10、ヒジェの夢
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家に帰ったウォルファは、一先ずユンの話には難色を示さぬように努めることにした。もちろん、ジングだけは彼女の心が別の場所にあることを知っていたが。
このことに喜んだのはやはりウンテクだった。
「おお!ウォルファ!お前もようやく男を見る目が出来たな」
「そう……ですか?」
「ああ!オ・ユン様なら安心だ。安心、安心。」
彼女は兄を騙しているという罪の意識から、黙って部屋にこもった。その様子を見ていた母のイェリは、娘の不自然さに気づいた。彼女は部屋へ入ると、ぼおっとしているだけの娘に声をかけた。
「……ウォルファ。お前、本当はユン様のことをお慕いしていないわね?」
「お母様……」
ともすれば、誰なのか。イェリは気になったが、娘に直接聞くのは無粋かと遠慮し、部屋を出てジングに聞いてみることにした。すると、彼は天気のことを話すように言い放った。
「チャン・ヒジェ様だ。」
「え?あの放蕩息子の?」
「放蕩息子ではない。あやつはかなりの切れ者だ」
イェリは驚いた。どこかの両班の子息だと思っていたら、中人のしかも放蕩息子が浮上したからだ。
「そ、それで。あなたはどうお思いなの?」
「このまま大事にならぬようなら、許そうと思う。ウォルファは以前から禧嬪様とは親しくしていたようだし、この換局政争の最中だ。南人と西人を繋ぐ家こそが最も栄えるだろう。」
深い考えをもっての夫の発言に、それ以上何も言えなくなったイェリは、黙り込んでしまった。そんな彼女の意見がかねてより知りたかったジングは、読んでいた書物から目を上げて尋ねた。
「夫人。そなたはどう思う?やはり若い者の愛をないがしろにしてでも、娘の婿はユン殿の方が善いのだろうか?」
「そうですね。世間の親は皆、そう思うでしょう。」
イェリは続けた。
「ですが、私たちは娘に社会に出る機会を与えました。その真意をお忘れではありませんよね?」
「ああ。いかなるときも、様々な視野をもって生きるのが両班の真の努めだと。」
「その家風を、あの子は継いだのです。ウォルファが誠に旦那様のおっしゃる通り、愛し合っているならば、ヒジェ様と結婚するべきです。愛のない結婚ほど、虚しい生き方はありません」
「夫人……」
ジングはそう言うと、微笑んでイェリの手を取った。
「思えば、私たちも結婚には苦労した。だが、互いを想っていたからこそ、幸せな家庭を築けた。」
「そうですね、旦那様。ですが、政敵同士の恋は前途多難なもの。我が子を険しい道に送り出すのは忍びないものです」
彼女はどうしても不安を拭い去れなかった。もちろんその気持ちはジングも同じだったのだが、二人はただ成すに任せるより外ないことも知っていた。
ある日のウォルファは捕盗庁の書庫にいた。今度はトンイも一緒だ。彼女はヒジェの居ないときを見計らって、仕事をするウォルファの隣で書庫の本を読み漁っている。
「ウォルファさんって、清国の言葉がわかったりするの?」
「え?知ってるわよ。両班の令嬢って暇なの。だから、兄の清国語の家庭教師の話を盗み聞きしてたら、いつの間にか出来るようになっちゃった」
さらっととんでもない聡明ぶりを発揮しているウォルファに、トンイは感心した。
「すごいわ!!私なんて一度聞いても覚えることしか出来ないもの……」
「それ、充分すごいと思うけど……」
トンイは再び書物に目を落とした。だが、そのとき盛大に腹がなった。
「………あ……」
「お昼、食べましょ」
