8、あなたと私
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ある日、ウォルファは用事のためにヒジェと大通りで待ち合わせをしていた。すると、運悪くそこにカン・テヒたちが通りかかる。彼女はもちろんテヒのことに気づくわけはなく、ヒジェを探して辺りを見回している。遠目からはぼんやりとした顔立ちや背格好しかわからなかったのだが、近くで見てみるとテヒはウォルファが妓生の自分でも息を飲むほどに美しい服と器量のよさに恵まれていることに気づいた。
「あの子………一体、何者なの…?」
「あっ、テヒさん!あの娘、思い出したわ。ほら、西人の没落したシム家の令嬢ウォルファ様よ。才色兼備で非の打ち所のない方って、うちの客が言ってたわ」
───ウォルファ……?
その名前にテヒは聞き覚えがあったし、その名前には何度も嫉妬していた。それは、ヒジェが自分との夜が済んで早々に寝落ちしてから、そして行為に及んでいる最中もたまに呟く名前だった。顔も知らない、ただ女ではあるらしいというだけで嫉妬させられることは、鼻が高い彼女にとって苦痛でしかなかった。そんなこともあり、彼女の表情はいつもの冷静さを失っていた。
ウォルファのことを誉めちぎった女は、テヒが嫉妬から厳しい視線を刺してきているのに気づき、慌てて訂正して付け加えた。
「あっ、もちろん、テヒさんの方がヒジェ様にはふさわしいと思うわ」
「当然ですよ、テヒさん。あんな小娘、捻り潰してやってください」
機嫌のなおったテヒは、一言文句を言ってやろうと思い付き、取り巻きと共にウォルファに詰め寄った。驚いた彼女は思わずあとずさったが、そのただならぬ目力に負けている様子もない。
「……何の、用ですか?」
「チャン・ヒジェ様と恋仲だとか?」
「はい、そうですが。それが何か問題でも?」
ウォルファは瞬時にヒジェの女だと悟り、馬鹿にされてはならないと身構えた。その意外な反応にむしろテヒたちの方が驚いてしまった。だが、彼女もひるまずに返答する。
「忘れないで。あの方が孤独にあなたを想っているとき、夜に身と心を癒していたのは私よ。あなたは私なんかよりも彼を知らないわ。ずっと知らないはずよ。」
「たかだか夜のお相手をしただけで頭に乗らないで。そんなご自慢は要らないわ」
彼女の言葉に頭が熱くなるのを感じたが、すぐに返すべき適切な言葉を思い出すとウォルファは冷たくいい放った。二人がにらみあっているとき、丁度ヒジェがやって来た。彼はすぐにテヒの姿に気づき、面倒なことになったなと思いながらも無視をしてウォルファに話しかけた。
「待たせたな」
「ええ、もう少し早くにきて欲しかったわ。そのせいでこの人と知り合ってしまったんだもの。」
批判しているのか、ほめているのかが良くわからない返答に身を縮み上がらせながら、ヒジェは恐る恐るテヒの方を向いた。彼女はいかにも不愉快そうに彼を見ている。ヒジェは困りかねてウォルファに聞こえない場所まで彼女を連れていくと、とたんに突き放してこう言った。
「………何の用だ。嫉妬深い女は嫌いだと、以前に俺は言ったはずだ。二度とは行かんが、少なくとも客に関心を向けて欲しいなら、まずはその態度と愛想の悪さを改めろ」
「改めませんし、あなたはまた私の元へ来ます。必ず。」
「絶対に行かん。死んでも貴様の元へは行かん。俺の心は結局お前では癒されなかった」
その言葉にテヒは凍りついた。ヒジェの心には、ウォルファだけでなく自分が少しでも居ると思っていたからだ。彼女は怒りをむき出しにしてヒジェを叩こうとしたが、その手は空中で停止した。いや正確には止められた。ただ事ではないと思ったウォルファが彼女を止めたのだ。
「お止めになって。叩くなら私を叩きなさい。この方を一度は見捨てて義州に逃げた私が悪いの。そうしなければあなたはこの人に出会わずに済んだわ。だから、私を叩いて。さあ!」
テヒは有無を言わずにウォルファをぶった。だが、その瞬間、彼女はヒジェから侮蔑の眼差しを向けられていることに気づいてしまった。そして彼はあきれながらウォルファがぶたれた頬をさすると、テヒに一瞥もくれずにこう言った。
「……そなたは俺の金と名誉が欲しくて近づいただろう。彼女は俺と婚姻しても、浮き名が立っても何の得にもならんというのに……」
テヒはヒジェのその言葉に異議を唱えたくて、彼の裾を掴んだ。だが、それは虚しく振り払われてしまった。
「警告する。彼女に近づくな。危害も加えるな。さもなくば俺は貴様を殺す」
今までに見たこともなかった殺気を帯びているヒジェに呆気にとられてしまった彼女は、そのまま呆然と立ち尽くすことしか出来なかった。そして、ヒジェに連れられたウォルファは、強引に手を引かれてその場を後にするのだった。
テヒは生まれて初めて味わった大きすぎる絶望と悲しみと憤りに耐えられず、魂の抜けたように都を一人で歩いていた。
初めてヒジェに会ったのは、秋の終わりだった。彼が捕盗大将であるとだけ聞いてすぐに飛び付いた客で、すぐに身体の関係を求めてくる彼を始めはテヒも嫌悪していた。だが、いつのまにかそんな関係でもヒジェと時間を過ごす方が重要に思えてきてしまったのだ。妓生の掟で、"聞く耳を持たず、話す口を持たず、客に奪われる心持たず"というものがある。
「──私は結局、奪われる心を捨てられなかったのね………馬鹿なカン・テヒ。惨めなカン・テヒ。」
思えば思うほど、ヒジェを愛していることに気づいてしまうテヒは、どうすればこの悲しみから逃れられるのだろうかと思い、普段は見上げもしない空を仰いだ。こんな日に限って、空は青く澄んでいる。
