1、忘れられない人(※加筆修正しました)
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義州に来てから早一年。ウォルファはすっかり両班のお嬢様という身分を忘れ、田舎の町に溶け込んでいた。
「ウォルファ!今日も買い出しかい?」
「ええ。いい食材あるかしら?」
彼女は野菜の一つ一つを手にとって眺めた。妓楼で欠かせないのは、おもてなしだけではないということをこの一年で知った彼女は、食材選びからが料理を左右するということも学んだ。
「ああ、何ならあの荷車貸してあげるよ」
「本当?嬉しいわ。ありがとう」
ウォルファは購入した新鮮な野菜のみずみずしい手触りを楽しみながら荷車に積むと、暇そうな兄に声をかけた。
「お兄様!これ、押していって」
「え!?俺が?はぁ…」
流刑の身のため、職にありつけない彼は妹に食べさせてもらっていることを思い出すと、渋々荷車を引きずり始めた。
義州。辺境の地でありながら、そこそこの活気を失っていない珍しい場所だった。まだ一年しか住んでいないが、ウォルファはもうここを気に入り始めていた。妓楼の妓生のお姉さんたちは皆、彼女のことを可愛がってくれるし、何より主人のソリはいつも教養を教えてくれる。
───ああ、ここで生きていくのね。
やや眩しくなりはじめた太陽を見つめながら、彼女はそう微笑んだ。
もちろん、下働きの給料だけで食べていけるはずもなく、ウォルファは他にも清国の言葉で書かれた書物や書類の翻訳、写本なども行っていた。多忙を極める毎日だったが、それをやめようとは思わなかった。
一つは、母が病気で倒れたこと。治療費や生活費を送るために、彼女は仕事にいそしんでいた。そして、もう一つは…
「───ヒジェ様…」
忘れられない愛しい人のことを、無理にでも忘れられるからだ。暇さえあれば、未だに彼女の心はヒジェに蝕まれる。夢にはしょっちゅう現れるし、その度に彼女は涙を流していた。
───けれど、あの方は忘れているわよね。私のことなんて…
ため息をついたウォルファは、地面の土を蹴った。少しだけ、ヒジェのことを考えながら。
一方、チャン・ヒジェは荒れていた。正しくは、未だにウォルファとの不本意な別れかたを引きずっていた。彼は放蕩にますます打ち込むようになり、毎晩女をとっかえひっかえする生活を送っていた。だが、満たされない。一年経てば、忘れられると信じていた。なのに、忘れられない。むしろ、他の女を抱いている最中でも、終わった後でも彼はずっとウォルファのことを考えていた。今日も傍らに愛妾が寝ているにも関わらず、ヒジェはまた彼女の名前を呟いた。
「───ウォルファ……」
「だぁれ、それ」
愛妾──カン・テヒは鋭い瞳でヒジェを見た。
「ああ、何でもない。気にするな」
「お気になさらず、なんて。私が気にしないとでも?」
すねたテヒを面倒くさそうにあしらうと、彼は服を着て妓楼を去ろうとした。
「待って、もう帰るの?」
「俺は妓楼に来てまで機嫌の悪い女を相手はしたくない」
引き留めようとするテヒを振り払い、彼は本当に帰ってしまった。
テヒは都で一番の妓生だ。自分の決めた客しか相手をしないと噂の彼女だったが、ヒジェの後妻を狙って敢えて相手を始めた。だが、それが間違いだった。みるみる誘惑するどころか、深みにはまってしまった彼女は、いつの間にかヒジェを愛してしまっていた。
「…何よ。他の女を重ねて都一の美貌を持つ私を見るなんて。失礼にも程があるわ」
だが、彼女は少しだけ気になった。あれほど気難しく移り気の早いヒジェの心を射止め続ける女性とは一体誰なのか。
───まぁ、どうせどこかの妓生なんでしょうね。
それが西人のお嬢様とは知らないテヒは、適当に決めつけるとヒジェの居なくなった虚しい布団で再び眠りについた。
家に戻ったヒジェは、部屋には戻らず月を眺めた。
──あの月も、俺とあの方を繋いではくれない。
