6、交わる刃
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ナビはオクニョとジホンが設立した商団に駆け込み、事の次第を説明した。ジホンは幸い決断力に溢れている男なので、すぐに襲撃を決意した。だが、手勢が少ないことがこの商団の問題点だ。
「黒蝶団をお借りできませんか?」
「………黒蝶団は今のところ、反小尹派勢力です。あなた方との関係を万が一知られれば、逆賊扱いになるやも」
「ならば、襲撃は厳しいのでは?」
意見が割れる。しかし、どうしてもと言うならとナビが口を開こうとしたときだった。チョン・ウチが一同に提案した。
「七牌の曰牌で、いい奴等がいるんです。一人でトンチャン五人分くらいの強さなので、そいつらに協力してもらいましょう!」
「なるほど。それはいい案だ。宜しく頼む。……ファン殿は、オクニョにこのことを伝えてほしい」
「はい、お任せを」
そういえば、先程からオクニョの姿が見えない。ナビの心に再び一抹の不安がよぎる。考えすぎだと首を振って外へ出ると、まずは昭格署へ向かう。
しかし、返ってきた返事は
「まだ戻っていないのです」だった。
続いて家に行ってみると、こちらにもいない。試しに典獄署へ行ってもみたが、そもそも最近こちらでは姿を見ていないと言われた。
────オクニョがいない……まだトゥべ村に……?
確かに、ナビはオクニョと共に帰っていない。だからその可能性もあり得る。しかし、何かがやはり警鐘を鳴らし続けている。
不安を胸に、ナビは一先ず素素樓へ戻るのだった。
オクニョが連れていかれたのは、どこかの屋敷だった。そして現れたのは、なんとユン・シネだった。その瞳は嫉妬の炎に燃えている。
「あ、あなたは………」
「ソン・ジホン様と、どういう関係?」
「え…?ソン様とは破談になられたのでは……?」
「何?その後も想うことが馬鹿らしい?」
あの後、ジホンと破談になったシネは荒んでいた。それはオクニョも知っていたため、尚更恐怖に萎縮した。
───殺される……!ヒャンユン、助けて……!!
しかし、その願いは届かない。それどころかチョン・ナンジョンまで合流した。
「シネ!何をしているのだ!」
「お母様!この女がソン・ジホン様をたぶらかしたのよ!」
修羅場だ。オクニョはナンジョンまで現れたことの運のなさを嘆いた。流石に窮地だ。
ナンジョンは掌を一閃させてシネを叩くと、ドンジュに命じて外へ出させた。そして、オクニョとじっくり向き合った。
「………お前とはつくづく、悪縁のようだ。だが、それもこれまで。」
オクニョは精一杯、チョン・ナンジョンの威圧に対抗しようと睨み付けた。だが、その気迫は間違いなくオクニョ自身の背筋を凍らせていた。
本当に、自分はこんなに強大な相手に勝てるのだろうか。命の限りを悟ったオクニョは、独りそう思うのだった。
チョンドンは、この日もトンチャンを見張るために勤しんでいた。薬剤の運搬を終えたらしい彼が戻ってきたときには特に何も思わなかったのだが、その様子から運搬を仕損じたことを悟った。更に、チョンドンは何かがおかしいと気づいた。明らかに曰牌の数が少ない。いつも居る二分の一の人数だ。手勢として連れていったわけでもない。何かが更に裏で動いているのだろうか。
試しにトンチャンをつけてみたチョンドンは、裏手に回って様子を伺った。すると、何やらチョン・ナンジョンとドンジュがトンチャンに指示をしているではないか。必死に聞き耳をたてる。
「………始末はうちの屋敷ではできぬ。」
「ご安心を。すでにスラク山の隠れ家に移しました。あとはこちらで始末をつけます」
「そうか。必ずオクニョを始末せよ。良いな?」
「はい。」
───何だって?オクニョを?どうするって?
