10、運命の分かれ道
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ウンテクはようやく王の許しを得て家に帰ることができた。彼は病室で談笑している母に駆け寄ると、子供のように抱きついた。
「母上!母上!!私です、ウンテクです」
「ウンテク!!息子よ、帰ってきたのね?ああ、夢のよう。」
彼は手紙の内容とは違って元気な母の姿に気になることがあった。
「母上、一体どうやって回復されたのですか?危篤だと聞きましたが……」
「お前も驚くと思うわ。あのチャン・ヒジェ様が売り払った私たちの家を買い戻し、うちの面倒まで見てくれたのよ。貴重で手に入らないと言われていた薬も、あの方が探してくれたのよ。全部ウォルファへの愛情からの行為だとすぐにわかったわ。とてもいい人なのよ」
その事実にウンテクは愕然とした。
───あの、チャン・ヒジェが?妹のために大枚はたいて尽くした……?
「そ、それには何か要求されませんでしたか?」
「いえ、何も。ただあの方はウォルファが笑顔であればそれで幸せだと言っていましたよ。」
究極の愛の形に、彼は言葉を失った。あれほどに冷酷で無慈悲な男が、たった一人の女性への愛だけで変わるとは。とても信じられなかった。そしてそのことを考えると、もう本物の騰録類抄を渡してやりたいとも思う自分がどこかに居た。それで平穏が訪れるなら、どれ程に楽な話か。
───それでは、終わらない。もうそんな子供だましのやりとりでは終わらない政争になっているのだ。どちらかの党派が倒れるまで終わらない。
「母上、あいつはそんな男ではありませんよ。妹を利用しようとしているのです」
「いいえ、違うわ。本当に優しい人なのよ!自分の力だけで政治に生き残ろうと努力している人よ。そんなことを言っては可哀想よ……」
「いけません!あの子のためを思うなら、今すぐにヒジェと引き離してください。近々大きなことが起きます。そこにウォルファも義州で偶然的に関わっています。ですから、巻き込みたくなければ今すぐにチャン・ヒジェとの接触を断ってください」
その声を聞いたウォルファは、部屋の外から立ち聞きをしていた。息を殺して一部始終を聞いた彼女は、騰録類抄というものが国家機密書で、ヒジェが国禁を犯す大罪をはたらいたのだと知った。もしそれが発覚すれば、間違いなく極刑は免れない。
───本物は、どこにあるの?
ヒジェが本物を使節団に渡していないのならば、偽物であることを利用されて脅されている可能性もある。ウォルファは急いで彼の元へ向かった。
案の定、ヒジェは青ざめた顔で署長室にこもっていた。彼女は何も言わず、ただ彼にだきついた。
「───とうとうそなたも気づいたのか。騰録類抄と俺、そして世子承認のからくりの正体に」
「……他の方法は無かったの?今からでも間に合うわ。すべてを明らかにし、清国側が無茶な条件を突きつけてきたと王様に言えば…」
「そんなことをすれば南人は終わりだ!それどころか国際問題に発展する」
彼は思わずきつい口調で言ってしまったことを後悔した。それはウォルファの表情をみればわかる。彼女は大粒の涙を流していた。
「………わかったわ。あなたという人が、もう戻ってこれないことがよくわかった。それに私はそちら側には留まれない。」
「見なかったことにしろ。この件にそなたは関わっていない。そうすれば安全だ」
彼女のことを思い冷たく突き放しているつもりだが、ヒジェの声は震えていた。そんな彼を見て、やはりウォルファは見捨てることが出来なかった。
「でも……でも、やっぱり無理よ。あなたを見捨てるなんて。無理に決まっている。例えあなたという華の影になってもいい。一生あなたの側に居られるなら、そうしたい。私もあなたと共に生きたいの」
「綺麗事で政治はやっていけない。俺についていけないなら、目の前から今すぐに消えろ」
