4、通い始める心
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
あの宴以来、ウォルファはヒジェを避けるようになり始めていた。もちろん、彼はそんなことはお構い無しに追いかけ回して来るが。今日も暇を見計らって、彼は書庫に遊びに来ていた。
「暇ではないのか?こんなに書物に囲まれていたら、私だと眠くなってしまうが」
「私は書が好きなのです。…一番ではありませんが」
「ふぅん…」
一瞬の愁いも見逃さないヒジェは、不敵な笑みを浮かべ、彼女が見ていた書物を取り上げて顔を近づけた。
「な、何をするのですか」
書を取り上げられたことよりも、一気に距離が近づいたことに驚きを隠せないウォルファは、両手で思わず顔を覆った。手に取った書物を遠くに放り投げ、彼女の両手をやや強引に握ったヒジェは、そのまま机の上に両腕を伏せさせた。身動きの取れないウォルファは、ヒジェの顔を見ざるを得なくなった。もはや紅潮する頬を隠すものは何もない。彼は意地悪な笑顔を作ると、ユンの何倍も魅力的な声で囁いた。
「……お前の心が真に見つめているのは、私だ。」
「ど…どうして、わかるのですか。ユン様かも知れないではありませんか」
やっとのことで絞り出した声は、彼女らしくもないかすれて弱々しいものだった。かえってその一音一音が、明らかな動揺と図星さを裏付けてしまう。
「…私を甘く見るな。認めたほうが楽になるぞ、ウォルファ」
「……軟派な方は嫌いです」
ここまできてまだ強情を張るか…
ヒジェはやれやれといったように首を振ると、痛恨の一言を突きつけた。
「───ならば、おかしいですねぇ。あなたがユンの何倍も慕っているらしいこの私は、その軟派なのだが」
その瞬間、軟派とは程遠い冷淡な眼差しになったヒジェの変貌に、またウォルファは驚かされ、否定することさえ忘れてしまった。
───この人、本性は違うのね。軟派なのはやはり見せかけの仮面なんだわ。
それこそが、チャン・ヒジェという男の魅力なのか。彼女は暫くの間、更にこの魅力に墜ちていく自分の心に呆然とした。一方ヒジェの方は、なかなか頑なに自分を好いているという事実を受け入れないウォルファに少し苛立ちを感じ始めていた。気性の荒い本性をむき出しにしそうになるのを堪えて、彼は手を離した。
「あまり私を怒らせるなよ、シム殿。私が優しく笑っているうちに受け入れた方がお前の身のためだ」
そう言い残して彼は書庫を後にした。その日から、かれがウォルファの元を訪れることはすっかり絶えてしまった。
────何故なびかぬ。何故だ。
「ええい!!何故だ何故だ!!!!」
家に帰ったヒジェは、ありったけの力で机を叩いた。今までの女は皆、自分が優しく笑うだけで堕ちたというのに。ウォルファが明らかに違うのは気づいていた。だが、ここまで頑なだとは。彼は内心焦っていた。自分の気持ちを受け入れてくれなければくれないほど、彼の複雑な思いは増した。彼女を手に入れられない以上、他の女を見てもモノにしたいとも思わない。
「何なのだ…そなたは…」
市場で渡された紐を手に取ってそう呟いた彼もまた、ウォルファの魅力に墜ちていく自分に不安を抱いていた。ふと、彼は閃く。自分に気持ちが傾いているのならば、ユンとの話を壊せばいいのだと。
「なるほどな…これなら認めざるを得ない。」
顔を再びあげたヒジェの顔には、獲物を定めた蛇のような気迫が宿っていた。
