11、絡まり始めた運命
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葬儀が終わり、身内でもない自分が喪に服するわけにもいかないヒャンユンは、キム氏との短くも温かな思い出を胸に秘めて商売に精を出していた。
ヒャンユンが行首として任されたのは布の取引。しかし父から新しい取引先を探すことが必要だと言われたため、早速頭を抱えることとなった。商才があるとはいえ、女の身で若いヒャンユンを信じて納入してくれる業者は居ない。ましてや商売の経験の浅い半人前である。伝など勿論あるはずがなかった。
「ああ………どうしよう………」
父に頼るわけにもいかない。すっかり頭打ちに遭ったヒャンユンは、ため息混じりに地面を眺めながら市場通りを歩いた。
すると目の前から歩いてきた娘にぶつかってしまい、ヒャンユンは慌てて頭を下げた。
「ごめんなさい!」
「しっかり前見てな。この小娘が」
ごろつき風情の娘はそのまま歩き去っていってしまった。今日はつくづくついていない。ヒャンユンは再びため息をつくと、渋々一度商団に戻ろうと思い立つのだった。
ヒャンユンとぶつかったごろつき風情の娘────マノクは、当たったときに懐から掏った巾着を満足げに眺めながら、スリの師匠であるチョンドンに手渡した。
「ほら、楽勝よ」
「流石マノクだな!器量も良くてスリの腕もいいわけだ」
「へへ。見てみなよ。すごく高価そうなコチが入ってたわ」
「どれどれ……」
口許のにやけが止まらないチョンドンだったが、その表情は巾着の中身を見てから一瞬で青ざめた。
「……どうしたの?」
「お、お前、これ……どんな人から掏ったんだ?」
「ええと。小柄で、色白で、私が認めるくらいに可愛らしくて、目の大きなとこが印象的な、正にお嬢様!って感じの子よ。あ、でもペジャを着けてたから商団関係の人かしら?いずれにせよ……」
───ヒャンユンお嬢様だ。
チョンドンはその特徴と巾着に入っていた物で、すぐ確信した。
「い、今すぐ返しに行こう!うん!そうしよう!今すぐ返そう!」
「えっ?何でよ!」
「そんなに怖がるほどの子じゃなかったですよ、兄貴。」
マノクはもちろん、遠目で見ていた弟のマンスもこれには不満を唱えた。だがチョンドンはそれどこではない恐怖を抱えながら、二人を叩きながらコン・ジェミョン商団に向かうよう焚き付けた。
「マンスもマノクも、いいから!その子は怖くなくても、その子の男に殺される!ほら、早くしろ!」
「ええっ………何なのよ、もう」
訳がさっぱりわからないマノクは首をかしげると、やはり納得がいかないと思い、チョンドンからこっそり巾着を奪い返して懐になおすのだった。
チョンドンたちがヒャンユンを訪ねたとき、既に商団に彼女は居なかった。冷たい予感かチョンドンの背をなぞる。
祈るような思いでやって来た場所に、やはりヒャンユンは居た。しかも一番居合わせては困る人物と一緒に。
「ねぇ、返さなくていいでしょ?気づいてなさそうだし」
「駄目だ!でも、今は返さない方が……良さそうだな」
チョンドンは遭遇を忌避する人物───トンチャンを見て回れ右しようとした。だが、二人の会話が耳に届く。
「あ、そうだ。お前、蝶の髪飾りはつけないのか?肌身離さず身に付けている場所がおかしいだろ。髪飾りは髪につけるもんだろ?」
「えぇ……?無くしたくないの。だって出会ったときの思い出の……」
「だったら尚更付けろよ」
「はいはい…………あれ?……ない」
驚くと共に大きく落胆するヒャンユンに、先日の一件のわだかまりも吹っ飛んでしまったトンチャンは呆れながらこう言った。
「何だと?お前が落とすわけがないもんな。………市場通りとかで誰かにぶつかられたとか、覚えていないか?」
「そういえば………顔の整った目の大きな、男の子の格好をしてるちょっと背の高い女の子にぶつかったわ。しっかり前見てな、この小娘が。みたいなしゃべり方してたけど……」
「それ、スリだな」
「えっ?そんなぁ…………」
肩を落として塞ぎこむヒャンユンを見て、トンチャンは頭を撫でながらスリに対して怒りを燃やした。
「どこのスリだ………取っ捕まえたらぶっ殺してやる」
その明確な殺意のこもった声色に、一同は震え上がった。
「兄貴……やばいですよ」
「だから早く返そうって言ったのに!もう!馬鹿だな!」
「いいじゃん。この際黙って持っときましょうよ」
「そ、そうですよ。売ればわかりませんし」
「まぁ……確かに……いや、駄目だろ!」
儲けと恐怖と良心の間で揺れ動くチョンドンは、ひとまず今返すのはまずいと思い、その場をそそくさと後にした。
後にこの小さな事件が、ヒャンユンとトンチャンに大きな影響を与えるとは、一体誰が予想しただろうか。
取引先も見つからず、髪飾りも無くしてすっかり落ち込んだヒャンユンは、曇天に萎む花のような顔をしていた。
カン・ソノはそんなヒャンユンの肩をつつくと、普段は見せないような満面の笑みを向けた。
「ヒャンユン殿。」
「あ……カン様!」
「この世の終わりのような顔をされていましたが、大丈夫ですか?」
