3、最初の障壁
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「うふふ………ふふ………」
昼下がり。もう片手で数えることさえ出来ない程に前になってしまったトンチャンとの思い出にまだ浸っているヒャンユンは、チョゴリの紐をしきりに触りながらにやつく顔を抑えきれずに不可解な笑いを繰り返していた。
「…………ねぇ、ヒャンユン。大丈夫?」
「うん、大丈夫!うふふ……ふふ………」
明らかに幸せそうな彼女に、ウンスを含めた商団の全員が訝しげな視線を送っている。そんな視線も気にせずぐっと伸びをすると、彼女はまたもや野良猫のようにふらっと町に出掛けていくのだった。
市場で特に何を買うわけでもなく商品を手にとって眺めていたヒャンユンは、一本の綺麗なノリゲに手をかけた。だが、同じ商品を取ろうとしたもう一つの手が重なる。か細く美しい手の持ち主は、苛立ちげに声を荒げた。
「私が先にみつけたの!………って」
「────あ。」
ヒャンユンが驚いて顔をあげると、そこには見覚えのある顔が立っていた。
「────シネ!?」
「ヒャンユン!?義州で養療してたときに会ったあの?」
そこに立っていたのは、ユン・ウォニョンとチョン・ナンジョンの一人娘であるユン・シネだった。ヒャンユンにとっては、同い年の知り合いが少ない義州で出会ったかけがえのない親友である。
「久しぶりね!元気にしてた?いつ都に戻ったの?なんで知らせなかったの?今何してるの?」
「そ、そんなに質問されても、返事出来ないわよ……」
敬語を使いそうになったヒャンユンは、慌てて頭の中で普通の言葉を選び直した。シネの方が身分も家も上なのだが、彼女は自分が認める親友に敬語を使われることを嫌がっていた。天下の小尹派の娘である彼女が、唯一心を開いて何でも話せる友がヒャンユンだった。
そもそも二人が出会ったいきさつは、シネが一時期病弱だったことにある。丁度流行り病が流行っていたため、娘が罹患するのを恐れたユン家は、病が及んでいない義州に彼女を送ったのだ。そしてそこで同い年で彼女の話し相手をしてくれたのがヒャンユンだったのだ。シネは母親譲りの美貌と父親の財力を持ち、そして甘やかされて育ったために傲慢で傍若無人な性格だった。それでもヒャンユンだけは、他の娘たちが嫌がる中で何故かシネと気が合ったのだ。
都でも地方でも、何処に行っても唯一の親友であるヒャンユンとの再会を喜んだシネは、彼女の手を引いた。
「ちょっと、何処に行くの?」
「うちに来て!お母様にも会って!美味しいお菓子があるの!あと、刺繍も手伝って!」
「刺繍は手伝うものじゃないと思うけど……」
「いいから!ほら、早く!ヒャンユン~!」
いつも通り強引なシネに圧され、ヒャンユンは引きずられるようにしてユン家に連れていかれた。
今では都一の家であるユン家は、彼女が言葉を失うくらいに広かった。
「広…………いね」
「流石に私でも、何処に何があるのかわかってないから、ちょっと広すぎる気がするけどね」
「独りにしないでね、シネ。私、迷っちゃいそう……」
「大丈夫!今日はしっかり私の話を聞いてもらうから!」
目を輝かせて話すシネに、何事かと思った使用人が現れた。女中長のチョングムはヒャンユンに気づくと、訝しげな顔で品定めするような視線を送った。
「ちょっとチョングム。失礼でしょ。私の親友なの!」
「あら、お嬢様にお友だちが居るとは思わず……失礼しました」
「何よそれ。お母様はいる?」
険に障るような言葉を発したチョングムにいつものシネなら怒るところだが、今日はそれどころではなかった。
「ええ、いらっしゃいますよ。お部屋には今、マッケ叔父様も居ますけど……」
「別にいいわ。行きましょ、ヒャンユン」
「え、あ……うん」
またもやシネに連れられるがままにナンジョンの部屋までやって来たヒャンユンは、彼女が母親に説明し終えるまで廊下で待つこととなった。長い廊下の先を見ていると、何故か彼女は来たこともないはずの家で懐かしい気分に囚われた。
────ここ………知ってる?でも、どうして?
