震え上がらせた。
「俺、あいつの家になぐりこみに行ったんだけど…」
「チャン・ヒジェに殺されるな」
「ああ、こんなことするんじゃなかった……まさか戻ってくるなんて誰も想像しないだろう!?」
ざわつく群衆の間を縫って、チャン・ヒジェはステクと共に家へ戻った。服は袖が破れてかなりみすぼらしいが、それでもヒジェは生きていた。
───待っていろ、ウォルファ。すべて、取り戻す。俺が失ったすべてを………
彼ははやる気持ちをおさえ宮殿に連絡を入れると、禧嬪への謁見を申し出た。恐る恐る、ステクが尋ねた。
「あの……チャン様。失礼ですが……」
「後でだ。チェリョンを通して連絡をいれておけ」
「はい。」
ステクの背中を見送ると、ヒジェはウォルファのことを思い浮かべながら、宮殿への道を歩きはじめるのだった。
一方、ステクは困り果てていた。ウンテクがウォルファをとうとう離れに幽閉し、外出を禁じられてしまったのだ。チェリョンはステクの手を握りしめ、こう言った。
「お嬢様がお可哀想!お願い、何としてでもチャン様をお連れして!お嬢様が死んでしまう………」
「チェリョンさん、あなたも死にそうなくらいに青ざめていますよ。」
ステクはチェリョンの想いに気づいていた。そして、チェリョンは彼の想いに気づいてはいなかった。
「ステクさん………お嬢様がチャン様に会えないなら、私もあなたに会えません。」
「……私もです。チャン様はわめくだろうし、チェリョンさんにも会えませんから、私も辛いです」
その言葉に驚いたチェリョンは、目を丸くした。ステクはその反応を無視して彼女を抱きしめた。
「ステクさん……?」
「いつか婚姻してください。私で良ければ、夫になります」
最大の喜びだった。チェリョンはステクを抱きしめ返すと、首を何度も縦に振った。そして二人は互いの幸せのためにも、何としてでも互いの主人を引き合わせねばと決意した。
その晩、駄目元でヒジェはウォルファに会いに行った。しかし使用人たちはウンテクの叱りを恐れ、門を開けようともしない。彼は諦める振りをして離れのそばの塀に向かい、賭けでウォルファの名前を呼んだ。返事はない。彼はもう一度、拒絶されまいかと怯えながらも震える声で名前を口にした。
「ウォルファ………ヒジェだ。そなたの愛するチャン・ヒジェが戻ってきた。」
その声を部屋で聞いていたウォルファは、息を呑んで自分の手で口を押さえた。
───だめ。会ってはだめ。またあの人が……私のせいで辛い目に遭うのはもうたくさん。
だが、ヒジェも負けてはない。彼はしびれを切らせ、ステクが止めるのも聞かず、塀を乗り越えて忍び足で部屋の戸を開けた。そこには、彼が最も欲した姿が一年たってもそのまま存在していた。
「────ウォルファ…………」
「ヒジェ様…………」
寝巻き姿であろうが、髪を下ろして布団を敷いていようが、何も気にすることなくウォルファはヒジェの胸の中に顔を埋めた。
「会いたかった………お話がしたかった…………」
「俺もだ。不安な夜には手を握りしめたかったし、寒い日には抱きしめたかった。だが、出来なかった。」
ヒジェは自分の唇でウォルファの大きな瞳からあふれる涙を拭うと、優しく口づけをした。
「待っていた、ずっと。こんな日が来ることを」
「もう、離さない。何があろうとも、離さん。」
二人は固く抱き合うと、互いに見つめあった。言葉はこの二人が時間を埋めるのには必要無い。
こうして再び、今度は偶然の導く運命ではなく明確な意思の力で引き合い、二人は同じ人生に戻ってきた。しかし、それが真の過酷な道の始まりであることを、彼らはまだ知るよしも無かった。また次の別離の訳が、ヒジェでなくウォルファにあることも………
「うーん、今日もいい天気ね」
「あの、お嬢様……またさぼるんですか?」
「都の手紙には適当によろしくね」
彼女はまたしても家を抜け出し、テヒョンの店に来ていた。彼女はすっかり料理屋の女将という風格だ。
「あんたたちでもタダ飯は食べさせないからね」
「知ってるわ。テジュさんを使ってくれていいからね」
「えっ?お、お嬢様!!?」
ウォルファはテジュに微笑むと、テヒョンの側に行くようにと促した。実はこの一年間で、テジュはすっかりテヒョンのことが気になってしまったのだ。彼女はステクとチェリョンが人目を気にしながらも身を寄せあっているのを見て、平凡な恋人たちに憧れを抱いた。
「……私も、いつかはこんな風に二人で平穏な暮らしが出来るのかしら………」
