7、運命を切り裂く三日月
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翌日、ヒャンユンの耳にも道中で起きた悲劇は伝わった。しかもちまたではユン・ウォニョンが仕組んだことだと噂になっている始末で、彼女はトンチャンに会って直接確かめるのが怖くなってきた。
「ヒャンユン。あんた、トンチャンと親しくしてるでしょ」
「それが何?何だっていうのよ」
疑り深い表情をして尋ねてきたウンスに、ヒャンユンはぞんざいな口調で返事をした。
「使節の件はユン・ウォニョン様が仕入れた情報だってことはわかってるけど、もう会わない方がいいわよ」
「どうして。トンチャンの何がわかるっていうのよ!トンチャンは………トンチャンは…………明との交易が出来るようになって、心の底から喜んでくれたのに……なのに………なのに!」
違う。ヒャンユンの心が叫んだ。
「テウォンさんと違って、あいつは本当のごろつきよ?」
「酷いわ!あんまりよ!トンチャンをテウォンなんかと比べたりしないで!あの人はそんな酷い人じゃない!」
生まれてはじめて怒りを爆発させたヒャンユンは、そのまま耐えきれず走り去ってしまった。残されたウンスはしばらく呆然としていると、我にかえって地面を蹴った。
「ちょっと!ヒャンユン!ヒャンユン!何なのよ、もう!本当のことじゃない。」
トンチャンはこのことを知っていたのか。それが問題だった。ヒャンユンは頭に過った最悪の想像を振りきって捨てようと試みた。だが、出来なかった。心の中に生じた疑いの種は、むしりとれないくらいに根を張っていた。
「違う。違う…………!」
───良かったな、ヒャンユン!
「トンチャン……………」
───俺も頑張って行首にならないとな。その調子だと、俺が曰牌のままになっちまう。
「嘘だったの……?全部、全部……」
好きだといってくれたのも、婚姻しようといってくれたのも、全ては自分から情報を抜き出すためだったのだろうか。それがもし事実なら、あまりに大きすぎる衝撃だった。
そんなヒャンユンを見つけたトンチャンは、辛そうなその姿に声をかけるのを躊躇った。彼にも自分が信用を無くしているだろうということくらい、容易に想像がついていた。だからこそ、声を掛けられなかった。
「ヒャンユン……………」
彼が踵を返して立ち去ろうとしたときだった。気配に気づいたヒャンユンが辺りを見回した。
「トンチャン………?」
立ち上がり名前を呼ぶ姿は、トンチャン自身の心を締め付けた。それでも今は立ち去らなければならない時だと自分に言い聞かせ、本当は抱き締めたい思いを抑えて彼女に背を向けた。
「トンチャン!待って!待って………待ってよ………お願い………」
待つだけのお嬢様になるのはもう嫌だった。傍に居たい人の傍に居ることが許されないなら、自分が自分で無くなっても構わない。ヒャンユンの心の中で何かが変わった。気がつくと彼女は無意識に走り出していた。
「トンチャン!待って!トンチャン!私は…………私は、あなたを信じるわ!だから……だから…」
走りなれていないせいで、裾を踏んで盛大にヒャンユンは転けた。身体の痛みではなく、心の痛みから涙が溢れてきては止まらない。
「トンチャン………トンチャン………あなたが……あなたが好きです…………みんなが正しくてあなたが嘘をついていても、私はあなたの気持ちは疑えない………私は…………私は、あなたが好きだから………唯一の人だから………」
それを聞いたトンチャンの心はもう止められなかった。彼は自分の心の赴くままの方向を向くと、全力で走り出した。口では向かうべき場所の名を叫んだ。
「ヒャンユン!ヒャンユン!」
「トンチャン………?」
「ヒャンユン!俺は!俺は…………」
ヒャンユンの前に膝をついたトンチャンは、力一杯その身体を抱き締めた。
「────心の底からお前が、好きだ。お前も俺にとって、唯一の人だ」
「トンチャン…………」
