12、愛の罪
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チャン・ヒジェが触れ文を読んだのは、ステクが血相を抱えて持ち帰ったものに目を通したときだった。
「なん……だと?」
「これはもはや処刑です。出血が止まらねば、お嬢様はどのみち命を落とします」
「駄目だ。駄目だ。」
ウォルファが声を失う。それはつまり、もう二度とあの耳心地の良い自分の名前を呼んでくれる声がなくなるということを意味していた。どれ程、あの声に救われたことか。どれ程その声が彩る言葉のお陰で生きる気力を持てたか。ヒジェにとって、ウォルファの声はただ発声される音ではなく、この世に無くてはならない存在だった。
「嫌だ………嫌だぁ……………俺の………名前をもう………二度と呼んでくれなくなるなど………っ」
───チャン様…
仕事のために居残りをしていたとき、初めて彼女はヒジェの名前を呼んだ。何故あのとき自分が仕事を手伝う気になったのかは全くもって不可思議なものだが、今から考えればもう既に心奪われていたのかもしれない。
──ヒジェ様。
いつからあんな風に呼んでくれるようになったのだろう。ヒジェはウォルファにヒジェと呼ばれるのが好きだった。チャン武官様という名称も嫌いではなかったが、彼は唯一本音を言えるウォルファに、飾らない自分を見せていられるような気がしてその呼び方を好いていた。
彼は怒りを目に宿して、ステクにこう命じた
「──すぐにどこかから捕盗庁の青い武官服と剣を持ってこい。」
「チャン様、それでは………」
「恐らく南人の奴等が義禁府に近づこうとすれば俺を殺すために、刺客や私兵を雇っているはずだ。兵たちも信頼できぬ。」
それはつまり変装して南人の目を欺き、刑が執行される前にウォルファを救いに行くということだった。あまりの無謀さにいつもならステクでさえ止めようとするのだが、今回ばかりはどうにもならなかった。彼はヒジェに再度尋ねた。
「……本当に、宜しいんですね?」
「ああ。俺はあの子を守る。例え党派を裏切っても、あの子を裏切ることは出来ない。きっとウォルファは、心の奥底では待っている。俺が来てくれることを。だから決して裏切らぬ。」
「………承知しました、チャン様」
ステクはヒジェの覚悟を聞くと、一礼して部屋を後にした。残された彼は、目を閉じてすべてがまだ手遅れになっていないことを願いながら、自分が辿ってきた道がいかに逸れてしまったかを嘆くのだった。
手渡された武官服に着替えたヒジェは、ずっと通勤するのに嫌っていた馬に乗って都への道を急いだ。青と黒の武官服が風にはためき、横を過ぎていく全ての人はその凛々しさに思わず見とれた。
「………頼む、間に合ってくれ」
彼は心の中でそう祈ると、馬の腹を蹴り更に加速させた。
その頃、ウォルファの刑執行は刻一刻と近づいていた。刑務官がぼんやりとする彼女に恐る恐る近づくと、こう尋ねた。
「……声を失う前に、誰かに伝えたいことはありますか?」
すると彼女は、力なく笑うとぽつんと独り言のように返事をした。
「………あります…でも、その人は…………来れないわよね」
そう言ってから、ウォルファは再びはっきりとした意思をもって目を見開いた。
「……いいえ、駄目。あの人は………来てはいけない」
「そうですか………」
───お願い、ヒジェ様……来ないで。本当の冷酷なあなたになるのよ。
石畳に手をつき、肩で息をしながらもウォルファはヒジェを想っていた。
その想いも虚しくヒジェは馬を駈り、宮殿のすぐ前にまで来ていた。途中で彼に気づいた私兵たちが何人も襲いかかってきたが、ヒジェは烈火のごとく剣を奮い、見事な剣さばきで並みいる敵を倒していった。
「どけい!どけ!!俺とウォルファの間を阻む奴は殺してやる!死にたければかかってこい!」
それは王宮に入ってからも続いた。至るところに忍ばせてあるらしい刺客がヒジェを狙う。そうしている間についに執行の時間がやって来た。
ウンテクは苦々しい表情でウォルファに宣旨を読み上げた。
「この者シム・ウォルファは、国家を売り私欲に走った礼賓寺署長チャン・ヒジェの逃亡を補助した罪で捕らえられたものの、全く罪の意識が見られない。よって二度と無謀な真似と愚かなことが出来ぬよう、また二度と罪人を慕うような言葉を口に出せぬように、この者の…………」
私情を挟まぬように読み上げていたウンテクの声がつまる。彼はやっとのことで声を絞り出すと、最後の一文を読んだ。
「この者の声帯を切り、その声を奪うことをもってして罪を償うように。」
彼は兄としてウォルファに向き合うと、涙をこらえて尋ねた。
「……ウォルファ、何か言い残したことはあるか」
「私は西人でありながら、ヒジェ様を愛しています。この罪が声で償えるなら、私は喜んでこの声を捧げましょう。ですが、最期にあの人に………あの人にこの声で愛していると、言えないことが残念です」
「……そうか。では、刑を執行せよ」
彼はこれ以上は見ていられないというように目を背けると、そう命じた。震える手で眠り薬の器を持った執行人がやって来る。彼はあまりの同情心から、器を手から滑らせてしまった。その場に乾いた音が響く。
