11、命を懸けて
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
ヒャンユンは邸宅に帰ると、無言で自室に籠った。そして、トンチャンが触れてくれた頬、唇に指先で触れながら、その暖かさを思い返していた。
「トンチャン…………」
そして同時に、これで良かったのかという不安と後悔も押し寄せてきた。きっと彼は自分のために危険な橋を渡り始めることになる。きちんと警告は届いていただろうか。ヒャンユンはいても立ってもいられず、部屋の戸を開いて外に出た。
「……………ご無事で………」
涙がこぼれ落ちる。そんな娘の姿を遠目からみていたジョンミョンは、静かにため息をついた。
「あれが……妹ですか?」
「ああ。そうだ。ヒャンユンだ。」
「挨拶を…」
「今はやめておけ。………また今度にしなさい」
兄のヨンフェは、目を凝らして妹の顔を見た。よく見ると、幼い頃の面影がわずかに残っている。
「家族四人に戻る……というわけには行かなさそうですね」
「ああ。私のせいだ。私が政局を読み違えたがために…あの子もお前も、そして妻も……」
「父上……」
ジョンミョンは、その負い目からヒャンユンとのぎこちない親子関係にも文句を言わなかった。むしろ、許してらうことなど到底おこがましいとまで思っていた。
「一先ず、今は力を溜めるときだ。いつか、必ず全てを元に戻せる。」
そう言うジョンミョンの瞳には、憂いと決意がこもっていた。
出勤したトンチャンは、急を要する案件に対応を追われていた。
「船の手配はまだなのか?」
「すみません……ホン・マンジョン大行首も、船の貸し出しを断りました」
「何だと?ふざけるんじゃねぇ!くそっ………」
トンチャンが焦るのには、理由があった。中秋節に使う果物と干物を買い占めたのはいいが、それを地方から都に送る船が無いのだ。平市署のユン・テウォンも結局船を手配してくれず、七牌市場時代からの顔馴染みであったホン・マンジョンも断ってきた。
彼は途方にくれていた。一体誰がこんなことを。思い付く人物がどうにも見当たらず、ため息ばかりが漏れる。
そう、この事態を仕組んだのは、テウォン自信とオクニョだった。小さな商団を立ち上げ、同じような小規模の商団をまとめたオクニョは、ホン・マンジョンの航行許可書と独占契約を交わしたのだ。
一方、ヒャンユンはそれを聞いて兵曹判書である父に尋ねた。
「……あの、船を手配してくださる方を探しているのですが……」
「船?どんな?」
珍しく娘が自分を頼ってきたため、ジョンミョンは嬉しさのあまりに思わず口許をほころばせた。
「その………ええと………干物と果物を地方から運べる程度です。」
「そうか!そんなことならすぐに手配しよう。うん。」
そう言うと、ジョンミョンは推薦書を書き始めた。
「お父様、名義は……」
「きちんと依頼者の迷惑にならぬよう、貸してくれる者とその者の名義にしておく。安心せよ」
ヒャンユンはそれを聞いて、ほっとため息をついた。ジョンミョンは僅かにその頬が赤く染まっているため、興味本意で尋ねた。
「………そなたに頼んできた者は、そなたの恋慕う男か?」
「えっ??」
慌てて顔をあげたヒャンユンは、両手をふって全力で否定した。
「ち、違います!た、ただの知り合いです。で、では!」
部屋を出たヒャンユンは焦りから解放され、胸を撫で下ろした。すると今度はそこに、兄のヨンフェが現れた。
「………ヒャンユン?」
「お兄………様?」
「そうだ。ヨンフェだ!」
「お久しぶりです!」
実は会っているが。と思いながら、ヒャンユンは微笑んだ。ヨンフェも久しぶりの再会に笑顔になる。
「元気にしてたか?」
「ええ。とっても。今度ゆっくり話しましょう」
「ああ。では」
兄を振り切って向かったのは、トンチャンの元だった。だが、このままでは目立ちすぎる。どうしたものかと考えていると、ふとチョン・ナンジョン商団に潜入しているヨンソンのことを思い出した。
「ヨンソン。」
「ナッ、ナビさん!こんなところまで、どうされたんですか?」
「経理のシン・ドンチャンにね、ファン・ナビが今日の夜、素素樓へ来てと言ってると伝えておいて」
「わかりました。では。」
