1、迷いこんだ蝶
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それから時が経ち、朝鮮王朝明宗の頃。一人の娘が義州から来た船より、都の地へ降り立った。
「わぁ………久しぶりの都だわ……!」
娘は辺りをきょろきょろ見渡しながら瞳を輝かせた。
「宿に向かいますので、行きましょうか」
「ええ。その後お父様のお迎えが来るのね?」
「はい。」
義州にいる祖父母の屋敷からやって来た執事に連れられ、彼女はヨジュが営む酒場兼宿屋にやって来た。見かけない顔だというような表情を向けられ、娘は咄嗟に、この都なら誰でもすぐ出自がわかるような挨拶をした。
「コン・ヒャンユンと申します。ええと…コン・ジェミョン商団のコン・ジェミョン大行首の娘で、今日義州から戻ったばかりなんです」
「あら!コン・ジェミョンさんのお嬢さんなのね!こんなに可愛いお嬢さんがいたなんて。さ、上がって!」
16歳の娘───コン・ヒャンユンは矢継ぎ早に繰り出される女将のヨジュの話に辟易しながら、執事と共に部屋へ上がった。
「食事はどうなされますか?」
「まだいいわ。……それより、都を見たいの!」
突然そう願いだした彼女は、驚きで目を丸くする執事を凝視した。
「え?都をですか?」
「そう!ねぇ、ちゃんとお迎えが来るまでには戻るから」
ヒャンユンが大きく澄んだ目を潤ませると、ついに執事の方がおれた。
「うーん……わかりました。申の刻までには帰ってきてくださいね」
「やったぁ!ありがとう!」
「それと、服装もややみすぼらしくしてくださいよ。都は変なやつらもいますから。世間知らずのお嬢様だと知られては困ります」
と言うと、執事は荷物の中から常民が着る服を取り出してきた。ヒャンユンは喜んでそれを受けとると、彼が居なくなった頃を見計らって着替え始めた。
「これで誰が見ても大行首の娘には見えないわよね。」
彼女は自分の姿に大満足し、大喜びで外に飛び出すと辺りを見回した。
「わぁ………すごい……綺麗なノリゲ……」
ヒャンユンはすぐに市場に置いてある色彩々のノリゲに目を留めると、人混みに紛れて商品を観察し始めた。
「どれも綺麗……」
そんな風に彼女が商品に見とれている姿は、目立たない服を着ていながらもあらゆる人の視線を集めた。
その中の一人が、曰牌(ならず者)のトンチャンだった。トンチャン兄貴と呼ばれて恐れられるほどに喧嘩早い性格の彼は、すぐに近くの男に尋ねた。
「おい、あの女。誰か知ってるか?」
「ト、トンチャン兄貴!いや……知りませんね。初めて見る顔です。」
「ふぅん………新参者か………」
トンチャンは男の隣をさっさとすり抜け、ヒャンユンの姿をまじまじと観察し始めた。
「おじさん、これおいくら?」
「ああ、ざっと10両かな」
「えっ!?義州のときよりも高いじゃない………」
「都は元から物価が高いからなぁ。物価を調節しているのは俺たちじゃないから、仕方がないさ」
「残念ね……綺麗なのに……」
そのがっかりする姿もあまりに愛らしくて、思わずトンチャンはもう少し値下げが出来るだろうと、横から店主に文句を言いたくなってしまった。
ふと、彼は商品に夢中になっているヒャンユンの隣に忍び寄る男に気がついた。男は彼女の金銭が入っている巾着を音も立てずに盗むと、嬉しそうにその場から逃れようとした。その顔に見覚えがあったトンチャンは、すかさず男の頭を掴んだ。
「おい、チョンドン」
「ト、ト、ト、ト、トンチャン兄貴!!」
「盗みはいけねぇぜ、チョンドン。こちらのお嬢さんに謝りな」
「は……はい?」
意外な相手に仕事を邪魔されたこそ泥のチョンドンは、頭を掴まれたままヒャンユンに向き直った。
「あの……これ………お返しします………」
「あら?………落ちてたの?それとも……」
「おい、お嬢さん。都にはスリが多いから、気を付けろよ」
「スリなのね!だから都って、買い物するときは二人くらいでって言われるのね……」
案外能天気な調子のヒャンユンに驚いてしまったチョンドンは、自分よりも体格も良く、背が高いトンチャンを見上げた。
「あのぉ………そろそろ、戻っても……?」
「てめぇ、捕盗庁に突き出してやる」
「えぇ!そんなぁ………兄貴、返したんですから、許してくださいよ!!兄貴ぃ!」
また捕らえられるのかと思うと半泣きになってしまったチョンドンに失笑しながら、ヒャンユンは微笑んだ。
「チョンドンっていうのね、あなた。」
「は、はい………」
「今度私の巾着取ったら、そのときは捕盗庁に言ってもらうわね」
チョンドンはその言葉を聞いて慌てて逃げ出してしまった。ヒャンユンは彼の背中を見送ってからトンチャンに向き直った。
「あの……ありがとうございます。」
「……いや、礼は……いい。それより、店主」
「お、おう……トンチャンか……」
「このコチ、いくらなんだ」
コチ───先程のかんざしを指差したトンチャンは、有無を言わさない表情で店主を睨み付けた。もちろん彼はすっかり萎縮してしまい、ものの3両でコチを売ってしまった。
「あの………なんだか、すみません………」
「蝶の髪飾りか。……あんたらしい」
「え?」
ヒャンユンはきょとんとしながらトンチャンを見た。彼は途端に耳まで真っ赤にしてそっぽを向いた。
「べ、別に!何でもない。」
「とにかく、ありがとうございます。なんてお礼したらいいか……」
「礼なら、昼飯でいい。」
