9、危険な賭け
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
オ・ユンは私服でウンテクとその父ジングの元を訪ねていた。用件はやはり、ウォルファのことだった。
「早く縁談を許して下さい。でないと私の体面にも関わります」
ヒジェの飛ぶ鳥落とす勢いの昇進に危機を感じているウンテクは、はいと気前のよい返事をしようとした。だが、何故かジングの方が難色をしめした。
「…娘の気持ち、ユン殿はお聞きになられたのですか?」
「え…あ…いや、まだです」
「ならば娘の気持ちを先に聞き、御手数お掛けしますが、それからもう一度お訪ねください。うちは娘の了承を得ずに縁談を進めるような方針ではないもので。」
「はぁ…」
ユンは戸惑った。どう考えても切り出す機会がない。だが、これ以上何を言っても聞く耳を持たなさそうなジングの相手をするのも気が滅入りそうだった彼は、渋々シム家を後にした。
ユンが帰ってから、ウンテクは父に食ってかかった。
「父上!一刻も早く縁談を進めねば!!」
「何をそんなに慌てておる。もしや、妹にはすでに心に決めた男が居るが、そいつが気に食わんからユン殿との話を決めてしまおうという魂胆ではないだろうな?」
彼は図星だったため、それ以上何も言うことが出来なかった。ジングはしばらく黙ったままのウンテクを見ていると、やがて用事があるようで外出着に着替えると、そのまま部屋を後にした。
ジングが呼び出されたのは料亭の個室だった。部屋に通されると、既に相手は来ていた。
「おお!シム・ジング様。ささ、お座り下さい。」
「どうも。…して、南人の時流に乗っておられるチャン・ヒジェ殿が、西人の老いぼれに一体何のご用ですか?」
彼を呼び出した相手は、チャン・ヒジェだった。娘の想い人が彼とは露知らないジングは、用事の内容が読めないまま席についた。ヒジェはまず警戒心を解こうと酒を持ってこさせた。
「酒はお呑みになられますか?」
「嗜む程度になら」
「そうですか!ではどうぞ、お呑みになってください…」
ジングはヒジェに注いでもらった酒を一杯だけ呑むと、なかなか始まらない話題を切り出した。
「…それで、ご用件とは?」
「まぁ、そうですね…ずばり、娘さんのことです。」
「娘が、どうかしましたか?」
「はっきり申しましょう。娘さんの了承は既に得ています。──彼女を私に下さい。」
ジングはどきりとした。こんな放蕩息子と名高い男までもが真剣に結婚を切り出してくるとは、娘は一体どういう小細工を身に付けたのかと、彼は流石に言葉を失った。しかも、ウォルファの了承を得ているときた。
「……娘の、何がそんなにお気に召されたのですか?」
「決まっております。あの二人と居ない程の器量に勝るとも劣らぬ心根の優しさと気遣いの出来るところです」
ヒジェは我ながら良い答えを返せたと感心した。器量だけを褒めてしまえば、ただの放蕩息子という表の顔を拭えない。だが、心根だけを褒めれば顔はまずまずという評価となってしまうからだ。双方をいかに上手く混ぜて提示するかが肝である。
ジングは慎重にうなずくと、しばらくヒジェの顔をじっと見ていた。生きているなかで一番の真面目な表情を作っている彼は、どこから見ても誠実な男にしか見受けられなかった。その作戦はみごと成功したようで、彼は放蕩息子の汚名を払拭できた。
ジングはヒジェの人となりをもっと知るために、会話を重ねることにした。
「……娘からは一切あなたのことは聞いておりません。ですから、一度ここにお呼びしても構いませんか?」
「えっ、お嬢様をですか……?」
想定外の振りに戸惑ったが、ここで断れば怪しさが増すため、彼は従わざるを得なかった。
