12、幸福の終焉
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ヒャンユンの指導のもと、布の納入を行っているとき偶然そこをシネが通りかかった。気づいていない親友を驚かせようと思い、足音を消して近づいたシネは勢いよくその肩を叩いた。
「わっ!」
「ぎゃっ!!シ、シネ!」
「すごい叫び声ね。百年の恋も冷めそうよ」
「…………そりゃあんな驚かし方されたら、だれでもびっくりするわよ。」
してやったり顔で笑う自分の様子に呆れているヒャンユンには構わず、シネは楽しそうに話し始めた。
「あのね!ヒャンユン、聞いて。私にね、縁談が来たの。しかもとっても素敵な殿方で、名前がね、ソン・ジホン様っていうの!」
「………あら、良かったじゃない」
「良かったって……もっと言い方があるでしょ?」
「おめでとうございます……?」
「違う!」
ヒャンユンはため息をつくと、ようやく望み通りの返事をすることにした。
「嬉しそうね。……恋してるの?」
「そうなの、ソン・ジホン様に恋してるの。」
瞳をきらきらと輝かせて喜ぶシネが本当に幸せそうで、ヒャンユンはただ頷くことしか出来なかった。
その後も矢継ぎ早に婚約者の話を並べ立てたシネは、ようやく話し疲れたように息を大きく吸い込んだ。
「───で、ヒャンユンにはそんな人は出来たの?」
「へ……?わ、私?ええと……ああ………」
ヒャンユンの脳裏にちらりとトンチャンが過り、その口許が僅かに緩んだ。それを見逃さなかったシネは、にやにやしながらヒャンユンの顔を覗き込んでくる。
「なっ、何よ」
「えー?あらあら?こんなに綺麗で可愛らしい、守ってあげたくなるコン・ヒャンユンお嬢様をたらしこんだのは誰なのかしらぁー?」
我が儘娘感が否めない声でからかってくるシネに対し、絶対に教えないでおこうと心に決めたヒャンユンは首を横に振った。
「………教えない。」
「やだ!教えて!」
「駄目。」
そんなやり取りを続けていると、そこにちょうど何も知らないトンチャンがやって来た。
「おう、ヒャンユン」
「やだ、トンチャン………」
別に今来なくてもいいだろうに。ヒャンユンは心の中で密かに悪態をついた。シネに気づいたトンチャンは、慌てて一礼した。
「お嬢様、どうも」
「………やっぱりあなたたち、親しいのね」
「ええと………ああ…………」
「お嬢様。私、この前市場通りで抱き合ってるお二方を見ましたけど?」
しどろもどろになっているトンチャンと、シネの親友としてはどうにも気に入らないヒャンユンをからかってやろうと思い立った使用人のチョングムは、横からわざとらしくシネに告げた。顔面蒼白になったヒャンユンとトンチャンは、慌ててお互いに別方向を向いている。
「あら、そうなの?」
「はい、お嬢様。私この目で見ましたから」
「それはいけないわね。……私に黙って!!」
「いえ……ちょっと………」
「そ、そうよ。言う方がどうかしてるわ」
「そんなの!酷いわ!親友なのに!」
吠えるシネには聞こえないように、チョングムは部下のスングムに本音を漏らした。
「…お嬢様がそう思ってるだけじゃないの?」
「ですね……」
「なに?何か言った?」
「あっ、いえ。とんでもない」
チョングムを睨み付けて威嚇したシネは、再びヒャンユンに向き直った。
「とにかく!どういう関係?」
「それは…………」
すっかり困り果てているヒャンユンに対して、トンチャンは狼狽えたが、次の瞬間覚悟を決めた。
「───婚約者です」
「………へ?」
間の抜けた声を出したシネは、ヒャンユンとトンチャンの間で視界をさ迷わせている。その間もトンチャンは喜びと不安で困惑する婚約者を引き寄せ、自信ありげに続けた。
「婚約者です。俺の妻になる人です」
「ト、トンチャン………あなたは……いいの?」
「……いいから。お嬢様、近々正式にお伝えしようかと思っていたのですが……」
「い、いいから……わかった。うん、わかった。ありがとう。黙っておくから、うん。」
聞いてしまったシネの方が動揺するという結果に終わった告白は、なんとか丸く収まった。
その場を離れた後、シネは泣きそうな顔をしてチョングムにすがりついた。
「どうしよう!」
「えぇ?どうしたんです?」
「私が引き合わせちゃったんだわ!きっと。あのとき帰りに付いていかせたから!どうしよう!もう!ヒャンユンにトンチャンは不似合いよ!絶対おかしい!ヒャンユンの隣には家柄がよくて、強いのに細身で賢い男前が似合うに決まってるわ!」
「でも、ヒャンユン様のお好みがトンチャンなんでしょう?ああ、趣味が悪い。トンチャンと結婚なんて、私吐きそうです」
本当に吐きそうな顔をしながら、チョングムは嫌悪感を示した。すると、今度はシネがその腕を叩いた。
「ちょっと!失礼じゃない!」
シネはチョングムに怒りを向けると、そのまますたすたと歩き去ってしまった。残されたチョングムは頬を膨らませると、がに股で後ろを振り返った。
「えっ?お嬢様が言ったんじゃない!もう!あの我が儘娘!ちょっと、お嬢様!お嬢様!」
そして、いつものようにチョングムとスングムはシネを追いかけるべく、走り出すのだった。
ヒャンユンの手を引いたまま歩き出したトンチャンは、無言でそのままヨジュの酒場にやって来た。
「………お前は、嫌なのか?」
「え?」
「俺と婚姻するって、そう皆に知られるのは嫌か?」
ヒャンユンは悲しそうな顔をすると、トンチャンの手をそっと握った。
「………あなたに迷惑と、恐ろしいことが降りかかるんじゃないかって不安なの。」
「なら、安心しろ。俺のことなら大丈夫だ」
「でも………」
二人が見つめあっている横で、注文を取りに来たヨジュが幽霊でも見るかのような視線を投げ掛けている。
「……ご注文は?」
「あっ…………ええと…」
「酒。クッパ。以上」
「はいよ」
出来るだけ目を合わせないように注文を済ませると、トンチャンはヒャンユンからやや距離を置いて座った。
「ねぇ、何してるのよ。さっき安心しろって言ってたじゃない」
「……やっぱり好奇の視線に晒されるお前が可哀想だ」
「え?」
トンチャンはため息をつくと、そのまま机に頬杖をついてふて腐れた。
───ああ、どうせ俺は醜男だよ。悪かったな、世間様。ヒャンユンの連れがテウォンみたいな二枚目じゃなくて!
