10、辿り着いた真相
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トンチャンや商団の曰牌たちは突然召集され、何事かと思いながら大行首のミン・ドンジュの元にやって来た。だが、トンチャンの表情には感情がない。何かを考えれば、間違いなく彼女を何の躊躇も無しに殺してしまうからだ。
─────てめぇが、ヒャンユンを殺そうとしたのか……許せねぇ。覚悟しとけ。
だがそんな憎悪を知るわけもなく、ドンジュはトンチャンにこう言った。
「今日、黒蝶団が我々が倉庫に運び込もうとしている荷を襲うらしい。そこで、先回りして団長を捕らえて欲しいのだ。奴等はまだ気づいていない。これが最初で最後の機会やもしれぬ。必ず成し遂げよ」
「はい、大行首様」
トンチャンは一礼すると、剣を持って一同に指示を始めた。
「団長は殺すな。生きたまま連れてこい。ぬかるんじゃねぇぞ、てめぇら!」
「はい、兄貴!」
いつもならチョンドンたちが居るのだが、今日はオクニョに用があり、商団には居なかった。また、ドンジュの計らいで信用の出来る者以外は全員返されていたため、団員も居なかった。
─────黒蝶団め。絶対化けの皮を剥いでやる。
トンチャンは鞘を握りしめると、しっかりとした足取りで歩きだした。その団長の正体が、ファン・ナビ───ヒャンユンであることも知らず。
ヒャンユンたちは、順調に荷を奪うべく配置についていた。屋根の方には射手を準備し、万事滞りなく進んでいた。
だが、突如団員たちの間に戦慄が走った。行く手を阻むように、男たちが現れたからだ。ヒャンユンを含め、全員覆面をしているが、その目からは動揺が感じ取られた。
「かかれ!」
「奇襲だ!備えろ!」
ヒャンユンは剣を抜くと、斬りかかってくる曰牌を倒しながら叫んだ。その様子を見て、トンチャンが指示を出す。
「あの髪の長くて小柄なやつが団長だ!」
────初めから私が狙いとは………
ヒャンユンはため息をつくと、団員たちの方を振り返ってこう言った。
「私を守るな。奴等は初めから私を捕らえるために奇襲をかけている。退路は自分達のために死守しろ!」
「ですが、団長!」
ヨンソンが止めようとした瞬間、ヒャンユンの注意は別の方向に向けられた。
「逃がさねぇぜ、団長!」
トンチャンが斬りかかってきたのだ。身のこなしは荒いが、力は強いため、ヒャンユンは不意を突かれて弾き飛ばされた。
「くっ…………」
「意外と弱いな。力で圧しきられたら駄目なタチなのか?」
ここで引き下がってはいけない。彼に捕らえられれば、他の団員たちを危険に晒すことになってしまう。つまり、トンチャンと命懸けの一騎討ちをしてでも、捕らえられることだけは避けねばならないのだ。
ヒャンユンは立ち上がった勢いでトンチャンの腹に蹴りを入れ、一気に攻めに入った。体探人とまではいかないが、カン・ソノに仕込まれた剣術は、オクニョを救ったときと同様にトンチャンを圧倒させ始めた。
その様子を見ていたヨンソンは、ギョムにこう言った。
「団長の危機を、カン様に知らせろ。早く!」
「ああ、わかった!」
ギョムは必死で退路を引き開き、ソノの元へ駆け込んだ。すぐに緊急事態が起きていることを悟った彼は、剣を持って覆面をすると、大急ぎでギョムの後を追った。
心の中では、ただ一途にヒャンユンの無事を祈りながら。
ソノが辿り着いた時には、曰牌たちの人数は減っていたが、相変わらずヒャンユンとトンチャンが対峙して刃を向けあっていた。
「カン様、あの男を射るように指示しました」
「何!?あの男を!?」
ソノは射手の場所を目で探した。死んでくれてもいい男だが、ヒャンユンが悲しむ。恋敵なのに、何故かそう思った。矢をつがえる団員を発見し、ソノは慌てて屋根を登り始めた。だが、こんなときに限って足が滑る。
────早くしなければ。早く!
そして彼が団員の傍に辿り着き、制止しようとしたときだった。
矢が手から離され、一直線にトンチャンの胸に飛んでいく。あの場所に刺されば助からないだろう。
言わなければ。避けろと。生きろと。目の前で剣を交えているその人は─────
ヒャンユンは依然とあきらめないトンチャンに、どうすべきか迷い始めていた。このまま行けば、彼を殺す以外に方法が無くなってしまう。何か策を考えなければ。そう思って辺りを見回したヒャンユンの視界に、今にも飛んできそうな勢いで引かれている弓が飛び込んできた。しかもその切っ先はトンチャンに向けられている。彼はまだ気づいていない。
止めなければ。声を出して弓を引くなと言わなければ。
ヒャンユンが叫ぼうとしたその刹那、弓が放たれた。自分とトンチャンの居る場所はそう離れてはいない。突き飛ばすか?いや、あんな巨体を倒す自信はない。そしてヒャンユンは矢が放たれた方向に足を向け、自らの身体を差し出した────
鈍い音がして弓が深々と刺さる。痛い。ヒャンユンは素直にそう思った。そして、分かってはいるが疑わしげに右肩を見た。
矢は、間違いなく胸元の少し上に刺さっている。血が滲んでいた。ソノは自分の立場も忘れ、団長を射ってしまい呆然としている男の胸ぐらを掴んだ。
「何をしている!!!誰を射ったのか、わかっているんだろうな!?」
「俺はちゃんとあの男に狙いを定めました!団長が動いたんです!俺が的を外さないことを、カン様もご存じでしょう!?」
「そんな………ヒャンユン………!」
自分の命と無念、そして復讐の機会と引き換えにトンチャンを庇ったというのか。ソノには到底信じられなかった。
それは目の前に居るトンチャンも同じだった。
「お前………確かに今………」
────俺を、庇った?
射手は一切用意していない。だとすれば、状況推測で黒蝶団員が団長を守るために自分に矢を放ったとしか考えられない。邪魔者の息の根を確実に止められる絶好の機会なのに、何故庇ったのか。トンチャンの頭の中は混乱した。
ヒャンユンは傷口を押さえながら、茫然とするトンチャンから逃れ、残りの曰牌たちを蹴散らした。意識が薄れていくのがわかる。あのとき───十数年前のときと同じだった。斬られた傷から血が吹き出し、全てが真っ白に染まっていくあの感覚。つまり、死が近いことをヒャンユンに教えていた。
物陰に隠れたヒャンユンは、痛みを堪えて壁にもたれかかるようにして座り込んだ。座った衝撃すらも痛みに変わる。彼女は激痛に喘ぎながら、月を見上げた。またあの日と同じ、夜空を引っ掻いたような三日月だった。
「ここで…………死ぬ………の………ね………」
だが、不思議と悔いはなかった。今まで大切な人に先立たれて、理不尽で、そして数奇な運命を辿ったがために残ってきたこの命を、世界で一番大切な人のために使えるのだから。
だが、強いて一つ心残りを挙げるとするならば。ヒャンユンは力なく微笑んだ。
「あの人の……腕の……中に………帰れ……なかった………こと………」
月明かりが、覆面をしたままのヒャンユンの横顔を照らす。そして、傷口を押さえていた手も力なく地面に落ちた。呼吸が次第に浅くなり始め、痛みが意識と共に遠退いていく。溢れだす血が腕を伝って滴り落ちてくるが、もう何も感じなかった。
そしてヒャンユンは、目を閉じた。
トンチャンは部下を残して、団長を探していた。血痕を辿り、ようやく見つけたときには既に虫の息だった。彼は団長の目の前に膝をつくと、恐る恐る覆面に手を伸ばした。そして、その手が覆面を引き剥がす。
「なっ…………………」
トンチャンは絶句した。月明かりに浮かび上がる、美麗なその横顔が間違いなくファン・ナビのものだったからだ。
「一体、どうなってるんだ………?」
黒蝶団の団長が、ファン・ナビ………?
