8、信じる気持ち
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
ウォルファは翌日、ヒジェに連れられ就善堂へ赴いていた。だが彼女は何故か外に出されてしまい、今は石段に座って夫が出てくるのを待っている。
「ヒジェ様……まだかしら」
彼女が心配そうな顔で部屋の方に目をやったときだった。
「禧嬪様!落ち着いてください!」
「兄上!世子が危ないのです。何としてでも病を治さねば!このままでは延礽君に取って代わられてしまいかねません」
「禧嬪様!妻に聞こえます。お静かに」
───病?
ウォルファは切羽詰まった禧嬪の声と、必死に外に漏らすまいと制止しているヒジェの声に胸騒ぎを覚えた。
「ですが兄上………」
「とにかく、何とかします。留学していた頃の伝を当たり、今薬剤を探しているところですから」
それからしばらくして、ヒジェが出てきた。ウォルファは何も聞いていない振りをすると、どこか気落ちしている彼に笑いかけた。
「お帰りになりますか、あなた」
「いや、先に帰ってくれ。………俺は用事がある」
「わかりました。お疲れ様です」
「ああ。」
元気がないヒジェの背中を見送りながら、ウォルファは夫婦になってますます秘密が増えたような気がして悲しく思った。
「………私は……少しでも、あなたの力になりたい」
そう思っても、迷惑になってしまうかもしれない。彼女は苦笑いをすると、何事もなかったかのように取り繕い、就善堂を後にした。
就善堂から少し歩いたところで、ウォルファは医女とすれ違った。ふと、足元に何かが落ちている。ウォルファは拾い上げてそれに目を通してみたが、何かの薬剤の目録らしい。彼女が首をかしげて顔をあげると、目の前に顔を青白くした医女が立っていた。
「あ…………あの……………これ、あなたのものですか……?」
「は………はい、そうです………」
彼女は異常に自分を恐れている医女に違和感を覚えたが、目録を素直に返した。
「あ、ありがとうございます………」
「お気になさらず。」
ウォルファは微笑むと、踵を返そうとした。しかし、再び医女に震える声で呼び止められる。
「あ、あの!!お、奥様はどちらの………」
「私?私は領議政チャン・ヒジェの妻、シム・ウォルファですが………」
「そ、そうでしたか……では、失礼します」
チャン・ヒジェと聞き、何故か安心したような顔をする医女にますます疑問を抱いた彼女だったが、何も考えないようにしようと思うと王宮を後にした。
医女はナム医官の元に目録を届けると、恐る恐る尋ねた。
「あの………医官様………いつまでこのような危険なことを続けるのですか?」
「チャン・ヒジェ様に殺されたいのか?余計なことは考えるな。私とその家族にまで見張りを密かにつけている男だぞ。何をするかわからん。」
「ですが………いつかはばれてしまいます」
「とにかく、黙っておけ。いいな」
医女はそれきり押し黙ると、処方箋を拾ったのがウォルファで良かったと改めて胸を撫で下ろした。
そう、これが医女の大きな誤算だった。妻であるウォルファも事の次第を知っているという安易な憶測が、後にウォルファ自身を大きく苦しめる真実と夫の大きすぎる嘘に導いてしまうのである。
家に帰ったウォルファは、相変わらず押し黙っているヒジェに何も言えず、そのまま無言の時間を過ごしていた。
「………ウォルファ。どうした」
「い、いえ………あの………手持ちの急須が逆です……」
「えっ!?あ、ああ………」
ヒジェが慌てて手元に目をやると、逆に傾けている急須の蓋から酒が溢れている。驚いた彼は拭くものを探そうとしたが、ウォルファが先にすっと手拭いで彼の服を拭いた。
「………何も、仰らないで。私には何がお辛いのか、何がお悩みの種なのか、そんなことはわかりませんが……ですが、あなたの服をこうして拭いて差し上げることは出来ます。些細なことでも、あなたの心を少しでも楽に出来るのなら………私は………」
「ウォルファ…………」
ヒジェは彼女を抱き寄せると、強くその肩を抱き締めた。それだけで、ヒジェの辛さは和らいだ。だが、それでも彼は真実を話す気には到底なれなかった。
──すまん、ウォルファ…………俺は…………俺は、何も言えない。そなたを追い込みたくはない。淑儀様とそなたを対立させるのだけは……それだけは避けたいのだ…!