突然父から料亭にそこそこ着飾って来なさいと連絡を受けたウォルファは、首をかしげながらも美しい髪飾りとチマチョゴリ姿で現れた。しずしずと入り口に近づく気配が感じ取られ、ヒジェの鼓動は高鳴った。
「お父様、ご客人様。シム・ウォルファでございます」
「入れ。」
父の許しで部屋に通されたウォルファは、普段とは似ても似つかないヒジェの姿を見て、当然驚いた。
「ヒ、ヒジェ様……?」
「そなたのお父様にすべてお話しした。そなたを交えて話をしたいそうだ」
突然の行動に彼女は驚きを隠せなかったが、改めて父の顔をみてみると、怪訝そうな表情はしていなかったのでそのまま話を続けるようヒジェに促した。
「お嬢さんとは職場も同じです。ですが、まだまだ知らぬことばかり。ぜひ、ジング様から様々なお話をお伺いしたい。」
ジングは失笑すると、一つ一つ語り始めた。
「娘はとても元気の良い子で、古めかしいしきたりや身分が嫌いなようです。友として選ぶ者も、千差万別の方々。その姿勢にはいつも驚かされるばかりです」
「そうですか……ですが、よかった。そうでなければ私は嫌われてしまいますから。」
ヒジェはウォルファを見て微笑んだ。その瞳に嘘偽りが無いことを確信したジングは、彼の手をとりこう言った。
「──あなたしか居ません。娘を心から想い、また娘が心から想う相手は。そして、私が婚姻を許す婿もまた、あなた以外に居ないでしょう」
その言葉は何よりヒジェを喜ばせた。
「お父様……お兄様や、他の西人の方々には何と言い訳なさるの?」
一抹の不安がぬぐいきれないウォルファは、父の隣で問いかけた。だが、ジングの意思は固かった。
「問題ない。そなたとチャン殿の結婚は、西人と南人を繋ぐ善き縁。おのずと対立も収まり、うまい具合になるだろう。頃合いを見て私もチョン・イングク様たちに伝えよう。」
「それなら、私が捕盗庁の大将となってからお願い致します。まだ、事を公にするほど私の力は強くありませんから」
深くうなずく父の姿を見て、ウォルファは微笑んだ。
「ウォルファ。あとはヒジェ様とお話するなら好きにしなさい。私はもう帰る」
「そうですか。では、またいつかお会いしましょう」
「ああ、婿殿。」
冗談なのか本気なのか、ジングはそう言って笑うとそのまま部屋を後にした。残されたヒジェは、ようやく肩の荷が降りたとでも言いたげにその場に崩れた。
「大丈夫ですか?」
「こんなにしんどいことだったのだな。私は人が薦める縁談しか受けたことがないゆえ、舅殿とお話しすることはあまり無いのだ。ましてや、説得とは……」
ウォルファは気弱なヒジェの背中をさすりながら、その胸にもたれかかった。
「よくわかりませんが、父上はあなたのことを気に入ったようです。ユン様さえ気に入らなかったあの方が、よくあなたみたいな放蕩息子をひいきなさったわ。」
酒を口に含んでいた彼はその言葉に思わずむせた。
「そ、そなた、私を殺す気か!?」
「あら!ごめんなさい。お許しくださいな」
困惑しているウォルファに、ヒジェは意地悪な笑顔を浮かべた。
「全く。…許してほしければ、酒を注げ。」
「嫌だと言えば?」
「………こうだ」
そう言うと、ヒジェは澄まし顔の彼女を床に押し倒した。
「────好きだ。」
「…酔って、おられませんか?」
「しらふでこんなこと言えるか!大馬鹿者」
とは言え、途端に羞恥の念に駈られたのか、ヒジェはそのまま杯を一点凝視し始めた。その姿が愛らしく、ウォルファはそっと肩をたたいた。
「…注ぎますわ、ヒジェ様。減らず口叩けないくらいに酔わせてあげる。」
「自制心と書いた紙でもそなたの顔に貼っておいてくれぬか?このままでは危険だ」