彼はここ一年で、ようやくウォルファに恋していたのではなく、自分が彼女を愛していたことに気づいた。だが知らずに別れるのが早すぎて、知ったときにはもう遅かった。彼は自らウォルファを失ったのだ。今となっては思いを伝えるのも憚られる。
「ウォルファ………会いたい………」
それでも、思慕の念は抑えられない。諦めと絶望にうちひしがれる度に、その想いは膨れ上がり、また絶望によってかき消される。
泡沫のような切ない想いを感じたことがなかった彼は、誰かにそれを向けられないかと必死に代わりを探し続けた。だが、もちろん誰も現れない。
そしてこの日もまた独りで眠りにつくのだった。夢で愛しいウォルファに会えることを考えながら。
「───ウォルファ!」
妓生のソッキョンに起こされ、ウォルファは目を覚ました。
「ええと……私……」
「泣いてたから、起こしてあげたんだけど……」
彼女は起き上がると、うたた寝をしていたことを思い出した。ソッキョンは心配そうに彼女の顔を覗き込んだ。
「……大丈夫?随分前からそのことにはソリさんも気づいていたみたいだけど。何か、都であったの?」
「えっ……?」
ウォルファは図星を突かれて驚いた。
「いえ……べつに……」
「だってあなたって、お嬢様なんでしょ?それがどうしてこんな片田舎に……」
ソッキョンはそこまで言うと、すっかり黙りこんでしまったウォルファの顔をまじまじと見た。そして、それ以上踏み込んではいけない話と悟り、自分の手を彼女の手にそっと添えた。
「……傷が癒えないなら、ここで癒していけばいい。いつか全部思い出に変わるんだ」
「……ありがとう」
───全部思い出に変われば、どれ程幸せなことか。
ウォルファは思慕の念で痛む胸を抑えながら、昼の月を眺めた。かすかに空に引っ掻いたような薄さで浮かび上がる月。二人の恋も、未来も所詮そんなものだったのかもしれない。自分だけが真剣で、相手はそんなに自分を想っていなかったのでは。思えば思うほど、一喜一憂していたあの頃の自分が馬鹿らしく、そしてそんなことに生きる意味を見いだしていた自分がまた愛しくも思えるのだった。
控え室に行くと、いつものように妓生たちが雑談をしていた。今日は男の話らしい。普段通り、適当な相づちをうちながら、ウォルファは会話に参加していた。
「うちのお客の方が素敵よ!」
「あら、そうかしら。あんな贈り物をケチる男が?」
「あのねぇ……」
言い争いをしている二人は、今にも引っ掻きあいを始めそうな勢いだ。ウォルファは慌てて止めに入った。
「あの!落ち着いて下さい。蓼食う虫も好きずきです」
「そういうあんたの蓼はどんなだったの?」
「へっ?」
突然話が飛んできたウォルファは、驚いて一瞬戸惑ってしまった。だが、ここで場の空気を壊す話もしたくなかったので、渋々ヒジェのことを思い出しながら話始めた。
「私の殿方は、とても素敵な方でした。お金持ちで、妹君は国一番の殿方と結婚して……ああ、顔も端正でした。ただ、もみ髭が変でした。あとは、女好きでした」
最後のは褒め言葉ではないだろうと流石に思ったが、皆面白そうに聞いてくれているので、彼女は安心した。
「で、その男とはどこまでしたの?」
「えっ?何を…」
「だから。寝たの?」
率直な質問に彼女はまた戸惑うはめになった。
「あの…それは……ええと………せ、接吻だけです」
「あら、意外に優しい方じゃない。女好きだったんでしょう?普通ならさっさと手を付けて捨てるわよね」
確かに。とウォルファは納得した。なぜ、彼は自分をぞんざいに扱って捨てなかったのか。考えれば考えるほど、彼女は訳がわからなくなってきた。
その後の仕事は一切手につかず、家に帰っても彼女はぼんやりしていた。
──だめだわ。最近またあの人のことを考えてしまう……忘れなきゃ……
何かの前触れのようにヒジェのことを口に出すことが増えてきていた日々に、ウォルファは一抹の不安を覚えながらも、気のせいだと割りきるより外ないと思うのだった。
その頃、ヒジェは旅の支度をしていた。
「清国の官僚に、何としてでも世子冊封を認めて貰わねば。」
