終章、ジェミョンの決断
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トンチャンはドンジュが雇った七牌の男たちに散々殴られていた。口の中には血の味が滲み、全身が痛みに支配されていた。それでも、彼は謝らなかった。
「兄貴。謝罪すれば、大行首様もお許しになるそうです。ですから早く……」
部下のソ・イヌがトンチャンにそう話しかけた。だが、それでも彼はその手をはねのけた。
「謝罪なんて………しねぇ………絶対、しねぇ!」
「兄貴………あの娘を想っても、絶対に報われません。それは一番兄貴がわかっているはずです」
「好きな人を…………想って…………何が………悪いんだ……!」
「兄貴、考えてみてください。お嬢様は常民ですが、一応中人です。でも、俺たちは曰牌なんですよ?常民の下っ端です。しかも、あの人と対立する商団の曰牌なんです」
「でもっ……………!でもっ……………!嫌だ……嫌だ……!あの娘は俺の嫁になるんだ!俺の嫁になって、毎日帰りを待ってくれて、どんなときも傍に居てもらうんだ!」
それがどんなに望んでも、もうきっと叶わない。言いながらも解っているトンチャンは、認めたくない思いで再び殴られることを選ぶのだった。
ヒャンユンは捕盗庁の牢で考えていた。それは、チョン・ナンジョンと対峙したときのことだ。
────私、やはりどこかで見たことがある……あの表情のチョン・ナンジョンを…………
以前会ったときは笑顔で人当たりの良さそうな雰囲気だったために確信を持てなかったが、今回は明らかに何かを感じた。更に、剣で斬りかかられるときの感覚。そして極めつけは、チョン・ナンジョンの家を知っているという記憶。
でも、一体どうして……?
会うはずもない人に、遭遇するはずもない事態。そして知らないはずの家。囚われの身でありながら、既に心はそんな疑問で一杯だった。
ヒャンユンが思案に沈んでしまいそうになったときだった。牢の前に人影を感じて、彼女は顔をあげた。そこには────
「ヒャンユン。」
「ト、トンチャン!?どうやってここに?」
「ヤン・ドング様に金を握らせた。………大丈夫か?」
ヒャンユンが辺りを見回すと、ドングが部下のソン・ソクと共に物陰から顔を覗かせているのが目に留まった。
「何か食べたいものは無いか?」
「………あるの?」
「もちろん!ほら、食え。」
トンチャンは牢の前に座ると、水の入った皮水筒と包みを渡した。
「わぁ…………」
「こんなにやつれて。可哀想に………」
「ううん、大丈夫。トンチャンが居れば………」
笑顔で顔をあげたヒャンユンは、近くでトンチャンの顔を見て酷い傷の数々に気づき悲鳴をあげた。
「トンチャン!顔……どうしたの?」
「へへ…………ちょっと……な」
「………私のせいなのね」
「違うって!ちょっと喧嘩してきただけだ。売られた喧嘩は買うのが男だからな」
その口調と視線に嘘だと気づきつつも、ヒャンユンはそれ以上何も言わずに包みを開いた。中に入っていたのは、チヂミと餅と揚菓子だった。ヒャンユンは揚菓子を二つ手に取ると、一つを柵越しにトンチャンに差し出した。
「一緒に食べよう」
「駄目だ!俺が食べてどうするんだ」
「お願い。一緒に食べよ」
「………ありがとう」
二人は差し入れを分けあって食べると、柵越しに黙って見つめ合った。
「……………もう、来ちゃだめよ」
「どうしてだ?」
「………また、ひどい目に遭うわ」
トンチャンは柵の間から手を入れると、ヒャンユンの頬を両手で覆って自分の近くに引き寄せた。
「それでも構わない。俺がどうなろうと、どうだっていい。それよりもヒャンユン。お前が心配だ。お前とお父上が受ける苦難の方が余程…………」
「あなたを愛した結果、こうなったのなら私は甘んじて受け入れるわ。父も、あなたたちとの対立を望んだ。負けたのよ。仕方が───」