「ああ、私みたいな女には生きづらい空だわ。なんて酷い天気なのかしら」
彼女の頬に涙がひとすじ伝ったことを、往来のものは誰も気にも留めない。それは当然、その場に居ないヒジェも往来の他人と同じことだった。
一方、ヒジェにあの手この手と機嫌を取られ、ウォルファはますます機嫌を傾かせていくばかりである。
「ああ…ウォルファ、本当に済まなかった」
「何に対して謝っていらっしゃるのかがさっぱりわからないわ。それに、私に謝る前にその………ええと、テヒさんだったかしら?彼女に謝るべきだわ」
意外な返事にヒジェは言葉を失った。普通の女ならここで自分に対して誠心誠意の謝罪を求めてくるのが普通だというのに。ウォルファはむしろその逆を求めてくる。
「……あなたって、鈍感なの?敏感なの?」
「へっ……ああ…触られ方による…な」
急な質問に感じ方の話かと勘違いしたヒジェは、とっさに場違いな返事をした。もちろんウォルファはますます不機嫌になる。
「身体の話なんてしてないわよ、この変態揉み髭!私が聞いているのはあなたの心の話!」
胸元をを叩きながら怒る彼女の姿を見て、彼はようやく気づいた。
「あっ…………」
「気づいた?テヒさんは本当はあなたを客とか金づるとかとして見てるんじゃなくって………」
一人の男性として愛している、と言おうとした彼女をヒジェは遮ってその頬をつねってきた。
「そなた、嫉妬してるな?」
「えっ」
突然本心をつかれたウォルファは、一気に赤く染め上がる頬の色を隠そうと彼の手を振り払い、後ろを向いた。すると彼はなにかを思い出したようで、懐からあるものを取り出すと、後ろから彼女の目の前にちらつかせた。
「ここ、何か思い出さんか?」
彼が手に持っているのは、一本の長い紐だった。それを見てすぐ、彼女は何の紐なのかを思い出した。
「あ……あのときの紐ね?」
「そうだ!そしてここはあのときの脇道だ」
ウォルファは恥ずかしさも忘れて満面の笑顔でヒジェの方を振り返ると、辺りをもう一度よく見回した。過ぎた日々が思い出として残っているこの空間に、まさかヒジェと恋人として訪れることがあるとは思っても見なかった彼女は、懐かしさにひたった。
「ねぇ、あなたって結局何から追われていたの?」
「えっ?そ、それは………男の妻と……ちょっと寝ただけだ」
「それは残念だわ。もっと早くに知っていれば、見捨てて立ち去っていました。」
放蕩息子だった頃の自分を思いだし、ヒジェは吹き出した。不思議そうにその顔をウォルファが見つめている。彼はあのとき隠れた反物屋に入って、商品を見る振りをして奥に座ると、一つずつ彼女と出会う前のことを話しだした。
「私──いや、俺は放蕩息子だった。決してそれは世間への反動とかではなく、むしろ世間を欺くための仮初めの姿だった。」
ヒジェは真偽を聞きたそうにしているウォルファを納得させるために続けた。
「俺は自分の存在を、こんなゴミみたいな身分制度に縛られた世界から認めてもらうために、必死で頑張った。俺は叔父からあらゆる才能を認められていたし、自分でも政治家と通訳官の能力には気づいていた。」
いつのまにかウォルファの瞳から疑念は消え去り、彼女はただヒジェの話に引き込まれていた。
「俺は、ずっとこんな世界の理不尽さに飽き飽きしていた。都に戻ってからもまだこんな偽りの生活を続けなければならないのか…とな。だが、そなたに出会った。あの日から気がつけば少しずつ俺は変わっていった。」
彼は自分とウォルファを隔てる商品の赤い薄布を上げると、にこりと微笑んでこう言った。
「───誰でもない。そなたが俺を変えてくれたのだ。そなたが自分の気持ちに正直になれるような生き方をせよと、俺に教えてくれたのだ。」
「私が………?あなたを…変えた…?」
「そうだ、俺を変えた。そなたはどんな女でも俺にかけることの出来なかった、想うという呪いをかけてしまった。決して、俺がかかってはならない呪いを。」
彼はウォルファを抱き寄せると、一筋の涙を流しながらやっとのことで声を絞り出した。
「………愛している。これからは……どのような道となってもそなたと……他でもないそなたと共に生きてみたい。それが奴らを見返したいと思い続けててきた俺が抱く、ただ一つの夢になってしまった」
それは自分への思慕のために、領議政となり国政を握るという夢を諦め、ヒジェが礼賓寺の署長として一生涯を終えるという覚悟のこもった言葉だった。
「領議政になる夢は、お捨てになるの?王様の次に偉い男になりたいとおっしゃっていたのに」
「あんな夢はそなたの前なら簡単に捨てられる。そなたと比べれば、どんなことも些末なものだ。俺はそなたを愛している。それが今の俺のすべてであり、俺を……俺だと言い張れる唯一の真実だ」
その本心からの言葉に、ウォルファの心は打ち震えた。本当は、彼の身分のせいで生きる道に待ち受ける苦難のためなら、今すぐにでも愚かなことだと怒り、自分を忘れて領議政になる夢を取れと言うべきだとはわかっていた。だが、出来なかった。彼女もヒジェをあまりに深く愛していた。愛するがゆえに、どうしても離れられなかった。
ウォルファは彼の背中に腕を回すと、服を掴んで泣き崩れた。また、ヒジェも泣いていた。それは彼が今までに流してきたどんな涙よりも暖かい、けれど最も切なくて胸を締め付けられるものだった。
「こんなにも………愛とは優しく、暖かなものなのだな」
「そうですよ、ヒジェ様。私の愛が、届いていますか?」
彼女はそう言うと、優しく彼の鼓動に手を触れた。その優しさが染み込むようで、ヒジェはまた溢れてくる涙を抑えられず、大粒の熱い涙を流した。
