2、定めと無力
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ヒャンユンはいつものように、黒蝶団での用事を終えて素素樓で仕事をしていた。すると、珍しくキョハとソジョンが二人で部屋に入ってきた。
「お二人揃って、どうされましたか?」
「それが……その……」
「明との国境で問題が起きたようです。兵曹判書であられる、お嬢様のお父様は大丈夫なのでしょうか……?」
ヒャンユンは失笑すると、首を横に振った。
「今の大尹派を叩こうなんて、流石の小尹派もそんな無茶はしないわよ。それより、接待の方は必ずここに回すように口添えしておくから」
「ありがとうございます、ヒャンユンさん」
「いいのよ、気にしないで。今までの恩に比べれば、こんなの大したことないわ」
今まで沈んでばかりいたヒャンユンの表情に、生き生きとした活気が戻って来はじめたことに二人は喜びを感じた。ヒャンユンも最近は日常が戻ったような錯覚を覚えていた。
しかしその幸せは、またもや小尹派の手によってすぐに壊されることになるのだった。
ヒャンユンが帰宅すると、邸宅では既に会議が開かれていた。兄のヨンフェは深刻そうな顔をしてため息をついている。
「お兄様、どうしたのですか?もしや、まことにお父様が国境の件で……」
「ああ、そうなるやもしれん。どうやらユン・ウォニョンと明の使節団長が接触したとか」
ヒャンユンは思わず息を呑んだ。
「まさか……では、父を糾弾するように買収を?」
「可能性はある。なにしろ、卑怯さにかけては右に出るものは居ない。お前も気を付けろ」
「はい、お兄様」
返事は気丈だったものの、ヒャンユンの心には不安が付きまとい続けていた。そしてその不安は、ついに翌朝に現実のものとなった。
義禁府の兵が邸宅に押し寄せ、ヒャンユンは息を殺しながら部屋の屏風の裏に隠れていた。兵が彼女の父を連行し、ヨンフェの悲痛な声が響いている。
「父上!」
「ヨンフェ。"蝶"を頼んだ。あの男に託せ」
「ですが……」
「私の頼みだ。言うとおりにしてくれ」
ヨンフェは苦々しげに頷くと、蝶──ヒャンユンを裏口から苦そうと試みた。だが、すぐ後ろに兵が迫っている。絶体絶命の危機だと冷や汗をかいているその時だった。連絡を貰ったのか、カン・ソノがヒャンユンに服を被せて顔を隠した。
「大丈夫ですか?」
「ええ。けれど、お父様が捕らえられてしまったわ」
「その件に関しては、オクニョたちと共に議論しましょう」
「でも……」
「ひとまず、私たちが使っている隠れ家に来て下さい」
気落ちしているヒャンユンを見て、ソノは胸が締め付けられるような痛みを感じていた。十数年前の悲劇がまた繰り返されるのだろうか。そんな不安が表情からだけでも読み取れる。彼は手を伸ばして慰めてやろうと思ったが、すぐに手を引っ込めて何事もなかったかのように歩きだした。
──彼女を慰める役目は、シン・ドンチャンのものだ。私のものではない。
けれど、胸の痛みの強さは同じだろう。決して共有されることは許されない想いに、ソノは改めて理不尽さを覚えるのだった。
隠れ家に案内されたヒャンユンは、しばらく待つようにと言われて椅子に腰かけた。だが待てど暮らせど誰も呼びに来ないため、気は進みはしなかったが仕方がなくソノを探しに辺りを散策し始めた。洞窟を利用した地下室のようになっている隠れ家を歩き回っているうちに、ヒャンユンはある一室の前で足を止めた。部屋の中からはソノとオクニョの声が聞こえてきている。部屋に踏み込もうとしたヒャンユンだったが、すぐ後に耳に飛び込んできた言葉に息を呑んだ。
「王女様。何か打開策がおありなのですか?」
────王女?誰のこと?まさか…………
「一体、誰が王女様なのですか?」
ヒャンユンは眉を潜めながら部屋に飛び込んだ。驚きで目を丸くしているソノとオクニョを見て、彼女は推測を確信に変えた。
「まさか……オクニョが、王女様なの?」
「ヒャンユン……」
「そんな……」