チョンドンは自分の耳を疑った。だがすぐに一刻の猶予も辞さぬ事態が起きていることを悟り、彼は走り出した。だが、頼みの綱の商団には誰もいない。当然だ。彼らはまだ薬剤の運搬から帰っていない。残る場所で思い付くものと言えば、素素樓のユン・テウォンくらいしか思い浮かばなかった。だが、これもまだ平市署に居るのならばお仕舞いだ。
それでも行かないわけにはいかない。オクニョの危機なのだ。チョンドンは全力疾走を始めた。目指すは素素樓。最後の希望だった。
テウォンは丁度、帳簿の整理を行っていた。息急ききって走り込んできたチョンドンをみて、すぐに緊急事態を悟ったテウォンは、帳簿を近くの妓生に渡して尋ねた。
「どうしたんだ、チョンドン」
「兄貴……大変です……トンチャンたちがオクニョを捕らえて……スラク山の隠れ家に連れていったそうです!しかも、殺すつもりだとか!」
「何だと……!?すぐに行こう」
剣を手に持って素素樓を飛び出そうとしたテウォンだったが、すぐにチョンドンが止めた。
「でも、スラク山の隠れ家の場所は俺も知らないんです」
「何だと?場所がわからないなら、助けようが無いじゃないか!」
もはや状況は絶望的だった。だが、そんな二人の背後から凛と澄んだ声が聞こえてきた。
「スラク山の隠れ家なら、知っている。手助けしよう」
いつでも薬剤の運搬を手伝えるように、黒蝶団の服を着ていたナビは覆面を引き下げて苦々しく微笑んだ。
───とうとう来てしまった。この日が。あなたと一戦を交えるこの日が。
テウォンはナビの心中を知っていたため、本当は断りたかった。愛する人と対立することなど、誰が望むのだろうか。だが、自分の愛する人を救うためには彼女に頼るしかなかった。ナビもテウォンも、既に選択肢は一択であることを知っているのだった。
ナビが案内する通りについていくと、スラク山の隠れ家に着いた。何故知っているのかという愚問は、テウォンの口からは言えなかった。だが、代わりにチョンドンが同じ内容で質問した。
「どうして、ご存じなんです?」
ナビ──ヒャンユンの瞳が僅かに潤んだ。
──私は、トンチャンのもとに帰る。あなたが迷惑だと思うその日まで、絶対に帰ってくる。
「約束……したの」
「え?」
「遠い昔の話だ。今は別に関係ない」
ナビはチョンドンたちに冷たく言い放つと、立ち上がって見通しのよい場所を探し始めた。その瞳には、確かな決意が宿っていた。
その少し後。トンチャンはようやく隠れ家にたどり着いた。
この場所は嫌いだ。そう思ってため息をついた。何から何まで、ここはヒャンユンを思い出してしまう場所だった。
───この、嘘つきが。約束も守れなかった癖に。俺のもとに、二度と戻れない場所に先に独りで行った癖に。
慣れたはずなのに。なのに、まだむせかえるような切なさがぶり返す。それを振り払うために、トンチャンは部下のソ・イヌに尋ねた。
「始末は済んだか?」
「いえ、まだです。殺すには惜しくて……」
「なんだと………!?」
ヒャンユンのことに対するやり場の無い怒りが炸裂した。イヌを殴り倒したトンチャンは、その場で吠えた。
「今すぐつれてこい!あの女はめっぽう腕が立つ。すぐに始末する!」
叱責はついでだった。自分の苛立ちを抑えられないトンチャンは、剣を抜いて握りしめた。
あの女さえいなければ、俺とヒャンユンは一緒になれた。オクニョ…………あの女さえいなければ!