「お昼ですか?いいですよ!ええと……どこがいいですか……?」
真剣に悩みだすヒャンユンをみて、トンチャンはいよいよ驚いてしまった。
「あんた、一体どこから来たんだ?」
「義州です。しばらく祖父母に預けられていたんですが、父のもとに帰ってきたんです。」
「ふぅん…………」
「都は慣れていないんです。それだけですよ」
そんな二人のやり取りを見ていた町の人々と、先程首尾よく逃げたチョンドンは、トンチャンを呆れながら笑っていた。
「あれは、完璧にお気に入りですね」
「そうだな。トンチャンのお気に入りとは……何とも気の毒だな」
「あんなに可愛いのに………」
トンチャンは兄貴と呼ばれる程に、誰もが認める札付き男だった。機嫌を損ねれば手がつけられなくなるし、褒めすぎればすぐに頭に乗って人をこきつかいだす。それがトンチャンだった。だが、そんな彼の特性を知るわけもないヒャンユンは、どんどん彼に周りが驚くようなことをしていった。
「ねぇ、あれは?なぁに?」
「………お、おう……あれは……ええと……」
何気なく肩に手を置かれたトンチャンは、驚いて一瞬どもってしまった。それだけでも周りからは驚嘆の声が密かに上がったのに、ヒャンユンは更にこんなことも言った。
「なぁんだ、知らないのね」
「お、俺を誰だと思ってるんだ。それくらい知ってる。」
「そう。でも、私はあなたが誰だか知らないの。それはあなたも同じよね?」
「……まぁ……な」
あっさりとやり込められたトンチャンは、ヒャンユンの後ろで赤面することしか出来ずにいた。彼女は本当に蝶のようだった。可憐で自由気ままに飛んでいると思ったら、途端に飛ぶのを止めて場所も特に何も考えず選んで羽を休める。それが偶然自分の肩に留まっただけだと思うと、トンチャンは急に悲しく思った。だが、同時にこれは絶好の機会だと感じた。彼は見た目に似合わず無い勇気を必死に出して、手を差し出しながらヒャンユンの隣に立った。
「………危ないぞ、都はどんなやつがいるか分からないからな」
「あなたみたいな?」
「………え?」
またもや目を丸くしたトンチャンに屈託の無い笑顔を向けると、彼女は差し出された手には気づかずにトンチャンの顔を見た。
「嘘よ。あなたって頼もしいのね。都の殿方って、みんなこんな人たちなの?」
「そ、それは………」
トンチャンは咄嗟に、掴む場所を探そうとして宙を舞うヒャンユンの手を握った。思わず彼女の頬が赤く染まる。
「あ…………」
「い、行くぞ。離れるなよ」
「は、はい………」
父親以外の男性の手に初めて触れた彼女の鼓動が高鳴る。
────素敵………
背が高く、不器用でも優しい。そんなトンチャンが、いつのまにか彼女の心の中に溶け込んでいた。そしてトンチャンの心の中にも、天真爛漫で放っておけないものの、可愛くて美しいヒャンユンがはっきりと入り込んでいた。
互いの鼓動が聞こえてしまいそうで、二人は必死で別の話題を探した。だが、何も考えられない。とうとう居ても立ってもいられなくなったヒャンユンが、この和やかな沈黙を破った。
「あ、あの!」
「………何だ?」
「お名前……」
消え入りそうな声でそう尋ねる彼女に、トンチャンは少し考えるとこう答えた。
「俺か?俺は、トンチャンだ。曰牌のトンチャン兄貴………と言えばすぐに誰でもわかる」
「そうなんですか………トンチャン……………わ、私も兄貴って付けたほうがいいですか?」
その質問に思わずトンチャンは吹いてしまった。
「な、何故笑うのですか?」
「いや、面白いやつだな。別にお前は兄貴なんて付けなくていい。」
妙なことを言ったわけではなくて良かった、と胸を撫で下ろしたヒャンユンに、今度はトンチャンが尋ねた。
「お前は?誰だ」
「私ですか?私は……ええと………」
その瞬間、彼女の脳裏にコン・ジェミョンの娘だと言えば、きっと対等に仲良くしてもらえないのではという不安が過った。なので間髪入れず、彼女は一言、コン・ヒャンユンだと名乗った。
「ふぅん…………ヒャンユン……か。雰囲気通りの名前だな」
「そ、そうですか……?」
「ああ。……着いたぞ、店。」
トンチャンに促され、ヒャンユンは何の変哲もない店に入った。そして、そういえば礼をするために昼食に来たのだと思い出した。だが、このような店へ行ったことはなく、彼女は注文の仕方がわからず戸惑ってしまった。その様子を見て、トンチャンは横からクッパを二つ注文した。
「……すみません……」
「お前、一体どういう育ち方したんだよ………」
「こういうお店、初めてで……」
「え?そんなことって……いや……いいんだけどな…別に……」
不意にトンチャンの中で、本当にただの町娘なのかという疑問が浮かんで消えた。いや、正確には無理矢理意識の外に追い出した。
───もし、町娘じゃないなら………俺みたいな……俺みたいなごろつき、相手にしないよな。だったらまだ町娘の方がいい。そうすれば、ひょっとしたらいつか俺のこと、好きになってくれるかもしれないんだからな。
彼はそんな思いを込めながら、ヒャンユンを眺めた。そのトンチャンのいつもとは違う温かな眼差しに、周りの人々は皆気づいていたが、彼女だけは相変わらず気づいていなかった。むしろ世間知らずで不自然だったため、自分の身分に気づかれたのではと焦っていた。
────やだ……気づかれちゃったかな……?町娘らしくって……難しいよ……トンチャンさん、気づいてませんように……!!