ヨンソンに言伝てを頼むと、ヒャンユンは物陰に隠れてトンチャンの様子を伺った。伝言を聞くや否や、彼の顔が綻ぶ。ヒャンユンは久しぶりに幸せな気分になると、航行許可書を胸に抱きしめて、跳び跳ねるようにして素素樓へ向かうのだった。
約束の時刻までに何とか仕事を切り上げたトンチャンは、久しぶりに小綺麗な服を着て鏡を見た。
「よし、マシだ。」
素素樓へやって来た彼を見たソジョンたちは、目を丸くして爪先から頭のてっぺんまでをまじまじと観察し始めた。普段からは微塵も感じられない幸せそうな雰囲気が、春の陽気のように漂ってくる様子も不気味だった。用件を聞こうとした彼女は、瞬時に全てを理解した。
「………お待たせしました」
「お、おう………」
一年経つと、これ程に変わるのか。トンチャンは幼い雰囲気をまだ残していた、少女という言葉が相応しいヒャンユンしか知らなかったので、改めて落ち着いた色のチマチョゴリが似合うようになった彼女を見て息を飲んだ。
「…………変…ですか?」
「いや……そんなことは……ない。その……綺麗って言葉が、似合うようになった……な」
とは言っても、気まずい雰囲気がその場を支配する。
「可愛らしいほうが、お好きだった───」
「そんなことねぇ。お前なら、何だっていい。」
トンチャンの見事な惚れっぷりに、妓生たちは茶化すような黄色い悲鳴を上げた。耳まで真っ赤にしたヒャンユンは、とうとうトンチャンの裾に隠れてしまった。
「…………ここでは、ゆっくり話せません。その………こちらへ、どうぞ。」
「わかったよ。……可愛いな。」
「おっ、お止めください!」
恥ずかしさの余り死にそうになりながらも、ヒャンユンは何とかその場を後にした。離れにある庭の楼閣に彼を通すと、膳を挟んで話を始めた。
「その………今………何か、お困りのことは……ありますか?」
「困ってること?ああ………あるけど……」
「もしや、中秋節の品物を都に届けるための船……では?」
トンチャンは杯を持った手を下ろして、耳を疑った。ヒャンユンは一年前と変わらぬぎこちなさを携えながら、そっと船団航行許可書を差し出した。
「………あの……これを……受け取って……ください」
「だっ、駄目だ!貰えねぇ!止めとけ!」
彼は慌ててヒャンユンに許可書を突き返した。だが、彼女は負けじとトンチャンの手に封筒を握らせた。
「お願いします。私がお手伝いできることなんて……所詮この程度ですから。」
「なんで………」
「私は、確かにチョン・ナンジョンを倒したい。復讐したい。けれど、あなたを窮地には追い込みたくない。………我が儘なのかもしれない。到底実現不可能な、理想なのかもしれない。でも、極力あなたに迷惑はかけたくない。折角、ここまで立派な行首様になったあなたに………私は………」
項垂れながらそう言ったヒャンユンの肩に、トンチャンはそっと自分の手を添えた。
「だから、ずっと俺に本当のことを言わなかったんだな?」
無言でヒャンユンが頷く。そして次の瞬間、その身体はトンチャンの腕の中にあった。
「お前が俺を嫌いになったとかじゃないなら……それでいい。でも、これからはもうそんな変な気遣いするんじゃねぇぞ。お前は、俺の………」
ヒャンユンが顔を上げる。互いの顔が文字通り目と鼻の先に来ていた。トンチャンは空いた方の手で彼女の輪郭をなぞると、微笑みながらこう言った。
「俺の、恋人なんだから。」
「トンチャン……」
「愛してるよ、ヒャンユン。」
二人の影が、重なる。そしてその様子を見ていたソジョンは、ようやく再会した恋人たちに心の底からの祝福と末永い平穏を祈るのだった。
トンチャンを膝枕しながら、ヒャンユンはそっとその頭を優しく撫でた。
「随分と良い女になったな。一年前は可愛いって言葉が似合う少女だったのに」
「どちらも好きなあなたこそ、欲張りね」
「お前が綺麗すぎるからだよ」
そう言うと、突然トンチャンは自分の頭の上に乗っている彼女の手を掴んで引き寄せた。
「……離さねぇからな」
「ええ。離さないで、トンチャン」
ヒャンユンは幸せそうなトンチャンに微笑みかけた。やっと愛していると、ずっと想っていたと伝えられた。そのことがどんなに幸せであるかが、二人の身に染みる。ふと、トンチャンは思い出したように身体を起こしてヒャンユンに向き直った。