そう言おうとした瞬間、ヒャンユンの言葉が途切れた。柵の間からトンチャンが口づけしたのだ。覗き見していたドングたちが小さな悲鳴をあげる。トンチャンは構わずもう一度唇を合わせ、出来るだけ近くにヒャンユンを引き寄せた。
「───仕方がないことなんて、この世にはない。そんなことは、権力者が勝手に決めつけたことだ。俺は、絶対にお前と生きてみせる。だからお前も諦めるな。……いいな?」
「…………うん。」
ヒャンユンは両目から涙を溢しながら首を縦に振った。そして柵が邪魔だと思った。だが、最初から二人の間には柵があったのかもしれないとも思った。だからこそ、無意識にこんな言葉が次いで出た。
「こんな柵………無ければいいのに」
「だったら一日でも早く出られるように、気をしっかり持ってくれ。きっと大丈夫だから。」
トンチャンはヒャンユンを励ますように微笑みかけた。どんなときでもこの人がいてくれれば、乗り越えられる気がする。ヒャンユンはどんな差し入れよりも勇気付けられる思いで、トンチャンを見つめるのだった。
娘が捕らえられた。その話は既にジェミョンの耳に入っていた。同室に入れられているテウォンは、知らせを受けたときの取り乱し様を思いだし、胸を痛めていた。
────大行首様………俺のせいで…
テウォンは自分の復讐のせいで、一人の人生を狂わせてしまった気がして辛さで一杯だった。そんなテウォンを気遣ってか、ジェミョンは一切泣き言を漏らさなかった。だがそれより今のテウォンには、面会の際に一人でチャクトに何かを伝えていたことが気がかりだった。
「大行首様、チャクトに……」
「気にするな。娘に伝えてほしいことを言っただけだ」
ジェミョンは目を細めると、牢から見える月を眺めた。
───ここに来ると、いつも月が見えているな。
彼は目を閉じて、チャクトに託した言葉を思い出していた。そして、密かに歯を食い縛った。
───許してくれ、ヒャンユン。こんな非力な父親を…………
数日後、ヒャンユンは何の前触れもなく釈放された。だが、帰宅した彼女を待っていたのは重苦しい空気だった。ウンスを始め、誰も一言も発さない異様な光景に、ヒャンユンは息を飲んだ。
「…………な、何かあったの……?」
「それは…………」
「ウンス。お嬢様はお疲れなんだ。黙っとけ」
「でも!」
ヒャンユンが困惑していると、突然背後から怒声が響いた。
「今から取り扱いを禁じる商品を押収する!良いな!」
それはチョン・ナンジョン商団の者たちだった。掛け声を火蓋として、一斉に男たちが商品を運び出し始めた。ヒャンユンは慌ててその場に立ち塞がり、声をあげた。
「一体何の真似ですか!あなた方に取り扱いを禁じられる筋合いはありません!」
「どけ!」
「離して!止めて!」
ヒャンユンは男たちに弾き飛ばされると、激しく地面に倒された。腕に痛みが走るが、ウンスたちは固唾を飲んで様子を見守っているだけだ。ヒャンユンは身体を起こして周りをしかりつけた。
「あなたたち!何で見てるだけなの!?ねぇ!」
「………あのね、ヒャンユン………」
「うちの商団は………」
チャクトが説明するより前に、ジェミョンが到着した。しかも、隣にはあり得ない人物を従えて。
「───奥様、こちらです。」
「ようこそ。」
「ご挨拶申し上げます」
チョン・ナンジョンだった。更にウンスを始めとした全員が深々と頭を下げている。ヒャンユンは呆然として立ち上がることも忘れ、ナンジョンを見上げた。
「───そなたの父親が、そなたの釈放を条件として商団の運営権を全て放棄し、我が商団の傘下に入った。」
目を見開いて愕然とするヒャンユンに対し、ナンジョンは続けた。
「しかも私はこれまでの無礼があるにも関わらず、そなたの父親とユン・テウォンまで放免した。感謝してくれても良いくらいだ」
彼女は勝ち誇った視線を送ると、ヒャンユンを上から見下ろした。
その時だった。ヒャンユンの中に、ある光景が走馬灯のように流れ込んだ。
────冷ややかで美しい人……………チョン・ナンジョン…チョンナンジョン………?