またもやふて腐れてしまったトンチャンをどうすべきか。その処遇に困り果てていると、部屋からヤン・ドングと連れ立ってユ・ジョンフェが出てきた。ジョンフェはすぐにヒャンユンに気づくと、トンチャンが隣にいることも知らずその手を握った。
「おお!そなたは!あのときの茶女ではないか!何故最近姿を見せぬ?オクニョに聞いても、臨時で入ったため知らないの一点張りときた。会いたかったぞ、私の天女」
「…………天女?私が?」
「そうだ!ああ、可愛い手をしておるな。どれ、私が……」
ジョンフェが馴れ馴れしくヒャンユンの手をなで回している間に、もはや体面などどうでも良くなったトンチャンが立ち上がった。その様子を見ていたヨジュは、ドングの肩を叩くと慌てて耳打ちした。話を聞いて顔面蒼白となったドングは、すぐにジョンフェの手を引っ張ってその場を離れることを促した。
「お、おい、ユ・ジョンフェ。帰ろう」
「何故だ。せっかく見つけたのだ。さ、こちらへおいで」
ジョンフェがヒャンユンを引き寄せようとしたときだった。その胸ぐらが捕まれて、逆にジョンフェが斜め上に引き寄せられる。驚いた彼は、何が起こっているのかを確かめようと辺りを見回した。すると、いかにも殺意をむき出しにしているトンチャンと至近距離で目が合う。
「お、お前は……シン・ドンチャンではないか。ここで何の用だ?」
「ここで?俺は連れと昼飯を食いに来たんだが?」
「つ、連れ?それなら私は関係ないであろう」
「おい、ジョンフェ。止めろ。トンチャンも落ち着け。この辺で……」
まだ気づいていないジョンフェの身の危険を感じたドングは、慌てて仲裁を試みたがトンチャンの凄みに圧倒されてしまった。
「うるせぇ。……ヤン・ドング様なら、自分の女が他の男に口説かれていたらどうします?」
「…………殴るよな」
「……そういうことだ!」
次の瞬間、ジョンフェは地面に叩きつけられ、蹴り倒された。やれやれと言いたげな顔をしたヨジュは、トンチャンを柄杓で叩いた。
「ちょっと!せめて店の外でやっておくれ!」
「ああ、そうしよう。ほら、這って出やがれ!」
「ひっ…………お、お前、まさか、連れって………」
「そうだ。俺の連れは、お前の天女だよ!親しい俺だって側にいるだけでも気がとがめるのに、汚い手でべたべた触りやがって。ぶっ殺してやる!」
指示通り、逃げようとして店の敷地から這い出たジョンフェをもう一度強く蹴りつけると、そのままトンチャンは間髪入れずに激しく蹴りを入れ始めた。流石に本気で相手を殺してしまうと思ったヒャンユンは、自分も平手打ちしたい気持ちを抑えてトンチャンを止めようとした。
「トンチャン、やめて。トンチャン!ちょっと!」
「お前だって嫌がってただろ!?てめぇ!!」
「典獄署のお役人様よ?もしお世話になったら……」
「俺は典獄署なんて入らねぇよ!死ね!」
トンチャンが容赦なく蹴りを入れている間も、ジョンフェは白目をむきかけながら、仰向けになってカエルのような声を上げている。ドングと駆けつけた部下の力づくの制止でようやく怒りが収まったトンチャンは、頭を冷やして吠えた。
「いいか!今度もしヒャンユンのことを追いかけ回してるのを俺が見かけたら、次こそ命はないと思え!それと!俺には大勢の手下がいる。そいつらにもお前のことを言いつけておくからな」
「ひっ…………わっ、わかりましたっ!!許してくださいぃ…………お許しを………」
尻尾を巻いて帰っていくジョンフェの後ろ姿が消えてから、ヒャンユンは地面に座り込んでしまった。肩は震えており、目には涙がたまっている。トンチャンは部下とドングの手を振り払い、しゃがみこんでヒャンユンを抱き締めた。
「もう、大丈夫だ。泣かなくていい。」
「トンチャン…………怖かった………トンチャン以外の男性が………怖くて………嫌で…………私…………」
「俺が、守るから。他の男には指一本触れさせねぇ。誰がなんと言おうと、俺の……大切な人だから」
二人は見つめ合うと、互いの居場所にようやく戻ったように安堵した。そして手を取りあい、ぴったりくっついてから並んで席についた。いささか広すぎる背中と華奢で細くて小さな背中が並んでいる様子は、誰が見ても異様な光景だった。
そんな違和感が少し後の二人の運命を暗示しているとは、まだ二人にとっては考えがたいことだった。
ある日、ヒャンユンは行首として会議の場に呼ばれた。そこにはオクニョもおり、珍しい面々が揃っていることに驚いた。
「あら、オクニョ。どうしたの?」
「あっ………ヒャンユン」
オクニョは口を開いて先日の一件を伝えて警告せねばと思ったが、すぐにジェミョンがやって来て会議が始まってしまった。
「よく集まってくれた。………この度我々は、平市署の塩の入札に参加することとなった」
「平市署の?ええと……でもうちは、チョン・ナンジョンやイム・サンオク商団よりも安くでは作れないでしょ?」
ウンスの発言にオクニョが回答した。
「ご心配なく。こちらの塩の方が断然質が高いことは証明されています。ですから、これ以上の値下げを図るには、作業を行う人々に払う費用が問題です。」
ヒャンユンは少し考えると、ようやくオクニョがここに居る訳を悟った。
「………まさか、典獄署の囚人を使うの?」
「そう!流石ね、ヒャンユン!」
オクニョが目を輝かせながら次々と計画を読み上げていく。その様子を見てチョン・ナンジョン商団と対立するというより、真っ向からの勝負をかけられるほどに成長したことに喜びを感じたヒャンユンは、満面の笑みを浮かべるのだった。