「何をしている。早くせぬか」
「も、申し訳ございません………」
この偶然が思わぬ効を奏した。予定よりも遅れた執行の間を突いて、ヒジェはようやく最後の刺客を倒し終えると、義禁府の門を開いて刑場に颯爽と姿を現した。はじめ、一体何故武官が居るのかと疑問に思っていた一同は、しばらくしてそれが渦中の人、チャン・ヒジェであることに気づいた。ウォルファは薄れ行く意識を呼び戻す空気の変化に絶望しながらゆっくりと振り返った。そこには、ぼやけてはいるものの確かに捕盗庁のあの武官服を着ている、すらっとした背の高い男が一人立っている。彼女ははっきり見えなくてもそれが誰だかすぐにわかった。そして今度は疲労と栄養不足からではなく、涙で視界を歪ませると、望みと力が尽きたようにその場に倒れた。
────だめ、来てはだめ……今すぐ……今すぐ帰るのよ……ヒジェ様…………
声にならない訴えが乾いた息として次いで出る。ヒジェはその思いと裏腹に声高らかに叫んだ。
「───私、チャン・ヒジェはこの女人、シム・ウォルファの無罪を証明すべく参った。触れ文通りなら、これで彼女は解放される。そうであろう?」
彼は堂々と石畳の中央を歩くと、誰の許しも請わずにウォルファに駆け寄って抱き抱えた。
「大丈夫か」
その姿が初めて出会ったとき、或いは証拠を持った彼女が刺客に襲われたときに救ってくれたときのままだったので、彼女は拒む言葉さえ失ってしまった。
「何を言いたいのかはわかる。許せ、愛している。」
声も出せないほどに恐怖を訴えるウォルファを見て、彼は安心させるようにあの時と同じ言葉を口にした。
「───お前は引きずってでも連れて帰る。安心しろ、私が守る」
彼は優しくウォルファの額に口づけすると、今度はまっすぐな眼差しでウンテクを見つめて毅然と言い放った。
「今すぐ俺を捕らえろ。そして彼女を解放しろ」
「………ようやく来たか……」
「酷い真似をするものだ。西人も南人も、そう変わりはないな」
ヒジェに縄がかけられた。ふらつくウォルファはそれでもヒジェから離れようとはしない。
「私も………一緒に罪を受けます………」
「駄目だ、そなたは家に帰るのだ。ここにいてはならない」
ユンはその様子を薄れた意識の中で眺めていた。
──────俺と、貴様、行き着く先は同じか……
一人の女性を愛し、一つの座をかけて闘ったユンとヒジェだったが、結局辿った道の果ては同じだったのだ。
ただ、一つだけ違うものがある。それは、ウォルファの愛があるか、無いか。それだけだった。けれどそれが最も大きな意味を彼らには成していた。
「それだけが………唯一残念なところ…だ」
ユンは力なく笑うと、目を閉じた。彼は少しだけ疲れてしまった。終わりの見えない悪事の道にも、届かない愛の処分にも。
ウォルファは家に帰され、ヒジェは拷問にかけられた。だが、義州でのことや騰録類抄について、彼が吐く様子はない。
「もう一度聞く。調べでは騰録類抄を渡したのはお前だとわかっている。そしてそれを聞いた通訳の者がシム・ウォルファであることも知っている」
「…知らん!俺は……俺から何を聞こうとしても無駄だ。この身が八つ裂きにされようとも、俺にはなにも話すことはない」
「では拷問を続けよ」
縛られた足の間に二本の棒を入れて無理に開かせる周牢(チュリ)では足りないと見たヨンギは、焼きごてを当てるものに変更した。あまりの激痛に耐えかねる受刑者が多い中、ヒジェはうめき声一つあげず、目を赤く腫らしながらも耐えていた。これはらちがあかないとなったため、拷問は中断された。ようやく解放されたヒジェは、意識を失ってもおかしくない状態にも関わらず、まだうわ言のようにウォルファの名を繰り返していた。
「……ウォルファ………ウォルファ………俺の………愛しい………ウォルファ…………」
状況の視察にやって来た粛宗も、ヒジェの凄まじい様子とその意識の持続力に驚嘆した。
「この男はそなたの妹で気力を持たせているというのか?」
「はい。常人の成せる耐久力を越えています」
ウンテクの言葉に顔をしかめた彼は少し考えると、内官に指示を出した。
「……手当てにその娘を遣わせよ。このままでは証言を獲られる前に死んでしまう」
「かしこまりました」
彼はすぐさまウォルファの家に使いを送ると、彼女を義禁府へ呼び出した。内需司の時とは比べ物にはならないくらいに変わり果てたヒジェの姿を目の当たりにした彼女は、文字通り言葉を失った。
「特別に手当てをすることを許可する。」
「……かしこまりました」
牢を開けてもらうや否や、彼女はヒジェのもとに駆け寄った。
「ヒジェ様……しっかりして………」
「ウォルファ………ああ…………そなたが………夢か……」
空を切る彼の手をしっかり握ると、ウォルファはその手を自らの頬に当てた。
「ここです。夢ではありません。私はここよ」
「ウォルファ…………ウォルファ………」
彼は抱き寄せようと身体を起こすために腕をついた。だが、激痛が全身を駆け巡った。
「んあぁっ!」
「動かないで!なんて酷い傷……すぐに手当てするわ」
彼女が手当ての道具に腕を伸ばした。すると、それをヒジェは力強く掴んだ。