暫くして事の重大さを察知したヒャンユンは、慌てて地面に座り込んで深々と一礼した。
「王女様、これまでのご無礼をどうかお許しください!」
「やめて、ヒャンユン。これまで通りに接してちょうだい。それが私のためにも、あなたのためにもなるのだから」
「小尹派に気づかれぬよう、私も気を付けます。ですが、何故王女様はこのような道を歩まれたのですか?本来は王宮にあられるべき方なのに」
オクニョはため息をつくと、ヒャンユンの手を取って立ち上がらせた。
「……あなたと、理由は同じよ。先の王様のご寵愛を受けた私の母は、世子様の暗殺の現場を見たとして暗殺されたの」
「……ユン・ウォニョンと、チョン・ナンジョンにですか」
オクニョは黙って頷くと、拳を震わせながらこう言った。
「私は、あの人たちに復讐するわ。その第一歩に、チョン・ナンジョンの資金源である商団の資金を断つ。協力してくれる?」
ヒャンユンは深くうなずいた。
「ええ。ですが、まずは我が父を救い出さねば」
「もちろん。協力者のソン・ジホン様も投獄されたの。共に救う手だてを探しましょう」
「わかりました。失望はさせませんよ」
二人の視線が重なる。その瞳には、同じ敵に対して向けられた復讐の炎が燃え盛っているのだった。
隠れ家でため息をつきながら座り込んでいたヒャンユンは、逃げることしかできない自分の無力さを嘆いた。そんな彼女の目の前にやって来たのは、なんとトンチャンだった。
「ヒャンユン!」
「トンチャン……!どうやってここが?」
心細さから解放され、ヒャンユンは安堵のあまりトンチャンに抱きついた。
「カン様から知らせを受けた。お父上が投獄されたとか……」
「そうなの。黒蝶団は問題ない?」
「ああ。だが、大尹派の手の者として謀反人扱いされそうなのだとか」
「そんな……どうすれば…」
「一先ず、素素樓がお前を匿うそうだ。一緒にいこう」
だが、ヒャンユンはそう言って差し出されたトンチャンの手を掴まない。何度催促しても、彼女は決して動こうとしない。
「……どうしたんだ?」
「だって……私がこの手をとれば、またあなたを危険にさらしてしまう。そんなこと……」
「構いやしない。俺の命は、お前のためにあるんだから」
トンチャンはためらうヒャンユンの手を強引に掴んで引き寄せると、しっかりと指を絡めて手を握った。
「お前は、俺が守る。絶対この手を離しはしない」
「トンチャン……」
「だから、二人で道を探そう。お父上も黒蝶団も守ることが出来る方法があるはずだ」
ヒャンユンは弱々しく、こくりと頷いた。その様子が愛しくて、トンチャンは笑顔で返すのだった。
素素樓に着いたヒャンユンは、いつもと様子が違うことを察知した。客の往来が一切ない静まり返った様子は、いつも繁盛しているここにとってはとても珍しい。
「キョハさん、何かあったのですか?」
「ええ。王様がテウォンに来られるの」
「王様が……?」
それを聞いた瞬間、ヒャンユンの瞳に光が差した。絶望の中に差した一筋の光。それを掴まない手はなかった。
「私も、会わせて欲しい」
「えっ?」
思いがけない頼み事にキョハとソジョンの目が見開かれる。トンチャンも目を丸くして狼狽している。
「で、でもヒャンユン。そんなことをしたってどうしようも……」
「少なくとも、黒蝶団は救える。そして、それこそが奴等を倒す力になるはず」
そう言うと、ヒャンユンはトンチャンを置いて独りで行ってしまった。残された彼は、改めて互いの距離の遠さにため息を漏らすのだった。
トンチャンは素素樓の石畳に座りながら、また一つため息をついていた。頭の中では、ヒャンユンの素性を知ったあの日から決意していた物事が渦巻いている。
あの日、彼は塀の上から伸ばした手が離れた瞬間に決意していた。
────ヒャンユンが身分を回復して、あるべき場所に戻ることができたら……その時には俺が、あの人から身を引こう。こんな男が側に居れば、きっと迷惑になる。
その決意は固く、そして静かなものだった。この国には平等の前に班賤の別があると聞いたことがある。そして一部の両班にとっては、平民も賤民も大して変わらない程度に映っているということも知っていた。トンチャンは月を見上げて、一筋の涙をこぼした。