確かにこんな広い家には来たことがないはずなのにと思っていると、シネが扉から顔を出して手招きした。
「入って!お母様がヒャンユンに会いたいって!」
「あ、うん。わかった」
部屋に通されると、ヒャンユンはすぐに部屋の奥で座っている美しい女性がシネの母であると気づいた。美しさの中に冷ややかさを湛えたその顔に、彼女は無意識に思わず引き付けられた。しばらくして挨拶をせねばと思い立つと、彼女は立ち上がって丁寧に一礼した。
「ご挨拶します。コン・ヒャンユンと申します。」
「そなたの話は聞いておる。コン・ジェミョン大行首の娘だそうだな。」
「はい、奥様」
今まで会ったどんな娘よりも礼儀正しく、しっかりしているヒャンユンをナンジョンは一目で娘の親友として気に入った。それは彼女の隣にいた兄のチョン・マッケも同じだった。
「シネ様の友としては申し分ない娘だな、ナンジョン」
「ええ。シネには友が居なかったので、本当に嬉しい限りです。宜しく頼みますよ、ヒャンユン」
「恐縮です、奥様」
「ねぇ、もういいでしょ?私の部屋に来て!」
しびれを切らせたシネが子供のような声を出して肩を怒らせる。その様子を見たナンジョンは、相変わらず我が儘な娘を諫めた。
「シネ!あまり友を困らせるでない」
「わかっています!さ、行きましょ!」
「では、失礼します」
母親を適当にあしらい、部屋を出たシネは部屋に行く振りをして菓子の包みを取ると、そのままヒャンユンの手を取ってそろりと裏口から抜け出した。
「ちょっと、シネ!何してるのよ。部屋に行くんじゃなかったの?」
「そうよ。気が変わったの!うちの商団へ来て!楽しいから」
しれっと気が変わったと言う姿に、ヒャンユンはシネが気移りする性格であることを思い出した。
「楽しいって………勝手に行っても大丈夫なの?」
「直接仕切ってるドンジュ伯母様は私の母の兄嫁だから、きっとヒャンユンのことも歓迎してくれるわ。私がきちんと話するから。お願い!」
結局いつも通り押し切られてしまい、彼女は言われるがままに親友の商団へと向かうのだった。
チョン・ナンジョン商団は、ヒャンユンが度肝を抜かれるほどに規模が大きかった。古今東西ありとあらゆる国の商品が所せましと並べられている搬入所を見て、彼女は正にここは国一番の商団だなと感心した。
「うちは朝鮮一の商団よ。欲しいものがあったら言ってね。ハネる商品があればそこから持ってくるから」
「ううん!そんな、大丈夫だよ……うん」
シネがそう言うのも、ヒャンユンにはあっさりと納得が出来た。どこの商団と比べても、あまりに規模が違いすぎる。
見とれている隙に置いていかれた彼女は、応接室に我が物顔で入っていくシネを追いかけ、自分も部屋に邪魔した。部屋の中には洞察力が光る、聡明そうな女性が座っていた。
「ドンジュ伯母様!私の親友のヒャンユンよ。コン・ジェミョン商団のとこの大行首の娘なの」
「コン・ジェミョン大行首の?ああ………」
同業者の娘であることにドンジュは一瞬難色を示したが、何も知らなさそうなぼおっとした令嬢が内情視察など出来るわけがないかと思うと、すぐに笑顔に変わった。
「ようこそ。シネお嬢様のご親友なら、ゆっくりしていってくださいね」
「恐縮です。」
「ねぇ、もういい?色々案内したいの。」
「ええ、どうぞ」
久しぶりの友との再会に喜びが止まらないシネは、さっさと挨拶を切り上げると部屋を出ようとした。だがそこに丁度報告に来たトンチャンが現れ、ヒャンユンと鉢合わせをした。
「失礼しま………………え……?」
「あっ……」
いつも通りの気だるい表情をしながら部屋に入ってきたトンチャンは、疲れからの見間違い或いは幻覚ではないだろうかと思ったが、すぐに現実にヒャンユンが目の前に立っていると悟り、一体何事かと目を白黒させ始めた。
「ええと…………な、なんでヒャンユンがここに……」
「知り合いなの?だとしても私の親友なんだから、ぞんざいな口の聞き方しないで!コン・ジェミョン大行首様のご息女なんだから!"お嬢様"くらいつけなさいよ」
「ち、ちょっとシネ………」
全てのことを暴露されたヒャンユンは、顔面蒼白でトンチャンの顔を後ろめたそうに見た。
「…………失礼しました、ヒャンユン"お嬢様"」
そのトンチャンの他人行儀で棘のある返事に、彼女は完全に嫌われてしまったと確信した。
────嘘をついてたんだもの。仕方がないけど……けど………トンチャン………なんでここに………?
何とか一言でも言わなければと思い立った瞬間、トンチャンは既にドンジュに報告を始めていた。取り残されたような感覚と、大きな立ちくらみに耐えきれず、ヒャンユンはシネを追って部屋を出た。
商団を見学している最中も、ヒャンユンは時おり視界に入るトンチャンを目で追っていた。
───ごめんなさい、トンチャン………
声に出さない謝罪が届くわけもなく、彼は黙々と商品の仕分けをしている。だが、それは装いだけで、彼もヒャンユンのことを横目で気づかれないように追っていた。
────やっぱり、俺の側に来たのは気まぐれだったんだ。あんな眩しい人が、俺の手に届くわけがない。俺はあの人から見れば、ただの曰牌のシン・ドンチャンなんだ………
それでも目で探してしまうのは何故なのか。彼は現実を受け入れられない恋心の処遇にすっかり困り果てていた。そんな時、彼の部下の一人がヒャンユンに声を掛けた。
「どうも、お嬢様」
「そんな……お嬢様だなんて。」
「愛想のいいお嬢さんなら、うちの商団の男どもはいつでも大歓迎ですからね」
明らかに浮わついている同じく曰牌の部下たちに苛立つと、トンチャンは片っ端から帳簿で頭を叩き始めた。
「お前ら!仕事しろ!浮わつくな」
「酷いですよ兄貴!」
「うるせえ。黙って仕事しろ!」
ここで部下に何かちょっかい、はたまた口説きはされないだろうかという杞憂が急にトンチャンの中に生じた。彼は注意深く周りの反応を観察しながら、少しでもヒャンユンに近づこうとする部下は仕事をするよう促し、可愛い可愛いと連呼する奴はついでに一発お見舞いした。
そうこうしているうちに、部下たちはトンチャンがヒャンユンのことを気に入っていることに勘づき、むしろ反対に珍しく弱点が見えている彼をいじり始めた。
「兄貴、ああいうのが好みなんですね」
「知りませんでしたよー」
「うるせえ!誰がそんなこと────」
「顔が赤いですよ?兄貴!」
「そうですよ。俺たちを羨ましがるなら、声でも掛ければいいのに」
「黙れ!お前ら、殺されたいのか?」
怒声で一蹴しようとしたものの逆効果になってしまったトンチャンには、もはや黙っておくしか選択肢が残されていなかった。
ふと、彼はヒャンユンの頭上にある布と巻き取っている板が無造作に積み上げられていることに目を留めた。隣では部下が作業をしている。一人の男が別の商品を押し退けて荷物を置いた瞬間、トンチャンの中で警鐘が鳴り響いた。
────危ない!