彼女はヒジェの杯に酒を注いだ。慣れていないらしく、彼女が並々注いでしまったため、彼はこぼさないようにそっと口をつけた。
「やはり、そなたに注いでもらった酒は旨いな。」
「では、もう一杯いかがですか?」
「そうか!大虎にしたいなら、そうせい」
男と酒の席で戯れたことがなかったウォルファは、いつもウンテクが言っていたことを思い出した。
──いいか、ウォルファ。男はどれだけ紳士に見えていてもな、酒が入ると途端に獣になる。気を付けろ。
だが、ヒジェは執拗に触ってきたり、卑猥な言葉をかけたりはしない。それに彼女は既に放蕩息子の姿はかりそめのものだと見抜いていた。
「……警戒しないのか?」
「ええ、だって。あなたは信頼できる人だもの。お酒が入ったところでまさか、私を取って食べたりしないでしょう?」
少々その気は無かったわけではないとはお世辞にも言えないヒジェは、輝かしい瞳でうなずいた。
「そういうあなたがいいわ。みんなの思っている嘘のあなたよりずっと、素敵。」
放蕩息子の顔も本性なのだがと思わず訂正したくなるが、彼は必死でその言葉をこらえた。
それから二人は明日になれば忘れてしまいそうなくらいに他愛もない会話を交わし、日が沈む前に別れを告げた。よくウォルファに手を出さなかったなと感心されるくらい、ハン執事が彼を迎えに来る頃にヒジェはすっかり出来上がっていた。
「若旦那様!まだ夕方ですよ!?」
「ああ、だぁい丈夫だぁ」
「全然大丈夫じゃないわよ、ヒジェ様。しっかりして」
ハン執事に彼を預けると、彼女は綺麗に一礼した。いつものことだと言いたげに、ハン執事も一礼するとそのままヒジェは引きずられるように帰路についた。
帰り道、突然に酔いが覚めたヒジェははっと我に返った。
「執事。今日、酒の席にウォルファが居ったことを口外すればただではおかぬぞ」
「心得ております、若旦那様。…しかし、あの子は一体誰なのですか?」
「…大切な人だ。それ以上の言葉は無用。」
主人の声と眼差しから察した彼は、それ以上本当に何も言及しなくなった。
もうすぐ、年末が足音を立てて近づき始める時期となっていた。ユンはいまだにウォルファに何も言い出せていないままだった。彼は腹心であり従弟のホン・テジュに泣きついた。
「テジュ!どうすればよい!?このままでは気持ちを伝えられぬままになってしまう」
「ユン様、落ち着いてください。」
「落ち着けるか!?ヒジェに先を越されてしまう」
既に越されていることもしらず、ユンは頭を抱え込んだ。ふと、テジュがひらめいた。
「そうだ。もうすぐ年末です。ウォルファ殿と共に過ごされてはいかがですか?」
なるほど、と彼は納得した。とすればヒジェに先を越されては堪らぬので、善は急ぎ。ユンは筆に墨をつけると、誘いの手紙をしたためはじめた。
チェリョンを伝って手紙を受け取ったウォルファは、卒倒しそうになった。
「ユ、ユン様…」
何の音沙汰も無かったため、諦めたのではと楽観視していた彼女は、甘かったなかと自分を叱責した。チェリョンは不安そうに主人を見つめた。
「どうなさるのですか?お嬢様。困ったことになりましたね」
「そうね…一先ず、これは兄上には内密に…」
「何を私に隠れてこそこそしておる?兄に見せなさい。」
ウォルファが手紙を隠そうとしたその時だった。間が悪くちょうどそこにウンテクがやって来て、手紙をひったくる。
「ふんふん…良かったな!これでシム家も安泰だ!」
「失礼ですが、若旦那様のご昇進の間違いでは?」
チェリョンに図星を突かれた彼は一瞬どきりとしたが、すぐに何事もなかったかのような顔をして、手紙をウォルファに返した。
「とにかく。年末が楽しみだな、ウォルファ」
