5、動き出した計略
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ナビはあれからめっきり考え込むことが増えてしまい、仕事も上の空にこなすようになっていた。もちろんその後トンチャンとも会話はしていない。だが、気にしていることなどはおくびにも出さないように装い、ナビは弦の調律をしていた。すると珍しく、隣にミョンソンがやって来た。彼女はチョンドンに言われたことを思い出しながら、ナビを眺めた。
『あの人、トンチャンの婚約者にそっくりだよな?』
『婚約者って?』
『ほら!お前が蝶の髪飾りを盗んだ人!』
『ああ!あの人?』
───どこかで見たような気がすると思ってたら…
ミョンソンは目を細めて静かに頷いた。こうなったら髪飾りを探し当てて、この鬼の化けの皮を剥いでやる。
そんな視線を送りつけられれば、普段のナビなら気づいただろう。だが、今日は別のことに気をとられていて悟る様子はない。それどころか、隣にミョンソンがいることさえ気づいていない。流石に苛立ったミョンソンは、ナビの肩を叩いた。
「ちょっと!」
「なっ………ミョンソン……か」
珍しく驚いているナビにご満悦の様子で、ミョンソンは伽耶琴を指差した。
「ねぇ、楽器教えてよ」
「……暇なの?」
「ええ。暇なの。元がいいから顔の手入れもしなくていいの」
ナビはため息をつくと、ミョンソンのために伽耶琴を二本向かい合わせに並べた。ミョンソンは見よう見まねで構えると、手元を凝視しながら次の指示を待った。すると、ナビはこんなことを言った。
「弦を見てはならない。」
「は?じゃあどうやって弾くのよ!?」
「凝視してはならないものだ。弦と弦の間を見なさい」
目を丸くしているミョンソンに見るよう促すと、ナビは曲足の速い演目を奏で始めた。目にも留まらぬ指さばきに、近くにいた妓生たちも寄ってくる。
「速っ……………」
絶句しているミョンソンに気づくと、ナビはゆっくりと速度を落とし始めた。これが素素樓で絶大な信頼を寄せるファン・ナビの実力か。ミョンソンは粗の一つもない姿に感嘆した。そしてその心の中には、僅かに尊敬の念が生まれつつあった。
二人が練習を始めてしばらくすると、苦笑いしながらチョヒが現れた。何事かと思い立ち上がったナビは、耳打ちをされた後、大きなため息を漏らした。
「申し訳ない、しばらく戻れない。ユン署長には、何かあれば本部に連絡を入れてくれと伝えてほしい」
「あっ、はい……」
ナビはそれだけ言い残すと、チョヒを伴って素素樓を出た。
久しぶりに帰る家は、他人のようでもあり、懐かしくもあった。彼女を出迎えたのは、実父のイ・ジョンミョンだった。今は朝廷の要職に就いており、大尹派の主座に収まっている。ナビ───ヒャンユンは両班の令嬢らしく一礼した。
「お父様。」
「また素素樓か。私はお前を案じておるのだぞ。両班の令嬢たるもの、家で……」
「この家もまた、安全ではありません。小尹派がいつ襲撃に来るか分からないといいますのに。しかも人を付けられているやもしれません」
「ヒャンユン。」
二人の確執は相当なものだ。養父のジェミョンと実父の間で苦しむヒャンユンは、同時に黒蝶団団長として動き続けるためにジョンミョンを避けねばならなかった。チョヒはその苦しい立場を分かっているからこそ、二人の間に割って入った。
「……旦那様、中でお話しされてはいかがでしょうか。お嬢様の身が危険です」
「わかった。この親不孝者が。早く部屋に入れ」
二人が部屋に入ったのを見計らい、チョヒは見張りについた。
そんな出入りを、見ている影があった。トンチャンの部下であるソ・イヌだった。彼は会話の内容こそ聞き取れなかったものの、ナビとジョンミョンが接触していることを確認すると、トンチャンに報告へ向かった。
「間違いないか?本当に、ファン・ナビが?オクニョと同じようにイ・ジョミンョン殿の屋敷に?」
訳がわからない。トンチャンは自分の目で確かめるべく屋敷に急行した。既に部屋に入ってしまったため、姿こそ確認はできないが、このまま張っておけばいつか現れるかもしれない。
しかし、トンチャンが何度も頷いている丁度その時だった。彼は潰れたカエルのような声をあげた。塀から勢いよく引き剥がされ、地面に倒れこんだのだ。
「何しやがる!」
「それはこちらの台詞だ。何をしていた。ここはイ・ジョンミョン大監の屋敷だぞ。」
「知らねぇな。俺らはただ……」