彼が仲間を呼ぼうとしたときだった。微かにナビの口許が動いた。
「─────ん………………」
今、助ければ間に合うかもしれない。気がつけば、トンチャンの体は考えるよりも先に動いていた。ナビを担ぎ上げたトンチャンは、人目を避けながら素素樓へ向かっていた。ただ、ヒャンユンに似ている人が死ぬ所をみたくない。そんな理由からの行動だった。
素素樓の裏口を叩くと、ソジョンが出てきた。
「何事………ナ、ナビさん!?」
「どうしたの、ソジョン。」
驚きを隠せないソジョンの声を聞き付けてやって来たキョハも、傷の深さに目を丸くしている。トンチャンはそんな二人を怒鳴り付けた。
「お前らぼーっとしてないで、医者を呼べ!早く!」
「は、はい!」
キョハは執事に医者を呼ぶよう指示すると、空き部屋に大慌てで布団を敷くようにソジョンたちに頼んだ。その様子を見ていたマノクは、トンチャンがヒャンユンを助けたことに対して、開いた口が塞がらない思いになった。
「おい、ナビ。しっかりしろ。医者を呼んだからな。」
「出血が酷すぎる。このままでは…」
マノクはその会話を聞いて、トンチャンにすべてを話すべきなのではと思い、声をかけようとした。だが、ヒャンユンの固い決意を思い出すと、どうしても踏み出せない。
トンチャンの呼び掛けも虚しく、ヒャンユンは昏睡状態に陥った。ソジョンは他の妓生たちに、部屋から布を取ってくるように頼んだ。するとトンチャンが立ち上がり、自分が行くと言った。
彼は廊下を歩くと何も考えず、とある部屋に入った。
「どこだ………」
そこは、ヒャンユンの部屋だった。トンチャンはあるはずもない布を探しながら、机の引き出しにまでやって来た。そして、立ち上がるときに腕で天板を押し上げてしまった。勢いよく開いた天板が、音を立てて閉まる。気になったトンチャンは、好奇心で再びそれを押し上げた。そして、ついに見てしまった。
「これは………………?」
そこにあったのは、間違いなくヒャンユンの髪飾りだった。見間違えるはずはない。ほとんどすべての思い出の中にあるものだ。更に彼は、自分の肖像画に震える手を伸ばした。
「そんな…………そんな………馬鹿な………」
肖像画の端には綺麗な文字で『私の愛する人、トンチャン』と書いてある。何が起きているのか、頭の中が真っ白になっていく。いつまで経っても帰ってこないトンチャンを心配して、ソジョンが捜しに行くと、ヒャンユンの部屋の前で嫌な予感がした。
─────まさか……!
「いけません!その部屋には…………」
ソジョンが部屋に飛び込んだ瞬間、逆にトンチャンが彼女の腕を掴んだ。
「答えろ!あいつは誰なんだ!ファン・ナビは誰なんだ!?」
「ナビさんは…………答えられません」
ソジョンの返事は、答えを暗に示唆していた。足元をふらつかせ、トンチャンは床に手をついて崩れ落ちた。
「ヒャンユン……………俺の側に………ずっと居たのか………?」
だとすればあのとき、彼女はどれ程胸を痛めたのだろうか。
『ヒャンユン!』
『…………何事ですか』
『ヒャンユン!生きていたのか?俺がどれだけ……』
『………人違いです。失礼します』
『えっ…………そ、そんなはずは──』
あのとき、返事に僅かな間があった。そのときにきっと、戸惑ったはずだ。まだ思い続けている自分と、対立する定めにある自分との間で。
『あなたのような顔の人、一度見れば忘れぬでしょう?』
『ああ。格好いい───』
『典型的な三枚目顔ですね』
憎まれ口をすぐに叩いたのも、全て嘘だったのか。心の底から湧き出る思慕の念を隠すために、棘々しい言葉の数々をわざと吐いて、自分を遠ざけようとしていたのか。
トンチャンは自責の念で一杯になった。ヒャンユンはチョングムに贈り物をしている姿を見て、どれ程傷ついただろうか。自分が忘れられていくという恐怖に、どれ程眠れぬ夜を過ごしたことだろうか。それなのに、なのに────
「あいつは………俺を………庇って……庇って怪我をしたんだ。」
「そうなんですか………?」
「俺のせいなんだ!俺が守れなかったから、一年前にあいつを失った。そして今、俺は今度こそ本当にあいつを………あいつを失うことに……………」
髪飾りを握りしめたトンチャンは、ナビ───ヒャンユンが眠っている部屋へと走り出した。その姿を見てキョハもマノクも、全てを彼が知ったことを悟った。
部屋に飛び込んだトンチャンは、治療を終えても尚意識が戻らないヒャンユンを抱き締めた。
「ヒャンユン……………ヒャンユン…………俺だよ……トンチャンだよ…………お前を一年経った今もまだ愛してる、馬鹿なトンチャンだよ………」
そして、彼は泣き叫んだ。
「お前はここで死ぬんじゃない!俺がいるから……側に、側に居るから!もう離れないから!ごめん………ごめん………許してくれ………俺は…………お前を守れなかった……ずっと謝りたかった。だから……だからまだ………まだ死なないでくれ………ずっと、勝手で……ごめん……」
話を聞き付けたテウォンもその場にやって来た。トンチャンは彼を上目で見ると、こう尋ねた。
「………知って、いたのか?」
「……ああ。どうしても……言うなと、強く口止めされていたんだ。コン・ジェミョン大行首も知らない。」
「良かった………良かった………生きててくれて、良かった……ヒャンユン…………俺の………俺のヒャンユン……」
逆上されると思って構えていたテウォンは、意外にも穏やかなトンチャンに驚いた。そして、静かにその場を離れるのだった。
それから数時間後、驚異の回復力でヒャンユンは目を覚ました。朦朧とする意識を何とか保ちながら、彼女は部屋を見渡した。トンチャンを見つけると同時に疑問で頭の中がまず満たされたが、その視線が彼の手の中に髪飾りを見つけた瞬間、驚愕と恐れに変わった。
「お前は……」
トンチャンの唇が、ゆっくりと次の言葉を作ろうと形作られていく。
────ああ、駄目。言っては駄目。その続きに、気づいては駄目よ、駄目よ、トンチャン!