「え、ええ」
何も知らない兄に対して、ウォルファはただひきつった笑顔を向けることしか出来なかった。
捕盗庁に用事があったユンは、偶然ヒジェにばったり出くわした。ここで一杯食わせてやろうと、彼は世間話の中に年末の自慢話を混ぜこもうと考えた。
「ヒジェ、お前か。」
「どうも、ユン殿。」
───お前に呼び捨てされる筋合いは無いわい。
だが、まだ彼は従事官。ユンの官職の位には到底届かない。
「仕事が大変でな。休みがなかなか取れぬ」
「それは大変ですねぇ」
──知るか。どうせ執務室で、叔父の威光をかりて寝ぼけておるだけの無能のくせに。
それでもヒジェは愛想笑いを絶やさなかった。それが彼が何十年も生きてきた中で身につけた、たった一つの世渡りの方法だからだ。今度はヒジェの番だった。
「ああ!そういえば。あの娘はどうなりました?噂によれば、まだ落とせていないとか。ユン殿程の色男がここまで手こずっておられると、流石に良からぬ噂が立ちますよ?」
「何?」
───賤民のくせに、図に乗りおって…
ユンは裏表を隠せない性だったので、余裕そうだった表情には途端に青筋が浮いた。
「その娘が他の男に心奪われているとか…」
「貴様…!!」
「そんなに怒らずとも良いでしょう?た、だ、の、噂話ですよ。」
────ざまぁみろ。両班の馬鹿息子より苦労を重ねておる故、お前よりはずっと嫌みの言い方も心得ておるぞ。
ここぞとばかりに仕返しをするヒジェに苛立ったユンは、いい気になっている彼に年末の話を持ち出してとどめを刺してやろうと上気した。だが、あくまでも冷静に。彼は一息ついてから、当然と言いたげな顔でヒジェに言い放った。
「それは心配無用だ。年末の誘いを既に彼女に送った。程なくしてウンテク殿から是非と返事が返ってきたからな」
「なっ………何?」
予想外の切り札に、さすがのヒジェも戸惑いを隠すことができず、狼狽した。その様子を見届け、満足したユンは一礼すると、すれ違い様にこう言った。
「────お前と彼女は違う。分不相応の得難いものに手を伸ばしたところで、届かぬものは届かぬ。」
冷静さを失ったヒジェだが、手に持っている剣を抜いてユンに切りかかりたい思いを必死で抑えた。そのために何も言い返すことが出来ない。去っていくユンの背中を見ながら、爪が食い込むほどに拳を握りしめた彼は、改めて己の無力さを思い知るのだった。
放心状態のヒジェは、同じく放心状態のウォルファに会うべく侍女のチェリョンを介して待ち合わせた。すぐに飛んできた彼女を見て、彼は心変わりをしたわけではなかったのだなとほっとした。
「ごめんなさいヒジェ様!兄がユン様の手紙を見てしまったの。丁寧にお断りするつもりだったのに」
「いや、構わぬ。……こちらにも考えがある。だが、それには当日までそなたはユンと出掛けると周りを騙す必要がある。」
「な、何をするつもりなのですか?」
顔をあげたヒジェの表情は、いままでウォルファがみたことがないものだった。つい先日まで愛していた彼のすべてをひっくり返してしまうような。彼女はこのとき、微塵の不安も感じていなかったヒジェへの信頼が、虚構のものだったのではないだろうかと少し猜疑の念にかられた。だが、それもすぐに彼のいつも通りの笑顔によって払拭された。
「大丈夫だ、ウォルファ。共に生きるには、ほんの少しだけ知恵が必要なだけだ」
「そうね。あなたを信じるわ、ヒジェ様。」
そう言って彼はウォルファを抱き寄せた。
その刹那見せた身も凍る程の冷徹な表情を、彼女は知らない。いや、見られることはないと計算して、このときの彼はそんな顔をしたのかも知れない。