嘘をつくのは、これが初めてではなかった。誤魔化すのも騙すのも、彼にとっては何よりも得意なことであり、一番楽なことだと知っていた。だが、ウォルファに対しては違っていた。どんな些細な嘘をつくにしても、胸が刺すように痛むのだ。その鋭く切ない痛みに彼は覚えがあった。
それは、かつて互いを愛していても触れるどころか見つめ合うことさえも許されなかった頃の痛みだった。彼女を想う度、ヒジェの胸は激しい痛みに苛まれていた。まるで針の長雨に降り続けられているかのような断続的な痛みは止むことはなく、その苦しみは時に彼を狂わせた。
今はもちろん、触れるどころかより深い繋がりを持つことさえもヒジェの夫としての権利となっている。けれども、今の彼にとっては、ウォルファを騙している時点で隔てられているのと同じ状態に思えた。
───側に居てほしくて、ずっと一緒に居たいから……一番そなたを愛する権利を得たいから、誰にも渡さぬようにしたいから、この手を離さずに済むようにと婚姻したと言うのに…………これでは、婚姻する前と何の変わりもないではないか…………
ヒジェは急に悲しくなり、ウォルファの輪郭を指でなぞった。
「ど……どうしたのですか……?」
「教えてくれ、ウォルファ。今俺の目の前にいるのは………そなたか?」
「はい、そうです。私です。他の誰でもありません。私です」
きっぱりとそう言い切る彼女を改めて愛しく思ったヒジェは、柔らかな頬から指を離すと突然甘美で激しい口づけをした。
「ウォルファ…………」
「ヒ、ヒジェ様………?」
「そなたは……私のものだ。それで、良いのだな?」
「はい………私は………あなたのものです」
はにかんだ笑顔でそう返事をした彼女があまりに可愛らしかったのか、ヒジェは再び口づけをした。
「あの………ヒジェ様………」
「そなたを俺は必ず守る。約束しよう、必ず守ろう。」
「ありがとうございます。ですが、無理はしないでください。いつでも私には、旦那様と共に辛い道を歩く覚悟は出来ていますから」
彼女はヒジェの肩にそっと寄り添うと、目を閉じて微笑んだ。それはお互いにとって、最も安心できる理想の帰るべき場所の姿だった。
翌日、ウォルファはトンイに呼び出され宝慶堂に来ていた。
「姉さん、来てくれたのね」
「どうしたのですか、淑儀様」
ヒジェの妻となり、すっかり南人となったウォルファだったが、相変わらず姉妹としての関係は続けていた。もちろん老論派の中には彼女が出入りすることを快く思わない者も多数いたが、ウンテクの計らいでヒジェは全くこの状態を知らずにいた。
トンイは一通の宣旨を取り出すと、ウォルファの目の前に置いた。目を通すように無言で促された彼女は、恐る恐るそれを開いて中身を確認した。するとそこには驚くべきことが記されていた。
「────延礽君様が、世子侍講院に?王様は一体何をお考えで……」
「今朝出されたものですが、禧嬪様と少論、そして南人が知るのも時間の問題です。そして一番困ったことに、これを支持されているのは王妃様なのです」
「王妃様が?」
ウォルファは首をかしげた。王妃は世子を我が子のように可愛がっているからだ。
そのとき、彼女の脳裏に先日のヒジェとオクチョンの会話がよぎった。
────世子が危ないのです。何としてでも病を治さねば!このままでは延礽君に取って代わられてしまいます。
「世子様に何か…………」
「姉さん、どうかしましたか?」
「あ、いえ…………なんでもないわ。少し対策を考えるので、数日時間を下さい」
「ええ、わかりました。宜しくお願い致します」
ウォルファは宝慶堂を出ると、就善堂へ向かった。しかも少し離れたところでオクチョンの動向を伺うように立っている。しばらくすると、オクチョンが部屋から医官を連れだって出てきた。ウォルファは慌てて隠れると、聞き耳を立てた。
「お願いしますよ、ナム医官。主治医には頼めぬのですから、世子の病を一刻も治してください」
「かしこまりました、禧嬪様」
ナム医官と呼ばれた世子の病の担当らしい男の後ろについている医女に、ウォルファは見覚えがあった。
────処方箋を落とした医女だわ!