チョヒは往生際の悪い不審者たちに制裁が必要であることを悟った。体探人時代に培った威圧的な空気を醸し出しながら、彼女はトンチャンの胸ぐらを掴んだ。長身のため、その目線はトンチャンと然程変わらない。
「黙れ。捕盗庁に引きずり出されたいか」
「何だと………!?ひょろひょろの青白い男が?この俺に?喧嘩を売ろうってか?」
男呼ばわりされたことに反応したチョヒは、思わず冷静さを失い、トンチャンの顔面に拳をお見舞いした。当然これも体探人仕込みなので、普通の何倍以上に痛い。尻餅をついたトンチャンは這うように立ち上がると、頬を押さえながら吠えた。
「てめぇ!覚えていやがれ!名前は何て言うんだ!」
「チョヒだ!そういうお前は何なんだ!」
名前まで女みたいなやつだな。トンチャンは鼻で笑うと、チョヒに向かって自分の名前を名乗った。
「俺はトンチャン。シン・ドンチャンだよ!元七牌のトンチャンだ!覚えていやがれ、この青二才!」
その名を聞いて目を見開いたチョヒが呼び止めるより早く、トンチャンはそのまま部下を連れて逃げていってしまった。残された彼女は、目を細めてその名を反芻した。
「……トンチャン……シン・ドンチャン……」
そこにようやく話が終わって解放されたナビが合流した。心ここに非ずのチョヒを覗き込むと、ナビは含み笑いを向けながら尋ねた。
「どうしたの?何だか、懐かしそうな顔をしてる」
「えっ………ああ………少し年上の幼馴染みに、会ったんです。」
「ふぅん………どんな?」
チョヒははにかみながら微笑みを浮かべて答えた。
「………格好良かったんですよ、昔は。有無を言わせない兄貴って感じで。今では見る影もなくなっていますが……」
それを聞いて、ナビはトンチャンみたいな奴だなと思って笑った。そして同時に、それがチョヒの初恋の人だと悟った。こんなに綺麗で素敵な女性の初恋の人なのだ。どんなにいい男なのだろう。ナビは何も言わずチョヒの肩を叩いた。
それがトンチャンとは知らず。
チョヒは剣の手入れをしながら、幼い頃のことに思いを馳せていた。三歳のときに父を無くし、女手一つで育ててくれた母も彼女が十二歳のときに他界した。以来曰牌たちに混じってスリを重ねる日々が続いた。元々俊敏さでは素質のあったチョヒはすぐにスリの玄人になったが、ある日店主に捕まりそうになった。ここまでかと覚悟したとき、助けてくれたのがトンチャンだった。適当に店主に話をつけ、道端まで引っ張っていった彼が最初に発した言葉を、今もチョヒは鮮明に記憶していた。
『大丈夫か?』
『……』
『曰牌から恩を借りるのが、怖いか?』
既に五歳上だったトンチャンは、その頃から七牌の曰牌の中では群を抜いて悪評が高かった。流石のチョヒも怯んでいたが、トンチャンは意外にも優しかった。
『お前、家族は?』
『居ない。』
『その年でスリで食ってんのか?おい、聞いたか?チョンドン。お前もちょっとは見習えよ』
チョンドンもその場に居た。この時から既にトンチャンの子分扱いだったらしい。当時は自分よりもずっと背が高かったトンチャンは、チョヒの視線に合わせるように膝に手をつくと、気さくな笑顔を向けた。
『俺も家族、居ねぇんだ。親父は借金だらけで蒸発……たぶん死んだな。んで、お袋は飲み屋の女将だけど、病気で死んじまった。』
ずいぶん暗い話を明るく語るものだな。チョヒの第一印象はそんなところだった。だが、次の一言で彼女の気持ちは変わった。
『俺たち、似た者同士とまでは行かねぇかもしれないが、いい仲間に成れそうだな。お前みたいに度胸の据わった子、嫌いじゃないぜ』
一瞬で、世界が明るくなったように思えた。自分を肯定してくれて、共感してくれる人がいる。独りじゃないんだ。幼心にチョヒは嬉しかった。
『で、名前は?』
『……チョヒ。』
『そうか!チョヒか!俺はトンチャン。シン・ドンチャンだ。宜しくな!』
手を差し出され、チョヒは戸惑った。この手をとってもいいものなのか。けれど、ためらう心より先に手が出た。
それがトンチャンとの出会いだった。その後体探人になってからは連絡を絶ってしまったが、チョヒはきちんと覚えていた。残念ながら、すらっとした男前の体型が今では見る影もなくなっていたため、先程は気づかなかったが。
「トンチャン………」
何の偶然なのだろうか。トンチャンは自分を覚えていなさそうだが、仕方がない。けれど、男だと誤解しているなら女と分かってくれれば気づくかもしれない。ほんの少しだけ期待を胸に秘めたチョヒは、春の木漏れ日のような笑顔を浮かべるのだった。