複雑に二人の男性の手中で絡み合った赤い糸。ほどいて元のまっすぐに戻すためには、糸を切るしか方法がないことを、このとき既にヒジェは知っていたのだろうか。
「早く縁談を許して下さい。でないと私の体面にも関わります」
ヒジェの飛ぶ鳥落とす勢いの昇進に危機を感じているウンテクは、はいと気前のよい返事をしようとした。だが、何故かジングの方が難色をしめした。
「…娘の気持ち、ユン殿はお聞きになられたのですか?」
「え…あ…いや、まだです」
「ならば娘の気持ちを先に聞き、御手数お掛けしますが、それからもう一度お訪ねください。うちは娘の了承を得ずに縁談を進めるような方針ではないもので。」
「はぁ…」
ユンは戸惑った。どう考えても切り出す機会がない。だが、これ以上何を言っても聞く耳を持たなさそうなジングの相手をするのも気が滅入りそうだった彼は、渋々シム家を後にした。
ユンが帰ってから、ウンテクは父に食ってかかった。
「父上!一刻も早く縁談を進めねば!!」
「何をそんなに慌てておる。もしや、妹にはすでに心に決めた男が居るが、そいつが気に食わんからユン殿との話を決めてしまおうという魂胆ではないだろうな?」
彼は図星だったため、それ以上何も言うことが出来なかった。ジングはしばらく黙ったままのウンテクを見ていると、やがて用事があるようで外出着に着替えると、そのまま部屋を後にした。
ジングが呼び出されたのは料亭の個室だった。部屋に通されると、既に相手は来ていた。
「おお!シム・ジング様。ささ、お座り下さい。」
「どうも。…して、南人の時流に乗っておられるチャン・ヒジェ殿が、西人の老いぼれに一体何のご用ですか?」
彼を呼び出した相手は、チャン・ヒジェだった。娘の想い人が彼とは露知らないジングは、用事の内容が読めないまま席についた。ヒジェはまず警戒心を解こうと酒を持ってこさせた。
「酒はお呑みになられますか?」
「嗜む程度になら」
「そうですか!ではどうぞ、お呑みになってください…」
ジングはヒジェに注いでもらった酒を一杯だけ呑むと、なかなか始まらない話題を切り出した。
「…それで、ご用件とは?」
「まぁ、そうですね…ずばり、娘さんのことです。」
「娘が、どうかしましたか?」
「はっきり申しましょう。娘さんの了承は既に得ています。──彼女を私に下さい。」
ジングはどきりとした。こんな放蕩息子と名高い男までもが真剣に結婚を切り出してくるとは、娘は一体どういう小細工を身に付けたのかと、彼は流石に言葉を失った。しかも、ウォルファの了承を得ているときた。
「……娘の、何がそんなにお気に召されたのですか?」
「決まっております。あの二人と居ない程の器量に勝るとも劣らぬ心根の優しさと気遣いの出来るところです」
ヒジェは我ながら良い答えを返せたと感心した。器量だけを褒めてしまえば、ただの放蕩息子という表の顔を拭えない。だが、心根だけを褒めれば顔はまずまずという評価となってしまうからだ。双方をいかに上手く混ぜて提示するかが肝である。
ジングは慎重にうなずくと、しばらくヒジェの顔をじっと見ていた。生きているなかで一番の真面目な表情を作っている彼は、どこから見ても誠実な男にしか見受けられなかった。その作戦はみごと成功したようで、彼は放蕩息子の汚名を払拭できた。
ジングはヒジェの人となりをもっと知るために、会話を重ねることにした。
「……娘からは一切あなたのことは聞いておりません。ですから、一度ここにお呼びしても構いませんか?」
「えっ、お嬢様をですか……?」
想定外の振りに戸惑ったが、ここで断れば怪しさが増すため、彼は従わざるを得なかった。
