13、堕ちた正鵠
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トンチャンは意気揚々と書類を抱えて平市署へ歩き出した。その様子を見ていたマッケは、何事かと思いドンジュに尋ねた。
「………一体、トンチャンはどうしたんだ?」
「お気になさらず。病です」
「お前、あまり男の思慕の念を利用しない方がいいぞ。仕損じたときの打撃が大きいからな」
「奥様に仰ってください。私の案ではありませんから」
ドンジュはマッケに平市署へ行くように背中を押すと、そのまま二人を送り出した。
全てが計画通り。ヒャンユンを除く全ての人がそう信じていた。
ヒャンユンは一睡もせず、目を見開いたまま虚ろな表情で壁にもたれ掛かっていた。見かねたウンスが罪悪感のために言いつけを破って水を持ってきたのだが、それでもヒャンユンは応じようとはしない。
「テウォンさん、ヒャンユンが死んじゃう」
「この程度では、死なない。………だが、もしトンチャンとの逢瀬を今後禁じられ、他の男に嫁ぐはめになったなら、わからない。」
「そんな…………ねぇ、ヒャンユンを諦めさせることは出来ないの?」
「お嬢様を諦めさせるのも、お嬢様の心を殺すのも、トンチャンにしか出来ない」
ウンスはそれを聞き、立ち上がった。
「だったら私、トンチャンに身を引くように言うわ!」
「もう大行首が資金をまとめている。近々手切れ金を渡すらしい」
「手切れ金って………テウォンさんは、本当にトンチャンがヒャンユンを利用してたと思う?」
「…………わからない」
テウォンは目を閉じると、塀に寄りかかってヒャンユンと一緒に居るときのトンチャンの一挙一動を思い返した。
あれは、明らかに心の底からの思慕の念がなければ出来ない表情だった。
だとしたら、ジェミョンが頑なに拒む理由は一体何なのだろうか。テウォンはふとそんな疑問にかられた。確かにこの家はどこか妙だった。ヒャンユンの出生時の服や産着などが一切無く、思い出の品は全て五歳のときからのものしか存在しない。
───五歳のときまでにお嬢様に、何があったのだろうか。
テウォンはため息をつくと、思いの外一筋縄ではいかないかもしれない真実が隠れている気がして、ますますヒャンユンとトンチャンを気の毒に思った。
一方、平市署での入札が始まった。コン・ジェミョン商団の3両という額を聞いた瞬間、飛び上がりたい気持ちを抑えてトンチャンは固唾を飲んだ。そして、チョン・ナンジョン商団の番が来た。
「───チョン・ナンジョン商団、2両90銭。よって、入札はチョン・ナンジョン商団とする。」
「よし………!!!」
「よくやった、トンチャン」
涙目になりながら拳を突き上げるトンチャンを横目で見ながら、ジェミョンは胸が締め付けられる思いに駈られていた。
───済まない、トンチャン。娘はお前にはやれない。
そんなジェミョンの思いも知らず、トンチャンは平市署の許可証を抱き締めながら、ヒャンユンと始める新しい生活に思いを馳せていた。隣に居るトチもばつの悪そうな表情を浮かべながら、この気の毒な男を見ている。
───ヒャンユン、待ってろよ。大行首様にお願いして、すぐにでも迎えにいってやるからな。
浮き足だったトンチャンは平市署を出ると、裏切ったとは知らずにチョンドンを捕まえて伝言を託した。
「ヒャンユンに、俺が後で行くって伝えてくれ。」
「え………あ……あの、兄貴!」
「何だ」
「あ……いえ!はい、伝えておきます……」
事の顛末を知っているチョンドンは、ヒャンユンが外に出られない状況であると教えるべきか迷ったが、とりあえず一度訪ねてみようと思い、頼みを受け入れた。
「よし、頼んだぞ。」
「トンチャン!大変だ!今すぐ商団へ戻れ」
チョンドンがその場を離れてすぐ、息を切らせて走り込んできたマッケがやって来た。その様子に、トンチャンは何か良からぬことが起きたと察した。
「何事ですか、マッケの旦那」
「やられた。ユン・テウォンにやられた!」
「何がです?入札は成功したのでは?」
「あやつらは、既に軍に納品することになっていたのだ。始めから、我々の損失を産み出すことしか考えていなかったのだ!」
トンチャンの視界が揺らぐ。つまり、全ては失敗に終わったということだ。
───なん………だと!?
「で、では、向こうには損失どころか儲けが生じると?」
「そうだ。ドンジュが激怒している。早く戻れ」
「………わかりました」
婚姻の口利きどころではない。ドンジュが激怒している、という言葉だけでトンチャンは心の底から震え上がった。
商団に戻ると、案の定ナンジョンに必死で頭を下げているミン・ドンジュが視界に飛び込んできた。彼女はトンチャンに気づくと、ありったけの力で振りかぶり、平手打ちを見舞った。
「馬鹿者!しくじりおって!」
「も……申し訳ありません」
「全く。市場通りのスリを使うからこうなるのだ!素直にコン・ヒャンユンを使っておれば………」
「もう良い!別の策を考える。下がれ!」
トンチャンは叩かれた頬の何十倍も痛む胸に耐えきれず、下がれと命じられるとすぐにその場から逃げた。
外に出るや否や、報告に来たチョンドンを見つけたトンチャンは間髪入れず思いきり蹴り倒した。
「てめぇ!殺してやる!俺がどんな思いでこの入札を仕組んだか!お前には解らねぇのか!?俺があの女を愛してることも知っているくせに!死ね!死ね!」
「兄貴!待って!!聞いてください!兄貴!!聞いてから殴ってください!」
チョンドンは必死にトンチャンの足にすがり付くと、涙目になりながら訴えた。
「何だ!」
「俺を殴ってる場合じゃないです。ヒャンユンお嬢様が、コン・ジェミョン大行首に監禁されたそうです。外に出られないそうです」
「何だと?どういうことだ。何であいつが父親に監禁されてるんだよ!」
「知りませんよ!とにかく、会えないそうです」
トンチャンは少し考えると、チョンドンを振り払って走り出した。
「兄貴?ちょっと?兄貴!」
チョンドンへの怒りも忘れて無言で向かう先は、コン・ジェミョン商団だった。その瞳には烈火のごとく燃え盛る憤激が浮かんでいる。
商団の戸を蹴破り、恐れ戦く従業員たちを押し退けたトンチャンは、誰が見ても手出しできない程に怒り狂ったごろつきだった。彼はコン・ジェミョンの執務室の前に立つと、どすの聞いた声で叫んだ。
「大行首コン・ジェミョン殿に話がある。チョン・ナンジョン商団総務責任者、シン・ドンチャンだ」
「おい、あれ………」
「トンチャン……よね」
ウンスとテウォンは、固唾を飲んでその場を見守った。すると、程無くしてジェミョンが現れた。
「ちょうど良かった。お前に用がある。入れ」