夜中、トンチャンは部下たちを集めて商団に居た。覆面をかけており、その空気は張り詰めていた。ミン・ドンジュは夫のチョン・マッケと共にトンチャンたちに向き合うと、淡々と話し始めた。
「………今からすることはわかっているな。」
「はい。」
「見つかったときは、どうするのだ?」
「……自害します」
「よし、行け。」
トンチャンは頷くと、部下を引き連れてある村へむかった。それは都の少し離れにあるトゥべ村だった。トチの出身の村で、彼も土地勘のある場所だ。トンチャンはそこで部下たちに小瓶を渡すと、声を潜めて指示をした。
「お前たちは向こうの家畜小屋へ行け。お前たちは井戸に。残りは俺についてこい」
部下たちは指示通り散開した。トンチャンは覆面を付けると、緊張した様子で生唾をのんだ。
───落ち着け、トンチャン。問題はない。
トンチャンがしようとしていること。それは大罪だった。だが、今更引き返すわけにもいかない。すべては明日わかる。成功するか、仕損じるか。だが、どちらも彼にとっては好都合だ。
死ねば、ヒャンユンに会える。そう思えば、この一年間どんな任務も怖くはなかった。
自分は死に場所を探しているのか?急に怖くなってきたトンチャンは、考えるのをやめた。
翌日衝撃的な話が、商団に居たナビとオクニョの耳に飛び込んできた。二人は顔を見合わせて驚くと、情報を持ってきたチョンドンに事実かどうかを尋ねた。
「ええ、事実です。……それと、もうひとつ。昨日の夜中、トンチャンたちが動いていました。」
何かをたくらんだのか。だが、この件に関係は無さそうだ。ナビは確信は持てないもののそう思った。しかし、オクニョがその予想を崩した。
「……昭格署を利用して財を成す……?」
「どうしたの?オクニョ」
「ナビさん。昭格署の長官から聞いたのですが、チョン・ナンジョンと大妃様は以前、昭格署を利用して民を煽ったことがあるそうです。」
ナビはそれを聞いて寒気が走った。まさか、これは……………
「私、父に頼んでお願いしてきます」
「何をです?」
「トゥべ村への立ち入りです」
立ち上がったナビは急いでその場から出ていった。オクニョもすぐに思惑に気づくと、その後を追うのだった。
トゥべ村にやって来たナビとオクニョは、典獄署でオクニョと知り合った医者を連れてヤン・ドングに会った。検問をしているようだが、どこか嫌々仕事をさせられている雰囲気だ。
「あの………ナビさんとオクニョが、二人揃って何用です?」
「許可証だ。通らせてもらう」
「えっ………兵曹判書様の許可証を、何故あなたが……」
事情を知っているオクニョは、これ以上引き留められるのを避けるため、さっさとその場を離れられるように促した。ナビもそういうことだ、と一言だけ言うと、さっさと許可証を取り上げて縄をくぐった。
村には惨状が広がっていた。そう、チョンドンが報告してきたこと。それは疫病がトゥべ村で発生したことだったのだ。ナビは苦しむ人々を横目で見ながら、苦々しげな表情を浮かべている。もし自分が予想したことが事実ならば、絶対に制裁の手を下さねばならない。
────お願い、気のせいであって。
しかし、その願いはすぐに消え失せることとなる。
医者と共に歩いていると、懐かしい顔ぶれにばったり鉢合わせた。ナビは慌てて顔を逸らしたが、遅かった。
「オクニョじゃないか!」
「トチさん!この村の出身だったんですね」
「そうなんだよ。……隣の方は…随分亡くなったお嬢様にそっくりですけど……」
その相手は、トチだった。ナビは何も言わない。トンチャンよりもたちの悪い輩に会ってしまったという念が浮かんでくる。だが、それどころではないトチは切羽詰まった表情で医者の手を引いた。
「お医者様ですか!?母を診てください!死にそうなんです!」
戸惑うオクニョと医者に対し、二人で診に行くよう目で促すと、ナビはそのまま村を更に観察すべく歩き出した。その背中には、しばらく一人にしておいてほしいという不安が滲み出ていた。
あらかじめギョムとヨンソンを呼び出しておいたナビは、村の元気そうな人々を尋ねて回った。
「もし。治療法を探しに来た者だ。一体どうなっている。恵民署は?」
「恵民署の方々は……来ていません」
「何だと?それなのに疫病と判断したのか?では薬剤と治療はどうしているのだ」
「わかりません。何故か来ないのです」
ナビは目を細めた。やはり何かがおかしい。更に聞き込みを続けていくと、ますます不審な点に気づいた。