外に連れ出されたオクニョは、ヒャンユンと一緒に居た頃とはすっかり別人になってしまったトンチャンを見て、悲哀を込めた視線を送りつけた。
「なんだ。俺が哀れか?お前はいいよな。生きているからな」
「虚しくないの?ヒャンユンが死んで、自暴自棄に生きて。恥ずかしくはないの?」
「あいつは俺の人生そのものだった!もう居ないんだ!愛していたのに!今でも愛しているのに!俺は………俺は……あの子を…………」
その言葉は、塀の向こうに居るヒャンユンにも届いていた。テウォンは固まっているその様子を見て、少しだけ焦りを覚えた。
「なのに、俺たちを邪魔したお前は生きている。奴婢になったくせに戻ってきて、普通に生きている!俺のヒャンユンは戻ってこない。どれだけ想っても………もう………」
トンチャンは額の汗を拭った。いや、本当は涙を拭っていた。それはオクニョにもわかった。トンチャンは剣を握り直すと、こう言った。
「俺たちは、どうやら縁で結ばれているようだな」
「縁なんかじゃない。あなたは、チョン・ナンジョンの指示で動いているだけ。いつか後悔するわよ」
───いつか、ヒャンユンが生きていると知ったときにね。
だが、トンチャンの決意は揺るぎなかった。彼はすべてを終わらせるために剣を振りかぶった。けれど、これで終わることはない。これからも愛した人を失った痛みとは向き合っていかなければならない。永遠に、拭い去ることは出来ない痛みだった。
月明かりがトンチャンの顔を照らす。また、夜空を引っ掻いたような三日月が浮かんでいた。
そして剣が振り下ろされる。だが、その剣はオクニョを討つことは無かった。むしろトンチャンはその場に倒れこんだ。
「オクニョ!」
テウォンだった。だが、すぐにトンチャンは起き上がって剣を構え直した。部下たちもオクニョを取り囲んで剣を抜いている。
そんな中、塀を越えて現れたのはナビだった。地面に手をついて、覆面をしたままトンチャンを見上げる。額のはちまきに付いている蝶の印が、月明かりに照らし出された。
「黒蝶………団?」
「兄貴、そうです。黒蝶団です」
ナビは無言で立ち上がると、絶句しているトンチャンたちに向かって剣を抜いた。そして軽やかに走り出すと、跳躍してトンチャンに斬りかかった。
「くっ……!」
だが、彼もそこそこ腕はいい。ナビの一撃を受け止め、馬鹿力で押し返す。後ろに下がって次の攻撃に入ろうとしたナビの先を行き、トンチャンは先手を打った。上から攻撃を仕掛けられたナビは、力では不利なことを知っていたため、さっと避けてから素早い攻撃を返した。
「兄貴!それは団長です」
何度も痛い目にあっているイヌが、テウォンの剣を受けながら叫んだ。トンチャンはナビを好奇のこもった視線で見ると、一石二鳥とほくそ笑んだ。
だが、ナビの心中は違った。傷つけないようにと細心の注意を払いながら、かつ効果的な一閃一閃をと考えて攻撃を繰り出していたのだ。それでもナビは強かった。トンチャンでは歯が立たないくらいに、カン・ソノの教えを体得し、実践と鍛練を重ねていたナビは無敵に近かった。
つばぜり合いで刃が音をたてて交わる。剣越しに見るトンチャンは、誰よりも遠かった。だからこそ、ナビは覚悟を決めるように剣をはずした。そして、隙の出来たトンチャンの腕を鋭く斬りつける。
「ぐぁっ………!」
怯んで腕を抑えるトンチャンを見下ろし、ナビは剣を鞘におさめてテウォンたちを見た。既にオクニョは助け出されていた。ナビは指の隙間から血が滴る様子を横目で見て唇をかむと、静かにその場を後にするのだった。
翌日、ナビは薬剤の価格について調査するために市場通りを歩いていた。すると、相変わらず腕を押さえて痛そうに顔を歪めているトンチャンが目に入った。
───自業自得…ね
通り過ぎようとしたナビだったが、その胸は傷よりも痛んだ。彼女はため息をつくと、トンチャンの隣に立って肩を叩いた。
「………どうしたの?」
「ナビ……か」
「怪我を…したのですか?」
不思議と昔の口調に戻る。ナビはそんなことにも気づかず、ただ体が先に行動するのを感じながらトンチャンの手を取って引っ張った。
「ついてきて。手当てをするから」
「え……?」
「いいから、早く。」
この人は、こんなに優しい口調で本当は話せるのか。トンチャンは目を丸くしている。そんなこともお構いなしに、ナビはトンチャンを素素樓へ連れていくと、手当てをするために彼を楼閣で待たせた。妓生たちが遠目からその様子を見守る。
「ナビさん、何事?」
「………手当てをするだけ。申し訳ないが、貸してほしい」
「そりゃいいけど………」
ソジョンの親友のタジョンが手当ての箱を渡した。マノクはいつもよりも柔らかい表情を浮かべているナビを見て、トンチャンを想っていることを悟った。
───でも、なんで?