「旦那様、既にあちらの長官にはお伝えしておきました。」
ハン執事が彼に手紙を渡した。それに目を通した彼は、顔を上げてこう言った。
「──では、行くとするか。義州に。」
絶ちきられたはずの運命の糸は、確かに繋がっていたのだ。義州でウォルファに再会できるとは、このときの彼はまだ知る由もない。
ある日、ウォルファは町で主人に怒られている使用人に目を留めた。
「───都へ帰してください!!やらなければならないことがあるんです!」
「駄目だ!絶対だめだ。」
「ピョン様!お願いします!」
見覚えのあるその姿に期待を寄せながら近づいてみると、それは確かにトンイだった。ウォルファは脇目もふらず、彼女の名前を呼んだ。
「トンイ!!トンイ!!」
「あ………姉さん!!ウォルファ姉さん!!」
二人は駆け寄ると、抱き合った。再会の喜びが、全身を駆け巡る。
「失踪の原因は知っているけれど、どうやって生き延びたの?」
「話すと長くなりますが、奇跡的に助かりました。私は丈夫ですから。」
ウォルファは微笑むと、トンイの手を取った。亡くなったと思っていた妹代わりの人が生きている。その事だけでも彼女はひとつ生きる意味を思い出せた。
「……姉さんは、どうしてここに?」
「それは……チャン・ヒジェに追われたの。それで今は流刑中の兄と共に生活しているわ」
「そうだったんですか…」
説明を詳しくするとややこしくなってしまうので、適当に省いて語った彼女は、家にトンイを招待した。
「ごめんなさい、あまり良いものがなくて…」
「大丈夫です!姉さんの料理はいつも上手いですから」
手早く料理を作って出したウォルファは、あのときのようにトンイと共に食事をした。変わらないものもある。たったその事実が嬉しくて、彼女は涙を流した。
「どうしたんですか?姉さん。」
「いえ………嬉しいの。都と変わらない瞬間を過ごせることが…」
単に生活を懐かしんでいると解釈したトンイは、ウォルファの背中を叩いて気合いをいれた。
「気弱ですね!一緒に都へ帰りましょうよ!」
「トンイ……ありがとう」
少しだけそんな彼女に力を貰ったウォルファは、小さく頷くと、再び箸を進めた。
その数日後、義州に輿に乗ったチャン・ヒジェの姿があった。どこか無気力そうな顔をしている彼は、しきりに辺りを見回していた。
──どこかにウォルファが居るなら…
すると、向こうから義州の長官が出迎えに近づいてきた。ヒジェは愛想よく対応するために注意をそちらへ向けた。
ちょうどその時だった。彼の隣を買い物目録に目を落として歩くウォルファが通りかかった。だが、お互いに気づく様子はない。なので彼女はそのままどんどん離れていく。ヒジェが話を終えて再び周囲に視線を注ぎ始めたとき、既にウォルファの姿は市場の人混みに溶け込んでしまっていた。そして、彼の方もあり得ないことだと自分に言い聞かせると、そのまま役所へ向かうよう指示をした。
接待先には妓楼が選ばれたのだが、どれにしようか決めかねていたヒジェは、それぞれの良いところを尋ねた。
「こちらは、ただ顔の美人揃いなだけです。そしてこちらは広いです。しかし、女の質は劣ります。それから…ああ、ソリという女主人の妓楼が一番宜しいかと存じます。」
「なぜだ?」
「料理がずば抜けて素晴らしい。そして知略に富んだ美人揃い。更に言うと、演奏の上手い下働きの女が居るそうで、その調べはまるで……」
ヒジェは面倒くさそうに手を振ると、適当に頷いた。
「ではその妓楼で。あとは、通訳官を頼んだ」
「かしこまりました。」
奇しくもウォルファが勤める妓楼で接待をすることとなったヒジェは、その足で下見に出掛けた。
「ようこそ、おいでくださいました」
「小さすぎぬか?他の妓楼にしよう」
都や長安の大きな妓楼を見飽きているヒジェにとって、いささかソリの妓楼は小さく思えた。すると主人のソリが直々にやってきて、彼に毅然と言い放った。
「短小精悍 です。お気に召さないなら、代金はお返しします」
ヒジェは目を細めると、妓生にしては媚を売らず、そして教養のあるらしいソリをまじまじと観察し始めた。