「ナビさん。トチという男同様、同じ家に住んでいるのに全く感染していない者がかなりいます。」
「血を吐いて息絶えた家畜もいるようですが、そいつらも同じ小屋の中でも発症していないやつと発症していないやつがいます。」
「共通することがあるはずだ。それは?」
すると、家畜を診る専門の馬医から話を聞いてきたギョムが興奮した様子で戻ってきた。
「ナビさん。大変です。発症していない家畜は、元から病にかかっており、治療のために食を与えていないものばかりだったようです。」
「なんだと?」
「それから、村人たちの中で感染していない者たちの共通点もありました。全員同じ日にこの村に居ない者ばかりでした」
恵民署が怪しい動きをしている上に、感染の有無に関しての共通点がはっきりしている。ますます怪しいと思っていたナビの元に、オクニョが合流した。彼女も有力な手がかりを掴んだらしく、その目は輝いている。
「ナビさん!疫病ではありません。」
「………え?」
「症状が疫病によるものではないのです。こちらが処方箋だそうです」
二人の中で何かが音を立てて結び付く。間違いない。これは疫病の捏造だ。けれど一体どうやって…………
ふと、ナビの頭に過るものがあった。それはチョンドンの報告のうちの一つだった。
───昨日の夜中、トンチャンたちが動いていました。
「まさか……!」
ナビはオクニョに頼んで紙と筆を持ってきてもらうと、人の居ない呑み屋の机に置いて絵を書き始めた。
「な、何してるんです?」
「調べねば。解決の糸口になるやもしれない」
片手間で完成したのは、トンチャンの人相画だった。そのそっくりさにオクニョが感嘆の声を上げる。
「あの、一体何をするんです?」
「ついてきて。」
ナビに言われるまま歩き出した一同は、今から何を始める気なのだろうかと思いながら付いていった。ナビは軽症な患者を見つける度に、その人相画を見せては同じことを尋ね始めた。
「もし。この男に見覚えは?」
「いえ……」
すると、隣に居た男が声をあげた。
「その男か?みたぞ。疫病騒ぎが起こる数日前から前日の夕方にかけて、仲間とここに来ていた。ここらでは見ない顔だったから、よく覚えてるぞ」
ナビは険しい表情をすると、少し考えてからギョムとヨンソンの方を見た。
「…ギョムとヨンソンは他に見た人が居ないか探してくれ。また用事が出来た」
唖然とする一同をよそに村の外へ出ようとするナビを、オクニョは慌てて止めた。
「ナビ!」
「……どうしたの?」
「あの…………独りで、抱え込んじゃ駄目よ」
ナビは遠い目を向けながら、ほんの少しだけ微笑んだ。その姿が哀しげであればあるほど、オクニョは胸を痛めるのだった。
ナビの姿は市場にあった。鋭い目付きを向ける先には、何やら指示をしているトンチャンが居る。
────どうして、貴方は変わってしまったの?それとも、私が帰ろうとしていた場所である貴方自身が、元より嘘偽りだったの……?
ナビが唇をかんで目を閉じたときだった。チョンドンが切羽詰まった表情で現れた。
「ナビさん、ちょっといいですか?」
「……どうしたの?」
裏通りに連れていかれたナビは、チョンドンが明らかに息急ききっている様子であることに勘づいていた。
「あの………実は、ミン・ドンジュとトンチャンが、薬剤を買い占めているんです。それも調中湯に使うための葛根、黄芩、白朮ばかり。まるで夏風邪の人がいるみたいに大量に………」
ナビはその取り合わせにぴんと来て、慌ててオクニョから貰った処方箋を見返した。
そこには間違いなく、葛根、黄芩、白朮と書かれている。こんなに奇遇があるだろうか?いいや、ありえない。ナビはチョンドンを問いただし始めた。
「何か、薬剤がらみで他に聞いていないか?奴等は疫病を偽造し、薬剤の価格を高騰させ、一儲けする気なのだ!このままでは、トゥべ村の罪無き民が高額の薬剤のせいで命を落としてしまう!」
「ああ!そうだ!今夜サムゲに残りの薬剤が着くそうです。」
「本当に、サムゲなのか?」
「ええ。そうです」
「わかった。ご苦労」
チョンドンを帰すと、ナビは決意のこもった眼差しでトンチャンを柱越しに見た。その瞳には、ただ燃えるような怒りが籠っているだけだった。
オクニョは道を急いでいた。片付けなければならない用事が山ほどあるというのに。疫病のことも調べて……
