3、懐かしい場所
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その翌日、イ・ジョンミョンが釈放されたとの知らせを受け、ヒャンユンは脇目も振らずに王宮へ向かった。使用人の出迎えで帰るものとばかり思っていたジョンミョンは、突然の娘の出迎えに驚きを隠せなかった。ヒャンユンが遠目から深々と一礼すると、二人は一定の距離を保って歩き始めた。他人のように振る舞うことでしか娘を守ることができない自分が無力に思え、ジョンミョンは唇を噛み締めた。
泣かないで。悲しまないで。私は大丈夫だから。そう言おうとして手を伸ばそうと試みても、ヒャンユンの手は思うようには動かない。実父と自分との間には、とてつもなく大きな溝があると彼女は思っていた。それは決して越えられない大きなものだった。越えようと足掻いてみても、失った十数年間は二人にとってあまりに大きかった。
ヒャンユンは耐えきれず裏通りに駆け込むと、壁を背にして泣いた。
「チョン・ナンジョンとユン・ウォニョンさえ居なければ……!あの二人さえ居なければ……!」
叫びたい気持ちを抑えて、ヒャンユンは拳を握りしめた。けれどいつもその言葉を呪いのように吐く度に、彼女は別の葛藤を心の中で生じさせる自分も嫌いだった。
あの二人が自分の家族を崩壊させていなければ、トンチャンとは出会うことはなかった。もしもう一度人生をやり直すことができたとしても、選ぶ道を答える言葉はすぐに出てくる気がした。
────あなたを選ぶ運命がどれだけ残酷でも、私はやっぱりあなたを選んでしまう。
だが、そのトンチャンとさえもかつては引き裂かれてしまった。そして今、また誰かを失うかもしれない恐怖に駆られているヒャンユンは、誰にも言えない不安に打ち震えた。
そんな娘の様子を見ていたジョンミョンは、何も聞かずとも全てを悟っていた。使用人の者が気を遣ってヒャンユンに声をかけようとしたのを、彼は黙って引き留め諌めた。
「ですが、旦那様……」
「良いのだ、これで。我ら親子は決して同じ道は歩めぬ。ただ、ほんの一瞬だけでもいつかあの子の気持ちと交差できる未来が待っているのであれば、私はその時まで生きていたい」
そう言うジョンミョンの声には、たしかな決意が込められていた。獄中で、彼は資を覚悟して密かに遺書をしたためていた。そのうちの一通はヨンフェ宛で、呼び出された彼は直にそれを受け取っていた。
その内容を読んだヨンフェは、唇を震わせ目を見開いてよろめいた。
『父上。このような遺書、断じてなりません』
『構わん』
ジョンミョンはヨンフェの手を必死で引き寄せると、その手をしっかりと握って念を押した。
『頼んだぞ、ヨンフェ。今回偶々生き残ったとしても、小尹派はまた私を攻撃するであろう。私に万が一のことがあったら、その時は必ずこの遺書に従って欲しい。良いな?』
ヨンフェは暫く床を見つめていたが、やがてゆっくりと父の目まで顔をあげると、同じくらいにゆっくりと──しかし、しっかりと頷いた。
──ヨンフェを信じよう。きっと問題はない。
そう自分に言い聞かせると、ジョンミョンはきびすをかえして静かに帰路につくのだった。
ヒャンユンの姿は、独り黒蝶団の練習場にあった。力を込めないようにと意識していながらも、自然に一振りに不要な力が入る。背中で剣を持ち替えて振り向き、彼女はそのまま地面に切っ先を刺した。どうしてこんなにも無力なのか。怒りが彼女の身体を支配した。
「あああぁぁ!!!」
空気を切りつけることでしか怒りを収めることのできない自分にも腹が立った。そんなヒャンユンの荒れた様子を見ていたのは、やはりトンチャンだった。彼は状況を察し、物陰から一歩足を踏み出そうとした。だが、その肩を掴んで止める人物がいた。
「止めておけ」
カン・ソノだった。トンチャンはその手を振り払って、目の前の男を怒鳴り付けた。
「何するんだよ!!お前だってあいつのことを心配してるから、ここまで来たんだろうが!」
「そうだ!心配している。その気持ちは、お前のもとに帰るためにあの人が全てを捨てた日からずっとあった」
ソノは涙目になりながら、やっとの思いで言葉を発した。
「だが、あの人は……あの人はそうやって強くなり続けてきた。きっとこれからも、ああやって強くなっていく」
その言葉に、トンチャンはついに怒りをぶちまけた。