接点は限りなく少なかったはずだ。それに、好きになる理由が見当たらない。マノクはますます"あの"説が強力になってきたなと思うと、何度も首を縦に振るのだった。
手当てを始めたナビは、想像以上に深手を負わせてしまったことに胸を痛めた。かつてのように、手慣れてはいないものの心を込めて薬草をつけ、布を巻いていく。ほんの一瞬、顔を上げたときにトンチャンと目が合う。慌てて視線をうやむやにしたナビは、うつむいて布を結びつけた。ふと、その結び方にトンチャンが呟いた。
「………変な結び方だな」
「え?」
「同じ結び方をする人を、知っている」
それはヒャンユンのことだった。ろくに手当てもしたことがない彼女は、ついつい積み荷の留めひもと同じ結び方をしてしまうのだ。あのとき───ミョンソンを手にかけた後、オクニョに傷を負わされたときもそうだった。むしろそれが可愛らしくて、結びつける様子をずっと見ていたことも覚えている。
「………ありがとうな」
「………いえ」
ナビは今すぐにでも結び直したかったが、あいにく他の結び方が思い付かない。そのまま服を着てしまったトンチャンは、ナビに微笑みかけた。
「やっぱり、お前とあの人は似てる。ここまで来ると、ちょっと気色悪いけどな」
その言葉を聞いて、ナビの喉まで真実がむせかえる。本当のことをいいたい。この人の腕の中に飛び込みたい。やり場の無いその愛を一心に受けたい。
けれど、それは出来ない。自分には、それが出来ない。それを自覚するために彼を傷つけた。
そんな切なさが、ナビの心の中に吹き込むのだった。
薬剤の価格も下落し、疫病騒ぎも収集を始めていた。ナビはトゥべ村で薬剤を無料で配り、考えていた。
───私は、あの人を捕らえることになるの…?
トンチャンが道を踏み外したのは、自分のせいだ。自暴自棄になっているだけなのに、それを原因である自分が裁くというのか。いいや、やはり罪は罪だ。受けてもらわねばならない。
───私は、どうしたいの?
