2、迷える恋路
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妓楼に着いたウォルファは、官吏とソリ、そしてヒジェが居る部屋の前にやってきた。執事が取り次ぐ。
「ソリ様、通訳官がやって参りました」
その瞬間、彼女は自分の耳を疑った。
「え?通訳?私はそんな…」
「とりあえず座っとけばいいのよ!ウォルファは綺麗だから見映えもいいし…」
「えっ、ちょっと……」
半ば押されるように部屋に入ったウォルファは、慌てて深々と頭をつけて礼をした。
「彼女が先日の演奏者です」
ソリの紹介に、ヒジェは満足そうに頷いている。彼女はウォルファに顔を上げるように命じた。すると……
「────えっ…?」
「な…………そなたは…………」
ウォルファとヒジェの目が合う。二人を驚きのあまり時間が止まったような感覚が襲った。驚きと恐怖──そしてむせかえるような思慕の念に胸を詰まらせ、彼女は声を失った。ヒジェの方は両班の身分を失い、平民同然の姿になってしまった彼女に対して罪の意識を感じつつも、本当にあの演奏者が願い通りだったことに運命さえ感じていた。本当に刹那の出来事なのだが、ソリはすぐにウォルファとヒジェが恋仲であることを見抜いた。彼女は二人をそっとしておいてやろうと気を遣い、席をはずした。残されたウォルファは、渋々自信の無さそうに、しかし正確で美しい清国語で通訳を始めた。上手く距離を置こうとして間に座っていた彼女だったが、清国の官吏に目をつけられることを恐れての配慮なのか、ヒジェに引き寄せられてしまった。
「……離れるな。」
机の下のちょうど死角になる場所で、彼はウォルファの手をしっかりと握った。やや痛いほどに力がこもっていたが、それも愛のような気がして、彼女は黙ってヒジェに身を任せていた。
話し合いは専らヒジェの方が不利で、常に『騰録類抄』という言葉で彼が困らされていた。それが何か知らなかったウォルファは、ただ言われた通りに取りつぎ続けた。
やがて日が落ちてから話し合いが終わり、官吏は妓楼を後にした。終わってからもしばらく無言が続いていたが、不意にウォルファが席を外し、伽耶琴を持ってきた。彼女はそれを膝の上に置き、ヒジェの隣で弾き始めた。
弦を弾く度にせわしなく動く、細くて美しい指に目を奪われたヒジェは、演奏を聞くことさえ忘れてその姿に見惚れた。やがて演奏が終わると、ウォルファは顔をあげた。
「────どうして、私を裏切ったのですか?」
「裏切ったのではない。それは本当だ。ああすることでしか、私とそなたは結ばれぬと思っていた。実際、そうだった」
ヒジェは苦し紛れにそう答えた。彼女は潤む瞳で見つめると、弦の調律をしながら続けた。
「ならば、私が西人であなたが南人だったから仕方のないことだとおっしゃるのですか?」
「そうだ。だがあとですぐ、後悔した。」
ウォルファの手が止まる。
「私は、そなたの手を離さずに済むように権力を手にした。だが、結局のところは権力を手にしてそなたを手放したのだ」
「……そうですね」
顔色一つ変えずに調律を済ませた彼女は、冷淡な声でそう言うと、一礼した。
「では、これで失礼します。もうお会いするつもりはありませんので、尋ねてこないで下さい」
立ち去ろうとするウォルファの手を彼は掴むと、彼女に呼び掛けた。
「許してほしいとは言わない。いや、言えない。だが、せめて……せめて、私がそなたをまだ愛していることを伝えさせてくれ」
「愛しているなら、もうこれ以上私を苦しめないで。さようなら」
その手を無愛想に振り払うと、彼女はそのまま戸をぴしゃりと閉めて出ていってしまった。残されたヒジェは余っている酒を一飲みすると、完全な決別に涙を一筋流すのだった。
その頃、通訳官は殺せという命令を受けた私兵がいるとの連絡を受けたウンテクは、ソリと話をしていた。