かつて、同じようにこの女と対峙したことがある。そして、今のように絶望的で不利な状況で。ヒャンユンは唇を震わせ、確かに記憶が自分の勘違いでないことを噛み締めていた。
縁とは、こういうものを言うのかもしれない。ジェミョンは目を伏せて唇をかんだ。その場にミン・ドンジュが現れたからだ。彼女はトンチャンを伴い、同じようにヒャンユンの前に立ちはだかった。
「………我らに楯突くから、こうなるのだ。愚かな小娘め」
トンチャンは黙ってヒャンユンが立ち上がるために、手を差し出そうとした。しかしドンジュはそれを制止し、意地悪な笑みを浮かべた。
「トンチャン。うちの商団で使う下働きの者が足りぬとか。この娘にやらせるのも良いかもしれぬな」
「えっ………」
トンチャンの顔から血の気が引く様子を見て、ドンジュは鼻で笑い飛ばし、こう言った。
「冗談だ。……しかし、今後もし反抗するような態度をとれば、いくらでも処遇は考えさせてもらう。」
ドンジュはヒャンユンの前にしゃがみこむと、嫌みたっぷりに言い放った。
「───お前はもう、お嬢様などではない。うちの配下の大行首など、大行首ではない。ただの下僕に等しい」
ドンジュは立ち上がると、ナンジョンと共に部屋へ入っていった。残されたヒャンユンは、小さな体に怒りと屈辱を煮えたぎらせて肩を震わせていた。トンチャンはそんな想い人を、胸がえぐられる思いで見ている。
そして二人の目が合う。しかし、何もないはずなのに越えられない柵があるような気がして、お互いに近づくことを躊躇うのだった。
ジェミョンは執務室にこもって思案を巡らせていた。目の前にはヒャンユンの真の出生を示す書類が、火鉢と共に置かれている。
彼は思い立つと、箱の中身を開けて一式手に取った。そして煌々と燻る墨を見て、そのすぐ上に手をかざした。
だがしばらく間があって、ジェミョンは我に返ったように息を飲むと、慌てて再び箱に書類を戻した。椅子に座り込むと、彼は力無くため息をつき、戸に目をやってまたため息を漏らした。そしてヒャンユンを呼びつけた。
「お父様?どうしたの?」
何の話が始まるかも知らないヒャンユンは、先に今までのことを謝ろうとした。だがジェミョンはいつになく真剣な眼差しで娘を制止した。
「…………話がある。お前の母さんのことだ。」
ジェミョンは息を大きく吸うと、もう一度吐き出してから例の箱を間に置いて話だした。
「お前の母さんは、死んだ。それは知っているな?」
「ええ。私を産んで………」
「違う。お前の母さんは、チョン・ナンジョンに殺されたんだ。」
「え……………」
ヒャンユンの頭の中が真っ白になる。一体どういうことなのか。ジェミョンは彼女の混乱を知りつつも続けた。
「そしてお前の父さんはユン・ウォニョンにはめられ、流刑にされた。」
「父が………?そんな……………私の父は…………」
「お前の本当の父の名前は────」
ジェミョンは箱から元の戸籍を取り出すと、ヒャンユンに手渡しながら告げた。
「───イ・ジョンミョンだ。」
「そんな…………」
その瞬間、ヒャンユンの脳裏にすべての情景が流れ込み、全てが繋がった。
あの日あの夜、自分はチョン・ナンジョンにより母を失い、父と兄は行方知れずとなったこと。本当は両班の令嬢として、都で一番大きく綺麗な屋敷で綺麗な服を着て暮らしていたこと。そして何より、その屋敷が今のチョン・ナンジョンらが暮らしている場所そのものだということ。
ヒャンユンは動揺を隠しきれず、目を見開いたまま机の上を眺めている。そうとも知らずに自分は家族の仇である人の娘を親友と呼び、仇の側で使える男を婚約者と慕っていたのだ。そして今、ヒャンユンは再び彼らによって苦しめられている。
「そんな……ことって…………」
「ヒャンユン。お前はトンチャンと一緒にはなれない。お前は、本来俺がお嬢様と呼び、敬語を使わねばならない方なんだ。両班の令嬢なんだ。」