更に彼女はあのときの医女の不可解な言動にも説明がつくことに気づいた。
───医女は、見られては困る処方箋を落としたから焦っていたのね。でも尋ねてみると、私がヒジェ様の妻だから大丈夫だと安心したわけね。
彼女はふと、これ以上知ってはならない気がして無意識に就善堂を出ていた。だが、こんな胸騒ぎは杞憂だったと納得したい自分もいた。そしてとうとう彼女は内医院へと足を向けるのだった。
内医院で例の医女を見つけるのはそう難しくはなかった。彼女はすぐに医女を裏手に連れていくと、身分証を見せてこう言った。
「夫が世子様の薬の処方箋を仕入れのために欲しいらしいの。写しでもいいわ、頂けるかしら?」
ウォルファの言葉を疑いもせず、医女は処方箋の写しを取りだして差し出した。
「どうぞ、奥さま。」
「……このことを他に知っているのは?」
「領議政様と奥さまと………禧嬪様のみです」
「わかった。ありがとう」
彼女は医女が去っていったことを確認すると、胸を撫で下ろした。知らない企みと秘密を知っている振りをするのは、とても危険なことであり夫を裏切ることである。自分を激しく愛してくれるからこそ、その愛を裏切ったときの恐ろしさは計り知れない。ウォルファはヒジェの怒りを想像して身震いすると、処方箋に書かれた薬を用いる病を突き止めるため、医学書の置いてある書店へ向かうことにした。
様々な医学書を探し続け、ようやくウォルファは一冊の本に行き当たった。そして、恐ろしい事実を知った。
───痿疾……?そんな………世子様が……痿疾?
目の前が真っ暗になり、彼女はふらつく足取りで書物を元通りに直してから帰路へついた。
痿疾とは歳を経るにつれて全身が硬化していき、最後には床についたままの生活を送ることとなる病だということくらいは彼女も知っていた。また、子を望めない体になってしまうということも知っていた。それが世継ぎである世子にとって、どのようなことを意味しているのか。そしてヒジェとオクチョンと南人にとって、どのような問題を引き起こすのかということも瞬時に理解していた。
「………どうして……私はいつも……私は、いつもヒジェ様をお慰めしようとしても、癒しようがない問題に直面するの……?」
なんとなくヒジェに会うのが辛くなり、彼女はそのまま部屋に閉じこもってしまった。一方帰宅したヒジェは何も知らないわけであり、彼女の部屋にいつものように入ろうとしたところ、チェリョンに止められた。
「奥様はご気分が優れぬとか……」
「気分なら俺が直してやろう。そこをどけ」
「旦那様。奥様は何故だかは知りませんが、今は旦那様には会いたくないのです」
「何………?」
それを聞いたヒジェの表情が固まった。しかし、彼はそれでは引き下がらなかった。そのままチェリョンを押し退けて部屋に入ると、彼は呆然と座っているウォルファの隣に行き、その肩を抱き寄せた。
「どうした、気分が優れぬと聞いたが……」
だが彼女はその手を引き剥がすと、疑いが込められた瞳でヒジェを射るような眼差しで見返した。
「嘘はついていないと、隠していることは何もないと、私にそう言ってくださいな」
「ウォルファ…………」
「そう言ってください、ヒジェ様。」
「そ、それは…………」
もちろん、何もないと彼が言おうとしたその時だった。ウォルファの手が勢いよく彼を押し退けた。
「なっ…何をする」
「嘘でも即答出来ないのですか!?あなたは誰よりも嘘をお吐きになるのが得意なのに!私には嘘の一つも仰れないなんて!私がどれ程不安で、婚姻してからどれ程それを幸せに目を向けることで誤魔化そうとしていたことか!あなたには分からないのですか?」