その言葉が本心からでないとウォルファは言い切ることが出来なかったので、不安と悲しみに目を見開いた。ヒジェはもちろんこれで良いのだという表情をしながら、部屋を後にした。残された彼女は、ただ呆然と立ち尽くすしか出来なかった。
ぼんやり帰路を辿っていると、往来の端で困り果てているテヒを見かけた。ウォルファは同じヒジェを慕う者として親しみを感じると、躊躇もせずに隣に歩み寄って声をかけた。
「どうしたの?」
「ああ、あなたね。困っちゃったわ、飾りが取れてしまって……修理にも出せないの」
「妓楼には何か道具はありませんか?あれば直せますけれど」
その提案にテヒは驚いた。あれほどに困らせたにもかかわらず優しいウォルファに、嫉妬どころかあきれてしまう。そんな彼女にウォルファは微笑んだ。
「はい。私、お人好しなんです。どうしようもないくらいのお人好しなんです。」
「そんなだと、男に騙されるわよ。私もあなたも、ヒジェに利用されているだけなのよ」
「テヒさんは、利用されていてもお側に居たいとは思わないのですか?」
その質問でテヒは全ての敗因を悟った。最大の敗因は、ウォルファの愛があまりに度が過ぎるほどに大きすぎるからなのだ。彼女は笑いながらこう言った。
「嫌よ、利用されるなんて。私は自由なんだから」
「その自由さえも、私はあの方に捧げてしまいました。誰かを命懸けで慕うとは、すべてを代償として捧げることのようです。」
「………馬鹿みたい。」
「私も馬鹿だと思います。でも、あの人の悪事を見過ごせない自分も居ます。それがいっそあの人を裏切ってしまえば楽だと微笑みを浮かべているんです」
いつのまにかテヒとウォルファは飾りを直すことも忘れて、石段に並んで座っていた。
「じゃあ、やめればいいじゃない。あんなクソ男忘れて、早く別の人と結婚しな」
「でも、ヒジェ様は独りぼっちなんです。あの人はこの国で一番孤独な方なんです。」
それにはテヒも同感だった。ヒジェは孤独な男だった。どうしうもなく孤独な男だった。けれどその悲しみと孤独を埋められるのは、自分ではなかった。
「………あなたしかいない。ヒジェを満たせるのは、あなただけなのよ。どうしうもなく孤独なあいつを満たせるのは、あんただけ」
「……ごめんなさい」
ウォルファは何故か謝った。側に居られる資格を望むテヒを前にして、自分はなんて酷いことを言っているのだろう、そう感じていた。
「いいのよ。あいつはあなたを得るためには何でもする。そんな恐ろしい男だから、私には手におえないのよ。自分の専門を離れた男なんて、もうどうしようもないんだから。それに、私は………」
彼女は空を仰ぎ、呟いた。
「私は、あの人にこんな孤独の中で死んでほしくない」
「テヒさん…………」
ウォルファはその横顔があまりにも悲しく、励まそうと思って彼女の背中を思いきり叩いた。
「痛っ!!!あんた、何するの!」
飛び上がったテヒは、ウォルファを睨み付けた。だが彼女は笑っている。
「元気だして下さいよ。テヒさんは独りじゃありませんよ。私が友達になります!」
「は?友達?あんたどこまでお人好しなのよ………」
呆れて否定も出来ない彼女は結局、ウォルファと成り行きで友達になってしまうのだった。
妓楼に帰ったテヒは、ウォルファが直してくれた飾りを見ながら無意識に微笑みを浮かべていた。
「あら、テヒさん。どうしてそんなに嬉しそうなの?」
「え?あ……べ、別に!飾りが直って嬉しいだけよ」
本当は、友達ができたことに喜びを感じていた。にやける口許を自分で叩いていつもの冷静な顔を作ると、テヒは接客へ向かった。
一方ウォルファは、決意を込めた眼差しで芙蓉堂へ来ていた。彼女はトンイに会うと、兄と西人の計画に協力しようと申し出た。突然の言葉に驚いたトンイは、最初彼女がヒジェに密偵として遣わされたのではないかとさえ疑った。だが、その表情があまりに真剣だったため、彼女はウォルファを信じようと思い、騰録類抄を取り出して机の上に置いた。
