4、真心の恋
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トンチャンは期待をすべて捨てて未の刻と指定しておきながらも、居てもたってもいられなくなり、早朝から起きて一番小綺麗な服を選んで髪まで洗って綺麗に結い直していた。だが、どう頑張っても鏡に映る冴えない顔立ちと容姿は変えられない。絶望的な見映えの自分を嘆くと、トンチャンは悲しくなってきて鏡を伏せた。
「あーあ。どうせコン・ジェミョン商団のお嬢様なんだから、ユン・テウォンひいきになってるに決まってる。世の中の女はみんなテウォンに恋するらしいからな」
口に出すのも腹立たしいテウォンという名を珍しく連呼したのは、ひとえにやり場のない怒りをぶつけたかったからだった。
そして、未の刻に差し掛かった。トンチャンはヒャンユンが待っていない可能性を考え、物陰から密かに待ち合わせ場所を覗き見した。
すると、一目で彼は約束が果たされたことを悟った。すぐ向こうに、誰かを探しているような素振りでしきりに辺りを見回している"蝶"の姿があった。
「嘘……だろ………?」
トンチャンは驚きのあまり物陰から出した頭を引っ込め、腰を抜かしてしゃがみこんでしまった。
ここに来たということはつまり、心の底から自分を想っているからだというわけになる。だが、そんな経験をしたことがなかったため、見間違いを疑った彼はもう一度ヒャンユンの姿を確認した。
─────いる!なんでだ!!
何故と言われても理由は一つしかないのだが、トンチャンはそれほどに驚いていた。そして動転した気を必死で静め立ち上がってから身なりを整えると、意を決してヒャンユンに近づいた。
「お……おう。」
「あっ、トンチャン!良かった、来てくれて。」
喜びのあまりトンチャンに駆け寄ったヒャンユンは、今気づいたと言わんばかりの振りをしている彼の動揺などお構いなしにその手を両手で取った。
「どう?これで私が本気だって実感してくれた?」
「あ……ああ。まぁ…」
「じゃあ、もう敬語もお嬢様も無しね!」
目の前で起きている出来事に対して狐につままれたような気分のトンチャンだったが、同じく酒場から見ていたウンスたちも目を白黒させていた。
「えっ?ねぇ、あれ、チルペ市場のトンチャンよね?」
「そう………みたいだな」
「じゃあ、お嬢様が仰ってたテウォンよりもずっと男前な男って……………」
「ありえない。絶対おかしい。うちの従妹は絶対おかしい。」
ウンスはテウォンとトンチャンを比べるなどありえないと言いたげに、不快感丸出しの表情を浮かべている。テウォンに至っては、もはやヒャンユンのことを新種の動物を見るかのような視線を送っている。
ふと、チャクトは今朝ヒャンユンをハネの麝香(じゃこう)の商品棚の前で見たことを思い出した。そして顔を真っ青にして叫んだ。
「まっ、まずい………!!」
「どうしました、チャクト兄貴」
「どうしたじゃない、トチ!お嬢様は麝香の匂袋を………」
それを聞いたトチも顔面蒼白になって箸を取り落とした。麝香は媚薬としての効果があり、女性が身に付ければ意中の男性を落とせることで知られていた。これはもちろん相手の男性に気があればあるほど効果が高まるもので、遠目であったが誰が見てもトンチャンがヒャンユンに強い好意を寄せていることは明白だった。
「えっ!?あんな自制心の欠片もないトンチャンに火をつけてどうするんですか………」
「これはまずい。まずいことになったぞ………」
ただでさえ荒っぽいことで知られているあのトンチャンのことだ。何をするかわかったものでないと言いたげな一同は、安易にジェミョンに相談するわけにもいかない、かといって手出しするのも危険という状況に置かれた。
そして数分後、見かねたチョンドンが横から口を出した。
「俺たちは何も見なかった。もう、それでいいじゃありませんか」
「でも!お嬢様に何かあったら………」