読み通り、布と板が棚から落ち、ヒャンユンめがけて落ちていく。予測してあったため、咄嗟に動いたトンチャンは人目も憚らず彼女を抱き締めて地面に押し倒した。
先程までヒャンユンの頭があった場所に荷物は落ちていた。あと少し遅かったらと思うと、トンチャンは腕の中の大切な人が無傷であることを確かめてほっとした。だが、我にかえってとんでもないことに気づいてしまう。そう、トンチャンはヒャンユンを自分の胸に抱き止めているのだ。自身でも状況が飲み込めない彼は、同じく思考を停止させ、潤む両目を見開いているヒャンユンをまじまじと見た。
「…………あり……がとう。」
「気……気にしないでください。そ……それよりもお怪我は……」
「無い……よ。大丈夫……うん」
大袈裟な音を聞き付けたシネがその場に駆けつけたため、トンチャンは何事もなかったかのようにヒャンユンを名残惜しさも残さぬよう身体から離すと、隣で突っ立っている部下を叱責した。
「お前は馬鹿か!鳥頭か!商品は大事に扱えってあれほど言っただろうが!奥様の前に引きずり出してやろうか」
「す、すみません、兄貴」
「このお方は、シネお嬢様にとって大事な人だ。そうでなくとも、気を付けろ」
────そして、俺にとっても。
彼は心の中でそう思うと、秘めた思慕を込めた視線でヒャンユンを見た。シネに質問攻めにされている彼女はそんなトンチャンに気付く素振りもない。
自分の恋は、終わった。
そんな風に思った彼の心の中には、慣れているはずの苦い思いが広がるのだった。
商団見学を終えたヒャンユンはシネとは別方向にある家に帰るため、路地で別れを告げた。
「じゃあ、また今度ね」
「うん、ありがとう。楽しかった。」
こうして手を振って歩きだそうとした彼女だったが、またしてもシネに予想外の提案を押し付けられた。
「あ、そうだ。トンチャン。あなた、ヒャンユンを送ってあげて」
「え?」
「いいから。親友に危険が及んじゃ困るわ。早く!」
言われるがままにヒャンユンの後ろを、あくまでも警護として歩くことになったトンチャンは、その背中を遠い目で見ていた。
───こんなことになるなら、俺は…………
会いたいなんて思わなかったのに。自分が惨めで無力に思えて、握りしめた拳が震える。
「ねぇ、どうして後ろにいるの?隣に来ればいいのに」
「一介の曰牌が、お嬢様と並んで歩くわけにはいきません。」
「え……………」
そこまで怒らせてしまったのかと勘違いしたヒャンユンは、突然立ち止まってくるりと後ろを向いた。トンチャンも立ち止まり、一体何をする気なのかと様子をうかがっている。彼女は予想通りにそのまま無言で口をへの字にしてつかつかと大股で近づいたが、トンチャンも後ろ歩きで一定の距離を空けた。前の両班の家の塀から塀の距離を歩いても諦める様子がない彼女は、どこまで相手が耐えられるかどうかをもはや試していた。
そしてついに市場通りの中央に差し掛かったため、彼はやむを得ず立ち止まることとなった。
「何なんですか」
「敬語も、距離も。そんなに怒ってるの?」
トンチャンはその問いに嘘をついた。
「いえ、怒ってませんけど」
「怒ってる。絶対怒ってる。」
「だから怒ってないって言ってるだろうが!」
なぜこんなにこの娘は自分の思いを乱してくるのだろうか。トンチャンは苛立ち、つい今にも泣きそうになっているヒャンユンに声を荒げてしまった。その怒声に周囲の行き交う人々が思わず注目する。だが、彼女の口から出てきた言葉は意外なものだった。
「だから………ごめんなさい!本当に、ごめんなさい。私、いつかは言わなきゃと思ってたの。でも……でも……トンチャンに距離を置かれるのが怖かったの!」
悪気がないのも、怖いのもよく伝わっていた。だが、それでもやはり数々の女性に欺かれた過去を持つトンチャンは、心の傷が疼くままにヒャンユンを責めずにはいられなかった。
「………俺が……俺が知ったらこうなることくらい、わかっていたのなら………どうして俺の目の前に二度も現れたんですか」
「それは!その……………」
「俺との時間は、気楽なお嬢様の道楽だったんでしょう?家にいるよりも………」
卑屈な物の言いようにとうとう憤激したヒャンユンは、トンチャンに負けじと言い返した。
「遊びなんかじゃなかったわ!そんなつもりだったら、一日中あなたのことなんて考えなかった!」
「可愛い顔してるからって全てが許されると思ったら大間違いだからな!俺は騙されないからな!」
「可愛くないもん!目、おかしいんじゃない?」
「何だと?」
「だから!私は可愛くないからあなたの目が変って言いたいの!」
二人は肩で息をしながら互いを睨み付けた。そしてようやく周りの好奇の視線に気づき、慌てて目をそらした。
「…………ああ、恥ずかしい。」
人通りから離れて手をぱたぱたと振っているヒャンユンは、照れ隠しにそう言った。
「それは俺の台詞です!」