「…そうなんです。布の新しい納入取引先は見つかないし、おまけにスリに髪飾りを取られました」
「……それは正に災難ですね」
ソノは本当に落ち込んでいるヒャンユンの横顔を見て、ふと閃いた。
「そうだ。私の知り合いに、布の取引先を探している人がいるんです。会ってみませんか?」
「本当ですか?でも、私は女で若すぎるので、やはり馬鹿にされてしまうのでは……」
躊躇するヒャンユンの両肩に手を置いたソノは、その目をしっかり見据えながら微笑んだ。
「大丈夫です。私がついていますから。」
「え……?」
「私も一緒にお手伝いします。休職中くらいにしかできませんよ、こんなことは」
ヒャンユンは少し考えると、ようやくいつも笑顔を取り戻した。
「───ありがとうございます!」
「では、行きましょうか」
「はい!」
ヒャンユンは首を縦に振ると、ソノの後ろについて歩きだした。しかし、ソノに対してはどう頑張っても純粋な信頼しか芽生えることはないのだった。
ソノが紹介してくれた業者は、新興の業者で厳しい状態に置かれていた。だが腕は今まで見た中では一番で、ヒャンユンは親方と一声で交渉を始めた。
「では、こちらの布を毎月───」
ヒャンユンの生き生きとした表情を見て、ソノは商売を心から愛していることを知った。
───不思議だ。全く商売などに縁がないお生まれなのに、すっかり商売をすることに対して喜びを感じていらっしゃる。
そうこうしているうちに話をまとめ終えたヒャンユンは、親方に疑問に思っていることを尋ねた。
「あの…どうしてこんなに良い商品なのに、取引先が見つからなかったんですか?」
「それは………その………」
「あっ、いえ………知っておくべきかと思って聞いたのですが……」
「いえ、お話しします。」
親方は急に厳しい表情になると、淡々と語り始めた。
「全ては、チョン・ナンジョン商団のせいです。奴らは一部の業者の布だけを扱うようにしておき、値を一定に吊り上げているのです。ですが、支払われる値は我々庶民でも生活も出来ないような、とんだはした金でした。もちろん、量を増やせば儲けは出ます。しかし、私たちのような質にこだわる職人たちとっては、あの商団は害悪でしかありません」
話を聞き終わり、ヒャンユンは想像以上の現実に愕然とした。そして、恐る恐る更に尋ねた。
「……もし、流通の値を変えれば、どうなりますか?」
「私たちは食っていけます。しかし、相当な覚悟が必要です。人々に品質を認められる前に潰されるか、買収されるか…」
「そんな………」
「ですから、お嬢様も我々と契約なさるのは……」
署名をやめてもいいのだと親切心で勧めてきた親方からあっさりと筆を奪い取ると、ヒャンユンは躊躇せず署名した。
「それが商売です。私はその商団での親しいお方と、商売では手加減をしないと決めましたから。」
親しいお方。その言葉に一瞬反応したソノには気づかず、ヒャンユンは涙ぐみながら喜ぶ親方と職人一同に微笑みかけた。
───トンチャン、見てて。私、負けないから。きっと国一番の女行首になってみせる。そうしたらいつか二人で商団を始めたときに、あなたの足手まといにならずに済むから。
清々しい表情でまっすぐ前を見据えているヒャンユンをみながら、ソノは眉間にしわを寄せて悲壮な面持ちを浮かべた。
───親しいお方とは、誰なのですか。ヒャンユン殿。チョン・ナンジョン商団に属する、あなたの決意を固めるほどに大切なお方とは、一体誰なのですか?女ですか?あるいは、男ですか?ならば独り身ですか?私よりも強く、壮麗な出で立ちなのですか?
それぞれの向ける眼差しが交わらぬ中、ヒャンユンは達成感を覚えていた。そして、帰って一番にトンチャンに報告しよう。そう決めるのだった。
トンチャンはスリを探していた。もちろん、手当たり次第に知り合いを脅してヒャンユンの言った特徴に近い者を探している。そして三人目にして、マノクの名前が挙げられた。聞き覚えのない名前に顔をしかめると、トンチャンは男の胸ぐらを掴んだ。
「誰だそれ」
「チョンドンの弟子だよ。ヨジュの姪さ」
「ふぅん………今どこだ?」
「ああ、あそこで今もスリの最中さ」
「ありがとよ」
トンチャンはチョンドンに背後から歩み寄ると、青筋を立てながら不意をついて胸ぐらを掴んだ。
「よう、チョンドン。」
「あっ、兄貴……?こ、これはどうも……何の用です?」
「おう、お前の弟子に用がある。………マノクってのはお前か?」
「そうだけど?何なの?」
整った顔が惜しいほどにふてぶてしい表情を浮かべるマノクの声色は、ヒャンユンが教えてくれた特徴に見事に合致していた。更に服装や身の丈なども同じだ。トンチャンはマノクを蹴り倒すと、足で首を抑えて尋ねた。
「蝶の髪飾り。あれを掏ったよな?」
「は?知らな………」
「ふざけんじゃねぇ。しょっぴかれたいのか?」
「あ、兄貴……それは……」
チョンドンがマノクを救うために慌てて巾着を探したが、何故か無い。それどころかマノクが目配せをしてきた。
───何やってんだよ!早く返せよ!