心の中で必死にそう願う彼女には、余裕などなかった。そして、ふと気づいた。
───あれ……どうして私、この人に嫌われたくないって思ってるんだろう…………
一気に色々な思いが押し寄せ、ヒャンユンの頭はすっかり真っ白になってしまった。そんなちぐはぐな二人がそれぞれの思考に向き合う中、偶然にもジェミョンの使いでヒャンユンを迎えに行こうとしているユン・テウォンとその親友トチが店の隣を通った。素通りしようとしているトチに、トンチャンを見つけたテウォンが彼の肩を掴んだ。
「おい、トチ。トンチャンが女と食事してるぞ」
「それ本当か?お!本当だ。………何で?」
きょとんとするトチを悪戯っ子のような笑顔を浮かべるテウォンが小突く。
「知るか。隣に座って冷やかしに行くか?」
「殺されるぞ、テウォン。それより申の刻までにお嬢様を宿に迎えに行かないとな。」
「ああ、そうだった。急ぐか」
二人はトンチャンの前でクッパを美味だと頬張る娘がそのお嬢様だとは気づくことなく、そのまま道を急ぐのだった。
食事が済んだヒャンユンが代を払おうとすると、トンチャンがさっさと支払いを済ませてしまった。驚いた彼女は、慌ててトンチャンの手を掴んだ。
「だっ、駄目です!お礼が出来ていません!」
「もう充分、礼になってる。」
「そんな………」
「それより、お前が礼をしきれていないと思って、今日が終わっても俺のことを覚えていてくれる方が嬉しい」
「ずいぶん意地悪ですね……」
少しだけ意地悪なトンチャンにまた惹かれたヒャンユンは、言われなくても覚えていますと心の中で言った。彼女は手を振ると、店の前でそのままトンチャンと別れた。だがその直後、陽の傾きを見てすっとんきょうな声をあげた。
「あ!!お父様のお迎え………」
ヒャンユンは慌てて左右を見渡した。もちろん帰り方が分からないので探しているのは宿屋への道ではない。彼女は人混みを掻き分け、トンチャンの手を恥ずかしさをかなぐり捨てて必死で掴むと、その歩みを止めさせた。
「す、すみません!!ど、どうやって宿屋に帰ればいいかわかりません……」
突然のことに驚いたトンチャンは何事かと思い振り返ったが、すぐにヒャンユンだと分かってうっすらと笑顔を浮かべた。
「………どこの宿屋だ」
「ええと……最初に私たちが会ったところのすぐ前にある店です!」
トンチャンは少し考えると、困り果てているヒャンユンの顔を見た。
「ヨジュの店か………急いでいそうだな」
「申の刻までに帰るって言ったのに、忘れていました……あはは……」
どこまでも世話を焼かせるなとさすがに呆れたトンチャンは、有無を言わさず彼女の手を掴んで走り出した。
「手、離すなよ。」
「えっ…あ、は、はい!」
ヒャンユンのチマの裾と、トンチャンの鉢巻きの結び残しが同じ風に乗ってはためいた。
─────これが、恋?
そしてその瞬間、彼女の心の中にトンチャンへの確かな想いが芽生えた。彼はどこまでも力強くて頼もしく優しい、正にヒャンユンの理想の男だった。だからこそ他の人に道を聞かず、わざわざ探しに戻ったのかも知れないと彼女は思った。
トンチャンに連れられて走っても完全に約束の時刻は過ぎており、ヒャンユンはおそるおそる宿屋を覗いた。外には既に血相変えた執事が待機しており、彼女は裏口から入れないかどうかを探した。すると、トンチャンがなんと宿屋の塀を乗り越えて手を差しのべてきた。
「おい、早くしろ。ここから入れる」
「あ、ありが………わっ……!!」
腕を掴んだ瞬間、彼女は易々と片手で塀まで引き上げられたのだ。だが、その短い悲鳴は驚嘆からではなかった。引き上げられた先は、なんとトンチャンの腕の中だったからだ。
「……………あ…あ……あの………その………っ」
「これでまたお前に借りが作れた。今度会ったときはきっちり返してもらう。」
「かっ………返しますよ!」
「それにしてもお前、軽いな。」
「えっ───きゃっ………!!」
陰険な笑みを浮かべるトンチャンに対して赤面したヒャンユンに、更なる追い討ちがかけられた。彼女はトンチャンに塀から抱き抱えられて降りたのだ。その事実に気づいた彼女は、いよいよ一言も発せ無くなってしまった。
「…………あ……ありがとう……ございます………」
「じゃあな。」
トンチャンはそう言うと、そのまま塀を再び登って帰ってしまった。残されたヒャンユンはしばらく唖然としていたが、やがてすぐに服を着替えなければと思い立ち、慌てて部屋に戻っていった。
部屋から着替えて出ると、ヒャンユンは待ちぼうけを食らわされているテウォンとトチに鉢合わせした。
「あっ!お嬢様ですか?」
彼女の出で立ちを見てすぐに反応したトチが、仮眠用に使っていた食事台の椅子から飛び起きて挨拶をした。
「え、ええ………お父様のお迎え?」
「…だったんですが、ね」
「え?」
テウォンが気まずそうにそう言うと同時に、ヒャンユンの背後から懐かしい声がした。
「ヒャンユン!」
「お、お父様!?」
彼女が振り向くと、そこには心配を顔に描いたような表情をしたジェミョンが立っていた。さすがに罪悪感を覚えた彼女は、先程の元気さとはうって変わり、すっかりしょぼくれてしまった。
「大行首様まで心配で来られたんですよ。今までお一人でどこに行っていたんですか?都は危ないのに……」
