9、世子承認の闇
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数日後、ヒジェはいつものように仕事をこなしていた。すると突然チャ・ステクが王宮外からわざわざ連絡を寄越してきた。何事かと思い、話を聞いてみると彼は驚きで帳簿を取り落とした。
「チャン様、清国の使節団がやって来たそうです」
「なに?世子承認か………?それとも、別の理由か?」
ステクに礼を言い、彼は急いでオクチョンの元へ向かうと、その旨を説明した。
「兄上、きちんとあちらの方には…」
「賄賂は渡しております。ですからご安心を。ただ……一体何をしに来たのやら……」
「とりあえず今は成りを潜めておきましょう。」
全く何のことかさっぱりであるヒジェとオクチョンは、天井と床を交互に見て唸るしかなかった。
まさかこれが嵐を呼ぶ世子承認であることなど、このとき誰が予期しただろうか。
使節団が到着し、ヒジェは署長として慕華館と礼賓寺を東奔西走する忙しさに見舞われた。
「全く………もてなすのは俺の天職ではないな」
愚痴をこぼしながら礼賓寺に帰ってきた彼は、ようやく椅子に腰かけた。そして休憩中にしばらく会っていないウォルファに恋文の一つでも書こうかと筆を取った。だが、その時、ちょうど誰かが署長室の戸を叩いた。大きなため息をついたヒジェは戸を乱暴にあけた。すると、そこにはなんと王様つきのハン内官が立っていた。彼は驚きのあまりすっとんきょうな声を上げてしまった。
「ハ、ハン殿ではありませんか!!なっ、何をしにこちらに…?」
「王様がお呼びです。」
「おっ……王様が……?」
じっくり説明を受ける暇もなく、彼は便殿へ連れていかれた。おどおどして部屋にとおされたヒジェを見て、粛宗は思わずあの尊大な態度の男がここまで小さくなるものかと驚嘆した。もちろん彼の耳には西人の令嬢と恋仲であることは入っていなかったのだが。
粛宗は気をとり直すと、ヒジェにもう少し近くへ来るようにと言った。また別の悪事がばれたのではと怯える彼に対し、粛宗は声高らかに笑った。
「何を恐れている。今日はそなたを褒めるために呼んだのだぞ?」
「え?」
意外な言葉にヒジェの思考が停止した。粛宗は何食わぬ顔で説明を続けた。
「清国の使節団が世子を承認した。それにはそなたの尽力があったと、たいそう向こうの者が誉めておったぞ」
「お、王様…………それでは……」
「そなたをこの功績に基づき、褒美に何か一つくれてやろう。何が良い?」
唐突な褒めにあずかり、ヒジェは困惑したがやがて全てが上手くいったのだと悟ると、その表情を綻ばせた。彼は震える声で小さくこう願い出た。
「有り難き幸せにはございます。見に余る光栄ではあ。ますが、王様。一つだけ望ませてください。ああ、ですが、口に出すことも憚られます………」
「言うてみよ。出来ぬかどうかは余が決める」
「それでは………西人の令嬢、シム・ウォルファとの婚姻を取り計らっていただけませんか?」
無理だと言われるのではと怯えながら口に出したヒジェは、目を伏せながら返事を待った。だがむしろ粛宗は笑いながら快諾した。
「そんな簡単なことか。良かろう、取り計らってやろう」
「あ……有り難き幸せでごさいます!」
ようやく自分の人生を歩める。このときのヒジェは、そう心から確信していた。
少なくともここから本当の厳しい人生が始まるとは、彼自身予想だにしていなかった。
世子承認の件は、瞬く間に都中に広がった。ウォルファはそれを聞いていてもたってもいられず、見支度を済ませると自分の足で宮殿に赴いた。王妃殿からちょうど出てくるところだったヒジェは、ウォルファの姿を見つけると女官たちがみているのも気に留めずに、夢中で少年のように駆け寄ると彼女を抱き上げた。
「おめでとうございます、ヒジェ様!本当におめでとうございます!」