ヒャンユンは立ち上がると、膝から床に崩れ落ちた。その表情には驚愕と絶望、そして困惑が宿っている。
ヒャンユンの運命が、動き出す時が来た。そう、物語はここから始まるのだ。
「兄貴。謝罪すれば、大行首様もお許しになるそうです。ですから早く……」
部下のソ・イヌがトンチャンにそう話しかけた。だが、それでも彼はその手をはねのけた。
「謝罪なんて………しねぇ………絶対、しねぇ!」
「兄貴………あの娘を想っても、絶対に報われません。それは一番兄貴がわかっているはずです」
「好きな人を…………想って…………何が………悪いんだ……!」
「兄貴、考えてみてください。お嬢様は常民ですが、一応中人です。でも、俺たちは曰牌なんですよ?常民の下っ端です。しかも、あの人と対立する商団の曰牌なんです」
「でもっ……………!でもっ……………!嫌だ……嫌だ……!あの娘は俺の嫁になるんだ!俺の嫁になって、毎日帰りを待ってくれて、どんなときも傍に居てもらうんだ!」
それがどんなに望んでも、もうきっと叶わない。言いながらも解っているトンチャンは、認めたくない思いで再び殴られることを選ぶのだった。
ヒャンユンは捕盗庁の牢で考えていた。それは、チョン・ナンジョンと対峙したときのことだ。
────私、やはりどこかで見たことがある……あの表情のチョン・ナンジョンを…………
以前会ったときは笑顔で人当たりの良さそうな雰囲気だったために確信を持てなかったが、今回は明らかに何かを感じた。更に、剣で斬りかかられるときの感覚。そして極めつけは、チョン・ナンジョンの家を知っているという記憶。
でも、一体どうして……?
会うはずもない人に、遭遇するはずもない事態。そして知らないはずの家。囚われの身でありながら、既に心はそんな疑問で一杯だった。
ヒャンユンが思案に沈んでしまいそうになったときだった。牢の前に人影を感じて、彼女は顔をあげた。そこには────
「ヒャンユン。」
「ト、トンチャン!?どうやってここに?」
「ヤン・ドング様に金を握らせた。………大丈夫か?」
ヒャンユンが辺りを見回すと、ドングが部下のソン・ソクと共に物陰から顔を覗かせているのが目に留まった。
「何か食べたいものは無いか?」
「………あるの?」
「もちろん!ほら、食え。」
トンチャンは牢の前に座ると、水の入った皮水筒と包みを渡した。
「わぁ…………」
「こんなにやつれて。可哀想に………」
「ううん、大丈夫。トンチャンが居れば………」
笑顔で顔をあげたヒャンユンは、近くでトンチャンの顔を見て酷い傷の数々に気づき悲鳴をあげた。
「トンチャン!顔……どうしたの?」
「へへ…………ちょっと……な」
「………私のせいなのね」
「違うって!ちょっと喧嘩してきただけだ。売られた喧嘩は買うのが男だからな」
その口調と視線に嘘だと気づきつつも、ヒャンユンはそれ以上何も言わずに包みを開いた。中に入っていたのは、チヂミと餅と揚菓子だった。ヒャンユンは揚菓子を二つ手に取ると、一つを柵越しにトンチャンに差し出した。
「一緒に食べよう」
「駄目だ!俺が食べてどうするんだ」
「お願い。一緒に食べよ」
「………ありがとう」
二人は差し入れを分けあって食べると、柵越しに黙って見つめ合った。
「……………もう、来ちゃだめよ」
「どうしてだ?」
「………また、ひどい目に遭うわ」
トンチャンは柵の間から手を入れると、ヒャンユンの頬を両手で覆って自分の近くに引き寄せた。
「それでも構わない。俺がどうなろうと、どうだっていい。それよりもヒャンユン。お前が心配だ。お前とお父上が受ける苦難の方が余程…………」
「あなたを愛した結果、こうなったのなら私は甘んじて受け入れるわ。父も、あなたたちとの対立を望んだ。負けたのよ。仕方が───」
そう言おうとした瞬間、ヒャンユンの言葉が途切れた。柵の間からトンチャンが口づけしたのだ。覗き見していたドングたちが小さな悲鳴をあげる。トンチャンは構わずもう一度唇を合わせ、出来るだけ近くにヒャンユンを引き寄せた。
