2、平凡な娘として
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翌日、ヒャンユンはトンチャンのことを二、三個程聞くためにテウォンとトチの姿を探した。だが二人は見当たらず、結局彼女は名前しか知らない彼にもう一度会いに行く決心がつかないまま、昨日と同じ格好で通りの石段に座り込んだ。
「はぁ…………私、何にも知らない人に恋してるなんて……」
そんな風にヒャンユンが悩む一方、トンチャンはチョンドンを捜し出して捕まえていた。
「あ、兄貴ぃ……何するんですか!」
「おいチョンドン。俺の手伝いをしろ。礼はするから」
「ええ………?危険なことで…ひぃっ!!!」
トンチャンは口答えをしそうになったチョンドンを殴る素振りを見せて脅すと、無理矢理言うことを聞かせた。
「……それで?何をして欲しいんですか?」
「ああ……それがだな……お前、昨日の娘を覚えているよな?」
「はい、覚えてますよ。あの美人の……」
チョンドンはすぐにヒャンユンのことを思い出した。そして、これがトンチャンの恋愛相談であることも容易に想像がついた。彼は込み上げてくる笑いを必死で抑えながら返事をした。だが、別の部分にトンチャンが反応する。
「お、おいお前、まさか狙ってるんじゃないよな?」
「ち、違いますよ!兄貴の女なんて、誰も怖くて手出しできませんよ……」
そこまで言って、チョンドンは我にかえって口をつぐんだ。
───しまったぁ………!
余計なことを言ってしまった。トンチャンに怖いは褒め言葉以外では禁句なのだ。チョンドンは殴られる覚悟で頭を必死で守ろうとした。だが、トンチャンの反応は意外なものだった。
「俺の……女、か。そう見えたか?」
「はい……?」
「あいつ、俺に気があるように見えたのか?ん?そうなのか?」
チョンドンは汗が吹き出すくらいに緊張しながら言葉を選んで返答した。
「ええと………まぁ……嫌われてはいないと……思いますけど……」
「そうか………ふふん」
普段の彼からは想像もつかないような気持ちが悪い笑い方をする姿に、チョンドンは背筋に悪寒が走る思いでばれないようため息をついた。
────ああ、気の毒な娘さん……それから気の毒な兄貴……そして、こんな先の見えてることに付き合わされてる気の毒な俺……
結局チョンドンはトンチャンに強引に肩を組まれて町を歩くはめになった。
「兄貴、探しても見つかる可能性は低いですよ」
「うるせえ!探せ!何としても……………」
彼がチョンドンの頭を殴ろうとした瞬間だった。彼の視界に、愁いげな面持ちをしたヒャンユンが飛び込んできた。
「あ…………居た。」
「痛いのはこっちの台詞ですよ!いつも俺のこと砂袋みたいに殴って………って、え?」
チョンドンから離れたトンチャンは、そのまま夢遊病のようにふらふらとヒャンユンに吸い寄せられるように近づいていった。トンチャンに会いたいのに会っても良いものかといった考え事をしていた彼女は、まだトンチャンの存在に気づいてはいない。石段の隣に黙って腰かけた彼は、気づかれないうちにヒャンユンを細部まで観察し始めた。
────まつげ………長くて可愛いな。それと目は………大きくて、潤んでて………これも可愛いな。あとは唇………ふっくらしてて、文句なしに良い。それから……ああ、そうだ。髪の後れ毛が妙に色っぽいんだよな……反則だろ…
トンチャンがヒャンユンのあらゆる部分で愛しさを噛み締めている間、もはや口許がにやけている彼に気分が悪くなってきたチョンドンは、退くに退かれぬ状態を呪っていた。
────ああ、もう、浮かれないでくださいよ!どうせ今回も綺麗に砕けるんですから!
トンチャンはずっと恋愛では失敗し続けていた。それは一重に、彼と同じ業界で働いているユン・テウォンの顔立ちがあまりに評判すぎるからであった。トンチャンと始めは仲が良くても、テウォンを見れば途端に興味を失うこともあったし、更には端からテウォン目当ての踏み台としてトンチャンを利用する女性まで居た。だから彼は度重なる失敗から、決して恋愛に積極的になることはなかった。少なくとも慎重に、相手の気持ちを確かめて自分が傷つかないように最大限の努力をしていた。けれど、今回のトンチャンは明らかに違っていた。まるでそんな下らないことなんて吹っ切れたと言いたげなくらい、ヒャンユンに対しては全力で挑んでいる。チョンドンはトンチャンの恋を今まで見てきたからこそ、ヒャンユンへの彼の想いが他の誰に対してよりも強いことには気づいていた。だから、余計に砕け散った後を想像するのが怖かった。
だが程無くして、そんなチョンドンの不安は杞憂となった。ヒャンユンがようやくトンチャンに気づいたのだ。
「ひゃっ!!!!」
「お、おう。」
驚き方も可愛らしいと見とれている彼の存在に、ヒャンユンはすっかり気が動転してしまった。
「いっ、いつからそこに?……じゃなくて、どうしてここに?」
「ええと……それは………」
ヒャンユンは嬉しさのあまり思わず質問攻めにしてしまったことに気づくと、我にかえって頭を下げた。
「ごめんなさい!私……その……実は今、トンチャンさんにお会いしたいけど、迷惑かなってずっと悩んでいたんです。だから、その……まさかこんな偶然にお会いできるなんて……思ってもみなくて……」
その言葉を聞いたチョンドンは、思わずヒャンユンの顔を二度見した。トンチャンにもう一度会いたくて悩む女性など、今まで見たこともなかったからだ。しかも彼女の顔は紅に負けないくらい真っ赤だった。
突然の思わぬ好意に、トンチャンは動揺を隠せなかった。彼はさりげなくヒャンユンとの距離を詰めると、蝶の髪飾りをつんと指で触って笑った。
「これ。ちゃんと着けてるじゃねえか」
「あ、これ?私の持ってる中で、可愛いから。それに……トンチャンさんにもしお会いするなら、これをつけたかったんです。」
「そ、そうか………ふぅん………」
「変ですか?やっぱり……」
誤解を生むような返事をしてしまったと直感で焦ったトンチャンは、咄嗟に直接的な返事をしてしまった。
「いや!似合ってる。綺麗だと思う。」
その言葉が、会って二日目の男からかけられれば、いかに気持ちが悪いかをトンチャンは口に出してから知った。だが、ヒャンユンの反応はまたもや予想外のものだった。