そう言うと、ウォルファは炊事室から箸と皿を持ってくると、自分の弁当を取り分け始めた。トンイが遠慮する間も与えない手際のよさで、彼女はトンイの昼食を用意した。その出来映えはどれをとっても素晴らしいものばかりで、彼女は思わず感嘆してしまった。
「わぁ……美味しそう…お家の侍女さんがお上手なのね」
「あ…それは、私が作ったの。不味かったらごめんなさいね」
両班の令嬢が料理とは。トンイはますます感動してしまった。非の打ち所のない憧れの存在であるウォルファに、ふと彼女は昼食を頬張りながら呟いた。
「………ウォルファさんが姉さんだったらいいのに」
「あら。私もトンイが妹だったら…って思ったところなの。」
二人は顔を見合わせると、大笑いした。
「じゃあ、ウォルファ姉さんって呼んでも?」
「ええ。私はじゃあ…」
「トンイ!トンイって呼んで。その方が姉さんらしいわ。お願い。」
知性を感じさせる瞳を輝かせて、トンイはそう頼んだ。
「わかった。じゃあよろしく、トンイ。」
「うん!姉さん!」
二人はそう呼び合うと、微笑ましい雰囲気の中、再び箸を進め始めた。
────後に互いが実の姉妹であることを知るのには、さほど時間がかからぬことである。
そして、来る大晦日の二日前。ヒジェに呼び出されたウォルファは、出勤表を渡されて絶句した。
「し、仕事って………」
大晦日の日には、赤字で『非常出勤』と確かに書かれていた。ヒジェとの約束を蹴ってまでユンと外出したくはなかったが、かといって仕事をしたいかと言われると複雑だ。さすがのウォルファもこれには反論した。
「なにも仕事をさせなくてもいいではありませんか」
「よく見ろ。私も仕事と書いてあるだろうに。これで大晦日は一緒に過ごせる」
「はぁ……」
捕盗庁で年越しとは。風流ではない過ごし方だなと思った彼女は、ヒジェも同じく仕事をすると聞いて、渋々納得した。彼は半紙を取り出すと、ウォルファに渡した。
「可哀想なユン殿に手紙を書いてやれ。意地悪な従事官が仕事を増やしたから行けないとな」
「今回ばかりはそのまま書かせていただきます。…途中であなただけ帰りでもしたら許しませんからね」
少しだけまだ不服そうなウォルファは、ヒジェに膨れっ面をしながら筆をとった。
「わかっておる。お前を置いて帰れば一生口を聞いてもらえなさそうだからな」
「当然です。絶縁ですからね。」
「おお、怖い」
というものの、そのやり取りを楽しんでいる様子のヒジェは、どこか嬉しそうだった。横目でそんな彼を見たウォルファは、一体年末の仕事の何がそんなにたのしみなのだろうかと疑問に思いつつも、ユンへの謝罪文を書ききると、帰りにユンの家の前を通るらしい同僚に手紙を預けるのだった。
手紙を受け取り、ユンは驚かなかった。むしろ、ヒジェの策略と気づいている彼は失意の念にかられた。
「ユン様、どうなさるのですか?」
「仕方なかろう、仕事なら。私もかねてより頼まれていた、地方長官へ会いに行く年末のを入れるのみだ。」
自分の上司がつくづく不憫に感じ始めていたテジュは、本当に寂しそうな彼の横顔を見て、報われることがあれば良いのにと願った。だが、ウォルファを思うからこそ強引に誘えないところにも彼の優しさが表れており、テジュは少しだけ心暖まる気持ちだった。
そして、来る大晦日の日。いつも通りの服に着替えたウォルファは、祭りと年越しのの支度に忙しい街中を早足で通り抜けると、捕盗庁にたどり着いた。書庫にいつものように入ると、なんとも暇そうなヒジェの姿があった。彼は今にも居眠りをしそうな顔で頬杖をついている。
「もう。暇なら仕事をさっさと終わらせて帰らせてください」
「仕事はあるにはある。ないにはない。」
「寝ぼけたことばかり言っていたら、叩きますわよ」