ナビは自分に問うた。だが返ってくるものは、何も無かった。
その頃、コン・ジェミョンは酒に溺れる日々を送っていた。形だけナンジョンに協力するテウォンだったが、その真意はジェミョンには伝わっていなかった。彼にとって、テウォンもまた息子のような存在だった。だから彼は二人の子供を失った気分にうちひしがれていた。
「ヒャンユン………テウォン………」
片方は二度と戻らない。もう片方は自分が堕落する様を見届けなければならない。
こんなに辛いことがあるだろうか。ジェミョンは空を仰いだ。もう二度と会えないヒャンユンのことを思いながら。
トンチャンは家に帰り、結び目を眺めながら愛しそうに撫でていた。
「………懐かしいな、ヒャンユン。やっぱり、あの人はお前にそっくりだよ」
こんなに似ているのに、やはり違う人なのだろうか。いつも何かを想っているように見えるのに、空っぽなナビ。目の前に居るようでいないその姿は、掴み所がない幽霊のようだった。
そしてトンチャン自身も、あの人がヒャンユンの幽霊ならばいいのにと思うのだった。
「黒蝶団をお借りできませんか?」
「………黒蝶団は今のところ、反小尹派勢力です。あなた方との関係を万が一知られれば、逆賊扱いになるやも」
「ならば、襲撃は厳しいのでは?」
意見が割れる。しかし、どうしてもと言うならとナビが口を開こうとしたときだった。チョン・ウチが一同に提案した。
「七牌の曰牌で、いい奴等がいるんです。一人でトンチャン五人分くらいの強さなので、そいつらに協力してもらいましょう!」
「なるほど。それはいい案だ。宜しく頼む。……ファン殿は、オクニョにこのことを伝えてほしい」
「はい、お任せを」
そういえば、先程からオクニョの姿が見えない。ナビの心に再び一抹の不安がよぎる。考えすぎだと首を振って外へ出ると、まずは昭格署へ向かう。
しかし、返ってきた返事は
「まだ戻っていないのです」だった。
続いて家に行ってみると、こちらにもいない。試しに典獄署へ行ってもみたが、そもそも最近こちらでは姿を見ていないと言われた。
────オクニョがいない……まだトゥべ村に……?
確かに、ナビはオクニョと共に帰っていない。だからその可能性もあり得る。しかし、何かがやはり警鐘を鳴らし続けている。
不安を胸に、ナビは一先ず素素樓へ戻るのだった。
オクニョが連れていかれたのは、どこかの屋敷だった。そして現れたのは、なんとユン・シネだった。その瞳は嫉妬の炎に燃えている。
「あ、あなたは………」
「ソン・ジホン様と、どういう関係?」
「え…?ソン様とは破談になられたのでは……?」
「何?その後も想うことが馬鹿らしい?」
あの後、ジホンと破談になったシネは荒んでいた。それはオクニョも知っていたため、尚更恐怖に萎縮した。
───殺される……!ヒャンユン、助けて……!!
しかし、その願いは届かない。それどころかチョン・ナンジョンまで合流した。
「シネ!何をしているのだ!」
「お母様!この女がソン・ジホン様をたぶらかしたのよ!」
修羅場だ。オクニョはナンジョンまで現れたことの運のなさを嘆いた。流石に窮地だ。
ナンジョンは掌を一閃させてシネを叩くと、ドンジュに命じて外へ出させた。そして、オクニョとじっくり向き合った。
「………お前とはつくづく、悪縁のようだ。だが、それもこれまで。」
オクニョは精一杯、チョン・ナンジョンの威圧に対抗しようと睨み付けた。だが、その気迫は間違いなくオクニョ自身の背筋を凍らせていた。
本当に、自分はこんなに強大な相手に勝てるのだろうか。命の限りを悟ったオクニョは、独りそう思うのだった。
チョンドンは、この日もトンチャンを見張るために勤しんでいた。薬剤の運搬を終えたらしい彼が戻ってきたときには特に何も思わなかったのだが、その様子から運搬を仕損じたことを悟った。更に、チョンドンは何かがおかしいと気づいた。明らかに曰牌の数が少ない。いつも居る二分の一の人数だ。手勢として連れていったわけでもない。何かが更に裏で動いているのだろうか。
試しにトンチャンをつけてみたチョンドンは、裏手に回って様子を伺った。すると、何やらチョン・ナンジョンとドンジュがトンチャンに指示をしているではないか。必死に聞き耳をたてる。
「………始末はうちの屋敷ではできぬ。」
「ご安心を。すでにスラク山の隠れ家に移しました。あとはこちらで始末をつけます」
「そうか。必ずオクニョを始末せよ。良いな?」
「はい。」
───何だって?オクニョを?どうするって?