「本当ですか?綺麗だなんて、初めて言ってもらいました。」
「初めて?そんな訳がないだろ。だってこんなに………」
そこまで言って、流石に彼は口をつぐんだ。それでもヒャンユンは笑って誤魔化しているものの、トンチャンから見ても明らかに照れていた。
「こんなに褒めていただいて嬉しいんですが、結局私があなたにお礼するにはどうすれば良いんでしょうか?」
トンチャンはその問いに目を丸くした。
「お前、まだ覚えてたのか?」
「ええ。だって………忘れるに忘れられませんよ。初めて会った人に、あんなに親切にしていただいて……」
彼は少し考えると、普段よく使う悪知恵をふんだんに働かせて答えを導きだした。
「よし、だったら俺と一日過ごしてくれ」
「え?」
いきなりの誘いに、ヒャンユンは困惑した。だが芽生えたばかりの恋心が、笑顔でトンチャンが差し出す手を断れるわけがなく、彼女はいつの間にか考えていたことなど忘れて大好きな人の手を取るのだった。
チョンドンはトンチャンが話している最中に上手く入り込めないかどうか、二人の隙を探していた。そして、案の定トンチャンの方から助けてくれと言わんばかりの視線を投げ掛けられ、彼は渋々といった振りをして二人に近づいていった。
「どうも、お嬢さん!」
「あら……?この人、スリの……チョンドンさん?」
「そうです!よく覚えてましたね」
「覚えるのが得意なんです。」
それを聞いてトンチャンが少しだけ悲しそうな顔をした。自分だけが特別に覚えられていたわけではなかったということになるからだ。だがヒャンユンはそんな彼の気持ちも知らず、チョンドンに手を差し出した。
「宜しく、チョンドンさん」
「え、ええ……宜しく…」
チョンドンは今にも絞め殺しそうなくらいに殺気を飛ばしてくるトンチャンを横目で見ながら、ヒャンユンと恐怖の握手を交わした。
「チョンドンさんは、スリで捕まったことあります?」
「ありますよ!この前まで典獄署に居ました」
「あら……じゃあ私が捕盗庁に通報したらまた入れるじゃない。良かったわね、うふふ」
トンチャンと違って明るくはきはきしており、話も弾むチョンドンに無意識ではあるものの、気さくに話しかける彼女にしびれを切らせたトンチャンはついに二人の間に上手く割って入った。
「こいつ、俺の弟分なんだ。」
「そうなの?へぇ……じゃあ、トンチャンさんについて教えて」
「えっ?」
藪から棒のような質問にすっかり面食らったチョンドンは、何を話そうかと頭の中にある兄貴分の良いところを必死で探した。だが、どう転んでも破壊的な性格のトンチャンに、チョンドンから見て良いところはなかった。そんな彼の悩みに気づいたトンチャンは、肩を寄せると凄みの聞いた声で耳打ちした。
「おい、チョンドン。下手なこと言ったらぶっ殺してやるからな。」
「………上手いこと言ったら、飯奢ってくれます?」
「当たり前だろうが。あの子の好印象を買えたら、俺もお前も幸せになれる。それが取引ってもんだ」
チョンドンは取引成立を確証してようやく乗り気になると、ヒャンユンにトンチャンの良い部分だけを伝え始めた。
「じ、じゃあ………その………兄貴は、ここ一帯の曰牌の中では色々な意味で凄いんです。なんだと思います?」
「うーん………何かしら……一番格好いい……?」
またしても想定外の答えに、流石のトンチャンも照れ隠しについ浮わついた自分の心に嘘をついた。
「……お前、そんなにゴマすって何が欲しいんだよ」
「真剣に考えたんですよ!酷いです。」
頬を赤らめ膨れっ面をしたヒャンユンは、トンチャンを凝視した。彼は目を泳がせると、赤くなった顔を隠すようにそのままそっぽを向いてしまった。そんな二人の間をわざと両手で近づけたチョンドンは、笑顔で正解を語りだした。
「正解は……兄貴が国一番のチルペの市場通りで曰牌をしてるからですよ!」
「国一番の?」
「そう!だからこの国の商品のほとんどが兄貴のつけた値段……つまり、市場は兄貴のものですよ」
「すごい…………」
国一番の市場通りで曰牌として顔を効かせることは難しいことくらいは知っていたので、ヒャンユンは素直にトンチャンを褒めた。
「べ、別に……そんなすごくはねぇけどな……」
「凄いですよ!だって………」
すっかり照れてしまったトンチャンが下手なことを言わないよう、チョンドンは間髪いれず次の話に移った。
「あ!それと、腕っぷしは曰牌一です。これは本当。この人に喧嘩売ったらタダじゃ済みませんよ」
「へぇ………本当にすごいんですね……」
「ま、まぁ………それだけしか取り柄がないんだが……な」
実際確かにそうだと、口からとんでもない言葉が出てきそうになったチョンドンは思わず口を手で抑えた。
「強いし、優しいし、みんなに兄貴って慕われる訳がよくわかりました!ありがとう、チョンドンさん」
ヒャンユンはチョンドンの偏った情報で、ますますトンチャンを好きになっていた。もちろん、これが彼とトンチャンの狙いなのだから別に良かったのだが。
トンチャンはヒャンユンにその後も自分から話を振ることができず、ついに立場が逆転したチョンドンに首根っこを引っ張られ、裏通りに連れていかれてしまった。
「兄貴!自分から何か話さないと流石にまずいですよ!」
「わかってる!でも……何を話せばいいか……その……」
────いつも俺を脅すときはべらべら話せる癖に…
チョンドンが心の中でそう思っていると、心配したヒャンユンが通りをちらりと覗いてきた。彼は苦笑いして手を振ると、トンチャンに向き直り叱咤した。
「本気なんでしょ!?今回は絶対に落としたいから俺を頼ったんでしょ!?」
「そうだが…………その……勇気が………それと、何を話せばいいのか……」
体格がしっかりしているにも関わらず、もじもじしているトンチャンに苛立った彼は、ついにこの男の背中を文字通り押した。
「そんなの決まってるじゃないですか。適当に探すんですよ!ほら、本人を見て。可愛いお嬢さんをしっかり観察して、話題を探すんですよ!ほら!!」
「わっ!!」
チョンドンに押された先は、ヒャンユンの目の前だった。ぶつかりそうになった彼女を守るため、トンチャンは慌ててのけ反った。だがヒャンユンも彼を避けようとしたため、そのまま後ろにつんのめりそうになった。トンチャンは咄嗟にヒャンユンの手を掴み、自分の方に引き寄せた。もちろん二人は体勢を崩し、トンチャンはそのまま地面に尻餅をつき、ヒャンユンは彼の太股の上に乗った状態で腕の中に収まった。