向かいに座ったウォルファは、筆で彼の帽子のつばを軽く叩いた。しばらくすると、行き場を思い出した猫のような足取りで彼は執務室に戻っていった。
「全く…」
街の方では既に祭りが始まっているらしく、今日だけは煩わしいことから解放されているらしい人々の歓声が上がっている。
そんなウォルファが三度目のため息をつこうとしたときだった。突然書庫に風呂敷を持ってヒジェが満面の笑みを浮かべてやって来た。
「ウォルファ!今日はどうせ何もないだろう。事件があったら…そいつは運が悪かったと言うことにして、サボろう。」
「え!?じゃあ…あなたが言っていた案って…」
彼は悪戯っ子のような笑顔を浮かべて、得意げに胸を張った。だが、ウォルファは困惑した。
「え…でも、服が家に…」
「それなら心配ない。私がそなたに似合うものを既に買っておいた」
と言って彼は風呂敷を渡した。着替えてくるように目で促されたウォルファは、冬なのに春がもう来たような笑顔を向けると、そそくさと着替えに行った。
赤い私服に着替えたヒジェは、じぶん好みの色の服に身を包んでいるウォルファを見て、優越感に浸った。淡い紫色のチマに、花柄の刺繍が入った水色のチョゴリ。靴は黒と赤。彼はうっとりしながらも、その透き通るような白い手を取った。
「さ、行こうか。…綺麗だぞ、ウォルファ」
「あ、ありがとう。…あなたの趣味が良いのよ」
彼女の褒め言葉を特に否定もせず、ヒジェは笑みを浮かべるのだった。
ヒジェは髭が変わっているとはいえ、見映えのよい顔立ちをしているので、チャン・オクチョンの次に美しいと謳われているウォルファと並べば、町中の視線を集めた。
「……父上!あれ、チャン・ヒジェでは?」
「ん?…おお!そうだな。とすると、隣にいるのは…」
「シム・ウォルファですよ!!」
その二人の姿を、間が悪くしかと捉えていたのは、オ・テプンとホヤン親子だった。ユンの親戚である彼らは、意外な取り合わせに驚嘆した。
「ほお…ではあれか。兄上の甥っ子は、あのチャン・ヒジェに出し抜かれたということか!」
「ええ、そうですね。ああ…しかしあの娘、どこかトンイに似ていませんか?」
トンイに恋い焦がれているホヤンは、ウォルファの顔と表情を遠くから必死に凝視した。
「そんなわけがなかろう!!確かに両方とも美人だが、あの女は賤民、あの方は我々が度肝を抜かれるくらいに金持ちな両班だぞ」
「そうですよね、父上!」
父の言葉に納得したホヤンは、熟考することなく歩きだした。だが、やはり気になり再び目を凝らす。
「……やっぱり似てるなぁ…」
「ホヤン!!!行くぞ!!」
「待ってくださいよ!父上!!!」
テプンに襟を掴まれるような形で引きずられ、彼は大声をあげながら通りを後にした。
装飾品屋に立ち寄ったウォルファは、輝かしい品物の数々に目を奪われた。
「どうした、なにか気に入ったものでもあるか?」
「大丈夫。気にしないで」
「…どれ、見せてみろ。」
遠慮してその場を離れようとする彼女を連れ戻し、ヒジェは一つずつ装身具を手に取りながらまじまじと眺めた。
「ふぅん……どれも似合いそうだ」
「あの…本当にいいのよ?服も作ってもらって、飾りまでなんて…」
「見返りに何を要求されるかわからない。とでも言いたげだな」
わざとやや下品な笑い方をするヒジェの背中をウォルファは思い切り叩いた。
「もう。何よ。」
「よし。この5つ、全部貰おう。…見返りは大きい方が良いからな」
冗談めかして目配せをする彼に驚いたが、それ以上によくそんな大金があっさり出せるなという方が、余程に衝撃的だった。
装身具を入れた箱を、実は後ろからついてきていたハン執事に手渡すと、ヒジェはウォルファの手をとって走り出した。
「ちょっと、どうしたんですか?」