「敬語だったり、そうじゃなかったり………どっちかにしてよ」
「終始敬語ですが?」
「わかってるくせに。」
気まずい雰囲気がその場を支配する。そして二人はついに、コン・ジェミョン商団の塀が見える通りにまで来た。
「では、これで」
まだなにか言いたげなのを堪えているように見えるトンチャンがもどかしく、ヒャンユンはその腕を掴んで引っ張った。
「ねぇ………嫌いにならないで………本当に…本当に、ごめんなさい。でも、私の気持ちは……………嘘じゃない。町娘のコン・ヒャンユンは嘘だけど、コン・ヒャンユンの心は……嘘じゃないの……」
両目に涙を湛え、背中を押せばボロボロと泣き出しそうな姿にトンチャンはついに折れた。
「…………だったら、週末の祭りにこの場所で会おう。時刻は…………」
彼は少し考えると、どうせ来ないだろうという思いも込めてわざと時間を開始時刻ではなく、始まって少し後の昼間にした。
「未の刻だ。未の刻にあなたが来なければ、俺は二度とあなたを信じない。」
その言葉を聞いたヒャンユンは、瞳を輝かせて無邪気に大きくうなずいた。
「わかった!絶対信じさせてあげる!だから、トンチャンも絶対来てね。約束よ」
「はい。わかりました。」
その声からまだ信じてもらっていないことに気づいたヒャンユンは、寂しげな背中に向かって手を振りながら、絶対にトンチャンが安心して信じられるように待とうと決意するのだった。
帰宅したヒャンユンは、すぐに衣装入れからトンチャンに買ってもらった例のチマチョゴリと装身具の箱を取り出して部屋に並べ立てると、ウンスを茶菓子で釣って招き入れた。
「ねぇ、お菓子………えっ、何この部屋は!」
「ウンス!一生に一回のお願いなの。この服を着た私が一番きれいに見える装身具を選んで。あ、コチはこれでお願い。」
やけに真剣な従妹の姿を見て、ウンスはすっとんきょうな声をあげた。
「…………何よ?テウォンさんね!あの人は私のよ!」
「テウォンさんじゃないから、安心して。」
「テウォンさんじゃなきゃ誰なのよ。ほかにいい男なんてこの都にいた?」
ウンスの言葉を聞き、ヒャンユンは途端にものすごい剣幕で言い返した。
「いるの!テウォンさんなんかより、もーっと素敵で頼りになって、優しくて格好いい人がいるの!何よ、みんなテウォン、テウォンって…………」
「そんなにいいんなら、むしろ紹介してほしいくらいね。どこの誰なのよ」
未婚の女性の証で頭につけるためのペッシテンギを探しながら、ウンスがそうぼやく。流石にそれは困ると思ったヒャンユンは、さっとシネに分けてもらった菓子を取り出してウンスの口に入れた。
「あっ………それは………その………誰かってことは聞かないで助けてほしいの。お願いできる?」
食べ物には目がないウンスは突然素直になると、ご機嫌の様子で装身具選びを再開した。ヒャンユンは心の中で胸をほっと撫で下ろすと、自分のことを疑い続けているトンチャンが、約束を守って現れたときにどんな顔をするのだろうかと想像しながら口許を綻ばせるのだった。
そして祭りの当日、ヒャンユンは開始すぐから待ち合わせ場所に一人立っていた。布であしらわれた花のペッシテンギと蝶のコチが、彼女の美しさをより引き立てている。三編みの間にも真珠の装身具を通し、結び目に垂らしてある布の上では、きらきらと小さいながらも豪奢な金属の装身具が時おり揺れている。
─────未の刻まで待ってる。絶対、私の気持ちを証明してみせるんだから。あの人の不安なんて、すぐに取り去って差し上げるわ。
そんな意気込む彼女を見ている影がいくつか、待ち合わせ場所すぐ近くの見通しのよい飲み屋から見受けられる。
「誰なのかしら………本当に素敵な殿方だったら、私卒倒しちゃうかも」
「テウォン以上に格好いい男なんて、都にいたっけ?なぁ、トチ」
「お嬢様が即答するほど、テウォン以上に男前のやつなんて居ないでしょ。あり得ないですね。」
「とくと見物してみようじゃないか」
先程からまた何か食べているウンスを中心に、テウォン、トチ、そして執事のチャクトがヨジュの飲み屋からヒャンユンを観察していた。もちろん言い出したのはウンスなのだが、彼女には単なる好奇心だけでなく、テウォンと一緒にいたいという目論みもあった。
「はい、どうぞ。あら、コン・ジェミョン商団のみなさんじゃない。何やってるの?」
「え?ああ……ちょっと」
「はぁん……お嬢様に男が居るかもしれないから、見張ってるのね?」
「そういったところですかね……はは………」
注文した品を置きに来たヨジュを適当に誤魔化そうとしたテウォンだが、彼女の鋭い洞察力は瞬く間にその目論見を跳ね返した。話をそらさねばと思って辺りを見回したテウォンは、丁度チョンドンを見つけた。
「………お、チョンドンじゃないか!」
「えっ?あっ、テウォン兄貴!」