「ああ……どうして俺は……どうしてあなたを愛したんだろうか……」
蝶がその肩に留まった瞬間、言葉には現しがたい幸福感が彼を襲った。だが、同時にそれは悲劇の始まりだったのだ。
しかし、彼を苦しめたのはその事実だけではなかった。もっと深いところにある、呪いのような恋心だった。例えこの苦しみを味わうことを知っていたとしても、結局は思い慕うことになっていただろう。どこかで解ってはいたが、断ち切れないそんな想いがもう苦しかった。かつては自分を自由にしていたはずの恋心が、今となっては自分の両手足を縛っている。
「どうして……こんなにも俺はあなたが……」
こんなことになるのなら、真実など知らずに生きていきたかった。そう思う度に、トンチャンはある出来事を思い出さずにはいられなかった。
それは、ヒャンユンが商売を学んで同じ道を歩みたいと言ってくれた時のことだった。二人で商団を立ち上げ、トンチャンが大行首をして、ヒャンユンが経理をするという夢を語ってくれた。そこで何気なく言ってみたトンチャンの言葉────ヒャンユンを嫁にしてもいいという言葉に、彼女はとても喜んでくれた。
────嬉しかったの。トンチャンに会えて、トンチャンに愛されて、私はこの朝鮮一幸せな娘なんだなって。
「俺だって……!俺だって、幸せだよ……!お前に愛されて……痛いほどに幸せだよ……苦しいほどに幸せなんだよ……」
けれど、自分はその幸せを選んではいけない。手放さなければならない。そんな苦しみが、改めて彼を孤独な道に立たされているのだと教えるのだった。
王との謁見を終えたヒャンユンと団員たちの姿は、イ・ジョンミョン宅にあった。義禁府の者たちが見張るなか、覆面をした一同は塀を越えて部屋に侵入した。
「さっさと探して帰りましょう」
彼女が探しているもの──それは明との国境で起きた問題に関しては、既に解決しているという内容を示した書簡だった。ジョンミョンはもしものときに備えて、明の地方長官と既に話を取りまとめていたのだ。
「ありました、団長」
「ご苦労。戻るわよ」
ヒャンユンが戻ろうとしたその時だった。行く手を塞ぐ男が一人現れた。
「そなたらが黒蝶団か」
「……内禁衛の隊長、キ・チュンスです」
困惑するヒャンユンに、ソジンが耳打ちした。腕に自信があるのか、チュンスはじりじりと歩み寄ってくる。そして、その顔に月明かりが差した瞬間、ヒャンユンの脳に衝撃が走った。
「──────お前は……!!」
「何をしているんですか。早く逃げないと!」
ギョムの声に冷静さを取り戻すと、ヒャンユンはやっとのことで塀を越えてその場を逃げ去った。
だが走り去る間も、彼女の脳裏からはあの男を見たときの衝撃が焼き付いて離れない。執務室へ戻ったヒャンユンは、指を組んで正面を睨み付けてその名を呟いた。
「……キ・チュンス。そのような名前だったのね。ようやく、出会えたわ」
────私の母を、殺した男。
ヒャンユンは叫びながら、衝動的に机の上にあるものを全て叩き落とした。その音をききつけ、トンチャンが部屋に飛び込んでくる。
「どうした!?」
「私は今日、母を殺した男を見つけた。対峙もした。でも……」
ヒャンユンは肩を落として椅子に座り込み、呟いた。
「でも……何も出来なかった。ただ、逃げることしか出来なかった」
トンチャンは黙って床を見ている。ヒャンユンは顔をあげて尋ねた。
「ねぇ、いつになったら私は強くなれるの?これじゃあ、昔と何一つ変わらない。今度だれかを失う前に、私は立ち向かいたいの!」
「ヒャンユン……」
それは、彼女が初めて見せた悲痛な叫びだった。トンチャンは小さくてか細く頼りない肩を抱き寄せると、黙って震える身体を強く抱き締めた。
「強くなりたかった……なのに……」
「もう、いいから……俺の前では、強くなろうとしなくてもいいから」
「トンチャン……辛いよ……帰りたいよ……」