──まぁ、ウォルファ程ではないが……悪くない。
彼はソリを見て一目で気に入ると、妓楼での接待の子細を一任することにした。
ヒジェが色々見て回っている最中、絶えず音楽が奏でられていた。その音色のあまりの哀しさに、思わず彼は足を止めた。
「……ソリ、この演奏は一体誰が……」
「これは妓生ではなく、下働きの女が奏でております。」
噂通りの美しい音色に聞き惚れた彼は、すぐに顔立ちを確かめたく思った。だが、流石に事件に発展しかねないと察したソリは、会うことを断った。しかし、なかなかヒジェもしぶとく、せめて御簾越しにでもと言い張ったので、彼女は渋々承知するはめになった。
声を掛けない、触らない、御簾を上げないの条件ですぐ傍まで近づくことを許されたヒジェは、黙ってその旋律に聞き入った。
下働きの女──ウォルファは、一心不乱にヒジェへの思慕を込めながら一音一音を奏でている。それほどに想う人がすぐ目の前に居ることも知らず、彼女は心を痛めながら引き続けた。その命を削ってまで造り出しているかのような旋律に自分の気持ちを重ねたヒジェは、この演奏者がウォルファであれば良いのにと切に願うと、少しだけ御簾の表面に触れてからその場を立ち去るのだった。
次の日、何故かソリからは休暇を、ウンテクから留守番を命じられたウォルファは、久しぶりに疲れた身体を癒していた。実はウンテクから、ヒジェに会わせないために休暇を取らせるようにとソリに頼んでいたのだ。そんなことをつゆも知らない彼女は、すっかり寝込んでしまった母に送るための資金を得るため、書物の写本を始めた。
一方、妓楼では密かにヒジェを見た妓生たちが噂をしていた。
「ねぇ、あの人って……まさか、ウォルファの…」
「確かに!お金持ちで、妹君の王妃様は国一番のお偉いさん──王様の奥さまだし……」
「顔はいいけど髭も変。それに女好き。」
一同は顔を見合わせて頷いた。誰かがこんなことを言い出した。
「ねぇ!ウォルファとあの人を会わせてみれば、わかるんじゃない?」
「それは名案ね!もし人手が足りなくなったりしたら、呼びにいきましょう」
何も知らない彼女たちは、好奇心の混じった親切心で満場一致した。遠目からそれを見ていたソリは、なんの話をしているのか全くわからなかったので、敢えて聞こうともしないのだった。
ウンテクは妓楼に来ていた。ソリの執事の服を借り、すっかり通訳官に成りすました彼は、ヒジェの会合に潜り込んだ。目的はただひとつ。彼の次なる企みを掴み、都へ帰り、妹の心を傷つけた報いを受けさせるためだ。幸いにもヒジェは彼の顔を覚えておらず、ウンテクは幸先よく通訳を始めた。
だが、その後数時間もしないうちに彼の清国語の拙さが現れ始めた。通訳官を父にもつヒジェは、疑いの目線を彼に向け始めた。
「…そなた。本当に通訳官か?」
「え…緊張していただけです。大丈夫ですから」
苛立ったヒジェは、笑顔で扉を指し示し、こう言った。
「もうよい、帰れ。それなら私が話した方がましだ!」
そしてそのまま本当に清国の官吏と直に話始めた。それなら始めから通訳官など呼ぶなと殴りたくなる気持ちを押さえ、ウンテクは計画の失敗に毒づきながら部屋を後にした。
通訳官がなくても話せるとはいえ、体面上良くないと判断したヒジェは、ソリに清国語がわかる者を呼んでこいと命じた。それを聞いた同僚たちは、すぐにウォルファに思い当たった。彼女は写本だけでなく、清国の書物や書類の翻訳もしているからだ。
「ソリさん!私が呼んでくるわ!」
「急いで。チャン様はお怒りだわ」
同僚は走ってウォルファの家にたどり着いた。彼女は何事かと思い、写本の手を止めた。
「急いで妓楼に来て!清国語がわかる人が必要なの。」
「わ、わかったわ。」
客人の前に行くことなのでそこそこましな服に着替えると、ウォルファは少しだけ戸惑ってから、鈴のついたヒジェから貰った紐飾りを身に付けた。
「はやく!!」
「はい!ただいま」