そんなことを考えていると、目の前に男が三人現れた。本能が危険だと警鐘を鳴らす。大丈夫。これくらいならすぐに………そう思ったオクニョは、息を呑んだ。まだ後ろに三人、そしてもう六人現れたのだ。しかも全員剣を持っている。
しまった。こちらは丸腰。オクニョはやむ無く地面に膝をついた。そして思う。今日は長い一日になりそうだ、と。
『あの人、トンチャンの婚約者にそっくりだよな?』
『婚約者って?』
『ほら!お前が蝶の髪飾りを盗んだ人!』
『ああ!あの人?』
───どこかで見たような気がすると思ってたら…
ミョンソンは目を細めて静かに頷いた。こうなったら髪飾りを探し当てて、この鬼の化けの皮を剥いでやる。
そんな視線を送りつけられれば、普段のナビなら気づいただろう。だが、今日は別のことに気をとられていて悟る様子はない。それどころか、隣にミョンソンがいることさえ気づいていない。流石に苛立ったミョンソンは、ナビの肩を叩いた。
「ちょっと!」
「なっ………ミョンソン……か」
珍しく驚いているナビにご満悦の様子で、ミョンソンは伽耶琴を指差した。
「ねぇ、楽器教えてよ」
「……暇なの?」
「ええ。暇なの。元がいいから顔の手入れもしなくていいの」
ナビはため息をつくと、ミョンソンのために伽耶琴を二本向かい合わせに並べた。ミョンソンは見よう見まねで構えると、手元を凝視しながら次の指示を待った。すると、ナビはこんなことを言った。
「弦を見てはならない。」
「は?じゃあどうやって弾くのよ!?」
「凝視してはならないものだ。弦と弦の間を見なさい」
目を丸くしているミョンソンに見るよう促すと、ナビは曲足の速い演目を奏で始めた。目にも留まらぬ指さばきに、近くにいた妓生たちも寄ってくる。
「速っ……………」
絶句しているミョンソンに気づくと、ナビはゆっくりと速度を落とし始めた。これが素素樓で絶大な信頼を寄せるファン・ナビの実力か。ミョンソンは粗の一つもない姿に感嘆した。そしてその心の中には、僅かに尊敬の念が生まれつつあった。
二人が練習を始めてしばらくすると、苦笑いしながらチョヒが現れた。何事かと思い立ち上がったナビは、耳打ちをされた後、大きなため息を漏らした。
「申し訳ない、しばらく戻れない。ユン署長には、何かあれば本部に連絡を入れてくれと伝えてほしい」
「あっ、はい……」
ナビはそれだけ言い残すと、チョヒを伴って素素樓を出た。
久しぶりに帰る家は、他人のようでもあり、懐かしくもあった。彼女を出迎えたのは、実父のイ・ジョンミョンだった。今は朝廷の要職に就いており、大尹派の主座に収まっている。ナビ───ヒャンユンは両班の令嬢らしく一礼した。
「お父様。」
「また素素樓か。私はお前を案じておるのだぞ。両班の令嬢たるもの、家で……」
「この家もまた、安全ではありません。小尹派がいつ襲撃に来るか分からないといいますのに。しかも人を付けられているやもしれません」
「ヒャンユン。」
二人の確執は相当なものだ。養父のジェミョンと実父の間で苦しむヒャンユンは、同時に黒蝶団団長として動き続けるためにジョンミョンを避けねばならなかった。チョヒはその苦しい立場を分かっているからこそ、二人の間に割って入った。
「……旦那様、中でお話しされてはいかがでしょうか。お嬢様の身が危険です」
「わかった。この親不孝者が。早く部屋に入れ」
二人が部屋に入ったのを見計らい、チョヒは見張りについた。
そんな出入りを、見ている影があった。トンチャンの部下であるソ・イヌだった。彼は会話の内容こそ聞き取れなかったものの、ナビとジョンミョンが接触していることを確認すると、トンチャンに報告へ向かった。
「間違いないか?本当に、ファン・ナビが?オクニョと同じようにイ・ジョミンョン殿の屋敷に?」
訳がわからない。トンチャンは自分の目で確かめるべく屋敷に急行した。既に部屋に入ってしまったため、姿こそ確認はできないが、このまま張っておけばいつか現れるかもしれない。
しかし、トンチャンが何度も頷いている丁度その時だった。彼は潰れたカエルのような声をあげた。塀から勢いよく引き剥がされ、地面に倒れこんだのだ。
「何しやがる!」
「それはこちらの台詞だ。何をしていた。ここはイ・ジョンミョン大監の屋敷だぞ。」
「知らねぇな。俺らはただ……」
チョヒは往生際の悪い不審者たちに制裁が必要であることを悟った。体探人時代に培った威圧的な空気を醸し出しながら、彼女はトンチャンの胸ぐらを掴んだ。長身のため、その目線はトンチャンと然程変わらない。
「黙れ。捕盗庁に引きずり出されたいか」