突然父から料亭にそこそこ着飾って来なさいと連絡を受けたウォルファは、首をかしげながらも美しい髪飾りとチマチョゴリ姿で現れた。しずしずと入り口に近づく気配が感じ取られ、ヒジェの鼓動は高鳴った。
「お父様、ご客人様。シム・ウォルファでございます」
「入れ。」
父の許しで部屋に通されたウォルファは、普段とは似ても似つかないヒジェの姿を見て、当然驚いた。
「ヒ、ヒジェ様……?」
「そなたのお父様にすべてお話しした。そなたを交えて話をしたいそうだ」
突然の行動に彼女は驚きを隠せなかったが、改めて父の顔をみてみると、怪訝そうな表情はしていなかったのでそのまま話を続けるようヒジェに促した。
「お嬢さんとは職場も同じです。ですが、まだまだ知らぬことばかり。ぜひ、ジング様から様々なお話をお伺いしたい。」
ジングは失笑すると、一つ一つ語り始めた。
「娘はとても元気の良い子で、古めかしいしきたりや身分が嫌いなようです。友として選ぶ者も、千差万別の方々。その姿勢にはいつも驚かされるばかりです」
「そうですか……ですが、よかった。そうでなければ私は嫌われてしまいますから。」
ヒジェはウォルファを見て微笑んだ。その瞳に嘘偽りが無いことを確信したジングは、彼の手をとりこう言った。
「──あなたしか居ません。娘を心から想い、また娘が心から想う相手は。そして、私が婚姻を許す婿もまた、あなた以外に居ないでしょう」
その言葉は何よりヒジェを喜ばせた。
「お父様……お兄様や、他の西人の方々には何と言い訳なさるの?」
一抹の不安がぬぐいきれないウォルファは、父の隣で問いかけた。だが、ジングの意思は固かった。
「問題ない。そなたとチャン殿の結婚は、西人と南人を繋ぐ善き縁。おのずと対立も収まり、うまい具合になるだろう。頃合いを見て私もチョン・イングク様たちに伝えよう。」
「それなら、私が捕盗庁の大将となってからお願い致します。まだ、事を公にするほど私の力は強くありませんから」
深くうなずく父の姿を見て、ウォルファは微笑んだ。
「ウォルファ。あとはヒジェ様とお話するなら好きにしなさい。私はもう帰る」
「そうですか。では、またいつかお会いしましょう」
「ああ、婿殿。」
冗談なのか本気なのか、ジングはそう言って笑うとそのまま部屋を後にした。残されたヒジェは、ようやく肩の荷が降りたとでも言いたげにその場に崩れた。
「大丈夫ですか?」
「こんなにしんどいことだったのだな。私は人が薦める縁談しか受けたことがないゆえ、舅殿とお話しすることはあまり無いのだ。ましてや、説得とは……」
ウォルファは気弱なヒジェの背中をさすりながら、その胸にもたれかかった。
「よくわかりませんが、父上はあなたのことを気に入ったようです。ユン様さえ気に入らなかったあの方が、よくあなたみたいな放蕩息子をひいきなさったわ。」
酒を口に含んでいた彼はその言葉に思わずむせた。
「そ、そなた、私を殺す気か!?」
「あら!ごめんなさい。お許しくださいな」
困惑しているウォルファに、ヒジェは意地悪な笑顔を浮かべた。
「全く。…許してほしければ、酒を注げ。」
「嫌だと言えば?」
「………こうだ」
そう言うと、ヒジェは澄まし顔の彼女を床に押し倒した。
「────好きだ。」
「…酔って、おられませんか?」
「しらふでこんなこと言えるか!大馬鹿者」
とは言え、途端に羞恥の念に駈られたのか、ヒジェはそのまま杯を一点凝視し始めた。その姿が愛らしく、ウォルファはそっと肩をたたいた。
「…注ぎますわ、ヒジェ様。減らず口叩けないくらいに酔わせてあげる。」
「自制心と書いた紙でもそなたの顔に貼っておいてくれぬか?このままでは危険だ」
彼女はヒジェの杯に酒を注いだ。慣れていないらしく、彼女が並々注いでしまったため、彼はこぼさないようにそっと口をつけた。