いつの間にか一年が経過した。ウォルファはヒジェから送られてきた手紙の数々を、何度も読み返しては懐かしい日々に思いを馳せていた。戻れるなら、初めて出会った頃に戻りたい。彼女は滅多にしないため息をはくと、遠くみえる空を眺めた。
────あの人も、同じ空を見ているのかしら。
その想いが届くことを願い、彼女はいつまでもヒジェのことを考えていた。
西人の力が戻った宮廷では、今日も会議が開かれていた。御前会議に出られるまでに昇進したウンテクは、重臣たちの仲間入りを果たした。彼らは今日もあることを議論するはめになった。それはちまたで起こる両班連続殺人事件についての対処だった。だが実は西人は家門が良いだけで、実際の政治的能力は南人の方が上だった。粛宗は換局によって西人の知恵がつくことを願っていたが、変わりはない。彼は悩んでいた。政治のためには南人を戻した方がよい。しかし、彼らを戻せば告発したトンイたちはただでは済まない。
そんな中、事件の解決を任された漢城府の判官チャン・ムヨルが都にやって来た。彼は清く正しい官僚として有名な男だ。彼は接待を断り執務室に入ると、さっそく仕事にとりかかった。だが、仕事は事件解決ではない。南人との会合の打ち合わせだ。そう、彼は中立の立場のように見えているが、本当は南人の者なのだ。野心家の彼は、南人からの書状を読み、不敵な笑みを浮かべた。
そう、彼こそが後にウォルファとヒジェの運命を根底から狂わせることになる、トンイとウォルファにとっての最大の宿敵なのだ。だが、その裏の顔に気づいている者は、一部の人間だけであった。
そんな混乱の中、ウォルファは都に戻るようにという手紙を受け取った。
「お嬢様、ついに都へ戻れますね。きっとチャン様の流罪を解く方法も見つかりますよ」
チェリョンが荷造りをしながら声を弾ませている。だがウォルファは依然、曇った表情をしている。心配に思ったテジュとステクが彼女に尋ねる。
「どうか、なさったんですか?」
「ヒジェ様は、今頃どうされているのかな……と。寒くはないか、寂しくはないか、心細くはないか、私に会いたがってはいないか………」
ヒジェの居ない都は、ウォルファにとって色褪せて見えるだろう。この一年間、孤独に待ち続けた彼女の思いを考えると、一同にはかける言葉さえ見当たらなかった。ウォルファはヒジェの手紙が入った箱を取り出して荷物に入れると、かつて彼が大晦日の日にくれた服を眺めた。
「……これ、あの人が帰ったら着るわ」
「そうですね、お嬢様。チャン様もお喜びになると思いますよ」
微笑むチェリョンを支持するため、テジュは感慨深そうにこう言った。
「ユン様とチャン殿が帰れば、私たちもお別れですね」
「そうですね。この一年間、けっこう楽しかった」
「まぁ、もう都に嘘の手紙を書かずにすむのは楽だ」
そのステクの言葉に一同が笑う。
「ごめんなさいね、とっくの昔に出来ていることをするのは辛くて…」
そんなふうに他愛ない話をしていると、いつの間にか出発の準備が整った。ウォルファは気を引きしめて靴を履いた。
─────待っていて、ヒジェ様。必ずあなたを戻してみせる。
困難ではあるが必ず成し遂げたい強い決意を抱いたウォルファは、都の方角を見据えると、小さく頷いて帰路への一歩を踏み出した。それは家へ戻る帰路ではない。彼女にとってこれは、ヒジェとの日々を取り戻すための帰路なのだった。
物騒な事件が相次ぐ都の噂を聞きながら、ウォルファは懐かしい我が家に戻った。部屋には既に多数の両班から寄越されたらしい縁談書が山積みにされている。彼女はそれら全てを机から丁寧に下ろすと、ヒジェが作った紐飾りと自分が返すべき短刀を並べて置いた。
────会いたい、ヒジェ様。
その想いは、遠く離れたヒジェも同じだった。同じくウォルファの手紙を読み返しては遠い昔のように感じる思い出の中を辿る。
「………ウォルファ………」
──例え全てを捨ててでも、戻ってみせる。奪われた平穏な日々の全てを取り返してみせる。
だが、なにも出来ない自分があまりにもどかしかった。ヒジェは風通しが良すぎる部屋に震えると、ウォルファが作ってくれた綿入れを被って暖をとった。その度に言い様のない悲しみに襲われるのが、彼は一番辛かった。
「ウォルファ……会いたい……」
「ヒジェ様……会いたい……」
二人は同じ空を眺めている。だが、生きる場所は全く違う。切なる願いは空気に溶け、やがてどこかへ届くこともなく吸い込まれていくのだった。