「大丈夫ですよ。ああ見えて、トンチャン兄貴は紳士です」
「いやでも………」
「わかりました!俺がつけておきますから、きちんと見ておきます」
その言葉を聞いて納得したのか、一同はそのまま何も見なかったかのように会話を始めた。そしてチョンドンが宣言通り後をつけようとヒャンユンたちを探すべく辺りを見回したときには、既に二人の姿は雑踏に溶け込んだ後だった。
祭りの活気で賑わう都の人々のお陰で然程目立たずにすんでいる二人は、周囲の目を気にせず見物を楽しんでいた。
「わぁ…………すごい、大道芸なんて久しぶり」
「見えるか?人混みがすごいからな」
「うん………見えない。」
小柄な背を必死に伸ばそうとしているヒャンユンに失笑すると、トンチャンは軽々とその腰を持ち上げて自分の腕に抱いた。
「わっ…………!!!」
「これで見えるか?」
「…………重くないの?」
「だから、お前は軽いって言ってるだろ。それよりしっかり捕まっとけ」
「……わかった。」
言われるがままにトンチャンの肩と首元に掴まったヒャンユンは、大道芸よりも彼の近くにいることの方にときめいていた。
「どうだ?」
「うん、すごく見晴らしがいい。……ありがとう」
蝶が、自分の肩に留まっている。そんな幸せが自分に舞い込んでくるなんて思いもしなかった。トンチャンは腕の疲れなど気にせず、ずっとこのままで居たいと感じていた。ふと彼は、ヒャンユンの胸元から香る甘くも上品でどこか扇情的な匂いに気づいた。
────どこかで嗅いだことのある匂いだな………だが、一体どこで………?
商品の関係で麝香も扱うことが彼にもあったのでその香りに覚えがあったが、そろそろ下ろして欲しげなヒャンユンの様子に気をとられ、そのまま思考はどこかに飛んでしまった。
「背が高いのね、トンチャンって」
「ああ、まぁ………」
無駄に体格がでかいなとしか言われたことがなかったのでつい舞い上がった彼は、そのまま勢いにのってヒャンユンの手を握った。
「人が多いからな。離れるなよ」
「え……うん………」
「嫌だったら、離していい。」
仏頂面でただ前を向いて歩くトンチャンの思いを汲み取ったヒャンユンは、はにかんで笑うとその手をぎゅっと握り返した。
「えっ?」
「離さないでって言ったから。お願い通り、離さないから安心して。」
振り返ったトンチャンの視界に飛び込んできたのは、とびきり眩しい笑顔を浮かべるヒャンユンだった。その愛しさに負けた彼は、黙って隣に並ぶとか細い腕を引き寄せて歩き出した。
「…………ありがとう。」
「…………別に。むしろ、礼なら俺が言わないとな。」
「どうして?」
「それは───」
トンチャンは言葉に詰まり、慎重にその後に続く返答を熟慮した。
「それは………ヒャンユンが、初めて俺を信じさせてくれたからだ。何も信じられない人生を生きてきた俺が、たった一人信じられる人が、ヒャンユンだからだ」
「トンチャン…………」
彼の横顔はいつも寂しそうだった。その寂しさを取り除いてあげたいから、傍に居てあげたいと感じるのかもしれないとヒャンユンは思った。だから彼女はもう少しだけトンチャンに近づいた。
「信じていいよ。どんなことがあっても、私はあなたを信じるから。あなたがもう要らないって言うまで、傍に居てあげる」
「だったら、ずっと傍に居て欲しい。」
「え………?」
「聞こえなかったのか?ずっと傍に居て欲しいって言ったんだ。」
そう言った途端急に隣にある温もりが消えてしまうような気がして、トンチャンは不安に駈られた。彼は人目につかないことを確認すると、そのままヒャンユンを抱き締めた。
「ト………トンチャン…」
「俺を選んだこと、後悔するなよ。絶対手離したりしないからな。他の男と話しをしてたら機嫌が悪くなるし……」
「いいよ。」
「気持ちを伝えるのが下手くそだからな」
「………わかってる。」
「他の男みたいに、普通の幸せは約束できない」
「それでもいい。」