「手を繋ぎたかった。それだけだ」
その言葉通り、走り終わった後も彼は手を離しそうにない。それから二人は縁日の前に差し掛かった。
「旦那さん!あの矢筒に矢を入れられたら、好きなものを持っていっていいぞ」
「ふぅん…なにか欲しいものはあるか?」
ヒジェに選べと圧をかけられたウォルファは、まじまじと商品を眺めた。すると、彼女の目に暖かそうな毛の手袋が飛び込んできた。
「あれ…がいい」
「暖かそうだな。よし、このチャン・ヒジェに任せよ。」
彼は早速金を支払うと、構えて矢を投げた。だが、外れた。
「外れだね、旦那さん。」
「もう一本!」
やけになったヒジェは、再び金を支払った。
「あの…普通に買った方が安いと思うんだけれど…」
「問題ない。これでも得意だったんだ」
得意と言った割には、既に放った矢の総数は8本になっていた。隣で金を数えている店の主人は、あくどい笑みを浮かべている。そんな彼にウォルファは突っかかった。
「あなた!本当は今まで上手く入った人は居ないんでしょう!?」
「いや!入るはずですよ?俺はまだみたこと無いだけで」
「なっ……」
彼らが会話をしているうちに、10本目。ヒジェは今までで一番慎重な面持ちをして矢を構えた。流石のウォルファも止めに入った。
「ヒジェ様。もうお止めになって。的屋よ」
「的屋ならあとで摘発する。まぁ、見ておれ。おい的屋!入ったら言うこと聞いてもらうぞ」
「どうせ無理ですって旦那。」
そこまで言って黙り込むと、彼は集中した。そして、矢を投げた。それは驚くほど美しい弧を描いて、まるで矢筒の方から投げられたかのように、すとんと中に収まった。
「よし!!入ったぞ。的屋。言うことを聞けば摘発しないでおいてやる。」
「ど、ど、どうぞ。お好きなものを取っていってください……」
すっかり腰が抜けてしまった的屋の親父にしてやったりの表情を浮かべると、ヒジェは襟巻きと手袋を徴収して、その場を後にした。
驚いたのはウォルファも同じだった。景品の手袋をはめながら、彼女は不思議そうにヒジェを見つめた。
「あなたって、何でも出来るのね」
「そうか?まぁ、当然だな。そなたの男なのだから」
「またご冗談を…」
夕方に近づき冷え込んできたが、二人は寒さを感じてはいなかった。むしろ、暖かな気持ちに溢れていた。
「ああ、そうだ。良いものをあげよう。……目を瞑れ」
有無を言わせない瞳で促されたウォルファは、素直に従った。
すると少し間が空いて、彼の指の腹が彼女の唇をなぞりだした。思わず目を開けてしまった彼女は、ヒジェの顔をまじまじとみた。
「全く…動くなよ。ぶれると不細工になるぞ?」
ヒジェは、ウォルファの唇に紅を塗っていたのだ。塗り終えると、彼は近くの店の手鏡を拝借して彼女に仕上がりを見せた。
「わぁ……私じゃないみたい」
「あほか。お前ありきの紅だ」
彼はウォルファが鏡の中の自分に見とれている間に、何気なく呟いた。
「──なぁ、男が紅を贈る意味、知っているか?」
「本当の…意味?」
「それは………」
彼は言いかけて、その続きを言うのを止めた。まるでそれは許されぬことのように。ウォルファは不思議に思い、続きを促した。
「教えて、ヒジェ様。それがあなたの真意なのでしょう?」
彼は珍しくやや恥じらいながら、口を開いた。
「……それは、お前の唇を奪いたい。そういう意味だ」
「えっ……」
突然の本音に頬を赤らめ声を失ったウォルファは、ただ口をぱくぱくさせた。あまりの驚きように愛しくなったヒジェは、彼女の頭を優しく撫でた。
「案ずるな、すぐとは言わん。…だが、大将になったら嫌とは言わせんぞ」
「え、ええ。もちろん…ですよ……」