そんなチョンドンの焦りもどこ吹く風の様子で、マノクはトンチャンに食ってかかった。
「ばれなきゃ盗みじゃない。つまり証拠がなきゃ盗みじゃないのよ」
「ふぅん…………だったら証拠はいくらでも作れるな」
「は?」
トンチャンは自分の巾着を音もなく足元に落とすと、大声をあげて周りに言いふらし始めた。
「おい!こいつらはスリだ。俺の巾着と女の髪飾りをを盗みやがった。」
「ちょっと兄貴!言いがかりは………」
すると、ヒャンユンと別れて偶然通りかかったカン・ソノがその場に現れた。彼はトンチャンの顔を見て一目で思い出すと、慌ててその場に割って入った。
「何をしている。曰牌同士の喧嘩か?」
「いえ、違います。こいつはスリです。俺の巾着と女の髪飾りを盗みました」
「だから!違うってば!」
ソノはトンチャンとマノクを交互に見て、五十歩百歩の面子だなと思い、その場を立ち去ろうとした。仕方がなく、トンチャンはソノがヒャンユンに思いを寄せている状態を利用することにした。
「武官様、こいつが盗んだ髪飾りの持ち主は、コン・ジェミョン商団の娘、コン・ヒャンユンです。大切な物らしくて、泣いていました」
泣いていました、のところを強調したトンチャンは、不敵な笑みをマノクに浮かべた。顔面蒼白のチョンドンは、マノクの弟のマンスと共に右往左往している。
「嘘つけ!」
「ああ!そうだったのか。………恩義がある人だ。武官ではないが、確認しよう。おい、そこの女。この女の身を改めよ」
「は、はい……」
懐からいくらか握らせると、ソノはマノクの身を改めさせた。すると、いともあっさり髪飾りが入った巾着が出てきた。ソノは顔をしかめると、巡回に来た捕盗庁の兵に声をかけた。
「スリだ。捕らえてくれ」
「おお、これは……カン様!捕らえさせていただきます」
「ええっ!?兄貴!!そんな!ちょっと」
足にすがり付いてきたチョンドンを半殺しにしたい気持ちを抑えて振り払うと、トンチャンはぞっとするような笑顔を返した。
「てめぇら、いっぺん典獄署で頭冷やしやがれ」
「そんなぁ………!!」
こうして三人はあっという間に捕盗庁へ連行されてしまった。さて、残されたトンチャンは怪訝そうな表情でソノを観察し始めた。ソノも今回は流石に何かに勘づいたようで、互いの腹の探り合いが始まる。
「よぉ、捕盗庁の武官様ですか」
「今は休職中だ。そなたも驚くほどに前科が多そうな男だな」
「ま、証拠がなきゃしょっぴけねぇってもんだ。」
先程のマノクの言葉を借りて、トンチャンは嫌味たっぷりに応戦した。ソノの普段は冷静な顔に青筋が立つ。
「………そなた、チョン・ナンジョン商団の者だろう?何故ヒャンユン殿と親しいのだ?」
「随分関係の無いことをお聞きになる方だ。さっきの坊主頭の方のスリが引き合わせてくれた間柄ですよ」
「ほう………」
二人がそんな応戦を続けているなかに、先程の報告をしようと浮き足立ってトンチャンを探すヒャンユンが合流した。
「あら、トンチャン!ここに居たのね?」
「おお!ヒャンユン」
トンチャンは巾着を掲げて口を開こうとしたソノの手から、ヒャンユンの分を引ったくるようにして取ると、何事も無かったかのように笑顔で渡した。
「ほら、取り返したぜ」
「えっ………どうやって?」
「お前、俺を誰だと思ってるんだ?曰牌のシン・ドンチャンだぞ?」
得意気なトンチャンの脛を蹴り飛ばしたやりたい気分になりながらも、ソノは笑顔を絶やさないように努めた。
「あら、カン様。………どうされたの?」
「ああ、いえ………どうも」
ソノはトンチャンと巾着袋とヒャンユンを見比べ、流石に大人げないかと思い、ため息をついてトンチャンに返却しようとした。だが、彼のふてぶてしい表情にやはり何か腑に落ちない。
「…………あの、大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫です。では、失礼」
ソノがようやく帰ってくれたと思い、安心したトンチャンはヒャンユンの肩に手を置いた。
「もう、無くすなよ?」
「うん!ありがとう、トンチャン。」
馴れ馴れしくも本当は令嬢であるヒャンユンに絡むトンチャンの様子に対して堪えきれず、ついにソノの平静が途切れた。彼は体探人として鍛えた身体の軸を利用し、せめてもの抵抗と腹いせに持ち帰ろうとしたそこそこ重たいトンチャンの巾着を力一杯放り投げた。見事に的の広い背中に命中した巾着は、中身の重さと加速度で凶器と化し、トンチャンを撃った。
「ぐはっ!!」
情けない声を出したのち、慌てて振り向いたトンチャンはすぐにソノの仕業と気づき、大声を上げた。
「てめぇ!何しやがる!」
「返しそびれたものを返したまでだ!有り難いと思え!」
「なっ…………!」