「ああ。しかと届いておる。痛いくらいに…この胸に…届いて…届いておる」
「私がお側に居なくても、あなたが私から離れていても、この暖かさを忘れないで下さい。私はどんな時も、あなたを想っていますから」
「ウォルファ……………」
彼はウォルファを強く抱き締め、その暖かさを身体に忘れぬように刻み付けた。例え一歩踏み出した世界の風が身を切るように冷たくとも、自分には帰る場所があり、彼女の温もりがずっと存在していることは、ずっと換局政争で疲れていたヒジェの身体を癒した。
───これからは彼女の隣で自分の生き方に恥じず、全うに笑っていられるような正直で正しい生き方をしよう。
ようやく悪事から手を引き、生まれ変わって新しい生き方をしようと決意したヒジェは、もう一度彼女を強く抱き締めるのだった。
ウォルファとヒジェは、人目も気にせず往来の真ん中で手を繋ぎながら歩いていた。ふと、彼は手芸屋の前で足を止めると懐から先程の紐を取り出して店主に尋ねた。
「これと同じものはないか?」
「ございます!紺に近い青色の紐ですね。これですが」
「一本くれ。」
ウォルファは紐を見ながら首をかしげた。
「こんなの何に使うの?」
「まぁ、見ておれ。」
ヒジェはウォルファを町外れのあずまやに連れていくと、紐を二本取り出して昔もらった方のものを彼女に渡した。
「紐細工の作り方を教えてくれ。同じものを作る」
「ええ………?無理ですよ、難しいですから」
「できないとは限らんだろう?出来る!絶対出来る!!」
そう言い張るヒジェに圧され、渋々彼女は作り方を教え始めた。
「………それからこれを、ここに通すんです。……ちょっとヒジェ様、それはちがいますよ。」
「難しいな………無理だ。」
「投げ出さない。頑張ってください。」
開始数十分でもう投げ出そうとするヒジェを諫めながら、ウォルファは懇切丁寧に解説をした。口ではやめると言いつつも、心折れずについてくるヒジェはよく見ると手元ではなくずっと彼女の顔を見ていた。だから出来ないのかと気づいた彼女は、ヒジェの頭をぐいっと手元に向けた。
「私を見るのではなく、手元を見て。」
「だが、手元を見ると胸元と首筋と後れ毛が………」
彼は彼で目のやりどころに困っていたのかとウォルファは一瞬感心したが、すぐに我に返ると彼の手を思いきり叩いた。
「もう何でもいいから手元を見て!!」
「お許しが出たなら見させてもらいますよ、お嬢様。」
「………全く………」
それからは早かった。初見の印象とは裏腹に器用なヒジェは、コツを掴んだのか非常に手際よく作業についてきて、ウォルファとほぼ同じ出来で飾りを完成させた。彼は出来た紐飾りをウォルファの服に通すと、全体を満足そうに眺めている。
「うむ、素晴らしい。」
「じゃあ、あなたにもつけてあげる」
「おい、それは違うぞ。俺を女装癖のある放蕩息子に仕立て上げるな!」
逃げ回るヒジェを取り押さえ、無理矢理腰につけようとするウォルファは、間違えて彼の腰ひもを解いてしまった。
「あっ………」
「……そんなに俺の裸が見たいなら、いつでも見せてやるぞ?」
冗談なのか、真剣なのか、ヒジェは微笑みながら上着を脱ぎ始めた。慌てて彼女は顔を背けると、首を横に振って否定しはじめる。
「い、いらないわよ!誰があなたの怠慢なたるんだ身体になんて興味を持つのよ!」
「暑いな………よし、水浴びにでも行こうか」
そのヒジェの誘いに、さすがのウォルファもむきになった。
「えっ……やだ、誰があなたの前で服を脱ぐものですか!」
「破廉恥なのはそなたの方だろう。誰が脱げと言った」
「べっ…別に!普通はそう思うでしょう?」
「いいや、思わんな。すまん!そなたのその節だらな願望に気づかなくて。」
「違います!!ちょっと、下ろして!!ねえってば!!」
ヒジェは勝手に話を持っていってしまうと、ウォルファを軽々と抱き上げて渓谷の方に歩きだした。肩を叩いて抵抗を試みるものの、意外に腕力のある彼はびくともしない。結局初めての出会いと同じように、ウォルファはまたヒジェの思うように扱われるはめになった。
渓谷には冷たくて爽やかな澄んだ水が流れていた。ウォルファはようやく岩場で下ろしてもらうと、手を少しだけ川につけた。身体の芯まで籠った熱がすぐに奪われ、痛いほどに気分の良い冷たさに、彼女はここにヒジェを突き落としたらどういう反応をするだろうかと思った。ちらりと横目で彼を見ると、上着を脱いで下着姿になったヒジェが、少し手をつけただけで川の冷たさに驚いている。ウォルファは怪我をしない程度に深さがあることを確かめると、ヒジェを後ろから突き落とした。盛大な水しぶきをあげて水中に叩きつけられたヒジェは、驚いて後ろを振り返った。
「なっ……殺す気か!?」
「背中を押してあげただけよ。何事にも踏ん切りが必要でしょう?」
ヒジェは得意気に笑うウォルファに仕返ししてやろうと心に決めると、しゃがみこんでいる彼女の腕をつかんだ。
「そなた…………来い!」
「えっ…………きゃっ!!」
ヒジェが川の方に引っ張ったので、ウォルファも顔から水に落ちた。その様子を見た彼は大笑いしている。
「どうだ!川に落ちるのは冷たいだろう?」
「ええ、とっても冷たいわ。お化粧が取れたらどうするつもりなのよ」
ややすねている彼女が面白くて、ヒジェはつい意地悪なことを言ってみる気になった。
「知らん。そもそももとから酷い顔だから、素っぴんだと俺は思っていたぞ」
「酷いわね!それが婚約者に対していう言葉?」
「婚約者を川に突き落とす女の方が珍しいと思うが?」
一頻り言い合うと、二人は互いにずぶ濡れなのがあまりに可笑しくて笑い合った。