「なぁ、ヒャンユン。」
「なぁに?」
「俺も、お前をお嬢様って呼ぶべきなんじゃないのか?だって……」
言い終わる前に、トンチャンの唇が塞がる。いつの間にかヒャンユンの顔がすぐ目の前に来ており、長いまつげが艶やかに彼を誘っていた。口づけで口が塞がれたのだ。
「呼ばないで。あなたの目の前に居るのは、ただのヒャンユン。他の誰でもない存在です」
そう言われれば言われるほど、想い人が遠い存在に感じたトンチャンは、強引に彼女を抱き寄せた。腕に込められた力だけで、どれ程愛されているかが痛いほど伝わってくる感覚を噛み締めながら、ヒャンユンは目を閉じて腕を広い背中に回した。
「離れたくないよ……トンチャン……」
「俺もだ。もう……あんな辛い日々は御免だ」
「……あなたを失いたくない。あなたの温もりも、愛も全部、失いたくない」
それが限りなく不可能であると知りながら、トンチャンはまた一層腕に力を込めた。いや、知っているからこそだったのかも知れない。
翌日、トンチャンは部下たちから驚くべき情報を聞いた。ホン・マンジョンが船を貸さない理由は、なんとオクニョが商団を立ち上げて小規模の同業者の大行首をまとめていたからなのだ。もちろん、マンジョンもその大行首たちのうちの一人だった。この事がドンジュの耳に入るや否や、早速チョン・ナンジョンは暗殺を計画し始めた。トンチャンはヒャンユンの協力者であるオクニョをどう助けるかを考えていた。だが、更に事態は加速した。
「奥様。黒蝶団の本拠地が解りました。」
「何?」
隣で聞いていたトンチャンは、耳を疑った。悟られないように厳重な注意が図られていたはずの部分だ。何故情報が漏れたのか。彼は一部始終を慎重に聞き始めた。
「どうしますか?」
「潰せ。本拠地なら、団長も居るはずだ。何でも、小柄な女のような奴だそうだな。オクニョの家と黒蝶団の本拠地に、元体探人の者たちを送れ。」
トンチャンの背中に冷たい衝撃が走った。次の瞬間、彼の口が咄嗟の博打に出る。
「奥様。俺にやらせてください。今度は上手く始末を……」
「馬鹿者。今回始末しそびれたらどうするつもりだ。一度しくじった者には任せられぬ。」
怪しまれてはいないが、失敗したか。トンチャンは次の手を考えようと全力で頭を回転させ始めた。
────とにかく、まずはテウォンとヒャンユンに知らせないと!
彼はあるものを掴んで走り出すと、素素樓へ向かった。案の定、執務室にテウォンが居た。息咳切って駆け込んできたトンチャンを見て、彼は眉間にしわを寄せている。
「どうした。何か───」
「てめぇの女が大変だ。チョン・ナンジョン様が家に体探人を送りやがった」
「何ですって?」
偶然部屋に入ってきたヒャンユンも目を丸くしている。トンチャンはテウォンを置いて今度は彼女に説明し始めた。
「ヒャンユン、よく聞け。黒蝶団の本拠地が知られた。お前も危ない。今すぐ団員たちに知らせねぇと」
「そんな……!団員たちと連絡を取るには、誰かが直接行かないといけないわ。───私、行ってくる!」
武術服に着替える間もなく、チマチョゴリ姿のままで剣を手にとって飛び出そうとしたヒャンユンの腕を、トンチャンが捕まえて叫んだ。
「一人では無茶だ!」
彼はそう言うと、片方の手に握られていたものを背中に掛けてこう言った。
「────俺も、行く。」
「えっ……?」
彼が背中に掛けたのは、弓矢入れだった。ヒャンユンは手を振り払うと、首を強く横に振った。
「駄目よ!あなたを巻き込むわけには───」
「お前をもう失いたくないって、言ったはずだ」
ヒャンユンはトンチャンの瞳にまじまじと見入った。初めて会ったときとは違う、燃えるような決意の隠った色をしていた。
運命の歯車は、自分の大切な人を全て巻き込んで砕ききるまで止まらないというのか。トンチャンの頬に指先を伸ばし、ヒャンユンは静かに尋ねた。
「………………危険の先に、共に生きられない未来が待っている可能性があったとしても?」
「ああ。お前の隣で生きることだけが、俺の夢だった。でも、今は違う。一度失いかけた今はもう、同じ国で、同じ空気を吸って生きるだけでもいい。」
隣でそのやり取りを聞いていたテウォンは、自分の心に感嘆と動揺が走る様を感じていた。
────究極の愛……なのか?