「そうだ!全く、どんな危ないやつに付いていったのかと心配していたんだぞ」
すると、ヒャンユンはその言葉に目を輝かせて答えた。
「一緒に居る人はいましたが、危ない人ではないです!」
「え?」
「誰だかは、内緒です。でもとにかく、とっても優しくて頼もしくて………しっかりした人です!」
彼女は勿論、トンチャンのことん思い浮かべながらその人の雰囲気を形容し始めた。普段とは違うトンチャンの姿など想像もつくわけがなく、トチとテウォンとジェミョンは思い思いの"いい人"を思い浮かべている。
「そうか。いい人で良かったな。それより、従姉妹のウンスがお前に会うのを楽しみにしてるんだ。早く行こう」
「はい!お父様」
満面の笑顔でそう返事をしたヒャンユンは、父と慕う人のあとに上機嫌で付いていった。唖然とする執事を労うと、テウォンたちもその後を追ってゆっくりと歩きだした。
誰が見ても仲の良い親子であり、娘思いの父、そして父思いの孝行者の娘だと知られているジェミョンとヒャンユンがまさか実の親子ではないとは、このときテウォンたちも知らないことだった。
そして、ヒャンユン自身もまた知る由もなかった。
挨拶を一通り済ませ、ヒャンユンは自分の部屋に入った。場所こそ子供のときと全く変わっていないが、所々が年相応の娘のためにジェミョンが設えてくれたとおぼしき部分があり、彼女はそんな部分を見つけては温かな気持ちになっていた。
彼女は蝶の髪飾りを取り出すと、今日のことを思い出した。
「ああ……素敵な人だったわ…………」
───運命の人、かしら?
そんな浮かれたことを考えているうちに、ヒャンユンはトンチャンのこんな言葉を思い出した。
───曰牌のトンチャン兄貴と言えば、すぐに誰でもわかる。
「トンチャンさん……か……素敵な名前。」
全てが素敵という言葉に相応しいように思える彼はヒャンユンにとって初恋ではなかったのだが、まるで今までの恋が嘘のように思えるほど、彼女の心は想いと出会えた喜びに震えていた。
───もし、もう一度会えるならどこなのだろう。明日も会ってはいけないだろうか。迷惑にならないだろうか。そんな気持ちがいつの間にか彼女の思考を完全に支配していた。
同じ頃、市場通りで商品の点検をしていたトンチャンも、心ここに有らずの状態で仕事をしていた。
「兄貴。トンチャン兄貴!」
「あ、ああ………」
「しっかりしてくださいよ、兄貴。心ここにあらずになってますよ」
「………別に。俺は大丈夫だ」
気丈を装ったものの、子分たちにしっかりしてくれと諭されるほど、自分は注意力が散漫だったのだろうかと思って何気なく帳簿と商品を見比べてみると、彼は一瞬で顔色を青ざめさせた。
「げっ!!」
──俺が確認した棚、帳簿の分と一列全部ずれてるじゃねぇか!
「ど、どうしたんですか?」
「な、何でもねぇ!仕事しろ!」
トンチャンは恥ずかしさのあまり子分たちを別の仕事に追いやると、一人で荷物のずれを直しはじめた。だがそれでも頭からヒャンユンのことが離れない。そんな彼の様子を見ていたチョン・ナンジョンの兄のマッケは、ナンジョンの命で彼を引き抜きに来ていたのだが、いつもと違う様子を見かねて声をかけた。
「おい、トンチャン。どうしたんだ?」
「えっ?あ、ああ……ええと………その………」
「棚を一段まるごと間違えるとは、お前らしくないな。何かあったのか?」
「えっ?あ……ああ……それは……その…………あの……」
すっかり顔を赤くして俯いてしまった彼の様子を見て、一目で良いことでもあったのだろうと察したマッケは、去り際に彼の肩に手を置いて一言こう言った。
「ま、お前も頑張れよ。」
「は、はい………」
「それで、例の件は考えてくれたのか?奥様もドンジュも返答を心待ちにしているぞ。」
その言葉を聞いて、トンチャンはチョン・ナンジョン商団で働かないかという誘いを受けていたことを思い出した。悪い話ではないのだが、彼は政治的な問題に首を突っ込むことになりそうな気がしてあまり乗り気ではなかった。どうしたものかと考えたトンチャンは、とりあえずありきたりな返事をした。
「近日中に伺います。」
「そうか」
そしてそのまま通りすぎようとして、マッケは言い忘れていたと言いたげな顔をしてトンチャンに振り返った。
「ああ、トンチャン。」
「はい!何でしょうか」
「その帳簿、そもそも1頁飛ばしてるぞ」
「えっ!?」
慌てて帳簿をめくり直して再び肩を落とすトンチャンに笑うと、マッケはやれやれと首を振り、笑いながらその場を後にした。
結局いつもより荷下ろしが遅れてしまい、トンチャンは自分に呆れながら帰宅した。敷きっぱなしの布団に倒れ込むと、彼は目を閉じてヒャンユンのことを思い浮かべた。
「………本当に、蝶みたいなやつだったな」
自由気ままで可憐に歩いていただけでなく、見る人全てを惹き付け、更には驚くほどに軽かった。
「あんな娘……初めてだ。」
普通の町娘のように見えてどこか違う印象を持つ彼女に、トンチャンは完全に惹かれていた。
────明日も、会えるかな………
ひょっとしたらまた会えるかもしれない。そんな根拠もない期待を胸に、彼は明日が久々に待ち遠しくて眠りに落ちるのだった。
「わぁ………久しぶりの都だわ……!」