「だからって!あんなに苦しんでいるのが強くなるためなのか!?おかしいだろ!!なんであいつが苦しまなきゃならねぇんだよ!本当に苦しまなきゃならねぇのは、チョン・ナンジョンとユン・ウォニョンだろうが!!」
ソノは気づきたくなかった矛盾が心に刺さった気がして、いつまでもその場を動けないでいた。そしてトンチャンもまた、やるせなさに壁を叩くことしかできなかった。
ヒャンユンとトンチャンがジョンミョンに呼び出されたのは、その僅か翌日だった。ジョンミョンは机の上に金を置き、こう言った。
「ヒャンユンは義州へ行け。トンチャンはその道中での手助けをしてほしい」
「え……?ですが、義州になんて何の用で……」
続いて、ジョンミョンは一枚の封書を取り出してきた。紙には何やら所在らしきものが書かれている。文面を見て、ヒャンユンが何かに気づいた。
「これは……私の……」
「そうだ。義州の叔母だ。まぁ、正確には乳母なのだがな」
それを聞いた途端、彼女の瞳に光が差した。トンチャンは相変わらず首をかしげたままだ。ふと、商団の方はどうするのかと尋ねようとしたところ、先にジョンミョンがヨンフェを呼び寄せて報告させた。
「ミン・ドンジュ大行首には上手く伝えておきます。ご安心を」
「黒蝶団の方も、チョヒたちに任せることにしてある。あとを追ってギョムたちも合流する故、トンチャンは肩の荷を下ろして任務にかかるように」
ヒャンユンはその言葉に耳を疑った。ジョンミョンが何故自分と黒蝶団の関係を知っているのか。狼狽する娘に対し、彼はただ微笑みを返すのだった。
男装をして旅路の支度をする間、ヒャンユンは父の言葉を反芻していた。一体その意図は何なのか。訪ねれば解ると言ってはいたものの、心の片隅には純粋にトンチャンとの旅を楽しみにする自分がいた。だからこそ、不要かもしれないとしても出来るだけ可愛らしい韓服を荷物に詰め込み、紅も密かに忍ばせた。一方、二頭の馬を引いてきたトンチャンは相変わらずの格好をしている。だが、ヒャンユンの男装姿を見て彼は息をのんだ。
「お前、俺より格好いいじゃねぇか……」
「長髪なだけよ。それに、トンチャンの格好良さには敵わないわ」
どこまでも愛らしいヒャンユンにまたもや胸をときめかせると、いつの間にか置いてけぼりになっている自分に気づき、トンチャンは慌てて荷物をまとめ始めるのだった。
漢陽を出て暫く進むと、最初の宿に到着した。宿屋の女将に馬を預けると、ヒャンユンは少し低めの声で一泊したいという旨を伝えた。すると、美形の男だとすっかり思い込んだ女将は舞い上がって一番上等な部屋を用意してくれた。トンチャンは自分との待遇差に僅かな不満を覚えたが、それよりも自分が彼女と同室であることに焦りを覚えた。
「お、おい。お前さ、このまま寝るのか?ん?」
「ええ、そのつもりだけど」
「な、なぁ。お前のその魅力でもう一部屋……」
「駄目よ。護衛の意味がないでしょ。それに、私にとってトンチャンは特別よ」
そう言いながらさっさと布団を漁り始めたヒャンユンだったが、暫くしてから何かに気づくと、その表情を一変させた。
「ね、ねぇトンチャン」
「どうした?布団にカビでも……」
「違うの。一組しかない」
「ええっ!?」
二人は顔を見合わせると、もう一度一緒に確認した。だが、確かに布団は一組しかない。仕方がないのでヒャンユンはもう一度女将を呼び出して事の次第を問いただした。
女将いわく、今日は遠方からの客が多いために布団が不足しており、この部屋は男二人なので別に一枚でいいだろうという判断らしい。尚、既に布団は出払っており、回収は不可能らしい。お情けのように枕はもう一つ貰ったものの、ヒャンユンはそれを抱き締めたまま部屋の隅から動かなくなってしまった。
気まずい空気がその場を吹き抜ける。ヒャンユンに後ろを向いてもらっている間、トンチャンが先に着替えた。だがそれでもヒャンユンは動かない。しばらくして、渋々摺り足で荷物をとってから髪を下ろし始めたので、トンチャンは否応なしに後ろを向いた。衣擦れの音が一層妄想を掻き立てるので出来れば耳も塞ぎたかったが、間に合わなかった。寝巻き代わりに持ってきた武術服を着終えると、ようやくヒャンユンは床についた。とは言っても、まだ枕を抱えて端にちょこんと座っているだけなのだが。