「……………用ならここで聞きます。どうぞ」
「なら、話は早い。」
するとジェミョンはチャクトから銀の詰まった袋を受け取り、トンチャンの鼻先に差し出した。
「受け取ってくれ。………これが望みだろう?」
「………はぁ?」
「うちの娘から、手を引いてくれ。」
「何だそれは。手切れ金のつもりか?」
「ああ。今後一切、娘には近づかないでくれ」
その時、トンチャンの中で何かが音を立てて切れた。
顔を上げたトンチャンの表情は、今までに見せたことのないものだった。悲哀と憤怒、恥辱と殺意に満ちた表情は、覚悟を決めていたジェミョンさえも凍りつかせた。テウォンは大行首の身の危険を察知し、二人の間に割って入ったものの、トンチャンが手を出す気配はない。むしろ黙って唇を噛み締め、目を赤く腫らしながらジェミョンを睨み付けている。
「……………そんなものが欲しくて、愛したんじゃねぇ。俺があいつを愛したのは!あいつの心が欲しかったからだ。あいつと生きていく未来が欲しかったからだ。」
「申し訳ないが、何度言われても答えは同じだ。娘は、お前にはやれない。」
「あいつの気持ちは、どうなんだ?あいつは今どこに───」
トンチャンがそう詰め寄った瞬間、ジェミョンは懐から小刀を取り出してその首に突きつけ、最後の警告を発した。
「お前に娘はやらん。お前が俺に逆らい、力ずくで俺の娘を連れていくと言うのなら、お前を殺す。いいや、今すぐにでもこの場で殺してやりたいくらいだ。」
「やめて!お父様!」
緊張する場に、悲痛な叫びが響いた。事態を収集するために、ウンスがヒャンユンを解放したのだ。
「ウンス!なんてことをしたんだ。早くヒャンユンを戻せ!」
「いいえ、戻らない。戻させない!お父様がその刃を収めない限り、私はここから一歩も動くつもりはありません。」
ヒャンユンはふらつく足でもしっかり歩み、トンチャンに背を向け、ジェミョンと対峙した。
「…………お前は、この男が好きか?」
「ええ。」
「………愛しているのか?」
「そうです。」
「なら、俺を殺せ。俺をこの小刀で刺してから、ここを二人で去れ。」
その場に動揺と衝撃が走る。ヒャンユンに小刀を握らせたジェミョンも、目に涙を溜めながら真剣に対峙している。
「その覚悟がないなら、この男と一緒になることは許さん!いいな!」
ヒャンユンはトンチャンを肩越しにちらりと見ると、涙を一筋流して小刀を地面に投げつけた。
「────私の覚悟は、誰かを小刀で傷つける程度ではありません。私のこの方への愛は、私自身を切り刻むような………そんな愛でした。片時も、永遠と信じたことはありませんでした。いつも終わりが来ることに誰よりも怯え、些細なことでも不安に思いました。ですが、その度に………傍にいられる一瞬を大切にしようと、そう思っていました。」
「ヒャンユン………?」
ずっと幼く見えていたヒャンユンの意外な一面に驚いたトンチャンは、その手を掴もうと伸ばした腕を空中で静止させた。
「だから…………だから、もう…………会いません。私は、決めました。この人を傷つけるような愛は、愛ではありませんから」
「駄目だ、ヒャンユン!俺のことは気にするな。お前の気持ちを…………」
「───これが、私の気持ちです。」
ヒャンユンはトンチャンに向き直ると、精一杯の笑顔を作った。涙で崩れそうな脆い笑顔だった。
「そんな……………ヒャンユン………だったら俺はどう生きていけば……」
「出会う前に戻る。それだけのことよ」
「違う………以前の俺にはもう、戻れない。無理なんだ。俺は…………」
ヒャンユンはトンチャンの手を握って微笑んだ。その頬に涙が一筋落ちる。
「大丈夫。思い出だけでも暖かければ、あなたは生きていける」
「───無理だ。俺の描いた未来には、お前しか居なかった。お前がいなければ俺にも未来はない。」
トンチャンはヒャンユンの手を振り払うと、一歩後ずさってジェミョンとテウォンを睨み付けた。
「俺は、全部取り戻してやる。お前らが気に入らないって言うなら、俺にだって方法はある。覚悟しておけ。俺は、シン・ドンチャンだ!お前らなんて……」
「トンチャン…………」
「最初からこうしていれば良かったんだ!お前を愛したときから、こうしていれば…………絶対に届かないお前を愛したときから……………」
二人の視線が交差した。だが、トンチャンはそのまま踵を返してヒャンユンから背を向けた。その背は、ヒャンユンにすら引き留めることを拒んでいた。
ゆっくりと、トンチャンが歩き去っていく。ヒャンユンは彼が門を出たところで、このままではいけないと悟った。
───駄目よ、トンチャン!
「──トンチャン!待って!!」
「…………来るな」
トンチャンの制止を無視して、ヒャンユンは敷居を挟んで本心を告げた。
「私、嘘をついたわ。私の描いていた未来にも、あなたしか居なかった。あなたにとって私がすべてだったように、私にとってもあなたは…………あなたは、全てだった」
「……でも、お前はこちら側には来れない」
そう吐き捨てるトンチャンに、ヒャンユンは続けた。
「それでもいい。どう足掻いても、私はコン・ジェミョンの娘。でも、あなたを愛する想いも絶ち切れない。だから、今は私が一歩引きます。そうしてまたいつか、あなたとの縁が近づいたときに…………そのときに、あなたとの未来をもう一度描きたい」
「ヒャンユン……………」
───ああ。俺はこの人を心から愛してしまった。
トンチャンは何故か敗北感を味わいながら、力なく笑いかけた。同時に、こんな考えが浮かんだ。二度と来ない縁と決まっているのなら、作り出せばいい。
「縁は、待つだけでは回って来やしない。俺が、必ずもう一度お前に未来をやる。ヒャンユン、お前のことは必ず俺がこの手に取り戻す」
トンチャンはそう言い残すと、そのまま去っていってしまった。全てが終わったと確信してから、テウォンとトチは意外にもジェミョンを諌めた。
「大行首様!トンチャンをあんなに怒らせてどうするつもりなんです?」
「そうですよ。あいつのことです。何をするか分かったもんじゃありませんよ」
「うるさい。どんなことでもかかってこい。望むところだ」
「大行首様!」
頑固に意地を張っているようにしか見えないジェミョンの本心を唯一知っているチャクトは、ウンスに支えられて泣きすすっているヒャンユンを心苦しそうに眺めた。
そろそろ、真実を知るときが来たのかもしれない。
ジェミョンはため息をつくと、恐れていた事態が始まったような気がして憂鬱な思いに駈られるのだった。
トンチャンは意気消沈しながら、心ここに在らずの状態で帳簿をめくっていた。見かねたドンジュが机を筆で叩いたが、返事はない。ため息ばかりを漏らす部下の姿に流石の彼女も心配になる。