それは、帰る場所がないと知りながら発した言葉なのか。それとも、帰ることがいつか出来ると信じて発した言葉なのか。そんな疑問がまた、トンチャンを苦しめるのだった。
「お二人揃って、どうされましたか?」
「それが……その……」
「明との国境で問題が起きたようです。兵曹判書であられる、お嬢様のお父様は大丈夫なのでしょうか……?」
ヒャンユンは失笑すると、首を横に振った。
「今の大尹派を叩こうなんて、流石の小尹派もそんな無茶はしないわよ。それより、接待の方は必ずここに回すように口添えしておくから」
「ありがとうございます、ヒャンユンさん」
「いいのよ、気にしないで。今までの恩に比べれば、こんなの大したことないわ」
今まで沈んでばかりいたヒャンユンの表情に、生き生きとした活気が戻って来はじめたことに二人は喜びを感じた。ヒャンユンも最近は日常が戻ったような錯覚を覚えていた。
しかしその幸せは、またもや小尹派の手によってすぐに壊されることになるのだった。
ヒャンユンが帰宅すると、邸宅では既に会議が開かれていた。兄のヨンフェは深刻そうな顔をしてため息をついている。
「お兄様、どうしたのですか?もしや、まことにお父様が国境の件で……」
「ああ、そうなるやもしれん。どうやらユン・ウォニョンと明の使節団長が接触したとか」
ヒャンユンは思わず息を呑んだ。
「まさか……では、父を糾弾するように買収を?」
「可能性はある。なにしろ、卑怯さにかけては右に出るものは居ない。お前も気を付けろ」
「はい、お兄様」
返事は気丈だったものの、ヒャンユンの心には不安が付きまとい続けていた。そしてその不安は、ついに翌朝に現実のものとなった。
義禁府の兵が邸宅に押し寄せ、ヒャンユンは息を殺しながら部屋の屏風の裏に隠れていた。兵が彼女の父を連行し、ヨンフェの悲痛な声が響いている。
「父上!」
「ヨンフェ。"蝶"を頼んだ。あの男に託せ」
「ですが……」
「私の頼みだ。言うとおりにしてくれ」
ヨンフェは苦々しげに頷くと、蝶──ヒャンユンを裏口から苦そうと試みた。だが、すぐ後ろに兵が迫っている。絶体絶命の危機だと冷や汗をかいているその時だった。連絡を貰ったのか、カン・ソノがヒャンユンに服を被せて顔を隠した。
「大丈夫ですか?」
「ええ。けれど、お父様が捕らえられてしまったわ」
「その件に関しては、オクニョたちと共に議論しましょう」
「でも……」
「ひとまず、私たちが使っている隠れ家に来て下さい」
気落ちしているヒャンユンを見て、ソノは胸が締め付けられるような痛みを感じていた。十数年前の悲劇がまた繰り返されるのだろうか。そんな不安が表情からだけでも読み取れる。彼は手を伸ばして慰めてやろうと思ったが、すぐに手を引っ込めて何事もなかったかのように歩きだした。
──彼女を慰める役目は、シン・ドンチャンのものだ。私のものではない。
けれど、胸の痛みの強さは同じだろう。決して共有されることは許されない想いに、ソノは改めて理不尽さを覚えるのだった。
隠れ家に案内されたヒャンユンは、しばらく待つようにと言われて椅子に腰かけた。だが待てど暮らせど誰も呼びに来ないため、気は進みはしなかったが仕方がなくソノを探しに辺りを散策し始めた。洞窟を利用した地下室のようになっている隠れ家を歩き回っているうちに、ヒャンユンはある一室の前で足を止めた。部屋の中からはソノとオクニョの声が聞こえてきている。部屋に踏み込もうとしたヒャンユンだったが、すぐ後に耳に飛び込んできた言葉に息を呑んだ。
「王女様。何か打開策がおありなのですか?」
────王女?誰のこと?まさか…………
「一体、誰が王女様なのですか?」
ヒャンユンは眉を潜めながら部屋に飛び込んだ。驚きで目を丸くしているソノとオクニョを見て、彼女は推測を確信に変えた。
「まさか……オクニョが、王女様なの?」
「ヒャンユン……」
「そんな……」
暫くして事の重大さを察知したヒャンユンは、慌てて地面に座り込んで深々と一礼した。
「王女様、これまでのご無礼をどうかお許しください!」