「嫌だ………手当てはするな……ずっとここに……ここに居てくれ………終われば、全部夢に…………こんな悲しい夢…………見るのも辛いが、覚めるのはもっと嫌だ……」
「覚めません。どこにいても私はあなたの側に居ます。もし私が居なくなったら、それはヒジェ様の方が夢を見ているんです。ですから安心してください」
まるでこれで終焉だと感じているかのように、ヒジェはウォルファの言葉に従わなかった。むしろ涙を目に溜めてより力強く彼女の腕を離さないようにした。
「嫌だ。夢は覚める。いつか覚めるのだ。目覚めがもうすぐ来る。貸本屋の物語みたいに、俺たちは結ばれたりしない。俺はイ・モンニョンではないし、そなたはチュニャンではない」
「『春香(チュニャン)伝』のモンニョンよりもあなたの方がずっと素敵だわ。それにしても、どうして武官服にしたの?」
手当てを諦め、牢獄の床に寝そべりヒジェの側に寄り添ったウォルファは、彼の輪郭を優しく指先でなぞって尋ねた。すると彼は、ばつが悪そうに答えた。
「…………初めの頃に戻りたかったんだ。どうしても、戻りたかったんだ。出来ないことはわかっていた。でも…それでも戻りたかった……」
目を細めて過去に思いをはせるヒジェの横顔があまりに遠く思え、彼女は見失うのを恐れて同じように昔を思い出した。
「あの頃は、お互いまだ世間知らずだったわね。」
「そうだな。軽い遊び程度の相手だと思っていたら、気がついたら本気の恋をしていた……馬鹿だった。」
ウォルファがまだ幼い頃、初めて都で出会ったとき。そしてまた市場で出会い、二度目には王宮で再会し、今度は偶然にも同じ職場になった。これを運命と言わずして、何を運命というのだろうか。
「本当は、あのとき証拠ごとそなたを殺すつもりだった。だが、出来なかった。その時、俺は本当にそなたをどう思っているかに気づいてしまった。自分で気づいたんだから、自業自得か……」
どう思い起こしても、証拠を持ったウォルファを消さなかったあの時から互いの関係が運命に巻き込まれていったようにしか思えないヒジェは、哀しげに、そしてやや自虐的に微笑んだ。
「そなたは、いつから俺が好きだった?」
「えっ……?いつって………そんなの………」
言葉を濁す彼女の姿を見て、ヒジェはようやく清国から帰国したあの日に出会ったときから自分に心奪われていたことに気づいた。
「そなた……まさか………」
「子供の頃と違ってあんなに最悪な出会い方をしたのに、瞬時に心奪われたと言ったら変なやつになるなと思い、言わなかったんです。」
その表情、声、すべてが愛しく思え、ヒジェは痛む身体も忘れてウォルファの体を抱き寄せた。
「………愛いやつめ」
「そう言われると思ったから言わなかったんです。」
「良いではないか。そういうところが可愛らしいぞ」
弱味を見せたような気がしてどうにも釈然としないウォルファは、ヒジェに背を向けた。すると痛む傷のことなどすっかり忘れてしまった彼は、身体を起こすとウォルファの体を天井に向け、自身はその胸に顔を埋めた。
「……来世は、絶対に平穏な恋をしよう」
「馬鹿ですね。今世頑張らないと、来世は歳の差が離れているかも。いえ、そもそも片方が人間でないかもしれません。蛇とか」
確かに、と思ったヒジェはどうすれば来世になってもウォルファが気づいてくれるかを考えた。すると名案が浮かんだのか、彼は得意気に笑うとこう言った。
「そうだ、短刀だ。あれがあれば、俺だとすぐに気づくな」
「短刀?ああ、お母様が私の代わりにあなたに渡したものね……覚えているわ。」
大将昇進のときに祝いとして渡そうと思っていたあの短刀があれば、お互いを忘れないと本気で思っているヒジェがどうにも子供っぽく、ウォルファは吹き出してしまった。
「来世で短刀を覚えているかは知らないわ。でも、今世でお互いがとっても離ればなれになって姿が分からなくなっても、それなら間違えない。あなたが短刀を持ち続けてくれる限り、きっとどんな姿になっていてもあなただって気づけるわ。」
まるでこれが今生の別れのような気がして、ヒジェは不安を悟られたくない一心で敢えて茶化した。
「ま、その前に声とこの端正な顔立ちで気づくだろうがな…」
「あら、絶対ありえない。どこにでも居る顔してるのに」
「まだいうかそれ………」
二人は顔を見合わせて笑った。あまりにお互いが近すぎて、そしてあまりに遠すぎて。ウォルファは不可解な涙が溢れそうになるのを恐れ、手当てを始めた。その手が暖かくて、ヒジェは唇を震わせながら痛み、喜び、悲しみに耐えた。牢に注ぐ月明かりが彼女を照らし、まるでこの世のものとは思えない美しさを醸し出している。ヒジェは幻でないことを確かめるために、恐る恐る彼女の頬に触れた。その存在が実存すると理解した彼は、小さな窓から見える月を眺めながら呟いた。
「……そなたは、自由になっていい。そなたは鳥なのだからどこへでも行ける。だが、俺は飛べない鳥だ。住む世界が違う。」
ヒジェが何を言おうとしているのかに気づいているウォルファは、聞こえない振りをしている。
「……証言しろ、俺が義州でしたことや、そなたが通訳した全てを。そうすれば、二人の縺れた糸は絶ちきれる」