「おい、そなた。………おい。聞いておるのか?おい!総務担当シン・ドンチャン!」
耳元で叫ばれてようやく飛び上がったトンチャンは、目を丸くしてドンジュを見た。
「はっ、はい!大行首様!何でしょうか!」
「………そなた、まだあの娘のことを引きずっておるのか?」
「あ……いえ、ちょっと……」
その躊躇い方ですぐ、ドンジュはまだ未練があることに気づいた。
───面倒くさい男だ。ある意味、夫が言っていたことは間違いではないかもしれぬ。
ドンジュはトンチャンの隣に座ると、今にも背中をつついたら泣き出しそうな部下の処遇に悩んだ。すると、トンチャンの方からこんなことを言ってきた。
「大行首様………俺は、どうすれば良いのでしょうか。」
「いや、どうしろと言われても………」
「コン・ジェミョンに仕返しをしたいのです!あいつが居なければ、俺とヒャンユンは結ばれていたんです!近々縁談を受けるという噂まで………」
「……どうした?」
そこまで言うと、トンチャンは急に黙りこんで下を向いた。ドンジュは顔をひきつらせながらも心配している振りをした。トンチャンは案の定、貧相な顔をしながらドンジュにすがり付いた。そのままだと服を汚されそうで、ドンジュは慌てて振り払おうとした。
「大行首様ぁ!!俺に………俺に、コン・ジェミョンの仕返しをさせてください!今回はしくじりません!」
「───ならば、私の言う通りにせよ」
「奥様!」
トンチャンが顔を上げたそこには、勝ち誇ったような笑みを浮かべるナンジョンがいた。彼女はトンチャンに手拭いを渡すと、肩にそっと手を置いて微笑んだ。
「私が、そなたの想いを成就させてやろう。ただし、私の言う通りに行動せよ。………な?簡単なことであろう?それだけで愛する女が手に入るのだ。心だけでなく、身体も自由も未来もすべて、手に入れることが出来る。───どうだ?」
ナンジョンは言葉巧みにトンチャンの心を揺さぶった。ドンジュが固唾を飲んで見守るなか、しごく単純なトンチャンはあっさりと首を縦に振った。
「はい!やります!ヒャンユンを手に入れられるのなら、何でもします!」
「そうか…………頼もしいぞ、トンチャン」
ナンジョンは、かつて幼い頃のヒャンユンと対峙したときと同じ冷徹な笑みを浮かべながら、トンチャンの背をさすった。
彼女の復讐が、始まろうとしていた。
トンチャンは手始めにオクニョを捕らえるように命じられ、部下を連れて彼女を探していた。
「兄貴、どうするつもりです?コン・ジェミョン大行首を攻撃すれば、ヒャンユンお嬢様のお心は……」
「黙ってろ。ヒャンユンも分かってくれるはずだ。」
トンチャンはオクニョを見つけると、目の前に立ち塞がった。
「おい、大行首様がお呼びだ。来い」
「………こんなことをしていたら、ヒャンユンの心があなたから離れる日が来るとは思わないの?」
オクニョはトンチャンを睨み付けると、食い下がった。
「あいつは分かってくれる。さぁ、来い」
「止めよ!何の話であるかはさっぱり分からぬが、オクニョから離れるのだ。」
部下を使おうとすると、オクニョとトンチャンの間を割って一人の優男が入ってきた。見るからに両班風情の男だったが、トンチャンはそれでも容赦なく突っぱねた。
「おどき頂こう、旦那様。死にたくなきゃさっさと失せな」
「───失せるのはそっちの方よ」
オクニョは男を下がらせると、トンチャンに一発蹴りを入れようとした。だが、今日のトンチャンはいつになく冴えていた。オクニョの攻撃を避けると、彼は部下に命じた。
「かかれ!絶対逃がすな!」
「はい!」
一斉に部下たちがかかるものの、オクニョは次々と余裕たっぷりに彼らを倒していった。トンチャンは横から放った攻撃を受け流され、そのまま腕をへし折られそうになった。だが、それでも彼は止めなかった。
「どうしてここまで本気で戦う必要が?死にたいの?」
「今の俺がこのまま人生を辿れば、死んだも同然だ。悪いが、俺のために消えてもらう!」
「それはどうかしら。何に逆恨みを抱いているかは察するけれど、どうしようもないこともあるのよ」
「お前は向こう側の人間の癖に、知ったような口を利くな!」
オクニョは吠えるトンチャンを地面に叩きつけると、そのまま男の手を取って逃げ出した。痛みをこらえながら立ち上がったトンチャンは、部下に二人を追うように命じた。
オクニョを追ったものの、結局たどり着いたのはテウォンとトチたちだった。二人とその部下に散々殴られ、トンチャンは満身創痍で報告に戻った。だが、ナンジョンとドンジュは嬉しそうだ。
「あの……俺は失敗したのですよね……?」
「そうだ。だが、オクニョという女とユン・テウォンが繋がっていることが分かった。次は、典獄署の裏帳簿を探させるのだ」
「裏帳簿ですか?」
ドンジュは頷くと、部下のために手短な説明を加えた。
「ああ。典獄署には賄賂がよく集まる。故に必ず裏帳簿があるはずだ」
「しかし、典獄署関係者に知り合いは………」
ここで、トンチャンにある人物がよぎった。
「………居るにはいます。ただ、一度半殺しにしました」
「問題ない。逆らったときは、もう一度半殺しにすれば良かろう」
「はい」
顔を上げたトンチャンの頭のなかには、既にユ・ジョンフェの姿が浮かんでいた。
さて、ここからどう呼び出すか。トンチャンは掌を軽く木の棒で何度も叩きながら、典獄署の前を右往左往していた。すると、ちょうど目の前を帰宅途中のジョンフェが横切った。待ってましたと言わんばかりに肩を掴むと、トンチャンは高身長を活かして圧力をかけた。
「よぉ、お役人様」
「げっ!!そ、そなた!!この前のごろつきではないか!私はもうあの女とは会っておらぬぞ!」
「俺が誰かって、自己紹介するのを忘れてたんだよ。」
トンチャンは怯えるジョンフェに、どすの効いた声でこう言った。
「俺は、シン・ドンチャンだ。チョン・ナンジョン商団で曰牌をやってる。………奥様からお前に一つ頼みがある。もし引き受けて成功すれば、典獄署の署長の座が手に入るかもしれねぇ」
「ほ、本当か………?だ、だが………」
「おい、てめぇ。疑う気か?奥様からの書状だ。これでも読んで考えろ」
この、鳥頭が。
トンチャンは馬鹿すぎる奴も扱いにくいなとため息をつくと、ジョンフェの顔を覗き込んで再度尋ねた。
「──で、どうするんだ?」
「や、やります!やらせていただきます!」
「おう、頼んだぞ」
トンチャンは再び典獄署に戻っていくジョンフェの背を見て、満面の笑みを浮かべた。これでヒャンユンとの人生が取り戻せる。
このときトンチャンは、本気でそう信じていた。