「やめて、ヒャンユン。これまで通りに接してちょうだい。それが私のためにも、あなたのためにもなるのだから」
「小尹派に気づかれぬよう、私も気を付けます。ですが、何故王女様はこのような道を歩まれたのですか?本来は王宮にあられるべき方なのに」
オクニョはため息をつくと、ヒャンユンの手を取って立ち上がらせた。
「……あなたと、理由は同じよ。先の王様のご寵愛を受けた私の母は、世子様の暗殺の現場を見たとして暗殺されたの」
「……ユン・ウォニョンと、チョン・ナンジョンにですか」
オクニョは黙って頷くと、拳を震わせながらこう言った。
「私は、あの人たちに復讐するわ。その第一歩に、チョン・ナンジョンの資金源である商団の資金を断つ。協力してくれる?」
ヒャンユンは深くうなずいた。
「ええ。ですが、まずは我が父を救い出さねば」
「もちろん。協力者のソン・ジホン様も投獄されたの。共に救う手だてを探しましょう」
「わかりました。失望はさせませんよ」
二人の視線が重なる。その瞳には、同じ敵に対して向けられた復讐の炎が燃え盛っているのだった。
隠れ家でため息をつきながら座り込んでいたヒャンユンは、逃げることしかできない自分の無力さを嘆いた。そんな彼女の目の前にやって来たのは、なんとトンチャンだった。
「ヒャンユン!」
「トンチャン……!どうやってここが?」
心細さから解放され、ヒャンユンは安堵のあまりトンチャンに抱きついた。
「カン様から知らせを受けた。お父上が投獄されたとか……」
「そうなの。黒蝶団は問題ない?」
「ああ。だが、大尹派の手の者として謀反人扱いされそうなのだとか」
「そんな……どうすれば…」
「一先ず、素素樓がお前を匿うそうだ。一緒にいこう」
だが、ヒャンユンはそう言って差し出されたトンチャンの手を掴まない。何度催促しても、彼女は決して動こうとしない。
「……どうしたんだ?」
「だって……私がこの手をとれば、またあなたを危険にさらしてしまう。そんなこと……」
「構いやしない。俺の命は、お前のためにあるんだから」
トンチャンはためらうヒャンユンの手を強引に掴んで引き寄せると、しっかりと指を絡めて手を握った。
「お前は、俺が守る。絶対この手を離しはしない」
「トンチャン……」
「だから、二人で道を探そう。お父上も黒蝶団も守ることが出来る方法があるはずだ」
ヒャンユンは弱々しく、こくりと頷いた。その様子が愛しくて、トンチャンは笑顔で返すのだった。
素素樓に着いたヒャンユンは、いつもと様子が違うことを察知した。客の往来が一切ない静まり返った様子は、いつも繁盛しているここにとってはとても珍しい。
「キョハさん、何かあったのですか?」
「ええ。王様がテウォンに来られるの」
「王様が……?」
それを聞いた瞬間、ヒャンユンの瞳に光が差した。絶望の中に差した一筋の光。それを掴まない手はなかった。
「私も、会わせて欲しい」
「えっ?」
思いがけない頼み事にキョハとソジョンの目が見開かれる。トンチャンも目を丸くして狼狽している。
「で、でもヒャンユン。そんなことをしたってどうしようも……」
「少なくとも、黒蝶団は救える。そして、それこそが奴等を倒す力になるはず」
そう言うと、ヒャンユンはトンチャンを置いて独りで行ってしまった。残された彼は、改めて互いの距離の遠さにため息を漏らすのだった。
トンチャンは素素樓の石畳に座りながら、また一つため息をついていた。頭の中では、ヒャンユンの素性を知ったあの日から決意していた物事が渦巻いている。
あの日、彼は塀の上から伸ばした手が離れた瞬間に決意していた。
────ヒャンユンが身分を回復して、あるべき場所に戻ることができたら……その時には俺が、あの人から身を引こう。こんな男が側に居れば、きっと迷惑になる。
その決意は固く、そして静かなものだった。この国には平等の前に班賤の別があると聞いたことがある。そして一部の両班にとっては、平民も賤民も大して変わらない程度に映っているということも知っていた。トンチャンは月を見上げて、一筋の涙をこぼした。