「俺の隣に居たら、危険な目に遭うこともある」
「そのときは守って。でも、覚悟はできてるから。」
それがトンチャンなりの愛の伝え方で、ヒャンユンの彼の想いへの返事だった。
「永遠がないのは知っている。でも…………今は………」
抑えきれない想いが、トンチャンの心から溢れだした。その激しい愛を受け止める程に大人でもないヒャンユンを気遣い、彼は頭を撫でてやることにした。
「何だか、幸せね」
「どうしてなんだろうな」
「ずっと、こんな風にしていられたらいいのにね」
トンチャンの胸に顔を埋めていたヒャンユンが顔を上げた。彼の中で、すぐ近くにどうしようもなく愛しい娘がいることに対し、これ以上求めてはいけないと理性が叫んだ。だからわざと彼は名残惜しくも背中から手を離し、深窓の令嬢であるヒャンユンにとっては無茶な提案を持ちかけた。
「……夜の花火が一番よく見える場所に、興味はあるか?」
「本当?行きたい!」
思いがけない反応に驚いたトンチャンは、開いた口が塞がらない気分でヒャンユンを見た。
「い、いいのか?夜になるまでには帰らないといけないだろう」
「今日はいいの。それに、トンチャンと一緒だから安心よ」
陽が落ちてから男と二人でどこかに行く危険性を理解していない様子が急に心配になり、トンチャンは嬉しさが半分と罪悪感が半分になって入り混ざる自分の醜態が恥ずかしく思えた。
「お前ってやつは……他の男には易々とついていくなよ。いや、ついていくな。」
「当たり前でしょ。トンチャンだからついていくの。」
「俺のことでも疑え。それくらいで丁度いい」
「どうして?むしろ、何かやましいことでもあるの?」
何も意図していないからこそ図星を食らわせてくるヒャンユンに焦ると、トンチャンは下心に反して慌てて否定した。
「えっ?あっ………いや、そ、そんなものあるわけないだろ!変なことを聞くな!」
「なら大丈夫ね。さ、行きましょ。」
「お、おう…………」
────俺は果たして夜まで生きていられるんだろうか……
女性にここまで振り回されたことがないトンチャンは、焦りと疲れを感じていた。だがそれもすぐにヒャンユンの笑顔が全て吹き飛ばしてくれた。再び元気を出した彼は意を決すると、再び手を繋いで歩き出すのだった。
祭りは夜になればなるほど活気づき始めた。時おり声を掛けてくるトンチャンのごろつき仲間を適当にあしらいながら、人混みを掻き分けて二人は歩いた。
そしてたどり着いた先は、七牌 市場の取引所だった。トンチャンは幅を効かせていただけあり、何の文句も言われずそのままヒャンユンを連れて二階に上がった。吹き抜けになっている階段を上りきって部屋に入り、別の戸をくぐるとそこは都が一望できる露台 になっていた。
「どうだ、都が一望できるだろ?」
「すごい……でも、どうして?」
「それは決まってるだろ。七牌は闇市の温床だからな」
「捕盗庁と平市署の監査のため?」
トンチャンは得意気になると、木製の柵にもたれて遠くを眺めながら答えた。
「だけじゃないぞ。他の場所を仕切ってる曰牌と抗争になってもいち早く気づける。最も、そういう問題事が起きたときは俺がよく対処してたがな」
「えっ、そんなことも……?」
「ある。もう俺がどんな曰牌で有名なのか忘れたのか?」
やや拗ねたような声を出したトンチャンに笑うと、ヒャンユンは彼の頬を軽くつねりながら元気よく答えた。
「覚えてる!男前で腕っぷしの強い曰牌なのよね?」
「腕っぷしは合ってるけどな……お前、本気で俺のことを男前だと思ってるのか?」
ずっと気になっていたことに踏み込むため、彼は勇気を出して尋ねた。もちろん今までの女性と同じ程度の返事しか期待はしていない。だが、ヒャンユンはそんな予想を跳ね返し、無邪気な声で答えた。
「うん、思ってる!従姉のウンスはテウォンさんが一番って言ってたけど、私にはトンチャンがこの都で一番男前に見える。だから、自信もってよ。誰よりも強くて、優しくて、ずーっと格好いいんだから。」