次の日、ウォルファは義禁府に届け物をするためにユンの元へ向かっていた。同じ頃、ユンに宣戦布告するべく、ヒジェも別件をわざわざ買って出て義禁府に出向いていた。彼が到着したときには既にウォルファとユンが仲睦まじく談笑している最中だった。
───今だ。
「これは!ユン殿。それにウォルファ。先日はありがとうございました。丁度良かった。ウォルファ、お前にこれを返そう」
ユンが話す間も与えず、彼は懐から"切り札"を取り出した。これには流石のユンも絶句した。
それは、市場でウォルファが渡した例の紐だったのだ。しかし、彼はなにも紐に驚いたのではない。そのときの彼女の反応に対してだった。
「あら!返さなくても良かったのに…。」
迷惑そうに言っているが、その表情は確かにユンがずっと向けてほしいと願っていたものだった。だが、それはユンではなく、あのチャン・ヒジェに向けられているのだ。
─────ウォルファ、お前は…まさか…
彼は目を凝らしてウォルファを見ていた。すると、ヒジェがユンの視線に気づく。彼は宣戦布告とも取れる意味深な微笑みを浮かべると、軽く会釈をしてその場を後にした。すれ違い様にユンは、ヒジェに釘を刺した。
「…たかが中人風情に彼女は渡さぬ。節度をわきまえよ、チャン殿」
「それは彼女の心次第なのでは?ご自分が一番よくわかっていらっしゃるでしょうに」
今まで隠していた爪が一気に現れる。野心をむき出しにした表情でその場を離れたヒジェに対し、ユンは腸が煮えくり返りそうな怒りを抑えながら、会釈を返した。何が起きたのかさっぱりわからないウォルファは、紐を持ったまま口許を綻ばせていた。しかし、ユンの視線に気づき、慌てて紐を隠した。
「で、では失礼します…」
逃げるようにして帰った彼女の背中を、彼は拳を肩を震わせながら握って眺めた。
「…私が先に見つけた方なのに…」
たかだか通訳官の息子風情にとられてなるものか。
彼の心のなかに吹き荒れた嵐を現すように、春にしては冷たい風が頬を掠めていった。
ヒジェと話をしなくなって久しいある日のことだった。珍しく仏頂面の彼が石畳の上に座っているところを見つけたウォルファは、静かに横に座った。
「どうしたのですか?」
「…なんだ、そなたか。掲示物を見なかったのか?」
首を横に振る彼女に肩をすくめると、ヒジェは懐から紙を取りだし、彼女に渡した。内容は、毎年恒例の、義禁府と捕盗庁が合同で行う武術鍛練行事の知らせだった。
「これがどうかしたのですか?」
「私はオ・ユン様と戦うはめになった…」
はぁあ、とため息をついた彼は頭を抱えてまた鬱ぎこんでしまった。心当たりしかない悪意に、ヒジェは狙った獲物が大きすぎたなと今さら後悔をしていた。いかにも落ち込んでいる彼があまりに気の毒で、ウォルファは恐る恐る彼の手に自分の手を添えた。突然の優しさにヒジェは目を丸くした。
「…恥かいたっていいじゃないですか。でも、怪我だけはしないで下さい。チャン様が休まれると私も寂しいですから」
「ウォルファ……」
何故だか酷く恥ずかしくなってきて、ヒジェは自分の頬が異常に熱くなっていくのを感じていた。鼓動が速くなり、言葉に詰まる。
──────これが、好きという気持ちなのか…
今まで感じていた想いよりも強い感情に抗えない彼は、ウォルファが去ったあとも、初めて抱いた純粋な愛情に酔いしれていた。けれどずっと、求めていた感情だった。恋というのはどういうものなのか、形だけの逢瀬を重ねつづけた彼にとって、胸を締め付けるような想いはあまりに残酷だった。しかもようやく巡り会えたというのに、相手は西人。ヒジェは散り始めた桜を眺めながら、決意をした。