今までの思いが彼女の中から一気に溢れ出る。大粒の涙を流しながらヒジェを睨み付けるその姿は、いつものウォルファからは想像もつかないほどに荒れていた。
「こんなの、夫婦ではありません。私とあなたは出合ったときと何も変わっていない。私とあなたは、政敵なのですね。私とあなたは………私たちは、夫婦には………夫婦にはなれないのです。何時まで経っても、どれ程私が努力しても、私はあなた側の人間にはなれないのです。私は、淑儀チェ氏の姉で、老論派筆頭シム・ウンテクの妹なのですから!」
全てを言い終わり肩で息をすると、ようやくウォルファはヒジェを深く傷つけてしまったことに気がついた。彼の瞳には、悲しみというよりも戸惑いと反省の色が浮かんでいた。そして、彼はただ黙って部屋を出ていった。残されたウォルファは幼い頃に彼から貰った紅の入れ物を指でなぞりながら、彼の影が写っている扉を見つめた。彼女はヒジェに届くようにと願いながら、一言一言を漏らした。
「あなたから紅を貰った幼い頃の私なら、きっと去っていくあなたを追いかけられた。あなたがくれた服を着て、隣で笑ってただ好きでいられた頃の私なら、きっとあなたを無条件に信じられた。」
するとヒジェがようやく沈黙を破り、彼らしくもない言葉を返した。
「───そなたは………俺の妻は……ウォルファは………俺と生きていて幸せなのだろうか?俺は……俺が、チャン・ヒジェであるために俺の一番大切な人を苦しめている気がする。……いや、そんな気がしていた。ずっと、それでも幸せを欲する自分が許せなかった。」
その言葉にウォルファは驚いた。ヒジェは、無条件にずっと自分を何の躊躇も葛藤もなしに愛していると思っていたからだ。彼女は意外な彼の苦しみに触れ、少しだけもう一度だけ信じたいという思いに駈られた。
「だが………だが………ユンに……いや、ユンだけではない。他の誰にもウォルファを渡したくなかった。ただ、それだけの愚かな思いが、そんな思いが………ウォルファ自身をこんなに苦しめているなら………俺は……俺は……」
ウォルファから背を向けて床に自分の思いを淡々と吐くヒジェの影を指で触れながら、彼女はその場に泣き崩れた。
「もう一度……もう一度だけ……あなたを信じたい……信じられるなら、この扉もすぐに開けられる。なのに……なのに……心のどこかでもうあなたを信じられない私がいる。私は、どうすればいいの?」
彼女が途方に暮れていると、不意に扉が開いて月明かりが差し込んだ。顔を上げると、そこには出会った頃と何一つ変わらないヒジェがいた。
「───それは、俺の方だ。俺がそなたに、もう一度だけ信じてくださいと頼むべきなのだ。そなたはもうずっと、俺のことを信じてくれていたからな」
「ヒジェ様………」
ウォルファは彼に抱きつくと、その胸に顔を埋めた。
「例え、あなたが嘘をついていても、隠していても、もう迷わない。そんなのどうでもいい。私の目の前にいるあなたは、私への愛を偽ったことはたったの一度もないのですから」
ヒジェの大きく温かい手が彼女の頭を優しく撫でる。その手と胸の温もりに包まれながら、ウォルファはある決意をしていた。
────必ず、私がこの人を守る。私がこの幸せを守るの。もう、誰にも奪わせたりしない。誰にも。
そう思う彼女の瞳には、もう迷いは無かった。後に残ったのはヒジェへの昔と変わらぬ愛だけだった。
「ヒジェ様……まだかしら」
彼女が心配そうな顔で部屋の方に目をやったときだった。
「禧嬪様!落ち着いてください!」
「兄上!世子が危ないのです。何としてでも病を治さねば!このままでは延礽君に取って代わられてしまいかねません」
「禧嬪様!妻に聞こえます。お静かに」
───病?