「ウォルファ姉さんが通訳した通り、清国の方はこれを要求しています。そして、チャン・ヒジェはここにこれがあることを気づいています。明日、宴が開かれますよね」
「はい。そこで王妃様が尚宮様の命を狙うのではと考えている者が多いようですが」
「そうです。私たちは逆にそれを利用します。芙蓉堂の警備を減らし、わざと騰録類抄を盗ませます。そして、チャン・ヒジェたちが清国の者たちに渡している現場をおさえ、動かぬ証拠を得た上で逮捕するのです」
完璧な作戦に、ウォルファは身震いを覚えた。だが、今更引き返すわけにはいかない。彼女は小さく、しかし意思を持ってうなずいた。
こうして、彼女とヒジェの運命は大きく離れていくことになるのだった。だがそれでも引き合い続けるのは、もはや運命の悪戯としか言い様のないことである。
宴の日、ウォルファはヒジェに会わぬように自室にこもっていた。すると、ステクがチェリョンと共に手紙を持ってきた。彼女は誰からのものであるかを知っていたので、そのまま机の引き出しに無造作に突っ込むと、机に突っ伏した。だが、その日の夕方にもまた手紙が同じように届いた。彼女はまたそれを引き出しに入れた。そしてその日の夜にも手紙は届いた。彼女はまたしてもそれを読まずに引き出しに入れた。
そんなことが何日も続いたある日、とうとう手紙は来なくなった。その代わり、今度はウンテクが慌ただしく何かの計画を実行するために動いていた。ウォルファはヒジェがとうとう捕まる頃かと思うと、何故だかまた胸が苦しくなった。そして、彼女はとうとう送りつけられたヒジェからの手紙を一枚ずつ開いた。
『愛しいウォルファへ
どうせそなたは私の手紙なんて読むつもりは無かったのだろうな。けれどようやく読んでくれたのか、ありがとう。俺はずっと、どれが正しい道なのかをわかっていなかった。どんな手段を使ってでも欲しいものは手に入れるし、出来ないことは何一つなかった。だがそんな俺に、そなたは気づかせてくれた。本当に大切なものは、単純な方法でないと留め置けないと。俺は今更気づいた。今更もう引き返せない。だから、本当に大切なものを置いていく。許してほしい。あんな風にしか突き放せなかった俺を憎んで、恨んで、心の中で何度も殺してくれて良い。忘れてほしい。
あなたのことを一番愛するヒジェより』
「何よ………これ……………こんなの…………」
───ずるいじゃない。
その後の手紙には内需司での横領で誰を捨て、誰を手にかけたのかや、義州で本当は何をしていたのかや、トンイや西人の者たちにしてきたこと、そして自分がどれ程女好きのどうしようもない放蕩息子だったかを延々と書き連ねていた。ウォルファは字を目で追う度に、溢れ出す止めどない涙が悲しみの堰を切るのを感じていた。
「───嫌われたいなら、もう少しましな文句の一つでも書けば良いのに……」
彼女はヒジェが作ってくれた紐細工を眺めながら、そう呟いた。
「……愛してる。愛しているわ。どうしようもなく、愛してる」
何度も届かぬ思いを繰り返した。そうしているうちに、ウォルファの部屋に捕盗庁のファン武官たちを連れたウンテクが現れた。彼は彼女を納屋に連れていくと、見張るように命じた。ウォルファは声の限りに叫んだ。
「どうして?私が怖いの?私がヒジェを救うかもしれないと思っているの?なんの力もない小娘なのに」
「お前はあいつに心奪われている。どんな無茶でも働きかねない。」
ウンテクはファンに向き直ると、厳しい声で命じた。
「いいか。あいつを外に出しでもしたら首が飛ぶと思え。」
「はい!しかと見張っておきます!」
その様子を見ていたチェリョンは、ファンに小声で尋ねた。
「あの……一体何が……?」
「南人の一斉摘発が始まるのだ。チャン・ヒジェとその部下はもちろん、左議政様たちもおしまいだ」
彼女はそれを聞いて、真っ先にヒジェの部下であるステクのことを思い浮かべた。
───ステクさん……!!