だが、彼は涙を両目に湛えながらその続きを言った。
「─────ヒャンユンだったん……だな」
感無量になっているトンチャンが、ゆっくりと近づいてくる。ヒャンユンは咄嗟に彼の手から髪飾りを奪い取ると、その切っ先を首に向けて馬乗りになった。
「知ったのなら、死んでもらう。」
「ああ…………今ならいくらでも死ねるよ。でも………」
次の瞬間、形勢が逆転した。腕力の弱いヒャンユンが、逆にトンチャンに押し倒されたのだ。
「なっ…………」
「会いたかったよ、ヒャンユン。ずっと………お前だけを、想ってた」
その言葉は、本心からのものに間違いなかった。ヒャンユンの目から、涙が一筋落ちる。トンチャンに至っては涙で滅茶苦茶になっていて、もはや見ていられない。
「…………あなたが聞いたのは、ほんの一部分だけ。真相を……知りたいのならば、明日そちらに部下を送る。そこで、全て終わらせましょう。私と貴方、ファン・ナビとコン・ヒャンユンを含めて」
「ヒャンユン………」
「だから………喜ばないで。元の関係には、決して戻れないと……わかるはずだから」
ヒャンユンの心の中には、幼い頃の自分を襲った悲劇も全て話す覚悟ができていた。いや、そうしなければならない段階に来てしまったと悟った。
それでもトンチャンは、ヒャンユンを抱き締めた。一年分の愛しさを、ゆっくりと与えるように。
「何を………」
「どんなことになろうとも、俺はお前が好きだよ。やっと会えた、俺のヒャンユン。」
全て捨てて、逃げることができればいいのに。ヒャンユンは静かに目を閉じ、ほんの少しだけ彼の腕の中に身を委ねた。懐かしい暖かさが広がっていく。帰りたい場所。どこにもない、ここにしかない場所。ずっと恋い焦がれていた許されない場所。刹那の時間でも戻れたことに、ヒャンユンは図らすとも喜びを感じるのだった。
ヒャンユンが素素樓に運ばれたと知り、やって来たソノは部屋の前で呆然と立ち尽くしていた。部屋からはトンチャンの声が漏れてくる。
「ヒャンユン……愛してる……もう、離さない。」
それは、ソノがこの一年間ずっとヒャンユンに言いたかった言葉だった。彼はその場の様子に耐えられなくなり、庭に出た。すると、夜明けと共に蝶が飛んできた。蝶はソノには目もくれず、目の前をゆっくりと通りすぎていく。
「蝶 ……か。文字通り、私の側には止まらずに飛び去ってしまうのだな……」
永遠に、決して、止まることはない。羽を休めることさえ、望むことはできない。彼は哭いた。声を殺して、静かに哭いた。これが最初で最後の、体探人が流した涙だった。
翌日、トンチャンは仕事を終えると、ヒャンユンの部下たちが来ることを待ちわびていた。
どんな真実があろうが、何ともねぇよ。お前が生きていた。それだけで幸せだ。
この一年間がどれ程、長くて死んだような日々だったかがよくわかる。自分は今を生きている、そう思えるのだ。
そんな風に喜びを必死に隠していると、不意に背後の気配を感じ、彼は振り向いた。そして、意識がそこで途切れた。
ヒャンユンは昔使っていたペッシテンギをつけ、髪飾りを差した。だがその手にはチマチョゴリ姿には似合わない剣が握られている。ソノはヒャンユンの隣に行くと、淡々と切り出した。
「………正体を、知られたですか?」
「…………はい。団員たちを守るために、私があの人を手にかけることが最善だと、カン様もご存じでは?」
「お嬢様………」
ヒャンユン、と呼ぼうとしてソノは踏みとどまった。自分はその名を口に出すことは許されない。その名は───捨てられたはずのその名を呼ぶことが許されているのは、自分でなくシン・ドンチャンなのだ。急に理不尽に思えて、ソノはヒャンユンの腕を掴んだ。突然のことで、彼女は目を丸くして驚いている。
「止めてもいい。あなたがそれで楽になれるのなら。けれど、どちらを選んでも苦しいのなら…………私があなたの最後の選択肢になりましょう。」
その言葉に、ソノの全てが込められていた。ヒャンユンもその真意に勘づき、動揺を隠せずにいる。
「カン………様………?」
「すみませんでした。このような……卑怯なこと。私は確かに、心のどこかであの男の死を願いました。ですが、あなたがそれを選んではならない。そのようなことは、既に血にまみれているこの手がすべきなのです。」
ソノは身を切るような思いで、言葉を必死に選んで絞り出した。。
「私は────あなたの手をこれ以上血で汚したくはない。あなたをファン・ナビにしたその日から、ずっとそのことが私の悩みでした。」
「どうして……私は、決意してこの道を選んだのです。いつかは、お慕いする方を手にかける日が来るとわかっていながら、この道を選んだのですよ?」
「それでも!あなたにこのようなことはさせられません。いいえ、ならないのです。あなたが剣を取った、本当の意味は何だったのですか?あなたはいつのことか、私にこう言いました。」
珍しく声を荒げるソノに驚いたヒャンユンは、言葉を失っている。
「戻りたい場所があるのだと。守りたい人がいるのだと。だから剣を取ったのだと!それは私のことではない!だからわかるのです!あなたが今からしようとしていることは、その真意に反するものなのだと!」
カン様は………私を……?
ヒャンユンは当惑した。ずっと師匠、そして兄のようにして仰いできた人が、自分を心の底から守り慕っていた。そのことの方が驚きだった。だからこそ、本当に自分のためを思ってトンチャンを殺してはいけないと、現実的側面から反してでも主張するのだ。そんなソノの苦しみをわかっているからこそ、ヒャンユンは腕を掴んでいる手に優しく、自分の手を添えて微笑みかけた。その笑顔は、長年引き裂かれていた恋人と再会できた人のものとは思えないほどに、とても哀しそうだった。
「────だから、私が全てを終わらせなければならないんです。私が、手を下すんです。誰にも頼ることは許されません。これはけじめです。」
ヒャンユンは力なく手を離したソノに背を向け、毅然とどこ吹く風のように言った。
「もしけじめを付けられなければ───その時は、私が責任を取ります。」
「お嬢様………?」
そして、ヒャンユンはソノを残してトンチャンの元へ向かった。彼は悲壮さ漂うその背中に、ようやく全てを悟った。
────ヒャンユンは、トンチャンを手にかけるのではなく……まさか……………
「そんな…………」
ソノはやや間があってから走り出した。しかし、すぐにヒャンユンを見失ってしまった。もちろん、彼女はソノが追ってきていることを知っていたため、彼を意図的にまいたのだ。
────ここからは、私一人がやらねばならない使命です。カン様、ジョンミョンお父様、ジェミョン大行首様、お許しを。私は今も昔も、弱いヒャンユンのままのようです。
ヒャンユンは夜空を仰ぐと、剣を握りしめてため息をついた。しかしそこには落胆はこもっておらず、ただ決意だけがそこにあった。
トンチャンは見知らぬ倉庫で目を覚ました。身体は椅子に縛り付けられている。どうみてもこれは拉致だ。彼は慌てて縄を解こうともがいたが、手の肉に縄がしっかり食い込んでびくともしない。
「いったい、どうなってんだ……」
彼が不安に怯えていると、倉庫の戸が開いた。ろくでもないことが始まると身構えていた彼だったが、その人物に拍子抜けしてしまった。
「────ヒャンユン………?」
「部下を送ると、言ったはずです。」
急に緊張感が抜け、脱力感が一気に彼を襲った。ヒャンユンは剣を置くと、ゆっくりトンチャンに近づいた。ふと、彼はその頭に髪飾りがついていることに気づき、微笑みを漏らした。
「………似合ってるよ、綺麗だ。」
「………あのときも、同じように褒めてくれました。とても、嬉しかった。」
「やっと素直になってくれたな」
────ええ。これが、最期だから。
ヒャンユンは順序立てて話すべきか、先に一年前に起きたことを話すべきかを考えた。そして、一年前の出来事から話そうと決意した。
「私は───手紙をお届けしたすぐあと、刺客に襲われました。」
「ミン・ドンジュと、チョン・ナンジョンの奥様が仕組んだことだろう?」
「え………?」
ヒャンユンは驚きのあまり、話の続きをするのも忘れてしまった。
「俺、お前が死んだと思えなくてな。裁きの時に大行首がお前を見たときにした反応を見て、調べようと思ったんだ。そして、真相にたどり着いた。」