オクニョに自分が向ける愛と同等、あるいはそれ以上の愛に圧倒されたテウォンは、トンチャンに起きた変化を感じ取っていた。愛とは、そういうことなのだろうか。どんな犠牲も省みず、互いの全てさえも求めない。ただ、同じ時間をどこかの空の下で生きている。そこに幸せを見いだすことが愛なのか。オクニョの元へ向かいながら、テウォンの脳裏にはそんな疑念が生じているのだった。
馬で本拠地まで向かったヒャンユンは、その場にいたギョムにありのままの知らせを入れた。
「わかりました。直ぐに緊急時の指示通りに動きます。」
「時間は私が稼ぐ。頼んだわ」
「はい、団長」
外れの方で待機しているトンチャンの元へ戻ったヒャンユンは、武官服の姿で剣を手にかけて辺りを見回した。
「どうした。何か……」
「囲まれているわ。十人程度の体探人がいる。」
「体探人……!?」
さすがのトンチャンも、弓を持つ手が震えている。ヒャンユンは剣を抜き、片足を引いて構えた。
「……今なら、まだ手を引けるわ。トンチャン、ここから───」
「馬鹿だな」
彼は弓を構えると、覚悟を決めた面持ちで矢をつがえた。ミョンソルを殺害したときのように、静寂と冷徹な風の中で弦が引かれる。
「─────お前を守る。決めたんだよ」
どんなときよりも真剣な眼差しを見て、後に引くという選択肢はこの男にはないということを悟ったヒャンユンは、トンチャンと背中合わせに対峙した。
「……体探人と戦ったことは?」
「あるわけねぇだろ。」
「あら、私もよ」
身を潜めていた体探人たちが一斉に姿を現した。ヒャンユンは片足で跳躍すると、近づいてきた一人を封じた。トンチャンも一切動じずに狙いを定めている。
とても繊細には思えないトンチャンが、確実に一人ずつ射止めていく様子は、剣を振りながらも思わず見とれてしまう程の勇姿だった。
「遠くの奴等は任せろ。お前は近い奴等を何とかしてくれ」
「ご指示通りに。」
身軽なヒャンユンは、木の幹に一度飛びついて足で蹴った反動を活かして、自分よりも体格が大きい男を倒した。だが、その後ろに剣を振りかざそうとする別の男が飛びかかってきた。トンチャンはそれを見逃すことなく、咄嗟に狙いをつけて矢を放った。回避行動をとったヒャンユンも残りの手勢たちの間に飛び込むと、一気に始末をつけた。
二人の視線が絡み合う。だが、まだあと一人が残っていた。男はヒャンユンに向けて剣を振りかぶった。真っ直ぐに振り下ろされる切っ先を避けようとして身をよじろうと試みたが、時間がない。万事休すかと思ったその時だった。ヒャンユンの視界からトンチャンが消えた。そして止めろという叫び声と共に、彼女の視界が暗闇に染まった。
男の身体には、トンチャンが突き出した剣が深々と刺さっている。力なく倒れた男は、そのまま息絶えた。ヒャンユンの視界に再び光が戻る。そう、トンチャンが目の前で庇うように彼女を抱き締めたのだ。怪我はない?と尋ねようとして、ヒャンユンの声が途切れる。
「トンチャン……?トンチャン!?」
「やっと……守れ……た……俺の……ヒャンユン……」
「トンチャン!?しっかりして!?ねぇ!!ねぇってば!止めて!嘘でしょ……嫌!嫌!」
肩から胸辺りまで斜めに切られたトンチャンは、痛むはずの傷を抱えたまま、膝をついてヒャンユンに手を伸ばした。
「大丈夫……か?怪我は……」
「私は大丈夫よ!でも、あなたが大丈夫じゃないわ。動かないで。私が助けてあげる。絶対にあなたを死なせはしない!」
そう叫ぶヒャンユンの声も遠退いていく。トンチャンは薄れ行く意識の中で、泣かないで欲しいと言おうとして必死に口を動かした。だが、声は吐息のように漏れるだけで、唇は震えるだけだった。細身にも関わらず、ヒャンユンは何倍も体格のある彼を背負うような形で歩きだした。何度もこけたが、それでも彼女の歩みが止まることを知らない。
「ヒャンユン……もう、いい……もう……」
「うるさい!黙れ!」
初めてヒャンユンが、ナビとして装っている時以外にトンチャンへ命令口調を使った。その瞳からは涙が溢れている。
「絶対に、見捨てない。いい!?私を置いて……死ぬことは許さない!絶対にだ。生きるときは一緒でいい。だが、死ぬときだけは一緒じゃない!あなたは………あなたは、温かい布団の上で、せめて先に死ぬときは隣で私が手を握って看取ると決めているのだから!」
「ヒャンユン……」
「忘れたか?私の夢を。叶わないから夢と人は言う、あのとき私は確かにそう言った。けれど、今は違う!またあなたに愛されたい。その胸に抱かれて、温もりを感じながら愛していると言いたいと。一年前のファン・ナビは、それすらも夢に終わると思っていた。だが、今はどうだ?」