チェリョンはウォルファに食事を届けると言い訳し、納屋に入ると事の次第を伝えた。だが、彼女に動く様子はない。
「ステクさんを助けたいのはわかる。私もヒジェ様を助けたい。けれど、下手に動けば全員おしまいよ」
「お嬢様!」
「第一どこにヒジェ様が居るのかもわからないのに……」
自らの無力さで逆に窮地に追い込みたくないウォルファは、ただ閉じ込められた場所で無事を願うことしか出来ないのだった。
その頃、テヒの妓楼でヒジェが騰録類抄をチンに渡していた。彼女は偶然にも妓楼の外に用事があり、店の外へ出た。すると、官軍が集められているという情報が入った。彼女は慌ててヒジェの元へ戻ると、何が起きているのかを告げた。
「今すぐに逃げてください」
「無理だ。官軍が動いているのならば、どのみちここにいることがばれる。私兵をつれている故、時間を稼ぐ。その間に本を焼き捨てて証拠を消す」
「ウォルファさんには知らせなくて良いのですか?きっと協力してくれます」
「駄目だ!絶対に知らせるな。俺がここで死んでも知らせるな!」
テヒは職業柄、一目でその言葉が嘘であることを見抜いた。そして、何も言わずにウォルファの家へ向かった。武官たちには適当なことを言って通してもらい、テヒは彼女の名前を呼んだ。
「ウォルファ!」
「テヒさん!どうしたの?」
「官軍がうちの店に向かっているの。ヒジェはうちの店に居るわ。隠れ家は以前客に買ってもらった家が都の外にあるの。そこへ二人で逃げて」
突然手段が降って湧いたことに驚いたウォルファは、たじろいだ。だが、一刻の猶予も許されない状況にテヒは一喝した。
「でも………」
「私では助けられない。あの人はあなたが来ることを本当は望んでいる。助けてあげて。」
ウォルファは納屋からどうやって出ようかと辺りを見回して考えた。すると、奥から馬の鳴き声がした。そういえば、この納屋は奥の馬小屋と繋がっているのだ。彼女は白い駿馬にまたがると、勢いをつけて納屋の扉に向かって走らせた。
「どいて!死にたくなければどきなさい!」
「なっ………お、おい!女を逃がすな!!シム殿に殺される!」
「やあっ!」
ウォルファの乗った馬は都の路地を疾走している。あわてふためくファンは、すぐにヨンギに連絡を入れた。だが、彼女が妓楼につくほうが官軍よりも早かった。ウォルファはヒジェを見つけると、手を引っ張って馬に乗せようとした。
「何をする!ここで一体何を……」
「逃がすのよ!あなたを助けに来たの」
「駄目だ!官軍が見つければ、そなたも罪を免れることは出来ぬ」
その手を振り払おうとするヒジェにウォルファは必死でしがみついた。
「ならば、一緒に同じ罪で死ぬわ。でもそれは国の法律に載っているものではない。私たちだけの罪。別の党派であり、別の見分のお方をお慕いした罪です」
「ウォルファ…………」
困惑しているヒジェの耳に、官軍の足音が聞こえてくる。彼は意を決すると、馬に足をかけ、ウォルファを共に乗せると妓楼から逃亡した。
ここで死んでも悔いはない。ヒジェは本気でそう思った。そしてウォルファも、この人と同じ罪で死ねるなら辛くはないと思った。どれ程離れようと試みても離れられない恋人たち。それは運命のせいではなく、二人の心が固い愛で結ばれているからなのかもしれない。
「母上!母上!!私です、ウンテクです」
「ウンテク!!息子よ、帰ってきたのね?ああ、夢のよう。」
彼は手紙の内容とは違って元気な母の姿に気になることがあった。
「母上、一体どうやって回復されたのですか?危篤だと聞きましたが……」
「お前も驚くと思うわ。あのチャン・ヒジェ様が売り払った私たちの家を買い戻し、うちの面倒まで見てくれたのよ。貴重で手に入らないと言われていた薬も、あの方が探してくれたのよ。全部ウォルファへの愛情からの行為だとすぐにわかったわ。とてもいい人なのよ」
その事実にウンテクは愕然とした。
───あの、チャン・ヒジェが?妹のために大枚はたいて尽くした……?