「トンチャン…………」
「でも、理由は分からなかった。それに、お前がファン・ナビとして生きるはめになったことも、体探人顔負けの強さになったことも、だ。」
危険が伴う調査だったはずなのに、トンチャンは調べてくれたのか。ヒャンユンの心の中にまた、じわりと暖かさが忍び込んできた。ああ、そうだ。これが愛だった。彼女はそれに押し流されないように目を閉じると、ついに核心に触れ始めた。
「私が、チョン・ナンジョンに命を狙われたのは二度目です。」
「え?二度?」
「一度目は、僅か四歳の時でした。そのとき、目の前で母を失い、人生が変わりました。」
何を言っているんだ。トンチャンはいったい何処に話が向かっていくのかが全く見えず、首を傾げた。
「私は………イ・ジョンミョン───今の大尹派主座であり、兵曹判書を務めるあの方の正妻であるカン氏の娘でした。」
「なん………だと………?」
「父を含めた大尹派が無実の罪で捕らえられていたとき、母は無罪を主張する決定的な証拠を持っていました。それ故に母は、兄を誰かに託し、私の目の前で………殺されたのです。」
驚きで開いた口がふさがらないトンチャンをよそに、ヒャンユンは続けた。
「私もチョン・ナンジョンが仕掛けた刺客に斬られ、瀕死の重傷を負いました。……そこに駆けつけたのが父の親友であり、私を託そうと呼んでいたコン・ジェミョン大行首様だったのです。母を目の前で亡くし、生死をさ迷った私は、実の家族に関する全ての記憶を失ってしまいました。そして、目が覚めたときに甲斐甲斐しく看病をしてくれた大行首様を、実父だと思い込んでしまって育ったんです。」
「そんな…………じゃあ……お前は………」
「はい。私はコン・ヒャンユンではなく、そもそもイ・ヒャンユンだったのです。」
ヒャンユンの瞳が潤んでいることに気づいたトンチャンは、縄に縛り付けられていることも忘れて手を伸ばそうとした。だが、すぐに両手の自由を奪われていることを思い出して諦める。
「そして十六歳になったあの日、義州の叔母ではなく………私を幼い頃から、実父の元で育ててくれた乳母のところから帰ってきた私が出会ったのが、あなたでした。」
髪飾りに手を当てながら、ヒャンユンは力なく微笑んだ。
「何も知らない私は、あなたに一瞬で心を奪われてしまいました。大行首様が反対する理由もわからず、時には酷いことも言いました。ですが、あの商団がチョン・ナンジョン商団の傘下に入ったあの日、私はようやく全てを父から聞きました。そして、納得しました。」
トンチャンは、その続きに続く言葉を知っていたため、塞げる手が自由なら塞ぎたいと切に願った。あるいは、何も言わないでほしいと思った。けれど、ヒャンユンは言った。身を切るような思いで、言った。
「私は………そもそも、身分違いの恋を…………両班である私は………決して結ばれないあなたに………想いを寄せてしまっていたのです。大行首様はもっと早くに言うべきだったと、酷く後悔していました。私は悩みました。遅かれ早かれ、大尹派を呼び戻す風潮が高まる状況が続いていたため、私の身分はいつか明らかになってしまう。誰かの口から知らされるのは嫌でした。でも、あなたに言うこともできなかった。」
ヒャンユンの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「あなたを、苦しめることになるから。あなたは、チョン・ナンジョンの奥様の元で、私と生きる夢を叶えようとしていたから。あなたから、私には………共に生きる未来と、奥様の商団で仕える敏腕経理という座の両方を………奪えなかった。だから、何も言い返さなかった。でも………でも、やっぱり本当のことを言おうと、そう思ったの!だから……だから、私はあなたに手紙を託した。」
いつのまにか口調が、両班の令嬢イ・ヒャンユンから、トンチャンの知るコン・ヒャンユンに戻っていた。口調を飾る余裕も失ったヒャンユンは、トンチャンに背を向けて悲痛な声で告白した。
「託した………けど………あなたに真実を明かせぬまま、私は死んでしまった。コン・ヒャンユンとして生きていくことはもう、叶わなくなってしまった。だから、私は決めたの。ファン・ナビとして生きていくと。あなたの元へ戻れないとしても……あなたの生きる世界と同じ場所でもう一度生きられるように。」
ヒャンユンは剣を取ると、苦々しげな表情でそれを見つめた。
「………どうしても、これに頼るしかなかった。カン・ソノ様から訓練を受けて、一年間鍛練を積んだ。どんな手段も取れるように、舞も楽器も書画も習った。そして、黒蝶団の団長になったの。」
「ヒャンユン…………」
「でもその一年間、ずっと私が求めていたのは……復讐と身分回復なんかじゃなかったの。私が求めていたのは………トンチャン、あなただった。ずっと、今この瞬間もあなたの傍に居たいって、心が叫んでるの。」
ヒャンユンはそう言うと、剣を抜いてトンチャンに突きつけた。
「だから、今その連鎖を断ち切る。」
トンチャンは目を閉じた。その瞳から、涙が一筋落ちる。
「斬れ。俺が邪魔なら、斬れ。そして、お前の道を行け。それが俺に出来る唯一の手助けなら、俺は甘んじて受け入れる。」
ヒャンユンはそれを聞いて、柄を握る手に力を込めた。そして、剣が振り下ろされた。
剣が、鋭い音を立てて布を切り裂いた。トンチャンは身体が自由になる感覚を覚え、息苦しさから解放されたのを感じた。
ああ、死ぬのはこういう気分なのか。そう思った。だが、剣が切り裂いたのはトンチャンの服ではなかった。剣が断ち切ったのは二人の因縁ではなく、トンチャンを縛っていた縄だった。
「え………?」
「私には…………やっぱり…………出来ない。弱いヒャンユンは死んだと思ってた。あなたを慕うヒャンユンはこの手で殺したと思ってた。でもあなたを見るだけでときめいて、傍にいるだけで苦しくて、声を聞くだけで頬を赤く染める私は……生きていた。だから、今日聞いた話を理解できたなら、面倒なことに巻き込まれる前に私を忘れて。どうせ結ばれない私を待つのはもう、やめて。私は、あなたがこの一年間ずっと想ってくれていた。それだけで嬉し────」
「馬鹿野郎。」
突然、トンチャンが立ち上がった。見上げなければならない程に、背が高かった。彼はヒャンユンの手から剣を奪って部屋の隅に放り投げると、そのまま抱き締めた。
「馬鹿野郎。お前のことを忘れるかどうかなんて、俺が決めることだろうが。なんでお前に決められなきゃならねぇんだよ」
「ト、トンチャン………私は……」
「俺はな。お前と結ばれるとかいう以前の問題で、生きていてくれたことが、どうしようもなく嬉しいんだよ。どうしようもなく………お前が愛しいんだよ」
彼は力強く壁にヒャンユンを押し付けると、両腕を掴んだまま口づけした。会えなかった一年間を満たすような、強い口づけだった。
「………お前が、好きだ。ずっと、会いたかった。もう、離さない。」
「トンチャン…………」
二人は見つめ合うと、互いの中に何一つ変わっていない部分に気づいた。
「………あの日と、同じ。同じ目をしてる。あなたは、とても深い目をしてる。」
「………お前は今も無邪気で優しい、ヒャンユンのままだよ。俺にはわかる。だから、ファン・ナビも俺の目を誤魔化せなかった。」
ヒャンユンは一年前と同じ笑顔を向けると、はにかみながらこう言った。
「……その服、ぴったりでしょ?」
「ああ。お前が作ってくれた服は、着心地がいい。」
トンチャンはずっと言いたかったことを言おうと思い立ち、咳払いをした。
「その………済まなかった。許してほしい。俺が……お前がどれだけ辛いことを背負ってるかも知らずに、酷いことを言ったこと。」
「いいのよ。言わなかった私が悪いの。」
二人は笑い合うと、もう一度唇を重ねようとした。だが、その前にギョムが飛び込んできた。
「団長、大変です。」
「な、何事。」
二人は慌てて離れたため、ギョムは気づいていない。それよりも切迫した状況が起きているらしい。
「団長。こちらにミン・ドンジュの手の者が来ているそうです。恐らく、この男を捕らえたことを悟られたのでは……」
トンチャンはそれを聞いて、ヒャンユンに剣を持たせてこう言った。