チョンドンは自分の耳を疑った。だがすぐに一刻の猶予も辞さぬ事態が起きていることを悟り、彼は走り出した。だが、頼みの綱の商団には誰もいない。当然だ。彼らはまだ薬剤の運搬から帰っていない。残る場所で思い付くものと言えば、素素樓のユン・テウォンくらいしか思い浮かばなかった。だが、これもまだ平市署に居るのならばお仕舞いだ。
それでも行かないわけにはいかない。オクニョの危機なのだ。チョンドンは全力疾走を始めた。目指すは素素樓。最後の希望だった。
テウォンは丁度、帳簿の整理を行っていた。息急ききって走り込んできたチョンドンをみて、すぐに緊急事態を悟ったテウォンは、帳簿を近くの妓生に渡して尋ねた。
「どうしたんだ、チョンドン」
「兄貴……大変です……トンチャンたちがオクニョを捕らえて……スラク山の隠れ家に連れていったそうです!しかも、殺すつもりだとか!」
「何だと……!?すぐに行こう」
剣を手に持って素素樓を飛び出そうとしたテウォンだったが、すぐにチョンドンが止めた。
「でも、スラク山の隠れ家の場所は俺も知らないんです」
「何だと?場所がわからないなら、助けようが無いじゃないか!」
もはや状況は絶望的だった。だが、そんな二人の背後から凛と澄んだ声が聞こえてきた。
「スラク山の隠れ家なら、知っている。手助けしよう」
いつでも薬剤の運搬を手伝えるように、黒蝶団の服を着ていたナビは覆面を引き下げて苦々しく微笑んだ。
───とうとう来てしまった。この日が。あなたと一戦を交えるこの日が。
テウォンはナビの心中を知っていたため、本当は断りたかった。愛する人と対立することなど、誰が望むのだろうか。だが、自分の愛する人を救うためには彼女に頼るしかなかった。ナビもテウォンも、既に選択肢は一択であることを知っているのだった。
ナビが案内する通りについていくと、スラク山の隠れ家に着いた。何故知っているのかという愚問は、テウォンの口からは言えなかった。だが、代わりにチョンドンが同じ内容で質問した。
「どうして、ご存じなんです?」
ナビ──ヒャンユンの瞳が僅かに潤んだ。
──私は、トンチャンのもとに帰る。あなたが迷惑だと思うその日まで、絶対に帰ってくる。
「約束……したの」
「え?」
「遠い昔の話だ。今は別に関係ない」
ナビはチョンドンたちに冷たく言い放つと、立ち上がって見通しのよい場所を探し始めた。その瞳には、確かな決意が宿っていた。
その少し後。トンチャンはようやく隠れ家にたどり着いた。
この場所は嫌いだ。そう思ってため息をついた。何から何まで、ここはヒャンユンを思い出してしまう場所だった。
───この、嘘つきが。約束も守れなかった癖に。俺のもとに、二度と戻れない場所に先に独りで行った癖に。
慣れたはずなのに。なのに、まだむせかえるような切なさがぶり返す。それを振り払うために、トンチャンは部下のソ・イヌに尋ねた。
「始末は済んだか?」
「いえ、まだです。殺すには惜しくて……」
「なんだと………!?」
ヒャンユンのことに対するやり場の無い怒りが炸裂した。イヌを殴り倒したトンチャンは、その場で吠えた。
「今すぐつれてこい!あの女はめっぽう腕が立つ。すぐに始末する!」
叱責はついでだった。自分の苛立ちを抑えられないトンチャンは、剣を抜いて握りしめた。
あの女さえいなければ、俺とヒャンユンは一緒になれた。オクニョ…………あの女さえいなければ!