「だから、何があってもお前だけは守る。絶対に、命に代えてでも守ってやる」
それが彼の本心だった。そして決して誰にも見せない唯一の姿だった。
「信じてよかった。あなたを………」
「もう、何も言わなくていい。ただ俺の傍にいてくれ」
「うん………」
ヒャンユンは誰よりも居心地がよく、安心できるトンチャンの胸に顔を埋めた。それが許されないことであったとしても。
そんな二人の様子を密かに見ていたジェミョンは、深くため息をついて空を仰いだ。
───俺は、どうすべきですか。やはりあの方の幸せは……トンチャンの傍に居ることなのですか?俺は、あの子に商人の娘コン・ヒャンユンとしての人生を歩ませるべきなのでしょうか。
彼は懐から取引の責任者を示す札を取りだし、決意のこもった眼差しを二人に向けるのだった。
それからしばらくして、テウォンたちが戻ってきた。ジェミョンはそれを不満のひとつ言わずに出迎えた。
「よく帰ってきた。」
「……大行首様、すみませんでした」
「いいんだ。無事で何よりだ」
そして、彼が頷いて執務室に戻ろうとした時だった。
「じゃあ俺の勝ちだな」
「ちぇっ。大行首様が怒ると思ってたのに……」
なんと失笑しているテウォンが、嬉しそうなトチに巾着を投げ渡したのだ。それを見たチャクトは怒りのあまりテウォンを殴り付けた。
「お前ら!失敗してきたのにその言い方はなんだ!」
「失敗はしていません。もうじき明との交易が始まります」
「何?どういうことだ?」
騒ぎを聞き付け戻ってきたジェミョンは、テウォンに信じられないと言いたげな顔で尋ねた。
「引き返そうという話が出たんですが、俺は明に行くことに賭けました。そして、オ・チャンヒョンと敵対する官僚を探しだし、暗殺の疑いがかかっているので上手く口利きする代わりに交易を認めてほしいと言ったんです。」
「そしたらまんまとこの結果ですよ!今日の昼には商品を持った行列が戻ってきます!」
ようやく交易が成功したことを理解したジェミョンは、滅多にないほど喜びを露にして声を上ずらせた。
「そうだったのか!!でかしたぞ、テウォン、トチ!おい!ヒャンユン、ウンス!」
結果は知れていると思って仕事をしていたヒャンユンとウンスは、何やら嬉しそうなジェミョンに呼び出され、同じく事の次第を説明された。二人は一瞬の間があってから飛び上がると、両手をとって喜びあった。
「やった!やったぁ!!よかったわね、ウンス。」
「ええ!本当に!さすがテウォンさん!あ、トチもね」
「何だよその言い方は!俺は付け足しか?」
一同が大笑いした。これほどに幸せで喜ばしいことはなかなかない。ヒャンユンは商売をする楽しさとは、こういうことなのかもしれないと思った。
そして昼頃、テウォンの説明通り大量の商品が都に運び込まれた。一体何があったのかさっぱりわからないと言いたげなドンジュとマッケは、目を白黒させながら行列を見ている。一方、トンチャンは荷分けに忙しそうなヒャンユンの姿を眺めながら、傍に居なくともその喜びを噛み締めていた。そんな彼女をチャクトが呼び出した。
「ヒャンユン。大行首様がお呼びだ」
「ええ、わかりました。」
また荷分けが増えたのだろうかと首をかしげながら母屋に向かうと、そこには嬉しさを隠しきれない様子の父の姿があった。ヒャンユンは何事かと思い、その前に立った。
「あの……一体……」
「ヒャンユン。お前も今日から行首だ。部門の一つである布の取引をお前に一任する」
「え?私が…………行首に?」
突然のことで一体何が起きたのか理解しきれていないヒャンユンは、父の顔をまじまじと見た。だが、嘘ではなさそうだ。
「そうよ!ヒャンユン行首!」
「おめでとう!ヒャンユン行首様」
「お父様……それにみんな、ありがとう。本当に…ありがとう!」
取引の責任者である証の札を胸に当て、ヒャンユンは深々と一礼した。誰もが彼女の商人としての未来に期待を寄せていた。そして何よりジェミョンは、ヒャンユンに自分らしい道を生きてほしいと思っていた。