驚くほど近くに居るヒャンユンの香りは、とても甘くて思わずトンチャンは開いた口を閉めるのを忘れてしまった。二人は暫くの間、時が止まったように見つめ合った。そして周囲の視線でようやく自分達が異様な距離に居ることに気がつき、慌てて立ち上がろうとした。だが、思うように足が動かず、ヒャンユンは再びトンチャンの腕の中に戻ってしまった。
「────怪我は、ないか?」
「え、ええ。あ、あなたは……?」
「俺は大丈夫だ。」
再度、沈黙がやって来た。ふと、ヒャンユンは自分が彼の上に乗ってしまっていることに気づき、後ろに転けるように立ち上がった。
「ご、ごめんなさい!!お、重くなかったですか……?」
「いや、大丈夫だ。……そもそもお前はそんなに重くないだろ」
「そう……ですかね?」
「………ああ。」
はにかみながらもヒャンユンは小さな声で礼を言った。一体それが何に対する礼であるかを、彼女自身も良く分かっていなかったとしても。
ヒャンユンがトンチャンに言われるがままに連れていかれた店は、都でも有名な服屋だった。色とりどりのチョゴリとチマを手にとって眺めながら、彼女は驚嘆の声を漏らした。
「わぁ……………本当に綺麗…」
義州にいる頃に買ってもらった勝負服よりも可愛らしいものばかりで、どれを見ても胸がときめいた。ふと、彼女はすぐ隣にトンチャンが居ることに気づき、思わず息を止めた。
「俺が選んで買ってやる。」
その申し出に流石のヒャンユンも目が点になり、慌てて両手を振って遠慮し始めた。
「やっ、やだ………そんな………とんでもない値段になりますよ!」
「お前が俺の言うこと一日聞くって言ったんだろうが。ほら、どけ。」
「えぇ…………?」
トンチャンに半ば強引に圧され、ヒャンユンは嬉しさ半分、気後れ半分で服を選び始めたトンチャンを見た。もちろん、これは彼の大きな賭けだった。会って二日目の男に服を買ってもらうなど、誰だって気後れすることは彼も充分承知の上だった。だが、逆に彼はその思いを坂手に取ろうというのだ。
────これであいつは当分俺に大きな借りができる。そうすれば、恩を返そうとしてまた会ってくれる。何度も会っていれば、こんな俺だっていつものテウォンみたいに、そのうちあいつの気持ちの中に入り込めるかもしれない。
そんな計算が彼の頭を一周した頃、選んだ服に着替えを終えたヒャンユンが現れた。
「…………変…ですか?」
「いや…………その…………綺麗だ。」
トンチャンが言う通り、薄絹でできた反物を所せましと飾っている部屋の中に居ても、ヒャンユンは本当に綺麗だった。消え入りそうなくらい淡い薄桃色のチョゴリに、白い糸で蝶の刺繍が施された黒いチマが良く映えている。重みがある色のはずなのに、ヒャンユンが着ればそれはまるで蝶の羽のように軽々とふわついて見えた。
「これ、兄貴が選んだんですか?」
チョンドンは驚くほど予想外に良い出来映えに、信じられないというような顔でトンチャンとヒャンユンの間で視線を移動させている。
「そうだ。…………靴は?」
「あ、まだです。これでしたよね?」
彼女の手に収まっているのは、花が刺繍された普通の女性のものよりやや小ぶりの赤い靴だった。
「足、それで入るか?」
「大丈夫です。ちょっと足が人より小さいんです。」
「そうか。」
彼女がそう言って靴を履こうとしたときだった。さっと目の前にトンチャンがしゃがみこみ、靴を履くために掴まる場所を探している手を取って自分の肩に置いた。
「………ほら、足。早く出せ」
「えっ────」
男性に足を差し出すことを躊躇したヒャンユンに苛立つと、彼はやや強引に小さく可愛らしい足を引き寄せて靴を履かせた。
靴はまるでしつらえたかのようにぴったりとヒャンユンの足に入った。肩に乗せた自分の手からトンチャンに速まる鼓動が伝わるのではないかと恐れ、彼女は残りの靴は自分で履こうとしたが、拾う前にトンチャンに奪われてしまった。
「自分で履くから大丈……ひゃっ!!」
彼女は恥じらいから足を出さないという最後の抵抗を試みたが、またもや強引に足を掴まれたせいで逆にこけそうになってしまい、トンチャンの肩をさっきよりも強く掴むはめになってしまった。
「お前はこけたいのか?さっさと足を出せばいいのに」
「私にも恥じらいはあります!」
「…………なら良かった」
もう何も言い返せず、ヒャンユンはすっかり顔を赤くしてうつむいてしまった。もうこの二人なら大丈夫だと確信したチョンドンは、飯の奢りの件を念押しするとその場を後にした。
残された二人の初々しい男女はその不釣り合いさから周りの視線を集めながらも、互いのことで精一杯すぎてただ黙々と道を歩いた。端から見れば奇妙な過ごし方だったが、二人にとっては至福の時だった。
しばらくすると、どちらが言い出したわけでもなく二人は都の外れにある東屋にやって来た。そしてどちらが言い出したわけでもなく、二人は木で出来た長椅子の両端に腰掛けた。
夕陽と沈黙がその場を支配する。そして、珍しくその沈黙を解いたのはトンチャンの方だった。
「…………なぁ。」
「…………はい」
「俺のこと………どう……思う?」
「あなたのことですか?」
「そう。俺のことだ。」
彼は緊張のせいでかすれそうな声を必死で絞り出してヒャンユンに尋ねた。彼女は少し考えると、笑顔で返事をした。
「優しい人!今はまだそれしか…それしか、わかりませんけど」
「………そうか。」
その声がどこか寂しげだったので、ヒャンユンは一目でトンチャンがその答えに不満だと気づいた。自分の好意をさりげなく伝えるにはどうすればいいのか。彼女は少し考えると、勇気を出して自分の肩がトンチャンの腕に当たるくらいまで横に移動して、そのままぴったりくっついた。
「────でも、これから色々分かるんですよね。きっと、私が知らないあなたのもっと素敵なところが沢山あるはずだから………その度に私はあなたのことがもっと………」
好きになる、と言いかけて彼女は自分の口に手を当てた。驚きでトンチャンは目が点になり、口は半開きになった。産まれて初めてこんなに好きになった人から、淡い好意を寄せられている。その事実に彼の胸は打ち震えた。必死で抱き締めたい想いを抑え、彼はヒャンユンの手にさりげなく自分の手を重ね、こう言った。