娘は辺りをきょろきょろ見渡しながら瞳を輝かせた。
「宿に向かいますので、行きましょうか」
「ええ。その後お父様のお迎えが来るのね?」
「はい。」
義州にいる祖父母の屋敷からやって来た執事に連れられ、彼女はヨジュが営む酒場兼宿屋にやって来た。見かけない顔だというような表情を向けられ、娘は咄嗟に、この都なら誰でもすぐ出自がわかるような挨拶をした。
「コン・ヒャンユンと申します。ええと…コン・ジェミョン商団のコン・ジェミョン大行首の娘で、今日義州から戻ったばかりなんです」
「あら!コン・ジェミョンさんのお嬢さんなのね!こんなに可愛いお嬢さんがいたなんて。さ、上がって!」
16歳の娘───コン・ヒャンユンは矢継ぎ早に繰り出される女将のヨジュの話に辟易しながら、執事と共に部屋へ上がった。
「食事はどうなされますか?」
「まだいいわ。……それより、都を見たいの!」
突然そう願いだした彼女は、驚きで目を丸くする執事を凝視した。
「え?都をですか?」
「そう!ねぇ、ちゃんとお迎えが来るまでには戻るから」
ヒャンユンが大きく澄んだ目を潤ませると、ついに執事の方がおれた。
「うーん……わかりました。申の刻までには帰ってきてくださいね」
「やったぁ!ありがとう!」
「それと、服装もややみすぼらしくしてくださいよ。都は変なやつらもいますから。世間知らずのお嬢様だと知られては困ります」
と言うと、執事は荷物の中から常民が着る服を取り出してきた。ヒャンユンは喜んでそれを受けとると、彼が居なくなった頃を見計らって着替え始めた。
「これで誰が見ても大行首の娘には見えないわよね。」
彼女は自分の姿に大満足し、大喜びで外に飛び出すと辺りを見回した。
「わぁ………すごい……綺麗なノリゲ……」
ヒャンユンはすぐに市場に置いてある色彩々のノリゲに目を留めると、人混みに紛れて商品を観察し始めた。
「どれも綺麗……」
そんな風に彼女が商品に見とれている姿は、目立たない服を着ていながらもあらゆる人の視線を集めた。
その中の一人が、曰牌(ならず者)のトンチャンだった。トンチャン兄貴と呼ばれて恐れられるほどに喧嘩早い性格の彼は、すぐに近くの男に尋ねた。
「おい、あの女。誰か知ってるか?」
「ト、トンチャン兄貴!いや……知りませんね。初めて見る顔です。」
「ふぅん………新参者か………」
トンチャンは男の隣をさっさとすり抜け、ヒャンユンの姿をまじまじと観察し始めた。
「おじさん、これおいくら?」
「ああ、ざっと10両かな」
「えっ!?義州のときよりも高いじゃない………」
「都は元から物価が高いからなぁ。物価を調節しているのは俺たちじゃないから、仕方がないさ」
「残念ね……綺麗なのに……」
そのがっかりする姿もあまりに愛らしくて、思わずトンチャンはもう少し値下げが出来るだろうと、横から店主に文句を言いたくなってしまった。
ふと、彼は商品に夢中になっているヒャンユンの隣に忍び寄る男に気がついた。男は彼女の金銭が入っている巾着を音も立てずに盗むと、嬉しそうにその場から逃れようとした。その顔に見覚えがあったトンチャンは、すかさず男の頭を掴んだ。
「おい、チョンドン」
「ト、ト、ト、ト、トンチャン兄貴!!」
「盗みはいけねぇぜ、チョンドン。こちらのお嬢さんに謝りな」
「は……はい?」
意外な相手に仕事を邪魔されたこそ泥のチョンドンは、頭を掴まれたままヒャンユンに向き直った。
「あの……これ………お返しします………」
「あら?………落ちてたの?それとも……」
「おい、お嬢さん。都にはスリが多いから、気を付けろよ」
「スリなのね!だから都って、買い物するときは二人くらいでって言われるのね……」
案外能天気な調子のヒャンユンに驚いてしまったチョンドンは、自分よりも体格も良く、背が高いトンチャンを見上げた。
「あのぉ………そろそろ、戻っても……?」
「てめぇ、捕盗庁に突き出してやる」
「えぇ!そんなぁ………兄貴、返したんですから、許してくださいよ!!兄貴ぃ!」
また捕らえられるのかと思うと半泣きになってしまったチョンドンに失笑しながら、ヒャンユンは微笑んだ。
「チョンドンっていうのね、あなた。」
「は、はい………」
「今度私の巾着取ったら、そのときは捕盗庁に言ってもらうわね」
チョンドンはその言葉を聞いて慌てて逃げ出してしまった。ヒャンユンは彼の背中を見送ってからトンチャンに向き直った。
「あの……ありがとうございます。」
「……いや、礼は……いい。それより、店主」
「お、おう……トンチャンか……」
「このコチ、いくらなんだ」
コチ───先程のかんざしを指差したトンチャンは、有無を言わさない表情で店主を睨み付けた。もちろん彼はすっかり萎縮してしまい、ものの3両でコチを売ってしまった。
「あの………なんだか、すみません………」
「蝶の髪飾りか。……あんたらしい」
「え?」
ヒャンユンはきょとんとしながらトンチャンを見た。彼は途端に耳まで真っ赤にしてそっぽを向いた。
「べ、別に!何でもない。」
「とにかく、ありがとうございます。なんてお礼したらいいか……」
「礼なら、昼飯でいい。」
「お昼ですか?いいですよ!ええと……どこがいいですか……?」
真剣に悩みだすヒャンユンをみて、トンチャンはいよいよ驚いてしまった。