ウォルファは切羽詰まった禧嬪の声と、必死に外に漏らすまいと制止しているヒジェの声に胸騒ぎを覚えた。
「ですが兄上………」
「とにかく、何とかします。留学していた頃の伝を当たり、今薬剤を探しているところですから」
それからしばらくして、ヒジェが出てきた。ウォルファは何も聞いていない振りをすると、どこか気落ちしている彼に笑いかけた。
「お帰りになりますか、あなた」
「いや、先に帰ってくれ。………俺は用事がある」
「わかりました。お疲れ様です」
「ああ。」
元気がないヒジェの背中を見送りながら、ウォルファは夫婦になってますます秘密が増えたような気がして悲しく思った。
「………私は……少しでも、あなたの力になりたい」
そう思っても、迷惑になってしまうかもしれない。彼女は苦笑いをすると、何事もなかったかのように取り繕い、就善堂を後にした。
就善堂から少し歩いたところで、ウォルファは医女とすれ違った。ふと、足元に何かが落ちている。ウォルファは拾い上げてそれに目を通してみたが、何かの薬剤の目録らしい。彼女が首をかしげて顔をあげると、目の前に顔を青白くした医女が立っていた。
「あ…………あの……………これ、あなたのものですか……?」
「は………はい、そうです………」
彼女は異常に自分を恐れている医女に違和感を覚えたが、目録を素直に返した。
「あ、ありがとうございます………」
「お気になさらず。」
ウォルファは微笑むと、踵を返そうとした。しかし、再び医女に震える声で呼び止められる。
「あ、あの!!お、奥様はどちらの………」
「私?私は領議政チャン・ヒジェの妻、シム・ウォルファですが………」
「そ、そうでしたか……では、失礼します」
チャン・ヒジェと聞き、何故か安心したような顔をする医女にますます疑問を抱いた彼女だったが、何も考えないようにしようと思うと王宮を後にした。
医女はナム医官の元に目録を届けると、恐る恐る尋ねた。
「あの………医官様………いつまでこのような危険なことを続けるのですか?」
「チャン・ヒジェ様に殺されたいのか?余計なことは考えるな。私とその家族にまで見張りを密かにつけている男だぞ。何をするかわからん。」
「ですが………いつかはばれてしまいます」
「とにかく、黙っておけ。いいな」
医女はそれきり押し黙ると、処方箋を拾ったのがウォルファで良かったと改めて胸を撫で下ろした。
そう、これが医女の大きな誤算だった。妻であるウォルファも事の次第を知っているという安易な憶測が、後にウォルファ自身を大きく苦しめる真実と夫の大きすぎる嘘に導いてしまうのである。
家に帰ったウォルファは、相変わらず押し黙っているヒジェに何も言えず、そのまま無言の時間を過ごしていた。
「………ウォルファ。どうした」
「い、いえ………あの………手持ちの急須が逆です……」
「えっ!?あ、ああ………」
ヒジェが慌てて手元に目をやると、逆に傾けている急須の蓋から酒が溢れている。驚いた彼は拭くものを探そうとしたが、ウォルファが先にすっと手拭いで彼の服を拭いた。
「………何も、仰らないで。私には何がお辛いのか、何がお悩みの種なのか、そんなことはわかりませんが……ですが、あなたの服をこうして拭いて差し上げることは出来ます。些細なことでも、あなたの心を少しでも楽に出来るのなら………私は………」
「ウォルファ…………」
ヒジェは彼女を抱き寄せると、強くその肩を抱き締めた。それだけで、ヒジェの辛さは和らいだ。だが、それでも彼は真実を話す気には到底なれなかった。
──すまん、ウォルファ…………俺は…………俺は、何も言えない。そなたを追い込みたくはない。淑儀様とそなたを対立させるのだけは……それだけは避けたいのだ…!