テウォンよりもずっと、というところでトンチャンの意識はとうとう理性を離れた。抑えきれない好きだという想いが燃え上がる感覚に耐えきれず、彼は都の灯りを眺めるヒャンユンの名を震える声で呼んだ。
「………ヒャンユン。」
「なぁに?トンチャン」
こういうときにだけ急に鈍感になる様子も愛しくて、彼はやや乱暴に自分から遠い方のヒャンユンの肩を手繰り寄せた。
「こっち向け。」
「えっ?」
突然のことに戸惑っている彼女を無視して、トンチャンはその首筋に後ろから手を回してじっと瞳を見つめた。まだ大人になりきれていない表情に、僅かに彼の心が痛む。ふと、そよ風に煽られて再び鼻に届いた先程と同じ香りが、忘れていた疑問を呼び覚ました。そして少し考えると、トンチャンは空いた方の手をヒャンユンの目の前に差し出した。
「………素直に俺に渡せ。」
「えっ?」
「えっ、じゃねぇ。俺だって麝香の匂いくらいわかる。早く渡してくれ。」
残念そうに口を尖らせたヒャンユンは、渋々トンチャンに匂袋を渡した。益々自制心を失わせようとするそれを遠くに放り投げると、彼は一息ついて再び向き直った。
「…………下手な必要ない小細工なんてするな。第一、あれは危ない代物だ」
「だって…………」
言い訳をしようとしたヒャンユンを黙らせるため、更にトンチャンは抱き寄せた。
「いいか、絶対二度とするな。………俺は、お前の前くらいは優しいままで居たい」
「トンチャン…………?」
「────好きだ。」
ようやく素直な本音を出せてほっとしたトンチャンは、そのままゆっくりと顔を近づけた。速まる鼓動と緊張のせいで、ヒャンユンはぎゅっと目を閉じた。
そしてあと少しで二人の唇が触れようとした瞬間、夜空にぱっと花火が上がった。音に驚いた二人が同じ方向を向く。
「わぁ……………すごい、本当にきれいね」
「あ、ああ。だ、だろ?」
「うん。こんなに綺麗な花火、生まれて初めて見た。」
色彩々の花火が夜空に上がっては消える。儚くも美しいその姿に、ヒャンユンは見とれていた。
「………ずっと一緒に見られたらいいのにね、花火」
「ああ。来年もまた一緒にここに来ればいい」
「本当?嬉しい!ありがとう!」
満面の笑みで笑い掛けてくる大好きな隣の娘は、自分のことを世界で一番好きらしい。その単純な事実さえ、まるで夢のようでトンチャンは思わず泣き出しそうになった。
「………ありがとう、ヒャンユン」
「どういたしまして。………あれ、何でありがとうなの?」
きょとんとするヒャンユンに笑うと、トンチャンはその頭を優しく撫でた。
「いや、何でもない。何でもないんだ。本当に………幸せだなって、そう思っただけだ」
「ふぅん………そっか。私も幸せだよ、トンチャンの傍に居られて。」
そう言ってヒャンユンは彼の肩の辺りに頭を宛がった。そのほんの少しの重みと優しい温かさが、空に溶けていく花火のようにトンチャンの心に溶けていくのだった。
帰宅したヒャンユンは、何事も無かったように振る舞いながら部屋に戻った。口許が意識していても綻んでしまう程に、トンチャンと過ごした時間は夢のようだった。そして思い出したように立ち上がり、麝香を袋から出して商品棚に戻していると、丁度帰ってきたテウォンたちと鉢合わせした。
「あっ、お嬢様……」
「あっ………ヒャンユン、帰ってたのね」
「こちらこそ、お帰りなさい」
一体その後どうなったのかとんと検討もつかない一同は、まじまじとヒャンユンの顔を観察した。
「な、何ですか………?」
「ああ!いや、何でもない。うん!何でもない。」
「じゃ、また明日……」
訝しげに思うほど注意力があるわけでもないヒャンユンは、言われるがままに就寝の挨拶を済ませると、そのまま部屋に戻っていくのだった。
トンチャンは家に帰るや否や、恥じらいのあまり悶絶し始めた。
「ああああああ!俺の馬鹿…………とうとう言っちまったな………」