そう言い残すと、ソノはさっそうと市場通りの人混みに紛れてしまった。トンチャンはすっかり気分を害し、ヒャンユンから離れてさっさと歩き出した。
「……ねぇ、どうしたの?なんでトンチャンの巾着をカン様が持っていて、なんでそれがこんなに力一杯投げ返されたの?」
「………知らねぇよ!」
「あっ、ねぇ!トンチャン!トンチャンってば!」
ヒャンユンは完全にふて腐れてしまったトンチャンの後を追うと、その手を捕まえようともがいた。
「ねぇ!最近変よ。私のこと、避けてるでしょ。ひょっとして、嫌いなの?飽きたの?」
「避けてねぇ。嫌いじゃねぇ、好きだ。」
ヒャンユンはいよいよ天の邪鬼な婚約者を叱ろうと思い、覚悟を決めて袖を引っ付かんだ。
「……だったらどうして、そんなに愛想が悪いの?」
「前からだ」
「嘘よ。前はもっと笑顔が多かった」
「うるせぇ。」
「何かに苦しんでるなら、言ってよ!教えてよ!私が力になるから………」
ヒャンユンはうつむいて両目に涙を溜めていることを悟られないように頑張った。流石に気づいたトンチャンは、華奢で守りたくなる肩にそっと手を置き、こう切り出した。
「だったら…………」
そのままいつもよりも強く抱き寄せて、トンチャンは空を仰いだ。
「だったら、俺が世界で一番お前を愛しているってことを………それだけをわかっておいてほしい。逆に言うと、それだけでいい」
「そんなことで、いいの?」
「ああ。それだけでいい。それだけで、俺は今日も生きていることを許されるし、救われる。」
トンチャンの脳裏にキム氏の言葉が過る。
───全うに生きるのよ。
今からでも、間に合いますか?奥様。俺は、今からでもまだ許されますか?だって、か弱くて脆いこの人には、俺しか居ないんです。俺しか、守れないんです。
同時に、ミョンソルを射抜いた瞬間が甦る。決してぬぐえない罪が心に深く刺さる。その傷はヒャンユンを求めるほどに、古傷とは思えないほどに鋭く痛んだ。今も、痛かった。それでもトンチャンは痛みに抗うようにヒャンユンを抱き寄せた。その痛みこそが、自分の贖罪と生きていく意味だからだ。もう二度と揺らがないように、この痛みを堪えて噛み締めて生きていこう。
許されないとしても、構わない。いつか知られて嫌われても仕方がない。それが罪を背負って生きていくという意味なのだから。
悲痛な面持ちで空を見上げるトンチャンに気づいたヒャンユンは、何かを察してぎゅっと抱きつき返した。驚いたトンチャンは目を丸くしている。
「…………愛してる。」
「…………ああ、それでいいんだ」
ヒャンユンはずっと照れ臭くて言えなかった礼を、髪飾りと絡めて述べることにした。
「髪飾り、ありがとう。」
「……ついでに、仲間のスリは全員典獄署に放り込んでやった」
「えっ?」
今度はヒャンユンが驚く番だった。二人は顔を見合わせると、次の瞬間大笑いを始めた。
こんなささやかな幸せが、永遠に続くこと。それが二人の願いになった瞬間だった。
カン・ソノはヒャンユンの兄から貰った書状を見ながら、商売をしているときの想い人の笑顔を思い出した。
───お嬢様、教えてください。私が、引き下がるべきなのでしょうか。もう、かつてのことを何もかも忘れておしまいになったなら、お嬢様はもとあるべき場所に戻るべきではないのでしょうか。お嬢様、私は…………
「あなたを、お慕いしてしまった………」
それは、叶わぬ恋だった。下級両班の出とはいえ、文官の生まれであるヒャンユンを慕っても武官の自分に道はないからだ。どうあがいても届けられない想いは、体探人だった頃にソノを苦しめた上の者の命と思惑のように、再び彼の両手足を縛るものとなるのだった。
ユン・テウォンとコン・ジェミョンはオクニョと共に典獄署を見て回っていた。手には何やら、塩の精製行程についての紙が握られている。
「これなら、チョン・ナンジョンのところよりも安く売れる。」
「はい。きっと上手くいくと思います。」
「なんという案だ…………典獄署の財政難も、うちの拡大も両方望めると言うわけか」
ジェミョンはそう言うと、鋭い視線で前を見据えた。
───待ってろ、チョン・ナンジョン。両班としてのお嬢様の人生は壊せても、うちの娘としての人生には決して手出しはさせん。
こうして、先の見えないジェミョンたちの闘いが始まった。
複雑に絡み合った運命の糸は、もはやほどけぬ所までヒャンユンとトンチャンを巻き込みつつある。その事実に気づくときは、すぐそこまで迫っていた。
ヒャンユンが行首として任されたのは布の取引。しかし父から新しい取引先を探すことが必要だと言われたため、早速頭を抱えることとなった。商才があるとはいえ、女の身で若いヒャンユンを信じて納入してくれる業者は居ない。ましてや商売の経験の浅い半人前である。伝など勿論あるはずがなかった。