「そ、それには何か要求されませんでしたか?」
「いえ、何も。ただあの方はウォルファが笑顔であればそれで幸せだと言っていましたよ。」
究極の愛の形に、彼は言葉を失った。あれほどに冷酷で無慈悲な男が、たった一人の女性への愛だけで変わるとは。とても信じられなかった。そしてそのことを考えると、もう本物の騰録類抄を渡してやりたいとも思う自分がどこかに居た。それで平穏が訪れるなら、どれ程に楽な話か。
───それでは、終わらない。もうそんな子供だましのやりとりでは終わらない政争になっているのだ。どちらかの党派が倒れるまで終わらない。
「母上、あいつはそんな男ではありませんよ。妹を利用しようとしているのです」
「いいえ、違うわ。本当に優しい人なのよ!自分の力だけで政治に生き残ろうと努力している人よ。そんなことを言っては可哀想よ……」
「いけません!あの子のためを思うなら、今すぐにヒジェと引き離してください。近々大きなことが起きます。そこにウォルファも義州で偶然的に関わっています。ですから、巻き込みたくなければ今すぐにチャン・ヒジェとの接触を断ってください」
その声を聞いたウォルファは、部屋の外から立ち聞きをしていた。息を殺して一部始終を聞いた彼女は、騰録類抄というものが国家機密書で、ヒジェが国禁を犯す大罪をはたらいたのだと知った。もしそれが発覚すれば、間違いなく極刑は免れない。
───本物は、どこにあるの?
ヒジェが本物を使節団に渡していないのならば、偽物であることを利用されて脅されている可能性もある。ウォルファは急いで彼の元へ向かった。
案の定、ヒジェは青ざめた顔で署長室にこもっていた。彼女は何も言わず、ただ彼にだきついた。
「───とうとうそなたも気づいたのか。騰録類抄と俺、そして世子承認のからくりの正体に」
「……他の方法は無かったの?今からでも間に合うわ。すべてを明らかにし、清国側が無茶な条件を突きつけてきたと王様に言えば…」
「そんなことをすれば南人は終わりだ!それどころか国際問題に発展する」
彼は思わずきつい口調で言ってしまったことを後悔した。それはウォルファの表情をみればわかる。彼女は大粒の涙を流していた。
「………わかったわ。あなたという人が、もう戻ってこれないことがよくわかった。それに私はそちら側には留まれない。」
「見なかったことにしろ。この件にそなたは関わっていない。そうすれば安全だ」
彼女のことを思い冷たく突き放しているつもりだが、ヒジェの声は震えていた。そんな彼を見て、やはりウォルファは見捨てることが出来なかった。
「でも……でも、やっぱり無理よ。あなたを見捨てるなんて。無理に決まっている。例えあなたという華の影になってもいい。一生あなたの側に居られるなら、そうしたい。私もあなたと共に生きたいの」
「綺麗事で政治はやっていけない。俺についていけないなら、目の前から今すぐに消えろ」
その言葉が本心からでないとウォルファは言い切ることが出来なかったので、不安と悲しみに目を見開いた。ヒジェはもちろんこれで良いのだという表情をしながら、部屋を後にした。残された彼女は、ただ呆然と立ち尽くすしか出来なかった。
ぼんやり帰路を辿っていると、往来の端で困り果てているテヒを見かけた。ウォルファは同じヒジェを慕う者として親しみを感じると、躊躇もせずに隣に歩み寄って声をかけた。
「どうしたの?」
「ああ、あなたね。困っちゃったわ、飾りが取れてしまって……修理にも出せないの」
「妓楼には何か道具はありませんか?あれば直せますけれど」