────必ず、左議政まで上り詰めてやる。その時、賤民の出だとばかにしてきたやつも、西人のやつらも皆ひれ伏してもらう。…例え、あなたの心を手に入れられないとしても。
迎えた武術鍛練の日は、皆思い思いの武官を応援していた。
「ソ従事官様、頑張ってくださいな!!」
「キャー!チャン様ー!!」
「ユン様、負けないで下さいね!!」
そんな中、ウォルファは黙ってヒジェを見守っていた。白く透き通るように美しい手は、赤くなるほど握られており、不安からくる汗が滲んでいた。ヒジェは、そんな群衆の中から彼女を見つけ出し、少しだけ驚くと、僅かに目を細めて微笑んだ。それが彼が初めて見せた本当の笑顔だった。もちろんウォルファはそんなことを知るはずもなく、またいつものことかと思いやれやれと首を振った。
ヒジェとユンの出番はすぐにやって来た。二人は中央まで出てくると、向かい合って礼をした。顔をあげて目が合うと、お互いからは一歩も譲れないという気迫が溢れていた。ユンが剣を抜くと、ヒジェは珍しく真面目な顔つきでそれに続いた。久々に持つ重みが心の負担と共にのしかかる。やがて、最初の一撃をユンが繰り出した。誰もがヒジェは避けられないだろうと確信したが…
「……なっ…!?」
「ユン家の男をなめるな」
美しい受け流しの形でヒジェはユンの剣をしっかりと受け止めていた。驚いた彼が怯んでいるすきに距離を詰めたヒジェは、寸暇を惜しまず反撃に出た。一瞬にしてユンが不利になる。
「チャン様…?」
────剣が出来ないのではなかったの…?
剣が使えないものだとすっかり思い込んでいたウォルファは、ヒジェの変貌ぶりに心奪われた。剣を持って戦う彼は、普段に比べればあまりに魅力的すぎた。
「…お前には取らせぬ」
だが、ユンも負けてはいなかった。彼の一撃は確実で、重みがあった。一方でヒジェのものは素早いが軽く、美しいがあまり彼には効いていなかった。けれど一歩も引けをとらないヒジェを負かすため、ユンはとうとう禁じ手すれすれを行わざるを得なくなった。彼はヒジェの足を引っかけると、腹を蹴り飛ばして倒し、首元に剣を突きつけた。
「勝者、義禁府オ・ユン!」
誰もがユンを褒め称えた。屈辱感と倒れた拍子に擦りむいた手の痛みを味わいながら、ヒジェは地面からユンを愛想笑いをしながら睨み付けた。勝利に酔いしれるユンはそんな殺意に気づくわけもない。彼は目でウォルファの姿を探していた。しかし、彼女の注意はずっとヒジェに向けられていたので、ユンの視線には全く注意が向いていない。むしろ彼女はヒジェが怪我をしたことをすぐに見抜き、さっさと救護の道具を探しにいってしまったのだ。そんなことも知らないユンは、他の官吏と話をしながらも、依然として彼女の姿を探し続けるのだった。
敗北感にうちひしがれ、一人で傷の手当てをしようとしていたヒジェの隣に、ウォルファが声をかけた。
「剣、出来ないと仰っていたのに。ユン様相手にすばらしい立ち回りでしたよ」
「……世辞はいい」
彼女は相当落ち込んでいるなと悟ると、彼に包みを渡した。中身は彼女が作ったチヂミだった。
「これ、よかったら食べてください。」
まさか食べ物を貰うとは思ってもみなかったので、彼はチヂミとウォルファの顔を交互に見た。やがて迷っていると、盛大に腹がなった。
「…腹は嘘をつけぬようだな」
ヒジェは心の底からの笑顔を向けると、チヂミを頬張った。味を心配してウォルファが覗き込む。
「───美味い。」
「本当?嬉しい!」