ヒャンユンはあれ以来、食事も摂らず水も飲まない生活を続けていた。心なしかやつれた姿を見かねたジェミョンは、ウンスに菓子でもいいから与えるようにと言った。だが、ヒャンユンはそれすらも拒んでしまった。
「ヒャンユン。いい加減止めたらどうだ」
「あの人とあの場を納めるため、あのようなことを言いましたが、私はお父様が二度とあの人と私を会わせるつもりがないことを知っています。」
「なら、もう止めなさい」
「愛することは、誰かに命じられて止めることが出来るものなのですか?」
ジェミョンはため息をつくと、機嫌が治る様子もないヒャンユンに縁談の書状を突きつけた。
「………縁談だ。明日に先方と会う。」
これで少しは聞き分けのいい娘に戻るだろう。そう見込んだジェミョンの検討違いだった。ヒャンユンの無表情だった顔は一気に怒りを点した。
「大嫌い!お父様なんて大嫌いよ!トンチャンの元に行けるなら誰でもいい!お父様以外の人がお父様であれば良かったのに!」
「ヒャンユン……?」
その言葉は怒りや呆れではなく、単純な驚きと空虚感をジェミョンに与えた。呆然とするジェミョンに書状を叩きつけ返し、ヒャンユンは泣きながら部屋にあった物を片っ端から壁に向かって投げ始めた。
「もう出ていってください!出ていってください!私がお父様をこれ以上罵り、悪い娘になる前に!早く!」
止めようにも、娘の秘めた激情に言葉を失って立ち尽くすジェミョンは、もうどうすれば良いのか分からなくなってしまった。そこに騒ぎを聞き付けたウンスが部屋にやって来る。
「叔父さん、どうしたの……って、ヒャンユン!何やってるのよ!投げないの!止めなさいってば!」
「止めさせたいなら、今すぐ二人とも出ていって!もう顔もみたくないわ!私、自分の意思以外で他の殿方のものになるのなら、迷わず死を選ぶから!私に死ねと仰るのなら、喜んで嫁ぎます!そうでないなら、縁談はお断りを」
ヒャンユンは他に投げるものはないかと探し、無意識に蝶のコチを手に取った。だが、振りかぶった瞬間にそれが思い出の品だと思いだし、投げようと試みた状態で静止した。目からは涙がとめどなく溢れている。
「………行こう。」
「えっ?叔父さん?ちょっと!ねぇ!説得しないと!向き合わないと、本当にヒャンユンが壊れちゃう」
食い下がるウンスに、ジェミョンは養父としての立場と本心の間に板挟みになる苛立ちをぶつけた。
「向き合ったら、あの子の人生は滅茶苦茶になってしまうんだ!解ってくれ!俺だってこんなことしたくはない。どこに娘をあんなになるまで悲しませたい親が居るんだ!」
「叔父さん…………」
そのまま去ってしまったジェミョンを見て、テウォンは覚悟を決めた。彼は執務室に入ると、黙って椅子に腰かけた。
「…………何の用だ」
「大行首様。ヒャンユンのことで何か隠さねばならないことがあるから、トンチャンとの関係を認められないのですか?」
その言葉にジェミョンは、動揺を隠せない表情を思わず浮かべた。確実に何かがあると確信したテウォンは、身を乗り出して尋ねた。
「大行首様。力になりたいんです。俺は………」
息子のように思うテウォンの、切なる訴えにジェミョンは十年程閉ざしていた重い口をついに開いた。
「テウォン。お前とあの子は同じ境遇なんだ。」
「え………?」
「あの子は、コン・ヒャンユンじゃないんだ。あの子は…………イ・ヒャンユンなんだ。」
想像以上の事実に驚きを隠せないテウォンは、狼狽した。それでもジェミョンは淡々と続けた。
「大尹派のイ・ジョンミョン様のご息女だったお嬢様は、ユン・ウォニョン様ら小尹派が企てた罠にはまり、家族を一晩にして無くされた。お嬢様の乳母と知り合いだった俺は、お嬢様を託された。だが、その前にチョン・ナンジョンが奥様を殺した。お嬢様も深手を負い、大量の失血と衝撃のせいでそれまでの記憶を無くされた。」
「………まさか、ヒャンユンお嬢様は大行首様を実の父だと思い込んでいるだけで………」
「そうだ。10年以上経った今もまだ、記憶は戻らない。……いや、あんな忌まわしく血なまぐさい記憶なんて戻らない方がましだ」
テウォンは目を細めて口を固く閉じた。ジェミョンが自傷気味に笑う。
「………俺はただの養父なんだ。だから、両班出身のお嬢様をお預かりし、全うにお育てする義務がある。それが例え、俺の親としての願いに反することだとしてもな。」
テウォンは疑問に思ったことを素直に口に出した。
「……このことを、いつか話さねばならないとは思わないのですか?」
「ああ、思っている。だが、今はまだ………」
ジェミョンは実父でなければ浮かべないような苦悶の表情を浮かべ、縁談の書状を眺めている。テウォンは数奇な運命の残酷さと、やはりチョン・ナンジョンらの行った悪行に対して怒りを覚えるのだった。
翌日。縁談の件についてしっかり話そうと意思を固めたヒャンユンが表に出ると、驚くべき光景が広がっていた。
「罪人、コン・ジェミョンとユン・テウォンを捕らえよ」
そこには、縄をかけられるジェミョンとテウォンがいた。二人とも驚いている様子だ。
「えっ………?どうして?何の容疑で?」
ヒャンユンは父に対して抱いていた怒りも忘れ、捕盗庁の兵士に詰め寄った。すると、ジェミョンは昨日あれほど酷い言葉を投げ掛けられたにも関わらず、力なく笑ってこう言った。
「……縁談は、断った。だから、お前が諦めきったときでいい」
「お父様……?」
ジェミョンは、覚悟を決めた表情でヒャンユンを見た。
「ヒャンユン。釈放されたら、話しておかなければならないことがある。だから、それまでこの商団を頼んだ。………身体に気を付けるんだぞ」
「お父様?お父様!止めて!父を連れていかないで!私のせいよ。私がお父様なんて居なくなればいいって思ったから………私が悪いの!悪いのは私なの!だから、私を連れていって!止めて!お父様!お父様!」
泣き叫ぶヒャンユンを置いて、ジェミョンは連行された。チャクトはトチと共に、トンチャンが復讐に動き出したと囁きあっている。
全てがゆっくり通りすぎているような気がして、ヒャンユンは目を見開いたまま立ち尽くした。これから先に、もっと不吉なことが待ち受けているような気がして震えが止まらなかった。
───こんなとき、トンチャンが居てくれれば。きっと、乗り越えられるのに。
だが、トンチャンは居ない。ヒャンユンは絶望の中で唇を真一文字に結ぶと、目を閉じて父への謝罪の念に打ちひしがれるのだった。
トンチャンはジェミョンが連行される様子を市場通りで見ながら、眉をひそめて静かに頷いた。
───俺とヒャンユンの間を裂く奴は、どんな相手であろうと許さねぇ。そして、どんな手を使ってでも思い知らせてやる。
トンチャンは雑踏を掻き分けて歩き出した。