兄の言いつけを破るのは気が引けたが、多少のことなら大丈夫だろうと思ったウォルファは、そのまま家を後にして妓楼に向かった。
そこでまた思慕をぶり返すような再会があるとは知らず……
「ウォルファ!今日も買い出しかい?」
「ええ。いい食材あるかしら?」
彼女は野菜の一つ一つを手にとって眺めた。妓楼で欠かせないのは、おもてなしだけではないということをこの一年で知った彼女は、食材選びからが料理を左右するということも学んだ。
「ああ、何ならあの荷車貸してあげるよ」
「本当?嬉しいわ。ありがとう」
ウォルファは購入した新鮮な野菜のみずみずしい手触りを楽しみながら荷車に積むと、暇そうな兄に声をかけた。
「お兄様!これ、押していって」
「え!?俺が?はぁ…」
流刑の身のため、職にありつけない彼は妹に食べさせてもらっていることを思い出すと、渋々荷車を引きずり始めた。
義州。辺境の地でありながら、そこそこの活気を失っていない珍しい場所だった。まだ一年しか住んでいないが、ウォルファはもうここを気に入り始めていた。妓楼の妓生のお姉さんたちは皆、彼女のことを可愛がってくれるし、何より主人のソリはいつも教養を教えてくれる。
───ああ、ここで生きていくのね。
やや眩しくなりはじめた太陽を見つめながら、彼女はそう微笑んだ。
もちろん、下働きの給料だけで食べていけるはずもなく、ウォルファは他にも清国の言葉で書かれた書物や書類の翻訳、写本なども行っていた。多忙を極める毎日だったが、それをやめようとは思わなかった。
一つは、母が病気で倒れたこと。治療費や生活費を送るために、彼女は仕事にいそしんでいた。そして、もう一つは…
「───ヒジェ様…」
忘れられない愛しい人のことを、無理にでも忘れられるからだ。暇さえあれば、未だに彼女の心はヒジェに蝕まれる。夢にはしょっちゅう現れるし、その度に彼女は涙を流していた。
───けれど、あの方は忘れているわよね。私のことなんて…
ため息をついたウォルファは、地面の土を蹴った。少しだけ、ヒジェのことを考えながら。
一方、チャン・ヒジェは荒れていた。正しくは、未だにウォルファとの不本意な別れかたを引きずっていた。彼は放蕩にますます打ち込むようになり、毎晩女をとっかえひっかえする生活を送っていた。だが、満たされない。一年経てば、忘れられると信じていた。なのに、忘れられない。むしろ、他の女を抱いている最中でも、終わった後でも彼はずっとウォルファのことを考えていた。今日も傍らに愛妾が寝ているにも関わらず、ヒジェはまた彼女の名前を呟いた。
「───ウォルファ……」
「だぁれ、それ」
愛妾──カン・テヒは鋭い瞳でヒジェを見た。
「ああ、何でもない。気にするな」
「お気になさらず、なんて。私が気にしないとでも?」
すねたテヒを面倒くさそうにあしらうと、彼は服を着て妓楼を去ろうとした。
「待って、もう帰るの?」
「俺は妓楼に来てまで機嫌の悪い女を相手はしたくない」
引き留めようとするテヒを振り払い、彼は本当に帰ってしまった。
テヒは都で一番の妓生だ。自分の決めた客しか相手をしないと噂の彼女だったが、ヒジェの後妻を狙って敢えて相手を始めた。だが、それが間違いだった。みるみる誘惑するどころか、深みにはまってしまった彼女は、いつの間にかヒジェを愛してしまっていた。
「…何よ。他の女を重ねて都一の美貌を持つ私を見るなんて。失礼にも程があるわ」
だが、彼女は少しだけ気になった。あれほど気難しく移り気の早いヒジェの心を射止め続ける女性とは一体誰なのか。
───まぁ、どうせどこかの妓生なんでしょうね。
それが西人のお嬢様とは知らないテヒは、適当に決めつけるとヒジェの居なくなった虚しい布団で再び眠りについた。
家に戻ったヒジェは、部屋には戻らず月を眺めた。
──あの月も、俺とあの方を繋いではくれない。
彼はここ一年で、ようやくウォルファに恋していたのではなく、自分が彼女を愛していたことに気づいた。だが知らずに別れるのが早すぎて、知ったときにはもう遅かった。彼は自らウォルファを失ったのだ。今となっては思いを伝えるのも憚られる。