「ああ、王様が褒美にそなたを嫁にくれるそうだ!これでもう離れずに済む!」
突然の婚姻宣言に、ウォルファは更に驚いた。嬉しさのあまり、声が上ずる。
「え……で、では……私たち、こ、婚姻するのですか?」
「そうだ。婚姻するのだ。そなたは俺を“あなた”と呼び、俺はそなたを“お前”と呼ぶのだぞ」
ヒジェはそう言って彼女の手を取ると、その目を見つめて近くで微笑みかけた。すっかり照れているウォルファが、耳まで顔を赤く染めながらこくりと頷く。
「あ……あの、女官たちが見ていますよ……」
「構うものか。俺たちを引き裂くやつらは居ない。……愛している、ウォルファ。愛している。」
「わ、私も……お慕いしています………ヒジェ様。」
満足げに微笑むヒジェと、照れながらも幸せそうなウォルファを遠目から見ていたのは、粛宗となんとその密命を受けて都に戻ってきたウンテクだった。二人はもろい幸せに浸っている恋人たちを見ながら、目を細めている。
「……そなたはどう思う。」
「妹とチャン・ヒジェ殿の婚姻は、認められません。」
「あの二人なら、南人と西人の不仲を解消すると思うのだが………」
「不可能です。あの二人は、たかだか恋です。愛ではありません」
頑なに認めようとしないウンテクに、粛宗は兄の意地を感じた。
「認めてやらぬのか?人生は一度きりではないか。きっと善き夫婦になると思うぞ」
「認めていないわけではありません。ただ、あまりに子供じみたものです。女はどうせ婚姻したら捨てられるんですよ。そういう男です」
「余にはあの二人がそうは見えぬ。あの二人こそ、運命だ。運命はいかに誰がどうこうしようとも、結局元の道に戻るものだ。」
ウンテクはそれきり黙りこんでしまった。その様子ですぐ、粛宗は本心では二人のことを認めていることを悟った。彼は西人と南人の換局ではない融和政策が実現するのではという希望に胸を踊らせながら、いつまでもヒジェとウォルファの様子を眺めているのだった。
一方、トンイは熟考していた。芙蓉堂にやってきたウンテクも、釈然としない顔をしている。彼女は疑念に震える声で独りごとのように尋ねた。
「────シム様がチャン・ヒジェに渡した騰録類抄が偽物なのなら、一体何故使節団は世子承認をしたのでしょうか?」
「本物がこちらにある以上、向こうにもないはず。ならば、チャン・ヒジェも焦り出すでしょうね」
実は、ヒジェに解放してもらうためにウンテクは偽の騰録類抄を隠した場所を教え、ソリに本物を預けていたのだ。まんまとすり替えに気づかないヒジェは、そのまま偽物を官僚に渡してしまったのだ。それより、ウンテクは釘を刺しておかねばならないことを伝えた。
「尚宮様、決してこのことをウォルファに言わぬように。お恥ずかしい話ですが、あの子はチャン・ヒジェと恋仲です。恐らく本物があると知ればそれをあいつに届けようとするでしょう」
「姉さんはそこまでおろかな人ではありません。きっとわかっているはずです。」
「いいえ、恋とは時に人を愚かにするものです。」
彼は分かるでしょうとでもいいたげにトンイを見返した。彼女は先日のウォルファとヒジェを見ているせいで、何も言い返すことが出来ない。
「どちらにせよ、我々はたった一組の恋人には構っていられぬのです。尚宮様、ご決断を」
「シム様…………」
頭ではどちらをとるのが正しい結論か、彼女にははっきりと分かっていた。だが、どうしてもその踏ん切りがつかない。
────私は、あなたを取ります。私の生が尽きるまで、私はあなたを選択します。あなたを、愛します。あなたの傍で生きていきます。
「……ウォルファをチャン・ヒジェから引き離すことは無理だと思います。」
「何故ですか。妹も無茶を冒してまであいつを選ぶことはしません」
トンイは少し悩んでから、渋々口を開いた。
「あの人はシム様が戻るまでに、既に無茶を冒してヒジェを救いました。」