「やはり、そなたに注いでもらった酒は旨いな。」
「では、もう一杯いかがですか?」
「そうか!大虎にしたいなら、そうせい」
男と酒の席で戯れたことがなかったウォルファは、いつもウンテクが言っていたことを思い出した。
──いいか、ウォルファ。男はどれだけ紳士に見えていてもな、酒が入ると途端に獣になる。気を付けろ。
だが、ヒジェは執拗に触ってきたり、卑猥な言葉をかけたりはしない。それに彼女は既に放蕩息子の姿はかりそめのものだと見抜いていた。
「……警戒しないのか?」
「ええ、だって。あなたは信頼できる人だもの。お酒が入ったところでまさか、私を取って食べたりしないでしょう?」
少々その気は無かったわけではないとはお世辞にも言えないヒジェは、輝かしい瞳でうなずいた。
「そういうあなたがいいわ。みんなの思っている嘘のあなたよりずっと、素敵。」
放蕩息子の顔も本性なのだがと思わず訂正したくなるが、彼は必死でその言葉をこらえた。
それから二人は明日になれば忘れてしまいそうなくらいに他愛もない会話を交わし、日が沈む前に別れを告げた。よくウォルファに手を出さなかったなと感心されるくらい、ハン執事が彼を迎えに来る頃にヒジェはすっかり出来上がっていた。
「若旦那様!まだ夕方ですよ!?」
「ああ、だぁい丈夫だぁ」
「全然大丈夫じゃないわよ、ヒジェ様。しっかりして」
ハン執事に彼を預けると、彼女は綺麗に一礼した。いつものことだと言いたげに、ハン執事も一礼するとそのままヒジェは引きずられるように帰路についた。
帰り道、突然に酔いが覚めたヒジェははっと我に返った。
「執事。今日、酒の席にウォルファが居ったことを口外すればただではおかぬぞ」
「心得ております、若旦那様。…しかし、あの子は一体誰なのですか?」
「…大切な人だ。それ以上の言葉は無用。」
主人の声と眼差しから察した彼は、それ以上本当に何も言及しなくなった。
もうすぐ、年末が足音を立てて近づき始める時期となっていた。ユンはいまだにウォルファに何も言い出せていないままだった。彼は腹心であり従弟のホン・テジュに泣きついた。
「テジュ!どうすればよい!?このままでは気持ちを伝えられぬままになってしまう」
「ユン様、落ち着いてください。」
「落ち着けるか!?ヒジェに先を越されてしまう」
既に越されていることもしらず、ユンは頭を抱え込んだ。ふと、テジュがひらめいた。
「そうだ。もうすぐ年末です。ウォルファ殿と共に過ごされてはいかがですか?」
なるほど、と彼は納得した。とすればヒジェに先を越されては堪らぬので、善は急ぎ。ユンは筆に墨をつけると、誘いの手紙をしたためはじめた。
チェリョンを伝って手紙を受け取ったウォルファは、卒倒しそうになった。
「ユ、ユン様…」
何の音沙汰も無かったため、諦めたのではと楽観視していた彼女は、甘かったなかと自分を叱責した。チェリョンは不安そうに主人を見つめた。
「どうなさるのですか?お嬢様。困ったことになりましたね」
「そうね…一先ず、これは兄上には内密に…」
「何を私に隠れてこそこそしておる?兄に見せなさい。」
ウォルファが手紙を隠そうとしたその時だった。間が悪くちょうどそこにウンテクがやって来て、手紙をひったくる。
「ふんふん…良かったな!これでシム家も安泰だ!」
「失礼ですが、若旦那様のご昇進の間違いでは?」
チェリョンに図星を突かれた彼は一瞬どきりとしたが、すぐに何事もなかったかのような顔をして、手紙をウォルファに返した。
「とにかく。年末が楽しみだな、ウォルファ」
「え、ええ」
何も知らない兄に対して、ウォルファはただひきつった笑顔を向けることしか出来なかった。