「逃げろ。おい、てめぇ。この方を連れて逃げろ。奴等は俺がなんとかする。」
「でも、それじゃあなたが疑われてしまうわ」
「いいから!」
ギョムに押し付けるようにしてヒャンユンを行かせると、トンチャンは塀の方まで彼女を見送った。
昔は、俺も一緒に行けたのに。トンチャンは目を細めながら、初めて会った日に塀を一緒に越えたことを思い出していた。ヒャンユンも同じことを思ったのか、塀の上から手を伸ばしてこう言った。
「私は、生き延びてみせる。だから、あなたも約束して。死んだりしないって。」
「ああ。当たり前だ。」
視線が重なる。そして、二人の指先が触れ合った。だがトンチャンは目で逃げるよう、ヒャンユンに訴えた。
「…………生きて。シン・ドンチャン」
ヒャンユンは自ら手をひっこめ、塀を降りるとそのまま闇夜に消えていった。残されたトンチャンは命からがら逃げてきたふりをするために、部下たちのもとへ駆け出した。
今度はもう、自分の本当に大切な人のことを見失わない。そんな決意を燃やしながら。
─────てめぇが、ヒャンユンを殺そうとしたのか……許せねぇ。覚悟しとけ。
だがそんな憎悪を知るわけもなく、ドンジュはトンチャンにこう言った。
「今日、黒蝶団が我々が倉庫に運び込もうとしている荷を襲うらしい。そこで、先回りして団長を捕らえて欲しいのだ。奴等はまだ気づいていない。これが最初で最後の機会やもしれぬ。必ず成し遂げよ」
「はい、大行首様」
トンチャンは一礼すると、剣を持って一同に指示を始めた。
「団長は殺すな。生きたまま連れてこい。ぬかるんじゃねぇぞ、てめぇら!」
「はい、兄貴!」
いつもならチョンドンたちが居るのだが、今日はオクニョに用があり、商団には居なかった。また、ドンジュの計らいで信用の出来る者以外は全員返されていたため、団員も居なかった。
─────黒蝶団め。絶対化けの皮を剥いでやる。
トンチャンは鞘を握りしめると、しっかりとした足取りで歩きだした。その団長の正体が、ファン・ナビ───ヒャンユンであることも知らず。
ヒャンユンたちは、順調に荷を奪うべく配置についていた。屋根の方には射手を準備し、万事滞りなく進んでいた。
だが、突如団員たちの間に戦慄が走った。行く手を阻むように、男たちが現れたからだ。ヒャンユンを含め、全員覆面をしているが、その目からは動揺が感じ取られた。
「かかれ!」
「奇襲だ!備えろ!」
ヒャンユンは剣を抜くと、斬りかかってくる曰牌を倒しながら叫んだ。その様子を見て、トンチャンが指示を出す。
「あの髪の長くて小柄なやつが団長だ!」
────初めから私が狙いとは………
ヒャンユンはため息をつくと、団員たちの方を振り返ってこう言った。
「私を守るな。奴等は初めから私を捕らえるために奇襲をかけている。退路は自分達のために死守しろ!」
「ですが、団長!」
ヨンソンが止めようとした瞬間、ヒャンユンの注意は別の方向に向けられた。
「逃がさねぇぜ、団長!」
トンチャンが斬りかかってきたのだ。身のこなしは荒いが、力は強いため、ヒャンユンは不意を突かれて弾き飛ばされた。
「くっ…………」
「意外と弱いな。力で圧しきられたら駄目なタチなのか?」
ここで引き下がってはいけない。彼に捕らえられれば、他の団員たちを危険に晒すことになってしまう。つまり、トンチャンと命懸けの一騎討ちをしてでも、捕らえられることだけは避けねばならないのだ。
ヒャンユンは立ち上がった勢いでトンチャンの腹に蹴りを入れ、一気に攻めに入った。体探人とまではいかないが、カン・ソノに仕込まれた剣術は、オクニョを救ったときと同様にトンチャンを圧倒させ始めた。
その様子を見ていたヨンソンは、ギョムにこう言った。
「団長の危機を、カン様に知らせろ。早く!」
「ああ、わかった!」
ギョムは必死で退路を引き開き、ソノの元へ駆け込んだ。すぐに緊急事態が起きていることを悟った彼は、剣を持って覆面をすると、大急ぎでギョムの後を追った。
心の中では、ただ一途にヒャンユンの無事を祈りながら。
ソノが辿り着いた時には、曰牌たちの人数は減っていたが、相変わらずヒャンユンとトンチャンが対峙して刃を向けあっていた。
「カン様、あの男を射るように指示しました」
「何!?あの男を!?」
ソノは射手の場所を目で探した。死んでくれてもいい男だが、ヒャンユンが悲しむ。恋敵なのに、何故かそう思った。矢をつがえる団員を発見し、ソノは慌てて屋根を登り始めた。だが、こんなときに限って足が滑る。
────早くしなければ。早く!
そして彼が団員の傍に辿り着き、制止しようとしたときだった。
矢が手から離され、一直線にトンチャンの胸に飛んでいく。あの場所に刺されば助からないだろう。
言わなければ。避けろと。生きろと。目の前で剣を交えているその人は─────
ヒャンユンは依然とあきらめないトンチャンに、どうすべきか迷い始めていた。このまま行けば、彼を殺す以外に方法が無くなってしまう。何か策を考えなければ。そう思って辺りを見回したヒャンユンの視界に、今にも飛んできそうな勢いで引かれている弓が飛び込んできた。しかもその切っ先はトンチャンに向けられている。彼はまだ気づいていない。
止めなければ。声を出して弓を引くなと言わなければ。
ヒャンユンが叫ぼうとしたその刹那、弓が放たれた。自分とトンチャンの居る場所はそう離れてはいない。突き飛ばすか?いや、あんな巨体を倒す自信はない。そしてヒャンユンは矢が放たれた方向に足を向け、自らの身体を差し出した────
鈍い音がして弓が深々と刺さる。痛い。ヒャンユンは素直にそう思った。そして、分かってはいるが疑わしげに右肩を見た。
矢は、間違いなく胸元の少し上に刺さっている。血が滲んでいた。ソノは自分の立場も忘れ、団長を射ってしまい呆然としている男の胸ぐらを掴んだ。
「何をしている!!!誰を射ったのか、わかっているんだろうな!?」
「俺はちゃんとあの男に狙いを定めました!団長が動いたんです!俺が的を外さないことを、カン様もご存じでしょう!?」
「そんな………ヒャンユン………!」
自分の命と無念、そして復讐の機会と引き換えにトンチャンを庇ったというのか。ソノには到底信じられなかった。
それは目の前に居るトンチャンも同じだった。
「お前………確かに今………」
────俺を、庇った?
射手は一切用意していない。だとすれば、状況推測で黒蝶団員が団長を守るために自分に矢を放ったとしか考えられない。邪魔者の息の根を確実に止められる絶好の機会なのに、何故庇ったのか。トンチャンの頭の中は混乱した。
ヒャンユンは傷口を押さえながら、茫然とするトンチャンから逃れ、残りの曰牌たちを蹴散らした。意識が薄れていくのがわかる。あのとき───十数年前のときと同じだった。斬られた傷から血が吹き出し、全てが真っ白に染まっていくあの感覚。つまり、死が近いことをヒャンユンに教えていた。
物陰に隠れたヒャンユンは、痛みを堪えて壁にもたれかかるようにして座り込んだ。座った衝撃すらも痛みに変わる。彼女は激痛に喘ぎながら、月を見上げた。またあの日と同じ、夜空を引っ掻いたような三日月だった。
「ここで…………死ぬ………の………ね………」
だが、不思議と悔いはなかった。今まで大切な人に先立たれて、理不尽で、そして数奇な運命を辿ったがために残ってきたこの命を、世界で一番大切な人のために使えるのだから。
だが、強いて一つ心残りを挙げるとするならば。ヒャンユンは力なく微笑んだ。
「あの人の……腕の……中に………帰れ……なかった………こと………」
月明かりが、覆面をしたままのヒャンユンの横顔を照らす。そして、傷口を押さえていた手も力なく地面に落ちた。呼吸が次第に浅くなり始め、痛みが意識と共に遠退いていく。溢れだす血が腕を伝って滴り落ちてくるが、もう何も感じなかった。
そしてヒャンユンは、目を閉じた。
トンチャンは部下を残して、団長を探していた。血痕を辿り、ようやく見つけたときには既に虫の息だった。彼は団長の目の前に膝をつくと、恐る恐る覆面に手を伸ばした。そして、その手が覆面を引き剥がす。
「なっ…………………」
トンチャンは絶句した。月明かりに浮かび上がる、美麗なその横顔が間違いなくファン・ナビのものだったからだ。
「一体、どうなってるんだ………?」
黒蝶団の団長が、ファン・ナビ………?