トンチャンと違ってすぐに殴らないテウォンになついているチョンドンは、満面の笑みで彼らの輪に入った。ヨジュが行ったことを見計らい、テウォンは再びヒャンユンに注意を戻した。
「………兄貴、というか皆さん一体誰を見てるんです?」
「ああ、お嬢様だ。どうも変な虫がついているらしいからな」
チャクトの言葉にお嬢様と呼ばれた女性を凝視したチョンドンは、小さな悲鳴をあげた。
「ど、どうした」
「あっ、あれ………??あの人……俺、知ってます……」
「えっ?ヒャンユンを?どこで?」
あれはトンチャンと良い仲の、と言おうとして彼は慌てて口をつぐんだ。
─────えっ……じゃあ、あの娘はコン・ジェミョン様のところのお嬢様………?じゃあ、テウォン兄貴たちが言ってる変な虫って………………
すべての事象を合わせてみても、トンチャンとしか考えられなかった。チョンドンは適当に誤魔化すと、一人明後日の方向を向きながら額に一筋の汗を流すのだった。
昼下がり。もう片手で数えることさえ出来ない程に前になってしまったトンチャンとの思い出にまだ浸っているヒャンユンは、チョゴリの紐をしきりに触りながらにやつく顔を抑えきれずに不可解な笑いを繰り返していた。
「…………ねぇ、ヒャンユン。大丈夫?」
「うん、大丈夫!うふふ……ふふ………」
明らかに幸せそうな彼女に、ウンスを含めた商団の全員が訝しげな視線を送っている。そんな視線も気にせずぐっと伸びをすると、彼女はまたもや野良猫のようにふらっと町に出掛けていくのだった。
市場で特に何を買うわけでもなく商品を手にとって眺めていたヒャンユンは、一本の綺麗なノリゲに手をかけた。だが、同じ商品を取ろうとしたもう一つの手が重なる。か細く美しい手の持ち主は、苛立ちげに声を荒げた。
「私が先にみつけたの!………って」
「────あ。」
ヒャンユンが驚いて顔をあげると、そこには見覚えのある顔が立っていた。
「────シネ!?」
「ヒャンユン!?義州で養療してたときに会ったあの?」
そこに立っていたのは、ユン・ウォニョンとチョン・ナンジョンの一人娘であるユン・シネだった。ヒャンユンにとっては、同い年の知り合いが少ない義州で出会ったかけがえのない親友である。
「久しぶりね!元気にしてた?いつ都に戻ったの?なんで知らせなかったの?今何してるの?」
「そ、そんなに質問されても、返事出来ないわよ……」
敬語を使いそうになったヒャンユンは、慌てて頭の中で普通の言葉を選び直した。シネの方が身分も家も上なのだが、彼女は自分が認める親友に敬語を使われることを嫌がっていた。天下の小尹派の娘である彼女が、唯一心を開いて何でも話せる友がヒャンユンだった。
そもそも二人が出会ったいきさつは、シネが一時期病弱だったことにある。丁度流行り病が流行っていたため、娘が罹患するのを恐れたユン家は、病が及んでいない義州に彼女を送ったのだ。そしてそこで同い年で彼女の話し相手をしてくれたのがヒャンユンだったのだ。シネは母親譲りの美貌と父親の財力を持ち、そして甘やかされて育ったために傲慢で傍若無人な性格だった。それでもヒャンユンだけは、他の娘たちが嫌がる中で何故かシネと気が合ったのだ。
都でも地方でも、何処に行っても唯一の親友であるヒャンユンとの再会を喜んだシネは、彼女の手を引いた。
「ちょっと、何処に行くの?」
「うちに来て!お母様にも会って!美味しいお菓子があるの!あと、刺繍も手伝って!」
「刺繍は手伝うものじゃないと思うけど……」
「いいから!ほら、早く!ヒャンユン~!」
いつも通り強引なシネに圧され、ヒャンユンは引きずられるようにしてユン家に連れていかれた。
今では都一の家であるユン家は、彼女が言葉を失うくらいに広かった。
「広…………いね」
「流石に私でも、何処に何があるのかわかってないから、ちょっと広すぎる気がするけどね」
「独りにしないでね、シネ。私、迷っちゃいそう……」
「大丈夫!今日はしっかり私の話を聞いてもらうから!」
目を輝かせて話すシネに、何事かと思った使用人が現れた。女中長のチョングムはヒャンユンに気づくと、訝しげな顔で品定めするような視線を送った。
「ちょっとチョングム。失礼でしょ。私の親友なの!」
「あら、お嬢様にお友だちが居るとは思わず……失礼しました」
「何よそれ。お母様はいる?」
険に障るような言葉を発したチョングムにいつものシネなら怒るところだが、今日はそれどころではなかった。
「ええ、いらっしゃいますよ。お部屋には今、マッケ叔父様も居ますけど……」
「別にいいわ。行きましょ、ヒャンユン」
「え、あ……うん」
またもやシネに連れられるがままにナンジョンの部屋までやって来たヒャンユンは、彼女が母親に説明し終えるまで廊下で待つこととなった。長い廊下の先を見ていると、何故か彼女は来たこともないはずの家で懐かしい気分に囚われた。
────ここ………知ってる?でも、どうして?