嘘をつくのは、これが初めてではなかった。誤魔化すのも騙すのも、彼にとっては何よりも得意なことであり、一番楽なことだと知っていた。だが、ウォルファに対しては違っていた。どんな些細な嘘をつくにしても、胸が刺すように痛むのだ。その鋭く切ない痛みに彼は覚えがあった。
それは、かつて互いを愛していても触れるどころか見つめ合うことさえも許されなかった頃の痛みだった。彼女を想う度、ヒジェの胸は激しい痛みに苛まれていた。まるで針の長雨に降り続けられているかのような断続的な痛みは止むことはなく、その苦しみは時に彼を狂わせた。
今はもちろん、触れるどころかより深い繋がりを持つことさえもヒジェの夫としての権利となっている。けれども、今の彼にとっては、ウォルファを騙している時点で隔てられているのと同じ状態に思えた。
───側に居てほしくて、ずっと一緒に居たいから……一番そなたを愛する権利を得たいから、誰にも渡さぬようにしたいから、この手を離さずに済むようにと婚姻したと言うのに…………これでは、婚姻する前と何の変わりもないではないか…………
ヒジェは急に悲しくなり、ウォルファの輪郭を指でなぞった。
「ど……どうしたのですか……?」
「教えてくれ、ウォルファ。今俺の目の前にいるのは………そなたか?」
「はい、そうです。私です。他の誰でもありません。私です」
きっぱりとそう言い切る彼女を改めて愛しく思ったヒジェは、柔らかな頬から指を離すと突然甘美で激しい口づけをした。
「ウォルファ…………」
「ヒ、ヒジェ様………?」
「そなたは……私のものだ。それで、良いのだな?」
「はい………私は………あなたのものです」
はにかんだ笑顔でそう返事をした彼女があまりに可愛らしかったのか、ヒジェは再び口づけをした。
「あの………ヒジェ様………」
「そなたを俺は必ず守る。約束しよう、必ず守ろう。」
「ありがとうございます。ですが、無理はしないでください。いつでも私には、旦那様と共に辛い道を歩く覚悟は出来ていますから」
彼女はヒジェの肩にそっと寄り添うと、目を閉じて微笑んだ。それはお互いにとって、最も安心できる理想の帰るべき場所の姿だった。
翌日、ウォルファはトンイに呼び出され宝慶堂に来ていた。
「姉さん、来てくれたのね」
「どうしたのですか、淑儀様」
ヒジェの妻となり、すっかり南人となったウォルファだったが、相変わらず姉妹としての関係は続けていた。もちろん老論派の中には彼女が出入りすることを快く思わない者も多数いたが、ウンテクの計らいでヒジェは全くこの状態を知らずにいた。
トンイは一通の宣旨を取り出すと、ウォルファの目の前に置いた。目を通すように無言で促された彼女は、恐る恐るそれを開いて中身を確認した。するとそこには驚くべきことが記されていた。
「────延礽君様が、世子侍講院に?王様は一体何をお考えで……」
「今朝出されたものですが、禧嬪様と少論、そして南人が知るのも時間の問題です。そして一番困ったことに、これを支持されているのは王妃様なのです」
「王妃様が?」
ウォルファは首をかしげた。王妃は世子を我が子のように可愛がっているからだ。
そのとき、彼女の脳裏に先日のヒジェとオクチョンの会話がよぎった。
────世子が危ないのです。何としてでも病を治さねば!このままでは延礽君に取って代わられてしまいます。
「世子様に何か…………」
「姉さん、どうかしましたか?」
「あ、いえ…………なんでもないわ。少し対策を考えるので、数日時間を下さい」
「ええ、わかりました。宜しくお願い致します」
ウォルファは宝慶堂を出ると、就善堂へ向かった。しかも少し離れたところでオクチョンの動向を伺うように立っている。しばらくすると、オクチョンが部屋から医官を連れだって出てきた。ウォルファは慌てて隠れると、聞き耳を立てた。
「お願いしますよ、ナム医官。主治医には頼めぬのですから、世子の病を一刻も治してください」
「かしこまりました、禧嬪様」
ナム医官と呼ばれた世子の病の担当らしい男の後ろについている医女に、ウォルファは見覚えがあった。
────処方箋を落とした医女だわ!