「ああ………どうしよう………」
父に頼るわけにもいかない。すっかり頭打ちに遭ったヒャンユンは、ため息混じりに地面を眺めながら市場通りを歩いた。
すると目の前から歩いてきた娘にぶつかってしまい、ヒャンユンは慌てて頭を下げた。
「ごめんなさい!」
「しっかり前見てな。この小娘が」
ごろつき風情の娘はそのまま歩き去っていってしまった。今日はつくづくついていない。ヒャンユンは再びため息をつくと、渋々一度商団に戻ろうと思い立つのだった。
ヒャンユンとぶつかったごろつき風情の娘────マノクは、当たったときに懐から掏った巾着を満足げに眺めながら、スリの師匠であるチョンドンに手渡した。
「ほら、楽勝よ」
「流石マノクだな!器量も良くてスリの腕もいいわけだ」
「へへ。見てみなよ。すごく高価そうなコチが入ってたわ」
「どれどれ……」
口許のにやけが止まらないチョンドンだったが、その表情は巾着の中身を見てから一瞬で青ざめた。
「……どうしたの?」
「お、お前、これ……どんな人から掏ったんだ?」
「ええと。小柄で、色白で、私が認めるくらいに可愛らしくて、目の大きなとこが印象的な、正にお嬢様!って感じの子よ。あ、でもペジャを着けてたから商団関係の人かしら?いずれにせよ……」
───ヒャンユンお嬢様だ。
チョンドンはその特徴と巾着に入っていた物で、すぐ確信した。
「い、今すぐ返しに行こう!うん!そうしよう!今すぐ返そう!」
「えっ?何でよ!」
「そんなに怖がるほどの子じゃなかったですよ、兄貴。」
マノクはもちろん、遠目で見ていた弟のマンスもこれには不満を唱えた。だがチョンドンはそれどこではない恐怖を抱えながら、二人を叩きながらコン・ジェミョン商団に向かうよう焚き付けた。
「マンスもマノクも、いいから!その子は怖くなくても、その子の男に殺される!ほら、早くしろ!」
「ええっ………何なのよ、もう」
訳がさっぱりわからないマノクは首をかしげると、やはり納得がいかないと思い、チョンドンからこっそり巾着を奪い返して懐になおすのだった。
チョンドンたちがヒャンユンを訪ねたとき、既に商団に彼女は居なかった。冷たい予感かチョンドンの背をなぞる。
祈るような思いでやって来た場所に、やはりヒャンユンは居た。しかも一番居合わせては困る人物と一緒に。
「ねぇ、返さなくていいでしょ?気づいてなさそうだし」
「駄目だ!でも、今は返さない方が……良さそうだな」
チョンドンは遭遇を忌避する人物───トンチャンを見て回れ右しようとした。だが、二人の会話が耳に届く。
「あ、そうだ。お前、蝶の髪飾りはつけないのか?肌身離さず身に付けている場所がおかしいだろ。髪飾りは髪につけるもんだろ?」
「えぇ……?無くしたくないの。だって出会ったときの思い出の……」
「だったら尚更付けろよ」
「はいはい…………あれ?……ない」
驚くと共に大きく落胆するヒャンユンに、先日の一件のわだかまりも吹っ飛んでしまったトンチャンは呆れながらこう言った。
「何だと?お前が落とすわけがないもんな。………市場通りとかで誰かにぶつかられたとか、覚えていないか?」
「そういえば………顔の整った目の大きな、男の子の格好をしてるちょっと背の高い女の子にぶつかったわ。しっかり前見てな、この小娘が。みたいなしゃべり方してたけど……」
「それ、スリだな」
「えっ?そんなぁ…………」
肩を落として塞ぎこむヒャンユンを見て、トンチャンは頭を撫でながらスリに対して怒りを燃やした。
「どこのスリだ………取っ捕まえたらぶっ殺してやる」
その明確な殺意のこもった声色に、一同は震え上がった。
「兄貴……やばいですよ」
「だから早く返そうって言ったのに!もう!馬鹿だな!」
「いいじゃん。この際黙って持っときましょうよ」
「そ、そうですよ。売ればわかりませんし」
「まぁ……確かに……いや、駄目だろ!」
儲けと恐怖と良心の間で揺れ動くチョンドンは、ひとまず今返すのはまずいと思い、その場をそそくさと後にした。
後にこの小さな事件が、ヒャンユンとトンチャンに大きな影響を与えるとは、一体誰が予想しただろうか。
取引先も見つからず、髪飾りも無くしてすっかり落ち込んだヒャンユンは、曇天に萎む花のような顔をしていた。
カン・ソノはそんなヒャンユンの肩をつつくと、普段は見せないような満面の笑みを向けた。
「ヒャンユン殿。」
「あ……カン様!」
「この世の終わりのような顔をされていましたが、大丈夫ですか?」
「…そうなんです。布の新しい納入取引先は見つかないし、おまけにスリに髪飾りを取られました」
「……それは正に災難ですね」
ソノは本当に落ち込んでいるヒャンユンの横顔を見て、ふと閃いた。
「そうだ。私の知り合いに、布の取引先を探している人がいるんです。会ってみませんか?」