「いいんですか、大行首様。ヒャンユンお嬢様は……」
「いいんだ。もうこれで、いいんだ。あの子のことは……今日限り預かり子であったことを忘れようと思う。俺の子供として、商人の娘として育てる。だが、それはあの子にとってより辛い人生になるかもしれない。トンチャンとの対立も避けられないだろう。だが………今は自分の望んだ道を歩ませてやろうと思う。それで傷ついて、現実を知り、大人になってほしい。そうして強くなれば、いつか真実を知っても生きていけると思う」
「大行首様………」
今のヒャンユンは、あまりにまだ幼く稚拙だとジェミョンは痛感していた。もし身分が明らかになり、政争に巻き込まれることになれば、きっと生き残ることは出来ない。
だからこそ愛する人と対立する辛さが待っていることを知りながら、ジェミョンは敢えてヒャンユンを行首にしたのだ。それは恐らく、想像を絶する苦難の道の始まりだろう。しかし、彼はこの身を切るように辛い決断は、全て父親としての役目だと考えていた。
───可愛い子ほど、時に崖に突き落とす必要がある。虎のようにな。そこから這い上がり、どちらの道を選ぶかはお前次第だ、ヒャンユン。だが、どの道を選んでもお前に平穏は無い…………
ジェミョンは目を細めて幸せそうな娘を眺めた。その幸せが続かないことを知りながら。
ヒャンユンは札を持ったまま通りを駆け抜けていた。目指す先はトンチャンの元だった。
「トンチャン!トンチャン!」
「ヒャンユン!どうした?」
行首になったことは知らない彼は、交易の話だろうと思い微笑んだ。だが、ヒャンユンが鼻先に突きつけた札を見て、その表情が変わった。
「こ、これは………………」
「そう!私ね、行首になったの!」
「本当か?行首に?ヒャンユン、お前が?」
「うん!布の取引を任されたの」
状況が飲み込めず、先程のヒャンユンと同じように硬直していた彼は、しばらくして我に返ると最年少の女性行首を抱き上げながらその場を回った。チマがふわりと舞い、花の蕾のように広がる。
「そうか!ヒャンユン行首か!」
「やだ!もう……みんな見てるからやめてよ……恥ずかしいから……」
「うるせぇ。俺の女なんだから、見せびらかしても良いだろうが」
「トンチャンったら……」
と恥じらいながらも顔を赤らめて微笑むヒャンユンが愛しくて、トンチャンは満面の笑みでこの門出を祝福した。
「じゃあ、うちの商団とは張り合うことになるな」
「そうね、トンチャン。望むところよ」
「よし。それでこそ商売人だ!」
二人は一瞬真剣な顔つきで睨みあうと、すぐに大笑いした。
まさかこの幸せが暗転の始まりなど、一体誰が予想できただろうか。
「ヒャンユン。あんた、トンチャンと親しくしてるでしょ」
「それが何?何だっていうのよ」
疑り深い表情をして尋ねてきたウンスに、ヒャンユンはぞんざいな口調で返事をした。
「使節の件はユン・ウォニョン様が仕入れた情報だってことはわかってるけど、もう会わない方がいいわよ」
「どうして。トンチャンの何がわかるっていうのよ!トンチャンは………トンチャンは…………明との交易が出来るようになって、心の底から喜んでくれたのに……なのに………なのに!」
違う。ヒャンユンの心が叫んだ。
「テウォンさんと違って、あいつは本当のごろつきよ?」
「酷いわ!あんまりよ!トンチャンをテウォンなんかと比べたりしないで!あの人はそんな酷い人じゃない!」
生まれてはじめて怒りを爆発させたヒャンユンは、そのまま耐えきれず走り去ってしまった。残されたウンスはしばらく呆然としていると、我にかえって地面を蹴った。
「ちょっと!ヒャンユン!ヒャンユン!何なのよ、もう!本当のことじゃない。」
トンチャンはこのことを知っていたのか。それが問題だった。ヒャンユンは頭に過った最悪の想像を振りきって捨てようと試みた。だが、出来なかった。心の中に生じた疑いの種は、むしりとれないくらいに根を張っていた。
「違う。違う…………!」
───良かったな、ヒャンユン!