「『騰録類抄』の件は恩に着る、ソリ。それから奴はどうしたんだ?」
「初めはチャン様が自らなさっていたけど、その後はウォルファに通訳をお願いしたわ」
その言葉に国防書である『騰録類抄』を持ち出そうとしているヒジェの行動より驚いたウンテクは、仰天してしまった。
「何!?ウォルファが!?あいつをチャン・ヒジェと会わせたのか?」
「ええ。二人とも、深い仲のようだったけど……」
彼は頭を抱えた。
──まさか、こんなところで再会するとは…
彼は渋々一部始終をソリに語って説明した。話を聞き終わる頃にはすっかり開いた口が塞がらないようになった彼女は、かつてウォルファに男が居たと噂していた妓生たちを思い出した。ウンテクははっと我にかえると、妹の名前を叫んだ。
「どうしたの?」
「あいつも通訳官だ。ヒジェの私兵以外も居るなら、殺される!」
そう言うと、彼は一目散に家への道を急ぐのだった。
家には案の定、オ・テソクが別に指示を出した刺客が先に着いていた。壁の端に追い詰められたウォルファは、剣の切っ先を向けられ、絶体絶命の状態に陥っていた。刺客が剣を振り下ろそうとしたその時。
「お嬢様!お逃げください!」
ソリの私兵が刺客たちを斬ると同時に、兄のウンテクとチェリョンが戻ってきた。急いで妹の分の荷物をまとめたウンテクは、それをチェリョンに渡すと、念を押した。
「絶対、妹から離れるなよ」
「かしこまりました。さ、お嬢様。行きましょう」
一年前と同じようにせかされて家を出たウォルファは、またヒジェのせいで平凡な人生を邪魔されたと苛立っていたが、すぐに命の危険が迫っていると思い出した。チェリョンはソリから言伝を預かっており、逃亡の道を説明し始めた。
「ここを抜けると、大きな川に出るそうです。そこを渡れば、旦那様の友人の官僚が居るそうです」
「…川は嫌いだけれど、わかった。」
実は水があまり好きではない彼女は、チェリョンの説明に顔をしかめたが、死ぬよりはマシだと自分に言い聞かせ、何としてでも渡らねばと気を引き締めた。
そのころ、チャン・ヒジェの方も密かにオ・テソクの私兵が別行動を始めていると聞きつけ、あわててウォルファの家へやってきた。そこにはすでに彼女はおらず、あったのは私兵たちの死体だけだった。
「な…こ、これは…」
「川…」
唖然としているヒジェの足を、虫の息の刺客がつかんでそうつぶやいた。彼は血相を抱えて取り乱すと、男の襟をつかんだ。
「どこにいる!娘はどこだ!」
「…男が言っていた…川を渡れば…安全…」
彼はもどかしく思い、必死に言葉を聞き出そうとした。
「あの子は生きているのか!?」
「仕損じま…した…あとは…部下が…」
切れ切れの言葉の中から、安否を確認できたヒジェは一安心すると一言礼を告げてその場を去った。間もなく、その男は息を引き取った。
川は前日に運悪く上流付近で雨が降ったらしく、増水していた。ようやくたどり着き、先ほどまで決心していたウォルファもさすがに激流と言っていいほど激しい流れの川に身を任せるほどの状況ではないのでは、と思い始めていた。だが、そんな時。丁度ヒジェが彼女に追いついた。
「やめろ!死ぬぞ!」
「ヒジェ様…?どうしてここに…」
やや動揺した彼女だったが、私兵が別物とは知らなかったので、ヒジェに殺されかけたと勘違いをしていたため、ヒジェの制止も聞かずウォルファは川に足を迷わず踏み入れた。
「ウォルファ!!!!やめろ!戻ってこい!もうそなたを失いたくない!あいつらは私の部下ではない!」
「あなたに殺されるくらいなら、溺れたほうがましよ」
腰まですっかり水につかった彼女はそうつぶやきながら、どんどん進んでいく。ヒジェの声は荒れ狂う水の音で聞こえていないようだ。侍女のチェリョンはさすがに彼の裾に泣きついた。
「お嬢様は水が苦手なんです!泳げないんです!チャン様、どうかやめさせてください!」
「ウォルファ…」