一方、作業が始まってすぐにこの噂はチョン・ナンジョンの耳に飛び込んできた。大行首のミン・ドンジュは自商団の塩についての帳簿を見せながら、すっかり頭を抱えてしまっている。
「奥様、どうしましょう。このままではコン・ジェミョンのところに負けてしまいます」
「……何としてでも勝たねば。我々があのような弱小商団に負けたと知れば、名に傷が付きかねない。………トンチャンを使え」
ナンジョンの提案に、すぐに何を意味しているかを悟ったドンジュは、この場にトンチャンを呼びつけた。
「お呼びでしょうか。」
「そなた、コン・ヒャンユンを使って塩の入札価格を調べよ」
「え………?コン・ジェミョン大行首の娘を使ってですか?」
驚いて目を丸くするトンチャンに、ドンジュが付け足した。
「そうだ。コン・ジェミョンに娘を傷物にすると言って脅してもよし、娘に頼み込んで教えてもらうもよし。好きにせよ」
「いえ……しかし………」
「出来ぬと言うのか?まさか、奧さまの前で断ると?」
「そ、そうではありません。もっと俺にいい考えがある、と言いたいのです」
「そなた…………!」
ミョンソルの一件で気にやんでいたトンチャンは、流石に命がかかっても承諾はできないと思い、珍しく食い下がった。ドンジュが立ち上がり、その頬を打とうと手を振りかぶる。だが、ナンジョンが冷徹な声でそれを制止した。
「そうか。まぁ、良い。想い人を大切にする部下の方が、少しばかりは信頼できる。方法はどうでも良い。少なくとも、コン・ジェミョンの娘を使うのは効果的だと言いたいだけだ。」
「………肝に命じておきます」
トンチャンが下がったあと、ドンジュはしかめ面でナンジョンにたたみかけた。
「奥様!何故許されたのですか?私は最近、あやつがコン・ヒャンユンのために我々を裏切らぬか心配でなりません。」
「それはなかろう。例え互いが好いておろうとも、コン・ジェミョンは二人の婚姻を決して許さぬ。二人が婚姻せぬ限り、トンチャンが裏切る心配はない。だが、一つだけトンチャンに言っておけ。」
「……はい」
ドンジュはナンジョンに近づくと、そっと耳打ちされた内容にほくそ笑んだ。
思慕の念が絡むと、厄介だ。ナンジョンはため息をつくと、再び帳簿とにらみ合いを始めた。
トンチャンは再度決断を迫られていることを、既に身をもって知った。今回もナンジョンには逆らえない。だが、無力ながらも抵抗は試みた。おかげでヒャンユンを直接手に掛けることは避けられた。だが、次はどうなることか。もはやそれだけが不安だった。
───コン・ジェミョン大行首とユン・テウォンを牽制するためなら、あの方は何でもするだろう。そして、きっとヒャンユンをいつか手にかける。いいや、駄目だ。もし、そうなったら………
どうすべきか。自分はすべてを失い、罪人の濡れ衣を着せられるだろう。それでも、その手にはきっとヒャンユンの愛は残るだろう。ならば、答えは決まっていた。
───俺は、ヒャンユンを取る。ヒャンユンとどこかに逃げよう。永遠に表の世界に戻れないとしても、俺はヒャンユンと生きていきたい。もう汚れた生き方しかできないなら、俺は……………
そんな思念を巡らせていると、ドンジュが現れた。
「トンチャン。少し良いか?」
「は、はい。」
「………そなた、コン・ヒャンユンに想いを寄せておるので間違いはないな?」
「え…………」
身構えたトンチャンに、珍しくドンジュは微笑んだ。
「案ずるな。奥様も私も、そなたの恋心を利用しようとは思ってはおらぬ。ただ、辛いだろうにと思っただけだ」
「……お気遣い感謝します」
「もしこの塩の入札が上手くいけば、今まで汚いことを含む全てにおいて尽くしてくれたことを汲んで、私がその娘とそなたとの婚姻を取り計らおうと思っている」
「ほ、本当ですか?本当にヒャンユンと俺が、婚姻できるのですか?」
思った以上に疑い深くないトンチャンに心の中で呆れると、ドンジュは笑顔を崩さぬように頷いた。
「ああ、そうだ。容易いことだ」
「ありがとうございます!大行首様!」
そう言って顔を上げたトンチャンの瞳が、希望に輝いていたことは言うまでもなかった。
そして入札の前日の夜、ヒャンユンは何気なく水を飲むために土間に立ち寄った帰り、応接室の前を通りかかった。ふと、夜遅くにも関わらず灯りがついていることに気づいたヒャンユンは、消し忘れではないかと思って部屋に近づいた。すると、中からテウォンとトチ、そして父ジェミョンの声が聞こえてきた。何故か部屋に入るのが拒まれ、ヒャンユンは息を殺して耳を傍立てた。
「───大行首。明日の入札に備えて、トンチャンがチョンドンに接触しました。マノクにトチから値段を書いた紙を掏らせる計画のようです。」
「読み通りだな、テウォン。」
「そうだ。これで後は奴等がうちの付けた3両よりも安くに価格を設定すれば……」
「うちは軍に塩を納入することが決まっていますので、あちらは確実に大損です。」
「いくら程の損害を与えられる?」
「そうですね。少なくとも8000両程度は損失させられるかと」
───大変。
ヒャンユンはすぐにでもトンチャンに知らせなければと思い立ち、向きを変えて大急ぎでその場を立ち去ろうとした。だが、部屋の前を後にしようとしたちょうどその時、夜食を持ってきたウンスと鉢合わせしてしまった。小さな悲鳴を上げたヒャンユンは、ウンスを押し退けて通ろうとした。だが、いつもと違って頑なな彼女が通してくれる気配はない。