「何だと………!?ひょろひょろの青白い男が?この俺に?喧嘩を売ろうってか?」
男呼ばわりされたことに反応したチョヒは、思わず冷静さを失い、トンチャンの顔面に拳をお見舞いした。当然これも体探人仕込みなので、普通の何倍以上に痛い。尻餅をついたトンチャンは這うように立ち上がると、頬を押さえながら吠えた。
「てめぇ!覚えていやがれ!名前は何て言うんだ!」
「チョヒだ!そういうお前は何なんだ!」
名前まで女みたいなやつだな。トンチャンは鼻で笑うと、チョヒに向かって自分の名前を名乗った。
「俺はトンチャン。シン・ドンチャンだよ!元七牌のトンチャンだ!覚えていやがれ、この青二才!」
その名を聞いて目を見開いたチョヒが呼び止めるより早く、トンチャンはそのまま部下を連れて逃げていってしまった。残された彼女は、目を細めてその名を反芻した。
「……トンチャン……シン・ドンチャン……」
そこにようやく話が終わって解放されたナビが合流した。心ここに非ずのチョヒを覗き込むと、ナビは含み笑いを向けながら尋ねた。
「どうしたの?何だか、懐かしそうな顔をしてる」
「えっ………ああ………少し年上の幼馴染みに、会ったんです。」
「ふぅん………どんな?」
チョヒははにかみながら微笑みを浮かべて答えた。
「………格好良かったんですよ、昔は。有無を言わせない兄貴って感じで。今では見る影もなくなっていますが……」
それを聞いて、ナビはトンチャンみたいな奴だなと思って笑った。そして同時に、それがチョヒの初恋の人だと悟った。こんなに綺麗で素敵な女性の初恋の人なのだ。どんなにいい男なのだろう。ナビは何も言わずチョヒの肩を叩いた。
それがトンチャンとは知らず。
チョヒは剣の手入れをしながら、幼い頃のことに思いを馳せていた。三歳のときに父を無くし、女手一つで育ててくれた母も彼女が十二歳のときに他界した。以来曰牌たちに混じってスリを重ねる日々が続いた。元々俊敏さでは素質のあったチョヒはすぐにスリの玄人になったが、ある日店主に捕まりそうになった。ここまでかと覚悟したとき、助けてくれたのがトンチャンだった。適当に店主に話をつけ、道端まで引っ張っていった彼が最初に発した言葉を、今もチョヒは鮮明に記憶していた。
『大丈夫か?』
『……』
『曰牌から恩を借りるのが、怖いか?』
既に五歳上だったトンチャンは、その頃から七牌の曰牌の中では群を抜いて悪評が高かった。流石のチョヒも怯んでいたが、トンチャンは意外にも優しかった。
『お前、家族は?』
『居ない。』
『その年でスリで食ってんのか?おい、聞いたか?チョンドン。お前もちょっとは見習えよ』
チョンドンもその場に居た。この時から既にトンチャンの子分扱いだったらしい。当時は自分よりもずっと背が高かったトンチャンは、チョヒの視線に合わせるように膝に手をつくと、気さくな笑顔を向けた。
『俺も家族、居ねぇんだ。親父は借金だらけで蒸発……たぶん死んだな。んで、お袋は飲み屋の女将だけど、病気で死んじまった。』
ずいぶん暗い話を明るく語るものだな。チョヒの第一印象はそんなところだった。だが、次の一言で彼女の気持ちは変わった。
『俺たち、似た者同士とまでは行かねぇかもしれないが、いい仲間に成れそうだな。お前みたいに度胸の据わった子、嫌いじゃないぜ』
一瞬で、世界が明るくなったように思えた。自分を肯定してくれて、共感してくれる人がいる。独りじゃないんだ。幼心にチョヒは嬉しかった。
『で、名前は?』
『……チョヒ。』
『そうか!チョヒか!俺はトンチャン。シン・ドンチャンだ。宜しくな!』
手を差し出され、チョヒは戸惑った。この手をとってもいいものなのか。けれど、ためらう心より先に手が出た。
それがトンチャンとの出会いだった。その後体探人になってからは連絡を絶ってしまったが、チョヒはきちんと覚えていた。残念ながら、すらっとした男前の体型が今では見る影もなくなっていたため、先程は気づかなかったが。
「トンチャン………」
何の偶然なのだろうか。トンチャンは自分を覚えていなさそうだが、仕方がない。けれど、男だと誤解しているなら女と分かってくれれば気づくかもしれない。ほんの少しだけ期待を胸に秘めたチョヒは、春の木漏れ日のような笑顔を浮かべるのだった。
夜中、トンチャンは部下たちを集めて商団に居た。覆面をかけており、その空気は張り詰めていた。ミン・ドンジュは夫のチョン・マッケと共にトンチャンたちに向き合うと、淡々と話し始めた。