トンチャンはため息をつくと、その手を引き寄せて布団を捲った。それがまた夫婦のようで、ますます気恥ずかしく思えてヒャンユンはついに俯いてしまった。
「私たち……こんな風に、普通の関係になりたかった」
「普通って?」
「何も知らない大行首の娘のままで居たかった。そうしたら、今ごろはあなたの……」
トンチャンはその言葉の続きを聞きたくなくて、つい自分の唇でヒャンユンの唇を塞いだ。未婚の女子に布団の上でする行為では到底あり得ないことだが、彼には叶わないことを知っているからこそ出来た。何も知らないヒャンユンは、枕を腕から取り落として呆然としている。
「何も、言うんじゃねぇ。過ぎた過去の夢なんて、もう考えるな」
「でも……」
「いいか、お前はお前だ。それは変えることができない。イ・ヒャンユンもお前だし、コン・ヒャンユンもお前だ」
そう言いながら、トンチャンはヒャンユンの髪を愛しそうにかき上げ、指に絡めながら目を細めた。
「だから、俺は全部の瞬間のお前を愛する。例えそれが俺の破滅を意味するとしても」
すきま風が吹いたのか、徐に明かりが消えた。部屋は月光だけに照らされていて、互いの影しか見えない。その影をなぞりながら、トンチャンは彼女を抱き締めた。
「頼む、居なくならないでくれ。いつか勝手な頼みだったと思うかもしれないが、居なくならないでくれ。俺の側にいてくれ」
「トンチャン……どうしたの?」
「お前が好きだ」
────そして同時にもう、とても苦しい。
離れないといけないと解っているのに、どうしても離れられなかった。
────俺は……引き離される辛さと、手放す辛さを両方味わなきゃならねぇのか……?
もう充分苦しんだ。なのにまた痛みを知らなければならないというのか。トンチャンは既に感じる痛みに耐えかね、ヒャンユンから離れて布団の外に横たわった。
「トンチャ……」
「寝ろ。俺のことは構わねぇ」
「でも……」
「いいから。……頼む、暫く一人にさせてくれ」
そう言うトンチャンの頼もしい背中が、酷く広大で遠く見えた気がして、ヒャンユンは何も言えずに布団を被ることしか出来なかった。
翌朝、食事を済ませて早くに発った二人は義州への道中を急いでいた。互いに無言で馬を進めるなか、ついに義州の町が見下ろせる峠に差し掛かった瞬間、ヒャンユンはそこで足を止めた。
「懐かしい……私の子供時代の思い出の大半は、ここで生まれたの」
「俺は生まれも育ちも都だったから、故郷が二つもある感覚はわからねぇな。けど──」
トンチャンは少し間を置いてヒャンユンを見つめ、微笑みかけた。
「けど、人生が新しく始まり直す瞬間ってのはわかる気がする」
そう言うと、彼は馬を加速させてから再び止めて振り返った。
「町まで競争だ!負けたら俺に義州を案内してもらう」
「えっ……あっ、待ってよ!ずるいわ!ちょっと、トンチャン!」
既に姿が見えなくなり始めたトンチャンの背を追って、ヒャンユンは慌てて余韻から抜けた。走り抜けながら風が頬に当たる感覚を受けている気分は、何にも変えがたいほどに心地よい瞬間だった。幼い頃も、勝手に馬を乗り回しては叱られていたことがあった。その記憶は──
なにかが引っ掛かる気分に陥ったものの、義州の町に降り立ったせいでそんなことはどこかに去ってしまった。
「わぁ……何も変わってないわ」
「松都にはよく行くことがあるけど、ここはまた違った空気があるな」
「義州は明との国境だから、道行く人のほとんどが商売人かお役人様なの」
トンチャンはヒャンユンの瞳に、確かに光が戻ったことを悟った。初めて会ったときのような活き活きとした姿に、彼はようやく探し続けてきた彼女に再会できた気がして、思わず涙が溢れそうになった。
「どうしたの?どこか、痛いの?」
「違うんだ……お前が……あの日のお前が帰ってきた気がして……」
往来など気にもせず、トンチャンはヒャンユンを抱き締めた。端からみれば普通の恋人同士に見えるのに、一体自分はどこで間違ってしまったのか。彼は目を閉じて愛する人の吐息に耳をすませた。規則正しく息をしているはずなのに、とても朧気で儚く思えてしまうヒャンユン。この先もずっと守り続けたい人なのに、もう自分はその先を共に歩むどころか見ることさえも許されない。