しばらく、恥ずかしさの余りその場を無言が支配する。少ししてからヒジェは立ち上がると、ウォルファをある場所に連れていきたいと言い出した。快く承諾した彼女は、ヒジェの手を取った。
このことに喜んだのはやはりウンテクだった。
「おお!ウォルファ!お前もようやく男を見る目が出来たな」
「そう……ですか?」
「ああ!オ・ユン様なら安心だ。安心、安心。」
彼女は兄を騙しているという罪の意識から、黙って部屋にこもった。その様子を見ていた母のイェリは、娘の不自然さに気づいた。彼女は部屋へ入ると、ぼおっとしているだけの娘に声をかけた。
「……ウォルファ。お前、本当はユン様のことをお慕いしていないわね?」
「お母様……」
ともすれば、誰なのか。イェリは気になったが、娘に直接聞くのは無粋かと遠慮し、部屋を出てジングに聞いてみることにした。すると、彼は天気のことを話すように言い放った。
「チャン・ヒジェ様だ。」
「え?あの放蕩息子の?」
「放蕩息子ではない。あやつはかなりの切れ者だ」
イェリは驚いた。どこかの両班の子息だと思っていたら、中人のしかも放蕩息子が浮上したからだ。
「そ、それで。あなたはどうお思いなの?」
「このまま大事にならぬようなら、許そうと思う。ウォルファは以前から禧嬪様とは親しくしていたようだし、この換局政争の最中だ。南人と西人を繋ぐ家こそが最も栄えるだろう。」
深い考えをもっての夫の発言に、それ以上何も言えなくなったイェリは、黙り込んでしまった。そんな彼女の意見がかねてより知りたかったジングは、読んでいた書物から目を上げて尋ねた。
「夫人。そなたはどう思う?やはり若い者の愛をないがしろにしてでも、娘の婿はユン殿の方が善いのだろうか?」
「そうですね。世間の親は皆、そう思うでしょう。」
イェリは続けた。
「ですが、私たちは娘に社会に出る機会を与えました。その真意をお忘れではありませんよね?」
「ああ。いかなるときも、様々な視野をもって生きるのが両班の真の努めだと。」
「その家風を、あの子は継いだのです。ウォルファが誠に旦那様のおっしゃる通り、愛し合っているならば、ヒジェ様と結婚するべきです。愛のない結婚ほど、虚しい生き方はありません」
「夫人……」
ジングはそう言うと、微笑んでイェリの手を取った。
「思えば、私たちも結婚には苦労した。だが、互いを想っていたからこそ、幸せな家庭を築けた。」
「そうですね、旦那様。ですが、政敵同士の恋は前途多難なもの。我が子を険しい道に送り出すのは忍びないものです」
彼女はどうしても不安を拭い去れなかった。もちろんその気持ちはジングも同じだったのだが、二人はただ成すに任せるより外ないことも知っていた。
ある日のウォルファは捕盗庁の書庫にいた。今度はトンイも一緒だ。彼女はヒジェの居ないときを見計らって、仕事をするウォルファの隣で書庫の本を読み漁っている。
「ウォルファさんって、清国の言葉がわかったりするの?」
「え?知ってるわよ。両班の令嬢って暇なの。だから、兄の清国語の家庭教師の話を盗み聞きしてたら、いつの間にか出来るようになっちゃった」
さらっととんでもない聡明ぶりを発揮しているウォルファに、トンイは感心した。
「すごいわ!!私なんて一度聞いても覚えることしか出来ないもの……」
「それ、充分すごいと思うけど……」
トンイは再び書物に目を落とした。だが、そのとき盛大に腹がなった。
「………あ……」
「お昼、食べましょ」
そう言うと、ウォルファは炊事室から箸と皿を持ってくると、自分の弁当を取り分け始めた。トンイが遠慮する間も与えない手際のよさで、彼女はトンイの昼食を用意した。その出来映えはどれをとっても素晴らしいものばかりで、彼女は思わず感嘆してしまった。