捕盗庁に用事があったユンは、偶然ヒジェにばったり出くわした。ここで一杯食わせてやろうと、彼は世間話の中に年末の自慢話を混ぜこもうと考えた。
「ヒジェ、お前か。」
「どうも、ユン殿。」
───お前に呼び捨てされる筋合いは無いわい。
だが、まだ彼は従事官。ユンの官職の位には到底届かない。
「仕事が大変でな。休みがなかなか取れぬ」
「それは大変ですねぇ」
──知るか。どうせ執務室で、叔父の威光をかりて寝ぼけておるだけの無能のくせに。
それでもヒジェは愛想笑いを絶やさなかった。それが彼が何十年も生きてきた中で身につけた、たった一つの世渡りの方法だからだ。今度はヒジェの番だった。
「ああ!そういえば。あの娘はどうなりました?噂によれば、まだ落とせていないとか。ユン殿程の色男がここまで手こずっておられると、流石に良からぬ噂が立ちますよ?」
「何?」
───賤民のくせに、図に乗りおって…
ユンは裏表を隠せない性だったので、余裕そうだった表情には途端に青筋が浮いた。
「その娘が他の男に心奪われているとか…」
「貴様…!!」
「そんなに怒らずとも良いでしょう?た、だ、の、噂話ですよ。」
────ざまぁみろ。両班の馬鹿息子より苦労を重ねておる故、お前よりはずっと嫌みの言い方も心得ておるぞ。
ここぞとばかりに仕返しをするヒジェに苛立ったユンは、いい気になっている彼に年末の話を持ち出してとどめを刺してやろうと上気した。だが、あくまでも冷静に。彼は一息ついてから、当然と言いたげな顔でヒジェに言い放った。
「それは心配無用だ。年末の誘いを既に彼女に送った。程なくしてウンテク殿から是非と返事が返ってきたからな」
「なっ………何?」
予想外の切り札に、さすがのヒジェも戸惑いを隠すことができず、狼狽した。その様子を見届け、満足したユンは一礼すると、すれ違い様にこう言った。
「────お前と彼女は違う。分不相応の得難いものに手を伸ばしたところで、届かぬものは届かぬ。」
冷静さを失ったヒジェだが、手に持っている剣を抜いてユンに切りかかりたい思いを必死で抑えた。そのために何も言い返すことが出来ない。去っていくユンの背中を見ながら、爪が食い込むほどに拳を握りしめた彼は、改めて己の無力さを思い知るのだった。
放心状態のヒジェは、同じく放心状態のウォルファに会うべく侍女のチェリョンを介して待ち合わせた。すぐに飛んできた彼女を見て、彼は心変わりをしたわけではなかったのだなとほっとした。
「ごめんなさいヒジェ様!兄がユン様の手紙を見てしまったの。丁寧にお断りするつもりだったのに」
「いや、構わぬ。……こちらにも考えがある。だが、それには当日までそなたはユンと出掛けると周りを騙す必要がある。」
「な、何をするつもりなのですか?」
顔をあげたヒジェの表情は、いままでウォルファがみたことがないものだった。つい先日まで愛していた彼のすべてをひっくり返してしまうような。彼女はこのとき、微塵の不安も感じていなかったヒジェへの信頼が、虚構のものだったのではないだろうかと少し猜疑の念にかられた。だが、それもすぐに彼のいつも通りの笑顔によって払拭された。
「大丈夫だ、ウォルファ。共に生きるには、ほんの少しだけ知恵が必要なだけだ」
「そうね。あなたを信じるわ、ヒジェ様。」
そう言って彼はウォルファを抱き寄せた。
その刹那見せた身も凍る程の冷徹な表情を、彼女は知らない。いや、見られることはないと計算して、このときの彼はそんな顔をしたのかも知れない。
複雑に二人の男性の手中で絡み合った赤い糸。ほどいて元のまっすぐに戻すためには、糸を切るしか方法がないことを、このとき既にヒジェは知っていたのだろうか。