「トンチャン……………」
───俺も頑張って行首にならないとな。その調子だと、俺が曰牌のままになっちまう。
「嘘だったの……?全部、全部……」
好きだといってくれたのも、婚姻しようといってくれたのも、全ては自分から情報を抜き出すためだったのだろうか。それがもし事実なら、あまりに大きすぎる衝撃だった。
そんなヒャンユンを見つけたトンチャンは、辛そうなその姿に声をかけるのを躊躇った。彼にも自分が信用を無くしているだろうということくらい、容易に想像がついていた。だからこそ、声を掛けられなかった。
「ヒャンユン……………」
彼が踵を返して立ち去ろうとしたときだった。気配に気づいたヒャンユンが辺りを見回した。
「トンチャン………?」
立ち上がり名前を呼ぶ姿は、トンチャン自身の心を締め付けた。それでも今は立ち去らなければならない時だと自分に言い聞かせ、本当は抱き締めたい思いを抑えて彼女に背を向けた。
「トンチャン!待って!待って………待ってよ………お願い………」
待つだけのお嬢様になるのはもう嫌だった。傍に居たい人の傍に居ることが許されないなら、自分が自分で無くなっても構わない。ヒャンユンの心の中で何かが変わった。気がつくと彼女は無意識に走り出していた。
「トンチャン!待って!トンチャン!私は…………私は、あなたを信じるわ!だから……だから…」
走りなれていないせいで、裾を踏んで盛大にヒャンユンは転けた。身体の痛みではなく、心の痛みから涙が溢れてきては止まらない。
「トンチャン………トンチャン………あなたが……あなたが好きです…………みんなが正しくてあなたが嘘をついていても、私はあなたの気持ちは疑えない………私は…………私は、あなたが好きだから………唯一の人だから………」
それを聞いたトンチャンの心はもう止められなかった。彼は自分の心の赴くままの方向を向くと、全力で走り出した。口では向かうべき場所の名を叫んだ。
「ヒャンユン!ヒャンユン!」
「トンチャン………?」
「ヒャンユン!俺は!俺は…………」
ヒャンユンの前に膝をついたトンチャンは、力一杯その身体を抱き締めた。
「────心の底からお前が、好きだ。お前も俺にとって、唯一の人だ」
「トンチャン…………」
「だから、何があってもお前だけは守る。絶対に、命に代えてでも守ってやる」
それが彼の本心だった。そして決して誰にも見せない唯一の姿だった。
「信じてよかった。あなたを………」
「もう、何も言わなくていい。ただ俺の傍にいてくれ」
「うん………」
ヒャンユンは誰よりも居心地がよく、安心できるトンチャンの胸に顔を埋めた。それが許されないことであったとしても。
そんな二人の様子を密かに見ていたジェミョンは、深くため息をついて空を仰いだ。
───俺は、どうすべきですか。やはりあの方の幸せは……トンチャンの傍に居ることなのですか?俺は、あの子に商人の娘コン・ヒャンユンとしての人生を歩ませるべきなのでしょうか。
彼は懐から取引の責任者を示す札を取りだし、決意のこもった眼差しを二人に向けるのだった。
それからしばらくして、テウォンたちが戻ってきた。ジェミョンはそれを不満のひとつ言わずに出迎えた。
「よく帰ってきた。」
「……大行首様、すみませんでした」
「いいんだ。無事で何よりだ」
そして、彼が頷いて執務室に戻ろうとした時だった。
「じゃあ俺の勝ちだな」
「ちぇっ。大行首様が怒ると思ってたのに……」
なんと失笑しているテウォンが、嬉しそうなトチに巾着を投げ渡したのだ。それを見たチャクトは怒りのあまりテウォンを殴り付けた。
「お前ら!失敗してきたのにその言い方はなんだ!」
「失敗はしていません。もうじき明との交易が始まります」
「何?どういうことだ?」
騒ぎを聞き付け戻ってきたジェミョンは、テウォンに信じられないと言いたげな顔で尋ねた。
「引き返そうという話が出たんですが、俺は明に行くことに賭けました。そして、オ・チャンヒョンと敵対する官僚を探しだし、暗殺の疑いがかかっているので上手く口利きする代わりに交易を認めてほしいと言ったんです。」
「そしたらまんまとこの結果ですよ!今日の昼には商品を持った行列が戻ってきます!」
ようやく交易が成功したことを理解したジェミョンは、滅多にないほど喜びを露にして声を上ずらせた。
「そうだったのか!!でかしたぞ、テウォン、トチ!おい!ヒャンユン、ウンス!」