「わぁ……美味しそう…お家の侍女さんがお上手なのね」
「あ…それは、私が作ったの。不味かったらごめんなさいね」
両班の令嬢が料理とは。トンイはますます感動してしまった。非の打ち所のない憧れの存在であるウォルファに、ふと彼女は昼食を頬張りながら呟いた。
「………ウォルファさんが姉さんだったらいいのに」
「あら。私もトンイが妹だったら…って思ったところなの。」
二人は顔を見合わせると、大笑いした。
「じゃあ、ウォルファ姉さんって呼んでも?」
「ええ。私はじゃあ…」
「トンイ!トンイって呼んで。その方が姉さんらしいわ。お願い。」
知性を感じさせる瞳を輝かせて、トンイはそう頼んだ。
「わかった。じゃあよろしく、トンイ。」
「うん!姉さん!」
二人はそう呼び合うと、微笑ましい雰囲気の中、再び箸を進め始めた。
────後に互いが実の姉妹であることを知るのには、さほど時間がかからぬことである。
そして、来る大晦日の二日前。ヒジェに呼び出されたウォルファは、出勤表を渡されて絶句した。
「し、仕事って………」
大晦日の日には、赤字で『非常出勤』と確かに書かれていた。ヒジェとの約束を蹴ってまでユンと外出したくはなかったが、かといって仕事をしたいかと言われると複雑だ。さすがのウォルファもこれには反論した。
「なにも仕事をさせなくてもいいではありませんか」
「よく見ろ。私も仕事と書いてあるだろうに。これで大晦日は一緒に過ごせる」
「はぁ……」
捕盗庁で年越しとは。風流ではない過ごし方だなと思った彼女は、ヒジェも同じく仕事をすると聞いて、渋々納得した。彼は半紙を取り出すと、ウォルファに渡した。
「可哀想なユン殿に手紙を書いてやれ。意地悪な従事官が仕事を増やしたから行けないとな」
「今回ばかりはそのまま書かせていただきます。…途中であなただけ帰りでもしたら許しませんからね」
少しだけまだ不服そうなウォルファは、ヒジェに膨れっ面をしながら筆をとった。
「わかっておる。お前を置いて帰れば一生口を聞いてもらえなさそうだからな」
「当然です。絶縁ですからね。」
「おお、怖い」
というものの、そのやり取りを楽しんでいる様子のヒジェは、どこか嬉しそうだった。横目でそんな彼を見たウォルファは、一体年末の仕事の何がそんなにたのしみなのだろうかと疑問に思いつつも、ユンへの謝罪文を書ききると、帰りにユンの家の前を通るらしい同僚に手紙を預けるのだった。
手紙を受け取り、ユンは驚かなかった。むしろ、ヒジェの策略と気づいている彼は失意の念にかられた。
「ユン様、どうなさるのですか?」
「仕方なかろう、仕事なら。私もかねてより頼まれていた、地方長官へ会いに行く年末のを入れるのみだ。」
自分の上司がつくづく不憫に感じ始めていたテジュは、本当に寂しそうな彼の横顔を見て、報われることがあれば良いのにと願った。だが、ウォルファを思うからこそ強引に誘えないところにも彼の優しさが表れており、テジュは少しだけ心暖まる気持ちだった。
そして、来る大晦日の日。いつも通りの服に着替えたウォルファは、祭りと年越しのの支度に忙しい街中を早足で通り抜けると、捕盗庁にたどり着いた。書庫にいつものように入ると、なんとも暇そうなヒジェの姿があった。彼は今にも居眠りをしそうな顔で頬杖をついている。
「もう。暇なら仕事をさっさと終わらせて帰らせてください」
「仕事はあるにはある。ないにはない。」
「寝ぼけたことばかり言っていたら、叩きますわよ」
向かいに座ったウォルファは、筆で彼の帽子のつばを軽く叩いた。しばらくすると、行き場を思い出した猫のような足取りで彼は執務室に戻っていった。
「全く…」