ヒャンユンは涙を溢しながら笑った。口許が震える。
「今、その夢は叶った。私はあなたに……もう一度あなたに愛されている。例え、地面に落ちた綿雪みたいに一瞬で消える定めであっても、私はあなたの側にいたい。いつか、シワだらけになったあなたの手を握って、幸せだったねって笑えるような未来が。そんな未来が───」
言いながらヒャンユンは、行きに乗ってきた馬にトンチャンを放り投げるように乗せた。そして後ろに自分も乗って手綱を握りしめ、非力ながらもありったけの力で腹を蹴った。
「そんな未来が、私の夢だ!胡蝶の夢と言われてもいい。妄想だと言われてもいい!」
朦朧とする意識の中、トンチャンは涙を流していた。彼の耳に、悲痛な叫びのようなヒャンユンの言葉が聞こえてくる。
「───それが私、ヒャンユンの夢だ!」
馬が跳ぶように走り出した。既にトンチャンの息は弱々しくなってきている。
間に合うように。手遅れになる前に術が見つかるように。馬上のヒャンユンはただ、そんなことを考えているのだった。
「トンチャン…………」
そして同時に、これで良かったのかという不安と後悔も押し寄せてきた。きっと彼は自分のために危険な橋を渡り始めることになる。きちんと警告は届いていただろうか。ヒャンユンはいても立ってもいられず、部屋の戸を開いて外に出た。
「……………ご無事で………」
涙がこぼれ落ちる。そんな娘の姿を遠目からみていたジョンミョンは、静かにため息をついた。
「あれが……妹ですか?」
「ああ。そうだ。ヒャンユンだ。」
「挨拶を…」
「今はやめておけ。………また今度にしなさい」
兄のヨンフェは、目を凝らして妹の顔を見た。よく見ると、幼い頃の面影がわずかに残っている。
「家族四人に戻る……というわけには行かなさそうですね」
「ああ。私のせいだ。私が政局を読み違えたがために…あの子もお前も、そして妻も……」
「父上……」
ジョンミョンは、その負い目からヒャンユンとのぎこちない親子関係にも文句を言わなかった。むしろ、許してらうことなど到底おこがましいとまで思っていた。
「一先ず、今は力を溜めるときだ。いつか、必ず全てを元に戻せる。」
そう言うジョンミョンの瞳には、憂いと決意がこもっていた。
出勤したトンチャンは、急を要する案件に対応を追われていた。
「船の手配はまだなのか?」
「すみません……ホン・マンジョン大行首も、船の貸し出しを断りました」
「何だと?ふざけるんじゃねぇ!くそっ………」
トンチャンが焦るのには、理由があった。中秋節に使う果物と干物を買い占めたのはいいが、それを地方から都に送る船が無いのだ。平市署のユン・テウォンも結局船を手配してくれず、七牌市場時代からの顔馴染みであったホン・マンジョンも断ってきた。
彼は途方にくれていた。一体誰がこんなことを。思い付く人物がどうにも見当たらず、ため息ばかりが漏れる。
そう、この事態を仕組んだのは、テウォン自信とオクニョだった。小さな商団を立ち上げ、同じような小規模の商団をまとめたオクニョは、ホン・マンジョンの航行許可書と独占契約を交わしたのだ。
一方、ヒャンユンはそれを聞いて兵曹判書である父に尋ねた。
「……あの、船を手配してくださる方を探しているのですが……」
「船?どんな?」
珍しく娘が自分を頼ってきたため、ジョンミョンは嬉しさのあまりに思わず口許をほころばせた。
「その………ええと………干物と果物を地方から運べる程度です。」
「そうか!そんなことならすぐに手配しよう。うん。」
そう言うと、ジョンミョンは推薦書を書き始めた。
「お父様、名義は……」
「きちんと依頼者の迷惑にならぬよう、貸してくれる者とその者の名義にしておく。安心せよ」
ヒャンユンはそれを聞いて、ほっとため息をついた。ジョンミョンは僅かにその頬が赤く染まっているため、興味本意で尋ねた。
「………そなたに頼んできた者は、そなたの恋慕う男か?」
「えっ??」
慌てて顔をあげたヒャンユンは、両手をふって全力で否定した。
「ち、違います!た、ただの知り合いです。で、では!」
部屋を出たヒャンユンは焦りから解放され、胸を撫で下ろした。すると今度はそこに、兄のヨンフェが現れた。
「………ヒャンユン?」
「お兄………様?」
「そうだ。ヨンフェだ!」
「お久しぶりです!」
実は会っているが。と思いながら、ヒャンユンは微笑んだ。ヨンフェも久しぶりの再会に笑顔になる。
「元気にしてたか?」