「────トンチャンでいい。」
「え?」
「トンチャンでいい。さんとか兄貴とか、そういうのは要らない。敬語も止めろ。気持ちが悪い」
そこまで言って、気持ち悪いは心象が悪いと思った彼は咳払いするとヒャンユンの手に勢いで自分の指を絡めて近づいた。
「だから!俺とお前は、そんなに遠い仲じゃないから特別にいいってことだ!」
「…………それって、もっと仲良くなってもいいってこと……?」
喜びと手をしっかり握られている衝撃で頭が真っ白になっている彼女は、きょとんとした顔で首を軽くかしげた。そんな彼女にトンチャンがぶっきらぼうに頷く。
「じ、じゃあ、トン……チャン。」
「何だ」
「私のことも………お前じゃなくて……その……名前で呼んでもらっても………」
普段は明朗快活なヒャンユンが弱々しく彼に尋ねる。その可愛らしさに彼はもうどうすればいいのか分からなくなってしまい、ただ小さく頷いた。
「本当?嬉しい!ありがとう、トンチャン!」
「………別に。大したことじゃない………お前…じゃなくてヒャンユンの頼みなら、大抵のことは聞いてやれる」
名前を呼ぶだけで胸が苦しくなる人がいるのか。手が触れるだけで死んでもいいと思える人がいるのか。トンチャンはありふれた恋愛話にいつもそんな疑いを持っていた。だが、今日それは全て実在すると証明された。自分とは無縁のような、物語の中にしかないような気持ちが今の心の中を支配していることが不思議でならなかった。
彼は名残惜しくも手を離して立ち上がると、元来た道を黙々と歩き始めた。その姿を追ってヒャンユンも立ち上がると、小走りで彼の隣に並んだ。
「待って!私たち……………また会える?」
「…………ヒャンユンが会いたいんなら、また会える。」
その言葉が何よりも嬉しくて、彼女は思わず涙が溢れそうになった。それからはお互い、また一言も喋らずに肩を並べて歩いた。だが、その距離は先程よりも明らかに近くなっている。
別れを惜しむようにゆっくり歩いたせいで、町に着く頃にはすっかり陽が落ちてしまっていた。ヒャンユンはトンチャンに身分がばれたくない思いから、家のすぐ近くでさよならを告げた。彼も運良く仕事があり、そのまま二人は大通で別れることになった。
「今日はありがとう!本当に楽しかった!またね、トンチャン!」
「ああ。………俺も、久しぶりに楽しかった。またな、ヒャンユン」
「うん!」
トンチャンが見えなくなるまで、ヒャンユンは手を振り続けた。彼もまた、道を曲がってヒャンユンが見えなくなるまでに四、五回程振り返って照れ臭そうに手を振り返した。
こうして、二人の甘酸っぱいひとときは終わりを告げた。ヒャンユンはまだ商団で商品の整理をしていることを確認すると、いそいそと自室に向かおうとした。だが、運悪くジェミョンとウンスに鉢合わせしてしまった。
「あ、ヒャンユン。」
「今帰ったのか。おかえり」
「お、おかえりなさい」
何か言われる前にさっさと部屋へ行こうと、慌てて向きを変えた彼女の背中にウンスが一言投げかけた。
「あら?ヒャンユン、昨日整理手伝ったけど、そんな服持ってたっけ?」
「えっ?あっ、ああ………こ、これ?」
「本当だな。お前が選ぶ柄でも色でもない。……どこかで買ってもらったのか?」
ヒャンユンは生唾を飲み込むと、平静を装い笑顔で振り向いた。
「こ、これは、義州のおばあさまが買ってくれたのよ。いいでしょ」
「うん!綺麗。いいなぁ、ヒャンユンは義州に花嫁修行に行って。ねえ、おじさん!私も義州に行きたい!」
「お前は充分落ち着きがある。ヒャンユンには無いから必要なだけだ」
ウンスがジェミョンにねだりはじめた所を見計らい、ヒャンユンは小走りでその場を後にした。
「………あら、ヒャンユン?」
「………逃げたのか?」
「変なの。しかも何だかにやついちゃってたし」
恐ろしいほど勘のいいウンスは、従姉妹のヒャンユンの些細な変化を見逃さなかった。さすがに心配になったジェミョンは、顔をしかめて首をかしげた。
「………男か?」
「さぁ…………気になるなら、私がテウォンさんに聞いとくわ」
「ああ、悪いが頼んだ。」
「はぁい!」
もちろん二人とも、あのトンチャンが相手であることなど見当がつくはずもなかったため、頭の中は疑問で一杯になるのだった。
そのころ、トンチャンはチョン・ナンジョン商団にいた。彼は神妙な面持ちで代理大行首のミン・ドンジュにこういった。
「――――俺を、ここで雇ってください。」
「…今までの態度が嘘のようだな。」
「少し、叶えたい夢が出来たもので。」
「そうか。それは良かった」
夢。それはヒャンユンの隣にいても恥ずかしくない男になることだった。彼の好敵手であるユン・テウォンも、コン・ジェミョン商団に入ってからただの曰牌でなくなった。だから自分もこのままではいけないとトンチャンは思ったのだ。
そのためなら、どんなことでもやってみせる。
この心に燻るように燃える決意が、自身とヒャンユンの運命を変えることなど、トンチャンはまだ知る由もなかった。
「はぁ…………私、何にも知らない人に恋してるなんて……」
そんな風にヒャンユンが悩む一方、トンチャンはチョンドンを捜し出して捕まえていた。
「あ、兄貴ぃ……何するんですか!」
「おいチョンドン。俺の手伝いをしろ。礼はするから」
「ええ………?危険なことで…ひぃっ!!!」
トンチャンは口答えをしそうになったチョンドンを殴る素振りを見せて脅すと、無理矢理言うことを聞かせた。
「……それで?何をして欲しいんですか?」
「ああ……それがだな……お前、昨日の娘を覚えているよな?」
「はい、覚えてますよ。あの美人の……」
チョンドンはすぐにヒャンユンのことを思い出した。そして、これがトンチャンの恋愛相談であることも容易に想像がついた。彼は込み上げてくる笑いを必死で抑えながら返事をした。だが、別の部分にトンチャンが反応する。
「お、おいお前、まさか狙ってるんじゃないよな?」
「ち、違いますよ!兄貴の女なんて、誰も怖くて手出しできませんよ……」
そこまで言って、チョンドンは我にかえって口をつぐんだ。
───しまったぁ………!