「ウォルファ………会いたい………」
それでも、思慕の念は抑えられない。諦めと絶望にうちひしがれる度に、その想いは膨れ上がり、また絶望によってかき消される。
泡沫のような切ない想いを感じたことがなかった彼は、誰かにそれを向けられないかと必死に代わりを探し続けた。だが、もちろん誰も現れない。
そしてこの日もまた独りで眠りにつくのだった。夢で愛しいウォルファに会えることを考えながら。
「───ウォルファ!」
妓生のソッキョンに起こされ、ウォルファは目を覚ました。
「ええと……私……」
「泣いてたから、起こしてあげたんだけど……」
彼女は起き上がると、うたた寝をしていたことを思い出した。ソッキョンは心配そうに彼女の顔を覗き込んだ。
「……大丈夫?随分前からそのことにはソリさんも気づいていたみたいだけど。何か、都であったの?」
「えっ……?」
ウォルファは図星を突かれて驚いた。
「いえ……べつに……」
「だってあなたって、お嬢様なんでしょ?それがどうしてこんな片田舎に……」
ソッキョンはそこまで言うと、すっかり黙りこんでしまったウォルファの顔をまじまじと見た。そして、それ以上踏み込んではいけない話と悟り、自分の手を彼女の手にそっと添えた。
「……傷が癒えないなら、ここで癒していけばいい。いつか全部思い出に変わるんだ」
「……ありがとう」
───全部思い出に変われば、どれ程幸せなことか。
ウォルファは思慕の念で痛む胸を抑えながら、昼の月を眺めた。かすかに空に引っ掻いたような薄さで浮かび上がる月。二人の恋も、未来も所詮そんなものだったのかもしれない。自分だけが真剣で、相手はそんなに自分を想っていなかったのでは。思えば思うほど、一喜一憂していたあの頃の自分が馬鹿らしく、そしてそんなことに生きる意味を見いだしていた自分がまた愛しくも思えるのだった。
控え室に行くと、いつものように妓生たちが雑談をしていた。今日は男の話らしい。普段通り、適当な相づちをうちながら、ウォルファは会話に参加していた。
「うちのお客の方が素敵よ!」
「あら、そうかしら。あんな贈り物をケチる男が?」
「あのねぇ……」
言い争いをしている二人は、今にも引っ掻きあいを始めそうな勢いだ。ウォルファは慌てて止めに入った。
「あの!落ち着いて下さい。蓼食う虫も好きずきです」
「そういうあんたの蓼はどんなだったの?」
「へっ?」
突然話が飛んできたウォルファは、驚いて一瞬戸惑ってしまった。だが、ここで場の空気を壊す話もしたくなかったので、渋々ヒジェのことを思い出しながら話始めた。
「私の殿方は、とても素敵な方でした。お金持ちで、妹君は国一番の殿方と結婚して……ああ、顔も端正でした。ただ、もみ髭が変でした。あとは、女好きでした」
最後のは褒め言葉ではないだろうと流石に思ったが、皆面白そうに聞いてくれているので、彼女は安心した。
「で、その男とはどこまでしたの?」
「えっ?何を…」
「だから。寝たの?」
率直な質問に彼女はまた戸惑うはめになった。
「あの…それは……ええと………せ、接吻だけです」
「あら、意外に優しい方じゃない。女好きだったんでしょう?普通ならさっさと手を付けて捨てるわよね」
確かに。とウォルファは納得した。なぜ、彼は自分をぞんざいに扱って捨てなかったのか。考えれば考えるほど、彼女は訳がわからなくなってきた。
その後の仕事は一切手につかず、家に帰っても彼女はぼんやりしていた。
──だめだわ。最近またあの人のことを考えてしまう……忘れなきゃ……
何かの前触れのようにヒジェのことを口に出すことが増えてきていた日々に、ウォルファは一抹の不安を覚えながらも、気のせいだと割りきるより外ないと思うのだった。
その頃、ヒジェは旅の支度をしていた。
「清国の官僚に、何としてでも世子冊封を認めて貰わねば。」
「旦那様、既にあちらの長官にはお伝えしておきました。」
ハン執事が彼に手紙を渡した。それに目を通した彼は、顔を上げてこう言った。