「ええ。とっても。今度ゆっくり話しましょう」
「ああ。では」
兄を振り切って向かったのは、トンチャンの元だった。だが、このままでは目立ちすぎる。どうしたものかと考えていると、ふとチョン・ナンジョン商団に潜入しているヨンソンのことを思い出した。
「ヨンソン。」
「ナッ、ナビさん!こんなところまで、どうされたんですか?」
「経理のシン・ドンチャンにね、ファン・ナビが今日の夜、素素樓へ来てと言ってると伝えておいて」
「わかりました。では。」
ヨンソンに言伝てを頼むと、ヒャンユンは物陰に隠れてトンチャンの様子を伺った。伝言を聞くや否や、彼の顔が綻ぶ。ヒャンユンは久しぶりに幸せな気分になると、航行許可書を胸に抱きしめて、跳び跳ねるようにして素素樓へ向かうのだった。
約束の時刻までに何とか仕事を切り上げたトンチャンは、久しぶりに小綺麗な服を着て鏡を見た。
「よし、マシだ。」
素素樓へやって来た彼を見たソジョンたちは、目を丸くして爪先から頭のてっぺんまでをまじまじと観察し始めた。普段からは微塵も感じられない幸せそうな雰囲気が、春の陽気のように漂ってくる様子も不気味だった。用件を聞こうとした彼女は、瞬時に全てを理解した。
「………お待たせしました」
「お、おう………」
一年経つと、これ程に変わるのか。トンチャンは幼い雰囲気をまだ残していた、少女という言葉が相応しいヒャンユンしか知らなかったので、改めて落ち着いた色のチマチョゴリが似合うようになった彼女を見て息を飲んだ。
「…………変…ですか?」
「いや……そんなことは……ない。その……綺麗って言葉が、似合うようになった……な」
とは言っても、気まずい雰囲気がその場を支配する。
「可愛らしいほうが、お好きだった───」
「そんなことねぇ。お前なら、何だっていい。」
トンチャンの見事な惚れっぷりに、妓生たちは茶化すような黄色い悲鳴を上げた。耳まで真っ赤にしたヒャンユンは、とうとうトンチャンの裾に隠れてしまった。
「…………ここでは、ゆっくり話せません。その………こちらへ、どうぞ。」
「わかったよ。……可愛いな。」
「おっ、お止めください!」
恥ずかしさの余り死にそうになりながらも、ヒャンユンは何とかその場を後にした。離れにある庭の楼閣に彼を通すと、膳を挟んで話を始めた。
「その………今………何か、お困りのことは……ありますか?」
「困ってること?ああ………あるけど……」
「もしや、中秋節の品物を都に届けるための船……では?」
トンチャンは杯を持った手を下ろして、耳を疑った。ヒャンユンは一年前と変わらぬぎこちなさを携えながら、そっと船団航行許可書を差し出した。
「………あの……これを……受け取って……ください」
「だっ、駄目だ!貰えねぇ!止めとけ!」
彼は慌ててヒャンユンに許可書を突き返した。だが、彼女は負けじとトンチャンの手に封筒を握らせた。
「お願いします。私がお手伝いできることなんて……所詮この程度ですから。」
「なんで………」
「私は、確かにチョン・ナンジョンを倒したい。復讐したい。けれど、あなたを窮地には追い込みたくない。………我が儘なのかもしれない。到底実現不可能な、理想なのかもしれない。でも、極力あなたに迷惑はかけたくない。折角、ここまで立派な行首様になったあなたに………私は………」
項垂れながらそう言ったヒャンユンの肩に、トンチャンはそっと自分の手を添えた。
「だから、ずっと俺に本当のことを言わなかったんだな?」
無言でヒャンユンが頷く。そして次の瞬間、その身体はトンチャンの腕の中にあった。
「お前が俺を嫌いになったとかじゃないなら……それでいい。でも、これからはもうそんな変な気遣いするんじゃねぇぞ。お前は、俺の………」
ヒャンユンが顔を上げる。互いの顔が文字通り目と鼻の先に来ていた。トンチャンは空いた方の手で彼女の輪郭をなぞると、微笑みながらこう言った。
「俺の、恋人なんだから。」
「トンチャン……」
「愛してるよ、ヒャンユン。」
二人の影が、重なる。そしてその様子を見ていたソジョンは、ようやく再会した恋人たちに心の底からの祝福と末永い平穏を祈るのだった。
トンチャンを膝枕しながら、ヒャンユンはそっとその頭を優しく撫でた。
「随分と良い女になったな。一年前は可愛いって言葉が似合う少女だったのに」
「どちらも好きなあなたこそ、欲張りね」
「お前が綺麗すぎるからだよ」
そう言うと、突然トンチャンは自分の頭の上に乗っている彼女の手を掴んで引き寄せた。
「……離さねぇからな」