ヒジェを置いてウォルファはどんどん川の中心へ向かっていく。すると、なぜか彼女は不意にヒジェの顔を無性に見たくなった。そして、振り返った。
────ヒジェ様…
そこには、彼女が愛したヒジェ自身が立っていた。彼は何かをずっと叫んでいる。それを聞き取ろうとしたウォルファは、激流の中にいることも忘れて耳を澄まそうとした。
その時だった。足元をすくわれた彼女は、川に引きずり込まれた。半狂乱になったヒジェは無我夢中で川の中に入っていくと、その手を精一杯伸ばして水面にわずかに見えている服の裾をつかんだ。
岸までやっとのことで連れ戻したヒジェは、ウォルファを地面に寝かすと、必死で呼びかけた。
「ウォルファ!!!ウォルファ!!!ウォルファ!!しっかりしろ!俺だ!ヒジェだ!殴りたいなら殴れ!刺したいなら刺せ!だが死ぬことは許さん!この俺を置いて、死ぬのだけは許さん!」
彼は泣きながらそう訴えた。すると、溺れてからそう時間がたっていなかったからなのか、ウォルファは水を吐き出し、息を吹き返した。彼は満面の笑みで彼女の手を握った。
「ああ…よかった…私はそなたの心を殺してしまった。だから、せめてその身だけは守らねば…」
彼は衣服が濡れることも気にすることなく、自ら意識を失ったウォルファを横抱きにすると、宿代わりにしている地方官庁へ向かった。ヒジェが自分の主人を憎んでいるとばかり思っていたチェリョンはさっぱり訳が分からず目を白黒させていたが、やがて一大事に巻き込まれたなと確信すると、あわててヒジェの後についていった。
部屋を暖め、チェリョンにウォルファの服を着替えさせたヒジェは、傍に寄り添いながらその頬を優しく撫でていた。
「ずいぶん暖まって来ているな。これなら大丈夫だろう」
「そうですね。…チャン様は、お嬢様をまだお想いなのですか?」
突然の質問に驚いた彼だったが、その真意を図りかねて質問を重ねた。
「そういうそなたの主人は、私など忘れていたのでは?」
「……お嬢様自身にお聞き下さい。では。」
そう言い残すと、彼女はさっさと部屋から出ていき、ソリの妓楼へ帰ってしまった。残されたヒジェは、心地良さそうに寝息を立てるウォルファの隣に帽子を脱いで寝ころがった。
「……好きだ、ウォルファ。私は自分の気持ちさえ分かっていなかった。これ程むせかえるような恋情を隠し持っていたなど……」
彼は泣いていた。そして、偶然ウォルファも目を覚ましていた。だがヒジェの威厳を傷つけたくなかった彼女は敢えて眠っている振りをしている。
──嘘かも知れないし。
自分はあの日のヒジェを愛している。頑なに悪人でもあるという事実を受け入れられない彼女も苦悩していた。
──本当は、その涙を優しく拭ってさしあげたい。そして、その腕の中で愛していると言いたい。
そんな気持ちを抑え、ウォルファは寝返りを装って彼の傍に引っ付いた。驚きでヒジェの鼓動が跳ね上がる。
「……少しだけ、傍に居ても構わんよな」
彼はそう言うと、彼女を抱き締めた。暖かい温もりが全身を満たしていく。
互いの正しい距離を見失った二人は、再び想いを一つにし始めていた。そんな彼らを見守るように、義州の夜は更けていくのだった。
目を覚ましたウォルファは、いつのまにか寝落ちをしていた自分に恥ながら、ゆっくり起き上がった。部屋の中には、彼女一人だけだった。
「……ヒジェ様…?」
そういえばヒジェの姿が見当たらないと気づいた彼女は、恐る恐る部屋から一歩外へ踏み出した。すると、外には朝もやの中に佇む彼の姿があった。なぜか声をかけるのを躊躇い、ウォルファは黙って近づいた。
「……昨日は眠れたか?」
「ええ……まぁ…」
ヒジェの添い寝があったからと思いながら、彼女は隣に並んだ。
「何を見ていらっしゃるの?」
「…鳥だ」
珍しく自然を楽しんでいるらしい彼が面白く、ウォルファはじっと観察し始めた。
「……何を見ておる?」