分かりきっていた言葉でも、いざ聞いてみると耐え難いものだった。彼女は手当てを止めることなく返事をした。
「嫌です。何としてもあなたを助けます。すぐにでも拷問は止めさせます。」
「ウォルファ、俺の辛さではない。そなたの受けるであろう社会的制裁の方が俺は怖いのだ」
珍しく弱気なヒジェに不安を覚えたウォルファは、彼の顔をまじまじと見ると、その瞳の中に確かな恐怖を感じ取った。
「……大丈夫?」
「怖い……怖いんだ………全部失うのが怖くて、俺は努力した。なのに。なのに、俺は全部失うんだ……結局、全てを………」
「失ってなんていないわ。私、わかるの。あなたは何も失っていないわ。私はここにいる。ずっと、あなたの側に…」
彼女はそう言うと、優しくヒジェの頭を肩にあてがった。その優しさがヒジェをある決意に向かわせたことに、彼女はまだ気づいていなかった。
その日、ヒジェはまた拷問を受けていた。横にはウォルファが座らされ、その光景をまじまじと見せつけられていた。
「この男の罪を包み隠さず証言せよ」
「いいえ、言いません。決して」
ここで真実を明らかにすればヒジェの罪は確定し、減刑などは望めなくなる。だが、このままでは彼女自身にも罪が着せられかねない。ヒジェは拷問で疲れきった身体をまっすぐにすると、おもむろに隣のウォルファにしか聞こえないような声で囁き始めた。
「────貴様は利用しやすかった。俺に遊ばれているとも知らずに、ここまで証言を拒んだのだからな。だが、このまま耐えられては俺が死んでしまう。さっさと自白しろ。」
「どうして……?嘘でしょう?そんな嘘をどうして……」
狼狽するウォルファの反応に口の端を歪めて笑うヒジェは続けた。
「まだわからんのか?俺は西人と南人、双方の権力を握りたかったのだ。俺が誰かを愛するわけがない。それに……」
彼は一息おいて、最も衝撃的な言葉を吐いた。
「────お前は俺の好みではない。ヘドが出るほど大嫌いだ」
「ヒジェ様………」
二人の会話は、ヨンギたちには聞こえていない。ウォルファは両目から涙が溢れそうになるのをぐっと堪え、正面を向いて毅然とした態度で座り直した。
「──証言いたします。私は、内需司の横領を告発しようとして殺されかけた者に義州で出会いました。また、同じく廃妃様の無罪を告発しようとした兄は、このチャン・ヒジェにより理不尽な流刑に処されました。そして──私は………」
彼女は振り返ってヒジェの表情を確かめたかった。だが、そうすれば彼の苦し紛れの言い訳が無駄になってしまう。ウォルファはきちんと、ヒジェが何を意図して暴言を吐いているのかに気づいていた。
ヒジェは泣いていた。はたからみればそれは愛した人の心変わりに泣いている男にしか見えない。だが、それは安堵の涙だった。もう二度と愛する人に迷惑をかけずに済む喜びと安心感が、大粒の涙となって彼の目から溢れ出す。
「──私は、義州でこの者の通訳を行いました。そこで確かに、騰録類抄を受け渡すと聞きました。」
ウォルファが言ったことはすぐに書き写され、ヒジェと重臣たちの罪は確定した。
この日チャン・ヒジェは、官職だけでなくもっと大切なものを手放した。
互いに生き残るために、彼は愛を手放した。最も離したくなかったウォルファの手を振り払うことこそが、皮肉にも彼女を救う唯一の手段となったことに、ヒジェはいつまでも獄舎で嗤い続けているのだった。
「ああ───息がしづらい世界だな。そなたを失う道を、俺は自ら選択した……ふふ……はは………はは……」
「だったらなぜ、ここまでした。何故守ってやらなかった!」
隣の牢に入れられたユンが柵越しにヒジェを掴んで叫んだ。彼も泣いていた。彼はウォルファを傷つけたヒジェが許せなかった。
「仕方なかった!こんな身分の俺が誰かを愛して守るには、権力を握るしかなかった!両班のお坊ちゃんのお前とは違う!」
「だったらどうしてもっと早くに手を引かなかった。お前はその権力に妄執した愛のせいで、あの子の人生を壊した。」
ユンのその言葉で、ヒジェは我に返った。自分がしてしまった大罪。それは他でもないウォルファの心を欲したという、彼自身が最も気づきたくなかった罪だった。
「分不相応………お前の叔父が言っていたその言葉の意味が今、ようやく分かった。」
「ああ、そうだ。私にもお前にも、西人のあの子は分不相応だったのだ」
「………抱いたこの人間らしい気持ちも、俺にとっては罪だったと言うのか?」
ユンは黙って静かに頷いた。ヒジェは産まれて初めて、自分がチャン・ヒジェであることを恨んだ。そして、心の底から叫んだ。
「あの子を求める全てが罪なのならば、あの子を想って痛む俺の心なんて要らない!!あの子を探してしまう目なんて要らない!!あの子の名前を呟いてしまう声も口も要らない!!あの子の………」
彼は自分の汚れた手を見て、呟いた。
「あの子の温もりを知っている手なんて………要らない…要らない………」
隣で黙って聞いているユンの目に、何故か涙が浮かんだ。そしてヒジェは懐からあの紐飾りを取りだし、月明かりにかざして尋ねた。
「……だが、何故まだ消えない。何故まだこの心は、身体はあの子を求める?何故だ……何故だぁあ!!!」