その提案にテヒは驚いた。あれほどに困らせたにもかかわらず優しいウォルファに、嫉妬どころかあきれてしまう。そんな彼女にウォルファは微笑んだ。
「はい。私、お人好しなんです。どうしようもないくらいのお人好しなんです。」
「そんなだと、男に騙されるわよ。私もあなたも、ヒジェに利用されているだけなのよ」
「テヒさんは、利用されていてもお側に居たいとは思わないのですか?」
その質問でテヒは全ての敗因を悟った。最大の敗因は、ウォルファの愛があまりに度が過ぎるほどに大きすぎるからなのだ。彼女は笑いながらこう言った。
「嫌よ、利用されるなんて。私は自由なんだから」
「その自由さえも、私はあの方に捧げてしまいました。誰かを命懸けで慕うとは、すべてを代償として捧げることのようです。」
「………馬鹿みたい。」
「私も馬鹿だと思います。でも、あの人の悪事を見過ごせない自分も居ます。それがいっそあの人を裏切ってしまえば楽だと微笑みを浮かべているんです」
いつのまにかテヒとウォルファは飾りを直すことも忘れて、石段に並んで座っていた。
「じゃあ、やめればいいじゃない。あんなクソ男忘れて、早く別の人と結婚しな」
「でも、ヒジェ様は独りぼっちなんです。あの人はこの国で一番孤独な方なんです。」
それにはテヒも同感だった。ヒジェは孤独な男だった。どうしうもなく孤独な男だった。けれどその悲しみと孤独を埋められるのは、自分ではなかった。
「………あなたしかいない。ヒジェを満たせるのは、あなただけなのよ。どうしうもなく孤独なあいつを満たせるのは、あんただけ」
「……ごめんなさい」
ウォルファは何故か謝った。側に居られる資格を望むテヒを前にして、自分はなんて酷いことを言っているのだろう、そう感じていた。
「いいのよ。あいつはあなたを得るためには何でもする。そんな恐ろしい男だから、私には手におえないのよ。自分の専門を離れた男なんて、もうどうしようもないんだから。それに、私は………」
彼女は空を仰ぎ、呟いた。
「私は、あの人にこんな孤独の中で死んでほしくない」
「テヒさん…………」
ウォルファはその横顔があまりにも悲しく、励まそうと思って彼女の背中を思いきり叩いた。
「痛っ!!!あんた、何するの!」
飛び上がったテヒは、ウォルファを睨み付けた。だが彼女は笑っている。
「元気だして下さいよ。テヒさんは独りじゃありませんよ。私が友達になります!」
「は?友達?あんたどこまでお人好しなのよ………」
呆れて否定も出来ない彼女は結局、ウォルファと成り行きで友達になってしまうのだった。
妓楼に帰ったテヒは、ウォルファが直してくれた飾りを見ながら無意識に微笑みを浮かべていた。
「あら、テヒさん。どうしてそんなに嬉しそうなの?」
「え?あ……べ、別に!飾りが直って嬉しいだけよ」
本当は、友達ができたことに喜びを感じていた。にやける口許を自分で叩いていつもの冷静な顔を作ると、テヒは接客へ向かった。
一方ウォルファは、決意を込めた眼差しで芙蓉堂へ来ていた。彼女はトンイに会うと、兄と西人の計画に協力しようと申し出た。突然の言葉に驚いたトンイは、最初彼女がヒジェに密偵として遣わされたのではないかとさえ疑った。だが、その表情があまりに真剣だったため、彼女はウォルファを信じようと思い、騰録類抄を取り出して机の上に置いた。
「ウォルファ姉さんが通訳した通り、清国の方はこれを要求しています。そして、チャン・ヒジェはここにこれがあることを気づいています。明日、宴が開かれますよね」
「はい。そこで王妃様が尚宮様の命を狙うのではと考えている者が多いようですが」