彼女からも笑顔がこぼれる。初めて二人が喜びを共有した瞬間だった。これが運命の人なのか…お互い、西人と南人の立場を忘れて言葉を交わすこともなく、想いをぶつけ合った。すると、ウォルファがヒジェの手の甲の怪我のことを思い出した。
「あ…怪我をしていませんでしたか?」
「これか?大丈夫だ。なっ…」
傷口を隠すより前に、彼女はヒジェの手を握っていた。彼は自分の手を通して鼓動が聞こえてしまわないかどうかだけを心配していた。慣れた手つきで手当てをしていくウォルファに、ヒジェは疑問を抱いた。
「何故そんなに手慣れているのだ?」
「これですか?近所の仲が良かったお姉さんが医女様だったんです。薬草のこととか色々教えてもらって…」
「ふぅん、器用だな」
綺麗に布が巻き付けられた手を見ながら、彼は感心した。しばらく無言が続いた。何を話していいのか分からなくなってしまうことなど、産まれて初めての体験であったヒジェは、揉み髭を撫でながら必死に話を切り出さねばと焦り始める。そんな彼に気を遣ってウォルファは帰ろうとした。すると、彼は再びあの問いを持ち出した。
「これが最後の機会だ。お前の心が真に見つめているのは、私か?」
「……チャン様…」
彼女は始め、口を固く閉じていたが、やがて顔を背けると頬を赤く染めて呟いた。
「────そんな質問、あまりに酷です」
兄の出世と家のためにはユンと結婚しなければならない。けれど、気持ちは既にヒジェのもの。矛盾を抱えた自分を認めることはできない。ウォルファは潤む瞳で彼を見つめることしか出来なかった。声無き答えを悟ったヒジェは、彼女に手を伸ばした。何をされるのかと怯えて目をぎゅっと瞑っていると、その手は優しく彼女の頭を撫でた。
「…意地悪ですまん、ウォルファ。そういう性格でな」
「え…」
普通ならそこで唇を奪うところだが、ヒジェは敢えてそれはしなかった。今は別に必要ないと感じたのか、本当に優しさから来る遠慮だったのか、そのときのヒジェにははっきり分かっていなかった。ただ1つだけ確かなことは、今までとは違う愛情の育み方も悪くないなと思い始めていることだけだった。
その様子を離れたところで見ていたのは、やはりユンだった。彼は眉をひそめると、ため息まじりに彼女の名前を呼んだ。それは春の空に吸い込まれ、彼女の耳に届くことはなかった。
「暇ではないのか?こんなに書物に囲まれていたら、私だと眠くなってしまうが」
「私は書が好きなのです。…一番ではありませんが」
「ふぅん…」
一瞬の愁いも見逃さないヒジェは、不敵な笑みを浮かべ、彼女が見ていた書物を取り上げて顔を近づけた。
「な、何をするのですか」
書を取り上げられたことよりも、一気に距離が近づいたことに驚きを隠せないウォルファは、両手で思わず顔を覆った。手に取った書物を遠くに放り投げ、彼女の両手をやや強引に握ったヒジェは、そのまま机の上に両腕を伏せさせた。身動きの取れないウォルファは、ヒジェの顔を見ざるを得なくなった。もはや紅潮する頬を隠すものは何もない。彼は意地悪な笑顔を作ると、ユンの何倍も魅力的な声で囁いた。
「……お前の心が真に見つめているのは、私だ。」
「ど…どうして、わかるのですか。ユン様かも知れないではありませんか」
やっとのことで絞り出した声は、彼女らしくもないかすれて弱々しいものだった。かえってその一音一音が、明らかな動揺と図星さを裏付けてしまう。
「…私を甘く見るな。認めたほうが楽になるぞ、ウォルファ」
「……軟派な方は嫌いです」
ここまできてまだ強情を張るか…