「お願い、通して。」
「駄目よ。どうせあの男に言いに行くんでしょ?許ささないから。」
「ウンス!私があの人をどれくらい愛しているか知ってるくせに」
澄まし顔で頷いたウンスは、次の瞬間首を横に振った。
「ええ、知ってる。だから駄目。」
「何ですって?」
その騒ぎを聞き付けたジェミョンたちが部屋から出てくる。ヒャンユンは怒りを露にしながらテウォンを怒鳴り付けた。
「あなたは……あなたは、復讐のために父を利用しているのね!よくも余計なことを!父はこんなことをしなくても商売をやっていけていたのに!」
「ヒャンユン!やめないか!全てはお前のためだ。お前に……」
「私のためを思うなら、トンチャンのところに行かせて。絶対に嫌。ここを通して!早く!」
「ヒャンユン!」
ジェミョンは目で合図すると、トチとテウォンにヒャンユンを取り押さえさせた。それでも彼女は普段の様子からは想像もつかない程に抵抗を続けている。
「嫌!嫌よ!トンチャン!トンチャンに伝えないと!トンチャン!会わせて!彼に会わせて!トンチャン!嫌!トンチャン!」
「………この子を、納屋に監禁しろ。鍵をかけて、決して誰にも会わせるんじゃないぞ。食事も水も与えるな。テウォン、ウンス、お前たちが見張っておけ。いいか!」
「は、はい………さぁ、お嬢様、来てください」
「嫌!トンチャン!トンチャン!」
ジェミョンは愛娘の悲痛な訴えに耳を塞ぐと、そのまま背を向けた。絶望の中で、ヒャンユンは届くはずもないトンチャンの名を呼び続けた。納屋に入れられ、鍵をかけられても、ヒャンユンは戸を叩いて叫び続けた。
「トンチャン!彼に会わせて!お願い!こんなの、間違っているわ。うちが儲けるのなら、損失なんてさせなくてもいいのに!ねぇ!何とか言いなさいよ!言いなさいってば!」
「お嬢様!安国洞の母上は、チョン・ナンジョンの手で毒を盛られて死に至ったのです!」
「嘘よ!」
「叔父さんが捕まったのも、テウォンさんが捕まったのも、全部ナンジョンの仕業なのよ!」
「違う!」
「俺が庶子のままでこうして生きているのも、ユン・ウォニョンがチョン・ナンジョンを母を捨てて選んだからなんです!そんな非情な輩の部下が、どんな生き方をしているとお思いですか?」
ヒャンユンはもうどれが真実かわからず、狼狽した。怒りを込めた叫びは、いつしか悲壮な訴えに変わっていった。
「嫌……………嫌……………違う!トンチャンは違う!あの人は………あの人は、そんな人じゃない!」
そしてそう叫んだときだった。戸が一際大きく外から蹴られ、初めて見せるジェミョンの怒声が響き渡った。
「ヒャンユン!いい加減目を覚ませ!」
「お父様………?どうして………?だったら、どうして私はあの人を愛しているの?私が………私が知っているあの人は、優しくて明るくて、笑顔が素敵なとても良い人なのよ。」
それを聞いてジェミョンの心に更なる怒りがこみ上げてくる。娘をここまで壊し、ここまで信じさせたトンチャンがただただ憎かった。
「………全部、お前を欺くための嘘だったんだよ」
「そんな…………だったら、初めてあったときに私の名前を褒めてくれたのはどうなの?」
父からの返事はない。ヒャンユンは両目から涙がこぼれるのを止められず、戸にすがりつくようにもたれながら嗚咽を漏らした。
「だったら、私のことを誰よりも綺麗だと、蝶のようだと褒めてくれたのは?」
返事はない。代わりに沈黙が返ってきた。それでもヒャンユンは続けた。
「名前で呼んでもいいって言ってくれたのは?もっと親しくなりたいと言ってくれたのは?ずっと傍に居てほしいって言ってくれたのは?お嫁さんにしてあげるって言ってくれたのは?」
そこまで言うと、ヒャンユンは床に手をついて座り込み、呟くように最後の訴えをこぼした。
「───誰よりも愛してるって…………言って………くれたのは………?」
ジェミョンはついに耐えきれず、鼻と口を覆ってその場から駆け出すと、塀の隅で声を殺して哭いた。
「すまない……………すまない…………ヒャンユン……………」
すぐにでも出してやり、商売なんて放り出してその願いを叶えてやりたかった。だが、それは許されないことだった。実の両親を殺してすべてを奪った人々の下に、預かった娘をやることは、到底実父でないジェミョンが決断して良いものではなかった。
この日も、偶然にしてヒャンユンと息絶えたその母を見つけたあの運命の日と同じ月が出ていた。トンチャンは不安よりも勝る期待を胸に、その月を見ていた。
───待っていてくれ、ヒャンユン。ようやく俺にも運が向いてきたんだ。俺にも、お前を手に入れることが許される運が…………
その期待が儚く散ることが運命の狂い出しであるともし知っていたなら、彼らはどうしたのだろうか。
全ての駒は揃った。こうして悲劇の序章に賽は投げられるのだった。
「わっ!」
「ぎゃっ!!シ、シネ!」
「すごい叫び声ね。百年の恋も冷めそうよ」
「…………そりゃあんな驚かし方されたら、だれでもびっくりするわよ。」
してやったり顔で笑う自分の様子に呆れているヒャンユンには構わず、シネは楽しそうに話し始めた。
「あのね!ヒャンユン、聞いて。私にね、縁談が来たの。しかもとっても素敵な殿方で、名前がね、ソン・ジホン様っていうの!」
「………あら、良かったじゃない」
「良かったって……もっと言い方があるでしょ?」