────あんたらが間違えてる。ヒャンユンは、絶対に渡さねぇってな。
その瞳は、オクニョが違和感を覚えたものと同じ、底知れない冷たさを湛えていた。
「………一体、トンチャンはどうしたんだ?」
「お気になさらず。病です」
「お前、あまり男の思慕の念を利用しない方がいいぞ。仕損じたときの打撃が大きいからな」
「奥様に仰ってください。私の案ではありませんから」
ドンジュはマッケに平市署へ行くように背中を押すと、そのまま二人を送り出した。
全てが計画通り。ヒャンユンを除く全ての人がそう信じていた。
ヒャンユンは一睡もせず、目を見開いたまま虚ろな表情で壁にもたれ掛かっていた。見かねたウンスが罪悪感のために言いつけを破って水を持ってきたのだが、それでもヒャンユンは応じようとはしない。
「テウォンさん、ヒャンユンが死んじゃう」
「この程度では、死なない。………だが、もしトンチャンとの逢瀬を今後禁じられ、他の男に嫁ぐはめになったなら、わからない。」
「そんな…………ねぇ、ヒャンユンを諦めさせることは出来ないの?」
「お嬢様を諦めさせるのも、お嬢様の心を殺すのも、トンチャンにしか出来ない」
ウンスはそれを聞き、立ち上がった。
「だったら私、トンチャンに身を引くように言うわ!」
「もう大行首が資金をまとめている。近々手切れ金を渡すらしい」
「手切れ金って………テウォンさんは、本当にトンチャンがヒャンユンを利用してたと思う?」
「…………わからない」
テウォンは目を閉じると、塀に寄りかかってヒャンユンと一緒に居るときのトンチャンの一挙一動を思い返した。
あれは、明らかに心の底からの思慕の念がなければ出来ない表情だった。
だとしたら、ジェミョンが頑なに拒む理由は一体何なのだろうか。テウォンはふとそんな疑問にかられた。確かにこの家はどこか妙だった。ヒャンユンの出生時の服や産着などが一切無く、思い出の品は全て五歳のときからのものしか存在しない。
───五歳のときまでにお嬢様に、何があったのだろうか。
テウォンはため息をつくと、思いの外一筋縄ではいかないかもしれない真実が隠れている気がして、ますますヒャンユンとトンチャンを気の毒に思った。
一方、平市署での入札が始まった。コン・ジェミョン商団の3両という額を聞いた瞬間、飛び上がりたい気持ちを抑えてトンチャンは固唾を飲んだ。そして、チョン・ナンジョン商団の番が来た。
「───チョン・ナンジョン商団、2両90銭。よって、入札はチョン・ナンジョン商団とする。」
「よし………!!!」
「よくやった、トンチャン」
涙目になりながら拳を突き上げるトンチャンを横目で見ながら、ジェミョンは胸が締め付けられる思いに駈られていた。
───済まない、トンチャン。娘はお前にはやれない。
そんなジェミョンの思いも知らず、トンチャンは平市署の許可証を抱き締めながら、ヒャンユンと始める新しい生活に思いを馳せていた。隣に居るトチもばつの悪そうな表情を浮かべながら、この気の毒な男を見ている。
───ヒャンユン、待ってろよ。大行首様にお願いして、すぐにでも迎えにいってやるからな。
浮き足だったトンチャンは平市署を出ると、裏切ったとは知らずにチョンドンを捕まえて伝言を託した。
「ヒャンユンに、俺が後で行くって伝えてくれ。」
「え………あ……あの、兄貴!」
「何だ」
「あ……いえ!はい、伝えておきます……」
事の顛末を知っているチョンドンは、ヒャンユンが外に出られない状況であると教えるべきか迷ったが、とりあえず一度訪ねてみようと思い、頼みを受け入れた。
「よし、頼んだぞ。」
「トンチャン!大変だ!今すぐ商団へ戻れ」
チョンドンがその場を離れてすぐ、息を切らせて走り込んできたマッケがやって来た。その様子に、トンチャンは何か良からぬことが起きたと察した。
「何事ですか、マッケの旦那」
「やられた。ユン・テウォンにやられた!」
「何がです?入札は成功したのでは?」
「あやつらは、既に軍に納品することになっていたのだ。始めから、我々の損失を産み出すことしか考えていなかったのだ!」
トンチャンの視界が揺らぐ。つまり、全ては失敗に終わったということだ。
───なん………だと!?
「で、では、向こうには損失どころか儲けが生じると?」
「そうだ。ドンジュが激怒している。早く戻れ」
「………わかりました」
婚姻の口利きどころではない。ドンジュが激怒している、という言葉だけでトンチャンは心の底から震え上がった。
商団に戻ると、案の定ナンジョンに必死で頭を下げているミン・ドンジュが視界に飛び込んできた。彼女はトンチャンに気づくと、ありったけの力で振りかぶり、平手打ちを見舞った。
「馬鹿者!しくじりおって!」
「も……申し訳ありません」
「全く。市場通りのスリを使うからこうなるのだ!素直にコン・ヒャンユンを使っておれば………」
「もう良い!別の策を考える。下がれ!」
トンチャンは叩かれた頬の何十倍も痛む胸に耐えきれず、下がれと命じられるとすぐにその場から逃げた。
外に出るや否や、報告に来たチョンドンを見つけたトンチャンは間髪入れず思いきり蹴り倒した。
「てめぇ!殺してやる!俺がどんな思いでこの入札を仕組んだか!お前には解らねぇのか!?俺があの女を愛してることも知っているくせに!死ね!死ね!」
「兄貴!待って!!聞いてください!兄貴!!聞いてから殴ってください!」
チョンドンは必死にトンチャンの足にすがり付くと、涙目になりながら訴えた。
「何だ!」
「俺を殴ってる場合じゃないです。ヒャンユンお嬢様が、コン・ジェミョン大行首に監禁されたそうです。外に出られないそうです」
「何だと?どういうことだ。何であいつが父親に監禁されてるんだよ!」
「知りませんよ!とにかく、会えないそうです」
トンチャンは少し考えると、チョンドンを振り払って走り出した。
「兄貴?ちょっと?兄貴!」
チョンドンへの怒りも忘れて無言で向かう先は、コン・ジェミョン商団だった。その瞳には烈火のごとく燃え盛る憤激が浮かんでいる。
商団の戸を蹴破り、恐れ戦く従業員たちを押し退けたトンチャンは、誰が見ても手出しできない程に怒り狂ったごろつきだった。彼はコン・ジェミョンの執務室の前に立つと、どすの聞いた声で叫んだ。
「大行首コン・ジェミョン殿に話がある。チョン・ナンジョン商団総務責任者、シン・ドンチャンだ」
「おい、あれ………」
「トンチャン……よね」
ウンスとテウォンは、固唾を飲んでその場を見守った。すると、程無くしてジェミョンが現れた。
「ちょうど良かった。お前に用がある。入れ」
「……………用ならここで聞きます。どうぞ」
「なら、話は早い。」
するとジェミョンはチャクトから銀の詰まった袋を受け取り、トンチャンの鼻先に差し出した。