「その端正な癖に間抜けな顔よ。自然を見るなんて不思議なこと、あなたがするなんて思ってなかったから」
馬鹿にされたのか、褒められたのかがいまいち微妙な言葉にヒジェは顔をしかめた。そんな彼に少し近づきすぎたと気づいたウォルファは、気まずそうに一歩距離を置いた。だが、黙って今度はヒジェの方が寄ってくる。
「寄らないで」
「元からこの距離だったぞ?」
「嘘よ。もっと遠かったわ」
「では元は顔と顔が引っ付きそうなくらい…かな?」
人をからかっているような笑顔を向けると、ヒジェは長官室へ歩きだした。その後ろを彼女は慌てて追いかけた。
「待って!!」
「なんだ。」
「その……助けてくれて、ありがとう」
意外な言葉に彼は足を止めた。
「私ね。自分は死ぬのかなって覚悟するような瞬間は、家族の顔を思い出すと思っていた。でも、違った。私は、あなたのことを思い出していた。」
彼は依然何も言わず、黙っていた。
「馬鹿よね、私。あなたみたいな最低の男を……思い出すなんて………そのまま死ぬかもしれないのに……あなたなんて………」
うつむきながら切れ切れに呟く彼女に向き直ったヒジェは、そっと手を差し伸べた。だが、彼女はその手を音高らかにはたいた。
「だから嫌いなの!あなたは嫌い!!何も言わず、私に断りもいれず、勝手に心を奪っていったあなたが大嫌いなの!消えて!今すぐ!」
その冷たい言葉についかっとなってしまったヒジェは、ウォルファを背筋も凍る瞳で睨み付けると、冷たく言い放った。
「勝手にしろ。ただし、ここから出るな。俺を憎んでも構わんが、これ以上手こずらせるな」
その冷徹さに思わず畏縮してしまった彼女は、目を丸くして歩きだしたヒジェの背中をまじまじと見た。けれどすぐにいつもの強気な彼女に戻ると、地面の石を隣の池に投げてわざと聞こえるように叫んだ。
「ふん!何が手こずらせるな、よ。こっちこそ世話になった覚えはないわよ!この変態女好き……年中発情期の揉み髭馬鹿!」
彼女の意図通り、その言葉はそっくりそのままヒジェの耳に届いていたらしく、彼は機嫌悪そうに部屋へ入っていった。
彼が不機嫌なのは別な理由もあった。実は、ウォルファが聞き取り、ソリがウンテクに伝えた騰録類抄。そのありかを聞き出すためにさっさとトンイとウンテクを捕らえた彼は、あせる気持ちを抑えながらもウンテクが言っていた隠し場所を探させていた。
「あの小娘め。散々手間をかけさせおって。」
手間。その言葉に彼はなにかが引っ掛かった。
────ウォルファにはどれ程手こずらされても、私は嫌ではない。
驚くほど単純な事実だった。やはり、自分は彼女を愛している。そして、都へ連れ戻したいとも願っている。どれ程危険でおろかなことであるかは承知だが、それでも確信を持ってしまった彼の気持ちはもう止められなかった。騰録類抄のことなどどうでもいいと思った彼は、すぐに走ってウォルファを探し始めた。
その頃、ウォルファは偶然にもトンイが助けを求めて叫んでいる納屋を発見し、彼女と兄を逃がそうとしていた。
「大丈夫?本当にとんでもない奴ね。」
「そうですよ。姉さんも早く逃げて。」
「ありがとう。チェリョンは妓楼に戻ったそうだから、私も荷物を持って逃げるわ」
トンイの肩を支えながら、ウォルファは裏口から彼女を逃がした。ウンテクは罰が悪そうに顔をしかめると、頭の帽子をまっすぐに直してウォルファを見た。
「……すまない。私がこんなことに首を突っ込まず大人しくしていれば……」
「いいんですよ、お兄様。私もなんとかします」
その笑顔が一層健気で、彼はますます悲哀のこもった目を伏せるのだった。
二人をそうやって送り出したウォルファは、少ない荷物を持ち出すと、彼らの後を追って役所を後にした。
ウォルファはおろか、トンイもウンテクも逃げたことをヒジェが知ったときには、既に昼を回り夕方に差し掛かっていた。憤激した彼は、急いで私兵を集めた。
「小娘と兄妹を探せ!女官の小娘の方は殺しても構わん!妹の方は……生け捕りにしろ」