「あんた、一体どこから来たんだ?」
「義州です。しばらく祖父母に預けられていたんですが、父のもとに帰ってきたんです。」
「ふぅん…………」
「都は慣れていないんです。それだけですよ」
そんな二人のやり取りを見ていた町の人々と、先程首尾よく逃げたチョンドンは、トンチャンを呆れながら笑っていた。
「あれは、完璧にお気に入りですね」
「そうだな。トンチャンのお気に入りとは……何とも気の毒だな」
「あんなに可愛いのに………」
トンチャンは兄貴と呼ばれる程に、誰もが認める札付き男だった。機嫌を損ねれば手がつけられなくなるし、褒めすぎればすぐに頭に乗って人をこきつかいだす。それがトンチャンだった。だが、そんな彼の特性を知るわけもないヒャンユンは、どんどん彼に周りが驚くようなことをしていった。
「ねぇ、あれは?なぁに?」
「………お、おう……あれは……ええと……」
何気なく肩に手を置かれたトンチャンは、驚いて一瞬どもってしまった。それだけでも周りからは驚嘆の声が密かに上がったのに、ヒャンユンは更にこんなことも言った。
「なぁんだ、知らないのね」
「お、俺を誰だと思ってるんだ。それくらい知ってる。」
「そう。でも、私はあなたが誰だか知らないの。それはあなたも同じよね?」
「……まぁ……な」
あっさりとやり込められたトンチャンは、ヒャンユンの後ろで赤面することしか出来ずにいた。彼女は本当に蝶のようだった。可憐で自由気ままに飛んでいると思ったら、途端に飛ぶのを止めて場所も特に何も考えず選んで羽を休める。それが偶然自分の肩に留まっただけだと思うと、トンチャンは急に悲しく思った。だが、同時にこれは絶好の機会だと感じた。彼は見た目に似合わず無い勇気を必死に出して、手を差し出しながらヒャンユンの隣に立った。
「………危ないぞ、都はどんなやつがいるか分からないからな」
「あなたみたいな?」
「………え?」
またもや目を丸くしたトンチャンに屈託の無い笑顔を向けると、彼女は差し出された手には気づかずにトンチャンの顔を見た。
「嘘よ。あなたって頼もしいのね。都の殿方って、みんなこんな人たちなの?」
「そ、それは………」
トンチャンは咄嗟に、掴む場所を探そうとして宙を舞うヒャンユンの手を握った。思わず彼女の頬が赤く染まる。
「あ…………」
「い、行くぞ。離れるなよ」
「は、はい………」
父親以外の男性の手に初めて触れた彼女の鼓動が高鳴る。
────素敵………
背が高く、不器用でも優しい。そんなトンチャンが、いつのまにか彼女の心の中に溶け込んでいた。そしてトンチャンの心の中にも、天真爛漫で放っておけないものの、可愛くて美しいヒャンユンがはっきりと入り込んでいた。
互いの鼓動が聞こえてしまいそうで、二人は必死で別の話題を探した。だが、何も考えられない。とうとう居ても立ってもいられなくなったヒャンユンが、この和やかな沈黙を破った。
「あ、あの!」
「………何だ?」
「お名前……」
消え入りそうな声でそう尋ねる彼女に、トンチャンは少し考えるとこう答えた。
「俺か?俺は、トンチャンだ。曰牌のトンチャン兄貴………と言えばすぐに誰でもわかる」
「そうなんですか………トンチャン……………わ、私も兄貴って付けたほうがいいですか?」
その質問に思わずトンチャンは吹いてしまった。
「な、何故笑うのですか?」
「いや、面白いやつだな。別にお前は兄貴なんて付けなくていい。」
妙なことを言ったわけではなくて良かった、と胸を撫で下ろしたヒャンユンに、今度はトンチャンが尋ねた。
「お前は?誰だ」
「私ですか?私は……ええと………」
その瞬間、彼女の脳裏にコン・ジェミョンの娘だと言えば、きっと対等に仲良くしてもらえないのではという不安が過った。なので間髪入れず、彼女は一言、コン・ヒャンユンだと名乗った。
「ふぅん…………ヒャンユン……か。雰囲気通りの名前だな」
「そ、そうですか……?」
「ああ。……着いたぞ、店。」
トンチャンに促され、ヒャンユンは何の変哲もない店に入った。そして、そういえば礼をするために昼食に来たのだと思い出した。だが、このような店へ行ったことはなく、彼女は注文の仕方がわからず戸惑ってしまった。その様子を見て、トンチャンは横からクッパを二つ注文した。
「……すみません……」
「お前、一体どういう育ち方したんだよ………」
「こういうお店、初めてで……」
「え?そんなことって……いや……いいんだけどな…別に……」
不意にトンチャンの中で、本当にただの町娘なのかという疑問が浮かんで消えた。いや、正確には無理矢理意識の外に追い出した。
───もし、町娘じゃないなら………俺みたいな……俺みたいなごろつき、相手にしないよな。だったらまだ町娘の方がいい。そうすれば、ひょっとしたらいつか俺のこと、好きになってくれるかもしれないんだからな。
彼はそんな思いを込めながら、ヒャンユンを眺めた。そのトンチャンのいつもとは違う温かな眼差しに、周りの人々は皆気づいていたが、彼女だけは相変わらず気づいていなかった。むしろ世間知らずで不自然だったため、自分の身分に気づかれたのではと焦っていた。
────やだ……気づかれちゃったかな……?町娘らしくって……難しいよ……トンチャンさん、気づいてませんように……!!