確かにこんな広い家には来たことがないはずなのにと思っていると、シネが扉から顔を出して手招きした。
「入って!お母様がヒャンユンに会いたいって!」
「あ、うん。わかった」
部屋に通されると、ヒャンユンはすぐに部屋の奥で座っている美しい女性がシネの母であると気づいた。美しさの中に冷ややかさを湛えたその顔に、彼女は無意識に思わず引き付けられた。しばらくして挨拶をせねばと思い立つと、彼女は立ち上がって丁寧に一礼した。
「ご挨拶します。コン・ヒャンユンと申します。」
「そなたの話は聞いておる。コン・ジェミョン大行首の娘だそうだな。」
「はい、奥様」
今まで会ったどんな娘よりも礼儀正しく、しっかりしているヒャンユンをナンジョンは一目で娘の親友として気に入った。それは彼女の隣にいた兄のチョン・マッケも同じだった。
「シネ様の友としては申し分ない娘だな、ナンジョン」
「ええ。シネには友が居なかったので、本当に嬉しい限りです。宜しく頼みますよ、ヒャンユン」
「恐縮です、奥様」
「ねぇ、もういいでしょ?私の部屋に来て!」
しびれを切らせたシネが子供のような声を出して肩を怒らせる。その様子を見たナンジョンは、相変わらず我が儘な娘を諫めた。
「シネ!あまり友を困らせるでない」
「わかっています!さ、行きましょ!」
「では、失礼します」
母親を適当にあしらい、部屋を出たシネは部屋に行く振りをして菓子の包みを取ると、そのままヒャンユンの手を取ってそろりと裏口から抜け出した。
「ちょっと、シネ!何してるのよ。部屋に行くんじゃなかったの?」
「そうよ。気が変わったの!うちの商団へ来て!楽しいから」
しれっと気が変わったと言う姿に、ヒャンユンはシネが気移りする性格であることを思い出した。
「楽しいって………勝手に行っても大丈夫なの?」
「直接仕切ってるドンジュ伯母様は私の母の兄嫁だから、きっとヒャンユンのことも歓迎してくれるわ。私がきちんと話するから。お願い!」
結局いつも通り押し切られてしまい、彼女は言われるがままに親友の商団へと向かうのだった。
チョン・ナンジョン商団は、ヒャンユンが度肝を抜かれるほどに規模が大きかった。古今東西ありとあらゆる国の商品が所せましと並べられている搬入所を見て、彼女は正にここは国一番の商団だなと感心した。
「うちは朝鮮一の商団よ。欲しいものがあったら言ってね。ハネる商品があればそこから持ってくるから」
「ううん!そんな、大丈夫だよ……うん」
シネがそう言うのも、ヒャンユンにはあっさりと納得が出来た。どこの商団と比べても、あまりに規模が違いすぎる。
見とれている隙に置いていかれた彼女は、応接室に我が物顔で入っていくシネを追いかけ、自分も部屋に邪魔した。部屋の中には洞察力が光る、聡明そうな女性が座っていた。
「ドンジュ伯母様!私の親友のヒャンユンよ。コン・ジェミョン商団のとこの大行首の娘なの」
「コン・ジェミョン大行首の?ああ………」
同業者の娘であることにドンジュは一瞬難色を示したが、何も知らなさそうなぼおっとした令嬢が内情視察など出来るわけがないかと思うと、すぐに笑顔に変わった。
「ようこそ。シネお嬢様のご親友なら、ゆっくりしていってくださいね」
「恐縮です。」
「ねぇ、もういい?色々案内したいの。」
「ええ、どうぞ」
久しぶりの友との再会に喜びが止まらないシネは、さっさと挨拶を切り上げると部屋を出ようとした。だがそこに丁度報告に来たトンチャンが現れ、ヒャンユンと鉢合わせをした。
「失礼しま………………え……?」
「あっ……」
いつも通りの気だるい表情をしながら部屋に入ってきたトンチャンは、疲れからの見間違い或いは幻覚ではないだろうかと思ったが、すぐに現実にヒャンユンが目の前に立っていると悟り、一体何事かと目を白黒させ始めた。
「ええと…………な、なんでヒャンユンがここに……」
「知り合いなの?だとしても私の親友なんだから、ぞんざいな口の聞き方しないで!コン・ジェミョン大行首様のご息女なんだから!"お嬢様"くらいつけなさいよ」
「ち、ちょっとシネ………」
全てのことを暴露されたヒャンユンは、顔面蒼白でトンチャンの顔を後ろめたそうに見た。
「…………失礼しました、ヒャンユン"お嬢様"」
そのトンチャンの他人行儀で棘のある返事に、彼女は完全に嫌われてしまったと確信した。
────嘘をついてたんだもの。仕方がないけど……けど………トンチャン………なんでここに………?
何とか一言でも言わなければと思い立った瞬間、トンチャンは既にドンジュに報告を始めていた。取り残されたような感覚と、大きな立ちくらみに耐えきれず、ヒャンユンはシネを追って部屋を出た。
商団を見学している最中も、ヒャンユンは時おり視界に入るトンチャンを目で追っていた。
───ごめんなさい、トンチャン………
声に出さない謝罪が届くわけもなく、彼は黙々と商品の仕分けをしている。だが、それは装いだけで、彼もヒャンユンのことを横目で気づかれないように追っていた。
────やっぱり、俺の側に来たのは気まぐれだったんだ。あんな眩しい人が、俺の手に届くわけがない。俺はあの人から見れば、ただの曰牌のシン・ドンチャンなんだ………
それでも目で探してしまうのは何故なのか。彼は現実を受け入れられない恋心の処遇にすっかり困り果てていた。そんな時、彼の部下の一人がヒャンユンに声を掛けた。
「どうも、お嬢様」
「そんな……お嬢様だなんて。」
「愛想のいいお嬢さんなら、うちの商団の男どもはいつでも大歓迎ですからね」
明らかに浮わついている同じく曰牌の部下たちに苛立つと、トンチャンは片っ端から帳簿で頭を叩き始めた。
「お前ら!仕事しろ!浮わつくな」
「酷いですよ兄貴!」
「うるせえ。黙って仕事しろ!」
ここで部下に何かちょっかい、はたまた口説きはされないだろうかという杞憂が急にトンチャンの中に生じた。彼は注意深く周りの反応を観察しながら、少しでもヒャンユンに近づこうとする部下は仕事をするよう促し、可愛い可愛いと連呼する奴はついでに一発お見舞いした。
そうこうしているうちに、部下たちはトンチャンがヒャンユンのことを気に入っていることに勘づき、むしろ反対に珍しく弱点が見えている彼をいじり始めた。
「兄貴、ああいうのが好みなんですね」
「知りませんでしたよー」
「うるせえ!誰がそんなこと────」
「顔が赤いですよ?兄貴!」
「そうですよ。俺たちを羨ましがるなら、声でも掛ければいいのに」
「黙れ!お前ら、殺されたいのか?」
怒声で一蹴しようとしたものの逆効果になってしまったトンチャンには、もはや黙っておくしか選択肢が残されていなかった。
ふと、彼はヒャンユンの頭上にある布と巻き取っている板が無造作に積み上げられていることに目を留めた。隣では部下が作業をしている。一人の男が別の商品を押し退けて荷物を置いた瞬間、トンチャンの中で警鐘が鳴り響いた。
────危ない!