そう命令したヒジェ自身も剣を手に持つと、烈火を目に宿して歩きだすのだった。
「ソリ様、通訳官がやって参りました」
その瞬間、彼女は自分の耳を疑った。
「え?通訳?私はそんな…」
「とりあえず座っとけばいいのよ!ウォルファは綺麗だから見映えもいいし…」
「えっ、ちょっと……」
半ば押されるように部屋に入ったウォルファは、慌てて深々と頭をつけて礼をした。
「彼女が先日の演奏者です」
ソリの紹介に、ヒジェは満足そうに頷いている。彼女はウォルファに顔を上げるように命じた。すると……
「────えっ…?」
「な…………そなたは…………」
ウォルファとヒジェの目が合う。二人を驚きのあまり時間が止まったような感覚が襲った。驚きと恐怖──そしてむせかえるような思慕の念に胸を詰まらせ、彼女は声を失った。ヒジェの方は両班の身分を失い、平民同然の姿になってしまった彼女に対して罪の意識を感じつつも、本当にあの演奏者が願い通りだったことに運命さえ感じていた。本当に刹那の出来事なのだが、ソリはすぐにウォルファとヒジェが恋仲であることを見抜いた。彼女は二人をそっとしておいてやろうと気を遣い、席をはずした。残されたウォルファは、渋々自信の無さそうに、しかし正確で美しい清国語で通訳を始めた。上手く距離を置こうとして間に座っていた彼女だったが、清国の官吏に目をつけられることを恐れての配慮なのか、ヒジェに引き寄せられてしまった。
「……離れるな。」
机の下のちょうど死角になる場所で、彼はウォルファの手をしっかりと握った。やや痛いほどに力がこもっていたが、それも愛のような気がして、彼女は黙ってヒジェに身を任せていた。
話し合いは専らヒジェの方が不利で、常に『騰録類抄』という言葉で彼が困らされていた。それが何か知らなかったウォルファは、ただ言われた通りに取りつぎ続けた。
やがて日が落ちてから話し合いが終わり、官吏は妓楼を後にした。終わってからもしばらく無言が続いていたが、不意にウォルファが席を外し、伽耶琴を持ってきた。彼女はそれを膝の上に置き、ヒジェの隣で弾き始めた。
弦を弾く度にせわしなく動く、細くて美しい指に目を奪われたヒジェは、演奏を聞くことさえ忘れてその姿に見惚れた。やがて演奏が終わると、ウォルファは顔をあげた。
「────どうして、私を裏切ったのですか?」
「裏切ったのではない。それは本当だ。ああすることでしか、私とそなたは結ばれぬと思っていた。実際、そうだった」
ヒジェは苦し紛れにそう答えた。彼女は潤む瞳で見つめると、弦の調律をしながら続けた。
「ならば、私が西人であなたが南人だったから仕方のないことだとおっしゃるのですか?」
「そうだ。だがあとですぐ、後悔した。」
ウォルファの手が止まる。
「私は、そなたの手を離さずに済むように権力を手にした。だが、結局のところは権力を手にしてそなたを手放したのだ」
「……そうですね」
顔色一つ変えずに調律を済ませた彼女は、冷淡な声でそう言うと、一礼した。
「では、これで失礼します。もうお会いするつもりはありませんので、尋ねてこないで下さい」
立ち去ろうとするウォルファの手を彼は掴むと、彼女に呼び掛けた。
「許してほしいとは言わない。いや、言えない。だが、せめて……せめて、私がそなたをまだ愛していることを伝えさせてくれ」
「愛しているなら、もうこれ以上私を苦しめないで。さようなら」
その手を無愛想に振り払うと、彼女はそのまま戸をぴしゃりと閉めて出ていってしまった。残されたヒジェは余っている酒を一飲みすると、完全な決別に涙を一筋流すのだった。
その頃、通訳官は殺せという命令を受けた私兵がいるとの連絡を受けたウンテクは、ソリと話をしていた。
「『騰録類抄』の件は恩に着る、ソリ。それから奴はどうしたんだ?」
「初めはチャン様が自らなさっていたけど、その後はウォルファに通訳をお願いしたわ」