「何ですって?」
「チャン・ヒジェを救ったのです。あと少しですべてを明らかに出来そうだったのに、あの人は南人に入れ知恵までしてヒジェを救ったのです。」
ウンテクは耳を疑い、その愚行に対する怒りにうち震えた。
「………馬鹿な妹だ。チャン・ヒジェに自分を守れるほどの覚悟が無いこともしらず……」
「それはどうでしょう。覚悟など、その者にしかわからぬと思いますよ」
その言葉に過剰な反応を見せたウンテクは、怒りを顕にしながらむきになって返事をした。
「いや、あの男に一人の女を愛せる心があるとは思えません。信じられない。」
「シム様は、信じたくないのでは?二人を認めてしまうと、政治家としてチャン・ヒジェを遠ざけられなくなるから………」
「違います!私は、妹が傷つくのを見たくはないのです」
「認めて差し上げてください。西人でも、南人でも、見ているだけであの二人があまりに気の毒です。」
気の毒。たしかにウォルファとヒジェには気の毒という言葉がぴったりだった。決して結ばれることのない二人。身勝手な政治家たちのせいで引き離される運命の彼らのことを、気の毒だと思わない人たちは居ないだろう。だがしょせん世間や女官たちの噂話にとって、それは放蕩息子が唯一心から愛したのは敵対する党派の令嬢だったという、何ともない陳腐な衆愚の混じった話と化してしまう。そんな衆愚の骨頂のような浮き名を立たせるのはあまりに酷だと思っているウンテクは、ずっと二人を引き離そうと試みていた。だが、何度別離を謀ってみても、結局また二人は不可解な縁で元の位置に戻ってしまう。
「……運命、なのでしょうか?」
「運命はただ、引き合わせるだけです。そこから互いを選んだのは意思に基づく愛です。信じられぬでしょうが、それがあの二人なのです」
彼はそのトンイの言葉を聞いたっきり、黙り込んでしまった。そして、これから自分の妹が経験するであろう苦痛と悲しみを想像すると、身を切られるような罪悪感にかられるのだった。
ウォルファが家に帰ると、真っ先に気づいたのはあまりに家が静かすぎることだった。彼女が恐る恐る家の奥に足を進めると、母イェリの寝室から青白い顔をしたチェリョンが出てきた。何事かと思い、ウォルファは慌てて彼女の元へ駆け寄った。
「チェリョン!どうかしたの?もしや、お母様に……」
「お嬢様………お母様はウンテク若旦那様のことを気に病み、とうとう先程倒れてしまいました。医者に見せても、清国の特別な薬でなければ治らないと……」
「その薬はいつ手にはいるの?お金なら工面するわ!」
肩を揺さぶられながらも、チェリョンは涙ながらにこう訴えた。
「無理です、お嬢様!時間がかかります!お医者様は手遅れだと…………」
「そんな…………そんな…………お母様…お母様……」
ウンテクは密命で戻っているため、家族に会えないのだ。そんなこともしらないイェリは心配で弱い身体をますます弱らせてしまったのだ。父も母も、兄も居なくなってしまえば、自分は天涯孤独だ。ウォルファは途方に暮れていた。
「どうして私を置いていこうとするの……?どうして……」
苦しそうに寝込む母の隣で、彼女は大粒の涙を流しながらそう語りかけた。だが、それさえも反応できないのか、イェリは眠ったままだ。ウォルファは自室に戻り、どうすることも出来ない無力な自分に嘆くのだった。
明くる日、いくつもの薬屋を回ってその薬を探してみたが、ウォルファはいっこうに見つけられていなかった。彼女はそのまま石畳に座り込み、建物の影ですすり泣きはじめた。すると、その姿を偶然通りかかったヒジェが目撃した。彼は静かに歩み寄ると、ウォルファが何故泣いているのかを知りたくて隣に座った。
「………どうした?」