「………今からすることはわかっているな。」
「はい。」
「見つかったときは、どうするのだ?」
「……自害します」
「よし、行け。」
トンチャンは頷くと、部下を引き連れてある村へむかった。それは都の少し離れにあるトゥべ村だった。トチの出身の村で、彼も土地勘のある場所だ。トンチャンはそこで部下たちに小瓶を渡すと、声を潜めて指示をした。
「お前たちは向こうの家畜小屋へ行け。お前たちは井戸に。残りは俺についてこい」
部下たちは指示通り散開した。トンチャンは覆面を付けると、緊張した様子で生唾をのんだ。
───落ち着け、トンチャン。問題はない。
トンチャンがしようとしていること。それは大罪だった。だが、今更引き返すわけにもいかない。すべては明日わかる。成功するか、仕損じるか。だが、どちらも彼にとっては好都合だ。
死ねば、ヒャンユンに会える。そう思えば、この一年間どんな任務も怖くはなかった。
自分は死に場所を探しているのか?急に怖くなってきたトンチャンは、考えるのをやめた。
翌日衝撃的な話が、商団に居たナビとオクニョの耳に飛び込んできた。二人は顔を見合わせて驚くと、情報を持ってきたチョンドンに事実かどうかを尋ねた。
「ええ、事実です。……それと、もうひとつ。昨日の夜中、トンチャンたちが動いていました。」
何かをたくらんだのか。だが、この件に関係は無さそうだ。ナビは確信は持てないもののそう思った。しかし、オクニョがその予想を崩した。
「……昭格署を利用して財を成す……?」
「どうしたの?オクニョ」
「ナビさん。昭格署の長官から聞いたのですが、チョン・ナンジョンと大妃様は以前、昭格署を利用して民を煽ったことがあるそうです。」
ナビはそれを聞いて寒気が走った。まさか、これは……………
「私、父に頼んでお願いしてきます」
「何をです?」
「トゥべ村への立ち入りです」
立ち上がったナビは急いでその場から出ていった。オクニョもすぐに思惑に気づくと、その後を追うのだった。
トゥべ村にやって来たナビとオクニョは、典獄署でオクニョと知り合った医者を連れてヤン・ドングに会った。検問をしているようだが、どこか嫌々仕事をさせられている雰囲気だ。
「あの………ナビさんとオクニョが、二人揃って何用です?」
「許可証だ。通らせてもらう」
「えっ………兵曹判書様の許可証を、何故あなたが……」
事情を知っているオクニョは、これ以上引き留められるのを避けるため、さっさとその場を離れられるように促した。ナビもそういうことだ、と一言だけ言うと、さっさと許可証を取り上げて縄をくぐった。
村には惨状が広がっていた。そう、チョンドンが報告してきたこと。それは疫病がトゥべ村で発生したことだったのだ。ナビは苦しむ人々を横目で見ながら、苦々しげな表情を浮かべている。もし自分が予想したことが事実ならば、絶対に制裁の手を下さねばならない。
────お願い、気のせいであって。
しかし、その願いはすぐに消え失せることとなる。
医者と共に歩いていると、懐かしい顔ぶれにばったり鉢合わせた。ナビは慌てて顔を逸らしたが、遅かった。
「オクニョじゃないか!」
「トチさん!この村の出身だったんですね」
「そうなんだよ。……隣の方は…随分亡くなったお嬢様にそっくりですけど……」
その相手は、トチだった。ナビは何も言わない。トンチャンよりもたちの悪い輩に会ってしまったという念が浮かんでくる。だが、それどころではないトチは切羽詰まった表情で医者の手を引いた。
「お医者様ですか!?母を診てください!死にそうなんです!」
戸惑うオクニョと医者に対し、二人で診に行くよう目で促すと、ナビはそのまま村を更に観察すべく歩き出した。その背中には、しばらく一人にしておいてほしいという不安が滲み出ていた。
あらかじめギョムとヨンソンを呼び出しておいたナビは、村の元気そうな人々を尋ねて回った。
「もし。治療法を探しに来た者だ。一体どうなっている。恵民署は?」
「恵民署の方々は……来ていません」
「何だと?それなのに疫病と判断したのか?では薬剤と治療はどうしているのだ」
「わかりません。何故か来ないのです」
ナビは目を細めた。やはり何かがおかしい。更に聞き込みを続けていくと、ますます不審な点に気づいた。
「ナビさん。トチという男同様、同じ家に住んでいるのに全く感染していない者がかなりいます。」
「血を吐いて息絶えた家畜もいるようですが、そいつらも同じ小屋の中でも発症していないやつと発症していないやつがいます。」