ヒジェはやれやれといったように首を振ると、痛恨の一言を突きつけた。
「───ならば、おかしいですねぇ。あなたがユンの何倍も慕っているらしいこの私は、その軟派なのだが」
その瞬間、軟派とは程遠い冷淡な眼差しになったヒジェの変貌に、またウォルファは驚かされ、否定することさえ忘れてしまった。
───この人、本性は違うのね。軟派なのはやはり見せかけの仮面なんだわ。
それこそが、チャン・ヒジェという男の魅力なのか。彼女は暫くの間、更にこの魅力に墜ちていく自分の心に呆然とした。一方ヒジェの方は、なかなか頑なに自分を好いているという事実を受け入れないウォルファに少し苛立ちを感じ始めていた。気性の荒い本性をむき出しにしそうになるのを堪えて、彼は手を離した。
「あまり私を怒らせるなよ、シム殿。私が優しく笑っているうちに受け入れた方がお前の身のためだ」
そう言い残して彼は書庫を後にした。その日から、かれがウォルファの元を訪れることはすっかり絶えてしまった。
────何故なびかぬ。何故だ。
「ええい!!何故だ何故だ!!!!」
家に帰ったヒジェは、ありったけの力で机を叩いた。今までの女は皆、自分が優しく笑うだけで堕ちたというのに。ウォルファが明らかに違うのは気づいていた。だが、ここまで頑なだとは。彼は内心焦っていた。自分の気持ちを受け入れてくれなければくれないほど、彼の複雑な思いは増した。彼女を手に入れられない以上、他の女を見てもモノにしたいとも思わない。
「何なのだ…そなたは…」
市場で渡された紐を手に取ってそう呟いた彼もまた、ウォルファの魅力に墜ちていく自分に不安を抱いていた。ふと、彼は閃く。自分に気持ちが傾いているのならば、ユンとの話を壊せばいいのだと。
「なるほどな…これなら認めざるを得ない。」
顔を再びあげたヒジェの顔には、獲物を定めた蛇のような気迫が宿っていた。
次の日、ウォルファは義禁府に届け物をするためにユンの元へ向かっていた。同じ頃、ユンに宣戦布告するべく、ヒジェも別件をわざわざ買って出て義禁府に出向いていた。彼が到着したときには既にウォルファとユンが仲睦まじく談笑している最中だった。
───今だ。
「これは!ユン殿。それにウォルファ。先日はありがとうございました。丁度良かった。ウォルファ、お前にこれを返そう」
ユンが話す間も与えず、彼は懐から"切り札"を取り出した。これには流石のユンも絶句した。
それは、市場でウォルファが渡した例の紐だったのだ。しかし、彼はなにも紐に驚いたのではない。そのときの彼女の反応に対してだった。
「あら!返さなくても良かったのに…。」
迷惑そうに言っているが、その表情は確かにユンがずっと向けてほしいと願っていたものだった。だが、それはユンではなく、あのチャン・ヒジェに向けられているのだ。
─────ウォルファ、お前は…まさか…
彼は目を凝らしてウォルファを見ていた。すると、ヒジェがユンの視線に気づく。彼は宣戦布告とも取れる意味深な微笑みを浮かべると、軽く会釈をしてその場を後にした。すれ違い様にユンは、ヒジェに釘を刺した。
「…たかが中人風情に彼女は渡さぬ。節度をわきまえよ、チャン殿」
「それは彼女の心次第なのでは?ご自分が一番よくわかっていらっしゃるでしょうに」
今まで隠していた爪が一気に現れる。野心をむき出しにした表情でその場を離れたヒジェに対し、ユンは腸が煮えくり返りそうな怒りを抑えながら、会釈を返した。何が起きたのかさっぱりわからないウォルファは、紐を持ったまま口許を綻ばせていた。しかし、ユンの視線に気づき、慌てて紐を隠した。