「ヒジェ様……お母様が………病気なの………お兄様が帰ってこないのをずっと心配して…………今度はもう、清国の特別な薬剤でないと治らないって………お医者様が……ねぇ、ヒジェ様。ヒジェ様。お母様は死なないわよね?きっと大丈夫よね?私を置いていったりしないわよね?」
深刻な事態に、ヒジェはかけるべき言葉を失った。ウォルファの目に溜めた大粒の涙が、今にも溢れだしそうだ。
「………大丈夫だ……きっと、大丈夫だ。俺が何とかする。これが処方箋だな。」
「ねぇ、絶対に危険なことはしないで。あなたまで居なくなったら、私…………」
「そんなことはしない。絶対、そんなことはしない。」
そう言いながらも彼は都中の薬屋に探してもらっている間に事切れてしまう可能性の方が高い状況のため、即刻に見つけるには国禁を侵すより他ないことに気づいていた。
────行こう、内医院に。それしか方法はない。
王室の薬剤を横領することは、大罪だ。もちろん行っている者は多いが、ばれれば間違いなく極刑は免れない。だがそんなことを考えている場合ではない。ヒジェはウォルファを安心させると大急ぎで内医院へ向かうのだった。
知り合いの医官に賄賂も渡して頼み込み、何とか薬を調達したヒジェはその足で走って医者を連れウォルファの家に向かった。幸いにも間に合ったようで、イェリは一命をとりとめた。このヒジェの行動には流石のチェリョンたち使用人も驚いた。
「ねえ、ステクさん。あなたの主人、一体どうやって薬剤を……」
「すみません、これ以上は何も……」
「まさか…………」
そのステクの返答だけで、チェリョンはそれが不当に仕入れられたものだと悟った。そんなことも知らないウォルファは、ヒジェに何度も頭を深々と下げている。
「本当に……ありがとうございました………本当に…………」
「気にするな。俺もそなたが笑っている方がいい……───?」
彼女はヒジェに抱きつくと、その胸に顔を埋めて微笑みをもらした。
「……ありがとう。あなたが大好き。私はあなたが……大好きよ」
「…俺も、大好きだ」
二人が幸せな時間を過ごしていると、またもや連絡が入った。ヒジェはやや苛立ちながらもそれを聞くために外へ出た。
「何事だ。」
「使節団のチン殿がお呼びです。」
騰録類抄を渡した相手である彼から一体何の話があるのだろうかと思ったヒジェは、ウォルファに断りを入れてから近くの指定された場所へ向かった。すると、彼は笑顔で包みを机の上に出していた。ただならぬ雰囲気に何かが起きたと悟ったヒジェは、恐る恐る正面に座った。チンは騰録類抄と書かれた本を出すと、ヒジェの目の前に叩きつけた。
「貴様、私を馬鹿にしているのか。これは騰録類抄ではない。偽物だ」
「なっ……………なんです……と?」
「必ず滞在中に本物を持ってこい。さもなければ全て王様にばらす」
嵌められた。ヒジェはそう確信した。頭を殴られたような衝撃で周りの音が聞こえなくなるような感覚に陥った。そのあとは適当な返事を取り繕い、ふらつく足取りで部屋を後にしたことだけは覚えていた。
だが、更なる衝撃が彼を襲った。
「おや………?これは、チャンヒジェ殿ではありませんか。ご自慢の大将の制服はお止めになったのですか?」
「なっ……………シ、シム・ウンテク!?ここで一体何をしている!?」
ウンテクはさも余裕ありげに微笑むと、ヒジェが手に持っている偽の騰録類抄に気付いてわざとらしく覗きこんだ。
「血相変えてどうされたのですか?」
「べ、別に何もない。貴様こそ、何故ここにいる」
「強力な後ろ楯を得たのだ。」
「何だと?承恩尚宮のチョン・ドンイか?笑わせるな」
彼は不敵な笑みを浮かべると、ヒジェに驚きの言葉を投げつけた。
「───いいえ、王様です。私は今、王様の密使として動いているのです。それでは、失礼」
ウンテクが去ったあと、一体何が起きているのかさっぱりわからないヒジェは、ただ呆然としていた。
「密使……?一体何が起きている。」