─────好きだ、って。
ヒャンユンのことになると、どうしようもなく自分の想いを抑えきれなくなることに気づいていた。だが、彼女はその好意を拒まなかった。それが何よりもトンチャンにとっては嬉しかった。
「よし………明日も仕事頑張るか」
自分一人で抱えるにはあまりに大きすぎる幸福感に包まれて、トンチャンは眠りにつくのだった。
「あーあ。どうせコン・ジェミョン商団のお嬢様なんだから、ユン・テウォンひいきになってるに決まってる。世の中の女はみんなテウォンに恋するらしいからな」
口に出すのも腹立たしいテウォンという名を珍しく連呼したのは、ひとえにやり場のない怒りをぶつけたかったからだった。
そして、未の刻に差し掛かった。トンチャンはヒャンユンが待っていない可能性を考え、物陰から密かに待ち合わせ場所を覗き見した。
すると、一目で彼は約束が果たされたことを悟った。すぐ向こうに、誰かを探しているような素振りでしきりに辺りを見回している"蝶"の姿があった。
「嘘……だろ………?」
トンチャンは驚きのあまり物陰から出した頭を引っ込め、腰を抜かしてしゃがみこんでしまった。
ここに来たということはつまり、心の底から自分を想っているからだというわけになる。だが、そんな経験をしたことがなかったため、見間違いを疑った彼はもう一度ヒャンユンの姿を確認した。
─────いる!なんでだ!!
何故と言われても理由は一つしかないのだが、トンチャンはそれほどに驚いていた。そして動転した気を必死で静め立ち上がってから身なりを整えると、意を決してヒャンユンに近づいた。
「お……おう。」
「あっ、トンチャン!良かった、来てくれて。」
喜びのあまりトンチャンに駆け寄ったヒャンユンは、今気づいたと言わんばかりの振りをしている彼の動揺などお構いなしにその手を両手で取った。
「どう?これで私が本気だって実感してくれた?」
「あ……ああ。まぁ…」
「じゃあ、もう敬語もお嬢様も無しね!」
目の前で起きている出来事に対して狐につままれたような気分のトンチャンだったが、同じく酒場から見ていたウンスたちも目を白黒させていた。
「えっ?ねぇ、あれ、チルペ市場のトンチャンよね?」
「そう………みたいだな」
「じゃあ、お嬢様が仰ってたテウォンよりもずっと男前な男って……………」
「ありえない。絶対おかしい。うちの従妹は絶対おかしい。」
ウンスはテウォンとトンチャンを比べるなどありえないと言いたげに、不快感丸出しの表情を浮かべている。テウォンに至っては、もはやヒャンユンのことを新種の動物を見るかのような視線を送っている。
ふと、チャクトは今朝ヒャンユンをハネの麝香(じゃこう)の商品棚の前で見たことを思い出した。そして顔を真っ青にして叫んだ。
「まっ、まずい………!!」
「どうしました、チャクト兄貴」
「どうしたじゃない、トチ!お嬢様は麝香の匂袋を………」
それを聞いたトチも顔面蒼白になって箸を取り落とした。麝香は媚薬としての効果があり、女性が身に付ければ意中の男性を落とせることで知られていた。これはもちろん相手の男性に気があればあるほど効果が高まるもので、遠目であったが誰が見てもトンチャンがヒャンユンに強い好意を寄せていることは明白だった。
「えっ!?あんな自制心の欠片もないトンチャンに火をつけてどうするんですか………」
「これはまずい。まずいことになったぞ………」
ただでさえ荒っぽいことで知られているあのトンチャンのことだ。何をするかわかったものでないと言いたげな一同は、安易にジェミョンに相談するわけにもいかない、かといって手出しするのも危険という状況に置かれた。
そして数分後、見かねたチョンドンが横から口を出した。
「俺たちは何も見なかった。もう、それでいいじゃありませんか」
「でも!お嬢様に何かあったら………」
「大丈夫ですよ。ああ見えて、トンチャン兄貴は紳士です」
「いやでも………」