「ほら、俺にしがみついていないと流されるぞ」
「わかってるわよ。別に………」
「今日は特別に俺の胸板を貸してやる。」
ヒジェはそう言うと、すっかりはだけた胸にウォルファの顔を埋めさせた。初めて触れる男の胸元の感触に、彼女は思わず赤面した。
「あっ……あの………」
「男慣れしていない奴め。思いの外筋肉質で驚いたであろう?」
「え、ええ。あなたの割には……ね」
過去に手違いで見たことのある、兄ウンテクの青白くてひょろひょろのものとは違う、男性らしい筋肉質な胸板に、ウォルファは鼓動が彼にも届いてしまいそうになるほど速まるのを感じていた。身体も何故だか熱くなり、水の冷たささえ忘れてしまう。そんな様子を見ていたヒジェは、不敵な笑みを浮かべて彼女の反応を楽しんでいる。
「ほう………俺に惚れ直したか?」
「ちょっとは男らしいのね。でも見直しただけよ。」
「嘘だ。水浴びをしているというのに身体が熱いぞ?熱か?」
彼はウォルファを抱き寄せて笑っている。ますます焦る彼女は、より空回りしていく。
「ちっ……違います!!ちょっと、熱いだけです。」
「怪しい。そんなに俺が好きか………」
彼は愛しさのあまり、ウォルファの頬を指でおした。何とも馬鹿にされているようで釈然としなかったが、彼女もヒジェを真っ直ぐ見つめると、はにかみながら微笑んだ。その様子にこらえきれなくなった彼は、ウォルファの唇に深い口づけをした。
「………暖かい。そなたの存在を感じる」
「私はここにいます。忘れないで。見捨てたりしないで」
「こんなに可愛らしい女を、どうして見捨てられようか。鬼でも出来ぬ所業だぞ」
そう言うと彼はもう一度、今度は確かめるように唇を重ねた。水の流れる音と、袖口を濡らす水滴が滴り落ちる音だけが支配する世界。二人の世界は、そんな優しい静寂に封じ込められているのだった。
夕方、ずぶ濡れになって帰ってきたウォルファを見て、チェリョンは驚きのあまりすっとんきょうな声を上げた。
「お嬢様!?何ゆえそのような格好を?ああ、いけません。早くお着替えになって。お風邪を召しますよ」
「いいのよ。暖かいから」
「え?」
彼女はチェリョンにとってはさっぱり意味のわからない言葉を掛けると、そのまま自室へ戻っていった。残されたチェリョンはしばらく呆然としていたが、やがてすぐに主人の服を替えねばと思い立ち、慌ててその後をついていくのだった。
一方同じくずぶ濡れになったヒジェは、自室に帰るとにやけながら座布団に飛び込んで寝転がった。
「ぬふふ………ふふ………」
「ヒジェ!ずぶ濡れになって一体何をしていたのだ」
ハン執事から若旦那ことヒジェがずぶ濡れになって帰ってきたと聞き付け、慌てて部屋に入ってきた母のソンリプは、その姿に呆れ返った。だがそんなことも関係なしに、ヒジェはにやけ顔を続けながらこう言った。
「ああ、母上。私はあの子──シム・ウォルファと婚姻します。」
「そうか。あの子はそなたが心から愛したただ一人の女人。どうせ止めても無駄であろう」
「よくご存じで。俺は家族を除いた赤の他人の中で、あの子のためなら死ねます。」
意外な発言に彼女は息子の愛情の深さに驚いた。そしてそれが何故西人の令嬢でなければならなかったのかと、 改めてその理不尽さに哀しみを覚えた。
「ヒジェ、そなた………」
「大丈夫です。身体の関係はありません。俺は本当に大切なと人は簡単に寝られないようです。」
その発言も彼女を驚かせた。気に入った女とは次から次へと関係を持つ癖のあったヒジェが、ここまで女性を大切にすることなどあり得ないからだ。
「それが誰かを愛するということだ。お前はあまりにそれを知らなさすぎた。」
「ええ。本当に、知らなさすぎました。今更、今日更、殊更知りました。」
そう言いながら、ヒジェは泣いていた。それは、誰かを愛するという喜び、そして誰かのために生きていくという幸せを噛み締めて流す、最初で最後の彼にとっての美しい涙だった。
明日からはまた、あの子との幸せな生活が始まる。そしてそのうちに婚姻するのだ。もう自分の未来にはささやかでも確かな幸せだけが待っている。手を伸ばせば、もうすぐそこにあるし、野心なんて下らない重荷を手放せば、驚くほどその幸せにすぐ近づけるようになった。
生まれて初めて身軽になるという言葉の意味を知ったチャン・ヒジェは、その喜びを確かめながら衣を替えるのも忘れて目を閉じた。この日の幸せを、ずっと記憶に留めておくために。手にはウォルファから贈られた紐飾りが握られている。それを指に絡めて胸に当てている彼は、心からこの幸せに感謝するのだった。
だが、彼はまだ知らなかった。自分は既に引き返すことが出来ない程の悪事に手を染めてしまっていることを。
清国の使節団が知らせも入れず都に向かって進んでいた。その団長らしき人物は、ヒジェが義州で取引をした官僚。彼は懐から風呂敷を取り出すと、少しだけ開いて中身を確認した。その表紙には、確かに『騰録類抄』と書かれていた。
この国を揺るがす大罪が、後に西人と南人、トンイとオクチョン、そしてウォルファとヒジェの運命に大きな影響を与えることとなるのだが、彼らはまだそのことを知らない。
しかし、ヒジェが自らが堕ちた闇がいかに自分の手足を縛ってしまっているかに気づくのは、そう遅くはない話である。また、近くに見えた幸せは、彼にとって驚くほど遠い道のりであるということも。
「あの子………一体、何者なの…?」
「あっ、テヒさん!あの娘、思い出したわ。ほら、西人の没落したシム家の令嬢ウォルファ様よ。才色兼備で非の打ち所のない方って、うちの客が言ってたわ」
───ウォルファ……?