余計なことを言ってしまった。トンチャンに怖いは褒め言葉以外では禁句なのだ。チョンドンは殴られる覚悟で頭を必死で守ろうとした。だが、トンチャンの反応は意外なものだった。
「俺の……女、か。そう見えたか?」
「はい……?」
「あいつ、俺に気があるように見えたのか?ん?そうなのか?」
チョンドンは汗が吹き出すくらいに緊張しながら言葉を選んで返答した。
「ええと………まぁ……嫌われてはいないと……思いますけど……」
「そうか………ふふん」
普段の彼からは想像もつかないような気持ちが悪い笑い方をする姿に、チョンドンは背筋に悪寒が走る思いでばれないようため息をついた。
────ああ、気の毒な娘さん……それから気の毒な兄貴……そして、こんな先の見えてることに付き合わされてる気の毒な俺……
結局チョンドンはトンチャンに強引に肩を組まれて町を歩くはめになった。
「兄貴、探しても見つかる可能性は低いですよ」
「うるせえ!探せ!何としても……………」
彼がチョンドンの頭を殴ろうとした瞬間だった。彼の視界に、愁いげな面持ちをしたヒャンユンが飛び込んできた。
「あ…………居た。」
「痛いのはこっちの台詞ですよ!いつも俺のこと砂袋みたいに殴って………って、え?」
チョンドンから離れたトンチャンは、そのまま夢遊病のようにふらふらとヒャンユンに吸い寄せられるように近づいていった。トンチャンに会いたいのに会っても良いものかといった考え事をしていた彼女は、まだトンチャンの存在に気づいてはいない。石段の隣に黙って腰かけた彼は、気づかれないうちにヒャンユンを細部まで観察し始めた。
────まつげ………長くて可愛いな。それと目は………大きくて、潤んでて………これも可愛いな。あとは唇………ふっくらしてて、文句なしに良い。それから……ああ、そうだ。髪の後れ毛が妙に色っぽいんだよな……反則だろ…
トンチャンがヒャンユンのあらゆる部分で愛しさを噛み締めている間、もはや口許がにやけている彼に気分が悪くなってきたチョンドンは、退くに退かれぬ状態を呪っていた。
────ああ、もう、浮かれないでくださいよ!どうせ今回も綺麗に砕けるんですから!
トンチャンはずっと恋愛では失敗し続けていた。それは一重に、彼と同じ業界で働いているユン・テウォンの顔立ちがあまりに評判すぎるからであった。トンチャンと始めは仲が良くても、テウォンを見れば途端に興味を失うこともあったし、更には端からテウォン目当ての踏み台としてトンチャンを利用する女性まで居た。だから彼は度重なる失敗から、決して恋愛に積極的になることはなかった。少なくとも慎重に、相手の気持ちを確かめて自分が傷つかないように最大限の努力をしていた。けれど、今回のトンチャンは明らかに違っていた。まるでそんな下らないことなんて吹っ切れたと言いたげなくらい、ヒャンユンに対しては全力で挑んでいる。チョンドンはトンチャンの恋を今まで見てきたからこそ、ヒャンユンへの彼の想いが他の誰に対してよりも強いことには気づいていた。だから、余計に砕け散った後を想像するのが怖かった。
だが程無くして、そんなチョンドンの不安は杞憂となった。ヒャンユンがようやくトンチャンに気づいたのだ。
「ひゃっ!!!!」
「お、おう。」
驚き方も可愛らしいと見とれている彼の存在に、ヒャンユンはすっかり気が動転してしまった。
「いっ、いつからそこに?……じゃなくて、どうしてここに?」
「ええと……それは………」
ヒャンユンは嬉しさのあまり思わず質問攻めにしてしまったことに気づくと、我にかえって頭を下げた。
「ごめんなさい!私……その……実は今、トンチャンさんにお会いしたいけど、迷惑かなってずっと悩んでいたんです。だから、その……まさかこんな偶然にお会いできるなんて……思ってもみなくて……」
その言葉を聞いたチョンドンは、思わずヒャンユンの顔を二度見した。トンチャンにもう一度会いたくて悩む女性など、今まで見たこともなかったからだ。しかも彼女の顔は紅に負けないくらい真っ赤だった。
突然の思わぬ好意に、トンチャンは動揺を隠せなかった。彼はさりげなくヒャンユンとの距離を詰めると、蝶の髪飾りをつんと指で触って笑った。
「これ。ちゃんと着けてるじゃねえか」
「あ、これ?私の持ってる中で、可愛いから。それに……トンチャンさんにもしお会いするなら、これをつけたかったんです。」
「そ、そうか………ふぅん………」
「変ですか?やっぱり……」
誤解を生むような返事をしてしまったと直感で焦ったトンチャンは、咄嗟に直接的な返事をしてしまった。
「いや!似合ってる。綺麗だと思う。」
その言葉が、会って二日目の男からかけられれば、いかに気持ちが悪いかをトンチャンは口に出してから知った。だが、ヒャンユンの反応はまたもや予想外のものだった。
「本当ですか?綺麗だなんて、初めて言ってもらいました。」
「初めて?そんな訳がないだろ。だってこんなに………」
そこまで言って、流石に彼は口をつぐんだ。それでもヒャンユンは笑って誤魔化しているものの、トンチャンから見ても明らかに照れていた。
「こんなに褒めていただいて嬉しいんですが、結局私があなたにお礼するにはどうすれば良いんでしょうか?」
トンチャンはその問いに目を丸くした。
「お前、まだ覚えてたのか?」
「ええ。だって………忘れるに忘れられませんよ。初めて会った人に、あんなに親切にしていただいて……」
彼は少し考えると、普段よく使う悪知恵をふんだんに働かせて答えを導きだした。
「よし、だったら俺と一日過ごしてくれ」
「え?」