更に彼女はあのときの医女の不可解な言動にも説明がつくことに気づいた。
───医女は、見られては困る処方箋を落としたから焦っていたのね。でも尋ねてみると、私がヒジェ様の妻だから大丈夫だと安心したわけね。
彼女はふと、これ以上知ってはならない気がして無意識に就善堂を出ていた。だが、こんな胸騒ぎは杞憂だったと納得したい自分もいた。そしてとうとう彼女は内医院へと足を向けるのだった。
内医院で例の医女を見つけるのはそう難しくはなかった。彼女はすぐに医女を裏手に連れていくと、身分証を見せてこう言った。
「夫が世子様の薬の処方箋を仕入れのために欲しいらしいの。写しでもいいわ、頂けるかしら?」
ウォルファの言葉を疑いもせず、医女は処方箋の写しを取りだして差し出した。
「どうぞ、奥さま。」
「……このことを他に知っているのは?」
「領議政様と奥さまと………禧嬪様のみです」
「わかった。ありがとう」
彼女は医女が去っていったことを確認すると、胸を撫で下ろした。知らない企みと秘密を知っている振りをするのは、とても危険なことであり夫を裏切ることである。自分を激しく愛してくれるからこそ、その愛を裏切ったときの恐ろしさは計り知れない。ウォルファはヒジェの怒りを想像して身震いすると、処方箋に書かれた薬を用いる病を突き止めるため、医学書の置いてある書店へ向かうことにした。
様々な医学書を探し続け、ようやくウォルファは一冊の本に行き当たった。そして、恐ろしい事実を知った。
───痿疾……?そんな………世子様が……痿疾?
目の前が真っ暗になり、彼女はふらつく足取りで書物を元通りに直してから帰路へついた。
痿疾とは歳を経るにつれて全身が硬化していき、最後には床についたままの生活を送ることとなる病だということくらいは彼女も知っていた。また、子を望めない体になってしまうということも知っていた。それが世継ぎである世子にとって、どのようなことを意味しているのか。そしてヒジェとオクチョンと南人にとって、どのような問題を引き起こすのかということも瞬時に理解していた。
「………どうして……私はいつも……私は、いつもヒジェ様をお慰めしようとしても、癒しようがない問題に直面するの……?」
なんとなくヒジェに会うのが辛くなり、彼女はそのまま部屋に閉じこもってしまった。一方帰宅したヒジェは何も知らないわけであり、彼女の部屋にいつものように入ろうとしたところ、チェリョンに止められた。
「奥様はご気分が優れぬとか……」
「気分なら俺が直してやろう。そこをどけ」
「旦那様。奥様は何故だかは知りませんが、今は旦那様には会いたくないのです」
「何………?」
それを聞いたヒジェの表情が固まった。しかし、彼はそれでは引き下がらなかった。そのままチェリョンを押し退けて部屋に入ると、彼は呆然と座っているウォルファの隣に行き、その肩を抱き寄せた。
「どうした、気分が優れぬと聞いたが……」
だが彼女はその手を引き剥がすと、疑いが込められた瞳でヒジェを射るような眼差しで見返した。
「嘘はついていないと、隠していることは何もないと、私にそう言ってくださいな」
「ウォルファ…………」
「そう言ってください、ヒジェ様。」
「そ、それは…………」
もちろん、何もないと彼が言おうとしたその時だった。ウォルファの手が勢いよく彼を押し退けた。
「なっ…何をする」
「嘘でも即答出来ないのですか!?あなたは誰よりも嘘をお吐きになるのが得意なのに!私には嘘の一つも仰れないなんて!私がどれ程不安で、婚姻してからどれ程それを幸せに目を向けることで誤魔化そうとしていたことか!あなたには分からないのですか?」