だが今はとにかく一刻も早く妹にこのことを伝えねばと思い立った彼は、あらゆることを後回しにしてその場を立ち去った。
運命がすでにヒジェの意思を離れて回りだしていることを、彼はまだ知らなかった。
「チャン様、清国の使節団がやって来たそうです」
「なに?世子承認か………?それとも、別の理由か?」
ステクに礼を言い、彼は急いでオクチョンの元へ向かうと、その旨を説明した。
「兄上、きちんとあちらの方には…」
「賄賂は渡しております。ですからご安心を。ただ……一体何をしに来たのやら……」
「とりあえず今は成りを潜めておきましょう。」
全く何のことかさっぱりであるヒジェとオクチョンは、天井と床を交互に見て唸るしかなかった。
まさかこれが嵐を呼ぶ世子承認であることなど、このとき誰が予期しただろうか。
使節団が到着し、ヒジェは署長として慕華館と礼賓寺を東奔西走する忙しさに見舞われた。
「全く………もてなすのは俺の天職ではないな」
愚痴をこぼしながら礼賓寺に帰ってきた彼は、ようやく椅子に腰かけた。そして休憩中にしばらく会っていないウォルファに恋文の一つでも書こうかと筆を取った。だが、その時、ちょうど誰かが署長室の戸を叩いた。大きなため息をついたヒジェは戸を乱暴にあけた。すると、そこにはなんと王様つきのハン内官が立っていた。彼は驚きのあまりすっとんきょうな声を上げてしまった。
「ハ、ハン殿ではありませんか!!なっ、何をしにこちらに…?」
「王様がお呼びです。」
「おっ……王様が……?」
じっくり説明を受ける暇もなく、彼は便殿へ連れていかれた。おどおどして部屋にとおされたヒジェを見て、粛宗は思わずあの尊大な態度の男がここまで小さくなるものかと驚嘆した。もちろん彼の耳には西人の令嬢と恋仲であることは入っていなかったのだが。
粛宗は気をとり直すと、ヒジェにもう少し近くへ来るようにと言った。また別の悪事がばれたのではと怯える彼に対し、粛宗は声高らかに笑った。
「何を恐れている。今日はそなたを褒めるために呼んだのだぞ?」
「え?」
意外な言葉にヒジェの思考が停止した。粛宗は何食わぬ顔で説明を続けた。
「清国の使節団が世子を承認した。それにはそなたの尽力があったと、たいそう向こうの者が誉めておったぞ」
「お、王様…………それでは……」
「そなたをこの功績に基づき、褒美に何か一つくれてやろう。何が良い?」
唐突な褒めにあずかり、ヒジェは困惑したがやがて全てが上手くいったのだと悟ると、その表情を綻ばせた。彼は震える声で小さくこう願い出た。
「有り難き幸せにはございます。見に余る光栄ではあ。ますが、王様。一つだけ望ませてください。ああ、ですが、口に出すことも憚られます………」
「言うてみよ。出来ぬかどうかは余が決める」
「それでは………西人の令嬢、シム・ウォルファとの婚姻を取り計らっていただけませんか?」
無理だと言われるのではと怯えながら口に出したヒジェは、目を伏せながら返事を待った。だがむしろ粛宗は笑いながら快諾した。
「そんな簡単なことか。良かろう、取り計らってやろう」
「あ……有り難き幸せでごさいます!」
ようやく自分の人生を歩める。このときのヒジェは、そう心から確信していた。
少なくともここから本当の厳しい人生が始まるとは、彼自身予想だにしていなかった。
世子承認の件は、瞬く間に都中に広がった。ウォルファはそれを聞いていてもたってもいられず、見支度を済ませると自分の足で宮殿に赴いた。王妃殿からちょうど出てくるところだったヒジェは、ウォルファの姿を見つけると女官たちがみているのも気に留めずに、夢中で少年のように駆け寄ると彼女を抱き上げた。
「おめでとうございます、ヒジェ様!本当におめでとうございます!」
「ああ、王様が褒美にそなたを嫁にくれるそうだ!これでもう離れずに済む!」
突然の婚姻宣言に、ウォルファは更に驚いた。嬉しさのあまり、声が上ずる。