「おめでとうございます……?」
「違う!」
ヒャンユンはため息をつくと、ようやく望み通りの返事をすることにした。
「嬉しそうね。……恋してるの?」
「そうなの、ソン・ジホン様に恋してるの。」
瞳をきらきらと輝かせて喜ぶシネが本当に幸せそうで、ヒャンユンはただ頷くことしか出来なかった。
その後も矢継ぎ早に婚約者の話を並べ立てたシネは、ようやく話し疲れたように息を大きく吸い込んだ。
「───で、ヒャンユンにはそんな人は出来たの?」
「へ……?わ、私?ええと……ああ………」
ヒャンユンの脳裏にちらりとトンチャンが過り、その口許が僅かに緩んだ。それを見逃さなかったシネは、にやにやしながらヒャンユンの顔を覗き込んでくる。
「なっ、何よ」
「えー?あらあら?こんなに綺麗で可愛らしい、守ってあげたくなるコン・ヒャンユンお嬢様をたらしこんだのは誰なのかしらぁー?」
我が儘娘感が否めない声でからかってくるシネに対し、絶対に教えないでおこうと心に決めたヒャンユンは首を横に振った。
「………教えない。」
「やだ!教えて!」
「駄目。」
そんなやり取りを続けていると、そこにちょうど何も知らないトンチャンがやって来た。
「おう、ヒャンユン」
「やだ、トンチャン………」
別に今来なくてもいいだろうに。ヒャンユンは心の中で密かに悪態をついた。シネに気づいたトンチャンは、慌てて一礼した。
「お嬢様、どうも」
「………やっぱりあなたたち、親しいのね」
「ええと………ああ…………」
「お嬢様。私、この前市場通りで抱き合ってるお二方を見ましたけど?」
しどろもどろになっているトンチャンと、シネの親友としてはどうにも気に入らないヒャンユンをからかってやろうと思い立った使用人のチョングムは、横からわざとらしくシネに告げた。顔面蒼白になったヒャンユンとトンチャンは、慌ててお互いに別方向を向いている。
「あら、そうなの?」
「はい、お嬢様。私この目で見ましたから」
「それはいけないわね。……私に黙って!!」
「いえ……ちょっと………」
「そ、そうよ。言う方がどうかしてるわ」
「そんなの!酷いわ!親友なのに!」
吠えるシネには聞こえないように、チョングムは部下のスングムに本音を漏らした。
「…お嬢様がそう思ってるだけじゃないの?」
「ですね……」
「なに?何か言った?」
「あっ、いえ。とんでもない」
チョングムを睨み付けて威嚇したシネは、再びヒャンユンに向き直った。
「とにかく!どういう関係?」
「それは…………」
すっかり困り果てているヒャンユンに対して、トンチャンは狼狽えたが、次の瞬間覚悟を決めた。
「───婚約者です」
「………へ?」
間の抜けた声を出したシネは、ヒャンユンとトンチャンの間で視界をさ迷わせている。その間もトンチャンは喜びと不安で困惑する婚約者を引き寄せ、自信ありげに続けた。
「婚約者です。俺の妻になる人です」
「ト、トンチャン………あなたは……いいの?」
「……いいから。お嬢様、近々正式にお伝えしようかと思っていたのですが……」
「い、いいから……わかった。うん、わかった。ありがとう。黙っておくから、うん。」
聞いてしまったシネの方が動揺するという結果に終わった告白は、なんとか丸く収まった。
その場を離れた後、シネは泣きそうな顔をしてチョングムにすがりついた。
「どうしよう!」
「えぇ?どうしたんです?」
「私が引き合わせちゃったんだわ!きっと。あのとき帰りに付いていかせたから!どうしよう!もう!ヒャンユンにトンチャンは不似合いよ!絶対おかしい!ヒャンユンの隣には家柄がよくて、強いのに細身で賢い男前が似合うに決まってるわ!」
「でも、ヒャンユン様のお好みがトンチャンなんでしょう?ああ、趣味が悪い。トンチャンと結婚なんて、私吐きそうです」
本当に吐きそうな顔をしながら、チョングムは嫌悪感を示した。すると、今度はシネがその腕を叩いた。
「ちょっと!失礼じゃない!」
シネはチョングムに怒りを向けると、そのまますたすたと歩き去ってしまった。残されたチョングムは頬を膨らませると、がに股で後ろを振り返った。
「えっ?お嬢様が言ったんじゃない!もう!あの我が儘娘!ちょっと、お嬢様!お嬢様!」
そして、いつものようにチョングムとスングムはシネを追いかけるべく、走り出すのだった。
ヒャンユンの手を引いたまま歩き出したトンチャンは、無言でそのままヨジュの酒場にやって来た。
「………お前は、嫌なのか?」
「え?」
「俺と婚姻するって、そう皆に知られるのは嫌か?」
ヒャンユンは悲しそうな顔をすると、トンチャンの手をそっと握った。
「………あなたに迷惑と、恐ろしいことが降りかかるんじゃないかって不安なの。」
「なら、安心しろ。俺のことなら大丈夫だ」
「でも………」
二人が見つめあっている横で、注文を取りに来たヨジュが幽霊でも見るかのような視線を投げ掛けている。
「……ご注文は?」
「あっ…………ええと…」
「酒。クッパ。以上」
「はいよ」
出来るだけ目を合わせないように注文を済ませると、トンチャンはヒャンユンからやや距離を置いて座った。
「ねぇ、何してるのよ。さっき安心しろって言ってたじゃない」
「……やっぱり好奇の視線に晒されるお前が可哀想だ」
「え?」
トンチャンはため息をつくと、そのまま机に頬杖をついてふて腐れた。
───ああ、どうせ俺は醜男だよ。悪かったな、世間様。ヒャンユンの連れがテウォンみたいな二枚目じゃなくて!