知らない方がよかったと思うときもあった。出会ったことを責めることもあった。それでも、トンチャンにはヒャンユンしかいなかった。いや、ヒャンユンしか必要なかった。彼女だけがいてくれさえすれば、世界はどうなっても構いはしなかった。例えば世界が崩れてしまっても、火に包まれたとしても、彼にとってはどうでもよかった。
「愛してる。それだけは、わかっていて欲しいんだ。お前を俺は、この先も嫌いになったりなんてしない。どうか、それだけは覚えておいてくれ」
小首をかしげながらも、ヒャンユンは頷いた。その様子を見て納得した彼は、身体から手を離して優しくその頬を撫でた。
「ああ……綺麗だよ。とても、お前は綺麗だ。俺がこれ程に想った人……」
そして、唯一の人。いつか別れを告げずに去らねばならない人。トンチャンは、とても心細かった。それでも出会えたことに、対峙していられることに、触れていられることに、心は未だに幸せで満ち足りていた。
昔、彼の曰牌時代の兄貴分にこの世で残酷なことは何かと聞かれたことがあった。その時は答えを見つけられずに俯くことしかできなかったが、今ならはっきりとわかる。彼は息を呑んで、声を殺してヒャンユンから背を向け、雑踏に溶け込むくらいに小さな声で答えを呟いた。
「────自分から、手を離す……こと……」
その声は望み通り、雑踏に溶け込んで消えた。だから、ヒャンユンに届くことも叶うことはなかった。
ヒャンユンは父から託された紙をみながら、更に懐かしい場所へ足を運んでいた。そこは、彼女が義州で最も長い時間を過ごした叔母──ではなく乳母の家だった。
人の気配を察したのか、家からだれかが出てきた。それは紛れもなく乳母の姿だった。その人はヒャンユンを見て目を細めると、少し間を置いて声をあげた。
「────ヒャンユンお嬢様?」
「ええ、そうです。私です。ヒャンユンです」
「ヨンフェ若様から、お嬢様がいらっしゃるとはお伺いしておりましたが……まさかこれ程にお美しくなられるなんて……」
乳母──チョ・ソヨンは恭しく一礼すると、少し距離を置いて再会を見守る男に気づいて主人に尋ねた。
「このお方は、どなたですか?」
「この方は──」
「護衛のシン・ドンチャンです」
ヒャンユンが何か言う前にあっさりとそう名乗ったトンチャンは、同じく静かに一礼した。ソヨンが二人に部屋へはいるように促したので、ヒャンユンはトンチャンを連れて懐かしい部屋へ足を踏み入れた。
奥の方から何かを取り出してきたソヨンは、返り血の付いた美しい布に入った書簡を涙ぐみながらヒャンユンに手渡した。
「これは……」
「お嬢様のお母様が、命懸けでお守りした証拠でございます。チョン・ナンジョンは奥様自体が証拠だと思っていたことが幸いで、コン・ジェミョン大行首様と共になんとか今までお守りしていたものでございます」
「では、この血は……」
ヒャンユンは震える手で、その人の手に触れるように布地をなぞった。涙はこぼれることなく、ただその両目を紅く染めている。
「お母……様」
「お嬢様……奥様をお守りできなかった至らぬ私を、どうか罰してください!」
悲痛なソヨンの言葉に、ヒャンユンは顔もあげることさえしなかった。だが、肩を震わせながら唇を噛み締めてからこう言った。
「……いいえ。これはあなたが受ける罰ではない。私と母と兄と父、そしてその他の全ての人たちの人生を私利私欲のために滅茶苦茶にした────チョン・ナンジョンとユン・ウォニョンが受けるべきだ」
言い終わって顔をあげたヒャンユンの瞳には、間違いなく光が宿っていた。だがそれは先程のものとは違う、復讐の炎を受けて反射しているものだった。
心を落ち着かせるために庭に出たヒャンユンの孤独な背を眺めながら、トンチャンは前と同じように立ち尽くしていた。ソノの「行ってはいけない」という言葉が反芻される。だが、彼は考えた。今自分にできることは、本当にただ傷ついていく姿をただ見守ってやることなのだろうか。避けることのできない別れを前にして、自分は逃げているような気がした。だから、トンチャンはその足を踏み出してヒャンユンを背中から抱き締めた。
「俺も、手伝います」
ヒャンユンは驚きで目を見開いている。彼はそのまま続けた。
「あなたの苦しみに、共に胸を痛めましょう。その身を切り裂かれるような苦難を越えねばならないなら、あなたのために身を呈すことができなくとも、共に傷を刻まれることを望みます。これからは、そんな愛を貫きます」
トンチャンは空を仰いで一息吐いた。