その絶叫は、獄舎からはるか離れた家に居るウォルファには届かなかった。だが、絶ちきれない想いはいつまでも二人を結びつけて止まないのだった。
「なん……だと?」
「これはもはや処刑です。出血が止まらねば、お嬢様はどのみち命を落とします」
「駄目だ。駄目だ。」
ウォルファが声を失う。それはつまり、もう二度とあの耳心地の良い自分の名前を呼んでくれる声がなくなるということを意味していた。どれ程、あの声に救われたことか。どれ程その声が彩る言葉のお陰で生きる気力を持てたか。ヒジェにとって、ウォルファの声はただ発声される音ではなく、この世に無くてはならない存在だった。
「嫌だ………嫌だぁ……………俺の………名前をもう………二度と呼んでくれなくなるなど………っ」
───チャン様…
仕事のために居残りをしていたとき、初めて彼女はヒジェの名前を呼んだ。何故あのとき自分が仕事を手伝う気になったのかは全くもって不可思議なものだが、今から考えればもう既に心奪われていたのかもしれない。
──ヒジェ様。
いつからあんな風に呼んでくれるようになったのだろう。ヒジェはウォルファにヒジェと呼ばれるのが好きだった。チャン武官様という名称も嫌いではなかったが、彼は唯一本音を言えるウォルファに、飾らない自分を見せていられるような気がしてその呼び方を好いていた。
彼は怒りを目に宿して、ステクにこう命じた
「──すぐにどこかから捕盗庁の青い武官服と剣を持ってこい。」
「チャン様、それでは………」
「恐らく南人の奴等が義禁府に近づこうとすれば俺を殺すために、刺客や私兵を雇っているはずだ。兵たちも信頼できぬ。」
それはつまり変装して南人の目を欺き、刑が執行される前にウォルファを救いに行くということだった。あまりの無謀さにいつもならステクでさえ止めようとするのだが、今回ばかりはどうにもならなかった。彼はヒジェに再度尋ねた。
「……本当に、宜しいんですね?」
「ああ。俺はあの子を守る。例え党派を裏切っても、あの子を裏切ることは出来ない。きっとウォルファは、心の奥底では待っている。俺が来てくれることを。だから決して裏切らぬ。」
「………承知しました、チャン様」
ステクはヒジェの覚悟を聞くと、一礼して部屋を後にした。残された彼は、目を閉じてすべてがまだ手遅れになっていないことを願いながら、自分が辿ってきた道がいかに逸れてしまったかを嘆くのだった。
手渡された武官服に着替えたヒジェは、ずっと通勤するのに嫌っていた馬に乗って都への道を急いだ。青と黒の武官服が風にはためき、横を過ぎていく全ての人はその凛々しさに思わず見とれた。
「………頼む、間に合ってくれ」
彼は心の中でそう祈ると、馬の腹を蹴り更に加速させた。
その頃、ウォルファの刑執行は刻一刻と近づいていた。刑務官がぼんやりとする彼女に恐る恐る近づくと、こう尋ねた。
「……声を失う前に、誰かに伝えたいことはありますか?」
すると彼女は、力なく笑うとぽつんと独り言のように返事をした。
「………あります…でも、その人は…………来れないわよね」
そう言ってから、ウォルファは再びはっきりとした意思をもって目を見開いた。
「……いいえ、駄目。あの人は………来てはいけない」
「そうですか………」
───お願い、ヒジェ様……来ないで。本当の冷酷なあなたになるのよ。
石畳に手をつき、肩で息をしながらもウォルファはヒジェを想っていた。
その想いも虚しくヒジェは馬を駈り、宮殿のすぐ前にまで来ていた。途中で彼に気づいた私兵たちが何人も襲いかかってきたが、ヒジェは烈火のごとく剣を奮い、見事な剣さばきで並みいる敵を倒していった。
「どけい!どけ!!俺とウォルファの間を阻む奴は殺してやる!死にたければかかってこい!」
それは王宮に入ってからも続いた。至るところに忍ばせてあるらしい刺客がヒジェを狙う。そうしている間についに執行の時間がやって来た。
ウンテクは苦々しい表情でウォルファに宣旨を読み上げた。
「この者シム・ウォルファは、国家を売り私欲に走った礼賓寺署長チャン・ヒジェの逃亡を補助した罪で捕らえられたものの、全く罪の意識が見られない。よって二度と無謀な真似と愚かなことが出来ぬよう、また二度と罪人を慕うような言葉を口に出せぬように、この者の…………」
私情を挟まぬように読み上げていたウンテクの声がつまる。彼はやっとのことで声を絞り出すと、最後の一文を読んだ。
「この者の声帯を切り、その声を奪うことをもってして罪を償うように。」
彼は兄としてウォルファに向き合うと、涙をこらえて尋ねた。
「……ウォルファ、何か言い残したことはあるか」
「私は西人でありながら、ヒジェ様を愛しています。この罪が声で償えるなら、私は喜んでこの声を捧げましょう。ですが、最期にあの人に………あの人にこの声で愛していると、言えないことが残念です」
「……そうか。では、刑を執行せよ」
彼はこれ以上は見ていられないというように目を背けると、そう命じた。震える手で眠り薬の器を持った執行人がやって来る。彼はあまりの同情心から、器を手から滑らせてしまった。その場に乾いた音が響く。
「何をしている。早くせぬか」
「も、申し訳ございません………」