「本当ですか?でも、私は女で若すぎるので、やはり馬鹿にされてしまうのでは……」
躊躇するヒャンユンの両肩に手を置いたソノは、その目をしっかり見据えながら微笑んだ。
「大丈夫です。私がついていますから。」
「え……?」
「私も一緒にお手伝いします。休職中くらいにしかできませんよ、こんなことは」
ヒャンユンは少し考えると、ようやくいつも笑顔を取り戻した。
「───ありがとうございます!」
「では、行きましょうか」
「はい!」
ヒャンユンは首を縦に振ると、ソノの後ろについて歩きだした。しかし、ソノに対してはどう頑張っても純粋な信頼しか芽生えることはないのだった。
ソノが紹介してくれた業者は、新興の業者で厳しい状態に置かれていた。だが腕は今まで見た中では一番で、ヒャンユンは親方と一声で交渉を始めた。
「では、こちらの布を毎月───」
ヒャンユンの生き生きとした表情を見て、ソノは商売を心から愛していることを知った。
───不思議だ。全く商売などに縁がないお生まれなのに、すっかり商売をすることに対して喜びを感じていらっしゃる。
そうこうしているうちに話をまとめ終えたヒャンユンは、親方に疑問に思っていることを尋ねた。
「あの…どうしてこんなに良い商品なのに、取引先が見つからなかったんですか?」
「それは………その………」
「あっ、いえ………知っておくべきかと思って聞いたのですが……」
「いえ、お話しします。」
親方は急に厳しい表情になると、淡々と語り始めた。
「全ては、チョン・ナンジョン商団のせいです。奴らは一部の業者の布だけを扱うようにしておき、値を一定に吊り上げているのです。ですが、支払われる値は我々庶民でも生活も出来ないような、とんだはした金でした。もちろん、量を増やせば儲けは出ます。しかし、私たちのような質にこだわる職人たちとっては、あの商団は害悪でしかありません」
話を聞き終わり、ヒャンユンは想像以上の現実に愕然とした。そして、恐る恐る更に尋ねた。
「……もし、流通の値を変えれば、どうなりますか?」
「私たちは食っていけます。しかし、相当な覚悟が必要です。人々に品質を認められる前に潰されるか、買収されるか…」
「そんな………」
「ですから、お嬢様も我々と契約なさるのは……」
署名をやめてもいいのだと親切心で勧めてきた親方からあっさりと筆を奪い取ると、ヒャンユンは躊躇せず署名した。
「それが商売です。私はその商団での親しいお方と、商売では手加減をしないと決めましたから。」
親しいお方。その言葉に一瞬反応したソノには気づかず、ヒャンユンは涙ぐみながら喜ぶ親方と職人一同に微笑みかけた。
───トンチャン、見てて。私、負けないから。きっと国一番の女行首になってみせる。そうしたらいつか二人で商団を始めたときに、あなたの足手まといにならずに済むから。
清々しい表情でまっすぐ前を見据えているヒャンユンをみながら、ソノは眉間にしわを寄せて悲壮な面持ちを浮かべた。
───親しいお方とは、誰なのですか。ヒャンユン殿。チョン・ナンジョン商団に属する、あなたの決意を固めるほどに大切なお方とは、一体誰なのですか?女ですか?あるいは、男ですか?ならば独り身ですか?私よりも強く、壮麗な出で立ちなのですか?
それぞれの向ける眼差しが交わらぬ中、ヒャンユンは達成感を覚えていた。そして、帰って一番にトンチャンに報告しよう。そう決めるのだった。
トンチャンはスリを探していた。もちろん、手当たり次第に知り合いを脅してヒャンユンの言った特徴に近い者を探している。そして三人目にして、マノクの名前が挙げられた。聞き覚えのない名前に顔をしかめると、トンチャンは男の胸ぐらを掴んだ。
「誰だそれ」
「チョンドンの弟子だよ。ヨジュの姪さ」
「ふぅん………今どこだ?」
「ああ、あそこで今もスリの最中さ」
「ありがとよ」
トンチャンはチョンドンに背後から歩み寄ると、青筋を立てながら不意をついて胸ぐらを掴んだ。
「よう、チョンドン。」
「あっ、兄貴……?こ、これはどうも……何の用です?」
「おう、お前の弟子に用がある。………マノクってのはお前か?」
「そうだけど?何なの?」
整った顔が惜しいほどにふてぶてしい表情を浮かべるマノクの声色は、ヒャンユンが教えてくれた特徴に見事に合致していた。更に服装や身の丈なども同じだ。トンチャンはマノクを蹴り倒すと、足で首を抑えて尋ねた。
「蝶の髪飾り。あれを掏ったよな?」
「は?知らな………」
「ふざけんじゃねぇ。しょっぴかれたいのか?」
「あ、兄貴……それは……」
チョンドンがマノクを救うために慌てて巾着を探したが、何故か無い。それどころかマノクが目配せをしてきた。
───何やってんだよ!早く返せよ!