結果は知れていると思って仕事をしていたヒャンユンとウンスは、何やら嬉しそうなジェミョンに呼び出され、同じく事の次第を説明された。二人は一瞬の間があってから飛び上がると、両手をとって喜びあった。
「やった!やったぁ!!よかったわね、ウンス。」
「ええ!本当に!さすがテウォンさん!あ、トチもね」
「何だよその言い方は!俺は付け足しか?」
一同が大笑いした。これほどに幸せで喜ばしいことはなかなかない。ヒャンユンは商売をする楽しさとは、こういうことなのかもしれないと思った。
そして昼頃、テウォンの説明通り大量の商品が都に運び込まれた。一体何があったのかさっぱりわからないと言いたげなドンジュとマッケは、目を白黒させながら行列を見ている。一方、トンチャンは荷分けに忙しそうなヒャンユンの姿を眺めながら、傍に居なくともその喜びを噛み締めていた。そんな彼女をチャクトが呼び出した。
「ヒャンユン。大行首様がお呼びだ」
「ええ、わかりました。」
また荷分けが増えたのだろうかと首をかしげながら母屋に向かうと、そこには嬉しさを隠しきれない様子の父の姿があった。ヒャンユンは何事かと思い、その前に立った。
「あの……一体……」
「ヒャンユン。お前も今日から行首だ。部門の一つである布の取引をお前に一任する」
「え?私が…………行首に?」
突然のことで一体何が起きたのか理解しきれていないヒャンユンは、父の顔をまじまじと見た。だが、嘘ではなさそうだ。
「そうよ!ヒャンユン行首!」
「おめでとう!ヒャンユン行首様」
「お父様……それにみんな、ありがとう。本当に…ありがとう!」
取引の責任者である証の札を胸に当て、ヒャンユンは深々と一礼した。誰もが彼女の商人としての未来に期待を寄せていた。そして何よりジェミョンは、ヒャンユンに自分らしい道を生きてほしいと思っていた。
「いいんですか、大行首様。ヒャンユンお嬢様は……」
「いいんだ。もうこれで、いいんだ。あの子のことは……今日限り預かり子であったことを忘れようと思う。俺の子供として、商人の娘として育てる。だが、それはあの子にとってより辛い人生になるかもしれない。トンチャンとの対立も避けられないだろう。だが………今は自分の望んだ道を歩ませてやろうと思う。それで傷ついて、現実を知り、大人になってほしい。そうして強くなれば、いつか真実を知っても生きていけると思う」
「大行首様………」
今のヒャンユンは、あまりにまだ幼く稚拙だとジェミョンは痛感していた。もし身分が明らかになり、政争に巻き込まれることになれば、きっと生き残ることは出来ない。
だからこそ愛する人と対立する辛さが待っていることを知りながら、ジェミョンは敢えてヒャンユンを行首にしたのだ。それは恐らく、想像を絶する苦難の道の始まりだろう。しかし、彼はこの身を切るように辛い決断は、全て父親としての役目だと考えていた。
───可愛い子ほど、時に崖に突き落とす必要がある。虎のようにな。そこから這い上がり、どちらの道を選ぶかはお前次第だ、ヒャンユン。だが、どの道を選んでもお前に平穏は無い…………
ジェミョンは目を細めて幸せそうな娘を眺めた。その幸せが続かないことを知りながら。
ヒャンユンは札を持ったまま通りを駆け抜けていた。目指す先はトンチャンの元だった。
「トンチャン!トンチャン!」
「ヒャンユン!どうした?」
行首になったことは知らない彼は、交易の話だろうと思い微笑んだ。だが、ヒャンユンが鼻先に突きつけた札を見て、その表情が変わった。
「こ、これは………………」
「そう!私ね、行首になったの!」
「本当か?行首に?ヒャンユン、お前が?」
「うん!布の取引を任されたの」
状況が飲み込めず、先程のヒャンユンと同じように硬直していた彼は、しばらくして我に返ると最年少の女性行首を抱き上げながらその場を回った。チマがふわりと舞い、花の蕾のように広がる。
「そうか!ヒャンユン行首か!」
「やだ!もう……みんな見てるからやめてよ……恥ずかしいから……」
「うるせぇ。俺の女なんだから、見せびらかしても良いだろうが」
「トンチャンったら……」
と恥じらいながらも顔を赤らめて微笑むヒャンユンが愛しくて、トンチャンは満面の笑みでこの門出を祝福した。
「じゃあ、うちの商団とは張り合うことになるな」
「そうね、トンチャン。望むところよ」
「よし。それでこそ商売人だ!」
二人は一瞬真剣な顔つきで睨みあうと、すぐに大笑いした。
まさかこの幸せが暗転の始まりなど、一体誰が予想できただろうか。