この偶然が思わぬ効を奏した。予定よりも遅れた執行の間を突いて、ヒジェはようやく最後の刺客を倒し終えると、義禁府の門を開いて刑場に颯爽と姿を現した。はじめ、一体何故武官が居るのかと疑問に思っていた一同は、しばらくしてそれが渦中の人、チャン・ヒジェであることに気づいた。ウォルファは薄れ行く意識を呼び戻す空気の変化に絶望しながらゆっくりと振り返った。そこには、ぼやけてはいるものの確かに捕盗庁のあの武官服を着ている、すらっとした背の高い男が一人立っている。彼女ははっきり見えなくてもそれが誰だかすぐにわかった。そして今度は疲労と栄養不足からではなく、涙で視界を歪ませると、望みと力が尽きたようにその場に倒れた。
────だめ、来てはだめ……今すぐ……今すぐ帰るのよ……ヒジェ様…………
声にならない訴えが乾いた息として次いで出る。ヒジェはその思いと裏腹に声高らかに叫んだ。
「───私、チャン・ヒジェはこの女人、シム・ウォルファの無罪を証明すべく参った。触れ文通りなら、これで彼女は解放される。そうであろう?」
彼は堂々と石畳の中央を歩くと、誰の許しも請わずにウォルファに駆け寄って抱き抱えた。
「大丈夫か」
その姿が初めて出会ったとき、或いは証拠を持った彼女が刺客に襲われたときに救ってくれたときのままだったので、彼女は拒む言葉さえ失ってしまった。
「何を言いたいのかはわかる。許せ、愛している。」
声も出せないほどに恐怖を訴えるウォルファを見て、彼は安心させるようにあの時と同じ言葉を口にした。
「───お前は引きずってでも連れて帰る。安心しろ、私が守る」
彼は優しくウォルファの額に口づけすると、今度はまっすぐな眼差しでウンテクを見つめて毅然と言い放った。
「今すぐ俺を捕らえろ。そして彼女を解放しろ」
「………ようやく来たか……」
「酷い真似をするものだ。西人も南人も、そう変わりはないな」
ヒジェに縄がかけられた。ふらつくウォルファはそれでもヒジェから離れようとはしない。
「私も………一緒に罪を受けます………」
「駄目だ、そなたは家に帰るのだ。ここにいてはならない」
ユンはその様子を薄れた意識の中で眺めていた。
──────俺と、貴様、行き着く先は同じか……
一人の女性を愛し、一つの座をかけて闘ったユンとヒジェだったが、結局辿った道の果ては同じだったのだ。
ただ、一つだけ違うものがある。それは、ウォルファの愛があるか、無いか。それだけだった。けれどそれが最も大きな意味を彼らには成していた。
「それだけが………唯一残念なところ…だ」
ユンは力なく笑うと、目を閉じた。彼は少しだけ疲れてしまった。終わりの見えない悪事の道にも、届かない愛の処分にも。
ウォルファは家に帰され、ヒジェは拷問にかけられた。だが、義州でのことや騰録類抄について、彼が吐く様子はない。
「もう一度聞く。調べでは騰録類抄を渡したのはお前だとわかっている。そしてそれを聞いた通訳の者がシム・ウォルファであることも知っている」
「…知らん!俺は……俺から何を聞こうとしても無駄だ。この身が八つ裂きにされようとも、俺にはなにも話すことはない」
「では拷問を続けよ」
縛られた足の間に二本の棒を入れて無理に開かせる周牢(チュリ)では足りないと見たヨンギは、焼きごてを当てるものに変更した。あまりの激痛に耐えかねる受刑者が多い中、ヒジェはうめき声一つあげず、目を赤く腫らしながらも耐えていた。これはらちがあかないとなったため、拷問は中断された。ようやく解放されたヒジェは、意識を失ってもおかしくない状態にも関わらず、まだうわ言のようにウォルファの名を繰り返していた。
「……ウォルファ………ウォルファ………俺の………愛しい………ウォルファ…………」
状況の視察にやって来た粛宗も、ヒジェの凄まじい様子とその意識の持続力に驚嘆した。
「この男はそなたの妹で気力を持たせているというのか?」
「はい。常人の成せる耐久力を越えています」
ウンテクの言葉に顔をしかめた彼は少し考えると、内官に指示を出した。
「……手当てにその娘を遣わせよ。このままでは証言を獲られる前に死んでしまう」
「かしこまりました」
彼はすぐさまウォルファの家に使いを送ると、彼女を義禁府へ呼び出した。内需司の時とは比べ物にはならないくらいに変わり果てたヒジェの姿を目の当たりにした彼女は、文字通り言葉を失った。
「特別に手当てをすることを許可する。」
「……かしこまりました」
牢を開けてもらうや否や、彼女はヒジェのもとに駆け寄った。
「ヒジェ様……しっかりして………」
「ウォルファ………ああ…………そなたが………夢か……」
空を切る彼の手をしっかり握ると、ウォルファはその手を自らの頬に当てた。
「ここです。夢ではありません。私はここよ」
「ウォルファ…………ウォルファ………」
彼は抱き寄せようと身体を起こすために腕をついた。だが、激痛が全身を駆け巡った。
「んあぁっ!」
「動かないで!なんて酷い傷……すぐに手当てするわ」
彼女が手当ての道具に腕を伸ばした。すると、それをヒジェは力強く掴んだ。
「嫌だ………手当てはするな……ずっとここに……ここに居てくれ………終われば、全部夢に…………こんな悲しい夢…………見るのも辛いが、覚めるのはもっと嫌だ……」