そんなチョンドンの焦りもどこ吹く風の様子で、マノクはトンチャンに食ってかかった。
「ばれなきゃ盗みじゃない。つまり証拠がなきゃ盗みじゃないのよ」
「ふぅん…………だったら証拠はいくらでも作れるな」
「は?」
トンチャンは自分の巾着を音もなく足元に落とすと、大声をあげて周りに言いふらし始めた。
「おい!こいつらはスリだ。俺の巾着と女の髪飾りをを盗みやがった。」
「ちょっと兄貴!言いがかりは………」
すると、ヒャンユンと別れて偶然通りかかったカン・ソノがその場に現れた。彼はトンチャンの顔を見て一目で思い出すと、慌ててその場に割って入った。
「何をしている。曰牌同士の喧嘩か?」
「いえ、違います。こいつはスリです。俺の巾着と女の髪飾りを盗みました」
「だから!違うってば!」
ソノはトンチャンとマノクを交互に見て、五十歩百歩の面子だなと思い、その場を立ち去ろうとした。仕方がなく、トンチャンはソノがヒャンユンに思いを寄せている状態を利用することにした。
「武官様、こいつが盗んだ髪飾りの持ち主は、コン・ジェミョン商団の娘、コン・ヒャンユンです。大切な物らしくて、泣いていました」
泣いていました、のところを強調したトンチャンは、不敵な笑みをマノクに浮かべた。顔面蒼白のチョンドンは、マノクの弟のマンスと共に右往左往している。
「嘘つけ!」
「ああ!そうだったのか。………恩義がある人だ。武官ではないが、確認しよう。おい、そこの女。この女の身を改めよ」
「は、はい……」
懐からいくらか握らせると、ソノはマノクの身を改めさせた。すると、いともあっさり髪飾りが入った巾着が出てきた。ソノは顔をしかめると、巡回に来た捕盗庁の兵に声をかけた。
「スリだ。捕らえてくれ」
「おお、これは……カン様!捕らえさせていただきます」
「ええっ!?兄貴!!そんな!ちょっと」
足にすがり付いてきたチョンドンを半殺しにしたい気持ちを抑えて振り払うと、トンチャンはぞっとするような笑顔を返した。
「てめぇら、いっぺん典獄署で頭冷やしやがれ」
「そんなぁ………!!」
こうして三人はあっという間に捕盗庁へ連行されてしまった。さて、残されたトンチャンは怪訝そうな表情でソノを観察し始めた。ソノも今回は流石に何かに勘づいたようで、互いの腹の探り合いが始まる。
「よぉ、捕盗庁の武官様ですか」
「今は休職中だ。そなたも驚くほどに前科が多そうな男だな」
「ま、証拠がなきゃしょっぴけねぇってもんだ。」
先程のマノクの言葉を借りて、トンチャンは嫌味たっぷりに応戦した。ソノの普段は冷静な顔に青筋が立つ。
「………そなた、チョン・ナンジョン商団の者だろう?何故ヒャンユン殿と親しいのだ?」
「随分関係の無いことをお聞きになる方だ。さっきの坊主頭の方のスリが引き合わせてくれた間柄ですよ」
「ほう………」
二人がそんな応戦を続けているなかに、先程の報告をしようと浮き足立ってトンチャンを探すヒャンユンが合流した。
「あら、トンチャン!ここに居たのね?」
「おお!ヒャンユン」
トンチャンは巾着を掲げて口を開こうとしたソノの手から、ヒャンユンの分を引ったくるようにして取ると、何事も無かったかのように笑顔で渡した。
「ほら、取り返したぜ」
「えっ………どうやって?」
「お前、俺を誰だと思ってるんだ?曰牌のシン・ドンチャンだぞ?」
得意気なトンチャンの脛を蹴り飛ばしたやりたい気分になりながらも、ソノは笑顔を絶やさないように努めた。
「あら、カン様。………どうされたの?」
「ああ、いえ………どうも」
ソノはトンチャンと巾着袋とヒャンユンを見比べ、流石に大人げないかと思い、ため息をついてトンチャンに返却しようとした。だが、彼のふてぶてしい表情にやはり何か腑に落ちない。
「…………あの、大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫です。では、失礼」
ソノがようやく帰ってくれたと思い、安心したトンチャンはヒャンユンの肩に手を置いた。
「もう、無くすなよ?」
「うん!ありがとう、トンチャン。」
馴れ馴れしくも本当は令嬢であるヒャンユンに絡むトンチャンの様子に対して堪えきれず、ついにソノの平静が途切れた。彼は体探人として鍛えた身体の軸を利用し、せめてもの抵抗と腹いせに持ち帰ろうとしたそこそこ重たいトンチャンの巾着を力一杯放り投げた。見事に的の広い背中に命中した巾着は、中身の重さと加速度で凶器と化し、トンチャンを撃った。
「ぐはっ!!」
情けない声を出したのち、慌てて振り向いたトンチャンはすぐにソノの仕業と気づき、大声を上げた。