「そうです。私たちは逆にそれを利用します。芙蓉堂の警備を減らし、わざと騰録類抄を盗ませます。そして、チャン・ヒジェたちが清国の者たちに渡している現場をおさえ、動かぬ証拠を得た上で逮捕するのです」
完璧な作戦に、ウォルファは身震いを覚えた。だが、今更引き返すわけにはいかない。彼女は小さく、しかし意思を持ってうなずいた。
こうして、彼女とヒジェの運命は大きく離れていくことになるのだった。だがそれでも引き合い続けるのは、もはや運命の悪戯としか言い様のないことである。
宴の日、ウォルファはヒジェに会わぬように自室にこもっていた。すると、ステクがチェリョンと共に手紙を持ってきた。彼女は誰からのものであるかを知っていたので、そのまま机の引き出しに無造作に突っ込むと、机に突っ伏した。だが、その日の夕方にもまた手紙が同じように届いた。彼女はまたそれを引き出しに入れた。そしてその日の夜にも手紙は届いた。彼女はまたしてもそれを読まずに引き出しに入れた。
そんなことが何日も続いたある日、とうとう手紙は来なくなった。その代わり、今度はウンテクが慌ただしく何かの計画を実行するために動いていた。ウォルファはヒジェがとうとう捕まる頃かと思うと、何故だかまた胸が苦しくなった。そして、彼女はとうとう送りつけられたヒジェからの手紙を一枚ずつ開いた。
『愛しいウォルファへ
どうせそなたは私の手紙なんて読むつもりは無かったのだろうな。けれどようやく読んでくれたのか、ありがとう。俺はずっと、どれが正しい道なのかをわかっていなかった。どんな手段を使ってでも欲しいものは手に入れるし、出来ないことは何一つなかった。だがそんな俺に、そなたは気づかせてくれた。本当に大切なものは、単純な方法でないと留め置けないと。俺は今更気づいた。今更もう引き返せない。だから、本当に大切なものを置いていく。許してほしい。あんな風にしか突き放せなかった俺を憎んで、恨んで、心の中で何度も殺してくれて良い。忘れてほしい。
あなたのことを一番愛するヒジェより』
「何よ………これ……………こんなの…………」
───ずるいじゃない。
その後の手紙には内需司での横領で誰を捨て、誰を手にかけたのかや、義州で本当は何をしていたのかや、トンイや西人の者たちにしてきたこと、そして自分がどれ程女好きのどうしようもない放蕩息子だったかを延々と書き連ねていた。ウォルファは字を目で追う度に、溢れ出す止めどない涙が悲しみの堰を切るのを感じていた。
「───嫌われたいなら、もう少しましな文句の一つでも書けば良いのに……」
彼女はヒジェが作ってくれた紐細工を眺めながら、そう呟いた。
「……愛してる。愛しているわ。どうしようもなく、愛してる」
何度も届かぬ思いを繰り返した。そうしているうちに、ウォルファの部屋に捕盗庁のファン武官たちを連れたウンテクが現れた。彼は彼女を納屋に連れていくと、見張るように命じた。ウォルファは声の限りに叫んだ。
「どうして?私が怖いの?私がヒジェを救うかもしれないと思っているの?なんの力もない小娘なのに」
「お前はあいつに心奪われている。どんな無茶でも働きかねない。」
ウンテクはファンに向き直ると、厳しい声で命じた。
「いいか。あいつを外に出しでもしたら首が飛ぶと思え。」
「はい!しかと見張っておきます!」
その様子を見ていたチェリョンは、ファンに小声で尋ねた。
「あの……一体何が……?」
「南人の一斉摘発が始まるのだ。チャン・ヒジェとその部下はもちろん、左議政様たちもおしまいだ」
彼女はそれを聞いて、真っ先にヒジェの部下であるステクのことを思い浮かべた。
───ステクさん……!!