「共通することがあるはずだ。それは?」
すると、家畜を診る専門の馬医から話を聞いてきたギョムが興奮した様子で戻ってきた。
「ナビさん。大変です。発症していない家畜は、元から病にかかっており、治療のために食を与えていないものばかりだったようです。」
「なんだと?」
「それから、村人たちの中で感染していない者たちの共通点もありました。全員同じ日にこの村に居ない者ばかりでした」
恵民署が怪しい動きをしている上に、感染の有無に関しての共通点がはっきりしている。ますます怪しいと思っていたナビの元に、オクニョが合流した。彼女も有力な手がかりを掴んだらしく、その目は輝いている。
「ナビさん!疫病ではありません。」
「………え?」
「症状が疫病によるものではないのです。こちらが処方箋だそうです」
二人の中で何かが音を立てて結び付く。間違いない。これは疫病の捏造だ。けれど一体どうやって…………
ふと、ナビの頭に過るものがあった。それはチョンドンの報告のうちの一つだった。
───昨日の夜中、トンチャンたちが動いていました。
「まさか……!」
ナビはオクニョに頼んで紙と筆を持ってきてもらうと、人の居ない呑み屋の机に置いて絵を書き始めた。
「な、何してるんです?」
「調べねば。解決の糸口になるやもしれない」
片手間で完成したのは、トンチャンの人相画だった。そのそっくりさにオクニョが感嘆の声を上げる。
「あの、一体何をするんです?」
「ついてきて。」
ナビに言われるまま歩き出した一同は、今から何を始める気なのだろうかと思いながら付いていった。ナビは軽症な患者を見つける度に、その人相画を見せては同じことを尋ね始めた。
「もし。この男に見覚えは?」
「いえ……」
すると、隣に居た男が声をあげた。
「その男か?みたぞ。疫病騒ぎが起こる数日前から前日の夕方にかけて、仲間とここに来ていた。ここらでは見ない顔だったから、よく覚えてるぞ」
ナビは険しい表情をすると、少し考えてからギョムとヨンソンの方を見た。
「…ギョムとヨンソンは他に見た人が居ないか探してくれ。また用事が出来た」
唖然とする一同をよそに村の外へ出ようとするナビを、オクニョは慌てて止めた。
「ナビ!」
「……どうしたの?」
「あの…………独りで、抱え込んじゃ駄目よ」
ナビは遠い目を向けながら、ほんの少しだけ微笑んだ。その姿が哀しげであればあるほど、オクニョは胸を痛めるのだった。
ナビの姿は市場にあった。鋭い目付きを向ける先には、何やら指示をしているトンチャンが居る。
────どうして、貴方は変わってしまったの?それとも、私が帰ろうとしていた場所である貴方自身が、元より嘘偽りだったの……?
ナビが唇をかんで目を閉じたときだった。チョンドンが切羽詰まった表情で現れた。
「ナビさん、ちょっといいですか?」
「……どうしたの?」
裏通りに連れていかれたナビは、チョンドンが明らかに息急ききっている様子であることに勘づいていた。
「あの………実は、ミン・ドンジュとトンチャンが、薬剤を買い占めているんです。それも調中湯に使うための葛根、黄芩、白朮ばかり。まるで夏風邪の人がいるみたいに大量に………」
ナビはその取り合わせにぴんと来て、慌ててオクニョから貰った処方箋を見返した。
そこには間違いなく、葛根、黄芩、白朮と書かれている。こんなに奇遇があるだろうか?いいや、ありえない。ナビはチョンドンを問いただし始めた。
「何か、薬剤がらみで他に聞いていないか?奴等は疫病を偽造し、薬剤の価格を高騰させ、一儲けする気なのだ!このままでは、トゥべ村の罪無き民が高額の薬剤のせいで命を落としてしまう!」
「ああ!そうだ!今夜サムゲに残りの薬剤が着くそうです。」
「本当に、サムゲなのか?」
「ええ。そうです」
「わかった。ご苦労」
チョンドンを帰すと、ナビは決意のこもった眼差しでトンチャンを柱越しに見た。その瞳には、ただ燃えるような怒りが籠っているだけだった。
オクニョは道を急いでいた。片付けなければならない用事が山ほどあるというのに。疫病のことも調べて……
そんなことを考えていると、目の前に男が三人現れた。本能が危険だと警鐘を鳴らす。大丈夫。これくらいならすぐに………そう思ったオクニョは、息を呑んだ。まだ後ろに三人、そしてもう六人現れたのだ。しかも全員剣を持っている。
しまった。こちらは丸腰。オクニョはやむ無く地面に膝をついた。そして思う。今日は長い一日になりそうだ、と。