「覚めません。どこにいても私はあなたの側に居ます。もし私が居なくなったら、それはヒジェ様の方が夢を見ているんです。ですから安心してください」
まるでこれで終焉だと感じているかのように、ヒジェはウォルファの言葉に従わなかった。むしろ涙を目に溜めてより力強く彼女の腕を離さないようにした。
「嫌だ。夢は覚める。いつか覚めるのだ。目覚めがもうすぐ来る。貸本屋の物語みたいに、俺たちは結ばれたりしない。俺はイ・モンニョンではないし、そなたはチュニャンではない」
「『春香(チュニャン)伝』のモンニョンよりもあなたの方がずっと素敵だわ。それにしても、どうして武官服にしたの?」
手当てを諦め、牢獄の床に寝そべりヒジェの側に寄り添ったウォルファは、彼の輪郭を優しく指先でなぞって尋ねた。すると彼は、ばつが悪そうに答えた。
「…………初めの頃に戻りたかったんだ。どうしても、戻りたかったんだ。出来ないことはわかっていた。でも…それでも戻りたかった……」
目を細めて過去に思いをはせるヒジェの横顔があまりに遠く思え、彼女は見失うのを恐れて同じように昔を思い出した。
「あの頃は、お互いまだ世間知らずだったわね。」
「そうだな。軽い遊び程度の相手だと思っていたら、気がついたら本気の恋をしていた……馬鹿だった。」
ウォルファがまだ幼い頃、初めて都で出会ったとき。そしてまた市場で出会い、二度目には王宮で再会し、今度は偶然にも同じ職場になった。これを運命と言わずして、何を運命というのだろうか。
「本当は、あのとき証拠ごとそなたを殺すつもりだった。だが、出来なかった。その時、俺は本当にそなたをどう思っているかに気づいてしまった。自分で気づいたんだから、自業自得か……」
どう思い起こしても、証拠を持ったウォルファを消さなかったあの時から互いの関係が運命に巻き込まれていったようにしか思えないヒジェは、哀しげに、そしてやや自虐的に微笑んだ。
「そなたは、いつから俺が好きだった?」
「えっ……?いつって………そんなの………」
言葉を濁す彼女の姿を見て、ヒジェはようやく清国から帰国したあの日に出会ったときから自分に心奪われていたことに気づいた。
「そなた……まさか………」
「子供の頃と違ってあんなに最悪な出会い方をしたのに、瞬時に心奪われたと言ったら変なやつになるなと思い、言わなかったんです。」
その表情、声、すべてが愛しく思え、ヒジェは痛む身体も忘れてウォルファの体を抱き寄せた。
「………愛いやつめ」
「そう言われると思ったから言わなかったんです。」
「良いではないか。そういうところが可愛らしいぞ」
弱味を見せたような気がしてどうにも釈然としないウォルファは、ヒジェに背を向けた。すると痛む傷のことなどすっかり忘れてしまった彼は、身体を起こすとウォルファの体を天井に向け、自身はその胸に顔を埋めた。
「……来世は、絶対に平穏な恋をしよう」
「馬鹿ですね。今世頑張らないと、来世は歳の差が離れているかも。いえ、そもそも片方が人間でないかもしれません。蛇とか」
確かに、と思ったヒジェはどうすれば来世になってもウォルファが気づいてくれるかを考えた。すると名案が浮かんだのか、彼は得意気に笑うとこう言った。
「そうだ、短刀だ。あれがあれば、俺だとすぐに気づくな」
「短刀?ああ、お母様が私の代わりにあなたに渡したものね……覚えているわ。」
大将昇進のときに祝いとして渡そうと思っていたあの短刀があれば、お互いを忘れないと本気で思っているヒジェがどうにも子供っぽく、ウォルファは吹き出してしまった。
「来世で短刀を覚えているかは知らないわ。でも、今世でお互いがとっても離ればなれになって姿が分からなくなっても、それなら間違えない。あなたが短刀を持ち続けてくれる限り、きっとどんな姿になっていてもあなただって気づけるわ。」
まるでこれが今生の別れのような気がして、ヒジェは不安を悟られたくない一心で敢えて茶化した。
「ま、その前に声とこの端正な顔立ちで気づくだろうがな…」
「あら、絶対ありえない。どこにでも居る顔してるのに」
「まだいうかそれ………」
二人は顔を見合わせて笑った。あまりにお互いが近すぎて、そしてあまりに遠すぎて。ウォルファは不可解な涙が溢れそうになるのを恐れ、手当てを始めた。その手が暖かくて、ヒジェは唇を震わせながら痛み、喜び、悲しみに耐えた。牢に注ぐ月明かりが彼女を照らし、まるでこの世のものとは思えない美しさを醸し出している。ヒジェは幻でないことを確かめるために、恐る恐る彼女の頬に触れた。その存在が実存すると理解した彼は、小さな窓から見える月を眺めながら呟いた。
「……そなたは、自由になっていい。そなたは鳥なのだからどこへでも行ける。だが、俺は飛べない鳥だ。住む世界が違う。」
ヒジェが何を言おうとしているのかに気づいているウォルファは、聞こえない振りをしている。
「……証言しろ、俺が義州でしたことや、そなたが通訳した全てを。そうすれば、二人の縺れた糸は絶ちきれる」
分かりきっていた言葉でも、いざ聞いてみると耐え難いものだった。彼女は手当てを止めることなく返事をした。