いきなりの誘いに、ヒャンユンは困惑した。だが芽生えたばかりの恋心が、笑顔でトンチャンが差し出す手を断れるわけがなく、彼女はいつの間にか考えていたことなど忘れて大好きな人の手を取るのだった。
チョンドンはトンチャンが話している最中に上手く入り込めないかどうか、二人の隙を探していた。そして、案の定トンチャンの方から助けてくれと言わんばかりの視線を投げ掛けられ、彼は渋々といった振りをして二人に近づいていった。
「どうも、お嬢さん!」
「あら……?この人、スリの……チョンドンさん?」
「そうです!よく覚えてましたね」
「覚えるのが得意なんです。」
それを聞いてトンチャンが少しだけ悲しそうな顔をした。自分だけが特別に覚えられていたわけではなかったということになるからだ。だがヒャンユンはそんな彼の気持ちも知らず、チョンドンに手を差し出した。
「宜しく、チョンドンさん」
「え、ええ……宜しく…」
チョンドンは今にも絞め殺しそうなくらいに殺気を飛ばしてくるトンチャンを横目で見ながら、ヒャンユンと恐怖の握手を交わした。
「チョンドンさんは、スリで捕まったことあります?」
「ありますよ!この前まで典獄署に居ました」
「あら……じゃあ私が捕盗庁に通報したらまた入れるじゃない。良かったわね、うふふ」
トンチャンと違って明るくはきはきしており、話も弾むチョンドンに無意識ではあるものの、気さくに話しかける彼女にしびれを切らせたトンチャンはついに二人の間に上手く割って入った。
「こいつ、俺の弟分なんだ。」
「そうなの?へぇ……じゃあ、トンチャンさんについて教えて」
「えっ?」
藪から棒のような質問にすっかり面食らったチョンドンは、何を話そうかと頭の中にある兄貴分の良いところを必死で探した。だが、どう転んでも破壊的な性格のトンチャンに、チョンドンから見て良いところはなかった。そんな彼の悩みに気づいたトンチャンは、肩を寄せると凄みの聞いた声で耳打ちした。
「おい、チョンドン。下手なこと言ったらぶっ殺してやるからな。」
「………上手いこと言ったら、飯奢ってくれます?」
「当たり前だろうが。あの子の好印象を買えたら、俺もお前も幸せになれる。それが取引ってもんだ」
チョンドンは取引成立を確証してようやく乗り気になると、ヒャンユンにトンチャンの良い部分だけを伝え始めた。
「じ、じゃあ………その………兄貴は、ここ一帯の曰牌の中では色々な意味で凄いんです。なんだと思います?」
「うーん………何かしら……一番格好いい……?」
またしても想定外の答えに、流石のトンチャンも照れ隠しについ浮わついた自分の心に嘘をついた。
「……お前、そんなにゴマすって何が欲しいんだよ」
「真剣に考えたんですよ!酷いです。」
頬を赤らめ膨れっ面をしたヒャンユンは、トンチャンを凝視した。彼は目を泳がせると、赤くなった顔を隠すようにそのままそっぽを向いてしまった。そんな二人の間をわざと両手で近づけたチョンドンは、笑顔で正解を語りだした。
「正解は……兄貴が国一番のチルペの市場通りで曰牌をしてるからですよ!」
「国一番の?」
「そう!だからこの国の商品のほとんどが兄貴のつけた値段……つまり、市場は兄貴のものですよ」
「すごい…………」
国一番の市場通りで曰牌として顔を効かせることは難しいことくらいは知っていたので、ヒャンユンは素直にトンチャンを褒めた。
「べ、別に……そんなすごくはねぇけどな……」
「凄いですよ!だって………」
すっかり照れてしまったトンチャンが下手なことを言わないよう、チョンドンは間髪いれず次の話に移った。
「あ!それと、腕っぷしは曰牌一です。これは本当。この人に喧嘩売ったらタダじゃ済みませんよ」
「へぇ………本当にすごいんですね……」
「ま、まぁ………それだけしか取り柄がないんだが……な」
実際確かにそうだと、口からとんでもない言葉が出てきそうになったチョンドンは思わず口を手で抑えた。
「強いし、優しいし、みんなに兄貴って慕われる訳がよくわかりました!ありがとう、チョンドンさん」
ヒャンユンはチョンドンの偏った情報で、ますますトンチャンを好きになっていた。もちろん、これが彼とトンチャンの狙いなのだから別に良かったのだが。
トンチャンはヒャンユンにその後も自分から話を振ることができず、ついに立場が逆転したチョンドンに首根っこを引っ張られ、裏通りに連れていかれてしまった。
「兄貴!自分から何か話さないと流石にまずいですよ!」
「わかってる!でも……何を話せばいいか……その……」
────いつも俺を脅すときはべらべら話せる癖に…
チョンドンが心の中でそう思っていると、心配したヒャンユンが通りをちらりと覗いてきた。彼は苦笑いして手を振ると、トンチャンに向き直り叱咤した。
「本気なんでしょ!?今回は絶対に落としたいから俺を頼ったんでしょ!?」
「そうだが…………その……勇気が………それと、何を話せばいいのか……」
体格がしっかりしているにも関わらず、もじもじしているトンチャンに苛立った彼は、ついにこの男の背中を文字通り押した。
「そんなの決まってるじゃないですか。適当に探すんですよ!ほら、本人を見て。可愛いお嬢さんをしっかり観察して、話題を探すんですよ!ほら!!」
「わっ!!」
チョンドンに押された先は、ヒャンユンの目の前だった。ぶつかりそうになった彼女を守るため、トンチャンは慌ててのけ反った。だがヒャンユンも彼を避けようとしたため、そのまま後ろにつんのめりそうになった。トンチャンは咄嗟にヒャンユンの手を掴み、自分の方に引き寄せた。もちろん二人は体勢を崩し、トンチャンはそのまま地面に尻餅をつき、ヒャンユンは彼の太股の上に乗った状態で腕の中に収まった。