「────それがこの俺、シン・ドンチャンの愛です」
例え、この手を自ら離す未来が決まっていようとも、もう怯えたりはしない。トンチャンは強くヒャンユンを抱き寄せてそう決意するのだった。
泣かないで。悲しまないで。私は大丈夫だから。そう言おうとして手を伸ばそうと試みても、ヒャンユンの手は思うようには動かない。実父と自分との間には、とてつもなく大きな溝があると彼女は思っていた。それは決して越えられない大きなものだった。越えようと足掻いてみても、失った十数年間は二人にとってあまりに大きかった。
ヒャンユンは耐えきれず裏通りに駆け込むと、壁を背にして泣いた。
「チョン・ナンジョンとユン・ウォニョンさえ居なければ……!あの二人さえ居なければ……!」
叫びたい気持ちを抑えて、ヒャンユンは拳を握りしめた。けれどいつもその言葉を呪いのように吐く度に、彼女は別の葛藤を心の中で生じさせる自分も嫌いだった。
あの二人が自分の家族を崩壊させていなければ、トンチャンとは出会うことはなかった。もしもう一度人生をやり直すことができたとしても、選ぶ道を答える言葉はすぐに出てくる気がした。
────あなたを選ぶ運命がどれだけ残酷でも、私はやっぱりあなたを選んでしまう。
だが、そのトンチャンとさえもかつては引き裂かれてしまった。そして今、また誰かを失うかもしれない恐怖に駆られているヒャンユンは、誰にも言えない不安に打ち震えた。
そんな娘の様子を見ていたジョンミョンは、何も聞かずとも全てを悟っていた。使用人の者が気を遣ってヒャンユンに声をかけようとしたのを、彼は黙って引き留め諌めた。
「ですが、旦那様……」
「良いのだ、これで。我ら親子は決して同じ道は歩めぬ。ただ、ほんの一瞬だけでもいつかあの子の気持ちと交差できる未来が待っているのであれば、私はその時まで生きていたい」
そう言うジョンミョンの声には、たしかな決意が込められていた。獄中で、彼は資を覚悟して密かに遺書をしたためていた。そのうちの一通はヨンフェ宛で、呼び出された彼は直にそれを受け取っていた。
その内容を読んだヨンフェは、唇を震わせ目を見開いてよろめいた。
『父上。このような遺書、断じてなりません』
『構わん』
ジョンミョンはヨンフェの手を必死で引き寄せると、その手をしっかりと握って念を押した。
『頼んだぞ、ヨンフェ。今回偶々生き残ったとしても、小尹派はまた私を攻撃するであろう。私に万が一のことがあったら、その時は必ずこの遺書に従って欲しい。良いな?』
ヨンフェは暫く床を見つめていたが、やがてゆっくりと父の目まで顔をあげると、同じくらいにゆっくりと──しかし、しっかりと頷いた。
──ヨンフェを信じよう。きっと問題はない。
そう自分に言い聞かせると、ジョンミョンはきびすをかえして静かに帰路につくのだった。
ヒャンユンの姿は、独り黒蝶団の練習場にあった。力を込めないようにと意識していながらも、自然に一振りに不要な力が入る。背中で剣を持ち替えて振り向き、彼女はそのまま地面に切っ先を刺した。どうしてこんなにも無力なのか。怒りが彼女の身体を支配した。
「あああぁぁ!!!」
空気を切りつけることでしか怒りを収めることのできない自分にも腹が立った。そんなヒャンユンの荒れた様子を見ていたのは、やはりトンチャンだった。彼は状況を察し、物陰から一歩足を踏み出そうとした。だが、その肩を掴んで止める人物がいた。
「止めておけ」
カン・ソノだった。トンチャンはその手を振り払って、目の前の男を怒鳴り付けた。
「何するんだよ!!お前だってあいつのことを心配してるから、ここまで来たんだろうが!」
「そうだ!心配している。その気持ちは、お前のもとに帰るためにあの人が全てを捨てた日からずっとあった」
ソノは涙目になりながら、やっとの思いで言葉を発した。
「だが、あの人は……あの人はそうやって強くなり続けてきた。きっとこれからも、ああやって強くなっていく」
その言葉に、トンチャンはついに怒りをぶちまけた。
「だからって!あんなに苦しんでいるのが強くなるためなのか!?おかしいだろ!!なんであいつが苦しまなきゃならねぇんだよ!本当に苦しまなきゃならねぇのは、チョン・ナンジョンとユン・ウォニョンだろうが!!」
ソノは気づきたくなかった矛盾が心に刺さった気がして、いつまでもその場を動けないでいた。そしてトンチャンもまた、やるせなさに壁を叩くことしかできなかった。