その言葉に国防書である『騰録類抄』を持ち出そうとしているヒジェの行動より驚いたウンテクは、仰天してしまった。
「何!?ウォルファが!?あいつをチャン・ヒジェと会わせたのか?」
「ええ。二人とも、深い仲のようだったけど……」
彼は頭を抱えた。
──まさか、こんなところで再会するとは…
彼は渋々一部始終をソリに語って説明した。話を聞き終わる頃にはすっかり開いた口が塞がらないようになった彼女は、かつてウォルファに男が居たと噂していた妓生たちを思い出した。ウンテクははっと我にかえると、妹の名前を叫んだ。
「どうしたの?」
「あいつも通訳官だ。ヒジェの私兵以外も居るなら、殺される!」
そう言うと、彼は一目散に家への道を急ぐのだった。
家には案の定、オ・テソクが別に指示を出した刺客が先に着いていた。壁の端に追い詰められたウォルファは、剣の切っ先を向けられ、絶体絶命の状態に陥っていた。刺客が剣を振り下ろそうとしたその時。
「お嬢様!お逃げください!」
ソリの私兵が刺客たちを斬ると同時に、兄のウンテクとチェリョンが戻ってきた。急いで妹の分の荷物をまとめたウンテクは、それをチェリョンに渡すと、念を押した。
「絶対、妹から離れるなよ」
「かしこまりました。さ、お嬢様。行きましょう」
一年前と同じようにせかされて家を出たウォルファは、またヒジェのせいで平凡な人生を邪魔されたと苛立っていたが、すぐに命の危険が迫っていると思い出した。チェリョンはソリから言伝を預かっており、逃亡の道を説明し始めた。
「ここを抜けると、大きな川に出るそうです。そこを渡れば、旦那様の友人の官僚が居るそうです」
「…川は嫌いだけれど、わかった。」
実は水があまり好きではない彼女は、チェリョンの説明に顔をしかめたが、死ぬよりはマシだと自分に言い聞かせ、何としてでも渡らねばと気を引き締めた。
そのころ、チャン・ヒジェの方も密かにオ・テソクの私兵が別行動を始めていると聞きつけ、あわててウォルファの家へやってきた。そこにはすでに彼女はおらず、あったのは私兵たちの死体だけだった。
「な…こ、これは…」
「川…」
唖然としているヒジェの足を、虫の息の刺客がつかんでそうつぶやいた。彼は血相を抱えて取り乱すと、男の襟をつかんだ。
「どこにいる!娘はどこだ!」
「…男が言っていた…川を渡れば…安全…」
彼はもどかしく思い、必死に言葉を聞き出そうとした。
「あの子は生きているのか!?」
「仕損じま…した…あとは…部下が…」
切れ切れの言葉の中から、安否を確認できたヒジェは一安心すると一言礼を告げてその場を去った。間もなく、その男は息を引き取った。
川は前日に運悪く上流付近で雨が降ったらしく、増水していた。ようやくたどり着き、先ほどまで決心していたウォルファもさすがに激流と言っていいほど激しい流れの川に身を任せるほどの状況ではないのでは、と思い始めていた。だが、そんな時。丁度ヒジェが彼女に追いついた。
「やめろ!死ぬぞ!」
「ヒジェ様…?どうしてここに…」
やや動揺した彼女だったが、私兵が別物とは知らなかったので、ヒジェに殺されかけたと勘違いをしていたため、ヒジェの制止も聞かずウォルファは川に足を迷わず踏み入れた。
「ウォルファ!!!!やめろ!戻ってこい!もうそなたを失いたくない!あいつらは私の部下ではない!」
「あなたに殺されるくらいなら、溺れたほうがましよ」
腰まですっかり水につかった彼女はそうつぶやきながら、どんどん進んでいく。ヒジェの声は荒れ狂う水の音で聞こえていないようだ。侍女のチェリョンはさすがに彼の裾に泣きついた。
「お嬢様は水が苦手なんです!泳げないんです!チャン様、どうかやめさせてください!」
「ウォルファ…」
ヒジェを置いてウォルファはどんどん川の中心へ向かっていく。すると、なぜか彼女は不意にヒジェの顔を無性に見たくなった。そして、振り返った。