驚くほど近くに居るヒャンユンの香りは、とても甘くて思わずトンチャンは開いた口を閉めるのを忘れてしまった。二人は暫くの間、時が止まったように見つめ合った。そして周囲の視線でようやく自分達が異様な距離に居ることに気がつき、慌てて立ち上がろうとした。だが、思うように足が動かず、ヒャンユンは再びトンチャンの腕の中に戻ってしまった。
「────怪我は、ないか?」
「え、ええ。あ、あなたは……?」
「俺は大丈夫だ。」
再度、沈黙がやって来た。ふと、ヒャンユンは自分が彼の上に乗ってしまっていることに気づき、後ろに転けるように立ち上がった。
「ご、ごめんなさい!!お、重くなかったですか……?」
「いや、大丈夫だ。……そもそもお前はそんなに重くないだろ」
「そう……ですかね?」
「………ああ。」
はにかみながらもヒャンユンは小さな声で礼を言った。一体それが何に対する礼であるかを、彼女自身も良く分かっていなかったとしても。
ヒャンユンがトンチャンに言われるがままに連れていかれた店は、都でも有名な服屋だった。色とりどりのチョゴリとチマを手にとって眺めながら、彼女は驚嘆の声を漏らした。
「わぁ……………本当に綺麗…」
義州にいる頃に買ってもらった勝負服よりも可愛らしいものばかりで、どれを見ても胸がときめいた。ふと、彼女はすぐ隣にトンチャンが居ることに気づき、思わず息を止めた。
「俺が選んで買ってやる。」
その申し出に流石のヒャンユンも目が点になり、慌てて両手を振って遠慮し始めた。
「やっ、やだ………そんな………とんでもない値段になりますよ!」
「お前が俺の言うこと一日聞くって言ったんだろうが。ほら、どけ。」
「えぇ…………?」
トンチャンに半ば強引に圧され、ヒャンユンは嬉しさ半分、気後れ半分で服を選び始めたトンチャンを見た。もちろん、これは彼の大きな賭けだった。会って二日目の男に服を買ってもらうなど、誰だって気後れすることは彼も充分承知の上だった。だが、逆に彼はその思いを坂手に取ろうというのだ。
────これであいつは当分俺に大きな借りができる。そうすれば、恩を返そうとしてまた会ってくれる。何度も会っていれば、こんな俺だっていつものテウォンみたいに、そのうちあいつの気持ちの中に入り込めるかもしれない。
そんな計算が彼の頭を一周した頃、選んだ服に着替えを終えたヒャンユンが現れた。
「…………変…ですか?」
「いや…………その…………綺麗だ。」
トンチャンが言う通り、薄絹でできた反物を所せましと飾っている部屋の中に居ても、ヒャンユンは本当に綺麗だった。消え入りそうなくらい淡い薄桃色のチョゴリに、白い糸で蝶の刺繍が施された黒いチマが良く映えている。重みがある色のはずなのに、ヒャンユンが着ればそれはまるで蝶の羽のように軽々とふわついて見えた。
「これ、兄貴が選んだんですか?」
チョンドンは驚くほど予想外に良い出来映えに、信じられないというような顔でトンチャンとヒャンユンの間で視線を移動させている。
「そうだ。…………靴は?」
「あ、まだです。これでしたよね?」
彼女の手に収まっているのは、花が刺繍された普通の女性のものよりやや小ぶりの赤い靴だった。
「足、それで入るか?」
「大丈夫です。ちょっと足が人より小さいんです。」
「そうか。」
彼女がそう言って靴を履こうとしたときだった。さっと目の前にトンチャンがしゃがみこみ、靴を履くために掴まる場所を探している手を取って自分の肩に置いた。
「………ほら、足。早く出せ」
「えっ────」
男性に足を差し出すことを躊躇したヒャンユンに苛立つと、彼はやや強引に小さく可愛らしい足を引き寄せて靴を履かせた。
靴はまるでしつらえたかのようにぴったりとヒャンユンの足に入った。肩に乗せた自分の手からトンチャンに速まる鼓動が伝わるのではないかと恐れ、彼女は残りの靴は自分で履こうとしたが、拾う前にトンチャンに奪われてしまった。
「自分で履くから大丈……ひゃっ!!」
彼女は恥じらいから足を出さないという最後の抵抗を試みたが、またもや強引に足を掴まれたせいで逆にこけそうになってしまい、トンチャンの肩をさっきよりも強く掴むはめになってしまった。
「お前はこけたいのか?さっさと足を出せばいいのに」
「私にも恥じらいはあります!」
「…………なら良かった」
もう何も言い返せず、ヒャンユンはすっかり顔を赤くしてうつむいてしまった。もうこの二人なら大丈夫だと確信したチョンドンは、飯の奢りの件を念押しするとその場を後にした。
残された二人の初々しい男女はその不釣り合いさから周りの視線を集めながらも、互いのことで精一杯すぎてただ黙々と道を歩いた。端から見れば奇妙な過ごし方だったが、二人にとっては至福の時だった。
しばらくすると、どちらが言い出したわけでもなく二人は都の外れにある東屋にやって来た。そしてどちらが言い出したわけでもなく、二人は木で出来た長椅子の両端に腰掛けた。
夕陽と沈黙がその場を支配する。そして、珍しくその沈黙を解いたのはトンチャンの方だった。
「…………なぁ。」
「…………はい」
「俺のこと………どう……思う?」
「あなたのことですか?」
「そう。俺のことだ。」
彼は緊張のせいでかすれそうな声を必死で絞り出してヒャンユンに尋ねた。彼女は少し考えると、笑顔で返事をした。
「優しい人!今はまだそれしか…それしか、わかりませんけど」
「………そうか。」
その声がどこか寂しげだったので、ヒャンユンは一目でトンチャンがその答えに不満だと気づいた。自分の好意をさりげなく伝えるにはどうすればいいのか。彼女は少し考えると、勇気を出して自分の肩がトンチャンの腕に当たるくらいまで横に移動して、そのままぴったりくっついた。