「わかりました!俺がつけておきますから、きちんと見ておきます」
その言葉を聞いて納得したのか、一同はそのまま何も見なかったかのように会話を始めた。そしてチョンドンが宣言通り後をつけようとヒャンユンたちを探すべく辺りを見回したときには、既に二人の姿は雑踏に溶け込んだ後だった。
祭りの活気で賑わう都の人々のお陰で然程目立たずにすんでいる二人は、周囲の目を気にせず見物を楽しんでいた。
「わぁ…………すごい、大道芸なんて久しぶり」
「見えるか?人混みがすごいからな」
「うん………見えない。」
小柄な背を必死に伸ばそうとしているヒャンユンに失笑すると、トンチャンは軽々とその腰を持ち上げて自分の腕に抱いた。
「わっ…………!!!」
「これで見えるか?」
「…………重くないの?」
「だから、お前は軽いって言ってるだろ。それよりしっかり捕まっとけ」
「……わかった。」
言われるがままにトンチャンの肩と首元に掴まったヒャンユンは、大道芸よりも彼の近くにいることの方にときめいていた。
「どうだ?」
「うん、すごく見晴らしがいい。……ありがとう」
蝶が、自分の肩に留まっている。そんな幸せが自分に舞い込んでくるなんて思いもしなかった。トンチャンは腕の疲れなど気にせず、ずっとこのままで居たいと感じていた。ふと彼は、ヒャンユンの胸元から香る甘くも上品でどこか扇情的な匂いに気づいた。
────どこかで嗅いだことのある匂いだな………だが、一体どこで………?
商品の関係で麝香も扱うことが彼にもあったのでその香りに覚えがあったが、そろそろ下ろして欲しげなヒャンユンの様子に気をとられ、そのまま思考はどこかに飛んでしまった。
「背が高いのね、トンチャンって」
「ああ、まぁ………」
無駄に体格がでかいなとしか言われたことがなかったのでつい舞い上がった彼は、そのまま勢いにのってヒャンユンの手を握った。
「人が多いからな。離れるなよ」
「え……うん………」
「嫌だったら、離していい。」
仏頂面でただ前を向いて歩くトンチャンの思いを汲み取ったヒャンユンは、はにかんで笑うとその手をぎゅっと握り返した。
「えっ?」
「離さないでって言ったから。お願い通り、離さないから安心して。」
振り返ったトンチャンの視界に飛び込んできたのは、とびきり眩しい笑顔を浮かべるヒャンユンだった。その愛しさに負けた彼は、黙って隣に並ぶとか細い腕を引き寄せて歩き出した。
「…………ありがとう。」
「…………別に。むしろ、礼なら俺が言わないとな。」
「どうして?」
「それは───」
トンチャンは言葉に詰まり、慎重にその後に続く返答を熟慮した。
「それは………ヒャンユンが、初めて俺を信じさせてくれたからだ。何も信じられない人生を生きてきた俺が、たった一人信じられる人が、ヒャンユンだからだ」
「トンチャン…………」
彼の横顔はいつも寂しそうだった。その寂しさを取り除いてあげたいから、傍に居てあげたいと感じるのかもしれないとヒャンユンは思った。だから彼女はもう少しだけトンチャンに近づいた。
「信じていいよ。どんなことがあっても、私はあなたを信じるから。あなたがもう要らないって言うまで、傍に居てあげる」
「だったら、ずっと傍に居て欲しい。」
「え………?」
「聞こえなかったのか?ずっと傍に居て欲しいって言ったんだ。」
そう言った途端急に隣にある温もりが消えてしまうような気がして、トンチャンは不安に駈られた。彼は人目につかないことを確認すると、そのままヒャンユンを抱き締めた。
「ト………トンチャン…」
「俺を選んだこと、後悔するなよ。絶対手離したりしないからな。他の男と話しをしてたら機嫌が悪くなるし……」
「いいよ。」
「気持ちを伝えるのが下手くそだからな」
「………わかってる。」
「他の男みたいに、普通の幸せは約束できない」
「それでもいい。」
「俺の隣に居たら、危険な目に遭うこともある」
「そのときは守って。でも、覚悟はできてるから。」