外に連れ出されたオクニョは、ヒャンユンと一緒に居た頃とはすっかり別人になってしまったトンチャンを見て、悲哀を込めた視線を送りつけた。
「なんだ。俺が哀れか?お前はいいよな。生きているからな」
「虚しくないの?ヒャンユンが死んで、自暴自棄に生きて。恥ずかしくはないの?」
「あいつは俺の人生そのものだった!もう居ないんだ!愛していたのに!今でも愛しているのに!俺は………俺は……あの子を…………」
その言葉は、塀の向こうに居るヒャンユンにも届いていた。テウォンは固まっているその様子を見て、少しだけ焦りを覚えた。
「なのに、俺たちを邪魔したお前は生きている。奴婢になったくせに戻ってきて、普通に生きている!俺のヒャンユンは戻ってこない。どれだけ想っても………もう………」
トンチャンは額の汗を拭った。いや、本当は涙を拭っていた。それはオクニョにもわかった。トンチャンは剣を握り直すと、こう言った。
「俺たちは、どうやら縁で結ばれているようだな」
「縁なんかじゃない。あなたは、チョン・ナンジョンの指示で動いているだけ。いつか後悔するわよ」
───いつか、ヒャンユンが生きていると知ったときにね。
だが、トンチャンの決意は揺るぎなかった。彼はすべてを終わらせるために剣を振りかぶった。けれど、これで終わることはない。これからも愛した人を失った痛みとは向き合っていかなければならない。永遠に、拭い去ることは出来ない痛みだった。
月明かりがトンチャンの顔を照らす。また、夜空を引っ掻いたような三日月が浮かんでいた。
そして剣が振り下ろされる。だが、その剣はオクニョを討つことは無かった。むしろトンチャンはその場に倒れこんだ。
「オクニョ!」
テウォンだった。だが、すぐにトンチャンは起き上がって剣を構え直した。部下たちもオクニョを取り囲んで剣を抜いている。
そんな中、塀を越えて現れたのはナビだった。地面に手をついて、覆面をしたままトンチャンを見上げる。額のはちまきに付いている蝶の印が、月明かりに照らし出された。
「黒蝶………団?」
「兄貴、そうです。黒蝶団です」
ナビは無言で立ち上がると、絶句しているトンチャンたちに向かって剣を抜いた。そして軽やかに走り出すと、跳躍してトンチャンに斬りかかった。
「くっ……!」
だが、彼もそこそこ腕はいい。ナビの一撃を受け止め、馬鹿力で押し返す。後ろに下がって次の攻撃に入ろうとしたナビの先を行き、トンチャンは先手を打った。上から攻撃を仕掛けられたナビは、力では不利なことを知っていたため、さっと避けてから素早い攻撃を返した。
「兄貴!それは団長です」
何度も痛い目にあっているイヌが、テウォンの剣を受けながら叫んだ。トンチャンはナビを好奇のこもった視線で見ると、一石二鳥とほくそ笑んだ。
だが、ナビの心中は違った。傷つけないようにと細心の注意を払いながら、かつ効果的な一閃一閃をと考えて攻撃を繰り出していたのだ。それでもナビは強かった。トンチャンでは歯が立たないくらいに、カン・ソノの教えを体得し、実践と鍛練を重ねていたナビは無敵に近かった。
つばぜり合いで刃が音をたてて交わる。剣越しに見るトンチャンは、誰よりも遠かった。だからこそ、ナビは覚悟を決めるように剣をはずした。そして、隙の出来たトンチャンの腕を鋭く斬りつける。
「ぐぁっ………!」
怯んで腕を抑えるトンチャンを見下ろし、ナビは剣を鞘におさめてテウォンたちを見た。既にオクニョは助け出されていた。ナビは指の隙間から血が滴る様子を横目で見て唇をかむと、静かにその場を後にするのだった。
翌日、ナビは薬剤の価格について調査するために市場通りを歩いていた。すると、相変わらず腕を押さえて痛そうに顔を歪めているトンチャンが目に入った。
───自業自得…ね
通り過ぎようとしたナビだったが、その胸は傷よりも痛んだ。彼女はため息をつくと、トンチャンの隣に立って肩を叩いた。
「………どうしたの?」
「ナビ……か」
「怪我を…したのですか?」
不思議と昔の口調に戻る。ナビはそんなことにも気づかず、ただ体が先に行動するのを感じながらトンチャンの手を取って引っ張った。
「ついてきて。手当てをするから」
「え……?」
「いいから、早く。」
この人は、こんなに優しい口調で本当は話せるのか。トンチャンは目を丸くしている。そんなこともお構いなしに、ナビはトンチャンを素素樓へ連れていくと、手当てをするために彼を楼閣で待たせた。妓生たちが遠目からその様子を見守る。
「ナビさん、何事?」
「………手当てをするだけ。申し訳ないが、貸してほしい」
「そりゃいいけど………」
ソジョンの親友のタジョンが手当ての箱を渡した。マノクはいつもよりも柔らかい表情を浮かべているナビを見て、トンチャンを想っていることを悟った。
───でも、なんで?