その名前にテヒは聞き覚えがあったし、その名前には何度も嫉妬していた。それは、ヒジェが自分との夜が済んで早々に寝落ちしてから、そして行為に及んでいる最中もたまに呟く名前だった。顔も知らない、ただ女ではあるらしいというだけで嫉妬させられることは、鼻が高い彼女にとって苦痛でしかなかった。そんなこともあり、彼女の表情はいつもの冷静さを失っていた。
ウォルファのことを誉めちぎった女は、テヒが嫉妬から厳しい視線を刺してきているのに気づき、慌てて訂正して付け加えた。
「あっ、もちろん、テヒさんの方がヒジェ様にはふさわしいと思うわ」
「当然ですよ、テヒさん。あんな小娘、捻り潰してやってください」
機嫌のなおったテヒは、一言文句を言ってやろうと思い付き、取り巻きと共にウォルファに詰め寄った。驚いた彼女は思わずあとずさったが、そのただならぬ目力に負けている様子もない。
「……何の、用ですか?」
「チャン・ヒジェ様と恋仲だとか?」
「はい、そうですが。それが何か問題でも?」
ウォルファは瞬時にヒジェの女だと悟り、馬鹿にされてはならないと身構えた。その意外な反応にむしろテヒたちの方が驚いてしまった。だが、彼女もひるまずに返答する。
「忘れないで。あの方が孤独にあなたを想っているとき、夜に身と心を癒していたのは私よ。あなたは私なんかよりも彼を知らないわ。ずっと知らないはずよ。」
「たかだか夜のお相手をしただけで頭に乗らないで。そんなご自慢は要らないわ」
彼女の言葉に頭が熱くなるのを感じたが、すぐに返すべき適切な言葉を思い出すとウォルファは冷たくいい放った。二人がにらみあっているとき、丁度ヒジェがやって来た。彼はすぐにテヒの姿に気づき、面倒なことになったなと思いながらも無視をしてウォルファに話しかけた。
「待たせたな」
「ええ、もう少し早くにきて欲しかったわ。そのせいでこの人と知り合ってしまったんだもの。」
批判しているのか、ほめているのかが良くわからない返答に身を縮み上がらせながら、ヒジェは恐る恐るテヒの方を向いた。彼女はいかにも不愉快そうに彼を見ている。ヒジェは困りかねてウォルファに聞こえない場所まで彼女を連れていくと、とたんに突き放してこう言った。
「………何の用だ。嫉妬深い女は嫌いだと、以前に俺は言ったはずだ。二度とは行かんが、少なくとも客に関心を向けて欲しいなら、まずはその態度と愛想の悪さを改めろ」
「改めませんし、あなたはまた私の元へ来ます。必ず。」
「絶対に行かん。死んでも貴様の元へは行かん。俺の心は結局お前では癒されなかった」
その言葉にテヒは凍りついた。ヒジェの心には、ウォルファだけでなく自分が少しでも居ると思っていたからだ。彼女は怒りをむき出しにしてヒジェを叩こうとしたが、その手は空中で停止した。いや正確には止められた。ただ事ではないと思ったウォルファが彼女を止めたのだ。
「お止めになって。叩くなら私を叩きなさい。この方を一度は見捨てて義州に逃げた私が悪いの。そうしなければあなたはこの人に出会わずに済んだわ。だから、私を叩いて。さあ!」
テヒは有無を言わずにウォルファをぶった。だが、その瞬間、彼女はヒジェから侮蔑の眼差しを向けられていることに気づいてしまった。そして彼はあきれながらウォルファがぶたれた頬をさすると、テヒに一瞥もくれずにこう言った。
「……そなたは俺の金と名誉が欲しくて近づいただろう。彼女は俺と婚姻しても、浮き名が立っても何の得にもならんというのに……」
テヒはヒジェのその言葉に異議を唱えたくて、彼の裾を掴んだ。だが、それは虚しく振り払われてしまった。
「警告する。彼女に近づくな。危害も加えるな。さもなくば俺は貴様を殺す」
今までに見たこともなかった殺気を帯びているヒジェに呆気にとられてしまった彼女は、そのまま呆然と立ち尽くすことしか出来なかった。そして、ヒジェに連れられたウォルファは、強引に手を引かれてその場を後にするのだった。
テヒは生まれて初めて味わった大きすぎる絶望と悲しみと憤りに耐えられず、魂の抜けたように都を一人で歩いていた。
初めてヒジェに会ったのは、秋の終わりだった。彼が捕盗大将であるとだけ聞いてすぐに飛び付いた客で、すぐに身体の関係を求めてくる彼を始めはテヒも嫌悪していた。だが、いつのまにかそんな関係でもヒジェと時間を過ごす方が重要に思えてきてしまったのだ。妓生の掟で、"聞く耳を持たず、話す口を持たず、客に奪われる心持たず"というものがある。
「──私は結局、奪われる心を捨てられなかったのね………馬鹿なカン・テヒ。惨めなカン・テヒ。」
思えば思うほど、ヒジェを愛していることに気づいてしまうテヒは、どうすればこの悲しみから逃れられるのだろうかと思い、普段は見上げもしない空を仰いだ。こんな日に限って、空は青く澄んでいる。
「ああ、私みたいな女には生きづらい空だわ。なんて酷い天気なのかしら」
彼女の頬に涙がひとすじ伝ったことを、往来のものは誰も気にも留めない。それは当然、その場に居ないヒジェも往来の他人と同じことだった。
一方、ヒジェにあの手この手と機嫌を取られ、ウォルファはますます機嫌を傾かせていくばかりである。
「ああ…ウォルファ、本当に済まなかった」
「何に対して謝っていらっしゃるのかがさっぱりわからないわ。それに、私に謝る前にその………ええと、テヒさんだったかしら?彼女に謝るべきだわ」