チェリョンはウォルファに食事を届けると言い訳し、納屋に入ると事の次第を伝えた。だが、彼女に動く様子はない。
「ステクさんを助けたいのはわかる。私もヒジェ様を助けたい。けれど、下手に動けば全員おしまいよ」
「お嬢様!」
「第一どこにヒジェ様が居るのかもわからないのに……」
自らの無力さで逆に窮地に追い込みたくないウォルファは、ただ閉じ込められた場所で無事を願うことしか出来ないのだった。
その頃、テヒの妓楼でヒジェが騰録類抄をチンに渡していた。彼女は偶然にも妓楼の外に用事があり、店の外へ出た。すると、官軍が集められているという情報が入った。彼女は慌ててヒジェの元へ戻ると、何が起きているのかを告げた。
「今すぐに逃げてください」
「無理だ。官軍が動いているのならば、どのみちここにいることがばれる。私兵をつれている故、時間を稼ぐ。その間に本を焼き捨てて証拠を消す」
「ウォルファさんには知らせなくて良いのですか?きっと協力してくれます」
「駄目だ!絶対に知らせるな。俺がここで死んでも知らせるな!」
テヒは職業柄、一目でその言葉が嘘であることを見抜いた。そして、何も言わずにウォルファの家へ向かった。武官たちには適当なことを言って通してもらい、テヒは彼女の名前を呼んだ。
「ウォルファ!」
「テヒさん!どうしたの?」
「官軍がうちの店に向かっているの。ヒジェはうちの店に居るわ。隠れ家は以前客に買ってもらった家が都の外にあるの。そこへ二人で逃げて」
突然手段が降って湧いたことに驚いたウォルファは、たじろいだ。だが、一刻の猶予も許されない状況にテヒは一喝した。
「でも………」
「私では助けられない。あの人はあなたが来ることを本当は望んでいる。助けてあげて。」
ウォルファは納屋からどうやって出ようかと辺りを見回して考えた。すると、奥から馬の鳴き声がした。そういえば、この納屋は奥の馬小屋と繋がっているのだ。彼女は白い駿馬にまたがると、勢いをつけて納屋の扉に向かって走らせた。
「どいて!死にたくなければどきなさい!」
「なっ………お、おい!女を逃がすな!!シム殿に殺される!」
「やあっ!」
ウォルファの乗った馬は都の路地を疾走している。あわてふためくファンは、すぐにヨンギに連絡を入れた。だが、彼女が妓楼につくほうが官軍よりも早かった。ウォルファはヒジェを見つけると、手を引っ張って馬に乗せようとした。
「何をする!ここで一体何を……」
「逃がすのよ!あなたを助けに来たの」
「駄目だ!官軍が見つければ、そなたも罪を免れることは出来ぬ」
その手を振り払おうとするヒジェにウォルファは必死でしがみついた。
「ならば、一緒に同じ罪で死ぬわ。でもそれは国の法律に載っているものではない。私たちだけの罪。別の党派であり、別の見分のお方をお慕いした罪です」
「ウォルファ…………」
困惑しているヒジェの耳に、官軍の足音が聞こえてくる。彼は意を決すると、馬に足をかけ、ウォルファを共に乗せると妓楼から逃亡した。
ここで死んでも悔いはない。ヒジェは本気でそう思った。そしてウォルファも、この人と同じ罪で死ねるなら辛くはないと思った。どれ程離れようと試みても離れられない恋人たち。それは運命のせいではなく、二人の心が固い愛で結ばれているからなのかもしれない。