ヒャンユンとトンチャンがジョンミョンに呼び出されたのは、その僅か翌日だった。ジョンミョンは机の上に金を置き、こう言った。
「ヒャンユンは義州へ行け。トンチャンはその道中での手助けをしてほしい」
「え……?ですが、義州になんて何の用で……」
続いて、ジョンミョンは一枚の封書を取り出してきた。紙には何やら所在らしきものが書かれている。文面を見て、ヒャンユンが何かに気づいた。
「これは……私の……」
「そうだ。義州の叔母だ。まぁ、正確には乳母なのだがな」
それを聞いた途端、彼女の瞳に光が差した。トンチャンは相変わらず首をかしげたままだ。ふと、商団の方はどうするのかと尋ねようとしたところ、先にジョンミョンがヨンフェを呼び寄せて報告させた。
「ミン・ドンジュ大行首には上手く伝えておきます。ご安心を」
「黒蝶団の方も、チョヒたちに任せることにしてある。あとを追ってギョムたちも合流する故、トンチャンは肩の荷を下ろして任務にかかるように」
ヒャンユンはその言葉に耳を疑った。ジョンミョンが何故自分と黒蝶団の関係を知っているのか。狼狽する娘に対し、彼はただ微笑みを返すのだった。
男装をして旅路の支度をする間、ヒャンユンは父の言葉を反芻していた。一体その意図は何なのか。訪ねれば解ると言ってはいたものの、心の片隅には純粋にトンチャンとの旅を楽しみにする自分がいた。だからこそ、不要かもしれないとしても出来るだけ可愛らしい韓服を荷物に詰め込み、紅も密かに忍ばせた。一方、二頭の馬を引いてきたトンチャンは相変わらずの格好をしている。だが、ヒャンユンの男装姿を見て彼は息をのんだ。
「お前、俺より格好いいじゃねぇか……」
「長髪なだけよ。それに、トンチャンの格好良さには敵わないわ」
どこまでも愛らしいヒャンユンにまたもや胸をときめかせると、いつの間にか置いてけぼりになっている自分に気づき、トンチャンは慌てて荷物をまとめ始めるのだった。
漢陽を出て暫く進むと、最初の宿に到着した。宿屋の女将に馬を預けると、ヒャンユンは少し低めの声で一泊したいという旨を伝えた。すると、美形の男だとすっかり思い込んだ女将は舞い上がって一番上等な部屋を用意してくれた。トンチャンは自分との待遇差に僅かな不満を覚えたが、それよりも自分が彼女と同室であることに焦りを覚えた。
「お、おい。お前さ、このまま寝るのか?ん?」
「ええ、そのつもりだけど」
「な、なぁ。お前のその魅力でもう一部屋……」
「駄目よ。護衛の意味がないでしょ。それに、私にとってトンチャンは特別よ」
そう言いながらさっさと布団を漁り始めたヒャンユンだったが、暫くしてから何かに気づくと、その表情を一変させた。
「ね、ねぇトンチャン」
「どうした?布団にカビでも……」
「違うの。一組しかない」
「ええっ!?」
二人は顔を見合わせると、もう一度一緒に確認した。だが、確かに布団は一組しかない。仕方がないのでヒャンユンはもう一度女将を呼び出して事の次第を問いただした。
女将いわく、今日は遠方からの客が多いために布団が不足しており、この部屋は男二人なので別に一枚でいいだろうという判断らしい。尚、既に布団は出払っており、回収は不可能らしい。お情けのように枕はもう一つ貰ったものの、ヒャンユンはそれを抱き締めたまま部屋の隅から動かなくなってしまった。
気まずい空気がその場を吹き抜ける。ヒャンユンに後ろを向いてもらっている間、トンチャンが先に着替えた。だがそれでもヒャンユンは動かない。しばらくして、渋々摺り足で荷物をとってから髪を下ろし始めたので、トンチャンは否応なしに後ろを向いた。衣擦れの音が一層妄想を掻き立てるので出来れば耳も塞ぎたかったが、間に合わなかった。寝巻き代わりに持ってきた武術服を着終えると、ようやくヒャンユンは床についた。とは言っても、まだ枕を抱えて端にちょこんと座っているだけなのだが。
トンチャンはため息をつくと、その手を引き寄せて布団を捲った。それがまた夫婦のようで、ますます気恥ずかしく思えてヒャンユンはついに俯いてしまった。
「私たち……こんな風に、普通の関係になりたかった」
「普通って?」
「何も知らない大行首の娘のままで居たかった。そうしたら、今ごろはあなたの……」