「受け取ってくれ。………これが望みだろう?」
「………はぁ?」
「うちの娘から、手を引いてくれ。」
「何だそれは。手切れ金のつもりか?」
「ああ。今後一切、娘には近づかないでくれ」
その時、トンチャンの中で何かが音を立てて切れた。
顔を上げたトンチャンの表情は、今までに見せたことのないものだった。悲哀と憤怒、恥辱と殺意に満ちた表情は、覚悟を決めていたジェミョンさえも凍りつかせた。テウォンは大行首の身の危険を察知し、二人の間に割って入ったものの、トンチャンが手を出す気配はない。むしろ黙って唇を噛み締め、目を赤く腫らしながらジェミョンを睨み付けている。
「……………そんなものが欲しくて、愛したんじゃねぇ。俺があいつを愛したのは!あいつの心が欲しかったからだ。あいつと生きていく未来が欲しかったからだ。」
「申し訳ないが、何度言われても答えは同じだ。娘は、お前にはやれない。」
「あいつの気持ちは、どうなんだ?あいつは今どこに───」
トンチャンがそう詰め寄った瞬間、ジェミョンは懐から小刀を取り出してその首に突きつけ、最後の警告を発した。
「お前に娘はやらん。お前が俺に逆らい、力ずくで俺の娘を連れていくと言うのなら、お前を殺す。いいや、今すぐにでもこの場で殺してやりたいくらいだ。」
「やめて!お父様!」
緊張する場に、悲痛な叫びが響いた。事態を収集するために、ウンスがヒャンユンを解放したのだ。
「ウンス!なんてことをしたんだ。早くヒャンユンを戻せ!」
「いいえ、戻らない。戻させない!お父様がその刃を収めない限り、私はここから一歩も動くつもりはありません。」
ヒャンユンはふらつく足でもしっかり歩み、トンチャンに背を向け、ジェミョンと対峙した。
「…………お前は、この男が好きか?」
「ええ。」
「………愛しているのか?」
「そうです。」
「なら、俺を殺せ。俺をこの小刀で刺してから、ここを二人で去れ。」
その場に動揺と衝撃が走る。ヒャンユンに小刀を握らせたジェミョンも、目に涙を溜めながら真剣に対峙している。
「その覚悟がないなら、この男と一緒になることは許さん!いいな!」
ヒャンユンはトンチャンを肩越しにちらりと見ると、涙を一筋流して小刀を地面に投げつけた。
「────私の覚悟は、誰かを小刀で傷つける程度ではありません。私のこの方への愛は、私自身を切り刻むような………そんな愛でした。片時も、永遠と信じたことはありませんでした。いつも終わりが来ることに誰よりも怯え、些細なことでも不安に思いました。ですが、その度に………傍にいられる一瞬を大切にしようと、そう思っていました。」
「ヒャンユン………?」
ずっと幼く見えていたヒャンユンの意外な一面に驚いたトンチャンは、その手を掴もうと伸ばした腕を空中で静止させた。
「だから…………だから、もう…………会いません。私は、決めました。この人を傷つけるような愛は、愛ではありませんから」
「駄目だ、ヒャンユン!俺のことは気にするな。お前の気持ちを…………」
「───これが、私の気持ちです。」
ヒャンユンはトンチャンに向き直ると、精一杯の笑顔を作った。涙で崩れそうな脆い笑顔だった。
「そんな……………ヒャンユン………だったら俺はどう生きていけば……」
「出会う前に戻る。それだけのことよ」
「違う………以前の俺にはもう、戻れない。無理なんだ。俺は…………」
ヒャンユンはトンチャンの手を握って微笑んだ。その頬に涙が一筋落ちる。
「大丈夫。思い出だけでも暖かければ、あなたは生きていける」
「───無理だ。俺の描いた未来には、お前しか居なかった。お前がいなければ俺にも未来はない。」
トンチャンはヒャンユンの手を振り払うと、一歩後ずさってジェミョンとテウォンを睨み付けた。
「俺は、全部取り戻してやる。お前らが気に入らないって言うなら、俺にだって方法はある。覚悟しておけ。俺は、シン・ドンチャンだ!お前らなんて……」
「トンチャン…………」
「最初からこうしていれば良かったんだ!お前を愛したときから、こうしていれば…………絶対に届かないお前を愛したときから……………」
二人の視線が交差した。だが、トンチャンはそのまま踵を返してヒャンユンから背を向けた。その背は、ヒャンユンにすら引き留めることを拒んでいた。
ゆっくりと、トンチャンが歩き去っていく。ヒャンユンは彼が門を出たところで、このままではいけないと悟った。
───駄目よ、トンチャン!
「──トンチャン!待って!!」
「…………来るな」
トンチャンの制止を無視して、ヒャンユンは敷居を挟んで本心を告げた。
「私、嘘をついたわ。私の描いていた未来にも、あなたしか居なかった。あなたにとって私がすべてだったように、私にとってもあなたは…………あなたは、全てだった」
「……でも、お前はこちら側には来れない」
そう吐き捨てるトンチャンに、ヒャンユンは続けた。
「それでもいい。どう足掻いても、私はコン・ジェミョンの娘。でも、あなたを愛する想いも絶ち切れない。だから、今は私が一歩引きます。そうしてまたいつか、あなたとの縁が近づいたときに…………そのときに、あなたとの未来をもう一度描きたい」
「ヒャンユン……………」
───ああ。俺はこの人を心から愛してしまった。
トンチャンは何故か敗北感を味わいながら、力なく笑いかけた。同時に、こんな考えが浮かんだ。二度と来ない縁と決まっているのなら、作り出せばいい。
「縁は、待つだけでは回って来やしない。俺が、必ずもう一度お前に未来をやる。ヒャンユン、お前のことは必ず俺がこの手に取り戻す」
トンチャンはそう言い残すと、そのまま去っていってしまった。全てが終わったと確信してから、テウォンとトチは意外にもジェミョンを諌めた。
「大行首様!トンチャンをあんなに怒らせてどうするつもりなんです?」
「そうですよ。あいつのことです。何をするか分かったもんじゃありませんよ」
「うるさい。どんなことでもかかってこい。望むところだ」
「大行首様!」
頑固に意地を張っているようにしか見えないジェミョンの本心を唯一知っているチャクトは、ウンスに支えられて泣きすすっているヒャンユンを心苦しそうに眺めた。
そろそろ、真実を知るときが来たのかもしれない。
ジェミョンはため息をつくと、恐れていた事態が始まったような気がして憂鬱な思いに駈られるのだった。
トンチャンは意気消沈しながら、心ここに在らずの状態で帳簿をめくっていた。見かねたドンジュが机を筆で叩いたが、返事はない。ため息ばかりを漏らす部下の姿に流石の彼女も心配になる。
「おい、そなた。………おい。聞いておるのか?おい!総務担当シン・ドンチャン!」