またもやふて腐れてしまったトンチャンをどうすべきか。その処遇に困り果てていると、部屋からヤン・ドングと連れ立ってユ・ジョンフェが出てきた。ジョンフェはすぐにヒャンユンに気づくと、トンチャンが隣にいることも知らずその手を握った。
「おお!そなたは!あのときの茶女ではないか!何故最近姿を見せぬ?オクニョに聞いても、臨時で入ったため知らないの一点張りときた。会いたかったぞ、私の天女」
「…………天女?私が?」
「そうだ!ああ、可愛い手をしておるな。どれ、私が……」
ジョンフェが馴れ馴れしくヒャンユンの手をなで回している間に、もはや体面などどうでも良くなったトンチャンが立ち上がった。その様子を見ていたヨジュは、ドングの肩を叩くと慌てて耳打ちした。話を聞いて顔面蒼白となったドングは、すぐにジョンフェの手を引っ張ってその場を離れることを促した。
「お、おい、ユ・ジョンフェ。帰ろう」
「何故だ。せっかく見つけたのだ。さ、こちらへおいで」
ジョンフェがヒャンユンを引き寄せようとしたときだった。その胸ぐらが捕まれて、逆にジョンフェが斜め上に引き寄せられる。驚いた彼は、何が起こっているのかを確かめようと辺りを見回した。すると、いかにも殺意をむき出しにしているトンチャンと至近距離で目が合う。
「お、お前は……シン・ドンチャンではないか。ここで何の用だ?」
「ここで?俺は連れと昼飯を食いに来たんだが?」
「つ、連れ?それなら私は関係ないであろう」
「おい、ジョンフェ。止めろ。トンチャンも落ち着け。この辺で……」
まだ気づいていないジョンフェの身の危険を感じたドングは、慌てて仲裁を試みたがトンチャンの凄みに圧倒されてしまった。
「うるせぇ。……ヤン・ドング様なら、自分の女が他の男に口説かれていたらどうします?」
「…………殴るよな」
「……そういうことだ!」
次の瞬間、ジョンフェは地面に叩きつけられ、蹴り倒された。やれやれと言いたげな顔をしたヨジュは、トンチャンを柄杓で叩いた。
「ちょっと!せめて店の外でやっておくれ!」
「ああ、そうしよう。ほら、這って出やがれ!」
「ひっ…………お、お前、まさか、連れって………」
「そうだ。俺の連れは、お前の天女だよ!親しい俺だって側にいるだけでも気がとがめるのに、汚い手でべたべた触りやがって。ぶっ殺してやる!」
指示通り、逃げようとして店の敷地から這い出たジョンフェをもう一度強く蹴りつけると、そのままトンチャンは間髪入れずに激しく蹴りを入れ始めた。流石に本気で相手を殺してしまうと思ったヒャンユンは、自分も平手打ちしたい気持ちを抑えてトンチャンを止めようとした。
「トンチャン、やめて。トンチャン!ちょっと!」
「お前だって嫌がってただろ!?てめぇ!!」
「典獄署のお役人様よ?もしお世話になったら……」
「俺は典獄署なんて入らねぇよ!死ね!」
トンチャンが容赦なく蹴りを入れている間も、ジョンフェは白目をむきかけながら、仰向けになってカエルのような声を上げている。ドングと駆けつけた部下の力づくの制止でようやく怒りが収まったトンチャンは、頭を冷やして吠えた。
「いいか!今度もしヒャンユンのことを追いかけ回してるのを俺が見かけたら、次こそ命はないと思え!それと!俺には大勢の手下がいる。そいつらにもお前のことを言いつけておくからな」
「ひっ…………わっ、わかりましたっ!!許してくださいぃ…………お許しを………」
尻尾を巻いて帰っていくジョンフェの後ろ姿が消えてから、ヒャンユンは地面に座り込んでしまった。肩は震えており、目には涙がたまっている。トンチャンは部下とドングの手を振り払い、しゃがみこんでヒャンユンを抱き締めた。
「もう、大丈夫だ。泣かなくていい。」
「トンチャン…………怖かった………トンチャン以外の男性が………怖くて………嫌で…………私…………」
「俺が、守るから。他の男には指一本触れさせねぇ。誰がなんと言おうと、俺の……大切な人だから」
二人は見つめ合うと、互いの居場所にようやく戻ったように安堵した。そして手を取りあい、ぴったりくっついてから並んで席についた。いささか広すぎる背中と華奢で細くて小さな背中が並んでいる様子は、誰が見ても異様な光景だった。
そんな違和感が少し後の二人の運命を暗示しているとは、まだ二人にとっては考えがたいことだった。
ある日、ヒャンユンは行首として会議の場に呼ばれた。そこにはオクニョもおり、珍しい面々が揃っていることに驚いた。
「あら、オクニョ。どうしたの?」
「あっ………ヒャンユン」
オクニョは口を開いて先日の一件を伝えて警告せねばと思ったが、すぐにジェミョンがやって来て会議が始まってしまった。
「よく集まってくれた。………この度我々は、平市署の塩の入札に参加することとなった」
「平市署の?ええと……でもうちは、チョン・ナンジョンやイム・サンオク商団よりも安くでは作れないでしょ?」
ウンスの発言にオクニョが回答した。
「ご心配なく。こちらの塩の方が断然質が高いことは証明されています。ですから、これ以上の値下げを図るには、作業を行う人々に払う費用が問題です。」
ヒャンユンは少し考えると、ようやくオクニョがここに居る訳を悟った。
「………まさか、典獄署の囚人を使うの?」
「そう!流石ね、ヒャンユン!」