「───仕方がないことなんて、この世にはない。そんなことは、権力者が勝手に決めつけたことだ。俺は、絶対にお前と生きてみせる。だからお前も諦めるな。……いいな?」
「…………うん。」
ヒャンユンは両目から涙を溢しながら首を縦に振った。そして柵が邪魔だと思った。だが、最初から二人の間には柵があったのかもしれないとも思った。だからこそ、無意識にこんな言葉が次いで出た。
「こんな柵………無ければいいのに」
「だったら一日でも早く出られるように、気をしっかり持ってくれ。きっと大丈夫だから。」
トンチャンはヒャンユンを励ますように微笑みかけた。どんなときでもこの人がいてくれれば、乗り越えられる気がする。ヒャンユンはどんな差し入れよりも勇気付けられる思いで、トンチャンを見つめるのだった。
娘が捕らえられた。その話は既にジェミョンの耳に入っていた。同室に入れられているテウォンは、知らせを受けたときの取り乱し様を思いだし、胸を痛めていた。
────大行首様………俺のせいで…
テウォンは自分の復讐のせいで、一人の人生を狂わせてしまった気がして辛さで一杯だった。そんなテウォンを気遣ってか、ジェミョンは一切泣き言を漏らさなかった。だがそれより今のテウォンには、面会の際に一人でチャクトに何かを伝えていたことが気がかりだった。
「大行首様、チャクトに……」
「気にするな。娘に伝えてほしいことを言っただけだ」
ジェミョンは目を細めると、牢から見える月を眺めた。
───ここに来ると、いつも月が見えているな。
彼は目を閉じて、チャクトに託した言葉を思い出していた。そして、密かに歯を食い縛った。
───許してくれ、ヒャンユン。こんな非力な父親を…………
数日後、ヒャンユンは何の前触れもなく釈放された。だが、帰宅した彼女を待っていたのは重苦しい空気だった。ウンスを始め、誰も一言も発さない異様な光景に、ヒャンユンは息を飲んだ。
「…………な、何かあったの……?」
「それは…………」
「ウンス。お嬢様はお疲れなんだ。黙っとけ」
「でも!」
ヒャンユンが困惑していると、突然背後から怒声が響いた。
「今から取り扱いを禁じる商品を押収する!良いな!」
それはチョン・ナンジョン商団の者たちだった。掛け声を火蓋として、一斉に男たちが商品を運び出し始めた。ヒャンユンは慌ててその場に立ち塞がり、声をあげた。
「一体何の真似ですか!あなた方に取り扱いを禁じられる筋合いはありません!」
「どけ!」
「離して!止めて!」
ヒャンユンは男たちに弾き飛ばされると、激しく地面に倒された。腕に痛みが走るが、ウンスたちは固唾を飲んで様子を見守っているだけだ。ヒャンユンは身体を起こして周りをしかりつけた。
「あなたたち!何で見てるだけなの!?ねぇ!」
「………あのね、ヒャンユン………」
「うちの商団は………」
チャクトが説明するより前に、ジェミョンが到着した。しかも、隣にはあり得ない人物を従えて。
「───奥様、こちらです。」
「ようこそ。」
「ご挨拶申し上げます」
チョン・ナンジョンだった。更にウンスを始めとした全員が深々と頭を下げている。ヒャンユンは呆然として立ち上がることも忘れ、ナンジョンを見上げた。
「───そなたの父親が、そなたの釈放を条件として商団の運営権を全て放棄し、我が商団の傘下に入った。」
目を見開いて愕然とするヒャンユンに対し、ナンジョンは続けた。
「しかも私はこれまでの無礼があるにも関わらず、そなたの父親とユン・テウォンまで放免した。感謝してくれても良いくらいだ」
彼女は勝ち誇った視線を送ると、ヒャンユンを上から見下ろした。
その時だった。ヒャンユンの中に、ある光景が走馬灯のように流れ込んだ。
────冷ややかで美しい人……………チョン・ナンジョン…チョンナンジョン………?