意外な返事にヒジェは言葉を失った。普通の女ならここで自分に対して誠心誠意の謝罪を求めてくるのが普通だというのに。ウォルファはむしろその逆を求めてくる。
「……あなたって、鈍感なの?敏感なの?」
「へっ……ああ…触られ方による…な」
急な質問に感じ方の話かと勘違いしたヒジェは、とっさに場違いな返事をした。もちろんウォルファはますます不機嫌になる。
「身体の話なんてしてないわよ、この変態揉み髭!私が聞いているのはあなたの心の話!」
胸元をを叩きながら怒る彼女の姿を見て、彼はようやく気づいた。
「あっ…………」
「気づいた?テヒさんは本当はあなたを客とか金づるとかとして見てるんじゃなくって………」
一人の男性として愛している、と言おうとした彼女をヒジェは遮ってその頬をつねってきた。
「そなた、嫉妬してるな?」
「えっ」
突然本心をつかれたウォルファは、一気に赤く染め上がる頬の色を隠そうと彼の手を振り払い、後ろを向いた。すると彼はなにかを思い出したようで、懐からあるものを取り出すと、後ろから彼女の目の前にちらつかせた。
「ここ、何か思い出さんか?」
彼が手に持っているのは、一本の長い紐だった。それを見てすぐ、彼女は何の紐なのかを思い出した。
「あ……あのときの紐ね?」
「そうだ!そしてここはあのときの脇道だ」
ウォルファは恥ずかしさも忘れて満面の笑顔でヒジェの方を振り返ると、辺りをもう一度よく見回した。過ぎた日々が思い出として残っているこの空間に、まさかヒジェと恋人として訪れることがあるとは思っても見なかった彼女は、懐かしさにひたった。
「ねぇ、あなたって結局何から追われていたの?」
「えっ?そ、それは………男の妻と……ちょっと寝ただけだ」
「それは残念だわ。もっと早くに知っていれば、見捨てて立ち去っていました。」
放蕩息子だった頃の自分を思いだし、ヒジェは吹き出した。不思議そうにその顔をウォルファが見つめている。彼はあのとき隠れた反物屋に入って、商品を見る振りをして奥に座ると、一つずつ彼女と出会う前のことを話しだした。
「私──いや、俺は放蕩息子だった。決してそれは世間への反動とかではなく、むしろ世間を欺くための仮初めの姿だった。」
ヒジェは真偽を聞きたそうにしているウォルファを納得させるために続けた。
「俺は自分の存在を、こんなゴミみたいな身分制度に縛られた世界から認めてもらうために、必死で頑張った。俺は叔父からあらゆる才能を認められていたし、自分でも政治家と通訳官の能力には気づいていた。」
いつのまにかウォルファの瞳から疑念は消え去り、彼女はただヒジェの話に引き込まれていた。
「俺は、ずっとこんな世界の理不尽さに飽き飽きしていた。都に戻ってからもまだこんな偽りの生活を続けなければならないのか…とな。だが、そなたに出会った。あの日から気がつけば少しずつ俺は変わっていった。」
彼は自分とウォルファを隔てる商品の赤い薄布を上げると、にこりと微笑んでこう言った。
「───誰でもない。そなたが俺を変えてくれたのだ。そなたが自分の気持ちに正直になれるような生き方をせよと、俺に教えてくれたのだ。」
「私が………?あなたを…変えた…?」
「そうだ、俺を変えた。そなたはどんな女でも俺にかけることの出来なかった、想うという呪いをかけてしまった。決して、俺がかかってはならない呪いを。」
彼はウォルファを抱き寄せると、一筋の涙を流しながらやっとのことで声を絞り出した。
「………愛している。これからは……どのような道となってもそなたと……他でもないそなたと共に生きてみたい。それが奴らを見返したいと思い続けててきた俺が抱く、ただ一つの夢になってしまった」
それは自分への思慕のために、領議政となり国政を握るという夢を諦め、ヒジェが礼賓寺の署長として一生涯を終えるという覚悟のこもった言葉だった。
「領議政になる夢は、お捨てになるの?王様の次に偉い男になりたいとおっしゃっていたのに」
「あんな夢はそなたの前なら簡単に捨てられる。そなたと比べれば、どんなことも些末なものだ。俺はそなたを愛している。それが今の俺のすべてであり、俺を……俺だと言い張れる唯一の真実だ」
その本心からの言葉に、ウォルファの心は打ち震えた。本当は、彼の身分のせいで生きる道に待ち受ける苦難のためなら、今すぐにでも愚かなことだと怒り、自分を忘れて領議政になる夢を取れと言うべきだとはわかっていた。だが、出来なかった。彼女もヒジェをあまりに深く愛していた。愛するがゆえに、どうしても離れられなかった。
ウォルファは彼の背中に腕を回すと、服を掴んで泣き崩れた。また、ヒジェも泣いていた。それは彼が今までに流してきたどんな涙よりも暖かい、けれど最も切なくて胸を締め付けられるものだった。
「こんなにも………愛とは優しく、暖かなものなのだな」
「そうですよ、ヒジェ様。私の愛が、届いていますか?」
彼女はそう言うと、優しく彼の鼓動に手を触れた。その優しさが染み込むようで、ヒジェはまた溢れてくる涙を抑えられず、大粒の熱い涙を流した。
「ああ。しかと届いておる。痛いくらいに…この胸に…届いて…届いておる」
「私がお側に居なくても、あなたが私から離れていても、この暖かさを忘れないで下さい。私はどんな時も、あなたを想っていますから」
「ウォルファ……………」