それがトンチャンなりの愛の伝え方で、ヒャンユンの彼の想いへの返事だった。
「永遠がないのは知っている。でも…………今は………」
抑えきれない想いが、トンチャンの心から溢れだした。その激しい愛を受け止める程に大人でもないヒャンユンを気遣い、彼は頭を撫でてやることにした。
「何だか、幸せね」
「どうしてなんだろうな」
「ずっと、こんな風にしていられたらいいのにね」
トンチャンの胸に顔を埋めていたヒャンユンが顔を上げた。彼の中で、すぐ近くにどうしようもなく愛しい娘がいることに対し、これ以上求めてはいけないと理性が叫んだ。だからわざと彼は名残惜しくも背中から手を離し、深窓の令嬢であるヒャンユンにとっては無茶な提案を持ちかけた。
「……夜の花火が一番よく見える場所に、興味はあるか?」
「本当?行きたい!」
思いがけない反応に驚いたトンチャンは、開いた口が塞がらない気分でヒャンユンを見た。
「い、いいのか?夜になるまでには帰らないといけないだろう」
「今日はいいの。それに、トンチャンと一緒だから安心よ」
陽が落ちてから男と二人でどこかに行く危険性を理解していない様子が急に心配になり、トンチャンは嬉しさが半分と罪悪感が半分になって入り混ざる自分の醜態が恥ずかしく思えた。
「お前ってやつは……他の男には易々とついていくなよ。いや、ついていくな。」
「当たり前でしょ。トンチャンだからついていくの。」
「俺のことでも疑え。それくらいで丁度いい」
「どうして?むしろ、何かやましいことでもあるの?」
何も意図していないからこそ図星を食らわせてくるヒャンユンに焦ると、トンチャンは下心に反して慌てて否定した。
「えっ?あっ………いや、そ、そんなものあるわけないだろ!変なことを聞くな!」
「なら大丈夫ね。さ、行きましょ。」
「お、おう…………」
────俺は果たして夜まで生きていられるんだろうか……
女性にここまで振り回されたことがないトンチャンは、焦りと疲れを感じていた。だがそれもすぐにヒャンユンの笑顔が全て吹き飛ばしてくれた。再び元気を出した彼は意を決すると、再び手を繋いで歩き出すのだった。
祭りは夜になればなるほど活気づき始めた。時おり声を掛けてくるトンチャンのごろつき仲間を適当にあしらいながら、人混みを掻き分けて二人は歩いた。
そしてたどり着いた先は、
「どうだ、都が一望できるだろ?」
「すごい……でも、どうして?」
「それは決まってるだろ。七牌は闇市の温床だからな」
「捕盗庁と平市署の監査のため?」
トンチャンは得意気になると、木製の柵にもたれて遠くを眺めながら答えた。
「だけじゃないぞ。他の場所を仕切ってる曰牌と抗争になってもいち早く気づける。最も、そういう問題事が起きたときは俺がよく対処してたがな」
「えっ、そんなことも……?」
「ある。もう俺がどんな曰牌で有名なのか忘れたのか?」
やや拗ねたような声を出したトンチャンに笑うと、ヒャンユンは彼の頬を軽くつねりながら元気よく答えた。
「覚えてる!男前で腕っぷしの強い曰牌なのよね?」
「腕っぷしは合ってるけどな……お前、本気で俺のことを男前だと思ってるのか?」
ずっと気になっていたことに踏み込むため、彼は勇気を出して尋ねた。もちろん今までの女性と同じ程度の返事しか期待はしていない。だが、ヒャンユンはそんな予想を跳ね返し、無邪気な声で答えた。
「うん、思ってる!従姉のウンスはテウォンさんが一番って言ってたけど、私にはトンチャンがこの都で一番男前に見える。だから、自信もってよ。誰よりも強くて、優しくて、ずーっと格好いいんだから。」
テウォンよりもずっと、というところでトンチャンの意識はとうとう理性を離れた。抑えきれない好きだという想いが燃え上がる感覚に耐えきれず、彼は都の灯りを眺めるヒャンユンの名を震える声で呼んだ。
「………ヒャンユン。」
「なぁに?トンチャン」