「で、では失礼します…」
逃げるようにして帰った彼女の背中を、彼は拳を肩を震わせながら握って眺めた。
「…私が先に見つけた方なのに…」
たかだか通訳官の息子風情にとられてなるものか。
彼の心のなかに吹き荒れた嵐を現すように、春にしては冷たい風が頬を掠めていった。
ヒジェと話をしなくなって久しいある日のことだった。珍しく仏頂面の彼が石畳の上に座っているところを見つけたウォルファは、静かに横に座った。
「どうしたのですか?」
「…なんだ、そなたか。掲示物を見なかったのか?」
首を横に振る彼女に肩をすくめると、ヒジェは懐から紙を取りだし、彼女に渡した。内容は、毎年恒例の、義禁府と捕盗庁が合同で行う武術鍛練行事の知らせだった。
「これがどうかしたのですか?」
「私はオ・ユン様と戦うはめになった…」
はぁあ、とため息をついた彼は頭を抱えてまた鬱ぎこんでしまった。心当たりしかない悪意に、ヒジェは狙った獲物が大きすぎたなと今さら後悔をしていた。いかにも落ち込んでいる彼があまりに気の毒で、ウォルファは恐る恐る彼の手に自分の手を添えた。突然の優しさにヒジェは目を丸くした。
「…恥かいたっていいじゃないですか。でも、怪我だけはしないで下さい。チャン様が休まれると私も寂しいですから」
「ウォルファ……」
何故だか酷く恥ずかしくなってきて、ヒジェは自分の頬が異常に熱くなっていくのを感じていた。鼓動が速くなり、言葉に詰まる。
──────これが、好きという気持ちなのか…
今まで感じていた想いよりも強い感情に抗えない彼は、ウォルファが去ったあとも、初めて抱いた純粋な愛情に酔いしれていた。けれどずっと、求めていた感情だった。恋というのはどういうものなのか、形だけの逢瀬を重ねつづけた彼にとって、胸を締め付けるような想いはあまりに残酷だった。しかもようやく巡り会えたというのに、相手は西人。ヒジェは散り始めた桜を眺めながら、決意をした。
────必ず、左議政まで上り詰めてやる。その時、賤民の出だとばかにしてきたやつも、西人のやつらも皆ひれ伏してもらう。…例え、あなたの心を手に入れられないとしても。
迎えた武術鍛練の日は、皆思い思いの武官を応援していた。
「ソ従事官様、頑張ってくださいな!!」
「キャー!チャン様ー!!」
「ユン様、負けないで下さいね!!」
そんな中、ウォルファは黙ってヒジェを見守っていた。白く透き通るように美しい手は、赤くなるほど握られており、不安からくる汗が滲んでいた。ヒジェは、そんな群衆の中から彼女を見つけ出し、少しだけ驚くと、僅かに目を細めて微笑んだ。それが彼が初めて見せた本当の笑顔だった。もちろんウォルファはそんなことを知るはずもなく、またいつものことかと思いやれやれと首を振った。
ヒジェとユンの出番はすぐにやって来た。二人は中央まで出てくると、向かい合って礼をした。顔をあげて目が合うと、お互いからは一歩も譲れないという気迫が溢れていた。ユンが剣を抜くと、ヒジェは珍しく真面目な顔つきでそれに続いた。久々に持つ重みが心の負担と共にのしかかる。やがて、最初の一撃をユンが繰り出した。誰もがヒジェは避けられないだろうと確信したが…
「……なっ…!?」
「ユン家の男をなめるな」
美しい受け流しの形でヒジェはユンの剣をしっかりと受け止めていた。驚いた彼が怯んでいるすきに距離を詰めたヒジェは、寸暇を惜しまず反撃に出た。一瞬にしてユンが不利になる。
「チャン様…?」
────剣が出来ないのではなかったの…?