街の方では既に祭りが始まっているらしく、今日だけは煩わしいことから解放されているらしい人々の歓声が上がっている。
そんなウォルファが三度目のため息をつこうとしたときだった。突然書庫に風呂敷を持ってヒジェが満面の笑みを浮かべてやって来た。
「ウォルファ!今日はどうせ何もないだろう。事件があったら…そいつは運が悪かったと言うことにして、サボろう。」
「え!?じゃあ…あなたが言っていた案って…」
彼は悪戯っ子のような笑顔を浮かべて、得意げに胸を張った。だが、ウォルファは困惑した。
「え…でも、服が家に…」
「それなら心配ない。私がそなたに似合うものを既に買っておいた」
と言って彼は風呂敷を渡した。着替えてくるように目で促されたウォルファは、冬なのに春がもう来たような笑顔を向けると、そそくさと着替えに行った。
赤い私服に着替えたヒジェは、じぶん好みの色の服に身を包んでいるウォルファを見て、優越感に浸った。淡い紫色のチマに、花柄の刺繍が入った水色のチョゴリ。靴は黒と赤。彼はうっとりしながらも、その透き通るような白い手を取った。
「さ、行こうか。…綺麗だぞ、ウォルファ」
「あ、ありがとう。…あなたの趣味が良いのよ」
彼女の褒め言葉を特に否定もせず、ヒジェは笑みを浮かべるのだった。
ヒジェは髭が変わっているとはいえ、見映えのよい顔立ちをしているので、チャン・オクチョンの次に美しいと謳われているウォルファと並べば、町中の視線を集めた。
「……父上!あれ、チャン・ヒジェでは?」
「ん?…おお!そうだな。とすると、隣にいるのは…」
「シム・ウォルファですよ!!」
その二人の姿を、間が悪くしかと捉えていたのは、オ・テプンとホヤン親子だった。ユンの親戚である彼らは、意外な取り合わせに驚嘆した。
「ほお…ではあれか。兄上の甥っ子は、あのチャン・ヒジェに出し抜かれたということか!」
「ええ、そうですね。ああ…しかしあの娘、どこかトンイに似ていませんか?」
トンイに恋い焦がれているホヤンは、ウォルファの顔と表情を遠くから必死に凝視した。
「そんなわけがなかろう!!確かに両方とも美人だが、あの女は賤民、あの方は我々が度肝を抜かれるくらいに金持ちな両班だぞ」
「そうですよね、父上!」
父の言葉に納得したホヤンは、熟考することなく歩きだした。だが、やはり気になり再び目を凝らす。
「……やっぱり似てるなぁ…」
「ホヤン!!!行くぞ!!」
「待ってくださいよ!父上!!!」
テプンに襟を掴まれるような形で引きずられ、彼は大声をあげながら通りを後にした。
装飾品屋に立ち寄ったウォルファは、輝かしい品物の数々に目を奪われた。
「どうした、なにか気に入ったものでもあるか?」
「大丈夫。気にしないで」
「…どれ、見せてみろ。」
遠慮してその場を離れようとする彼女を連れ戻し、ヒジェは一つずつ装身具を手に取りながらまじまじと眺めた。
「ふぅん……どれも似合いそうだ」
「あの…本当にいいのよ?服も作ってもらって、飾りまでなんて…」
「見返りに何を要求されるかわからない。とでも言いたげだな」
わざとやや下品な笑い方をするヒジェの背中をウォルファは思い切り叩いた。
「もう。何よ。」
「よし。この5つ、全部貰おう。…見返りは大きい方が良いからな」
冗談めかして目配せをする彼に驚いたが、それ以上によくそんな大金があっさり出せるなという方が、余程に衝撃的だった。
装身具を入れた箱を、実は後ろからついてきていたハン執事に手渡すと、ヒジェはウォルファの手をとって走り出した。
「ちょっと、どうしたんですか?」
「手を繋ぎたかった。それだけだ」
その言葉通り、走り終わった後も彼は手を離しそうにない。それから二人は縁日の前に差し掛かった。