トンチャンはその言葉の続きを聞きたくなくて、つい自分の唇でヒャンユンの唇を塞いだ。未婚の女子に布団の上でする行為では到底あり得ないことだが、彼には叶わないことを知っているからこそ出来た。何も知らないヒャンユンは、枕を腕から取り落として呆然としている。
「何も、言うんじゃねぇ。過ぎた過去の夢なんて、もう考えるな」
「でも……」
「いいか、お前はお前だ。それは変えることができない。イ・ヒャンユンもお前だし、コン・ヒャンユンもお前だ」
そう言いながら、トンチャンはヒャンユンの髪を愛しそうにかき上げ、指に絡めながら目を細めた。
「だから、俺は全部の瞬間のお前を愛する。例えそれが俺の破滅を意味するとしても」
すきま風が吹いたのか、徐に明かりが消えた。部屋は月光だけに照らされていて、互いの影しか見えない。その影をなぞりながら、トンチャンは彼女を抱き締めた。
「頼む、居なくならないでくれ。いつか勝手な頼みだったと思うかもしれないが、居なくならないでくれ。俺の側にいてくれ」
「トンチャン……どうしたの?」
「お前が好きだ」
────そして同時にもう、とても苦しい。
離れないといけないと解っているのに、どうしても離れられなかった。
────俺は……引き離される辛さと、手放す辛さを両方味わなきゃならねぇのか……?
もう充分苦しんだ。なのにまた痛みを知らなければならないというのか。トンチャンは既に感じる痛みに耐えかね、ヒャンユンから離れて布団の外に横たわった。
「トンチャ……」
「寝ろ。俺のことは構わねぇ」
「でも……」
「いいから。……頼む、暫く一人にさせてくれ」
そう言うトンチャンの頼もしい背中が、酷く広大で遠く見えた気がして、ヒャンユンは何も言えずに布団を被ることしか出来なかった。
翌朝、食事を済ませて早くに発った二人は義州への道中を急いでいた。互いに無言で馬を進めるなか、ついに義州の町が見下ろせる峠に差し掛かった瞬間、ヒャンユンはそこで足を止めた。
「懐かしい……私の子供時代の思い出の大半は、ここで生まれたの」
「俺は生まれも育ちも都だったから、故郷が二つもある感覚はわからねぇな。けど──」
トンチャンは少し間を置いてヒャンユンを見つめ、微笑みかけた。
「けど、人生が新しく始まり直す瞬間ってのはわかる気がする」
そう言うと、彼は馬を加速させてから再び止めて振り返った。
「町まで競争だ!負けたら俺に義州を案内してもらう」
「えっ……あっ、待ってよ!ずるいわ!ちょっと、トンチャン!」
既に姿が見えなくなり始めたトンチャンの背を追って、ヒャンユンは慌てて余韻から抜けた。走り抜けながら風が頬に当たる感覚を受けている気分は、何にも変えがたいほどに心地よい瞬間だった。幼い頃も、勝手に馬を乗り回しては叱られていたことがあった。その記憶は──
なにかが引っ掛かる気分に陥ったものの、義州の町に降り立ったせいでそんなことはどこかに去ってしまった。
「わぁ……何も変わってないわ」
「松都にはよく行くことがあるけど、ここはまた違った空気があるな」
「義州は明との国境だから、道行く人のほとんどが商売人かお役人様なの」
トンチャンはヒャンユンの瞳に、確かに光が戻ったことを悟った。初めて会ったときのような活き活きとした姿に、彼はようやく探し続けてきた彼女に再会できた気がして、思わず涙が溢れそうになった。
「どうしたの?どこか、痛いの?」
「違うんだ……お前が……あの日のお前が帰ってきた気がして……」
往来など気にもせず、トンチャンはヒャンユンを抱き締めた。端からみれば普通の恋人同士に見えるのに、一体自分はどこで間違ってしまったのか。彼は目を閉じて愛する人の吐息に耳をすませた。規則正しく息をしているはずなのに、とても朧気で儚く思えてしまうヒャンユン。この先もずっと守り続けたい人なのに、もう自分はその先を共に歩むどころか見ることさえも許されない。
知らない方がよかったと思うときもあった。出会ったことを責めることもあった。それでも、トンチャンにはヒャンユンしかいなかった。いや、ヒャンユンしか必要なかった。彼女だけがいてくれさえすれば、世界はどうなっても構いはしなかった。例えば世界が崩れてしまっても、火に包まれたとしても、彼にとってはどうでもよかった。
「愛してる。それだけは、わかっていて欲しいんだ。お前を俺は、この先も嫌いになったりなんてしない。どうか、それだけは覚えておいてくれ」