彼が仲間を呼ぼうとしたときだった。微かにナビの口許が動いた。
「─────ん………………」
今、助ければ間に合うかもしれない。気がつけば、トンチャンの体は考えるよりも先に動いていた。ナビを担ぎ上げたトンチャンは、人目を避けながら素素樓へ向かっていた。ただ、ヒャンユンに似ている人が死ぬ所をみたくない。そんな理由からの行動だった。
素素樓の裏口を叩くと、ソジョンが出てきた。
「何事………ナ、ナビさん!?」
「どうしたの、ソジョン。」
驚きを隠せないソジョンの声を聞き付けてやって来たキョハも、傷の深さに目を丸くしている。トンチャンはそんな二人を怒鳴り付けた。
「お前らぼーっとしてないで、医者を呼べ!早く!」
「は、はい!」
キョハは執事に医者を呼ぶよう指示すると、空き部屋に大慌てで布団を敷くようにソジョンたちに頼んだ。その様子を見ていたマノクは、トンチャンがヒャンユンを助けたことに対して、開いた口が塞がらない思いになった。
「おい、ナビ。しっかりしろ。医者を呼んだからな。」
「出血が酷すぎる。このままでは…」
マノクはその会話を聞いて、トンチャンにすべてを話すべきなのではと思い、声をかけようとした。だが、ヒャンユンの固い決意を思い出すと、どうしても踏み出せない。
トンチャンの呼び掛けも虚しく、ヒャンユンは昏睡状態に陥った。ソジョンは他の妓生たちに、部屋から布を取ってくるように頼んだ。するとトンチャンが立ち上がり、自分が行くと言った。
彼は廊下を歩くと何も考えず、とある部屋に入った。
「どこだ………」
そこは、ヒャンユンの部屋だった。トンチャンはあるはずもない布を探しながら、机の引き出しにまでやって来た。そして、立ち上がるときに腕で天板を押し上げてしまった。勢いよく開いた天板が、音を立てて閉まる。気になったトンチャンは、好奇心で再びそれを押し上げた。そして、ついに見てしまった。
「これは………………?」
そこにあったのは、間違いなくヒャンユンの髪飾りだった。見間違えるはずはない。ほとんどすべての思い出の中にあるものだ。更に彼は、自分の肖像画に震える手を伸ばした。
「そんな…………そんな………馬鹿な………」
肖像画の端には綺麗な文字で『私の愛する人、トンチャン』と書いてある。何が起きているのか、頭の中が真っ白になっていく。いつまで経っても帰ってこないトンチャンを心配して、ソジョンが捜しに行くと、ヒャンユンの部屋の前で嫌な予感がした。
─────まさか……!
「いけません!その部屋には…………」
ソジョンが部屋に飛び込んだ瞬間、逆にトンチャンが彼女の腕を掴んだ。
「答えろ!あいつは誰なんだ!ファン・ナビは誰なんだ!?」
「ナビさんは…………答えられません」
ソジョンの返事は、答えを暗に示唆していた。足元をふらつかせ、トンチャンは床に手をついて崩れ落ちた。
「ヒャンユン……………俺の側に………ずっと居たのか………?」
だとすればあのとき、彼女はどれ程胸を痛めたのだろうか。
『ヒャンユン!』
『…………何事ですか』
『ヒャンユン!生きていたのか?俺がどれだけ……』
『………人違いです。失礼します』
『えっ…………そ、そんなはずは──』
あのとき、返事に僅かな間があった。そのときにきっと、戸惑ったはずだ。まだ思い続けている自分と、対立する定めにある自分との間で。
『あなたのような顔の人、一度見れば忘れぬでしょう?』
『ああ。格好いい───』
『典型的な三枚目顔ですね』
憎まれ口をすぐに叩いたのも、全て嘘だったのか。心の底から湧き出る思慕の念を隠すために、棘々しい言葉の数々をわざと吐いて、自分を遠ざけようとしていたのか。
トンチャンは自責の念で一杯になった。ヒャンユンはチョングムに贈り物をしている姿を見て、どれ程傷ついただろうか。自分が忘れられていくという恐怖に、どれ程眠れぬ夜を過ごしたことだろうか。それなのに、なのに────
「あいつは………俺を………庇って……庇って怪我をしたんだ。」
「そうなんですか………?」
「俺のせいなんだ!俺が守れなかったから、一年前にあいつを失った。そして今、俺は今度こそ本当にあいつを………あいつを失うことに……………」
髪飾りを握りしめたトンチャンは、ナビ───ヒャンユンが眠っている部屋へと走り出した。その姿を見てキョハもマノクも、全てを彼が知ったことを悟った。
部屋に飛び込んだトンチャンは、治療を終えても尚意識が戻らないヒャンユンを抱き締めた。
「ヒャンユン……………ヒャンユン…………俺だよ……トンチャンだよ…………お前を一年経った今もまだ愛してる、馬鹿なトンチャンだよ………」
そして、彼は泣き叫んだ。
「お前はここで死ぬんじゃない!俺がいるから……側に、側に居るから!もう離れないから!ごめん………ごめん………許してくれ………俺は…………お前を守れなかった……ずっと謝りたかった。だから……だからまだ………まだ死なないでくれ………ずっと、勝手で……ごめん……」
話を聞き付けたテウォンもその場にやって来た。トンチャンは彼を上目で見ると、こう尋ねた。
「………知って、いたのか?」
「……ああ。どうしても……言うなと、強く口止めされていたんだ。コン・ジェミョン大行首も知らない。」
「良かった………良かった………生きててくれて、良かった……ヒャンユン…………俺の………俺のヒャンユン……」
逆上されると思って構えていたテウォンは、意外にも穏やかなトンチャンに驚いた。そして、静かにその場を離れるのだった。
それから数時間後、驚異の回復力でヒャンユンは目を覚ました。朦朧とする意識を何とか保ちながら、彼女は部屋を見渡した。トンチャンを見つけると同時に疑問で頭の中がまず満たされたが、その視線が彼の手の中に髪飾りを見つけた瞬間、驚愕と恐れに変わった。
「お前は……」
トンチャンの唇が、ゆっくりと次の言葉を作ろうと形作られていく。
────ああ、駄目。言っては駄目。その続きに、気づいては駄目よ、駄目よ、トンチャン!