「ああ……どうして俺は……どうしてあなたを愛したんだろうか……」
蝶がその肩に留まった瞬間、言葉には現しがたい幸福感が彼を襲った。だが、同時にそれは悲劇の始まりだったのだ。
しかし、彼を苦しめたのはその事実だけではなかった。もっと深いところにある、呪いのような恋心だった。例えこの苦しみを味わうことを知っていたとしても、結局は思い慕うことになっていただろう。どこかで解ってはいたが、断ち切れないそんな想いがもう苦しかった。かつては自分を自由にしていたはずの恋心が、今となっては自分の両手足を縛っている。
「どうして……こんなにも俺はあなたが……」
こんなことになるのなら、真実など知らずに生きていきたかった。そう思う度に、トンチャンはある出来事を思い出さずにはいられなかった。
それは、ヒャンユンが商売を学んで同じ道を歩みたいと言ってくれた時のことだった。二人で商団を立ち上げ、トンチャンが大行首をして、ヒャンユンが経理をするという夢を語ってくれた。そこで何気なく言ってみたトンチャンの言葉────ヒャンユンを嫁にしてもいいという言葉に、彼女はとても喜んでくれた。
────嬉しかったの。トンチャンに会えて、トンチャンに愛されて、私はこの朝鮮一幸せな娘なんだなって。
「俺だって……!俺だって、幸せだよ……!お前に愛されて……痛いほどに幸せだよ……苦しいほどに幸せなんだよ……」
けれど、自分はその幸せを選んではいけない。手放さなければならない。そんな苦しみが、改めて彼を孤独な道に立たされているのだと教えるのだった。
王との謁見を終えたヒャンユンと団員たちの姿は、イ・ジョンミョン宅にあった。義禁府の者たちが見張るなか、覆面をした一同は塀を越えて部屋に侵入した。
「さっさと探して帰りましょう」
彼女が探しているもの──それは明との国境で起きた問題に関しては、既に解決しているという内容を示した書簡だった。ジョンミョンはもしものときに備えて、明の地方長官と既に話を取りまとめていたのだ。
「ありました、団長」
「ご苦労。戻るわよ」
ヒャンユンが戻ろうとしたその時だった。行く手を塞ぐ男が一人現れた。
「そなたらが黒蝶団か」
「……内禁衛の隊長、キ・チュンスです」
困惑するヒャンユンに、ソジンが耳打ちした。腕に自信があるのか、チュンスはじりじりと歩み寄ってくる。そして、その顔に月明かりが差した瞬間、ヒャンユンの脳に衝撃が走った。
「──────お前は……!!」
「何をしているんですか。早く逃げないと!」
ギョムの声に冷静さを取り戻すと、ヒャンユンはやっとのことで塀を越えてその場を逃げ去った。
だが走り去る間も、彼女の脳裏からはあの男を見たときの衝撃が焼き付いて離れない。執務室へ戻ったヒャンユンは、指を組んで正面を睨み付けてその名を呟いた。
「……キ・チュンス。そのような名前だったのね。ようやく、出会えたわ」
────私の母を、殺した男。
ヒャンユンは叫びながら、衝動的に机の上にあるものを全て叩き落とした。その音をききつけ、トンチャンが部屋に飛び込んでくる。
「どうした!?」
「私は今日、母を殺した男を見つけた。対峙もした。でも……」
ヒャンユンは肩を落として椅子に座り込み、呟いた。
「でも……何も出来なかった。ただ、逃げることしか出来なかった」
トンチャンは黙って床を見ている。ヒャンユンは顔をあげて尋ねた。
「ねぇ、いつになったら私は強くなれるの?これじゃあ、昔と何一つ変わらない。今度だれかを失う前に、私は立ち向かいたいの!」
「ヒャンユン……」
それは、彼女が初めて見せた悲痛な叫びだった。トンチャンは小さくてか細く頼りない肩を抱き寄せると、黙って震える身体を強く抱き締めた。
「強くなりたかった……なのに……」
「もう、いいから……俺の前では、強くなろうとしなくてもいいから」
「トンチャン……辛いよ……帰りたいよ……」
それは、帰る場所がないと知りながら発した言葉なのか。それとも、帰ることがいつか出来ると信じて発した言葉なのか。そんな疑問がまた、トンチャンを苦しめるのだった。