「ええ。離さないで、トンチャン」
ヒャンユンは幸せそうなトンチャンに微笑みかけた。やっと愛していると、ずっと想っていたと伝えられた。そのことがどんなに幸せであるかが、二人の身に染みる。ふと、トンチャンは思い出したように身体を起こしてヒャンユンに向き直った。
「なぁ、ヒャンユン。」
「なぁに?」
「俺も、お前をお嬢様って呼ぶべきなんじゃないのか?だって……」
言い終わる前に、トンチャンの唇が塞がる。いつの間にかヒャンユンの顔がすぐ目の前に来ており、長いまつげが艶やかに彼を誘っていた。口づけで口が塞がれたのだ。
「呼ばないで。あなたの目の前に居るのは、ただのヒャンユン。他の誰でもない存在です」
そう言われれば言われるほど、想い人が遠い存在に感じたトンチャンは、強引に彼女を抱き寄せた。腕に込められた力だけで、どれ程愛されているかが痛いほど伝わってくる感覚を噛み締めながら、ヒャンユンは目を閉じて腕を広い背中に回した。
「離れたくないよ……トンチャン……」
「俺もだ。もう……あんな辛い日々は御免だ」
「……あなたを失いたくない。あなたの温もりも、愛も全部、失いたくない」
それが限りなく不可能であると知りながら、トンチャンはまた一層腕に力を込めた。いや、知っているからこそだったのかも知れない。
翌日、トンチャンは部下たちから驚くべき情報を聞いた。ホン・マンジョンが船を貸さない理由は、なんとオクニョが商団を立ち上げて小規模の同業者の大行首をまとめていたからなのだ。もちろん、マンジョンもその大行首たちのうちの一人だった。この事がドンジュの耳に入るや否や、早速チョン・ナンジョンは暗殺を計画し始めた。トンチャンはヒャンユンの協力者であるオクニョをどう助けるかを考えていた。だが、更に事態は加速した。
「奥様。黒蝶団の本拠地が解りました。」
「何?」
隣で聞いていたトンチャンは、耳を疑った。悟られないように厳重な注意が図られていたはずの部分だ。何故情報が漏れたのか。彼は一部始終を慎重に聞き始めた。
「どうしますか?」
「潰せ。本拠地なら、団長も居るはずだ。何でも、小柄な女のような奴だそうだな。オクニョの家と黒蝶団の本拠地に、元体探人の者たちを送れ。」
トンチャンの背中に冷たい衝撃が走った。次の瞬間、彼の口が咄嗟の博打に出る。
「奥様。俺にやらせてください。今度は上手く始末を……」
「馬鹿者。今回始末しそびれたらどうするつもりだ。一度しくじった者には任せられぬ。」
怪しまれてはいないが、失敗したか。トンチャンは次の手を考えようと全力で頭を回転させ始めた。
────とにかく、まずはテウォンとヒャンユンに知らせないと!
彼はあるものを掴んで走り出すと、素素樓へ向かった。案の定、執務室にテウォンが居た。息咳切って駆け込んできたトンチャンを見て、彼は眉間にしわを寄せている。
「どうした。何か───」
「てめぇの女が大変だ。チョン・ナンジョン様が家に体探人を送りやがった」
「何ですって?」
偶然部屋に入ってきたヒャンユンも目を丸くしている。トンチャンはテウォンを置いて今度は彼女に説明し始めた。
「ヒャンユン、よく聞け。黒蝶団の本拠地が知られた。お前も危ない。今すぐ団員たちに知らせねぇと」
「そんな……!団員たちと連絡を取るには、誰かが直接行かないといけないわ。───私、行ってくる!」
武術服に着替える間もなく、チマチョゴリ姿のままで剣を手にとって飛び出そうとしたヒャンユンの腕を、トンチャンが捕まえて叫んだ。
「一人では無茶だ!」
彼はそう言うと、片方の手に握られていたものを背中に掛けてこう言った。
「────俺も、行く。」
「えっ……?」
彼が背中に掛けたのは、弓矢入れだった。ヒャンユンは手を振り払うと、首を強く横に振った。
「駄目よ!あなたを巻き込むわけには───」
「お前をもう失いたくないって、言ったはずだ」
ヒャンユンはトンチャンの瞳にまじまじと見入った。初めて会ったときとは違う、燃えるような決意の隠った色をしていた。
運命の歯車は、自分の大切な人を全て巻き込んで砕ききるまで止まらないというのか。トンチャンの頬に指先を伸ばし、ヒャンユンは静かに尋ねた。
「………………危険の先に、共に生きられない未来が待っている可能性があったとしても?」
「ああ。お前の隣で生きることだけが、俺の夢だった。でも、今は違う。一度失いかけた今はもう、同じ国で、同じ空気を吸って生きるだけでもいい。」
隣でそのやり取りを聞いていたテウォンは、自分の心に感嘆と動揺が走る様を感じていた。
────究極の愛……なのか?