「え……で、では……私たち、こ、婚姻するのですか?」
「そうだ。婚姻するのだ。そなたは俺を“あなた”と呼び、俺はそなたを“お前”と呼ぶのだぞ」
ヒジェはそう言って彼女の手を取ると、その目を見つめて近くで微笑みかけた。すっかり照れているウォルファが、耳まで顔を赤く染めながらこくりと頷く。
「あ……あの、女官たちが見ていますよ……」
「構うものか。俺たちを引き裂くやつらは居ない。……愛している、ウォルファ。愛している。」
「わ、私も……お慕いしています………ヒジェ様。」
満足げに微笑むヒジェと、照れながらも幸せそうなウォルファを遠目から見ていたのは、粛宗となんとその密命を受けて都に戻ってきたウンテクだった。二人はもろい幸せに浸っている恋人たちを見ながら、目を細めている。
「……そなたはどう思う。」
「妹とチャン・ヒジェ殿の婚姻は、認められません。」
「あの二人なら、南人と西人の不仲を解消すると思うのだが………」
「不可能です。あの二人は、たかだか恋です。愛ではありません」
頑なに認めようとしないウンテクに、粛宗は兄の意地を感じた。
「認めてやらぬのか?人生は一度きりではないか。きっと善き夫婦になると思うぞ」
「認めていないわけではありません。ただ、あまりに子供じみたものです。女はどうせ婚姻したら捨てられるんですよ。そういう男です」
「余にはあの二人がそうは見えぬ。あの二人こそ、運命だ。運命はいかに誰がどうこうしようとも、結局元の道に戻るものだ。」
ウンテクはそれきり黙りこんでしまった。その様子ですぐ、粛宗は本心では二人のことを認めていることを悟った。彼は西人と南人の換局ではない融和政策が実現するのではという希望に胸を踊らせながら、いつまでもヒジェとウォルファの様子を眺めているのだった。
一方、トンイは熟考していた。芙蓉堂にやってきたウンテクも、釈然としない顔をしている。彼女は疑念に震える声で独りごとのように尋ねた。
「────シム様がチャン・ヒジェに渡した騰録類抄が偽物なのなら、一体何故使節団は世子承認をしたのでしょうか?」
「本物がこちらにある以上、向こうにもないはず。ならば、チャン・ヒジェも焦り出すでしょうね」
実は、ヒジェに解放してもらうためにウンテクは偽の騰録類抄を隠した場所を教え、ソリに本物を預けていたのだ。まんまとすり替えに気づかないヒジェは、そのまま偽物を官僚に渡してしまったのだ。それより、ウンテクは釘を刺しておかねばならないことを伝えた。
「尚宮様、決してこのことをウォルファに言わぬように。お恥ずかしい話ですが、あの子はチャン・ヒジェと恋仲です。恐らく本物があると知ればそれをあいつに届けようとするでしょう」
「姉さんはそこまでおろかな人ではありません。きっとわかっているはずです。」
「いいえ、恋とは時に人を愚かにするものです。」
彼は分かるでしょうとでもいいたげにトンイを見返した。彼女は先日のウォルファとヒジェを見ているせいで、何も言い返すことが出来ない。
「どちらにせよ、我々はたった一組の恋人には構っていられぬのです。尚宮様、ご決断を」
「シム様…………」
頭ではどちらをとるのが正しい結論か、彼女にははっきりと分かっていた。だが、どうしてもその踏ん切りがつかない。
────私は、あなたを取ります。私の生が尽きるまで、私はあなたを選択します。あなたを、愛します。あなたの傍で生きていきます。
「……ウォルファをチャン・ヒジェから引き離すことは無理だと思います。」
「何故ですか。妹も無茶を冒してまであいつを選ぶことはしません」
トンイは少し悩んでから、渋々口を開いた。
「あの人はシム様が戻るまでに、既に無茶を冒してヒジェを救いました。」
「何ですって?」
「チャン・ヒジェを救ったのです。あと少しですべてを明らかに出来そうだったのに、あの人は南人に入れ知恵までしてヒジェを救ったのです。」