オクニョが目を輝かせながら次々と計画を読み上げていく。その様子を見てチョン・ナンジョン商団と対立するというより、真っ向からの勝負をかけられるほどに成長したことに喜びを感じたヒャンユンは、満面の笑みを浮かべるのだった。
一方、作業が始まってすぐにこの噂はチョン・ナンジョンの耳に飛び込んできた。大行首のミン・ドンジュは自商団の塩についての帳簿を見せながら、すっかり頭を抱えてしまっている。
「奥様、どうしましょう。このままではコン・ジェミョンのところに負けてしまいます」
「……何としてでも勝たねば。我々があのような弱小商団に負けたと知れば、名に傷が付きかねない。………トンチャンを使え」
ナンジョンの提案に、すぐに何を意味しているかを悟ったドンジュは、この場にトンチャンを呼びつけた。
「お呼びでしょうか。」
「そなた、コン・ヒャンユンを使って塩の入札価格を調べよ」
「え………?コン・ジェミョン大行首の娘を使ってですか?」
驚いて目を丸くするトンチャンに、ドンジュが付け足した。
「そうだ。コン・ジェミョンに娘を傷物にすると言って脅してもよし、娘に頼み込んで教えてもらうもよし。好きにせよ」
「いえ……しかし………」
「出来ぬと言うのか?まさか、奧さまの前で断ると?」
「そ、そうではありません。もっと俺にいい考えがある、と言いたいのです」
「そなた…………!」
ミョンソルの一件で気にやんでいたトンチャンは、流石に命がかかっても承諾はできないと思い、珍しく食い下がった。ドンジュが立ち上がり、その頬を打とうと手を振りかぶる。だが、ナンジョンが冷徹な声でそれを制止した。
「そうか。まぁ、良い。想い人を大切にする部下の方が、少しばかりは信頼できる。方法はどうでも良い。少なくとも、コン・ジェミョンの娘を使うのは効果的だと言いたいだけだ。」
「………肝に命じておきます」
トンチャンが下がったあと、ドンジュはしかめ面でナンジョンにたたみかけた。
「奥様!何故許されたのですか?私は最近、あやつがコン・ヒャンユンのために我々を裏切らぬか心配でなりません。」
「それはなかろう。例え互いが好いておろうとも、コン・ジェミョンは二人の婚姻を決して許さぬ。二人が婚姻せぬ限り、トンチャンが裏切る心配はない。だが、一つだけトンチャンに言っておけ。」
「……はい」
ドンジュはナンジョンに近づくと、そっと耳打ちされた内容にほくそ笑んだ。
思慕の念が絡むと、厄介だ。ナンジョンはため息をつくと、再び帳簿とにらみ合いを始めた。
トンチャンは再度決断を迫られていることを、既に身をもって知った。今回もナンジョンには逆らえない。だが、無力ながらも抵抗は試みた。おかげでヒャンユンを直接手に掛けることは避けられた。だが、次はどうなることか。もはやそれだけが不安だった。
───コン・ジェミョン大行首とユン・テウォンを牽制するためなら、あの方は何でもするだろう。そして、きっとヒャンユンをいつか手にかける。いいや、駄目だ。もし、そうなったら………
どうすべきか。自分はすべてを失い、罪人の濡れ衣を着せられるだろう。それでも、その手にはきっとヒャンユンの愛は残るだろう。ならば、答えは決まっていた。
───俺は、ヒャンユンを取る。ヒャンユンとどこかに逃げよう。永遠に表の世界に戻れないとしても、俺はヒャンユンと生きていきたい。もう汚れた生き方しかできないなら、俺は……………
そんな思念を巡らせていると、ドンジュが現れた。
「トンチャン。少し良いか?」
「は、はい。」
「………そなた、コン・ヒャンユンに想いを寄せておるので間違いはないな?」
「え…………」
身構えたトンチャンに、珍しくドンジュは微笑んだ。
「案ずるな。奥様も私も、そなたの恋心を利用しようとは思ってはおらぬ。ただ、辛いだろうにと思っただけだ」
「……お気遣い感謝します」
「もしこの塩の入札が上手くいけば、今まで汚いことを含む全てにおいて尽くしてくれたことを汲んで、私がその娘とそなたとの婚姻を取り計らおうと思っている」
「ほ、本当ですか?本当にヒャンユンと俺が、婚姻できるのですか?」
思った以上に疑い深くないトンチャンに心の中で呆れると、ドンジュは笑顔を崩さぬように頷いた。
「ああ、そうだ。容易いことだ」
「ありがとうございます!大行首様!」
そう言って顔を上げたトンチャンの瞳が、希望に輝いていたことは言うまでもなかった。
そして入札の前日の夜、ヒャンユンは何気なく水を飲むために土間に立ち寄った帰り、応接室の前を通りかかった。ふと、夜遅くにも関わらず灯りがついていることに気づいたヒャンユンは、消し忘れではないかと思って部屋に近づいた。すると、中からテウォンとトチ、そして父ジェミョンの声が聞こえてきた。何故か部屋に入るのが拒まれ、ヒャンユンは息を殺して耳を傍立てた。
「───大行首。明日の入札に備えて、トンチャンがチョンドンに接触しました。マノクにトチから値段を書いた紙を掏らせる計画のようです。」
「読み通りだな、テウォン。」
「そうだ。これで後は奴等がうちの付けた3両よりも安くに価格を設定すれば……」
「うちは軍に塩を納入することが決まっていますので、あちらは確実に大損です。」
「いくら程の損害を与えられる?」