彼はウォルファを強く抱き締め、その暖かさを身体に忘れぬように刻み付けた。例え一歩踏み出した世界の風が身を切るように冷たくとも、自分には帰る場所があり、彼女の温もりがずっと存在していることは、ずっと換局政争で疲れていたヒジェの身体を癒した。
───これからは彼女の隣で自分の生き方に恥じず、全うに笑っていられるような正直で正しい生き方をしよう。
ようやく悪事から手を引き、生まれ変わって新しい生き方をしようと決意したヒジェは、もう一度彼女を強く抱き締めるのだった。
ウォルファとヒジェは、人目も気にせず往来の真ん中で手を繋ぎながら歩いていた。ふと、彼は手芸屋の前で足を止めると懐から先程の紐を取り出して店主に尋ねた。
「これと同じものはないか?」
「ございます!紺に近い青色の紐ですね。これですが」
「一本くれ。」
ウォルファは紐を見ながら首をかしげた。
「こんなの何に使うの?」
「まぁ、見ておれ。」
ヒジェはウォルファを町外れのあずまやに連れていくと、紐を二本取り出して昔もらった方のものを彼女に渡した。
「紐細工の作り方を教えてくれ。同じものを作る」
「ええ………?無理ですよ、難しいですから」
「できないとは限らんだろう?出来る!絶対出来る!!」
そう言い張るヒジェに圧され、渋々彼女は作り方を教え始めた。
「………それからこれを、ここに通すんです。……ちょっとヒジェ様、それはちがいますよ。」
「難しいな………無理だ。」
「投げ出さない。頑張ってください。」
開始数十分でもう投げ出そうとするヒジェを諫めながら、ウォルファは懇切丁寧に解説をした。口ではやめると言いつつも、心折れずについてくるヒジェはよく見ると手元ではなくずっと彼女の顔を見ていた。だから出来ないのかと気づいた彼女は、ヒジェの頭をぐいっと手元に向けた。
「私を見るのではなく、手元を見て。」
「だが、手元を見ると胸元と首筋と後れ毛が………」
彼は彼で目のやりどころに困っていたのかとウォルファは一瞬感心したが、すぐに我に返ると彼の手を思いきり叩いた。
「もう何でもいいから手元を見て!!」
「お許しが出たなら見させてもらいますよ、お嬢様。」
「………全く………」
それからは早かった。初見の印象とは裏腹に器用なヒジェは、コツを掴んだのか非常に手際よく作業についてきて、ウォルファとほぼ同じ出来で飾りを完成させた。彼は出来た紐飾りをウォルファの服に通すと、全体を満足そうに眺めている。
「うむ、素晴らしい。」
「じゃあ、あなたにもつけてあげる」
「おい、それは違うぞ。俺を女装癖のある放蕩息子に仕立て上げるな!」
逃げ回るヒジェを取り押さえ、無理矢理腰につけようとするウォルファは、間違えて彼の腰ひもを解いてしまった。
「あっ………」
「……そんなに俺の裸が見たいなら、いつでも見せてやるぞ?」
冗談なのか、真剣なのか、ヒジェは微笑みながら上着を脱ぎ始めた。慌てて彼女は顔を背けると、首を横に振って否定しはじめる。
「い、いらないわよ!誰があなたの怠慢なたるんだ身体になんて興味を持つのよ!」
「暑いな………よし、水浴びにでも行こうか」
そのヒジェの誘いに、さすがのウォルファもむきになった。
「えっ……やだ、誰があなたの前で服を脱ぐものですか!」
「破廉恥なのはそなたの方だろう。誰が脱げと言った」
「べっ…別に!普通はそう思うでしょう?」
「いいや、思わんな。すまん!そなたのその節だらな願望に気づかなくて。」
「違います!!ちょっと、下ろして!!ねえってば!!」
ヒジェは勝手に話を持っていってしまうと、ウォルファを軽々と抱き上げて渓谷の方に歩きだした。肩を叩いて抵抗を試みるものの、意外に腕力のある彼はびくともしない。結局初めての出会いと同じように、ウォルファはまたヒジェの思うように扱われるはめになった。
渓谷には冷たくて爽やかな澄んだ水が流れていた。ウォルファはようやく岩場で下ろしてもらうと、手を少しだけ川につけた。身体の芯まで籠った熱がすぐに奪われ、痛いほどに気分の良い冷たさに、彼女はここにヒジェを突き落としたらどういう反応をするだろうかと思った。ちらりと横目で彼を見ると、上着を脱いで下着姿になったヒジェが、少し手をつけただけで川の冷たさに驚いている。ウォルファは怪我をしない程度に深さがあることを確かめると、ヒジェを後ろから突き落とした。盛大な水しぶきをあげて水中に叩きつけられたヒジェは、驚いて後ろを振り返った。
「なっ……殺す気か!?」
「背中を押してあげただけよ。何事にも踏ん切りが必要でしょう?」
ヒジェは得意気に笑うウォルファに仕返ししてやろうと心に決めると、しゃがみこんでいる彼女の腕をつかんだ。
「そなた…………来い!」
「えっ…………きゃっ!!」
ヒジェが川の方に引っ張ったので、ウォルファも顔から水に落ちた。その様子を見た彼は大笑いしている。
「どうだ!川に落ちるのは冷たいだろう?」
「ええ、とっても冷たいわ。お化粧が取れたらどうするつもりなのよ」
ややすねている彼女が面白くて、ヒジェはつい意地悪なことを言ってみる気になった。
「知らん。そもそももとから酷い顔だから、素っぴんだと俺は思っていたぞ」
「酷いわね!それが婚約者に対していう言葉?」
「婚約者を川に突き落とす女の方が珍しいと思うが?」
一頻り言い合うと、二人は互いにずぶ濡れなのがあまりに可笑しくて笑い合った。