「旦那さん!あの矢筒に矢を入れられたら、好きなものを持っていっていいぞ」
「ふぅん…なにか欲しいものはあるか?」
ヒジェに選べと圧をかけられたウォルファは、まじまじと商品を眺めた。すると、彼女の目に暖かそうな毛の手袋が飛び込んできた。
「あれ…がいい」
「暖かそうだな。よし、このチャン・ヒジェに任せよ。」
彼は早速金を支払うと、構えて矢を投げた。だが、外れた。
「外れだね、旦那さん。」
「もう一本!」
やけになったヒジェは、再び金を支払った。
「あの…普通に買った方が安いと思うんだけれど…」
「問題ない。これでも得意だったんだ」
得意と言った割には、既に放った矢の総数は8本になっていた。隣で金を数えている店の主人は、あくどい笑みを浮かべている。そんな彼にウォルファは突っかかった。
「あなた!本当は今まで上手く入った人は居ないんでしょう!?」
「いや!入るはずですよ?俺はまだみたこと無いだけで」
「なっ……」
彼らが会話をしているうちに、10本目。ヒジェは今までで一番慎重な面持ちをして矢を構えた。流石のウォルファも止めに入った。
「ヒジェ様。もうお止めになって。的屋よ」
「的屋ならあとで摘発する。まぁ、見ておれ。おい的屋!入ったら言うこと聞いてもらうぞ」
「どうせ無理ですって旦那。」
そこまで言って黙り込むと、彼は集中した。そして、矢を投げた。それは驚くほど美しい弧を描いて、まるで矢筒の方から投げられたかのように、すとんと中に収まった。
「よし!!入ったぞ。的屋。言うことを聞けば摘発しないでおいてやる。」
「ど、ど、どうぞ。お好きなものを取っていってください……」
すっかり腰が抜けてしまった的屋の親父にしてやったりの表情を浮かべると、ヒジェは襟巻きと手袋を徴収して、その場を後にした。
驚いたのはウォルファも同じだった。景品の手袋をはめながら、彼女は不思議そうにヒジェを見つめた。
「あなたって、何でも出来るのね」
「そうか?まぁ、当然だな。そなたの男なのだから」
「またご冗談を…」
夕方に近づき冷え込んできたが、二人は寒さを感じてはいなかった。むしろ、暖かな気持ちに溢れていた。
「ああ、そうだ。良いものをあげよう。……目を瞑れ」
有無を言わせない瞳で促されたウォルファは、素直に従った。
すると少し間が空いて、彼の指の腹が彼女の唇をなぞりだした。思わず目を開けてしまった彼女は、ヒジェの顔をまじまじとみた。
「全く…動くなよ。ぶれると不細工になるぞ?」
ヒジェは、ウォルファの唇に紅を塗っていたのだ。塗り終えると、彼は近くの店の手鏡を拝借して彼女に仕上がりを見せた。
「わぁ……私じゃないみたい」
「あほか。お前ありきの紅だ」
彼はウォルファが鏡の中の自分に見とれている間に、何気なく呟いた。
「──なぁ、男が紅を贈る意味、知っているか?」
「本当の…意味?」
「それは………」
彼は言いかけて、その続きを言うのを止めた。まるでそれは許されぬことのように。ウォルファは不思議に思い、続きを促した。
「教えて、ヒジェ様。それがあなたの真意なのでしょう?」
彼は珍しくやや恥じらいながら、口を開いた。
「……それは、お前の唇を奪いたい。そういう意味だ」
「えっ……」
突然の本音に頬を赤らめ声を失ったウォルファは、ただ口をぱくぱくさせた。あまりの驚きように愛しくなったヒジェは、彼女の頭を優しく撫でた。
「案ずるな、すぐとは言わん。…だが、大将になったら嫌とは言わせんぞ」
「え、ええ。もちろん…ですよ……」
しばらく、恥ずかしさの余りその場を無言が支配する。少ししてからヒジェは立ち上がると、ウォルファをある場所に連れていきたいと言い出した。快く承諾した彼女は、ヒジェの手を取った。