「──では、行くとするか。義州に。」
絶ちきられたはずの運命の糸は、確かに繋がっていたのだ。義州でウォルファに再会できるとは、このときの彼はまだ知る由もない。
ある日、ウォルファは町で主人に怒られている使用人に目を留めた。
「───都へ帰してください!!やらなければならないことがあるんです!」
「駄目だ!絶対だめだ。」
「ピョン様!お願いします!」
見覚えのあるその姿に期待を寄せながら近づいてみると、それは確かにトンイだった。ウォルファは脇目もふらず、彼女の名前を呼んだ。
「トンイ!!トンイ!!」
「あ………姉さん!!ウォルファ姉さん!!」
二人は駆け寄ると、抱き合った。再会の喜びが、全身を駆け巡る。
「失踪の原因は知っているけれど、どうやって生き延びたの?」
「話すと長くなりますが、奇跡的に助かりました。私は丈夫ですから。」
ウォルファは微笑むと、トンイの手を取った。亡くなったと思っていた妹代わりの人が生きている。その事だけでも彼女はひとつ生きる意味を思い出せた。
「……姉さんは、どうしてここに?」
「それは……チャン・ヒジェに追われたの。それで今は流刑中の兄と共に生活しているわ」
「そうだったんですか…」
説明を詳しくするとややこしくなってしまうので、適当に省いて語った彼女は、家にトンイを招待した。
「ごめんなさい、あまり良いものがなくて…」
「大丈夫です!姉さんの料理はいつも上手いですから」
手早く料理を作って出したウォルファは、あのときのようにトンイと共に食事をした。変わらないものもある。たったその事実が嬉しくて、彼女は涙を流した。
「どうしたんですか?姉さん。」
「いえ………嬉しいの。都と変わらない瞬間を過ごせることが…」
単に生活を懐かしんでいると解釈したトンイは、ウォルファの背中を叩いて気合いをいれた。
「気弱ですね!一緒に都へ帰りましょうよ!」
「トンイ……ありがとう」
少しだけそんな彼女に力を貰ったウォルファは、小さく頷くと、再び箸を進めた。
その数日後、義州に輿に乗ったチャン・ヒジェの姿があった。どこか無気力そうな顔をしている彼は、しきりに辺りを見回していた。
──どこかにウォルファが居るなら…
すると、向こうから義州の長官が出迎えに近づいてきた。ヒジェは愛想よく対応するために注意をそちらへ向けた。
ちょうどその時だった。彼の隣を買い物目録に目を落として歩くウォルファが通りかかった。だが、お互いに気づく様子はない。なので彼女はそのままどんどん離れていく。ヒジェが話を終えて再び周囲に視線を注ぎ始めたとき、既にウォルファの姿は市場の人混みに溶け込んでしまっていた。そして、彼の方もあり得ないことだと自分に言い聞かせると、そのまま役所へ向かうよう指示をした。
接待先には妓楼が選ばれたのだが、どれにしようか決めかねていたヒジェは、それぞれの良いところを尋ねた。
「こちらは、ただ顔の美人揃いなだけです。そしてこちらは広いです。しかし、女の質は劣ります。それから…ああ、ソリという女主人の妓楼が一番宜しいかと存じます。」
「なぜだ?」
「料理がずば抜けて素晴らしい。そして知略に富んだ美人揃い。更に言うと、演奏の上手い下働きの女が居るそうで、その調べはまるで……」
ヒジェは面倒くさそうに手を振ると、適当に頷いた。
「ではその妓楼で。あとは、通訳官を頼んだ」
「かしこまりました。」
奇しくもウォルファが勤める妓楼で接待をすることとなったヒジェは、その足で下見に出掛けた。
「ようこそ、おいでくださいました」
「小さすぎぬか?他の妓楼にしよう」
都や長安の大きな妓楼を見飽きているヒジェにとって、いささかソリの妓楼は小さく思えた。すると主人のソリが直々にやってきて、彼に毅然と言い放った。
「
ヒジェは目を細めると、妓生にしては媚を売らず、そして教養のあるらしいソリをまじまじと観察し始めた。
──まぁ、ウォルファ程ではないが……悪くない。
彼はソリを見て一目で気に入ると、妓楼での接待の子細を一任することにした。