今までの思いが彼女の中から一気に溢れ出る。大粒の涙を流しながらヒジェを睨み付けるその姿は、いつものウォルファからは想像もつかないほどに荒れていた。
「こんなの、夫婦ではありません。私とあなたは出合ったときと何も変わっていない。私とあなたは、政敵なのですね。私とあなたは………私たちは、夫婦には………夫婦にはなれないのです。何時まで経っても、どれ程私が努力しても、私はあなた側の人間にはなれないのです。私は、淑儀チェ氏の姉で、老論派筆頭シム・ウンテクの妹なのですから!」
全てを言い終わり肩で息をすると、ようやくウォルファはヒジェを深く傷つけてしまったことに気がついた。彼の瞳には、悲しみというよりも戸惑いと反省の色が浮かんでいた。そして、彼はただ黙って部屋を出ていった。残されたウォルファは幼い頃に彼から貰った紅の入れ物を指でなぞりながら、彼の影が写っている扉を見つめた。彼女はヒジェに届くようにと願いながら、一言一言を漏らした。
「あなたから紅を貰った幼い頃の私なら、きっと去っていくあなたを追いかけられた。あなたがくれた服を着て、隣で笑ってただ好きでいられた頃の私なら、きっとあなたを無条件に信じられた。」
するとヒジェがようやく沈黙を破り、彼らしくもない言葉を返した。
「───そなたは………俺の妻は……ウォルファは………俺と生きていて幸せなのだろうか?俺は……俺が、チャン・ヒジェであるために俺の一番大切な人を苦しめている気がする。……いや、そんな気がしていた。ずっと、それでも幸せを欲する自分が許せなかった。」
その言葉にウォルファは驚いた。ヒジェは、無条件にずっと自分を何の躊躇も葛藤もなしに愛していると思っていたからだ。彼女は意外な彼の苦しみに触れ、少しだけもう一度だけ信じたいという思いに駈られた。
「だが………だが………ユンに……いや、ユンだけではない。他の誰にもウォルファを渡したくなかった。ただ、それだけの愚かな思いが、そんな思いが………ウォルファ自身をこんなに苦しめているなら………俺は……俺は……」
ウォルファから背を向けて床に自分の思いを淡々と吐くヒジェの影を指で触れながら、彼女はその場に泣き崩れた。
「もう一度……もう一度だけ……あなたを信じたい……信じられるなら、この扉もすぐに開けられる。なのに……なのに……心のどこかでもうあなたを信じられない私がいる。私は、どうすればいいの?」
彼女が途方に暮れていると、不意に扉が開いて月明かりが差し込んだ。顔を上げると、そこには出会った頃と何一つ変わらないヒジェがいた。
「───それは、俺の方だ。俺がそなたに、もう一度だけ信じてくださいと頼むべきなのだ。そなたはもうずっと、俺のことを信じてくれていたからな」
「ヒジェ様………」
ウォルファは彼に抱きつくと、その胸に顔を埋めた。
「例え、あなたが嘘をついていても、隠していても、もう迷わない。そんなのどうでもいい。私の目の前にいるあなたは、私への愛を偽ったことはたったの一度もないのですから」
ヒジェの大きく温かい手が彼女の頭を優しく撫でる。その手と胸の温もりに包まれながら、ウォルファはある決意をしていた。
────必ず、私がこの人を守る。私がこの幸せを守るの。もう、誰にも奪わせたりしない。誰にも。
そう思う彼女の瞳には、もう迷いは無かった。後に残ったのはヒジェへの昔と変わらぬ愛だけだった。