だが、彼は涙を両目に湛えながらその続きを言った。
「─────ヒャンユンだったん……だな」
感無量になっているトンチャンが、ゆっくりと近づいてくる。ヒャンユンは咄嗟に彼の手から髪飾りを奪い取ると、その切っ先を首に向けて馬乗りになった。
「知ったのなら、死んでもらう。」
「ああ…………今ならいくらでも死ねるよ。でも………」
次の瞬間、形勢が逆転した。腕力の弱いヒャンユンが、逆にトンチャンに押し倒されたのだ。
「なっ…………」
「会いたかったよ、ヒャンユン。ずっと………お前だけを、想ってた」
その言葉は、本心からのものに間違いなかった。ヒャンユンの目から、涙が一筋落ちる。トンチャンに至っては涙で滅茶苦茶になっていて、もはや見ていられない。
「…………あなたが聞いたのは、ほんの一部分だけ。真相を……知りたいのならば、明日そちらに部下を送る。そこで、全て終わらせましょう。私と貴方、ファン・ナビとコン・ヒャンユンを含めて」
「ヒャンユン………」
「だから………喜ばないで。元の関係には、決して戻れないと……わかるはずだから」
ヒャンユンの心の中には、幼い頃の自分を襲った悲劇も全て話す覚悟ができていた。いや、そうしなければならない段階に来てしまったと悟った。
それでもトンチャンは、ヒャンユンを抱き締めた。一年分の愛しさを、ゆっくりと与えるように。
「何を………」
「どんなことになろうとも、俺はお前が好きだよ。やっと会えた、俺のヒャンユン。」
全て捨てて、逃げることができればいいのに。ヒャンユンは静かに目を閉じ、ほんの少しだけ彼の腕の中に身を委ねた。懐かしい暖かさが広がっていく。帰りたい場所。どこにもない、ここにしかない場所。ずっと恋い焦がれていた許されない場所。刹那の時間でも戻れたことに、ヒャンユンは図らすとも喜びを感じるのだった。
ヒャンユンが素素樓に運ばれたと知り、やって来たソノは部屋の前で呆然と立ち尽くしていた。部屋からはトンチャンの声が漏れてくる。
「ヒャンユン……愛してる……もう、離さない。」
それは、ソノがこの一年間ずっとヒャンユンに言いたかった言葉だった。彼はその場の様子に耐えられなくなり、庭に出た。すると、夜明けと共に蝶が飛んできた。蝶はソノには目もくれず、目の前をゆっくりと通りすぎていく。
「
永遠に、決して、止まることはない。羽を休めることさえ、望むことはできない。彼は哭いた。声を殺して、静かに哭いた。これが最初で最後の、体探人が流した涙だった。
翌日、トンチャンは仕事を終えると、ヒャンユンの部下たちが来ることを待ちわびていた。
どんな真実があろうが、何ともねぇよ。お前が生きていた。それだけで幸せだ。
この一年間がどれ程、長くて死んだような日々だったかがよくわかる。自分は今を生きている、そう思えるのだ。
そんな風に喜びを必死に隠していると、不意に背後の気配を感じ、彼は振り向いた。そして、意識がそこで途切れた。
ヒャンユンは昔使っていたペッシテンギをつけ、髪飾りを差した。だがその手にはチマチョゴリ姿には似合わない剣が握られている。ソノはヒャンユンの隣に行くと、淡々と切り出した。
「………正体を、知られたですか?」
「…………はい。団員たちを守るために、私があの人を手にかけることが最善だと、カン様もご存じでは?」
「お嬢様………」
ヒャンユン、と呼ぼうとしてソノは踏みとどまった。自分はその名を口に出すことは許されない。その名は───捨てられたはずのその名を呼ぶことが許されているのは、自分でなくシン・ドンチャンなのだ。急に理不尽に思えて、ソノはヒャンユンの腕を掴んだ。突然のことで、彼女は目を丸くして驚いている。
「止めてもいい。あなたがそれで楽になれるのなら。けれど、どちらを選んでも苦しいのなら…………私があなたの最後の選択肢になりましょう。」
その言葉に、ソノの全てが込められていた。ヒャンユンもその真意に勘づき、動揺を隠せずにいる。
「カン………様………?」
「すみませんでした。このような……卑怯なこと。私は確かに、心のどこかであの男の死を願いました。ですが、あなたがそれを選んではならない。そのようなことは、既に血にまみれているこの手がすべきなのです。」
ソノは身を切るような思いで、言葉を必死に選んで絞り出した。。
「私は────あなたの手をこれ以上血で汚したくはない。あなたをファン・ナビにしたその日から、ずっとそのことが私の悩みでした。」
「どうして……私は、決意してこの道を選んだのです。いつかは、お慕いする方を手にかける日が来るとわかっていながら、この道を選んだのですよ?」
「それでも!あなたにこのようなことはさせられません。いいえ、ならないのです。あなたが剣を取った、本当の意味は何だったのですか?あなたはいつのことか、私にこう言いました。」
珍しく声を荒げるソノに驚いたヒャンユンは、言葉を失っている。
「戻りたい場所があるのだと。守りたい人がいるのだと。だから剣を取ったのだと!それは私のことではない!だからわかるのです!あなたが今からしようとしていることは、その真意に反するものなのだと!」
カン様は………私を……?
ヒャンユンは当惑した。ずっと師匠、そして兄のようにして仰いできた人が、自分を心の底から守り慕っていた。そのことの方が驚きだった。だからこそ、本当に自分のためを思ってトンチャンを殺してはいけないと、現実的側面から反してでも主張するのだ。そんなソノの苦しみをわかっているからこそ、ヒャンユンは腕を掴んでいる手に優しく、自分の手を添えて微笑みかけた。その笑顔は、長年引き裂かれていた恋人と再会できた人のものとは思えないほどに、とても哀しそうだった。
「────だから、私が全てを終わらせなければならないんです。私が、手を下すんです。誰にも頼ることは許されません。これはけじめです。」
ヒャンユンは力なく手を離したソノに背を向け、毅然とどこ吹く風のように言った。
「もしけじめを付けられなければ───その時は、私が責任を取ります。」
「お嬢様………?」
そして、ヒャンユンはソノを残してトンチャンの元へ向かった。彼は悲壮さ漂うその背中に、ようやく全てを悟った。
────ヒャンユンは、トンチャンを手にかけるのではなく……まさか……………
「そんな…………」
ソノはやや間があってから走り出した。しかし、すぐにヒャンユンを見失ってしまった。もちろん、彼女はソノが追ってきていることを知っていたため、彼を意図的にまいたのだ。
────ここからは、私一人がやらねばならない使命です。カン様、ジョンミョンお父様、ジェミョン大行首様、お許しを。私は今も昔も、弱いヒャンユンのままのようです。
ヒャンユンは夜空を仰ぐと、剣を握りしめてため息をついた。しかしそこには落胆はこもっておらず、ただ決意だけがそこにあった。
トンチャンは見知らぬ倉庫で目を覚ました。身体は椅子に縛り付けられている。どうみてもこれは拉致だ。彼は慌てて縄を解こうともがいたが、手の肉に縄がしっかり食い込んでびくともしない。
「いったい、どうなってんだ……」
彼が不安に怯えていると、倉庫の戸が開いた。ろくでもないことが始まると身構えていた彼だったが、その人物に拍子抜けしてしまった。
「────ヒャンユン………?」
「部下を送ると、言ったはずです。」
急に緊張感が抜け、脱力感が一気に彼を襲った。ヒャンユンは剣を置くと、ゆっくりトンチャンに近づいた。ふと、彼はその頭に髪飾りがついていることに気づき、微笑みを漏らした。
「………似合ってるよ、綺麗だ。」
「………あのときも、同じように褒めてくれました。とても、嬉しかった。」
「やっと素直になってくれたな」
────ええ。これが、最期だから。
ヒャンユンは順序立てて話すべきか、先に一年前に起きたことを話すべきかを考えた。そして、一年前の出来事から話そうと決意した。
「私は───手紙をお届けしたすぐあと、刺客に襲われました。」
「ミン・ドンジュと、チョン・ナンジョンの奥様が仕組んだことだろう?」
「え………?」
ヒャンユンは驚きのあまり、話の続きをするのも忘れてしまった。
「俺、お前が死んだと思えなくてな。裁きの時に大行首がお前を見たときにした反応を見て、調べようと思ったんだ。そして、真相にたどり着いた。」
「トンチャン…………」
「でも、理由は分からなかった。それに、お前がファン・ナビとして生きるはめになったことも、体探人顔負けの強さになったことも、だ。」
危険が伴う調査だったはずなのに、トンチャンは調べてくれたのか。ヒャンユンの心の中にまた、じわりと暖かさが忍び込んできた。ああ、そうだ。これが愛だった。彼女はそれに押し流されないように目を閉じると、ついに核心に触れ始めた。
「私が、チョン・ナンジョンに命を狙われたのは二度目です。」