ヒジェが色々見て回っている最中、絶えず音楽が奏でられていた。その音色のあまりの哀しさに、思わず彼は足を止めた。
「……ソリ、この演奏は一体誰が……」
「これは妓生ではなく、下働きの女が奏でております。」
噂通りの美しい音色に聞き惚れた彼は、すぐに顔立ちを確かめたく思った。だが、流石に事件に発展しかねないと察したソリは、会うことを断った。しかし、なかなかヒジェもしぶとく、せめて御簾越しにでもと言い張ったので、彼女は渋々承知するはめになった。
声を掛けない、触らない、御簾を上げないの条件ですぐ傍まで近づくことを許されたヒジェは、黙ってその旋律に聞き入った。
下働きの女──ウォルファは、一心不乱にヒジェへの思慕を込めながら一音一音を奏でている。それほどに想う人がすぐ目の前に居ることも知らず、彼女は心を痛めながら引き続けた。その命を削ってまで造り出しているかのような旋律に自分の気持ちを重ねたヒジェは、この演奏者がウォルファであれば良いのにと切に願うと、少しだけ御簾の表面に触れてからその場を立ち去るのだった。
次の日、何故かソリからは休暇を、ウンテクから留守番を命じられたウォルファは、久しぶりに疲れた身体を癒していた。実はウンテクから、ヒジェに会わせないために休暇を取らせるようにとソリに頼んでいたのだ。そんなことをつゆも知らない彼女は、すっかり寝込んでしまった母に送るための資金を得るため、書物の写本を始めた。
一方、妓楼では密かにヒジェを見た妓生たちが噂をしていた。
「ねぇ、あの人って……まさか、ウォルファの…」
「確かに!お金持ちで、妹君の王妃様は国一番のお偉いさん──王様の奥さまだし……」
「顔はいいけど髭も変。それに女好き。」
一同は顔を見合わせて頷いた。誰かがこんなことを言い出した。
「ねぇ!ウォルファとあの人を会わせてみれば、わかるんじゃない?」
「それは名案ね!もし人手が足りなくなったりしたら、呼びにいきましょう」
何も知らない彼女たちは、好奇心の混じった親切心で満場一致した。遠目からそれを見ていたソリは、なんの話をしているのか全くわからなかったので、敢えて聞こうともしないのだった。
ウンテクは妓楼に来ていた。ソリの執事の服を借り、すっかり通訳官に成りすました彼は、ヒジェの会合に潜り込んだ。目的はただひとつ。彼の次なる企みを掴み、都へ帰り、妹の心を傷つけた報いを受けさせるためだ。幸いにもヒジェは彼の顔を覚えておらず、ウンテクは幸先よく通訳を始めた。
だが、その後数時間もしないうちに彼の清国語の拙さが現れ始めた。通訳官を父にもつヒジェは、疑いの目線を彼に向け始めた。
「…そなた。本当に通訳官か?」
「え…緊張していただけです。大丈夫ですから」
苛立ったヒジェは、笑顔で扉を指し示し、こう言った。
「もうよい、帰れ。それなら私が話した方がましだ!」
そしてそのまま本当に清国の官吏と直に話始めた。それなら始めから通訳官など呼ぶなと殴りたくなる気持ちを押さえ、ウンテクは計画の失敗に毒づきながら部屋を後にした。
通訳官がなくても話せるとはいえ、体面上良くないと判断したヒジェは、ソリに清国語がわかる者を呼んでこいと命じた。それを聞いた同僚たちは、すぐにウォルファに思い当たった。彼女は写本だけでなく、清国の書物や書類の翻訳もしているからだ。
「ソリさん!私が呼んでくるわ!」
「急いで。チャン様はお怒りだわ」
同僚は走ってウォルファの家にたどり着いた。彼女は何事かと思い、写本の手を止めた。
「急いで妓楼に来て!清国語がわかる人が必要なの。」
「わ、わかったわ。」
客人の前に行くことなのでそこそこましな服に着替えると、ウォルファは少しだけ戸惑ってから、鈴のついたヒジェから貰った紐飾りを身に付けた。
「はやく!!」
「はい!ただいま」
兄の言いつけを破るのは気が引けたが、多少のことなら大丈夫だろうと思ったウォルファは、そのまま家を後にして妓楼に向かった。
そこでまた思慕をぶり返すような再会があるとは知らず……