────ヒジェ様…
そこには、彼女が愛したヒジェ自身が立っていた。彼は何かをずっと叫んでいる。それを聞き取ろうとしたウォルファは、激流の中にいることも忘れて耳を澄まそうとした。
その時だった。足元をすくわれた彼女は、川に引きずり込まれた。半狂乱になったヒジェは無我夢中で川の中に入っていくと、その手を精一杯伸ばして水面にわずかに見えている服の裾をつかんだ。
岸までやっとのことで連れ戻したヒジェは、ウォルファを地面に寝かすと、必死で呼びかけた。
「ウォルファ!!!ウォルファ!!!ウォルファ!!しっかりしろ!俺だ!ヒジェだ!殴りたいなら殴れ!刺したいなら刺せ!だが死ぬことは許さん!この俺を置いて、死ぬのだけは許さん!」
彼は泣きながらそう訴えた。すると、溺れてからそう時間がたっていなかったからなのか、ウォルファは水を吐き出し、息を吹き返した。彼は満面の笑みで彼女の手を握った。
「ああ…よかった…私はそなたの心を殺してしまった。だから、せめてその身だけは守らねば…」
彼は衣服が濡れることも気にすることなく、自ら意識を失ったウォルファを横抱きにすると、宿代わりにしている地方官庁へ向かった。ヒジェが自分の主人を憎んでいるとばかり思っていたチェリョンはさっぱり訳が分からず目を白黒させていたが、やがて一大事に巻き込まれたなと確信すると、あわててヒジェの後についていった。
部屋を暖め、チェリョンにウォルファの服を着替えさせたヒジェは、傍に寄り添いながらその頬を優しく撫でていた。
「ずいぶん暖まって来ているな。これなら大丈夫だろう」
「そうですね。…チャン様は、お嬢様をまだお想いなのですか?」
突然の質問に驚いた彼だったが、その真意を図りかねて質問を重ねた。
「そういうそなたの主人は、私など忘れていたのでは?」
「……お嬢様自身にお聞き下さい。では。」
そう言い残すと、彼女はさっさと部屋から出ていき、ソリの妓楼へ帰ってしまった。残されたヒジェは、心地良さそうに寝息を立てるウォルファの隣に帽子を脱いで寝ころがった。
「……好きだ、ウォルファ。私は自分の気持ちさえ分かっていなかった。これ程むせかえるような恋情を隠し持っていたなど……」
彼は泣いていた。そして、偶然ウォルファも目を覚ましていた。だがヒジェの威厳を傷つけたくなかった彼女は敢えて眠っている振りをしている。
──嘘かも知れないし。
自分はあの日のヒジェを愛している。頑なに悪人でもあるという事実を受け入れられない彼女も苦悩していた。
──本当は、その涙を優しく拭ってさしあげたい。そして、その腕の中で愛していると言いたい。
そんな気持ちを抑え、ウォルファは寝返りを装って彼の傍に引っ付いた。驚きでヒジェの鼓動が跳ね上がる。
「……少しだけ、傍に居ても構わんよな」
彼はそう言うと、彼女を抱き締めた。暖かい温もりが全身を満たしていく。
互いの正しい距離を見失った二人は、再び想いを一つにし始めていた。そんな彼らを見守るように、義州の夜は更けていくのだった。
目を覚ましたウォルファは、いつのまにか寝落ちをしていた自分に恥ながら、ゆっくり起き上がった。部屋の中には、彼女一人だけだった。
「……ヒジェ様…?」
そういえばヒジェの姿が見当たらないと気づいた彼女は、恐る恐る部屋から一歩外へ踏み出した。すると、外には朝もやの中に佇む彼の姿があった。なぜか声をかけるのを躊躇い、ウォルファは黙って近づいた。
「……昨日は眠れたか?」
「ええ……まぁ…」
ヒジェの添い寝があったからと思いながら、彼女は隣に並んだ。
「何を見ていらっしゃるの?」
「…鳥だ」
珍しく自然を楽しんでいるらしい彼が面白く、ウォルファはじっと観察し始めた。
「……何を見ておる?」
「その端正な癖に間抜けな顔よ。自然を見るなんて不思議なこと、あなたがするなんて思ってなかったから」