心の中で必死にそう願う彼女には、余裕などなかった。そして、ふと気づいた。
───あれ……どうして私、この人に嫌われたくないって思ってるんだろう…………
一気に色々な思いが押し寄せ、ヒャンユンの頭はすっかり真っ白になってしまった。そんなちぐはぐな二人がそれぞれの思考に向き合う中、偶然にもジェミョンの使いでヒャンユンを迎えに行こうとしているユン・テウォンとその親友トチが店の隣を通った。素通りしようとしているトチに、トンチャンを見つけたテウォンが彼の肩を掴んだ。
「おい、トチ。トンチャンが女と食事してるぞ」
「それ本当か?お!本当だ。………何で?」
きょとんとするトチを悪戯っ子のような笑顔を浮かべるテウォンが小突く。
「知るか。隣に座って冷やかしに行くか?」
「殺されるぞ、テウォン。それより申の刻までにお嬢様を宿に迎えに行かないとな。」
「ああ、そうだった。急ぐか」
二人はトンチャンの前でクッパを美味だと頬張る娘がそのお嬢様だとは気づくことなく、そのまま道を急ぐのだった。
食事が済んだヒャンユンが代を払おうとすると、トンチャンがさっさと支払いを済ませてしまった。驚いた彼女は、慌ててトンチャンの手を掴んだ。
「だっ、駄目です!お礼が出来ていません!」
「もう充分、礼になってる。」
「そんな………」
「それより、お前が礼をしきれていないと思って、今日が終わっても俺のことを覚えていてくれる方が嬉しい」
「ずいぶん意地悪ですね……」
少しだけ意地悪なトンチャンにまた惹かれたヒャンユンは、言われなくても覚えていますと心の中で言った。彼女は手を振ると、店の前でそのままトンチャンと別れた。だがその直後、陽の傾きを見てすっとんきょうな声をあげた。
「あ!!お父様のお迎え………」
ヒャンユンは慌てて左右を見渡した。もちろん帰り方が分からないので探しているのは宿屋への道ではない。彼女は人混みを掻き分け、トンチャンの手を恥ずかしさをかなぐり捨てて必死で掴むと、その歩みを止めさせた。
「す、すみません!!ど、どうやって宿屋に帰ればいいかわかりません……」
突然のことに驚いたトンチャンは何事かと思い振り返ったが、すぐにヒャンユンだと分かってうっすらと笑顔を浮かべた。
「………どこの宿屋だ」
「ええと……最初に私たちが会ったところのすぐ前にある店です!」
トンチャンは少し考えると、困り果てているヒャンユンの顔を見た。
「ヨジュの店か………急いでいそうだな」
「申の刻までに帰るって言ったのに、忘れていました……あはは……」
どこまでも世話を焼かせるなとさすがに呆れたトンチャンは、有無を言わさず彼女の手を掴んで走り出した。
「手、離すなよ。」
「えっ…あ、は、はい!」
ヒャンユンのチマの裾と、トンチャンの鉢巻きの結び残しが同じ風に乗ってはためいた。
─────これが、恋?
そしてその瞬間、彼女の心の中にトンチャンへの確かな想いが芽生えた。彼はどこまでも力強くて頼もしく優しい、正にヒャンユンの理想の男だった。だからこそ他の人に道を聞かず、わざわざ探しに戻ったのかも知れないと彼女は思った。
トンチャンに連れられて走っても完全に約束の時刻は過ぎており、ヒャンユンはおそるおそる宿屋を覗いた。外には既に血相変えた執事が待機しており、彼女は裏口から入れないかどうかを探した。すると、トンチャンがなんと宿屋の塀を乗り越えて手を差しのべてきた。
「おい、早くしろ。ここから入れる」
「あ、ありが………わっ……!!」
腕を掴んだ瞬間、彼女は易々と片手で塀まで引き上げられたのだ。だが、その短い悲鳴は驚嘆からではなかった。引き上げられた先は、なんとトンチャンの腕の中だったからだ。
「……………あ…あ……あの………その………っ」
「これでまたお前に借りが作れた。今度会ったときはきっちり返してもらう。」
「かっ………返しますよ!」
「それにしてもお前、軽いな。」
「えっ───きゃっ………!!」
陰険な笑みを浮かべるトンチャンに対して赤面したヒャンユンに、更なる追い討ちがかけられた。彼女はトンチャンに塀から抱き抱えられて降りたのだ。その事実に気づいた彼女は、いよいよ一言も発せ無くなってしまった。
「…………あ……ありがとう……ございます………」
「じゃあな。」
トンチャンはそう言うと、そのまま塀を再び登って帰ってしまった。残されたヒャンユンはしばらく唖然としていたが、やがてすぐに服を着替えなければと思い立ち、慌てて部屋に戻っていった。
部屋から着替えて出ると、ヒャンユンは待ちぼうけを食らわされているテウォンとトチに鉢合わせした。
「あっ!お嬢様ですか?」
彼女の出で立ちを見てすぐに反応したトチが、仮眠用に使っていた食事台の椅子から飛び起きて挨拶をした。
「え、ええ………お父様のお迎え?」
「…だったんですが、ね」
「え?」
テウォンが気まずそうにそう言うと同時に、ヒャンユンの背後から懐かしい声がした。
「ヒャンユン!」
「お、お父様!?」
彼女が振り向くと、そこには心配を顔に描いたような表情をしたジェミョンが立っていた。さすがに罪悪感を覚えた彼女は、先程の元気さとはうって変わり、すっかりしょぼくれてしまった。
「大行首様まで心配で来られたんですよ。今までお一人でどこに行っていたんですか?都は危ないのに……」