「嫌です。何としてもあなたを助けます。すぐにでも拷問は止めさせます。」
「ウォルファ、俺の辛さではない。そなたの受けるであろう社会的制裁の方が俺は怖いのだ」
珍しく弱気なヒジェに不安を覚えたウォルファは、彼の顔をまじまじと見ると、その瞳の中に確かな恐怖を感じ取った。
「……大丈夫?」
「怖い……怖いんだ………全部失うのが怖くて、俺は努力した。なのに。なのに、俺は全部失うんだ……結局、全てを………」
「失ってなんていないわ。私、わかるの。あなたは何も失っていないわ。私はここにいる。ずっと、あなたの側に…」
彼女はそう言うと、優しくヒジェの頭を肩にあてがった。その優しさがヒジェをある決意に向かわせたことに、彼女はまだ気づいていなかった。
その日、ヒジェはまた拷問を受けていた。横にはウォルファが座らされ、その光景をまじまじと見せつけられていた。
「この男の罪を包み隠さず証言せよ」
「いいえ、言いません。決して」
ここで真実を明らかにすればヒジェの罪は確定し、減刑などは望めなくなる。だが、このままでは彼女自身にも罪が着せられかねない。ヒジェは拷問で疲れきった身体をまっすぐにすると、おもむろに隣のウォルファにしか聞こえないような声で囁き始めた。
「────貴様は利用しやすかった。俺に遊ばれているとも知らずに、ここまで証言を拒んだのだからな。だが、このまま耐えられては俺が死んでしまう。さっさと自白しろ。」
「どうして……?嘘でしょう?そんな嘘をどうして……」
狼狽するウォルファの反応に口の端を歪めて笑うヒジェは続けた。
「まだわからんのか?俺は西人と南人、双方の権力を握りたかったのだ。俺が誰かを愛するわけがない。それに……」
彼は一息おいて、最も衝撃的な言葉を吐いた。
「────お前は俺の好みではない。ヘドが出るほど大嫌いだ」
「ヒジェ様………」
二人の会話は、ヨンギたちには聞こえていない。ウォルファは両目から涙が溢れそうになるのをぐっと堪え、正面を向いて毅然とした態度で座り直した。
「──証言いたします。私は、内需司の横領を告発しようとして殺されかけた者に義州で出会いました。また、同じく廃妃様の無罪を告発しようとした兄は、このチャン・ヒジェにより理不尽な流刑に処されました。そして──私は………」
彼女は振り返ってヒジェの表情を確かめたかった。だが、そうすれば彼の苦し紛れの言い訳が無駄になってしまう。ウォルファはきちんと、ヒジェが何を意図して暴言を吐いているのかに気づいていた。
ヒジェは泣いていた。はたからみればそれは愛した人の心変わりに泣いている男にしか見えない。だが、それは安堵の涙だった。もう二度と愛する人に迷惑をかけずに済む喜びと安心感が、大粒の涙となって彼の目から溢れ出す。
「──私は、義州でこの者の通訳を行いました。そこで確かに、騰録類抄を受け渡すと聞きました。」
ウォルファが言ったことはすぐに書き写され、ヒジェと重臣たちの罪は確定した。
この日チャン・ヒジェは、官職だけでなくもっと大切なものを手放した。
互いに生き残るために、彼は愛を手放した。最も離したくなかったウォルファの手を振り払うことこそが、皮肉にも彼女を救う唯一の手段となったことに、ヒジェはいつまでも獄舎で嗤い続けているのだった。
「ああ───息がしづらい世界だな。そなたを失う道を、俺は自ら選択した……ふふ……はは………はは……」
「だったらなぜ、ここまでした。何故守ってやらなかった!」
隣の牢に入れられたユンが柵越しにヒジェを掴んで叫んだ。彼も泣いていた。彼はウォルファを傷つけたヒジェが許せなかった。
「仕方なかった!こんな身分の俺が誰かを愛して守るには、権力を握るしかなかった!両班のお坊ちゃんのお前とは違う!」
「だったらどうしてもっと早くに手を引かなかった。お前はその権力に妄執した愛のせいで、あの子の人生を壊した。」
ユンのその言葉で、ヒジェは我に返った。自分がしてしまった大罪。それは他でもないウォルファの心を欲したという、彼自身が最も気づきたくなかった罪だった。
「分不相応………お前の叔父が言っていたその言葉の意味が今、ようやく分かった。」
「ああ、そうだ。私にもお前にも、西人のあの子は分不相応だったのだ」
「………抱いたこの人間らしい気持ちも、俺にとっては罪だったと言うのか?」
ユンは黙って静かに頷いた。ヒジェは産まれて初めて、自分がチャン・ヒジェであることを恨んだ。そして、心の底から叫んだ。
「あの子を求める全てが罪なのならば、あの子を想って痛む俺の心なんて要らない!!あの子を探してしまう目なんて要らない!!あの子の名前を呟いてしまう声も口も要らない!!あの子の………」
彼は自分の汚れた手を見て、呟いた。
「あの子の温もりを知っている手なんて………要らない…要らない………」
隣で黙って聞いているユンの目に、何故か涙が浮かんだ。そしてヒジェは懐からあの紐飾りを取りだし、月明かりにかざして尋ねた。
「……だが、何故まだ消えない。何故まだこの心は、身体はあの子を求める?何故だ……何故だぁあ!!!」
その絶叫は、獄舎からはるか離れた家に居るウォルファには届かなかった。だが、絶ちきれない想いはいつまでも二人を結びつけて止まないのだった。