「え?二度?」
「一度目は、僅か四歳の時でした。そのとき、目の前で母を失い、人生が変わりました。」
何を言っているんだ。トンチャンはいったい何処に話が向かっていくのかが全く見えず、首を傾げた。
「私は………イ・ジョンミョン───今の大尹派主座であり、兵曹判書を務めるあの方の正妻であるカン氏の娘でした。」
「なん………だと………?」
「父を含めた大尹派が無実の罪で捕らえられていたとき、母は無罪を主張する決定的な証拠を持っていました。それ故に母は、兄を誰かに託し、私の目の前で………殺されたのです。」
驚きで開いた口がふさがらないトンチャンをよそに、ヒャンユンは続けた。
「私もチョン・ナンジョンが仕掛けた刺客に斬られ、瀕死の重傷を負いました。……そこに駆けつけたのが父の親友であり、私を託そうと呼んでいたコン・ジェミョン大行首様だったのです。母を目の前で亡くし、生死をさ迷った私は、実の家族に関する全ての記憶を失ってしまいました。そして、目が覚めたときに甲斐甲斐しく看病をしてくれた大行首様を、実父だと思い込んでしまって育ったんです。」
「そんな…………じゃあ……お前は………」
「はい。私はコン・ヒャンユンではなく、そもそもイ・ヒャンユンだったのです。」
ヒャンユンの瞳が潤んでいることに気づいたトンチャンは、縄に縛り付けられていることも忘れて手を伸ばそうとした。だが、すぐに両手の自由を奪われていることを思い出して諦める。
「そして十六歳になったあの日、義州の叔母ではなく………私を幼い頃から、実父の元で育ててくれた乳母のところから帰ってきた私が出会ったのが、あなたでした。」
髪飾りに手を当てながら、ヒャンユンは力なく微笑んだ。
「何も知らない私は、あなたに一瞬で心を奪われてしまいました。大行首様が反対する理由もわからず、時には酷いことも言いました。ですが、あの商団がチョン・ナンジョン商団の傘下に入ったあの日、私はようやく全てを父から聞きました。そして、納得しました。」
トンチャンは、その続きに続く言葉を知っていたため、塞げる手が自由なら塞ぎたいと切に願った。あるいは、何も言わないでほしいと思った。けれど、ヒャンユンは言った。身を切るような思いで、言った。
「私は………そもそも、身分違いの恋を…………両班である私は………決して結ばれないあなたに………想いを寄せてしまっていたのです。大行首様はもっと早くに言うべきだったと、酷く後悔していました。私は悩みました。遅かれ早かれ、大尹派を呼び戻す風潮が高まる状況が続いていたため、私の身分はいつか明らかになってしまう。誰かの口から知らされるのは嫌でした。でも、あなたに言うこともできなかった。」
ヒャンユンの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「あなたを、苦しめることになるから。あなたは、チョン・ナンジョンの奥様の元で、私と生きる夢を叶えようとしていたから。あなたから、私には………共に生きる未来と、奥様の商団で仕える敏腕経理という座の両方を………奪えなかった。だから、何も言い返さなかった。でも………でも、やっぱり本当のことを言おうと、そう思ったの!だから……だから、私はあなたに手紙を託した。」
いつのまにか口調が、両班の令嬢イ・ヒャンユンから、トンチャンの知るコン・ヒャンユンに戻っていた。口調を飾る余裕も失ったヒャンユンは、トンチャンに背を向けて悲痛な声で告白した。
「託した………けど………あなたに真実を明かせぬまま、私は死んでしまった。コン・ヒャンユンとして生きていくことはもう、叶わなくなってしまった。だから、私は決めたの。ファン・ナビとして生きていくと。あなたの元へ戻れないとしても……あなたの生きる世界と同じ場所でもう一度生きられるように。」
ヒャンユンは剣を取ると、苦々しげな表情でそれを見つめた。
「………どうしても、これに頼るしかなかった。カン・ソノ様から訓練を受けて、一年間鍛練を積んだ。どんな手段も取れるように、舞も楽器も書画も習った。そして、黒蝶団の団長になったの。」
「ヒャンユン…………」
「でもその一年間、ずっと私が求めていたのは……復讐と身分回復なんかじゃなかったの。私が求めていたのは………トンチャン、あなただった。ずっと、今この瞬間もあなたの傍に居たいって、心が叫んでるの。」
ヒャンユンはそう言うと、剣を抜いてトンチャンに突きつけた。
「だから、今その連鎖を断ち切る。」
トンチャンは目を閉じた。その瞳から、涙が一筋落ちる。
「斬れ。俺が邪魔なら、斬れ。そして、お前の道を行け。それが俺に出来る唯一の手助けなら、俺は甘んじて受け入れる。」
ヒャンユンはそれを聞いて、柄を握る手に力を込めた。そして、剣が振り下ろされた。
剣が、鋭い音を立てて布を切り裂いた。トンチャンは身体が自由になる感覚を覚え、息苦しさから解放されたのを感じた。
ああ、死ぬのはこういう気分なのか。そう思った。だが、剣が切り裂いたのはトンチャンの服ではなかった。剣が断ち切ったのは二人の因縁ではなく、トンチャンを縛っていた縄だった。
「え………?」
「私には…………やっぱり…………出来ない。弱いヒャンユンは死んだと思ってた。あなたを慕うヒャンユンはこの手で殺したと思ってた。でもあなたを見るだけでときめいて、傍にいるだけで苦しくて、声を聞くだけで頬を赤く染める私は……生きていた。だから、今日聞いた話を理解できたなら、面倒なことに巻き込まれる前に私を忘れて。どうせ結ばれない私を待つのはもう、やめて。私は、あなたがこの一年間ずっと想ってくれていた。それだけで嬉し────」
「馬鹿野郎。」
突然、トンチャンが立ち上がった。見上げなければならない程に、背が高かった。彼はヒャンユンの手から剣を奪って部屋の隅に放り投げると、そのまま抱き締めた。
「馬鹿野郎。お前のことを忘れるかどうかなんて、俺が決めることだろうが。なんでお前に決められなきゃならねぇんだよ」
「ト、トンチャン………私は……」
「俺はな。お前と結ばれるとかいう以前の問題で、生きていてくれたことが、どうしようもなく嬉しいんだよ。どうしようもなく………お前が愛しいんだよ」
彼は力強く壁にヒャンユンを押し付けると、両腕を掴んだまま口づけした。会えなかった一年間を満たすような、強い口づけだった。
「………お前が、好きだ。ずっと、会いたかった。もう、離さない。」
「トンチャン…………」
二人は見つめ合うと、互いの中に何一つ変わっていない部分に気づいた。
「………あの日と、同じ。同じ目をしてる。あなたは、とても深い目をしてる。」
「………お前は今も無邪気で優しい、ヒャンユンのままだよ。俺にはわかる。だから、ファン・ナビも俺の目を誤魔化せなかった。」
ヒャンユンは一年前と同じ笑顔を向けると、はにかみながらこう言った。
「……その服、ぴったりでしょ?」
「ああ。お前が作ってくれた服は、着心地がいい。」
トンチャンはずっと言いたかったことを言おうと思い立ち、咳払いをした。
「その………済まなかった。許してほしい。俺が……お前がどれだけ辛いことを背負ってるかも知らずに、酷いことを言ったこと。」
「いいのよ。言わなかった私が悪いの。」
二人は笑い合うと、もう一度唇を重ねようとした。だが、その前にギョムが飛び込んできた。
「団長、大変です。」
「な、何事。」
二人は慌てて離れたため、ギョムは気づいていない。それよりも切迫した状況が起きているらしい。
「団長。こちらにミン・ドンジュの手の者が来ているそうです。恐らく、この男を捕らえたことを悟られたのでは……」
トンチャンはそれを聞いて、ヒャンユンに剣を持たせてこう言った。
「逃げろ。おい、てめぇ。この方を連れて逃げろ。奴等は俺がなんとかする。」
「でも、それじゃあなたが疑われてしまうわ」
「いいから!」
ギョムに押し付けるようにしてヒャンユンを行かせると、トンチャンは塀の方まで彼女を見送った。
昔は、俺も一緒に行けたのに。トンチャンは目を細めながら、初めて会った日に塀を一緒に越えたことを思い出していた。ヒャンユンも同じことを思ったのか、塀の上から手を伸ばしてこう言った。
「私は、生き延びてみせる。だから、あなたも約束して。死んだりしないって。」
「ああ。当たり前だ。」
視線が重なる。そして、二人の指先が触れ合った。だがトンチャンは目で逃げるよう、ヒャンユンに訴えた。
「…………生きて。シン・ドンチャン」
ヒャンユンは自ら手をひっこめ、塀を降りるとそのまま闇夜に消えていった。残されたトンチャンは命からがら逃げてきたふりをするために、部下たちのもとへ駆け出した。
今度はもう、自分の本当に大切な人のことを見失わない。そんな決意を燃やしながら。