接点は限りなく少なかったはずだ。それに、好きになる理由が見当たらない。マノクはますます"あの"説が強力になってきたなと思うと、何度も首を縦に振るのだった。
手当てを始めたナビは、想像以上に深手を負わせてしまったことに胸を痛めた。かつてのように、手慣れてはいないものの心を込めて薬草をつけ、布を巻いていく。ほんの一瞬、顔を上げたときにトンチャンと目が合う。慌てて視線をうやむやにしたナビは、うつむいて布を結びつけた。ふと、その結び方にトンチャンが呟いた。
「………変な結び方だな」
「え?」
「同じ結び方をする人を、知っている」
それはヒャンユンのことだった。ろくに手当てもしたことがない彼女は、ついつい積み荷の留めひもと同じ結び方をしてしまうのだ。あのとき───ミョンソンを手にかけた後、オクニョに傷を負わされたときもそうだった。むしろそれが可愛らしくて、結びつける様子をずっと見ていたことも覚えている。
「………ありがとうな」
「………いえ」
ナビは今すぐにでも結び直したかったが、あいにく他の結び方が思い付かない。そのまま服を着てしまったトンチャンは、ナビに微笑みかけた。
「やっぱり、お前とあの人は似てる。ここまで来ると、ちょっと気色悪いけどな」
その言葉を聞いて、ナビの喉まで真実がむせかえる。本当のことをいいたい。この人の腕の中に飛び込みたい。やり場の無いその愛を一心に受けたい。
けれど、それは出来ない。自分には、それが出来ない。それを自覚するために彼を傷つけた。
そんな切なさが、ナビの心の中に吹き込むのだった。
薬剤の価格も下落し、疫病騒ぎも収集を始めていた。ナビはトゥべ村で薬剤を無料で配り、考えていた。
───私は、あの人を捕らえることになるの…?
トンチャンが道を踏み外したのは、自分のせいだ。自暴自棄になっているだけなのに、それを原因である自分が裁くというのか。いいや、やはり罪は罪だ。受けてもらわねばならない。
───私は、どうしたいの?
ナビは自分に問うた。だが返ってくるものは、何も無かった。
その頃、コン・ジェミョンは酒に溺れる日々を送っていた。形だけナンジョンに協力するテウォンだったが、その真意はジェミョンには伝わっていなかった。彼にとって、テウォンもまた息子のような存在だった。だから彼は二人の子供を失った気分にうちひしがれていた。
「ヒャンユン………テウォン………」
片方は二度と戻らない。もう片方は自分が堕落する様を見届けなければならない。
こんなに辛いことがあるだろうか。ジェミョンは空を仰いだ。もう二度と会えないヒャンユンのことを思いながら。
トンチャンは家に帰り、結び目を眺めながら愛しそうに撫でていた。
「………懐かしいな、ヒャンユン。やっぱり、あの人はお前にそっくりだよ」
こんなに似ているのに、やはり違う人なのだろうか。いつも何かを想っているように見えるのに、空っぽなナビ。目の前に居るようでいないその姿は、掴み所がない幽霊のようだった。
そしてトンチャン自身も、あの人がヒャンユンの幽霊ならばいいのにと思うのだった。