読み通り、布と板が棚から落ち、ヒャンユンめがけて落ちていく。予測してあったため、咄嗟に動いたトンチャンは人目も憚らず彼女を抱き締めて地面に押し倒した。
先程までヒャンユンの頭があった場所に荷物は落ちていた。あと少し遅かったらと思うと、トンチャンは腕の中の大切な人が無傷であることを確かめてほっとした。だが、我にかえってとんでもないことに気づいてしまう。そう、トンチャンはヒャンユンを自分の胸に抱き止めているのだ。自身でも状況が飲み込めない彼は、同じく思考を停止させ、潤む両目を見開いているヒャンユンをまじまじと見た。
「…………あり……がとう。」
「気……気にしないでください。そ……それよりもお怪我は……」
「無い……よ。大丈夫……うん」
大袈裟な音を聞き付けたシネがその場に駆けつけたため、トンチャンは何事もなかったかのようにヒャンユンを名残惜しさも残さぬよう身体から離すと、隣で突っ立っている部下を叱責した。
「お前は馬鹿か!鳥頭か!商品は大事に扱えってあれほど言っただろうが!奥様の前に引きずり出してやろうか」
「す、すみません、兄貴」
「このお方は、シネお嬢様にとって大事な人だ。そうでなくとも、気を付けろ」
────そして、俺にとっても。
彼は心の中でそう思うと、秘めた思慕を込めた視線でヒャンユンを見た。シネに質問攻めにされている彼女はそんなトンチャンに気付く素振りもない。
自分の恋は、終わった。
そんな風に思った彼の心の中には、慣れているはずの苦い思いが広がるのだった。
商団見学を終えたヒャンユンはシネとは別方向にある家に帰るため、路地で別れを告げた。
「じゃあ、また今度ね」
「うん、ありがとう。楽しかった。」
こうして手を振って歩きだそうとした彼女だったが、またしてもシネに予想外の提案を押し付けられた。
「あ、そうだ。トンチャン。あなた、ヒャンユンを送ってあげて」
「え?」
「いいから。親友に危険が及んじゃ困るわ。早く!」
言われるがままにヒャンユンの後ろを、あくまでも警護として歩くことになったトンチャンは、その背中を遠い目で見ていた。
───こんなことになるなら、俺は…………
会いたいなんて思わなかったのに。自分が惨めで無力に思えて、握りしめた拳が震える。
「ねぇ、どうして後ろにいるの?隣に来ればいいのに」
「一介の曰牌が、お嬢様と並んで歩くわけにはいきません。」
「え……………」
そこまで怒らせてしまったのかと勘違いしたヒャンユンは、突然立ち止まってくるりと後ろを向いた。トンチャンも立ち止まり、一体何をする気なのかと様子をうかがっている。彼女は予想通りにそのまま無言で口をへの字にしてつかつかと大股で近づいたが、トンチャンも後ろ歩きで一定の距離を空けた。前の両班の家の塀から塀の距離を歩いても諦める様子がない彼女は、どこまで相手が耐えられるかどうかをもはや試していた。
そしてついに市場通りの中央に差し掛かったため、彼はやむを得ず立ち止まることとなった。
「何なんですか」
「敬語も、距離も。そんなに怒ってるの?」
トンチャンはその問いに嘘をついた。
「いえ、怒ってませんけど」
「怒ってる。絶対怒ってる。」
「だから怒ってないって言ってるだろうが!」
なぜこんなにこの娘は自分の思いを乱してくるのだろうか。トンチャンは苛立ち、つい今にも泣きそうになっているヒャンユンに声を荒げてしまった。その怒声に周囲の行き交う人々が思わず注目する。だが、彼女の口から出てきた言葉は意外なものだった。
「だから………ごめんなさい!本当に、ごめんなさい。私、いつかは言わなきゃと思ってたの。でも……でも……トンチャンに距離を置かれるのが怖かったの!」
悪気がないのも、怖いのもよく伝わっていた。だが、それでもやはり数々の女性に欺かれた過去を持つトンチャンは、心の傷が疼くままにヒャンユンを責めずにはいられなかった。
「………俺が……俺が知ったらこうなることくらい、わかっていたのなら………どうして俺の目の前に二度も現れたんですか」
「それは!その……………」
「俺との時間は、気楽なお嬢様の道楽だったんでしょう?家にいるよりも………」
卑屈な物の言いようにとうとう憤激したヒャンユンは、トンチャンに負けじと言い返した。
「遊びなんかじゃなかったわ!そんなつもりだったら、一日中あなたのことなんて考えなかった!」
「可愛い顔してるからって全てが許されると思ったら大間違いだからな!俺は騙されないからな!」
「可愛くないもん!目、おかしいんじゃない?」
「何だと?」
「だから!私は可愛くないからあなたの目が変って言いたいの!」
二人は肩で息をしながら互いを睨み付けた。そしてようやく周りの好奇の視線に気づき、慌てて目をそらした。
「…………ああ、恥ずかしい。」
人通りから離れて手をぱたぱたと振っているヒャンユンは、照れ隠しにそう言った。
「それは俺の台詞です!」
「敬語だったり、そうじゃなかったり………どっちかにしてよ」
「終始敬語ですが?」
「わかってるくせに。」
気まずい雰囲気がその場を支配する。そして二人はついに、コン・ジェミョン商団の塀が見える通りにまで来た。
「では、これで」
まだなにか言いたげなのを堪えているように見えるトンチャンがもどかしく、ヒャンユンはその腕を掴んで引っ張った。