ウンテクは耳を疑い、その愚行に対する怒りにうち震えた。
「………馬鹿な妹だ。チャン・ヒジェに自分を守れるほどの覚悟が無いこともしらず……」
「それはどうでしょう。覚悟など、その者にしかわからぬと思いますよ」
その言葉に過剰な反応を見せたウンテクは、怒りを顕にしながらむきになって返事をした。
「いや、あの男に一人の女を愛せる心があるとは思えません。信じられない。」
「シム様は、信じたくないのでは?二人を認めてしまうと、政治家としてチャン・ヒジェを遠ざけられなくなるから………」
「違います!私は、妹が傷つくのを見たくはないのです」
「認めて差し上げてください。西人でも、南人でも、見ているだけであの二人があまりに気の毒です。」
気の毒。たしかにウォルファとヒジェには気の毒という言葉がぴったりだった。決して結ばれることのない二人。身勝手な政治家たちのせいで引き離される運命の彼らのことを、気の毒だと思わない人たちは居ないだろう。だがしょせん世間や女官たちの噂話にとって、それは放蕩息子が唯一心から愛したのは敵対する党派の令嬢だったという、何ともない陳腐な衆愚の混じった話と化してしまう。そんな衆愚の骨頂のような浮き名を立たせるのはあまりに酷だと思っているウンテクは、ずっと二人を引き離そうと試みていた。だが、何度別離を謀ってみても、結局また二人は不可解な縁で元の位置に戻ってしまう。
「……運命、なのでしょうか?」
「運命はただ、引き合わせるだけです。そこから互いを選んだのは意思に基づく愛です。信じられぬでしょうが、それがあの二人なのです」
彼はそのトンイの言葉を聞いたっきり、黙り込んでしまった。そして、これから自分の妹が経験するであろう苦痛と悲しみを想像すると、身を切られるような罪悪感にかられるのだった。
ウォルファが家に帰ると、真っ先に気づいたのはあまりに家が静かすぎることだった。彼女が恐る恐る家の奥に足を進めると、母イェリの寝室から青白い顔をしたチェリョンが出てきた。何事かと思い、ウォルファは慌てて彼女の元へ駆け寄った。
「チェリョン!どうかしたの?もしや、お母様に……」
「お嬢様………お母様はウンテク若旦那様のことを気に病み、とうとう先程倒れてしまいました。医者に見せても、清国の特別な薬でなければ治らないと……」
「その薬はいつ手にはいるの?お金なら工面するわ!」
肩を揺さぶられながらも、チェリョンは涙ながらにこう訴えた。
「無理です、お嬢様!時間がかかります!お医者様は手遅れだと…………」
「そんな…………そんな…………お母様…お母様……」
ウンテクは密命で戻っているため、家族に会えないのだ。そんなこともしらないイェリは心配で弱い身体をますます弱らせてしまったのだ。父も母も、兄も居なくなってしまえば、自分は天涯孤独だ。ウォルファは途方に暮れていた。
「どうして私を置いていこうとするの……?どうして……」
苦しそうに寝込む母の隣で、彼女は大粒の涙を流しながらそう語りかけた。だが、それさえも反応できないのか、イェリは眠ったままだ。ウォルファは自室に戻り、どうすることも出来ない無力な自分に嘆くのだった。
明くる日、いくつもの薬屋を回ってその薬を探してみたが、ウォルファはいっこうに見つけられていなかった。彼女はそのまま石畳に座り込み、建物の影ですすり泣きはじめた。すると、その姿を偶然通りかかったヒジェが目撃した。彼は静かに歩み寄ると、ウォルファが何故泣いているのかを知りたくて隣に座った。
「………どうした?」
「ヒジェ様……お母様が………病気なの………お兄様が帰ってこないのをずっと心配して…………今度はもう、清国の特別な薬剤でないと治らないって………お医者様が……ねぇ、ヒジェ様。ヒジェ様。お母様は死なないわよね?きっと大丈夫よね?私を置いていったりしないわよね?」