「ほら、俺にしがみついていないと流されるぞ」
「わかってるわよ。別に………」
「今日は特別に俺の胸板を貸してやる。」
ヒジェはそう言うと、すっかりはだけた胸にウォルファの顔を埋めさせた。初めて触れる男の胸元の感触に、彼女は思わず赤面した。
「あっ……あの………」
「男慣れしていない奴め。思いの外筋肉質で驚いたであろう?」
「え、ええ。あなたの割には……ね」
過去に手違いで見たことのある、兄ウンテクの青白くてひょろひょろのものとは違う、男性らしい筋肉質な胸板に、ウォルファは鼓動が彼にも届いてしまいそうになるほど速まるのを感じていた。身体も何故だか熱くなり、水の冷たささえ忘れてしまう。そんな様子を見ていたヒジェは、不敵な笑みを浮かべて彼女の反応を楽しんでいる。
「ほう………俺に惚れ直したか?」
「ちょっとは男らしいのね。でも見直しただけよ。」
「嘘だ。水浴びをしているというのに身体が熱いぞ?熱か?」
彼はウォルファを抱き寄せて笑っている。ますます焦る彼女は、より空回りしていく。
「ちっ……違います!!ちょっと、熱いだけです。」
「怪しい。そんなに俺が好きか………」
彼は愛しさのあまり、ウォルファの頬を指でおした。何とも馬鹿にされているようで釈然としなかったが、彼女もヒジェを真っ直ぐ見つめると、はにかみながら微笑んだ。その様子にこらえきれなくなった彼は、ウォルファの唇に深い口づけをした。
「………暖かい。そなたの存在を感じる」
「私はここにいます。忘れないで。見捨てたりしないで」
「こんなに可愛らしい女を、どうして見捨てられようか。鬼でも出来ぬ所業だぞ」
そう言うと彼はもう一度、今度は確かめるように唇を重ねた。水の流れる音と、袖口を濡らす水滴が滴り落ちる音だけが支配する世界。二人の世界は、そんな優しい静寂に封じ込められているのだった。
夕方、ずぶ濡れになって帰ってきたウォルファを見て、チェリョンは驚きのあまりすっとんきょうな声を上げた。
「お嬢様!?何ゆえそのような格好を?ああ、いけません。早くお着替えになって。お風邪を召しますよ」
「いいのよ。暖かいから」
「え?」
彼女はチェリョンにとってはさっぱり意味のわからない言葉を掛けると、そのまま自室へ戻っていった。残されたチェリョンはしばらく呆然としていたが、やがてすぐに主人の服を替えねばと思い立ち、慌ててその後をついていくのだった。
一方同じくずぶ濡れになったヒジェは、自室に帰るとにやけながら座布団に飛び込んで寝転がった。
「ぬふふ………ふふ………」
「ヒジェ!ずぶ濡れになって一体何をしていたのだ」
ハン執事から若旦那ことヒジェがずぶ濡れになって帰ってきたと聞き付け、慌てて部屋に入ってきた母のソンリプは、その姿に呆れ返った。だがそんなことも関係なしに、ヒジェはにやけ顔を続けながらこう言った。
「ああ、母上。私はあの子──シム・ウォルファと婚姻します。」
「そうか。あの子はそなたが心から愛したただ一人の女人。どうせ止めても無駄であろう」
「よくご存じで。俺は家族を除いた赤の他人の中で、あの子のためなら死ねます。」
意外な発言に彼女は息子の愛情の深さに驚いた。そしてそれが何故西人の令嬢でなければならなかったのかと、 改めてその理不尽さに哀しみを覚えた。
「ヒジェ、そなた………」
「大丈夫です。身体の関係はありません。俺は本当に大切なと人は簡単に寝られないようです。」
その発言も彼女を驚かせた。気に入った女とは次から次へと関係を持つ癖のあったヒジェが、ここまで女性を大切にすることなどあり得ないからだ。
「それが誰かを愛するということだ。お前はあまりにそれを知らなさすぎた。」
「ええ。本当に、知らなさすぎました。今更、今日更、殊更知りました。」
そう言いながら、ヒジェは泣いていた。それは、誰かを愛するという喜び、そして誰かのために生きていくという幸せを噛み締めて流す、最初で最後の彼にとっての美しい涙だった。
明日からはまた、あの子との幸せな生活が始まる。そしてそのうちに婚姻するのだ。もう自分の未来にはささやかでも確かな幸せだけが待っている。手を伸ばせば、もうすぐそこにあるし、野心なんて下らない重荷を手放せば、驚くほどその幸せにすぐ近づけるようになった。
生まれて初めて身軽になるという言葉の意味を知ったチャン・ヒジェは、その喜びを確かめながら衣を替えるのも忘れて目を閉じた。この日の幸せを、ずっと記憶に留めておくために。手にはウォルファから贈られた紐飾りが握られている。それを指に絡めて胸に当てている彼は、心からこの幸せに感謝するのだった。
だが、彼はまだ知らなかった。自分は既に引き返すことが出来ない程の悪事に手を染めてしまっていることを。
清国の使節団が知らせも入れず都に向かって進んでいた。その団長らしき人物は、ヒジェが義州で取引をした官僚。彼は懐から風呂敷を取り出すと、少しだけ開いて中身を確認した。その表紙には、確かに『騰録類抄』と書かれていた。
この国を揺るがす大罪が、後に西人と南人、トンイとオクチョン、そしてウォルファとヒジェの運命に大きな影響を与えることとなるのだが、彼らはまだそのことを知らない。
しかし、ヒジェが自らが堕ちた闇がいかに自分の手足を縛ってしまっているかに気づくのは、そう遅くはない話である。また、近くに見えた幸せは、彼にとって驚くほど遠い道のりであるということも。