馬鹿にされたのか、褒められたのかがいまいち微妙な言葉にヒジェは顔をしかめた。そんな彼に少し近づきすぎたと気づいたウォルファは、気まずそうに一歩距離を置いた。だが、黙って今度はヒジェの方が寄ってくる。
「寄らないで」
「元からこの距離だったぞ?」
「嘘よ。もっと遠かったわ」
「では元は顔と顔が引っ付きそうなくらい…かな?」
人をからかっているような笑顔を向けると、ヒジェは長官室へ歩きだした。その後ろを彼女は慌てて追いかけた。
「待って!!」
「なんだ。」
「その……助けてくれて、ありがとう」
意外な言葉に彼は足を止めた。
「私ね。自分は死ぬのかなって覚悟するような瞬間は、家族の顔を思い出すと思っていた。でも、違った。私は、あなたのことを思い出していた。」
彼は依然何も言わず、黙っていた。
「馬鹿よね、私。あなたみたいな最低の男を……思い出すなんて………そのまま死ぬかもしれないのに……あなたなんて………」
うつむきながら切れ切れに呟く彼女に向き直ったヒジェは、そっと手を差し伸べた。だが、彼女はその手を音高らかにはたいた。
「だから嫌いなの!あなたは嫌い!!何も言わず、私に断りもいれず、勝手に心を奪っていったあなたが大嫌いなの!消えて!今すぐ!」
その冷たい言葉についかっとなってしまったヒジェは、ウォルファを背筋も凍る瞳で睨み付けると、冷たく言い放った。
「勝手にしろ。ただし、ここから出るな。俺を憎んでも構わんが、これ以上手こずらせるな」
その冷徹さに思わず畏縮してしまった彼女は、目を丸くして歩きだしたヒジェの背中をまじまじと見た。けれどすぐにいつもの強気な彼女に戻ると、地面の石を隣の池に投げてわざと聞こえるように叫んだ。
「ふん!何が手こずらせるな、よ。こっちこそ世話になった覚えはないわよ!この変態女好き……年中発情期の揉み髭馬鹿!」
彼女の意図通り、その言葉はそっくりそのままヒジェの耳に届いていたらしく、彼は機嫌悪そうに部屋へ入っていった。
彼が不機嫌なのは別な理由もあった。実は、ウォルファが聞き取り、ソリがウンテクに伝えた騰録類抄。そのありかを聞き出すためにさっさとトンイとウンテクを捕らえた彼は、あせる気持ちを抑えながらもウンテクが言っていた隠し場所を探させていた。
「あの小娘め。散々手間をかけさせおって。」
手間。その言葉に彼はなにかが引っ掛かった。
────ウォルファにはどれ程手こずらされても、私は嫌ではない。
驚くほど単純な事実だった。やはり、自分は彼女を愛している。そして、都へ連れ戻したいとも願っている。どれ程危険でおろかなことであるかは承知だが、それでも確信を持ってしまった彼の気持ちはもう止められなかった。騰録類抄のことなどどうでもいいと思った彼は、すぐに走ってウォルファを探し始めた。
その頃、ウォルファは偶然にもトンイが助けを求めて叫んでいる納屋を発見し、彼女と兄を逃がそうとしていた。
「大丈夫?本当にとんでもない奴ね。」
「そうですよ。姉さんも早く逃げて。」
「ありがとう。チェリョンは妓楼に戻ったそうだから、私も荷物を持って逃げるわ」
トンイの肩を支えながら、ウォルファは裏口から彼女を逃がした。ウンテクは罰が悪そうに顔をしかめると、頭の帽子をまっすぐに直してウォルファを見た。
「……すまない。私がこんなことに首を突っ込まず大人しくしていれば……」
「いいんですよ、お兄様。私もなんとかします」
その笑顔が一層健気で、彼はますます悲哀のこもった目を伏せるのだった。
二人をそうやって送り出したウォルファは、少ない荷物を持ち出すと、彼らの後を追って役所を後にした。
ウォルファはおろか、トンイもウンテクも逃げたことをヒジェが知ったときには、既に昼を回り夕方に差し掛かっていた。憤激した彼は、急いで私兵を集めた。
「小娘と兄妹を探せ!女官の小娘の方は殺しても構わん!妹の方は……生け捕りにしろ」
そう命令したヒジェ自身も剣を手に持つと、烈火を目に宿して歩きだすのだった。