剣が使えないものだとすっかり思い込んでいたウォルファは、ヒジェの変貌ぶりに心奪われた。剣を持って戦う彼は、普段に比べればあまりに魅力的すぎた。
「…お前には取らせぬ」
だが、ユンも負けてはいなかった。彼の一撃は確実で、重みがあった。一方でヒジェのものは素早いが軽く、美しいがあまり彼には効いていなかった。けれど一歩も引けをとらないヒジェを負かすため、ユンはとうとう禁じ手すれすれを行わざるを得なくなった。彼はヒジェの足を引っかけると、腹を蹴り飛ばして倒し、首元に剣を突きつけた。
「勝者、義禁府オ・ユン!」
誰もがユンを褒め称えた。屈辱感と倒れた拍子に擦りむいた手の痛みを味わいながら、ヒジェは地面からユンを愛想笑いをしながら睨み付けた。勝利に酔いしれるユンはそんな殺意に気づくわけもない。彼は目でウォルファの姿を探していた。しかし、彼女の注意はずっとヒジェに向けられていたので、ユンの視線には全く注意が向いていない。むしろ彼女はヒジェが怪我をしたことをすぐに見抜き、さっさと救護の道具を探しにいってしまったのだ。そんなことも知らないユンは、他の官吏と話をしながらも、依然として彼女の姿を探し続けるのだった。
敗北感にうちひしがれ、一人で傷の手当てをしようとしていたヒジェの隣に、ウォルファが声をかけた。
「剣、出来ないと仰っていたのに。ユン様相手にすばらしい立ち回りでしたよ」
「……世辞はいい」
彼女は相当落ち込んでいるなと悟ると、彼に包みを渡した。中身は彼女が作ったチヂミだった。
「これ、よかったら食べてください。」
まさか食べ物を貰うとは思ってもみなかったので、彼はチヂミとウォルファの顔を交互に見た。やがて迷っていると、盛大に腹がなった。
「…腹は嘘をつけぬようだな」
ヒジェは心の底からの笑顔を向けると、チヂミを頬張った。味を心配してウォルファが覗き込む。
「───美味い。」
「本当?嬉しい!」
彼女からも笑顔がこぼれる。初めて二人が喜びを共有した瞬間だった。これが運命の人なのか…お互い、西人と南人の立場を忘れて言葉を交わすこともなく、想いをぶつけ合った。すると、ウォルファがヒジェの手の甲の怪我のことを思い出した。
「あ…怪我をしていませんでしたか?」
「これか?大丈夫だ。なっ…」
傷口を隠すより前に、彼女はヒジェの手を握っていた。彼は自分の手を通して鼓動が聞こえてしまわないかどうかだけを心配していた。慣れた手つきで手当てをしていくウォルファに、ヒジェは疑問を抱いた。
「何故そんなに手慣れているのだ?」
「これですか?近所の仲が良かったお姉さんが医女様だったんです。薬草のこととか色々教えてもらって…」
「ふぅん、器用だな」
綺麗に布が巻き付けられた手を見ながら、彼は感心した。しばらく無言が続いた。何を話していいのか分からなくなってしまうことなど、産まれて初めての体験であったヒジェは、揉み髭を撫でながら必死に話を切り出さねばと焦り始める。そんな彼に気を遣ってウォルファは帰ろうとした。すると、彼は再びあの問いを持ち出した。
「これが最後の機会だ。お前の心が真に見つめているのは、私か?」
「……チャン様…」
彼女は始め、口を固く閉じていたが、やがて顔を背けると頬を赤く染めて呟いた。
「────そんな質問、あまりに酷です」
兄の出世と家のためにはユンと結婚しなければならない。けれど、気持ちは既にヒジェのもの。矛盾を抱えた自分を認めることはできない。ウォルファは潤む瞳で彼を見つめることしか出来なかった。声無き答えを悟ったヒジェは、彼女に手を伸ばした。何をされるのかと怯えて目をぎゅっと瞑っていると、その手は優しく彼女の頭を撫でた。
「…意地悪ですまん、ウォルファ。そういう性格でな」
「え…」
普通ならそこで唇を奪うところだが、ヒジェは敢えてそれはしなかった。今は別に必要ないと感じたのか、本当に優しさから来る遠慮だったのか、そのときのヒジェにははっきり分かっていなかった。ただ1つだけ確かなことは、今までとは違う愛情の育み方も悪くないなと思い始めていることだけだった。
その様子を離れたところで見ていたのは、やはりユンだった。彼は眉をひそめると、ため息まじりに彼女の名前を呼んだ。それは春の空に吸い込まれ、彼女の耳に届くことはなかった。