「てめぇ!何しやがる!」
「返しそびれたものを返したまでだ!有り難いと思え!」
「なっ…………!」
そう言い残すと、ソノはさっそうと市場通りの人混みに紛れてしまった。トンチャンはすっかり気分を害し、ヒャンユンから離れてさっさと歩き出した。
「……ねぇ、どうしたの?なんでトンチャンの巾着をカン様が持っていて、なんでそれがこんなに力一杯投げ返されたの?」
「………知らねぇよ!」
「あっ、ねぇ!トンチャン!トンチャンってば!」
ヒャンユンは完全にふて腐れてしまったトンチャンの後を追うと、その手を捕まえようともがいた。
「ねぇ!最近変よ。私のこと、避けてるでしょ。ひょっとして、嫌いなの?飽きたの?」
「避けてねぇ。嫌いじゃねぇ、好きだ。」
ヒャンユンはいよいよ天の邪鬼な婚約者を叱ろうと思い、覚悟を決めて袖を引っ付かんだ。
「……だったらどうして、そんなに愛想が悪いの?」
「前からだ」
「嘘よ。前はもっと笑顔が多かった」
「うるせぇ。」
「何かに苦しんでるなら、言ってよ!教えてよ!私が力になるから………」
ヒャンユンはうつむいて両目に涙を溜めていることを悟られないように頑張った。流石に気づいたトンチャンは、華奢で守りたくなる肩にそっと手を置き、こう切り出した。
「だったら…………」
そのままいつもよりも強く抱き寄せて、トンチャンは空を仰いだ。
「だったら、俺が世界で一番お前を愛しているってことを………それだけをわかっておいてほしい。逆に言うと、それだけでいい」
「そんなことで、いいの?」
「ああ。それだけでいい。それだけで、俺は今日も生きていることを許されるし、救われる。」
トンチャンの脳裏にキム氏の言葉が過る。
───全うに生きるのよ。
今からでも、間に合いますか?奥様。俺は、今からでもまだ許されますか?だって、か弱くて脆いこの人には、俺しか居ないんです。俺しか、守れないんです。
同時に、ミョンソルを射抜いた瞬間が甦る。決してぬぐえない罪が心に深く刺さる。その傷はヒャンユンを求めるほどに、古傷とは思えないほどに鋭く痛んだ。今も、痛かった。それでもトンチャンは痛みに抗うようにヒャンユンを抱き寄せた。その痛みこそが、自分の贖罪と生きていく意味だからだ。もう二度と揺らがないように、この痛みを堪えて噛み締めて生きていこう。
許されないとしても、構わない。いつか知られて嫌われても仕方がない。それが罪を背負って生きていくという意味なのだから。
悲痛な面持ちで空を見上げるトンチャンに気づいたヒャンユンは、何かを察してぎゅっと抱きつき返した。驚いたトンチャンは目を丸くしている。
「…………愛してる。」
「…………ああ、それでいいんだ」
ヒャンユンはずっと照れ臭くて言えなかった礼を、髪飾りと絡めて述べることにした。
「髪飾り、ありがとう。」
「……ついでに、仲間のスリは全員典獄署に放り込んでやった」
「えっ?」
今度はヒャンユンが驚く番だった。二人は顔を見合わせると、次の瞬間大笑いを始めた。
こんなささやかな幸せが、永遠に続くこと。それが二人の願いになった瞬間だった。
カン・ソノはヒャンユンの兄から貰った書状を見ながら、商売をしているときの想い人の笑顔を思い出した。
───お嬢様、教えてください。私が、引き下がるべきなのでしょうか。もう、かつてのことを何もかも忘れておしまいになったなら、お嬢様はもとあるべき場所に戻るべきではないのでしょうか。お嬢様、私は…………
「あなたを、お慕いしてしまった………」
それは、叶わぬ恋だった。下級両班の出とはいえ、文官の生まれであるヒャンユンを慕っても武官の自分に道はないからだ。どうあがいても届けられない想いは、体探人だった頃にソノを苦しめた上の者の命と思惑のように、再び彼の両手足を縛るものとなるのだった。
ユン・テウォンとコン・ジェミョンはオクニョと共に典獄署を見て回っていた。手には何やら、塩の精製行程についての紙が握られている。
「これなら、チョン・ナンジョンのところよりも安く売れる。」
「はい。きっと上手くいくと思います。」
「なんという案だ…………典獄署の財政難も、うちの拡大も両方望めると言うわけか」
ジェミョンはそう言うと、鋭い視線で前を見据えた。
───待ってろ、チョン・ナンジョン。両班としてのお嬢様の人生は壊せても、うちの娘としての人生には決して手出しはさせん。
こうして、先の見えないジェミョンたちの闘いが始まった。
複雑に絡み合った運命の糸は、もはやほどけぬ所までヒャンユンとトンチャンを巻き込みつつある。その事実に気づくときは、すぐそこまで迫っていた。