小首をかしげながらも、ヒャンユンは頷いた。その様子を見て納得した彼は、身体から手を離して優しくその頬を撫でた。
「ああ……綺麗だよ。とても、お前は綺麗だ。俺がこれ程に想った人……」
そして、唯一の人。いつか別れを告げずに去らねばならない人。トンチャンは、とても心細かった。それでも出会えたことに、対峙していられることに、触れていられることに、心は未だに幸せで満ち足りていた。
昔、彼の曰牌時代の兄貴分にこの世で残酷なことは何かと聞かれたことがあった。その時は答えを見つけられずに俯くことしかできなかったが、今ならはっきりとわかる。彼は息を呑んで、声を殺してヒャンユンから背を向け、雑踏に溶け込むくらいに小さな声で答えを呟いた。
「────自分から、手を離す……こと……」
その声は望み通り、雑踏に溶け込んで消えた。だから、ヒャンユンに届くことも叶うことはなかった。
ヒャンユンは父から託された紙をみながら、更に懐かしい場所へ足を運んでいた。そこは、彼女が義州で最も長い時間を過ごした叔母──ではなく乳母の家だった。
人の気配を察したのか、家からだれかが出てきた。それは紛れもなく乳母の姿だった。その人はヒャンユンを見て目を細めると、少し間を置いて声をあげた。
「────ヒャンユンお嬢様?」
「ええ、そうです。私です。ヒャンユンです」
「ヨンフェ若様から、お嬢様がいらっしゃるとはお伺いしておりましたが……まさかこれ程にお美しくなられるなんて……」
乳母──チョ・ソヨンは恭しく一礼すると、少し距離を置いて再会を見守る男に気づいて主人に尋ねた。
「このお方は、どなたですか?」
「この方は──」
「護衛のシン・ドンチャンです」
ヒャンユンが何か言う前にあっさりとそう名乗ったトンチャンは、同じく静かに一礼した。ソヨンが二人に部屋へはいるように促したので、ヒャンユンはトンチャンを連れて懐かしい部屋へ足を踏み入れた。
奥の方から何かを取り出してきたソヨンは、返り血の付いた美しい布に入った書簡を涙ぐみながらヒャンユンに手渡した。
「これは……」
「お嬢様のお母様が、命懸けでお守りした証拠でございます。チョン・ナンジョンは奥様自体が証拠だと思っていたことが幸いで、コン・ジェミョン大行首様と共になんとか今までお守りしていたものでございます」
「では、この血は……」
ヒャンユンは震える手で、その人の手に触れるように布地をなぞった。涙はこぼれることなく、ただその両目を紅く染めている。
「お母……様」
「お嬢様……奥様をお守りできなかった至らぬ私を、どうか罰してください!」
悲痛なソヨンの言葉に、ヒャンユンは顔もあげることさえしなかった。だが、肩を震わせながら唇を噛み締めてからこう言った。
「……いいえ。これはあなたが受ける罰ではない。私と母と兄と父、そしてその他の全ての人たちの人生を私利私欲のために滅茶苦茶にした────チョン・ナンジョンとユン・ウォニョンが受けるべきだ」
言い終わって顔をあげたヒャンユンの瞳には、間違いなく光が宿っていた。だがそれは先程のものとは違う、復讐の炎を受けて反射しているものだった。
心を落ち着かせるために庭に出たヒャンユンの孤独な背を眺めながら、トンチャンは前と同じように立ち尽くしていた。ソノの「行ってはいけない」という言葉が反芻される。だが、彼は考えた。今自分にできることは、本当にただ傷ついていく姿をただ見守ってやることなのだろうか。避けることのできない別れを前にして、自分は逃げているような気がした。だから、トンチャンはその足を踏み出してヒャンユンを背中から抱き締めた。
「俺も、手伝います」
ヒャンユンは驚きで目を見開いている。彼はそのまま続けた。
「あなたの苦しみに、共に胸を痛めましょう。その身を切り裂かれるような苦難を越えねばならないなら、あなたのために身を呈すことができなくとも、共に傷を刻まれることを望みます。これからは、そんな愛を貫きます」
トンチャンは空を仰いで一息吐いた。
「────それがこの俺、シン・ドンチャンの愛です」
例え、この手を自ら離す未来が決まっていようとも、もう怯えたりはしない。トンチャンは強くヒャンユンを抱き寄せてそう決意するのだった。
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