耳元で叫ばれてようやく飛び上がったトンチャンは、目を丸くしてドンジュを見た。
「はっ、はい!大行首様!何でしょうか!」
「………そなた、まだあの娘のことを引きずっておるのか?」
「あ……いえ、ちょっと……」
その躊躇い方ですぐ、ドンジュはまだ未練があることに気づいた。
───面倒くさい男だ。ある意味、夫が言っていたことは間違いではないかもしれぬ。
ドンジュはトンチャンの隣に座ると、今にも背中をつついたら泣き出しそうな部下の処遇に悩んだ。すると、トンチャンの方からこんなことを言ってきた。
「大行首様………俺は、どうすれば良いのでしょうか。」
「いや、どうしろと言われても………」
「コン・ジェミョンに仕返しをしたいのです!あいつが居なければ、俺とヒャンユンは結ばれていたんです!近々縁談を受けるという噂まで………」
「……どうした?」
そこまで言うと、トンチャンは急に黙りこんで下を向いた。ドンジュは顔をひきつらせながらも心配している振りをした。トンチャンは案の定、貧相な顔をしながらドンジュにすがり付いた。そのままだと服を汚されそうで、ドンジュは慌てて振り払おうとした。
「大行首様ぁ!!俺に………俺に、コン・ジェミョンの仕返しをさせてください!今回はしくじりません!」
「───ならば、私の言う通りにせよ」
「奥様!」
トンチャンが顔を上げたそこには、勝ち誇ったような笑みを浮かべるナンジョンがいた。彼女はトンチャンに手拭いを渡すと、肩にそっと手を置いて微笑んだ。
「私が、そなたの想いを成就させてやろう。ただし、私の言う通りに行動せよ。………な?簡単なことであろう?それだけで愛する女が手に入るのだ。心だけでなく、身体も自由も未来もすべて、手に入れることが出来る。───どうだ?」
ナンジョンは言葉巧みにトンチャンの心を揺さぶった。ドンジュが固唾を飲んで見守るなか、しごく単純なトンチャンはあっさりと首を縦に振った。
「はい!やります!ヒャンユンを手に入れられるのなら、何でもします!」
「そうか…………頼もしいぞ、トンチャン」
ナンジョンは、かつて幼い頃のヒャンユンと対峙したときと同じ冷徹な笑みを浮かべながら、トンチャンの背をさすった。
彼女の復讐が、始まろうとしていた。
トンチャンは手始めにオクニョを捕らえるように命じられ、部下を連れて彼女を探していた。
「兄貴、どうするつもりです?コン・ジェミョン大行首を攻撃すれば、ヒャンユンお嬢様のお心は……」
「黙ってろ。ヒャンユンも分かってくれるはずだ。」
トンチャンはオクニョを見つけると、目の前に立ち塞がった。
「おい、大行首様がお呼びだ。来い」
「………こんなことをしていたら、ヒャンユンの心があなたから離れる日が来るとは思わないの?」
オクニョはトンチャンを睨み付けると、食い下がった。
「あいつは分かってくれる。さぁ、来い」
「止めよ!何の話であるかはさっぱり分からぬが、オクニョから離れるのだ。」
部下を使おうとすると、オクニョとトンチャンの間を割って一人の優男が入ってきた。見るからに両班風情の男だったが、トンチャンはそれでも容赦なく突っぱねた。
「おどき頂こう、旦那様。死にたくなきゃさっさと失せな」
「───失せるのはそっちの方よ」
オクニョは男を下がらせると、トンチャンに一発蹴りを入れようとした。だが、今日のトンチャンはいつになく冴えていた。オクニョの攻撃を避けると、彼は部下に命じた。
「かかれ!絶対逃がすな!」
「はい!」
一斉に部下たちがかかるものの、オクニョは次々と余裕たっぷりに彼らを倒していった。トンチャンは横から放った攻撃を受け流され、そのまま腕をへし折られそうになった。だが、それでも彼は止めなかった。
「どうしてここまで本気で戦う必要が?死にたいの?」
「今の俺がこのまま人生を辿れば、死んだも同然だ。悪いが、俺のために消えてもらう!」
「それはどうかしら。何に逆恨みを抱いているかは察するけれど、どうしようもないこともあるのよ」
「お前は向こう側の人間の癖に、知ったような口を利くな!」
オクニョは吠えるトンチャンを地面に叩きつけると、そのまま男の手を取って逃げ出した。痛みをこらえながら立ち上がったトンチャンは、部下に二人を追うように命じた。
オクニョを追ったものの、結局たどり着いたのはテウォンとトチたちだった。二人とその部下に散々殴られ、トンチャンは満身創痍で報告に戻った。だが、ナンジョンとドンジュは嬉しそうだ。
「あの……俺は失敗したのですよね……?」
「そうだ。だが、オクニョという女とユン・テウォンが繋がっていることが分かった。次は、典獄署の裏帳簿を探させるのだ」
「裏帳簿ですか?」
ドンジュは頷くと、部下のために手短な説明を加えた。
「ああ。典獄署には賄賂がよく集まる。故に必ず裏帳簿があるはずだ」
「しかし、典獄署関係者に知り合いは………」
ここで、トンチャンにある人物がよぎった。
「………居るにはいます。ただ、一度半殺しにしました」
「問題ない。逆らったときは、もう一度半殺しにすれば良かろう」
「はい」
顔を上げたトンチャンの頭のなかには、既にユ・ジョンフェの姿が浮かんでいた。
さて、ここからどう呼び出すか。トンチャンは掌を軽く木の棒で何度も叩きながら、典獄署の前を右往左往していた。すると、ちょうど目の前を帰宅途中のジョンフェが横切った。待ってましたと言わんばかりに肩を掴むと、トンチャンは高身長を活かして圧力をかけた。
「よぉ、お役人様」
「げっ!!そ、そなた!!この前のごろつきではないか!私はもうあの女とは会っておらぬぞ!」
「俺が誰かって、自己紹介するのを忘れてたんだよ。」
トンチャンは怯えるジョンフェに、どすの効いた声でこう言った。
「俺は、シン・ドンチャンだ。チョン・ナンジョン商団で曰牌をやってる。………奥様からお前に一つ頼みがある。もし引き受けて成功すれば、典獄署の署長の座が手に入るかもしれねぇ」
「ほ、本当か………?だ、だが………」
「おい、てめぇ。疑う気か?奥様からの書状だ。これでも読んで考えろ」
この、鳥頭が。
トンチャンは馬鹿すぎる奴も扱いにくいなとため息をつくと、ジョンフェの顔を覗き込んで再度尋ねた。
「──で、どうするんだ?」
「や、やります!やらせていただきます!」
「おう、頼んだぞ」
トンチャンは再び典獄署に戻っていくジョンフェの背を見て、満面の笑みを浮かべた。これでヒャンユンとの人生が取り戻せる。
このときトンチャンは、本気でそう信じていた。
ヒャンユンはあれ以来、食事も摂らず水も飲まない生活を続けていた。心なしかやつれた姿を見かねたジェミョンは、ウンスに菓子でもいいから与えるようにと言った。だが、ヒャンユンはそれすらも拒んでしまった。