「そうだ!全く、どんな危ないやつに付いていったのかと心配していたんだぞ」
すると、ヒャンユンはその言葉に目を輝かせて答えた。
「一緒に居る人はいましたが、危ない人ではないです!」
「え?」
「誰だかは、内緒です。でもとにかく、とっても優しくて頼もしくて………しっかりした人です!」
彼女は勿論、トンチャンのことん思い浮かべながらその人の雰囲気を形容し始めた。普段とは違うトンチャンの姿など想像もつくわけがなく、トチとテウォンとジェミョンは思い思いの"いい人"を思い浮かべている。
「そうか。いい人で良かったな。それより、従姉妹のウンスがお前に会うのを楽しみにしてるんだ。早く行こう」
「はい!お父様」
満面の笑顔でそう返事をしたヒャンユンは、父と慕う人のあとに上機嫌で付いていった。唖然とする執事を労うと、テウォンたちもその後を追ってゆっくりと歩きだした。
誰が見ても仲の良い親子であり、娘思いの父、そして父思いの孝行者の娘だと知られているジェミョンとヒャンユンがまさか実の親子ではないとは、このときテウォンたちも知らないことだった。
そして、ヒャンユン自身もまた知る由もなかった。
挨拶を一通り済ませ、ヒャンユンは自分の部屋に入った。場所こそ子供のときと全く変わっていないが、所々が年相応の娘のためにジェミョンが設えてくれたとおぼしき部分があり、彼女はそんな部分を見つけては温かな気持ちになっていた。
彼女は蝶の髪飾りを取り出すと、今日のことを思い出した。
「ああ……素敵な人だったわ…………」
───運命の人、かしら?
そんな浮かれたことを考えているうちに、ヒャンユンはトンチャンのこんな言葉を思い出した。
───曰牌のトンチャン兄貴と言えば、すぐに誰でもわかる。
「トンチャンさん……か……素敵な名前。」
全てが素敵という言葉に相応しいように思える彼はヒャンユンにとって初恋ではなかったのだが、まるで今までの恋が嘘のように思えるほど、彼女の心は想いと出会えた喜びに震えていた。
───もし、もう一度会えるならどこなのだろう。明日も会ってはいけないだろうか。迷惑にならないだろうか。そんな気持ちがいつの間にか彼女の思考を完全に支配していた。
同じ頃、市場通りで商品の点検をしていたトンチャンも、心ここに有らずの状態で仕事をしていた。
「兄貴。トンチャン兄貴!」
「あ、ああ………」
「しっかりしてくださいよ、兄貴。心ここにあらずになってますよ」
「………別に。俺は大丈夫だ」
気丈を装ったものの、子分たちにしっかりしてくれと諭されるほど、自分は注意力が散漫だったのだろうかと思って何気なく帳簿と商品を見比べてみると、彼は一瞬で顔色を青ざめさせた。
「げっ!!」
──俺が確認した棚、帳簿の分と一列全部ずれてるじゃねぇか!
「ど、どうしたんですか?」
「な、何でもねぇ!仕事しろ!」
トンチャンは恥ずかしさのあまり子分たちを別の仕事に追いやると、一人で荷物のずれを直しはじめた。だがそれでも頭からヒャンユンのことが離れない。そんな彼の様子を見ていたチョン・ナンジョンの兄のマッケは、ナンジョンの命で彼を引き抜きに来ていたのだが、いつもと違う様子を見かねて声をかけた。
「おい、トンチャン。どうしたんだ?」
「えっ?あ、ああ……ええと………その………」
「棚を一段まるごと間違えるとは、お前らしくないな。何かあったのか?」
「えっ?あ……ああ……それは……その…………あの……」
すっかり顔を赤くして俯いてしまった彼の様子を見て、一目で良いことでもあったのだろうと察したマッケは、去り際に彼の肩に手を置いて一言こう言った。
「ま、お前も頑張れよ。」
「は、はい………」
「それで、例の件は考えてくれたのか?奥様もドンジュも返答を心待ちにしているぞ。」
その言葉を聞いて、トンチャンはチョン・ナンジョン商団で働かないかという誘いを受けていたことを思い出した。悪い話ではないのだが、彼は政治的な問題に首を突っ込むことになりそうな気がしてあまり乗り気ではなかった。どうしたものかと考えたトンチャンは、とりあえずありきたりな返事をした。
「近日中に伺います。」
「そうか」
そしてそのまま通りすぎようとして、マッケは言い忘れていたと言いたげな顔をしてトンチャンに振り返った。
「ああ、トンチャン。」
「はい!何でしょうか」
「その帳簿、そもそも1頁飛ばしてるぞ」
「えっ!?」
慌てて帳簿をめくり直して再び肩を落とすトンチャンに笑うと、マッケはやれやれと首を振り、笑いながらその場を後にした。
結局いつもより荷下ろしが遅れてしまい、トンチャンは自分に呆れながら帰宅した。敷きっぱなしの布団に倒れ込むと、彼は目を閉じてヒャンユンのことを思い浮かべた。
「………本当に、蝶みたいなやつだったな」
自由気ままで可憐に歩いていただけでなく、見る人全てを惹き付け、更には驚くほどに軽かった。
「あんな娘……初めてだ。」
普通の町娘のように見えてどこか違う印象を持つ彼女に、トンチャンは完全に惹かれていた。
────明日も、会えるかな………
ひょっとしたらまた会えるかもしれない。そんな根拠もない期待を胸に、彼は明日が久々に待ち遠しくて眠りに落ちるのだった。