「ねぇ………嫌いにならないで………本当に…本当に、ごめんなさい。でも、私の気持ちは……………嘘じゃない。町娘のコン・ヒャンユンは嘘だけど、コン・ヒャンユンの心は……嘘じゃないの……」
両目に涙を湛え、背中を押せばボロボロと泣き出しそうな姿にトンチャンはついに折れた。
「…………だったら、週末の祭りにこの場所で会おう。時刻は…………」
彼は少し考えると、どうせ来ないだろうという思いも込めてわざと時間を開始時刻ではなく、始まって少し後の昼間にした。
「未の刻だ。未の刻にあなたが来なければ、俺は二度とあなたを信じない。」
その言葉を聞いたヒャンユンは、瞳を輝かせて無邪気に大きくうなずいた。
「わかった!絶対信じさせてあげる!だから、トンチャンも絶対来てね。約束よ」
「はい。わかりました。」
その声からまだ信じてもらっていないことに気づいたヒャンユンは、寂しげな背中に向かって手を振りながら、絶対にトンチャンが安心して信じられるように待とうと決意するのだった。
帰宅したヒャンユンは、すぐに衣装入れからトンチャンに買ってもらった例のチマチョゴリと装身具の箱を取り出して部屋に並べ立てると、ウンスを茶菓子で釣って招き入れた。
「ねぇ、お菓子………えっ、何この部屋は!」
「ウンス!一生に一回のお願いなの。この服を着た私が一番きれいに見える装身具を選んで。あ、コチはこれでお願い。」
やけに真剣な従妹の姿を見て、ウンスはすっとんきょうな声をあげた。
「…………何よ?テウォンさんね!あの人は私のよ!」
「テウォンさんじゃないから、安心して。」
「テウォンさんじゃなきゃ誰なのよ。ほかにいい男なんてこの都にいた?」
ウンスの言葉を聞き、ヒャンユンは途端にものすごい剣幕で言い返した。
「いるの!テウォンさんなんかより、もーっと素敵で頼りになって、優しくて格好いい人がいるの!何よ、みんなテウォン、テウォンって…………」
「そんなにいいんなら、むしろ紹介してほしいくらいね。どこの誰なのよ」
未婚の女性の証で頭につけるためのペッシテンギを探しながら、ウンスがそうぼやく。流石にそれは困ると思ったヒャンユンは、さっとシネに分けてもらった菓子を取り出してウンスの口に入れた。
「あっ………それは………その………誰かってことは聞かないで助けてほしいの。お願いできる?」
食べ物には目がないウンスは突然素直になると、ご機嫌の様子で装身具選びを再開した。ヒャンユンは心の中で胸をほっと撫で下ろすと、自分のことを疑い続けているトンチャンが、約束を守って現れたときにどんな顔をするのだろうかと想像しながら口許を綻ばせるのだった。
そして祭りの当日、ヒャンユンは開始すぐから待ち合わせ場所に一人立っていた。布であしらわれた花のペッシテンギと蝶のコチが、彼女の美しさをより引き立てている。三編みの間にも真珠の装身具を通し、結び目に垂らしてある布の上では、きらきらと小さいながらも豪奢な金属の装身具が時おり揺れている。
─────未の刻まで待ってる。絶対、私の気持ちを証明してみせるんだから。あの人の不安なんて、すぐに取り去って差し上げるわ。
そんな意気込む彼女を見ている影がいくつか、待ち合わせ場所すぐ近くの見通しのよい飲み屋から見受けられる。
「誰なのかしら………本当に素敵な殿方だったら、私卒倒しちゃうかも」
「テウォン以上に格好いい男なんて、都にいたっけ?なぁ、トチ」
「お嬢様が即答するほど、テウォン以上に男前のやつなんて居ないでしょ。あり得ないですね。」
「とくと見物してみようじゃないか」
先程からまた何か食べているウンスを中心に、テウォン、トチ、そして執事のチャクトがヨジュの飲み屋からヒャンユンを観察していた。もちろん言い出したのはウンスなのだが、彼女には単なる好奇心だけでなく、テウォンと一緒にいたいという目論みもあった。
「はい、どうぞ。あら、コン・ジェミョン商団のみなさんじゃない。何やってるの?」
「え?ああ……ちょっと」
「はぁん……お嬢様に男が居るかもしれないから、見張ってるのね?」
「そういったところですかね……はは………」
注文した品を置きに来たヨジュを適当に誤魔化そうとしたテウォンだが、彼女の鋭い洞察力は瞬く間にその目論見を跳ね返した。話をそらさねばと思って辺りを見回したテウォンは、丁度チョンドンを見つけた。
「………お、チョンドンじゃないか!」
「えっ?あっ、テウォン兄貴!」
トンチャンと違ってすぐに殴らないテウォンになついているチョンドンは、満面の笑みで彼らの輪に入った。ヨジュが行ったことを見計らい、テウォンは再びヒャンユンに注意を戻した。
「………兄貴、というか皆さん一体誰を見てるんです?」
「ああ、お嬢様だ。どうも変な虫がついているらしいからな」
チャクトの言葉にお嬢様と呼ばれた女性を凝視したチョンドンは、小さな悲鳴をあげた。
「ど、どうした」
「あっ、あれ………??あの人……俺、知ってます……」
「えっ?ヒャンユンを?どこで?」
あれはトンチャンと良い仲の、と言おうとして彼は慌てて口をつぐんだ。
─────えっ……じゃあ、あの娘はコン・ジェミョン様のところのお嬢様………?じゃあ、テウォン兄貴たちが言ってる変な虫って………………
すべての事象を合わせてみても、トンチャンとしか考えられなかった。チョンドンは適当に誤魔化すと、一人明後日の方向を向きながら額に一筋の汗を流すのだった。