「────でも、これから色々分かるんですよね。きっと、私が知らないあなたのもっと素敵なところが沢山あるはずだから………その度に私はあなたのことがもっと………」
好きになる、と言いかけて彼女は自分の口に手を当てた。驚きでトンチャンは目が点になり、口は半開きになった。産まれて初めてこんなに好きになった人から、淡い好意を寄せられている。その事実に彼の胸は打ち震えた。必死で抱き締めたい想いを抑え、彼はヒャンユンの手にさりげなく自分の手を重ね、こう言った。
「────トンチャンでいい。」
「え?」
「トンチャンでいい。さんとか兄貴とか、そういうのは要らない。敬語も止めろ。気持ちが悪い」
そこまで言って、気持ち悪いは心象が悪いと思った彼は咳払いするとヒャンユンの手に勢いで自分の指を絡めて近づいた。
「だから!俺とお前は、そんなに遠い仲じゃないから特別にいいってことだ!」
「…………それって、もっと仲良くなってもいいってこと……?」
喜びと手をしっかり握られている衝撃で頭が真っ白になっている彼女は、きょとんとした顔で首を軽くかしげた。そんな彼女にトンチャンがぶっきらぼうに頷く。
「じ、じゃあ、トン……チャン。」
「何だ」
「私のことも………お前じゃなくて……その……名前で呼んでもらっても………」
普段は明朗快活なヒャンユンが弱々しく彼に尋ねる。その可愛らしさに彼はもうどうすればいいのか分からなくなってしまい、ただ小さく頷いた。
「本当?嬉しい!ありがとう、トンチャン!」
「………別に。大したことじゃない………お前…じゃなくてヒャンユンの頼みなら、大抵のことは聞いてやれる」
名前を呼ぶだけで胸が苦しくなる人がいるのか。手が触れるだけで死んでもいいと思える人がいるのか。トンチャンはありふれた恋愛話にいつもそんな疑いを持っていた。だが、今日それは全て実在すると証明された。自分とは無縁のような、物語の中にしかないような気持ちが今の心の中を支配していることが不思議でならなかった。
彼は名残惜しくも手を離して立ち上がると、元来た道を黙々と歩き始めた。その姿を追ってヒャンユンも立ち上がると、小走りで彼の隣に並んだ。
「待って!私たち……………また会える?」
「…………ヒャンユンが会いたいんなら、また会える。」
その言葉が何よりも嬉しくて、彼女は思わず涙が溢れそうになった。それからはお互い、また一言も喋らずに肩を並べて歩いた。だが、その距離は先程よりも明らかに近くなっている。
別れを惜しむようにゆっくり歩いたせいで、町に着く頃にはすっかり陽が落ちてしまっていた。ヒャンユンはトンチャンに身分がばれたくない思いから、家のすぐ近くでさよならを告げた。彼も運良く仕事があり、そのまま二人は大通で別れることになった。
「今日はありがとう!本当に楽しかった!またね、トンチャン!」
「ああ。………俺も、久しぶりに楽しかった。またな、ヒャンユン」
「うん!」
トンチャンが見えなくなるまで、ヒャンユンは手を振り続けた。彼もまた、道を曲がってヒャンユンが見えなくなるまでに四、五回程振り返って照れ臭そうに手を振り返した。
こうして、二人の甘酸っぱいひとときは終わりを告げた。ヒャンユンはまだ商団で商品の整理をしていることを確認すると、いそいそと自室に向かおうとした。だが、運悪くジェミョンとウンスに鉢合わせしてしまった。
「あ、ヒャンユン。」
「今帰ったのか。おかえり」
「お、おかえりなさい」
何か言われる前にさっさと部屋へ行こうと、慌てて向きを変えた彼女の背中にウンスが一言投げかけた。
「あら?ヒャンユン、昨日整理手伝ったけど、そんな服持ってたっけ?」
「えっ?あっ、ああ………こ、これ?」
「本当だな。お前が選ぶ柄でも色でもない。……どこかで買ってもらったのか?」
ヒャンユンは生唾を飲み込むと、平静を装い笑顔で振り向いた。
「こ、これは、義州のおばあさまが買ってくれたのよ。いいでしょ」
「うん!綺麗。いいなぁ、ヒャンユンは義州に花嫁修行に行って。ねえ、おじさん!私も義州に行きたい!」
「お前は充分落ち着きがある。ヒャンユンには無いから必要なだけだ」
ウンスがジェミョンにねだりはじめた所を見計らい、ヒャンユンは小走りでその場を後にした。
「………あら、ヒャンユン?」
「………逃げたのか?」
「変なの。しかも何だかにやついちゃってたし」
恐ろしいほど勘のいいウンスは、従姉妹のヒャンユンの些細な変化を見逃さなかった。さすがに心配になったジェミョンは、顔をしかめて首をかしげた。
「………男か?」
「さぁ…………気になるなら、私がテウォンさんに聞いとくわ」
「ああ、悪いが頼んだ。」
「はぁい!」
もちろん二人とも、あのトンチャンが相手であることなど見当がつくはずもなかったため、頭の中は疑問で一杯になるのだった。
そのころ、トンチャンはチョン・ナンジョン商団にいた。彼は神妙な面持ちで代理大行首のミン・ドンジュにこういった。
「――――俺を、ここで雇ってください。」
「…今までの態度が嘘のようだな。」
「少し、叶えたい夢が出来たもので。」
「そうか。それは良かった」
夢。それはヒャンユンの隣にいても恥ずかしくない男になることだった。彼の好敵手であるユン・テウォンも、コン・ジェミョン商団に入ってからただの曰牌でなくなった。だから自分もこのままではいけないとトンチャンは思ったのだ。
そのためなら、どんなことでもやってみせる。
この心に燻るように燃える決意が、自身とヒャンユンの運命を変えることなど、トンチャンはまだ知る由もなかった。