「そうですね。少なくとも8000両程度は損失させられるかと」
───大変。
ヒャンユンはすぐにでもトンチャンに知らせなければと思い立ち、向きを変えて大急ぎでその場を立ち去ろうとした。だが、部屋の前を後にしようとしたちょうどその時、夜食を持ってきたウンスと鉢合わせしてしまった。小さな悲鳴を上げたヒャンユンは、ウンスを押し退けて通ろうとした。だが、いつもと違って頑なな彼女が通してくれる気配はない。
「お願い、通して。」
「駄目よ。どうせあの男に言いに行くんでしょ?許ささないから。」
「ウンス!私があの人をどれくらい愛しているか知ってるくせに」
澄まし顔で頷いたウンスは、次の瞬間首を横に振った。
「ええ、知ってる。だから駄目。」
「何ですって?」
その騒ぎを聞き付けたジェミョンたちが部屋から出てくる。ヒャンユンは怒りを露にしながらテウォンを怒鳴り付けた。
「あなたは……あなたは、復讐のために父を利用しているのね!よくも余計なことを!父はこんなことをしなくても商売をやっていけていたのに!」
「ヒャンユン!やめないか!全てはお前のためだ。お前に……」
「私のためを思うなら、トンチャンのところに行かせて。絶対に嫌。ここを通して!早く!」
「ヒャンユン!」
ジェミョンは目で合図すると、トチとテウォンにヒャンユンを取り押さえさせた。それでも彼女は普段の様子からは想像もつかない程に抵抗を続けている。
「嫌!嫌よ!トンチャン!トンチャンに伝えないと!トンチャン!会わせて!彼に会わせて!トンチャン!嫌!トンチャン!」
「………この子を、納屋に監禁しろ。鍵をかけて、決して誰にも会わせるんじゃないぞ。食事も水も与えるな。テウォン、ウンス、お前たちが見張っておけ。いいか!」
「は、はい………さぁ、お嬢様、来てください」
「嫌!トンチャン!トンチャン!」
ジェミョンは愛娘の悲痛な訴えに耳を塞ぐと、そのまま背を向けた。絶望の中で、ヒャンユンは届くはずもないトンチャンの名を呼び続けた。納屋に入れられ、鍵をかけられても、ヒャンユンは戸を叩いて叫び続けた。
「トンチャン!彼に会わせて!お願い!こんなの、間違っているわ。うちが儲けるのなら、損失なんてさせなくてもいいのに!ねぇ!何とか言いなさいよ!言いなさいってば!」
「お嬢様!安国洞の母上は、チョン・ナンジョンの手で毒を盛られて死に至ったのです!」
「嘘よ!」
「叔父さんが捕まったのも、テウォンさんが捕まったのも、全部ナンジョンの仕業なのよ!」
「違う!」
「俺が庶子のままでこうして生きているのも、ユン・ウォニョンがチョン・ナンジョンを母を捨てて選んだからなんです!そんな非情な輩の部下が、どんな生き方をしているとお思いですか?」
ヒャンユンはもうどれが真実かわからず、狼狽した。怒りを込めた叫びは、いつしか悲壮な訴えに変わっていった。
「嫌……………嫌……………違う!トンチャンは違う!あの人は………あの人は、そんな人じゃない!」
そしてそう叫んだときだった。戸が一際大きく外から蹴られ、初めて見せるジェミョンの怒声が響き渡った。
「ヒャンユン!いい加減目を覚ませ!」
「お父様………?どうして………?だったら、どうして私はあの人を愛しているの?私が………私が知っているあの人は、優しくて明るくて、笑顔が素敵なとても良い人なのよ。」
それを聞いてジェミョンの心に更なる怒りがこみ上げてくる。娘をここまで壊し、ここまで信じさせたトンチャンがただただ憎かった。
「………全部、お前を欺くための嘘だったんだよ」
「そんな…………だったら、初めてあったときに私の名前を褒めてくれたのはどうなの?」
父からの返事はない。ヒャンユンは両目から涙がこぼれるのを止められず、戸にすがりつくようにもたれながら嗚咽を漏らした。
「だったら、私のことを誰よりも綺麗だと、蝶のようだと褒めてくれたのは?」
返事はない。代わりに沈黙が返ってきた。それでもヒャンユンは続けた。
「名前で呼んでもいいって言ってくれたのは?もっと親しくなりたいと言ってくれたのは?ずっと傍に居てほしいって言ってくれたのは?お嫁さんにしてあげるって言ってくれたのは?」
そこまで言うと、ヒャンユンは床に手をついて座り込み、呟くように最後の訴えをこぼした。
「───誰よりも愛してるって…………言って………くれたのは………?」
ジェミョンはついに耐えきれず、鼻と口を覆ってその場から駆け出すと、塀の隅で声を殺して哭いた。
「すまない……………すまない…………ヒャンユン……………」
すぐにでも出してやり、商売なんて放り出してその願いを叶えてやりたかった。だが、それは許されないことだった。実の両親を殺してすべてを奪った人々の下に、預かった娘をやることは、到底実父でないジェミョンが決断して良いものではなかった。
この日も、偶然にしてヒャンユンと息絶えたその母を見つけたあの運命の日と同じ月が出ていた。トンチャンは不安よりも勝る期待を胸に、その月を見ていた。
───待っていてくれ、ヒャンユン。ようやく俺にも運が向いてきたんだ。俺にも、お前を手に入れることが許される運が…………
その期待が儚く散ることが運命の狂い出しであるともし知っていたなら、彼らはどうしたのだろうか。
全ての駒は揃った。こうして悲劇の序章に賽は投げられるのだった。