その日、ウォルファは密かに禧嬪の元を訪ねていた。人目を避けるように夜更けにやって来た彼女は、声を潜めて淡々と切り出した。
「西人はどうしようもない無能ばかり。ですから、王様も本音では南人を戻したいはず。」
「だが、どうすればよい?兄上を戻す手だてを知っていると連絡したのはそなたではないか。」
苛立つ禧嬪に、ウォルファは人払いを命じてから地図を取り出した。
「これは、地方の地図ではないか。何を考えている」
「現在、困窮しているのはここと、ここと、ここの民です。そこの者たちを全財産投げ売って救済するのです」
「ええ?全財産を差し出せと申すか!?」
意外な提案に驚いた彼女は、裏返りそうな声で聞き直した。だが、ウォルファの考えは変わらない。
「金の使い時をよく心得ている方なら、きっとすぐにでも行動するでしょう」
それが南人──要はヒジェを都に戻す唯一の方法なのだ。ウォルファはこの一年間、地方に居たことで遊んでいる振りをして各地の情報を集めることができた。堪え忍んできた全ては、ヒジェのためなのだ。
それ以外に方法がないと知っている禧嬪は渋々頷くと、兄と南人たちに送るための書状を書き始めた。だが、ウォルファは筆を進める前に一言だけ彼女に頼んだ。
「お願いがあります。全ては禧嬪様の思い付いたことということにしてください。そうしないとまたヒジェ様……いえ、兄君が巻き込まれてしまいます。」
「わかった。このことは口外せぬ。」
禧嬪が納得したところを見届け、ウォルファは部屋を去ろうとした。すると、珍しく禧嬪──いや、オクチョンがそれを引き留めた。
「ウォルファ!」
「はい、何でしょうか」
「……兄上のこと、ありがとう。そして、済まなかった」
彼女なりに気を遣ってくれていることが嬉しかったウォルファは、こぼれた微笑みを隠すように後ろを向いたまま返事をした。
「……仕方がありません。そういう運命なのです。」
「運命で言い切れるのか?」
「ええ。信じてはいませんが」
そう言い残すと、彼女は就善堂を後にした。ウォルファが就善堂を訪れたのは、これが最後となった。
書状を受け取ったヒジェは、すぐに行動に出た。そしてその行動は瞬く間に都にまで届き、ついに粛宗の耳にも届いた。ウォルファはウンテクが夕食中にぼやいているのを聞きながら、必死で笑いをこらえていた。
「全く……一体どこの誰が入れ知恵をしたんだか……やはり、南人と会っていたらしいあのチャン・ムヨルか……?」
「お兄様の知らないところで動いている者が居るのやも。」
「うーん、わからん。お前はもうそんな無謀なことをする訳がないし………」
それがそうなのだ、と言いたくなり、ウォルファは口をつぐんだ。だが、唯一すべてに感づいている人物がいた。それはやり取りを遠くから見ていた母のイェリだ。彼女は食事が終わってウォルファが部屋で一人になったところを見計らい、何も言わずに入室した。
「お母様……!一言せめて仰ってくださいな」
机の上に置かれた短刀と紐飾りだけで、イェリは確信した。そして、無謀なことをする娘の肩を揺さぶった。
「ウォルファ!何故ここまでするの。淑媛様と王子様に迷惑がかかるのよ。お前だけじゃない。兄も、西人全員が危うくなるのよ!何故ここまでヒジェ様への愛に命をかけるの!!」
「お母様はわからないのよ!難しい愛を貫くことへの代償が、自分の命だけでは済まないということを」
「ウォルファ!戻ってきてももうヒジェ様には会わせないわ。西人の両班の子息との婚姻を取り計らうから、そのつもりでいなさい」
何としてでも母を止めないとと思い立ったウォルファは、とっさにヒジェの短刀を抜くと、自らの腕を軽く縦に切り裂いた。鮮血が色の薄いチマに花弁のように垂れる。
「ウォルファ……あ、あなた、一体何をしているの!!?」
狼狽する母に向かって、ウォルファは腕の痛みなど気にせず淡々と続けた。
「これが私の血。これが私に流れる血。そしてこの深紅は、ヒジェ様の色。私の身体の一部は、誰にも奪えない。いいえ、奪わせない。」
「ウォルファ…………」
「あの人は私のすべて。私から奪わないでください。もう……あの人を……私から奪わないで………」
錯乱して取り乱しているのか、正気なのか。我が子の表情から切に迫る想いを感じとったイェリは、その瞳に浮かぶ涙の訳をようやく知った。
「ウォルファ、お前まさか……」
「嘘じゃない。本当。子供だましの恋なんかじゃない。あの人を愛しています。」