オクニョに自分が向ける愛と同等、あるいはそれ以上の愛に圧倒されたテウォンは、トンチャンに起きた変化を感じ取っていた。愛とは、そういうことなのだろうか。どんな犠牲も省みず、互いの全てさえも求めない。ただ、同じ時間をどこかの空の下で生きている。そこに幸せを見いだすことが愛なのか。オクニョの元へ向かいながら、テウォンの脳裏にはそんな疑念が生じているのだった。
馬で本拠地まで向かったヒャンユンは、その場にいたギョムにありのままの知らせを入れた。
「わかりました。直ぐに緊急時の指示通りに動きます。」
「時間は私が稼ぐ。頼んだわ」
「はい、団長」
外れの方で待機しているトンチャンの元へ戻ったヒャンユンは、武官服の姿で剣を手にかけて辺りを見回した。
「どうした。何か……」
「囲まれているわ。十人程度の体探人がいる。」
「体探人……!?」
さすがのトンチャンも、弓を持つ手が震えている。ヒャンユンは剣を抜き、片足を引いて構えた。
「……今なら、まだ手を引けるわ。トンチャン、ここから───」
「馬鹿だな」
彼は弓を構えると、覚悟を決めた面持ちで矢をつがえた。ミョンソルを殺害したときのように、静寂と冷徹な風の中で弦が引かれる。
「─────お前を守る。決めたんだよ」
どんなときよりも真剣な眼差しを見て、後に引くという選択肢はこの男にはないということを悟ったヒャンユンは、トンチャンと背中合わせに対峙した。
「……体探人と戦ったことは?」
「あるわけねぇだろ。」
「あら、私もよ」
身を潜めていた体探人たちが一斉に姿を現した。ヒャンユンは片足で跳躍すると、近づいてきた一人を封じた。トンチャンも一切動じずに狙いを定めている。
とても繊細には思えないトンチャンが、確実に一人ずつ射止めていく様子は、剣を振りながらも思わず見とれてしまう程の勇姿だった。
「遠くの奴等は任せろ。お前は近い奴等を何とかしてくれ」
「ご指示通りに。」
身軽なヒャンユンは、木の幹に一度飛びついて足で蹴った反動を活かして、自分よりも体格が大きい男を倒した。だが、その後ろに剣を振りかざそうとする別の男が飛びかかってきた。トンチャンはそれを見逃すことなく、咄嗟に狙いをつけて矢を放った。回避行動をとったヒャンユンも残りの手勢たちの間に飛び込むと、一気に始末をつけた。
二人の視線が絡み合う。だが、まだあと一人が残っていた。男はヒャンユンに向けて剣を振りかぶった。真っ直ぐに振り下ろされる切っ先を避けようとして身をよじろうと試みたが、時間がない。万事休すかと思ったその時だった。ヒャンユンの視界からトンチャンが消えた。そして止めろという叫び声と共に、彼女の視界が暗闇に染まった。
男の身体には、トンチャンが突き出した剣が深々と刺さっている。力なく倒れた男は、そのまま息絶えた。ヒャンユンの視界に再び光が戻る。そう、トンチャンが目の前で庇うように彼女を抱き締めたのだ。怪我はない?と尋ねようとして、ヒャンユンの声が途切れる。
「トンチャン……?トンチャン!?」
「やっと……守れ……た……俺の……ヒャンユン……」
「トンチャン!?しっかりして!?ねぇ!!ねぇってば!止めて!嘘でしょ……嫌!嫌!」
肩から胸辺りまで斜めに切られたトンチャンは、痛むはずの傷を抱えたまま、膝をついてヒャンユンに手を伸ばした。
「大丈夫……か?怪我は……」
「私は大丈夫よ!でも、あなたが大丈夫じゃないわ。動かないで。私が助けてあげる。絶対にあなたを死なせはしない!」
そう叫ぶヒャンユンの声も遠退いていく。トンチャンは薄れ行く意識の中で、泣かないで欲しいと言おうとして必死に口を動かした。だが、声は吐息のように漏れるだけで、唇は震えるだけだった。細身にも関わらず、ヒャンユンは何倍も体格のある彼を背負うような形で歩きだした。何度もこけたが、それでも彼女の歩みが止まることを知らない。
「ヒャンユン……もう、いい……もう……」
「うるさい!黙れ!」
初めてヒャンユンが、ナビとして装っている時以外にトンチャンへ命令口調を使った。その瞳からは涙が溢れている。
「絶対に、見捨てない。いい!?私を置いて……死ぬことは許さない!絶対にだ。生きるときは一緒でいい。だが、死ぬときだけは一緒じゃない!あなたは………あなたは、温かい布団の上で、せめて先に死ぬときは隣で私が手を握って看取ると決めているのだから!」
「ヒャンユン……」
「忘れたか?私の夢を。叶わないから夢と人は言う、あのとき私は確かにそう言った。けれど、今は違う!またあなたに愛されたい。その胸に抱かれて、温もりを感じながら愛していると言いたいと。一年前のファン・ナビは、それすらも夢に終わると思っていた。だが、今はどうだ?」
ヒャンユンは涙を溢しながら笑った。口許が震える。
「今、その夢は叶った。私はあなたに……もう一度あなたに愛されている。例え、地面に落ちた綿雪みたいに一瞬で消える定めであっても、私はあなたの側にいたい。いつか、シワだらけになったあなたの手を握って、幸せだったねって笑えるような未来が。そんな未来が───」
言いながらヒャンユンは、行きに乗ってきた馬にトンチャンを放り投げるように乗せた。そして後ろに自分も乗って手綱を握りしめ、非力ながらもありったけの力で腹を蹴った。
「そんな未来が、私の夢だ!胡蝶の夢と言われてもいい。妄想だと言われてもいい!」
朦朧とする意識の中、トンチャンは涙を流していた。彼の耳に、悲痛な叫びのようなヒャンユンの言葉が聞こえてくる。
「───それが私、ヒャンユンの夢だ!」
馬が跳ぶように走り出した。既にトンチャンの息は弱々しくなってきている。
間に合うように。手遅れになる前に術が見つかるように。馬上のヒャンユンはただ、そんなことを考えているのだった。