こういうときにだけ急に鈍感になる様子も愛しくて、彼はやや乱暴に自分から遠い方のヒャンユンの肩を手繰り寄せた。
「こっち向け。」
「えっ?」
突然のことに戸惑っている彼女を無視して、トンチャンはその首筋に後ろから手を回してじっと瞳を見つめた。まだ大人になりきれていない表情に、僅かに彼の心が痛む。ふと、そよ風に煽られて再び鼻に届いた先程と同じ香りが、忘れていた疑問を呼び覚ました。そして少し考えると、トンチャンは空いた方の手をヒャンユンの目の前に差し出した。
「………素直に俺に渡せ。」
「えっ?」
「えっ、じゃねぇ。俺だって麝香の匂いくらいわかる。早く渡してくれ。」
残念そうに口を尖らせたヒャンユンは、渋々トンチャンに匂袋を渡した。益々自制心を失わせようとするそれを遠くに放り投げると、彼は一息ついて再び向き直った。
「…………下手な必要ない小細工なんてするな。第一、あれは危ない代物だ」
「だって…………」
言い訳をしようとしたヒャンユンを黙らせるため、更にトンチャンは抱き寄せた。
「いいか、絶対二度とするな。………俺は、お前の前くらいは優しいままで居たい」
「トンチャン…………?」
「────好きだ。」
ようやく素直な本音を出せてほっとしたトンチャンは、そのままゆっくりと顔を近づけた。速まる鼓動と緊張のせいで、ヒャンユンはぎゅっと目を閉じた。
そしてあと少しで二人の唇が触れようとした瞬間、夜空にぱっと花火が上がった。音に驚いた二人が同じ方向を向く。
「わぁ……………すごい、本当にきれいね」
「あ、ああ。だ、だろ?」
「うん。こんなに綺麗な花火、生まれて初めて見た。」
色彩々の花火が夜空に上がっては消える。儚くも美しいその姿に、ヒャンユンは見とれていた。
「………ずっと一緒に見られたらいいのにね、花火」
「ああ。来年もまた一緒にここに来ればいい」
「本当?嬉しい!ありがとう!」
満面の笑みで笑い掛けてくる大好きな隣の娘は、自分のことを世界で一番好きらしい。その単純な事実さえ、まるで夢のようでトンチャンは思わず泣き出しそうになった。
「………ありがとう、ヒャンユン」
「どういたしまして。………あれ、何でありがとうなの?」
きょとんとするヒャンユンに笑うと、トンチャンはその頭を優しく撫でた。
「いや、何でもない。何でもないんだ。本当に………幸せだなって、そう思っただけだ」
「ふぅん………そっか。私も幸せだよ、トンチャンの傍に居られて。」
そう言ってヒャンユンは彼の肩の辺りに頭を宛がった。そのほんの少しの重みと優しい温かさが、空に溶けていく花火のようにトンチャンの心に溶けていくのだった。
帰宅したヒャンユンは、何事も無かったように振る舞いながら部屋に戻った。口許が意識していても綻んでしまう程に、トンチャンと過ごした時間は夢のようだった。そして思い出したように立ち上がり、麝香を袋から出して商品棚に戻していると、丁度帰ってきたテウォンたちと鉢合わせした。
「あっ、お嬢様……」
「あっ………ヒャンユン、帰ってたのね」
「こちらこそ、お帰りなさい」
一体その後どうなったのかとんと検討もつかない一同は、まじまじとヒャンユンの顔を観察した。
「な、何ですか………?」
「ああ!いや、何でもない。うん!何でもない。」
「じゃ、また明日……」
訝しげに思うほど注意力があるわけでもないヒャンユンは、言われるがままに就寝の挨拶を済ませると、そのまま部屋に戻っていくのだった。
トンチャンは家に帰るや否や、恥じらいのあまり悶絶し始めた。
「ああああああ!俺の馬鹿…………とうとう言っちまったな………」
─────好きだ、って。
ヒャンユンのことになると、どうしようもなく自分の想いを抑えきれなくなることに気づいていた。だが、彼女はその好意を拒まなかった。それが何よりもトンチャンにとっては嬉しかった。
「よし………明日も仕事頑張るか」
自分一人で抱えるにはあまりに大きすぎる幸福感に包まれて、トンチャンは眠りにつくのだった。