深刻な事態に、ヒジェはかけるべき言葉を失った。ウォルファの目に溜めた大粒の涙が、今にも溢れだしそうだ。
「………大丈夫だ……きっと、大丈夫だ。俺が何とかする。これが処方箋だな。」
「ねぇ、絶対に危険なことはしないで。あなたまで居なくなったら、私…………」
「そんなことはしない。絶対、そんなことはしない。」
そう言いながらも彼は都中の薬屋に探してもらっている間に事切れてしまう可能性の方が高い状況のため、即刻に見つけるには国禁を侵すより他ないことに気づいていた。
────行こう、内医院に。それしか方法はない。
王室の薬剤を横領することは、大罪だ。もちろん行っている者は多いが、ばれれば間違いなく極刑は免れない。だがそんなことを考えている場合ではない。ヒジェはウォルファを安心させると大急ぎで内医院へ向かうのだった。
知り合いの医官に賄賂も渡して頼み込み、何とか薬を調達したヒジェはその足で走って医者を連れウォルファの家に向かった。幸いにも間に合ったようで、イェリは一命をとりとめた。このヒジェの行動には流石のチェリョンたち使用人も驚いた。
「ねえ、ステクさん。あなたの主人、一体どうやって薬剤を……」
「すみません、これ以上は何も……」
「まさか…………」
そのステクの返答だけで、チェリョンはそれが不当に仕入れられたものだと悟った。そんなことも知らないウォルファは、ヒジェに何度も頭を深々と下げている。
「本当に……ありがとうございました………本当に…………」
「気にするな。俺もそなたが笑っている方がいい……───?」
彼女はヒジェに抱きつくと、その胸に顔を埋めて微笑みをもらした。
「……ありがとう。あなたが大好き。私はあなたが……大好きよ」
「…俺も、大好きだ」
二人が幸せな時間を過ごしていると、またもや連絡が入った。ヒジェはやや苛立ちながらもそれを聞くために外へ出た。
「何事だ。」
「使節団のチン殿がお呼びです。」
騰録類抄を渡した相手である彼から一体何の話があるのだろうかと思ったヒジェは、ウォルファに断りを入れてから近くの指定された場所へ向かった。すると、彼は笑顔で包みを机の上に出していた。ただならぬ雰囲気に何かが起きたと悟ったヒジェは、恐る恐る正面に座った。チンは騰録類抄と書かれた本を出すと、ヒジェの目の前に叩きつけた。
「貴様、私を馬鹿にしているのか。これは騰録類抄ではない。偽物だ」
「なっ……………なんです……と?」
「必ず滞在中に本物を持ってこい。さもなければ全て王様にばらす」
嵌められた。ヒジェはそう確信した。頭を殴られたような衝撃で周りの音が聞こえなくなるような感覚に陥った。そのあとは適当な返事を取り繕い、ふらつく足取りで部屋を後にしたことだけは覚えていた。
だが、更なる衝撃が彼を襲った。
「おや………?これは、チャンヒジェ殿ではありませんか。ご自慢の大将の制服はお止めになったのですか?」
「なっ……………シ、シム・ウンテク!?ここで一体何をしている!?」
ウンテクはさも余裕ありげに微笑むと、ヒジェが手に持っている偽の騰録類抄に気付いてわざとらしく覗きこんだ。
「血相変えてどうされたのですか?」
「べ、別に何もない。貴様こそ、何故ここにいる」
「強力な後ろ楯を得たのだ。」
「何だと?承恩尚宮のチョン・ドンイか?笑わせるな」
彼は不敵な笑みを浮かべると、ヒジェに驚きの言葉を投げつけた。
「───いいえ、王様です。私は今、王様の密使として動いているのです。それでは、失礼」
ウンテクが去ったあと、一体何が起きているのかさっぱりわからないヒジェは、ただ呆然としていた。
「密使……?一体何が起きている。」
だが今はとにかく一刻も早く妹にこのことを伝えねばと思い立った彼は、あらゆることを後回しにしてその場を立ち去った。
運命がすでにヒジェの意思を離れて回りだしていることを、彼はまだ知らなかった。