「ヒャンユン。いい加減止めたらどうだ」
「あの人とあの場を納めるため、あのようなことを言いましたが、私はお父様が二度とあの人と私を会わせるつもりがないことを知っています。」
「なら、もう止めなさい」
「愛することは、誰かに命じられて止めることが出来るものなのですか?」
ジェミョンはため息をつくと、機嫌が治る様子もないヒャンユンに縁談の書状を突きつけた。
「………縁談だ。明日に先方と会う。」
これで少しは聞き分けのいい娘に戻るだろう。そう見込んだジェミョンの検討違いだった。ヒャンユンの無表情だった顔は一気に怒りを点した。
「大嫌い!お父様なんて大嫌いよ!トンチャンの元に行けるなら誰でもいい!お父様以外の人がお父様であれば良かったのに!」
「ヒャンユン……?」
その言葉は怒りや呆れではなく、単純な驚きと空虚感をジェミョンに与えた。呆然とするジェミョンに書状を叩きつけ返し、ヒャンユンは泣きながら部屋にあった物を片っ端から壁に向かって投げ始めた。
「もう出ていってください!出ていってください!私がお父様をこれ以上罵り、悪い娘になる前に!早く!」
止めようにも、娘の秘めた激情に言葉を失って立ち尽くすジェミョンは、もうどうすれば良いのか分からなくなってしまった。そこに騒ぎを聞き付けたウンスが部屋にやって来る。
「叔父さん、どうしたの……って、ヒャンユン!何やってるのよ!投げないの!止めなさいってば!」
「止めさせたいなら、今すぐ二人とも出ていって!もう顔もみたくないわ!私、自分の意思以外で他の殿方のものになるのなら、迷わず死を選ぶから!私に死ねと仰るのなら、喜んで嫁ぎます!そうでないなら、縁談はお断りを」
ヒャンユンは他に投げるものはないかと探し、無意識に蝶のコチを手に取った。だが、振りかぶった瞬間にそれが思い出の品だと思いだし、投げようと試みた状態で静止した。目からは涙がとめどなく溢れている。
「………行こう。」
「えっ?叔父さん?ちょっと!ねぇ!説得しないと!向き合わないと、本当にヒャンユンが壊れちゃう」
食い下がるウンスに、ジェミョンは養父としての立場と本心の間に板挟みになる苛立ちをぶつけた。
「向き合ったら、あの子の人生は滅茶苦茶になってしまうんだ!解ってくれ!俺だってこんなことしたくはない。どこに娘をあんなになるまで悲しませたい親が居るんだ!」
「叔父さん…………」
そのまま去ってしまったジェミョンを見て、テウォンは覚悟を決めた。彼は執務室に入ると、黙って椅子に腰かけた。
「…………何の用だ」
「大行首様。ヒャンユンのことで何か隠さねばならないことがあるから、トンチャンとの関係を認められないのですか?」
その言葉にジェミョンは、動揺を隠せない表情を思わず浮かべた。確実に何かがあると確信したテウォンは、身を乗り出して尋ねた。
「大行首様。力になりたいんです。俺は………」
息子のように思うテウォンの、切なる訴えにジェミョンは十年程閉ざしていた重い口をついに開いた。
「テウォン。お前とあの子は同じ境遇なんだ。」
「え………?」
「あの子は、コン・ヒャンユンじゃないんだ。あの子は…………イ・ヒャンユンなんだ。」
想像以上の事実に驚きを隠せないテウォンは、狼狽した。それでもジェミョンは淡々と続けた。
「大尹派のイ・ジョンミョン様のご息女だったお嬢様は、ユン・ウォニョン様ら小尹派が企てた罠にはまり、家族を一晩にして無くされた。お嬢様の乳母と知り合いだった俺は、お嬢様を託された。だが、その前にチョン・ナンジョンが奥様を殺した。お嬢様も深手を負い、大量の失血と衝撃のせいでそれまでの記憶を無くされた。」
「………まさか、ヒャンユンお嬢様は大行首様を実の父だと思い込んでいるだけで………」
「そうだ。10年以上経った今もまだ、記憶は戻らない。……いや、あんな忌まわしく血なまぐさい記憶なんて戻らない方がましだ」
テウォンは目を細めて口を固く閉じた。ジェミョンが自傷気味に笑う。
「………俺はただの養父なんだ。だから、両班出身のお嬢様をお預かりし、全うにお育てする義務がある。それが例え、俺の親としての願いに反することだとしてもな。」
テウォンは疑問に思ったことを素直に口に出した。
「……このことを、いつか話さねばならないとは思わないのですか?」
「ああ、思っている。だが、今はまだ………」
ジェミョンは実父でなければ浮かべないような苦悶の表情を浮かべ、縁談の書状を眺めている。テウォンは数奇な運命の残酷さと、やはりチョン・ナンジョンらの行った悪行に対して怒りを覚えるのだった。
翌日。縁談の件についてしっかり話そうと意思を固めたヒャンユンが表に出ると、驚くべき光景が広がっていた。
「罪人、コン・ジェミョンとユン・テウォンを捕らえよ」
そこには、縄をかけられるジェミョンとテウォンがいた。二人とも驚いている様子だ。
「えっ………?どうして?何の容疑で?」
ヒャンユンは父に対して抱いていた怒りも忘れ、捕盗庁の兵士に詰め寄った。すると、ジェミョンは昨日あれほど酷い言葉を投げ掛けられたにも関わらず、力なく笑ってこう言った。
「……縁談は、断った。だから、お前が諦めきったときでいい」
「お父様……?」
ジェミョンは、覚悟を決めた表情でヒャンユンを見た。
「ヒャンユン。釈放されたら、話しておかなければならないことがある。だから、それまでこの商団を頼んだ。………身体に気を付けるんだぞ」
「お父様?お父様!止めて!父を連れていかないで!私のせいよ。私がお父様なんて居なくなればいいって思ったから………私が悪いの!悪いのは私なの!だから、私を連れていって!止めて!お父様!お父様!」
泣き叫ぶヒャンユンを置いて、ジェミョンは連行された。チャクトはトチと共に、トンチャンが復讐に動き出したと囁きあっている。
全てがゆっくり通りすぎているような気がして、ヒャンユンは目を見開いたまま立ち尽くした。これから先に、もっと不吉なことが待ち受けているような気がして震えが止まらなかった。
───こんなとき、トンチャンが居てくれれば。きっと、乗り越えられるのに。
だが、トンチャンは居ない。ヒャンユンは絶望の中で唇を真一文字に結ぶと、目を閉じて父への謝罪の念に打ちひしがれるのだった。
トンチャンはジェミョンが連行される様子を市場通りで見ながら、眉をひそめて静かに頷いた。
───俺とヒャンユンの間を裂く奴は、どんな相手であろうと許さねぇ。そして、どんな手を使ってでも思い知らせてやる。
トンチャンは雑踏を掻き分けて歩き出した。
────あんたらが間違えてる。ヒャンユンは、絶対に渡さねぇってな。
その瞳は、オクニョが違和感を覚えたものと同じ、底知れない冷たさを湛えていた。