かつて、同じようにこの女と対峙したことがある。そして、今のように絶望的で不利な状況で。ヒャンユンは唇を震わせ、確かに記憶が自分の勘違いでないことを噛み締めていた。
縁とは、こういうものを言うのかもしれない。ジェミョンは目を伏せて唇をかんだ。その場にミン・ドンジュが現れたからだ。彼女はトンチャンを伴い、同じようにヒャンユンの前に立ちはだかった。
「………我らに楯突くから、こうなるのだ。愚かな小娘め」
トンチャンは黙ってヒャンユンが立ち上がるために、手を差し出そうとした。しかしドンジュはそれを制止し、意地悪な笑みを浮かべた。
「トンチャン。うちの商団で使う下働きの者が足りぬとか。この娘にやらせるのも良いかもしれぬな」
「えっ………」
トンチャンの顔から血の気が引く様子を見て、ドンジュは鼻で笑い飛ばし、こう言った。
「冗談だ。……しかし、今後もし反抗するような態度をとれば、いくらでも処遇は考えさせてもらう。」
ドンジュはヒャンユンの前にしゃがみこむと、嫌みたっぷりに言い放った。
「───お前はもう、お嬢様などではない。うちの配下の大行首など、大行首ではない。ただの下僕に等しい」
ドンジュは立ち上がると、ナンジョンと共に部屋へ入っていった。残されたヒャンユンは、小さな体に怒りと屈辱を煮えたぎらせて肩を震わせていた。トンチャンはそんな想い人を、胸がえぐられる思いで見ている。
そして二人の目が合う。しかし、何もないはずなのに越えられない柵があるような気がして、お互いに近づくことを躊躇うのだった。
ジェミョンは執務室にこもって思案を巡らせていた。目の前にはヒャンユンの真の出生を示す書類が、火鉢と共に置かれている。
彼は思い立つと、箱の中身を開けて一式手に取った。そして煌々と燻る墨を見て、そのすぐ上に手をかざした。
だがしばらく間があって、ジェミョンは我に返ったように息を飲むと、慌てて再び箱に書類を戻した。椅子に座り込むと、彼は力無くため息をつき、戸に目をやってまたため息を漏らした。そしてヒャンユンを呼びつけた。
「お父様?どうしたの?」
何の話が始まるかも知らないヒャンユンは、先に今までのことを謝ろうとした。だがジェミョンはいつになく真剣な眼差しで娘を制止した。
「…………話がある。お前の母さんのことだ。」
ジェミョンは息を大きく吸うと、もう一度吐き出してから例の箱を間に置いて話だした。
「お前の母さんは、死んだ。それは知っているな?」
「ええ。私を産んで………」
「違う。お前の母さんは、チョン・ナンジョンに殺されたんだ。」
「え……………」
ヒャンユンの頭の中が真っ白になる。一体どういうことなのか。ジェミョンは彼女の混乱を知りつつも続けた。
「そしてお前の父さんはユン・ウォニョンにはめられ、流刑にされた。」
「父が………?そんな……………私の父は…………」
「お前の本当の父の名前は────」
ジェミョンは箱から元の戸籍を取り出すと、ヒャンユンに手渡しながら告げた。
「───イ・ジョンミョンだ。」
「そんな…………」
その瞬間、ヒャンユンの脳裏にすべての情景が流れ込み、全てが繋がった。
あの日あの夜、自分はチョン・ナンジョンにより母を失い、父と兄は行方知れずとなったこと。本当は両班の令嬢として、都で一番大きく綺麗な屋敷で綺麗な服を着て暮らしていたこと。そして何より、その屋敷が今のチョン・ナンジョンらが暮らしている場所そのものだということ。
ヒャンユンは動揺を隠しきれず、目を見開いたまま机の上を眺めている。そうとも知らずに自分は家族の仇である人の娘を親友と呼び、仇の側で使える男を婚約者と慕っていたのだ。そして今、ヒャンユンは再び彼らによって苦しめられている。
「そんな……ことって…………」
「ヒャンユン。お前はトンチャンと一緒にはなれない。お前は、本来俺がお嬢様と呼び、敬語を使わねばならない方なんだ。両班の令嬢なんだ。」
ヒャンユンは立ち上がると、膝から床に崩れ落ちた。その表情には驚愕と絶望、そして困惑が宿っている。
ヒャンユンの運命が、動き出す時が来た。そう、物語はここから始まるのだ。