イェリはため息をつくと、そのまま部屋を後にした。そして数分後、手当ての道具を持って戻ってきた。ウォルファは母の行動に驚いた。
「……怒っていないの?」
「怒るわ、西人の妻として。……でも、お前の母としては怒らないわ」
「お母様………」
「秘めた激情を、人は狂恋だというわ。でもお前の恋は、狂ってなんかいない。狂わないと、貫けない恋なのよね?」
産まれてはじめて誰かが自分の想いを理解してくれたことに、ウォルファの心は一気に軽くなった。その分、抱えていた苦しみや重みが、涙となって彼女の中から溢れだした。
「お母様…………大好き…………」
「ウォルファ………」
彼女は腕の痛みも忘れ、いつまでも母の腕の中で泣き続けた。
チャン・ヒジェ含む南人の者たちが都へ戻るという事実は、多くの者たちを震え上がらせた。
「俺、あいつの家になぐりこみに行ったんだけど…」
「チャン・ヒジェに殺されるな」
「ああ、こんなことするんじゃなかった……まさか戻ってくるなんて誰も想像しないだろう!?」
ざわつく群衆の間を縫って、チャン・ヒジェはステクと共に家へ戻った。服は袖が破れてかなりみすぼらしいが、それでもヒジェは生きていた。
───待っていろ、ウォルファ。すべて、取り戻す。俺が失ったすべてを………
彼ははやる気持ちをおさえ宮殿に連絡を入れると、禧嬪への謁見を申し出た。恐る恐る、ステクが尋ねた。
「あの……チャン様。失礼ですが……」
「後でだ。チェリョンを通して連絡をいれておけ」
「はい。」
ステクの背中を見送ると、ヒジェはウォルファのことを思い浮かべながら、宮殿への道を歩きはじめるのだった。
一方、ステクは困り果てていた。ウンテクがウォルファをとうとう離れに幽閉し、外出を禁じられてしまったのだ。チェリョンはステクの手を握りしめ、こう言った。
「お嬢様がお可哀想!お願い、何としてでもチャン様をお連れして!お嬢様が死んでしまう………」
「チェリョンさん、あなたも死にそうなくらいに青ざめていますよ。」
ステクはチェリョンの想いに気づいていた。そして、チェリョンは彼の想いに気づいてはいなかった。
「ステクさん………お嬢様がチャン様に会えないなら、私もあなたに会えません。」
「……私もです。チャン様はわめくだろうし、チェリョンさんにも会えませんから、私も辛いです」
その言葉に驚いたチェリョンは、目を丸くした。ステクはその反応を無視して彼女を抱きしめた。
「ステクさん……?」
「いつか婚姻してください。私で良ければ、夫になります」
最大の喜びだった。チェリョンはステクを抱きしめ返すと、首を何度も縦に振った。そして二人は互いの幸せのためにも、何としてでも互いの主人を引き合わせねばと決意した。
その晩、駄目元でヒジェはウォルファに会いに行った。しかし使用人たちはウンテクの叱りを恐れ、門を開けようともしない。彼は諦める振りをして離れのそばの塀に向かい、賭けでウォルファの名前を呼んだ。返事はない。彼はもう一度、拒絶されまいかと怯えながらも震える声で名前を口にした。
「ウォルファ………ヒジェだ。そなたの愛するチャン・ヒジェが戻ってきた。」
その声を部屋で聞いていたウォルファは、息を呑んで自分の手で口を押さえた。
───だめ。会ってはだめ。またあの人が……私のせいで辛い目に遭うのはもうたくさん。
だが、ヒジェも負けてはない。彼はしびれを切らせ、ステクが止めるのも聞かず、塀を乗り越えて忍び足で部屋の戸を開けた。そこには、彼が最も欲した姿が一年たってもそのまま存在していた。
「────ウォルファ…………」
「ヒジェ様…………」
寝巻き姿であろうが、髪を下ろして布団を敷いていようが、何も気にすることなくウォルファはヒジェの胸の中に顔を埋めた。
「会いたかった………お話がしたかった…………」
「俺もだ。不安な夜には手を握りしめたかったし、寒い日には抱きしめたかった。だが、出来なかった。」
ヒジェは自分の唇でウォルファの大きな瞳からあふれる涙を拭うと、優しく口づけをした。
「待っていた、ずっと。こんな日が来ることを」
「もう、離さない。何があろうとも、離さん。」
二人は固く抱き合うと、互いに見つめあった。言葉はこの二人が時間を埋めるのには必要無い。
こうして再び、今度は偶然の導く運命ではなく明確な意思の力で引き合い、二人は同じ人生に戻ってきた。しかし、それが真の過酷な道の始まりであることを、彼らはまだ知るよしも無かった。また次の別離の訳が、ヒジェでなくウォルファにあることも………